2021/04/15 - 2021/04/15
1044位(同エリア7077件中)
杏仁豆腐さん
久しぶりの鎌倉散策。桜の季節も終わり、新緑がきれいな鎌倉。
人も少なくなり、散策にはいい頃です。
鎌倉はほとんど訪問していますが、今回はまだ行っていない瑞泉寺と覚園寺を巡ります。
まず、鎌倉駅から歩いて瑞泉寺へ。国指定名勝の庭園をじっくりと鑑賞しました。
その後は、早めのランチ。もみじやで筍ご飯をいただきました。
昼食後は、広大な永福寺跡を見て回りました。
☆後半はこちら
新緑の鎌倉②鎌倉宮・覚園寺・荏柄天神社☆ベルグフェルド 鎌倉本店☆2021/04/15
https://4travel.jp/travelogue/11688662
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- JRローカル 徒歩
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鎌倉駅から歩いて瑞泉寺をめざします。
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鶴岡八幡宮の三の鳥居
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太鼓橋
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歌之橋(うたのはし)
鎌倉十橋の一にして 建保元年(1213)二月 渋川刑部六郎兼守謀叛の罪により誅(ちゅう:殺)せられんとせし時 愁いの余り和歌十首を詠じて荏柄天神に奉献せしに 翌朝 将軍実朝伝聞せられ 御感ありて兼守の罪を赦(ゆるさ)れしにより 其の報賽(礼参)として此の所に橋を造立し 似て神徳を謝したりと伝へられ此の名あり -
水の流れる音はいいものです。
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通玄橋
二階堂川が下を流れます。 -
瑞泉寺 石碑
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瑞泉寺 総門
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参道を歩き、階段を上ります。
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松陰吉田先生留跡碑
吉田松陰は、1854年(安政元年)、下田で密航を企てる直前に、瑞泉寺の住職であった伯父の竹院和尚に会いにきたと言われています。
しかし、企ては失敗。松蔭は獄中で瑞泉寺を訪れた詩を詠じたそうです。
「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」
1929年(昭和4年)に建立された石碑で、徳富蘇峰の筆によるものだそうです。 -
「手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」
山崎方代 -
濃い緑色がきれい。
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山門
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吉野秀雄歌碑
死をいとひ生をもおそれぬ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ -
久保田万太郎句碑
いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ -
訪れる人も少なく、ゆっくりと巡れます。
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鐘楼
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大宅壮一評論碑
男の顔は履歴書である -
臨済宗円覚寺派の寺です。
夢想疎石がここを禅院相応の勝地として選び嘉暦二年(1327)に建立しました。山号の錦屏山は、紅葉谷を囲む三方の山が秋になると山が紅葉し、寺の背後に錦の屏風のように広がることから名付けられました。 -
初代鎌倉公方・足利基氏(足利尊氏の4男)が中興しました。
足利基氏は夢想疎石に帰依し、瑞泉寺は基氏以降、鎌倉公方代々の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇った寺でした。 -
黄梅
江戸時代からの古木で、「日本の植物学の父」と言われた牧野富太郎博士によって名付けられました。
鎌倉市の天然記念物です。 -
本堂は1975年に再建されたものです。
本尊である釈迦如来坐像を祀っています。南北朝時代に作成されたと伝わる木造夢窓国師坐像(重文)、徳川光圀寄贈の木造千手観音菩薩坐像も安置されています。 -
どこも苦地蔵堂
地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」は、「どこも苦地蔵」と呼ばれ、智岸ヶ谷の地蔵堂に安置されていたものといわれています。
鎌倉時代後期のものと考えられ、市の文化財です。
智岸ヶ谷の地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕に地蔵が現れて、「どこも、どこも」 と告げたそうです。
堂主は 「苦しいのはどこにいっても同じだ」 と悟ったとか。 -
庭園です。
開山の夢窓国師によって鎌倉時代に作庭された池泉回遊式庭園(名勝)です。 -
夢窓国師(1275〜1351年)は円覚寺開山仏光国師の孫弟子で、鎌倉時代から南北朝時代に円覚寺、南禅寺、浄智寺など五山の住職に就かれること八度、天龍寺、恵林寺など開かれた主なる寺六ケ寺、後醍醐天皇はじめ南北両朝の帝から賜った国師の号は七つ、これにより世に〈七朝の帝師〉と称えられました。
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夢窓国師は、すぐれた作庭家です。国師の作庭した美濃の虎渓山永保寺や甲斐の恵林寺、京の天龍寺、西芳寺の庭園は瑞泉寺庭園とともに、国の特別名勝・名勝に指定されています。
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鎌倉石の岩盤に地形に応じ地質に即して巧みに大いなる彫刻をほどこした、鎌倉ならでは庭園です。
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岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)があります。
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人が誰もいないのでゆっくり鑑賞できます。
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自然と調和され、見事な庭園です。
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新緑の木々に覆われて、清々しい気分です。
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季節の花々がきれいです。ショカッサイ。
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境内をゆっくりと巡りました。
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境内にいたのは、数人でした。
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階段を下ります。
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瑞泉寺の近くにある、もみじやで早めの昼食です。
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広くはないですが、落ち着く店内です。
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筍ご飯と関西風うどんをいただきました。
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とても美味しい筍ご飯です。
年配のご夫婦で営んでいます。 -
デザートに善哉が付いています。美味しくいただきました。
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永福寺跡(ようふくじあと)に来ました。
源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立しました。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺です。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまいました。
この地は周辺約9万平方メートルは源頼朝が建立した永福寺の跡で、国指定史跡に指定されています。 -
2019年(平成31年)4月には、平泉町から「中尊寺ハス」が鎌倉市に寄贈されました。
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永福寺は、源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者の慰霊の為に建てられた寺で、文治5年(1189)12月に工事を着手しました。
頼朝が奥州・藤原一族を征討した際、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てたのが永福寺でした。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名にもなりました。 -
堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍でした。
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前面には、南北200m以上の池が作られていました。応永12年(1405)に焼失してしまいましたが、二階堂という地名だけが残っています。
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永福寺では、三代将軍源実朝や四代将軍藤原(九条)頼経が和歌会を催したたそうです。
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鎌倉の発展とともに栄えた永福寺でしたが、1405年(応永12年)に炎上してしまいました。
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永福寺跡の碑
この地で今はなき永福寺に思いを膨らませ、清かに吹く風の中にしばしの間身を置きました。
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