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前日に急にこの日のスケジュールが空いてしまい花粉の飛散時期もピークを過ぎているので前から行ってみたかった浦賀に行ってきました。浦賀って江戸時代や幕末の史跡が多いのですが数年前に閉鎖された浦賀ドックを眺めに行った一度だけしかいってなかったのです。割と近場ではあるんですけどね。<br />ほぼ無計画だったので京急久里浜駅到着が11時頃、その後浦賀で観光を始めたのは昼前という時間・・・。<br />それでも叶神社や浦賀奉行所跡、浦賀ドック跡などを見て回れました。初夏の気温で身体もちょっと辛かったですが、岡山から帰って以来2週間ぶりの外歩きで楽しめました。<br />近場の旅行記ですし1冊でまとめようと思ったんですが、なかなか難しく前後編に分かれてしまいました。<br />後編では東林寺や西叶神社、久里浜のペリー記念館などを訪れていきます。<br /><br />岡山県北編、次は美咲町観光の2日目ですがこれも引き続き週1ペースでアップしていきます。横須賀後編はもう少し時間かかるかもしれませんm(__)m

2021年春・浦賀と久里浜で幕末を感じる日帰り旅・前編

15いいね!

2021/04/11 - 2021/04/11

407位(同エリア1188件中)

かるあみるく

かるあみるくさん

この旅行記スケジュールを元に

前日に急にこの日のスケジュールが空いてしまい花粉の飛散時期もピークを過ぎているので前から行ってみたかった浦賀に行ってきました。浦賀って江戸時代や幕末の史跡が多いのですが数年前に閉鎖された浦賀ドックを眺めに行った一度だけしかいってなかったのです。割と近場ではあるんですけどね。
ほぼ無計画だったので京急久里浜駅到着が11時頃、その後浦賀で観光を始めたのは昼前という時間・・・。
それでも叶神社や浦賀奉行所跡、浦賀ドック跡などを見て回れました。初夏の気温で身体もちょっと辛かったですが、岡山から帰って以来2週間ぶりの外歩きで楽しめました。
近場の旅行記ですし1冊でまとめようと思ったんですが、なかなか難しく前後編に分かれてしまいました。
後編では東林寺や西叶神社、久里浜のペリー記念館などを訪れていきます。

岡山県北編、次は美咲町観光の2日目ですがこれも引き続き週1ペースでアップしていきます。横須賀後編はもう少し時間かかるかもしれませんm(__)m

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 今回の目的地は横須賀の浦賀・久里浜。まずは久里浜に向かいそこから移動することにしています。直接京急にアクセスすることが出来る位置ではないので、まずは横須賀線で逗子駅までやってきました。<br />鎌倉までは満員に近かったですが、鎌倉でほとんどおりて逗子まではガラガラになっていました。<br />E235系に当たるかな?と思っていましたがE217系でした。

    今回の目的地は横須賀の浦賀・久里浜。まずは久里浜に向かいそこから移動することにしています。直接京急にアクセスすることが出来る位置ではないので、まずは横須賀線で逗子駅までやってきました。
    鎌倉までは満員に近かったですが、鎌倉でほとんどおりて逗子まではガラガラになっていました。
    E235系に当たるかな?と思っていましたがE217系でした。

  • このまま横須賀線で久里浜まで行っても良いんですが、逗子で降りて京急線を使って横須賀方面へと向かおうと思います。<br />ちなみに日中の逗子-久里浜間は4両編成が走ることもあります。

    このまま横須賀線で久里浜まで行っても良いんですが、逗子で降りて京急線を使って横須賀方面へと向かおうと思います。
    ちなみに日中の逗子-久里浜間は4両編成が走ることもあります。

    逗子駅

  • 真ん中に写っている黒い柱は逗子駅旧跨線橋の柱です。1899年に建設されたもので、2007年に新跨線橋の設置と西口の改修工事が終わるまで利用されたものです。逓信省新橋工場で製造されたものとして現存最古の柱です。

    真ん中に写っている黒い柱は逗子駅旧跨線橋の柱です。1899年に建設されたもので、2007年に新跨線橋の設置と西口の改修工事が終わるまで利用されたものです。逓信省新橋工場で製造されたものとして現存最古の柱です。

    逗子駅

  • 日差しの強さもあって南国っぽい雰囲気もある逗子駅。駅前ではヨットのチラシを配っている人がいたり、やはり街の人々も南国っぽさを少し感じました(気のせい?)

    日差しの強さもあって南国っぽい雰囲気もある逗子駅。駅前ではヨットのチラシを配っている人がいたり、やはり街の人々も南国っぽさを少し感じました(気のせい?)

    逗子駅

  • JR逗子駅と京急逗子・葉山駅の間、逗子市役所横にあるこの神社は亀岡八幡宮。なだらかな亀の甲羅の様な場所にある事と、鎌倉の鶴岡八幡宮に対して名づけられた様です。この前の美咲町の亀甲岩に次いで亀と名前が付く場所に来ている気がします。<br />逗子市役所の横にある神社ですが、境内も広く落ち着いた雰囲気の神社でした。

    JR逗子駅と京急逗子・葉山駅の間、逗子市役所横にあるこの神社は亀岡八幡宮。なだらかな亀の甲羅の様な場所にある事と、鎌倉の鶴岡八幡宮に対して名づけられた様です。この前の美咲町の亀甲岩に次いで亀と名前が付く場所に来ている気がします。
    逗子市役所の横にある神社ですが、境内も広く落ち着いた雰囲気の神社でした。

    亀岡八幡宮 寺・神社

    逗子市役所横の神社 by かるあみるくさん
  • 直線で歩けば5分もかからない程度ですが、亀岡八幡宮を見学したりしてきたので少し時間をかけて京急の駅に到着しました。2020年3月14日に旧駅名の新逗子から逗子・葉山駅に変更されています。<br />新逗子駅は1985年に逗子海岸駅と京浜逗子駅が統合してできた駅ですが、逗子海岸駅は1931年から1942年までは湘南逗子葉山口駅と名乗っていました。なので約80年ぶりに旧称復活とも言えます。

    直線で歩けば5分もかからない程度ですが、亀岡八幡宮を見学したりしてきたので少し時間をかけて京急の駅に到着しました。2020年3月14日に旧駅名の新逗子から逗子・葉山駅に変更されています。
    新逗子駅は1985年に逗子海岸駅と京浜逗子駅が統合してできた駅ですが、逗子海岸駅は1931年から1942年までは湘南逗子葉山口駅と名乗っていました。なので約80年ぶりに旧称復活とも言えます。

    逗子・葉山駅

    2020年春に改称しました。 by かるあみるくさん
  • 逗子葉山駅でこのフリー切符を購入しました。金沢文庫以南の本線、久里浜線、逗子線が乗り放題で京急バスも三浦半島で利用可能。他に割引特典などもあるのです。<br />京急は割と安い方ですがいちいちチャージしたりするのも面倒くさいのでこれを購入。三浦半島行くときはだいたい購入していますね。

    逗子葉山駅でこのフリー切符を購入しました。金沢文庫以南の本線、久里浜線、逗子線が乗り放題で京急バスも三浦半島で利用可能。他に割引特典などもあるのです。
    京急は割と安い方ですがいちいちチャージしたりするのも面倒くさいのでこれを購入。三浦半島行くときはだいたい購入していますね。

  • 逗子線で金沢八景駅まで行きそこから本線の快特に乗り換えます。昔は金沢八景は快特通過でしたが、止まるようになって便利になりました。<br />最近橋上駅舎化した駅には金沢八景の紹介がありました。

    逗子線で金沢八景駅まで行きそこから本線の快特に乗り換えます。昔は金沢八景は快特通過でしたが、止まるようになって便利になりました。
    最近橋上駅舎化した駅には金沢八景の紹介がありました。

    金沢八景駅

  • 金沢八景駅で乗り換え時間が少しあったので改札から出てみました。シーサイドラインはずっと国道16号の向こうの少し離れた場所に駅があったのですが、近年数百メートルの延伸を果たし駅前に乗り入れを完了しました。それに伴い京急線の駅も建て直され以前の様子とは一新されています。

    金沢八景駅で乗り換え時間が少しあったので改札から出てみました。シーサイドラインはずっと国道16号の向こうの少し離れた場所に駅があったのですが、近年数百メートルの延伸を果たし駅前に乗り入れを完了しました。それに伴い京急線の駅も建て直され以前の様子とは一新されています。

    金沢八景駅

  • 金沢八景から京急久里浜まで快特だとあっという間という感じです。特に堀之内までは通過運転があるので早さを感じます。<br />乗車していた列車は京急久里浜行きだったのですが、三崎口までの延長運転をしていました。

    金沢八景から京急久里浜まで快特だとあっという間という感じです。特に堀之内までは通過運転があるので早さを感じます。
    乗車していた列車は京急久里浜行きだったのですが、三崎口までの延長運転をしていました。

    京急久里浜駅

    京急のターミナル駅の一つ by かるあみるくさん
  • 今回の横須賀散策は正直なところ前日に急遽組んだものでスケジュールを計画するとかの余裕はまったくなかったです。大まかに浦賀と久里浜を回りたかったのもあって、久里浜に住んでいる友人に前日にレンタサイクルがあるか質問してあると教えてもらった、よくよく考えたら詳細な位置とか何も聞かずお礼だけしていてそれに気づいたのが深夜というか未明の時間。さすがにそこから尋ねるわけにもいかず、とりあえず行ってみてダメだったらバスで回れそうだなという事にも気づきほぼ無計画のまま久里浜駅に来ました(笑。<br />とりあえず京急久里浜駅周辺を見て回りレンタサイクルを探してみます。

    今回の横須賀散策は正直なところ前日に急遽組んだものでスケジュールを計画するとかの余裕はまったくなかったです。大まかに浦賀と久里浜を回りたかったのもあって、久里浜に住んでいる友人に前日にレンタサイクルがあるか質問してあると教えてもらった、よくよく考えたら詳細な位置とか何も聞かずお礼だけしていてそれに気づいたのが深夜というか未明の時間。さすがにそこから尋ねるわけにもいかず、とりあえず行ってみてダメだったらバスで回れそうだなという事にも気づきほぼ無計画のまま久里浜駅に来ました(笑。
    とりあえず京急久里浜駅周辺を見て回りレンタサイクルを探してみます。

  • 京急久里浜駅周辺を歩いているとこんな建物がありました。神輿でも仕舞っているのかな??<br />駅から本当にすぐの場所でした。普段観光で歩かないような路地でしたけど・・・。

    京急久里浜駅周辺を歩いているとこんな建物がありました。神輿でも仕舞っているのかな??
    駅から本当にすぐの場所でした。普段観光で歩かないような路地でしたけど・・・。

  • このビルが京急久里浜駅の駅ビル、ウイング久里浜です。なんとなく南国風でそこそこ新しそうに見えますが、1987年完成でもう30年以上前の建物でした。<br /><br />とりあえず一周してみましたが見つからないのと京急久里浜-浦賀はバス網も発達しているのでバスで浦賀に向かう事にします。

    このビルが京急久里浜駅の駅ビル、ウイング久里浜です。なんとなく南国風でそこそこ新しそうに見えますが、1987年完成でもう30年以上前の建物でした。

    とりあえず一周してみましたが見つからないのと京急久里浜-浦賀はバス網も発達しているのでバスで浦賀に向かう事にします。

  • 京急バスで久里浜駅から町屋町までやってきました。もう浦賀駅まであと少しという場所、この辺りが浦賀の旧市街地地区です。<br />浦賀と久里浜は京急電車で回ろうとすると少し遠い感じですが、バスで越えてくるとすぐでした。<br />ちなみに結構な山越えになったので自転車じゃなくてよかった気もしました。

    京急バスで久里浜駅から町屋町までやってきました。もう浦賀駅まであと少しという場所、この辺りが浦賀の旧市街地地区です。
    浦賀と久里浜は京急電車で回ろうとすると少し遠い感じですが、バスで越えてくるとすぐでした。
    ちなみに結構な山越えになったので自転車じゃなくてよかった気もしました。

  • バス通りの県道から一本奥の道にある神社に向かいます。おそらく昔、江戸時代は奥の道が本道でいまの県道は海岸だったのだと思います。<br />ちらっと写っていますが、右手にある歯科は浦賀ペリー歯科という名前の様です。

    バス通りの県道から一本奥の道にある神社に向かいます。おそらく昔、江戸時代は奥の道が本道でいまの県道は海岸だったのだと思います。
    ちらっと写っていますが、右手にある歯科は浦賀ペリー歯科という名前の様です。

    西叶神社 寺・神社

  • 浦賀の有名観光スポットである西叶神社にやってきました。平安時代末期に文覚上人が源氏の再興を祈り石清水八幡宮を勧請して建立された神社です。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し源氏の世の中になったことで願いがかなったとして「叶神社」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代になり浦賀村が東西にわけれた際に東側にも分社されたためこちらは西叶神社と呼ばれるようになりましたが、現在でも正式には叶神社という名称です。

    浦賀の有名観光スポットである西叶神社にやってきました。平安時代末期に文覚上人が源氏の再興を祈り石清水八幡宮を勧請して建立された神社です。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し源氏の世の中になったことで願いがかなったとして「叶神社」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代になり浦賀村が東西にわけれた際に東側にも分社されたためこちらは西叶神社と呼ばれるようになりましたが、現在でも正式には叶神社という名称です。

    西叶神社 寺・神社

  • 現在の社殿は1842年に建造されたもので、ペリー来航やそれ以降の幕末の動乱の中での浦賀をこの地から見守っていた社殿です。<br />近年では2018年に修繕工事があった様子です。<br />西叶神社で勾玉を、東叶神社を勾玉を入れるお守り袋を授与され両岸の叶神社を移動する際に渡り舟を使うと縁結びの願いが叶うと言われています。

    現在の社殿は1842年に建造されたもので、ペリー来航やそれ以降の幕末の動乱の中での浦賀をこの地から見守っていた社殿です。
    近年では2018年に修繕工事があった様子です。
    西叶神社で勾玉を、東叶神社を勾玉を入れるお守り袋を授与され両岸の叶神社を移動する際に渡り舟を使うと縁結びの願いが叶うと言われています。

    西叶神社 寺・神社

  • 西叶神社にはいくつかの末社が境内にあります。階段の上には金毘羅神社もあるそうですが入ってはいけないような感じで三角コーンが置かれていたのでそちらは参拝せず・・・。

    西叶神社にはいくつかの末社が境内にあります。階段の上には金毘羅神社もあるそうですが入ってはいけないような感じで三角コーンが置かれていたのでそちらは参拝せず・・・。

    西叶神社 寺・神社

  • 真新しい様子の福寿弁財天の石鳥居。奥には弁天様が鎮座している様子です。真新しい様子なので鳥居などは2018年の修繕工事の際に造り直されたのかもしれないですね。

    真新しい様子の福寿弁財天の石鳥居。奥には弁天様が鎮座している様子です。真新しい様子なので鳥居などは2018年の修繕工事の際に造り直されたのかもしれないですね。

    西叶神社 寺・神社

  • こちらの末社には船守稲荷神社、三峰神社、大鷲神社、粟島神社の四社が合祀されていました。どれもとても古い神社ですが、大鷲神社は叶神社の創建前からこの地に鎮座されているそうです。

    こちらの末社には船守稲荷神社、三峰神社、大鷲神社、粟島神社の四社が合祀されていました。どれもとても古い神社ですが、大鷲神社は叶神社の創建前からこの地に鎮座されているそうです。

    西叶神社 寺・神社

  • これは戦中の防火水槽跡・・・?<br />詳細は不明です。

    これは戦中の防火水槽跡・・・?
    詳細は不明です。

    西叶神社 寺・神社

  • 西叶神社を出て南側へと向かっていきます(写真は振り返って西叶神社のある北側を見てます)。この家の横には廻船問屋跡と書かれていました。案内板によると浦賀の廻船問屋は荷主と船主の仲介ではなく浦賀奉行所付で奉行所の指示のもと荷改めなどを行っていた業種だそうです。

    西叶神社を出て南側へと向かっていきます(写真は振り返って西叶神社のある北側を見てます)。この家の横には廻船問屋跡と書かれていました。案内板によると浦賀の廻船問屋は荷主と船主の仲介ではなく浦賀奉行所付で奉行所の指示のもと荷改めなどを行っていた業種だそうです。

  • 南に進んでいくと路地と勘違いするような場所ですが石造りの門があります。この奥にあるのは愛宕山公園という公園で1891年開園の横須賀市で一番古い公園です。<br />ちなみに先ほどの交差点より南はこの通りが江戸時代どころか平成初期まで一番海岸線に近い通りで、現在海沿いを通っている道は住友重機械工業川間造船所の敷地内でした。

    南に進んでいくと路地と勘違いするような場所ですが石造りの門があります。この奥にあるのは愛宕山公園という公園で1891年開園の横須賀市で一番古い公園です。
    ちなみに先ほどの交差点より南はこの通りが江戸時代どころか平成初期まで一番海岸線に近い通りで、現在海沿いを通っている道は住友重機械工業川間造船所の敷地内でした。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園も幕末を感じる事が出来る場所なので向かいます。ただ公園への階段は勾配も急で段数も多く結構しんどい階段でした。途中すれ違う人は一人もいなかったです・・・。

    愛宕山公園も幕末を感じる事が出来る場所なので向かいます。ただ公園への階段は勾配も急で段数も多く結構しんどい階段でした。途中すれ違う人は一人もいなかったです・・・。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園に登る途中には寳船稲荷社というお稲荷様がありました。名前はなんとかわかりましたが、由来などは書かれておらず詳細は不明です。<br />ただ綺麗に掃除されているな、という印象のあるお稲荷様でした。

    愛宕山公園に登る途中には寳船稲荷社というお稲荷様がありました。名前はなんとかわかりましたが、由来などは書かれておらず詳細は不明です。
    ただ綺麗に掃除されているな、という印象のあるお稲荷様でした。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園を登って行って一番最初に見えた石碑は咸臨丸出航記念碑。1860年に日米修好通商条約の批准書を交換する際に派遣された万延元年遣米使節団の記念碑です。この石碑の裏には訪米した人たちの名前も刻まれていました。

    愛宕山公園を登って行って一番最初に見えた石碑は咸臨丸出航記念碑。1860年に日米修好通商条約の批准書を交換する際に派遣された万延元年遣米使節団の記念碑です。この石碑の裏には訪米した人たちの名前も刻まれていました。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあります。夫妻が浦賀を訪れ歌を詠んだことの記念碑です。夫妻が訪れたのは1935年3月3日、夫の与謝野鉄幹は同月26日に気管支カタルによる肺炎で亡くなっているので生涯最後の歌の様です。

    与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もあります。夫妻が浦賀を訪れ歌を詠んだことの記念碑です。夫妻が訪れたのは1935年3月3日、夫の与謝野鉄幹は同月26日に気管支カタルによる肺炎で亡くなっているので生涯最後の歌の様です。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園にある石碑で一番大きくかつ古い石碑はこれです。<br />この石碑は中島三郎助の23回忌を祈念し1891年地元の人々により建てられた石碑で、篆額は当時の外務大臣であり、蝦夷共和国総裁として中島と一緒に戦った榎本武揚によるものです。<br />中島三郎助は浦賀奉行所与力を代々務めてきた家系に産まれ、ペリー来航の際に黒船に最初に乗り込んだ一人になりました。その近代化された船の強さをしり幕府に対し海軍の設置や軍制の改革を促すなど幕府側から日本の近代化を図った人物の一人です。<br />戊辰戦争では最後まで幕府側で戦い蝦夷共和国の函館奉行並を務め、最終的には函館市街戦で投降を拒み戦死します。<br /><br />中島三郎助は一与力ではありますが、彼の残した功績は大きく浦賀の街では現在でも英雄として扱われています。浦賀奉行所開設300周年の記念のポスターにも彼のイラストが描かれていました。<br />公園内でも高いところにあり、現在は木々が生い茂っていますが建立された当時は浦賀湾がよく見えたであろう場所に建てられていました。

    愛宕山公園にある石碑で一番大きくかつ古い石碑はこれです。
    この石碑は中島三郎助の23回忌を祈念し1891年地元の人々により建てられた石碑で、篆額は当時の外務大臣であり、蝦夷共和国総裁として中島と一緒に戦った榎本武揚によるものです。
    中島三郎助は浦賀奉行所与力を代々務めてきた家系に産まれ、ペリー来航の際に黒船に最初に乗り込んだ一人になりました。その近代化された船の強さをしり幕府に対し海軍の設置や軍制の改革を促すなど幕府側から日本の近代化を図った人物の一人です。
    戊辰戦争では最後まで幕府側で戦い蝦夷共和国の函館奉行並を務め、最終的には函館市街戦で投降を拒み戦死します。

    中島三郎助は一与力ではありますが、彼の残した功績は大きく浦賀の街では現在でも英雄として扱われています。浦賀奉行所開設300周年の記念のポスターにも彼のイラストが描かれていました。
    公園内でも高いところにあり、現在は木々が生い茂っていますが建立された当時は浦賀湾がよく見えたであろう場所に建てられていました。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園の頂上からは木で見えにくい感じはあるものの東浦賀の街と浦賀湾が見えました。黒船が来航した当時もここに登り多くの人たちが黒船を眺めたのだと思います。<br />1891年に中島三郎助の石碑が建てられた際にこの公園が整備されたそうです。

    愛宕山公園の頂上からは木で見えにくい感じはあるものの東浦賀の街と浦賀湾が見えました。黒船が来航した当時もここに登り多くの人たちが黒船を眺めたのだと思います。
    1891年に中島三郎助の石碑が建てられた際にこの公園が整備されたそうです。

    愛宕山公園 公園・植物園

  • 愛宕山公園を降りて川間方面へと歩いていきます。<br />その途中見かけた濱町町内会館は奉行所跡に近いからか、蔵のような雰囲気をみせつ塗装になっていました。ただより奉行所に近い川間町内会館は普通の建物でしたが・・・。

    愛宕山公園を降りて川間方面へと歩いていきます。
    その途中見かけた濱町町内会館は奉行所跡に近いからか、蔵のような雰囲気をみせつ塗装になっていました。ただより奉行所に近い川間町内会館は普通の建物でしたが・・・。

  • 濱町町内会館の前にあるこの神社は濱町為朝神社。名前の通り源為朝を祀っている神社ですが、その由来は海に漂流していた源為朝像を引き上げこの地に安置したことが創建とされています。

    濱町町内会館の前にあるこの神社は濱町為朝神社。名前の通り源為朝を祀っている神社ですが、その由来は海に漂流していた源為朝像を引き上げこの地に安置したことが創建とされています。

  • 小さなお堂で観光地ではないものの、地元の守り神という様子の神社です。この濱町には浦賀奉行所が伊豆国下田から移ってきた際に伝わったとされる虎踊りがあり、例大祭の際には奉納されているそうです。

    小さなお堂で観光地ではないものの、地元の守り神という様子の神社です。この濱町には浦賀奉行所が伊豆国下田から移ってきた際に伝わったとされる虎踊りがあり、例大祭の際には奉納されているそうです。

  • 小さな境内ですが新緑が美しく映えていました。<br />春は写真を撮るのも楽しいです。花粉さえなければ・・・。

    小さな境内ですが新緑が美しく映えていました。
    春は写真を撮るのも楽しいです。花粉さえなければ・・・。

  • このなんてことのない小川にかけられていた小橋の名前は・・・。

    このなんてことのない小川にかけられていた小橋の名前は・・・。

  • 第四奉行橋。この奥に浦賀奉行所跡があることに由来しているとは思うのですが、橋の状況に似合わぬ新しい銘板。おそらくですけど、横須賀市が浦賀奉行所を観光地にしたくて新しく銘板を付けたのかなと思います。

    第四奉行橋。この奥に浦賀奉行所跡があることに由来しているとは思うのですが、橋の状況に似合わぬ新しい銘板。おそらくですけど、横須賀市が浦賀奉行所を観光地にしたくて新しく銘板を付けたのかなと思います。

  • こちらは第二奉行橋。一か所だけ金属製の銘板がありました。他の親柱も何か文字を刻んでいた跡のようなものはみえましたが中身は読み取れず。<br />この橋はおそらく昭和初期のものだと思います。

    こちらは第二奉行橋。一か所だけ金属製の銘板がありました。他の親柱も何か文字を刻んでいた跡のようなものはみえましたが中身は読み取れず。
    この橋はおそらく昭和初期のものだと思います。

  • 浦賀奉行所跡までやってきました。現在は特に当時の遺構を見てわかる状態ではなく、広い空間が広がっています。浦賀奉行所跡を見る前に左手奥の崖にある榊神社に行ってみます。

    浦賀奉行所跡までやってきました。現在は特に当時の遺構を見てわかる状態ではなく、広い空間が広がっています。浦賀奉行所跡を見る前に左手奥の崖にある榊神社に行ってみます。

  • 榊神社の入り口までやってきました。直前まで舗装道路のスロープになっていて最後の部分だけ階段なので奥まった場所にあるというだけでアクセスは難しくないです。

    榊神社の入り口までやってきました。直前まで舗装道路のスロープになっていて最後の部分だけ階段なので奥まった場所にあるというだけでアクセスは難しくないです。

  • 榊神社は川間地区、現在の西浦賀五丁目の鎮守です。江戸以前はこの南側にある伊勢山の山頂近くにあり、現在でいうところの久里浜台に近かったようです。明治になり伊勢山の入り口に移ったあと、昭和になりより川間に近い現在地に移ったそうです。

    榊神社は川間地区、現在の西浦賀五丁目の鎮守です。江戸以前はこの南側にある伊勢山の山頂近くにあり、現在でいうところの久里浜台に近かったようです。明治になり伊勢山の入り口に移ったあと、昭和になりより川間に近い現在地に移ったそうです。

  • こちらの稲荷様の由来はわからず。現在のお堂は1971年2月に建てられたそうで、割と新しく見えますが既に50年の年月が経っているようです。

    こちらの稲荷様の由来はわからず。現在のお堂は1971年2月に建てられたそうで、割と新しく見えますが既に50年の年月が経っているようです。

  • 川間地区の鎮守として少し高台から現在の川間地区を見守っています。海岸沿いには高層マンションが見えます。マンションの辺りは元々石川島造船が1896年に完成させ社名変更を経て1969年に住友重機械工業川間造船所となった敷地で、当初は造船もこちらでも手掛けていましたが閉鎖直前には検査のみを行っていた工場です。<br />手前の空き地は先ほど先に通ってきた浦賀奉行所跡。鎮守が浦賀奉行所を見守っていたと一瞬勘違いしてしまいますが、この地に榊神社が移転してきたのは昭和初期です。

    川間地区の鎮守として少し高台から現在の川間地区を見守っています。海岸沿いには高層マンションが見えます。マンションの辺りは元々石川島造船が1896年に完成させ社名変更を経て1969年に住友重機械工業川間造船所となった敷地で、当初は造船もこちらでも手掛けていましたが閉鎖直前には検査のみを行っていた工場です。
    手前の空き地は先ほど先に通ってきた浦賀奉行所跡。鎮守が浦賀奉行所を見守っていたと一瞬勘違いしてしまいますが、この地に榊神社が移転してきたのは昭和初期です。

  • 榊神社から再び浦賀奉行所跡へと戻ってきました。江戸時代初期は下田に奉行所がありましたが、1720年に江戸湾の経済活発化に伴いこの地に移転しました。浦賀は江戸湾の出入り口だったので、船運が流通の大部分を占めていた当時はこの地に奉行を置き流入を調節することで江戸の物価の維持を行っていたそうです。

    榊神社から再び浦賀奉行所跡へと戻ってきました。江戸時代初期は下田に奉行所がありましたが、1720年に江戸湾の経済活発化に伴いこの地に移転しました。浦賀は江戸湾の出入り口だったので、船運が流通の大部分を占めていた当時はこの地に奉行を置き流入を調節することで江戸の物価の維持を行っていたそうです。

  • 結構山奥にあるように思えますが、海岸から歩いて5分くらい、江戸時代の海岸線からは3分くらいだと思います。現在では横須賀市の一地区の浦賀ですが江戸時代は江戸湾の出入口を守る重要な地区でした。背部を山という守りやすい場所に奉行所を置いたのかなと思いました。<br />1853年黒船来航の際も浦賀奉行所が対応し、愛宕山公園に祈念碑のあった中島三郎助が浦賀副奉行と身分を詐称し黒船に乗り込み交渉をしました。ペリーは身分が低すぎるとして正式な交渉は行われず結果久里浜で国書を受け取る事になりましたが、オランダ風説書によりアメリカが戦争も辞さない覚悟で日本に来ているのを幕府側は知っていたので乗り込む事は仕事とは言えとても勇気のある事だったのだと思います。

    結構山奥にあるように思えますが、海岸から歩いて5分くらい、江戸時代の海岸線からは3分くらいだと思います。現在では横須賀市の一地区の浦賀ですが江戸時代は江戸湾の出入口を守る重要な地区でした。背部を山という守りやすい場所に奉行所を置いたのかなと思いました。
    1853年黒船来航の際も浦賀奉行所が対応し、愛宕山公園に祈念碑のあった中島三郎助が浦賀副奉行と身分を詐称し黒船に乗り込み交渉をしました。ペリーは身分が低すぎるとして正式な交渉は行われず結果久里浜で国書を受け取る事になりましたが、オランダ風説書によりアメリカが戦争も辞さない覚悟で日本に来ているのを幕府側は知っていたので乗り込む事は仕事とは言えとても勇気のある事だったのだと思います。

  • 浦賀奉行所跡には戦後1966年から1970年にかけて住友重機械工業が団地型の社宅を4棟整備して多くの従業員でにぎわっていました。当初は造船も行っていた川間造船所は船舶の検査を中心に行うようになりますが、川間工場と名を変えた跡の1984年に閉鎖され後に浦賀マリーナになり、2003年には長い歴史を誇った浦賀船渠も稼働停止となります。社宅もその後閉鎖・解体され解体後には浦賀奉行所の発掘調査が行われました。現在ではこの様にただ広い空間になっていますが、いずれ箱根関所の様に復元されるのかもしれません。

    浦賀奉行所跡には戦後1966年から1970年にかけて住友重機械工業が団地型の社宅を4棟整備して多くの従業員でにぎわっていました。当初は造船も行っていた川間造船所は船舶の検査を中心に行うようになりますが、川間工場と名を変えた跡の1984年に閉鎖され後に浦賀マリーナになり、2003年には長い歴史を誇った浦賀船渠も稼働停止となります。社宅もその後閉鎖・解体され解体後には浦賀奉行所の発掘調査が行われました。現在ではこの様にただ広い空間になっていますが、いずれ箱根関所の様に復元されるのかもしれません。

  • 石垣を見ると江戸時代のまま、というわけではないと思いますが、この堀は浦賀奉行所があった当時からのものだそうです。<br /><br />浦賀奉行所跡周辺の住宅街は江戸時代は裏側奉行所関連の人たちの住宅地でした。今ではその痕跡はありませんが、区画は当時のままに近いようです。<br />住宅街を歩き旧川間造船所があった方面へと向かっていきます。

    石垣を見ると江戸時代のまま、というわけではないと思いますが、この堀は浦賀奉行所があった当時からのものだそうです。

    浦賀奉行所跡周辺の住宅街は江戸時代は裏側奉行所関連の人たちの住宅地でした。今ではその痕跡はありませんが、区画は当時のままに近いようです。
    住宅街を歩き旧川間造船所があった方面へと向かっていきます。

  • 川間の海岸に来ました。この辺りは住友重機械工業川間造船所だった場所で工場の撤退後に整備が行われた様です。この近くに煉瓦造りのドライドックがあるのですが、すっかり忘れていて気付いたのは帰ってから。現地で人間の目線で見るとわからないですが、地図や航空写真だと明らかにドック跡だとわかりました。現在はマリーナになっているようです。<br />川間地区を歩いていると海岸沿いに浦賀港引揚記念の碑がありました。浦賀に限らずですが外地からの引き上げは劣悪な環境で多くの人が命を落としたと言われています。DDTが有名ですが、コレラ防疫の為にかなり厳しい検疫体制が引かれ、日本へ帰るのを目前にして命を落とした人もいたそうです。

    川間の海岸に来ました。この辺りは住友重機械工業川間造船所だった場所で工場の撤退後に整備が行われた様です。この近くに煉瓦造りのドライドックがあるのですが、すっかり忘れていて気付いたのは帰ってから。現地で人間の目線で見るとわからないですが、地図や航空写真だと明らかにドック跡だとわかりました。現在はマリーナになっているようです。
    川間地区を歩いていると海岸沿いに浦賀港引揚記念の碑がありました。浦賀に限らずですが外地からの引き上げは劣悪な環境で多くの人が命を落としたと言われています。DDTが有名ですが、コレラ防疫の為にかなり厳しい検疫体制が引かれ、日本へ帰るのを目前にして命を落とした人もいたそうです。

  • 左奥に見える桟橋が陸軍桟橋です。陸軍桟橋という由来は不明ですが、ここに引揚船が到着しここから日本の地を踏んだ人も多いようです。<br />神奈川だと横浜の長浜が有名ですが、浦賀でも引揚が行われていたのですね。<br />この辺りは江戸時代には舟番所が置かれ浦賀を出入りするすべての船の乗組員と荷物を検査していたそうです。

    左奥に見える桟橋が陸軍桟橋です。陸軍桟橋という由来は不明ですが、ここに引揚船が到着しここから日本の地を踏んだ人も多いようです。
    神奈川だと横浜の長浜が有名ですが、浦賀でも引揚が行われていたのですね。
    この辺りは江戸時代には舟番所が置かれ浦賀を出入りするすべての船の乗組員と荷物を検査していたそうです。

  • 現在陸軍桟橋は釣りのスポットになっているようです。ネットで検索してみると足元が安定していて釣りをしやすいそうです。<br />この日は暖かく釣り客で賑わっていました。<br />古い航空写真で見ると住友重機械工業川間工場があった頃はここも工場の中で、陸軍桟橋も造船工場の一部として使われていた様ですね。

    現在陸軍桟橋は釣りのスポットになっているようです。ネットで検索してみると足元が安定していて釣りをしやすいそうです。
    この日は暖かく釣り客で賑わっていました。
    古い航空写真で見ると住友重機械工業川間工場があった頃はここも工場の中で、陸軍桟橋も造船工場の一部として使われていた様ですね。

  • 浦賀湾の出口から奥には房総半島が見ていました。この日は気温はかなりあがりましたが視界はよく遠くまで見えていました。夏の様な雰囲気の雲ですが、まだ四月半ばです。

    浦賀湾の出口から奥には房総半島が見ていました。この日は気温はかなりあがりましたが視界はよく遠くまで見えていました。夏の様な雰囲気の雲ですが、まだ四月半ばです。

  • 整備されたプロムナードは花が綺麗に咲き春の雰囲気を出していました。花粉さえなければこの時期は本当に綺麗で外出が楽しみな時期なんですけどね。<br />ちなみに今はこんな長閑で綺麗なプロムナードになっていますが、川間工場があった頃はこの辺りは造船所の中でした。たった40年弱前の話なんですよね。

    整備されたプロムナードは花が綺麗に咲き春の雰囲気を出していました。花粉さえなければこの時期は本当に綺麗で外出が楽しみな時期なんですけどね。
    ちなみに今はこんな長閑で綺麗なプロムナードになっていますが、川間工場があった頃はこの辺りは造船所の中でした。たった40年弱前の話なんですよね。

  • ふと海岸側に碑があって何かと見ると関東大震災の慰霊塔が建立されていました。当時の浦賀町でも山崩れなどで死者が100人以上、最大の工場だった浦賀船渠も大きな被害を受けたそうです。

    ふと海岸側に碑があって何かと見ると関東大震災の慰霊塔が建立されていました。当時の浦賀町でも山崩れなどで死者が100人以上、最大の工場だった浦賀船渠も大きな被害を受けたそうです。

  • 東西の浦賀を結ぶ愛宕丸。市のホームページによれば1725年頃から運航が始まったそうです。浦賀湾は大きな湾ではないですが、それでも歩いて一周するとなると結構な距離。現代ではバスもありますが直通ではないので浦賀駅で乗り換えが必要です。それを2分程度で結ぶので利便性は高いですよね。<br />対岸には東叶神社や中島三郎助の墓地がある東林寺などもありますが、今は西側をもう少し見学することにします。

    東西の浦賀を結ぶ愛宕丸。市のホームページによれば1725年頃から運航が始まったそうです。浦賀湾は大きな湾ではないですが、それでも歩いて一周するとなると結構な距離。現代ではバスもありますが直通ではないので浦賀駅で乗り換えが必要です。それを2分程度で結ぶので利便性は高いですよね。
    対岸には東叶神社や中島三郎助の墓地がある東林寺などもありますが、今は西側をもう少し見学することにします。

    愛宕丸 (浦賀の渡し船) 乗り物

  • 西叶神社の前に戻ってきました。この県道ですが、どうやらプロムナードの整備後に海側に拡張する工事を準備しているようです。交通量も多く歩道もないのでできると安全になりそうです。<br />元々は浦賀ドックの関連施設がこのあたりにあったようなので、その跡地を利用して道路拡張をしているみたいですね。

    西叶神社の前に戻ってきました。この県道ですが、どうやらプロムナードの整備後に海側に拡張する工事を準備しているようです。交通量も多く歩道もないのでできると安全になりそうです。
    元々は浦賀ドックの関連施設がこのあたりにあったようなので、その跡地を利用して道路拡張をしているみたいですね。

  • だいぶ浦賀湾奥の方までやってきましたが、湾口から房総半島が見通せます。浦賀は造船の町として明治以降発展していきましたが、湾自体は大きくはないです。<br />この湾が40年弱前までほぼすべての場所に造船所があり多くの大型船で埋め尽くされていたというのはなかなか想像できないですよね。

    だいぶ浦賀湾奥の方までやってきましたが、湾口から房総半島が見通せます。浦賀は造船の町として明治以降発展していきましたが、湾自体は大きくはないです。
    この湾が40年弱前までほぼすべての場所に造船所があり多くの大型船で埋め尽くされていたというのはなかなか想像できないですよね。

  • そしてやってきました浦賀ドック跡。個人的にはここが浦賀のハイライトと思っています。<br />浦賀船渠跡とも言われるこの場所は2003年まで住友重機械工業浦賀造船所として活動してきた造船所です。愛宕山公園のところで記載した中島三郎助の遺志を継ぎ浦賀町に造船所が出来たのは1894年。現存では世界的にも4つしかない貴重なレンガ造りドライドックを持っています。そしてそのうちの2つはこの浦賀ドックと先ほど紹介した川間ドックです。日本にはこの2つしかなく2つとも浦賀にあることになります。<br />当時は浦賀船渠と呼ばれており、戦前は駆逐艦の製造に長けており日本海軍に多くの駆逐艦を納入しました。<br />この位置からはレンガ造りのドライドックは見えませんが海と隔てる門が見えています。

    そしてやってきました浦賀ドック跡。個人的にはここが浦賀のハイライトと思っています。
    浦賀船渠跡とも言われるこの場所は2003年まで住友重機械工業浦賀造船所として活動してきた造船所です。愛宕山公園のところで記載した中島三郎助の遺志を継ぎ浦賀町に造船所が出来たのは1894年。現存では世界的にも4つしかない貴重なレンガ造りドライドックを持っています。そしてそのうちの2つはこの浦賀ドックと先ほど紹介した川間ドックです。日本にはこの2つしかなく2つとも浦賀にあることになります。
    当時は浦賀船渠と呼ばれており、戦前は駆逐艦の製造に長けており日本海軍に多くの駆逐艦を納入しました。
    この位置からはレンガ造りのドライドックは見えませんが海と隔てる門が見えています。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • 戦後浦賀重工業と名乗っていた浦賀船渠は1969年に住友機械工業と合併し住友重機械工業に改称、浦賀ドックも南にある川間ドックも同社の工場となりました。また同時期に横須賀市北部の追浜に造船所を建設し、浦賀ドックは追浜造船所浦賀工場となりました。<br />その後は徐々に追浜に事業を集約する形で浦賀は規模を縮小し2003年に造船から撤退。その後もこの場所は資材置き場などとして使われていましたが、2021年に横須賀市に無償譲渡され、今後は近代化遺産として保存されるそうです。<br />数年前に来たときはまだ工場の雰囲気が残っていましたが、現在は施設の大部分は解体されていました。<br />先ほどの浦賀奉行所跡や川間ドック跡でも記載しましたがそれらも追浜への集約に伴い住友重機械工業が撤退した跡地になります。結果的に史跡や近代化遺産を見られるのはいいんですが、浦賀の街自体が古くからの漁業以外は元々造船業に依存していた町なので、これからどうなっていくのかが気がかりでもあります。

    戦後浦賀重工業と名乗っていた浦賀船渠は1969年に住友機械工業と合併し住友重機械工業に改称、浦賀ドックも南にある川間ドックも同社の工場となりました。また同時期に横須賀市北部の追浜に造船所を建設し、浦賀ドックは追浜造船所浦賀工場となりました。
    その後は徐々に追浜に事業を集約する形で浦賀は規模を縮小し2003年に造船から撤退。その後もこの場所は資材置き場などとして使われていましたが、2021年に横須賀市に無償譲渡され、今後は近代化遺産として保存されるそうです。
    数年前に来たときはまだ工場の雰囲気が残っていましたが、現在は施設の大部分は解体されていました。
    先ほどの浦賀奉行所跡や川間ドック跡でも記載しましたがそれらも追浜への集約に伴い住友重機械工業が撤退した跡地になります。結果的に史跡や近代化遺産を見られるのはいいんですが、浦賀の街自体が古くからの漁業以外は元々造船業に依存していた町なので、これからどうなっていくのかが気がかりでもあります。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • 浦賀ドック跡のフェンスにはこんなポスターが。<br />昨年が浦賀奉行所の開設300周年だったんですね。たぶんイベントとかを企画していたとは思いますが、開催できなかったんだろうなあ(´・ω・`)。<br />ポスターの右のキャラは中島三郎助。幕末の与力なのですが、浦賀ではとても人気のある人物です。逆に奉行とかの名前全然出てこないですものね・・・。<br />スカリンはずいぶん可愛らしいキャラですね。横須賀のゆるキャラというとまずスカレーが浮かびますが他にもいろいろいるようです。

    浦賀ドック跡のフェンスにはこんなポスターが。
    昨年が浦賀奉行所の開設300周年だったんですね。たぶんイベントとかを企画していたとは思いますが、開催できなかったんだろうなあ(´・ω・`)。
    ポスターの右のキャラは中島三郎助。幕末の与力なのですが、浦賀ではとても人気のある人物です。逆に奉行とかの名前全然出てこないですものね・・・。
    スカリンはずいぶん可愛らしいキャラですね。横須賀のゆるキャラというとまずスカレーが浮かびますが他にもいろいろいるようです。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • 浦賀ドック跡を隔てる壁をふと見ると痛んだ煉瓦積。よくみるとフランドル積み(別名:フランス積み)ですし目地も平らになっておらず、明治期の浦賀船渠時代のものがそのまま残っているのだと思います。<br />耐久力に問題のあるフランドル積みの壁が現代まで残っていたのは驚きました。何と言ってもここは2003年まで住友重機械工業浦賀工場として活動していた工場ですからね。

    浦賀ドック跡を隔てる壁をふと見ると痛んだ煉瓦積。よくみるとフランドル積み(別名:フランス積み)ですし目地も平らになっておらず、明治期の浦賀船渠時代のものがそのまま残っているのだと思います。
    耐久力に問題のあるフランドル積みの壁が現代まで残っていたのは驚きました。何と言ってもここは2003年まで住友重機械工業浦賀工場として活動していた工場ですからね。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • あれ、扉を挟んで反対側は随分煉瓦が綺麗ですね。

    あれ、扉を挟んで反対側は随分煉瓦が綺麗ですね。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • こちらは長手積みになっています。また煉瓦自体も綺麗で新しそうな雰囲気。また目地の仕上げも平らになっていて先ほど撮影した場所と明らかに年代が違う、おそらく平成になってからの工事だと思います。<br />とか書いていてストリートビュー見たら2015年以降の施工ですね。元々はコンクリート板の壁でした。

    こちらは長手積みになっています。また煉瓦自体も綺麗で新しそうな雰囲気。また目地の仕上げも平らになっていて先ほど撮影した場所と明らかに年代が違う、おそらく平成になってからの工事だと思います。
    とか書いていてストリートビュー見たら2015年以降の施工ですね。元々はコンクリート板の壁でした。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • 浦賀船渠の跡地は解体されて野原になっている部分がほとんどですが、元々住友重機械工業の時代から駐車場だった部分は浦賀コープの第二駐車場として一般人も出入りできるようになっていました。とは言え浦賀船渠跡地を直接見る事は出来ない様子でした。

    浦賀船渠の跡地は解体されて野原になっている部分がほとんどですが、元々住友重機械工業の時代から駐車場だった部分は浦賀コープの第二駐車場として一般人も出入りできるようになっていました。とは言え浦賀船渠跡地を直接見る事は出来ない様子でした。

    浦賀ドック 名所・史跡

    明治時代から残る貴重なレンガ造りのドライドックが残っています。 by かるあみるくさん
  • 旧浦賀町は道路元標が残されている町でもあります。神奈川県は道路元標の現存状況が悪いのですが、三浦郡横須賀町、三浦郡浦賀町、三浦郡南下浦村のものが現存しています。すべて三浦郡の自治体というのも興味深いです。ちなみに現在は前2つが横須賀市、南下浦村は三浦市になっています。<br />横須賀町はその後昭和の外合併で合併し市制を敷き、浦賀町は1943年まで独立した自治体でしたが海軍の意向で当時の横須賀市が浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、武山村、北下浦村を吸収しています。

    旧浦賀町は道路元標が残されている町でもあります。神奈川県は道路元標の現存状況が悪いのですが、三浦郡横須賀町、三浦郡浦賀町、三浦郡南下浦村のものが現存しています。すべて三浦郡の自治体というのも興味深いです。ちなみに現在は前2つが横須賀市、南下浦村は三浦市になっています。
    横須賀町はその後昭和の外合併で合併し市制を敷き、浦賀町は1943年まで独立した自治体でしたが海軍の意向で当時の横須賀市が浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、武山村、北下浦村を吸収しています。

  • ここが浦賀町道路元標がある交差点。左手が浦賀警察署跡、その奥には横須賀市浦賀行政センターがあり1889年からここが浦賀の行政の中心だったのだと思います。右手は住友重機械工業旧浦賀工場の跡地が続いています。

    ここが浦賀町道路元標がある交差点。左手が浦賀警察署跡、その奥には横須賀市浦賀行政センターがあり1889年からここが浦賀の行政の中心だったのだと思います。右手は住友重機械工業旧浦賀工場の跡地が続いています。

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