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先日、実家に行ったときに昔のアルバムの写真を写したり、何冊か持ってきたりしました。最近のものはフィルムをデジタル化したり、旅行の記録を書いたりしていますが、初期のものはアルバムに貼った写真を写しとるしかありません。写真はだいぶ色あせてきています。細かいことは覚えてもいません。海外に出かけられない今、いくらかでも覚えていることを残したいと始めました。<br /><br />私の初めての海外旅行は中学2年生の時。今と違い中学生の海外などまれなことでした。父が入っていたライオンズクラブの交換ホームステイで、こちらから十数人、向こうからも同じくらいの数のクラブの子供が一週間くらいホームステイにきました。関空はなく、実質的な国際空港だった伊丹空港から出て台湾に行きました。。<br /><br />私がホームステイしたのは、歯医者さんの家でした。そこの息子さんは交換で日本に来ていました。歯医者のお父さんは大阪の歯科大を出ているし、お母さんも日本語が堪能でした。当時は日本語を話す方が台湾には大勢いました。しかし、若い人はだめ。同年代の話し相手にと連れてきてくれた姪御さんは日本語が話せず、英語や漢字での意思疎通をしました。漢字は旧字体でした。<br /><br />そのころはベッドで寝ることはなかったためか、そもそも寝相が悪かったのか、ベッドから落ちてお母さんを驚かせたことがありました。恥ずかしながらこれはその後も何度かあるから後者でしょう・・。<br /><br />歓迎会、送別会など何度もごちそうを食べる機会がありましたが、旅行に出る前にテレビで見たゲテモノが多い中華料理が頭にあり、私が知っている中華料理の八宝菜、酢豚、鶏のから揚げなど以外は怖くて手を出せず、最後に出るご飯とデザートを食べるだけで、お母さんが心配してくれ、日本料理屋の天丼や屋台の水餃子を食べさせてくれたり、お手伝いさんに焼きそばを作らせたり、気を使ってくれました。近くのアンバサダーホテルに朝食のおかゆを食べに連れて行ってくれたり、おいしいパンを食べさせてくれたりもしました。<br />今になると、おいしい中華料理を食べなかったことを残念に思います。<br /><br />滞在中は台北の市内観光はじめ、日月潭、基隆などにも連れて行ってくれました。<br />景色の写真は新しくできたもの以外今とあまり変わらない気がします。<br /><br />干し肉のみりん干しをおみやげに買い、ついていってもらって記念にサンゴのネックレスも買いました。帰るときには皆中国服を仕立ててもらいました。<br />これが私の海外旅行の始まりでした。<br /><br />初めての台湾の9年後、大学生になっていた私は、母、弟妹らとともにツアーで台湾を再訪しました。私にとっては4回目の海外旅行でした。この時の写真が見当たらないので1回目と合併にしました。<br />目的ははじめての台湾でお世話になった両親や姪御さんとの再会でした。<br /><br />電話をしたら、台湾の両親は喜んで我々を夕食に招待してくれました。この時ははじめての時とは違い私もおいしくごちそうになり、思い出話に花が咲きました。<br /><br />この時お母さんが話したことは忘れられません。<br />台湾の両親には私より少し年下の一人息子がいました。年を取ってから生まれた一人息子で大切に育てられていました。その息子が徴兵に行っているというのです。中国領土に近い金門島にやられ、毎日訓練させられてかわいそうだと言っていました。中国大陸からひそかに金門島に泳いできた兵士に襲われることがあると心配していました。<br />徴兵制がなく、戦争を知らない世代の私には考えてもみないことでしたが、台湾だけでなく、韓国でも同じ年頃の若者が兵隊に行かなければいけない現実を知りました。<br /><br /><br />

旅の記憶 初めての海外は台湾

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1970/08/07 - 1970/08/13

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イッコちゃん

イッコちゃんさん

先日、実家に行ったときに昔のアルバムの写真を写したり、何冊か持ってきたりしました。最近のものはフィルムをデジタル化したり、旅行の記録を書いたりしていますが、初期のものはアルバムに貼った写真を写しとるしかありません。写真はだいぶ色あせてきています。細かいことは覚えてもいません。海外に出かけられない今、いくらかでも覚えていることを残したいと始めました。

私の初めての海外旅行は中学2年生の時。今と違い中学生の海外などまれなことでした。父が入っていたライオンズクラブの交換ホームステイで、こちらから十数人、向こうからも同じくらいの数のクラブの子供が一週間くらいホームステイにきました。関空はなく、実質的な国際空港だった伊丹空港から出て台湾に行きました。。

私がホームステイしたのは、歯医者さんの家でした。そこの息子さんは交換で日本に来ていました。歯医者のお父さんは大阪の歯科大を出ているし、お母さんも日本語が堪能でした。当時は日本語を話す方が台湾には大勢いました。しかし、若い人はだめ。同年代の話し相手にと連れてきてくれた姪御さんは日本語が話せず、英語や漢字での意思疎通をしました。漢字は旧字体でした。

そのころはベッドで寝ることはなかったためか、そもそも寝相が悪かったのか、ベッドから落ちてお母さんを驚かせたことがありました。恥ずかしながらこれはその後も何度かあるから後者でしょう・・。

歓迎会、送別会など何度もごちそうを食べる機会がありましたが、旅行に出る前にテレビで見たゲテモノが多い中華料理が頭にあり、私が知っている中華料理の八宝菜、酢豚、鶏のから揚げなど以外は怖くて手を出せず、最後に出るご飯とデザートを食べるだけで、お母さんが心配してくれ、日本料理屋の天丼や屋台の水餃子を食べさせてくれたり、お手伝いさんに焼きそばを作らせたり、気を使ってくれました。近くのアンバサダーホテルに朝食のおかゆを食べに連れて行ってくれたり、おいしいパンを食べさせてくれたりもしました。
今になると、おいしい中華料理を食べなかったことを残念に思います。

滞在中は台北の市内観光はじめ、日月潭、基隆などにも連れて行ってくれました。
景色の写真は新しくできたもの以外今とあまり変わらない気がします。

干し肉のみりん干しをおみやげに買い、ついていってもらって記念にサンゴのネックレスも買いました。帰るときには皆中国服を仕立ててもらいました。
これが私の海外旅行の始まりでした。

初めての台湾の9年後、大学生になっていた私は、母、弟妹らとともにツアーで台湾を再訪しました。私にとっては4回目の海外旅行でした。この時の写真が見当たらないので1回目と合併にしました。
目的ははじめての台湾でお世話になった両親や姪御さんとの再会でした。

電話をしたら、台湾の両親は喜んで我々を夕食に招待してくれました。この時ははじめての時とは違い私もおいしくごちそうになり、思い出話に花が咲きました。

この時お母さんが話したことは忘れられません。
台湾の両親には私より少し年下の一人息子がいました。年を取ってから生まれた一人息子で大切に育てられていました。その息子が徴兵に行っているというのです。中国領土に近い金門島にやられ、毎日訓練させられてかわいそうだと言っていました。中国大陸からひそかに金門島に泳いできた兵士に襲われることがあると心配していました。
徴兵制がなく、戦争を知らない世代の私には考えてもみないことでしたが、台湾だけでなく、韓国でも同じ年頃の若者が兵隊に行かなければいけない現実を知りました。


旅行の満足度
4.0

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