2020/12/27 - 2020/12/29
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softail さん
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朝の雨も予報どおりに9時までには止んだ。
醍醐寺から宇治まで行ってみようと思った。
そう、うまくはいかなかった。
三宝院で醍醐寺僧侶による案内を体験した後に上醍醐まで行くことにした。
受付の女性「片道、1時間半かかります」と言っている顔が「お勧めしません」みたいな感じ。
上醍醐、今年最後の苦行だった。
准胝堂、10年以上前に落雷で焼失して更地になっていた。
結局、醍醐寺に10:00~16:00まで居ることになった。
来年は良い年であることを願う。
※由緒、歴史、ふりがなは自分のための備忘録。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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いつもどおりに4時半に目が覚めた。
朝飯でも食べて雨をやり過ごすことにした。 -
東山安井から市バス207系統で四条高倉まで。
市場も開店前。 -
京の朝食を。
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宿に戻り、右を見ると八坂神社。
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左を見ると八坂の塔。
夜は気が付かなかった。
下河原通りまで宿の人が荷物を持って見送ってくれた。
良い宿だった。 -
京阪線で祇園四条から三条、市営で三条京阪から醍醐まで。
左の階段を2階へ。 -
2階に上がると右なのか左なのか案内が無い。
右へ行っても何もないので左へ行くと案内板。 -
おお、親切。
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突き当たりの案内板らしきものが破れている。
振り返ると頭の上に案内板。右折だ。 -
奈良街道。
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真言宗醍醐派総本山 醍醐寺。
総門。 -
桜馬場。
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拝観受付。
創建の歴史からすると上醍醐から下がってくるのだが今回は下醍醐の三宝院から。 -
醍醐寺 塔頭 三宝院 大玄関(重要文化財)。
醍醐寺14代座主・勝覚が永久3年(1115年)に創建。 -
右端、葵の間(重要文化財)。
襖絵には下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している葵祭の様子が描かれていた。当時は男性だけの行列だったようだ。 -
左より秋草の間、勅使の間(重要文化財)。
秋草の間の襖絵には秋の七草が、勅使の間には、長谷川等伯一派の作といわれている
桃山時代の竹林花鳥図が描かれていた。 -
襖絵には金や銀が使われており古くなると銀が酸化して黒くなるらしい。
現在はプラチナも使用されている。 -
唐門(国宝)。
秀吉が聚楽第から移築した桃山時代の唐門。
建立は慶長4年(1599年)。 -
表側から。
平成22年からの修復の際に両端の菊門の下に桐門が発見された。
創建当時は4カ所とも桐門だった。 -
表書院(国宝)。平安時代の寝殿造り様式。
上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作の襖絵(重要文化財)、下段の間には石田幽汀の作の襖絵(重要文化財)が描かれていた。
奥に見えるのが純浄観(重要文化財)。
秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれている。 -
手前から下段の間、「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると黒く光った能舞台になっている。
中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっている。 -
本堂(重要文化財)。
本尊は快慶作の弥勒菩薩。 -
奥宸殿(重要文化財)。
江戸初期の建物。上座の間は、床棚書院及び、武者隠しを備えていた。棚は、「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚。 -
松月亭。
江戸末期に作られた切妻柿葦の造りの茶室。 -
三宝院庭園(国の特別史跡・特別名勝)。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした池泉観賞式庭園。 -
作庭は秀吉の死後も第80代座主の地位に就いた義演義演の指導で続けられた。
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賀茂の三石。
池の手前の賀茂川を表した枯山水。 -
左から賀茂川の「流れの速いさま」、「川の淀んだ状態」、「川の水が割れて砕け散る様子」を表している。
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藤戸石。
阿弥陀三尊を表す、歴代武将に引き継がれた「天下の名石」。 -
鶴島。
五葉松が翼で左の石橋が鶴の首にあたり鶴が飛び立とうとしている。 -
亀島と木橋。
五葉松が甲羅のように見える。
樹齢600年以上といわれる名木。 -
三段の滝。
滝の音の説明、忘れてしまった。 -
土橋。
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石橋。
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土橋と石橋。
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奥に豊国大明神。
豊臣秀吉を祀る社。どこの方向を向いてるか忘れてしまった。 -
茶室「枕流亭」。
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「酒づくし」の庭。
、塩、流れる酒を表した庭。 -
茶室「枕流亭」方向から流れてくる酒。
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瓢箪徳利と丸い盃。
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手前の石が酒の肴(塩)。
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夏は綺麗なんだろうな。
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松月亭の庭。
蹲が月で橋が松の葉だったかな?
池から舟で行き来できるようになっていると説明していたお坊さん。
この程度の水深で舟に人が乗れるか?とも言っていた。 -
奥宸殿の庭。
竹と石で表した松?松茸? -
奥宸殿の上座からは藤戸石が見れるようになっている。
畳は前に学習した高麗縁のような気がする。
北広島のガイドさん「御所にしか無い」と言ってたけど。 -
この櫓?鐘楼?のある建物は何だろう。
先へ進もう。 -
西大門(仁王門)。
豊臣秀頼が金堂の再建の後、慶長10年(1605年)に再建。 -
金剛力士像 阿形(重要文化財)。
もとは南大門に祀られていた仁王像で、平安後期の長承3年(1134年)に仏師勢増・仁増によって造られた。 -
金剛力士像 吽形(重要文化財)。
慶長10年(1605年)に現在の西大門に移された。忿怒形像としては隠健な作風。 -
門を抜けると、まだ紅葉が残っていた。
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参道。
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金堂(国宝)。
醍醐天皇の御願により延長4年(926年)に創建、二度の焼失後。
豊臣秀吉の命によって紀州湯浅から移築が計画され、豊臣秀頼の時代、慶長5年(1600年)に完成。
醍醐寺の中心の堂宇で、本尊薬師如来座坐が安置されている。 -
金堂の鐘楼。
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清瀧宮本殿(重要文化財)。
永長2年(1097年)、上醍醐より分身を移し祀る。その後、兵火により焼失。
永正14年(1517年)に再建。 -
清瀧宮拝殿。
慶長4年(1599年)、座主・義演(ぎえん)僧正が拝殿を整備。
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両側の小さな社。
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両側の小さな社。
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この門の向こうには塔頭寺院があったようだ。
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五重塔(国宝)。
醍醐天皇の冥福を祈るために、第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936年)に着工し、第二皇子・村上天皇が引き継ぎ天暦5年(951年)に完成。高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を占め、安定感を与えています。 -
京都府下で最も古い木造建築物。
初層の内部に描かれている両界曼荼羅や真言八祖は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。 -
高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートルあり、塔の三分の一を占めていいる。
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相輪。
上から宝珠、竜車、水煙、九輪、受花、伏鉢、露盤という構造。
ただの避雷針だと思ってた。 -
不動堂・護摩道場。
不動明王を中心に五体の明王を安置。 -
堂前の護摩道場。
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さっきから法螺貝が鳴っている。何処で吹いてるんだろう。
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真如三昧耶堂
朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建、後に焼失。
現在の堂は平成9年(1997年)に真如三昧耶堂として建立。 -
いい雰囲気になってきた。
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石畳。
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いたいた、修験道の開祖。
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苔の上の紅葉。
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祖師堂。
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紅葉の時期が良かったかも。
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慶長10年(1605年)、座主 義演准后(ぎえんじゅごう)が建立。
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弘法大師・空海と、孫弟子の醍醐寺を開創した理源大師・聖宝が祀られている。
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雨上がりでいい感じ。
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参道を奥へ。
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旧伝法学院(修行道場)。
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青い屋根の建物。
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青い屋根と思ったら瓦がない。
ブルーシートだった。 -
日月門。
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獅子の瓦。
獅子というよりシー・ズーみたいだ。 -
鐘楼。
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観音堂(旧・大講堂)、本尊は丈六の阿弥陀如来坐像。
現在は焼失した上醍醐の准胝堂の西国三十三所札所が仮に移されており、「観音堂」と改称されている。 -
大講堂の駒札。
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観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、鐘楼、伝法学院等を総称して大伝法院と呼ぶ。
諸堂は、昭和5年(1930年)、山口玄洞が建立。 -
弁天堂 。
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晴れていると朱塗りが綺麗だったろう。
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林泉の滝。
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やっぱり時期が遅かった。
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「また、来よう」という気持ちが起きないほどの出来事がこの後、起きる。
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橋を渡ってしまった。
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