2020/06/07 - 2020/06/07
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akitaineさん
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午前に高取城跡登山を終え、明日香村まで下りました。
遺跡の宝庫・明日香村。素朴な田園風景の中、道の途中には、これでもかと興味深い古代の遺物や神秘がいっぱい。
午前の高取城跡(高取山)と午後の明日香は時代も雰囲気も異なり、内容も盛りだくさんなので2つに分けました。
後半の飛鳥地域です。
栢森綱掛神事、石舞台、伝飛鳥板葺宮跡、酒船石遺跡、飛鳥寺、水落遺跡、甘樫丘、豊浦宮跡、と午後だけで8か所巡りました。
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前半最後に掲示した、綱と奇妙なオブジェは「栢森綱掛神事」のものです。
上流に女綱。下流に男綱があります。これは女綱。オブジェは女性を象徴しています。 -
女綱のそばにある説明板。
子孫繫栄、五穀豊穣、地域安寧を願い、毎年掛けられているのですね。
男女の象徴を綱の中央にかける、川をまたがせる、しかも男女の綱を女綱は上流の栢森地域、男綱は下流の稲渕地域にかける、興味深い発想です。 -
15分くらい歩くと稲渕地域に着きました。
これが男綱。確かにオブジェは上流のものと違い、男性らしい。 -
稲渕地域まで下ると、周囲はかなり開けてきました。
川の両側は低い丘になっていて、棚田があります。
稲渕地域は、毎年稲刈り前後に、面白い案山子を展示することで有名な地域です。 -
さらに下り、飛鳥地域中心部にやってきました。
有名な石舞台古墳がある国営飛鳥歴史公園の広場です。
休日でお天気も良かったので、たくさんの人がいました。 -
石舞台古墳の大岩。横穴式石室で、造られた当時は、土に覆われていたようです。
どのようにしてこんな岩を運んだのでしょうか。
岩の数は、30数個、総重量は約2300トン、天井石は約77トンもあるとか。 -
料金所横の説明板。
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それでは中に入ってみます。
かなり広い空間でした。
推定では、蘇我馬子の墓ではないかということです。
いずれにせよ、当時一番くらいの有力者のお墓です。 -
石舞台古墳を後にして、次の目的地は、伝飛鳥板葺宮跡。
しばらく、市街地を歩きます。 -
田園風景です。
ここがかつて、都の中心であったとは思えないほど静かな地域。 -
説明板。
ちょっとした広場の真ん中に葉をたくさんつけた木が1本あるだけの場所に設置されています。かつての都の中心とは思えない空虚さが何とも言えない。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した場所といわれています。
「伝」とあるので、確実ではないが、そうらしい場所ということ。
板葺きというので、当時まだ瓦が無くて、板葺きで屋根を覆っていたということらしい。 -
発掘調査の結果、礎石が見つかり、整備されています。
奥に見えるのが、甘樫丘。蘇我氏の居城があった丘です。
後で訪れます。 -
広々した地に、かつて朝廷の重要建物が並んでいたのでしょう。
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次は、伝板葺宮跡から北上し、東側の丘の麓の酒船石遺跡に行きます。
民家やお寺など普通の道を通ります。 -
東側の丘を少し上がります。
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竹藪と広葉樹林の森の中に、ひっそりとした感じで酒船石遺跡がありました。
何の囲いもなく、どうでもいいようなさりげなさ。
表面にいくつかの丸い窪みと窪みをつなぐ溝が彫られ、液体状のものを流せるような形ですが、使用方法、製作意図は謎です。 -
酒船石から坂道を下った斜面に石垣が発見されました。
修復した石垣の一部がこの看板のそばにあります。
どうやら、酒船石は人工の丘に設置されたもののようです。
彫られた謎の溝からみて、祭祀用であったのでは。
坂下にある亀形石は2000年に発掘されましたが、このあたり一帯、朝廷の祭祀を執り行うエリアであったのでしょう。
ことごとく神秘です。 -
坂を下りきった右手に大きく開けた場所があり、酒船石遺跡の一部とされています。
亀の形をしているので「亀形石」と呼ばれ、2000年に発掘されたもの。上にある酒船石とセットの建造物と考えられます。
亀の形の中に水を通すようになっており、祭祀として占いに使われたのではないか。 -
亀形石の説明板。
2000年に発掘されたものです。
今後、どのようなものが出てくるか、楽しみです。 -
次は、飛鳥寺。
日本に本格的に仏教を導入した蘇我馬子の発願で596年建立された日本最古の寺院。中におられる飛鳥大仏も日本最古。
写真はNGだと思っていましたが、後で調べたらOKだったようです。
残念。
教科書にも載っている有名な大仏様は、後世の奈良の東大寺の大仏様よりお顔が少し長めで、すっきりしたお顔立ち。しばし、諸々のお願いをしました。 -
飛鳥寺境内。とても有名なお寺なのに、さほど広くない質素なお寺でした。
しかし、清々しいお寺です。そこがいいね! -
飛鳥寺と甘樫丘の中間に、水落遺跡があります。
広場に囲いがあるだけに見えますが、ここには、飛鳥時代の水時計の遺跡があります。650年中大兄皇子によって造営されたようです。
当時のハイテク、水時計は中国から導入したようです。
少し前にNHK番組「ブラタモリ」で放送していました。
ブラタモリで言われていたのですが、この遺跡が発掘される前から、古い地名は「字水落」。1400年以上時が経過しても、歴史の痕跡が地名に残っているとはすごいことです。 -
礎石でしょうか。
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水落遺跡の西隣に甘樫丘があります。
平地が広がる中、甘樫丘だけが、こんもりと丘状態。標高148m。
さほど高くありませんが、周囲にさえぎるものがないので、眺望抜群。
頂上目指して階段を登ります。 -
こんな感じの緩い登りですが、午後で少々疲れていたので、結構しんどい。
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ほどなく頂上。
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大和三山が見えます。正面は、畝傍山。
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丘から見た東側。
今日見てきた板葺宮跡や飛鳥寺が見えます。
時の権力者・蘇我氏は、周囲が見渡せる絶好の地として館を造営したのでしょう。平地にある宮殿を見渡すことができるとは、どういう意味でしょうか。
これまで、古代の人々が高い見晴らしの良い地に城を構えるのは、敵を想定しての軍事上の理由と、後世の織田信長の安土城のように民に威信を示すために高い場所に設けました。大和朝廷にはそのような発想はなかったのでしょうか。
逆に蘇我氏は、軍事と威信の両方に有利な場所に居を構えていました。
いかに蘇我氏が強大な力を持っていたか、また軍事の観点を持っていたか、ということでしょうか。
しかし、蘇我氏は入鹿の時代に滅ぼされてしまい、歴史から姿を消しました。謎の多い一族です。どんどん興味がわいてきます。 -
いよいよ本日の歩き、最終目的地です。
甘樫丘を下り、麓の西側にある向原寺の前に来ました。
向原寺は、592年推古天皇が即位した豊浦宮があったところ、といわれています。
寺内に遺跡があり、見学できることを後日調べてわかりました。
機会を見て、また訪れたいと思います。 -
向原寺前にある説明板。
高取城跡から始まって、飛鳥の史跡をたくさん巡る盛りだくさんの1日でした。
28㎞歩きました。
飛鳥時代は、かなり昔のことで、不明なことがらが多い時代です。
それだからこそ、私たちの想像力をかきたてるのですね。
時折、訊ねたい地です。
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