2007/03/28 - 2007/04/04
86位(同エリア340件中)
まさとしさん
①3/23 東京(1300)→モスクワ(1725/2320)→バクー(305バクー空港待機
②3/24 バクー HOTEL ARAZ
③3/25 バクー バクー(2035)→ 車内
④3/26 →トビリシ ネリダリの家
⑤3/27 トビリシ トビリシ(1540)→ 車内
⑥3/28 →エレバン(ナゴルノカラバフビザ申請) リダの家
⑦3/29 エレバン(940)→ステパナケルト ステパナケルト
⑧3/30 ステパナケルト(アスケランとシューシ) ステパナケルト
⑨3/31 ステパナケルト(800)→エレバン リダの家
⑩4/1 エレバン(虐殺博物館) リダの家
⑪4/2 エレバン(ガルニ遺跡とゲガルド修道院) リダの家
⑫4/3 エレバン(1510)→モスクワ(1715/1920)→ 機内
⑬4/4 →東京(1000)
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17時50分にグルジア側の国境に到着。
20時過ぎにようやくアルメニア国境に向け出発した。グルジアは出国も入国も時間がかかるようだ。アルメニアの国境に移動する際、食堂車でサンドウィチを食べることにした。
食堂車のメニューはこれとコーヒーだけだった。
20時40分にアルメニア側国境に到着。アルメニアのビザは列車を降りて事務所で作ってもらうことになった。事務所で申請用紙を書かされた。そして電話で名前の照会をする徹底ぶりだ。またアゼルバイジャンについて何か問題はあったか質問された。無関心のはずだがどういう事だろうか。またアルメニアは今までの国と違い軍事色が強い。ホームには兵士がうろうろしている。どことなくイスラエルとかぶる部分があり、周辺のイスラム諸国と一線を画しているのも似ている。世界に散らばるアルメニア人の支援によって成り立っている国家。しかしイスラエルに比べるとずいぶん貧相で気候も厳しくとんでもない場所だ。政府職員の規律がしっかりしているのが唯一の救いかも。 -
アルメニアの首都エレバンに到着したのは翌朝8時過ぎ。
ずいぶん立派なプラットホームだがここもボロボロで電気系統はすべて機能していない。コンクリート片も割れたままで荒れ放題だ。
駅構内には地下鉄の駅もあるので人の往来は激しく地下道には店も何軒か営業しているがどことなく寂しい。 -
駅舎は立派だが周辺の眺めは半分廃墟だ。ラチン回廊に行かなくてもここである程度は廃墟を感じることができる。
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今日は雨交じりのすっきりしない天気で道路はぬかるみ、まっすぐ歩くこともままならない。
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とりあえず駅近くのリダおばさんの家に向かった。情報ノートのおかげですぐに家は見つかった。ほとんどバラックでかなり酷い住居だ。近所の家も負けておらずほとんど街並みは廃墟と化している。そんな中での生活は貴重な経験だ。トイレは普通に使えるようでこの種の宿では快適な方だろう。しかし暖房はない。
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リダおばさん。
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町へ出ることにした。
エレバンはソ連時代、域内の主要共和国の首都だったこともあり、インフラは整備され地下鉄も走っている。他のソ連圏と同じ車両システムだが2両編成でずいぶんこぢんまりとしている。 -
料金は50ドラム(16円)。プラスティックのソ連式ジェトンが切符。
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中心部にある市内で最大のアルメニア正教会「グリゴル・ルサヴォリチ大聖堂」。2001年に建立と新しい。
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SILバザール。この周辺から周辺都市への乗り合いバスも出ている。
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エレバンの青年たち。
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今回の旅の目的地であるナゴルノカラバフ大使館へ向かった。
大使館にあたるナゴルノカラバフ恒久代表部の建物。
今日の気温は日中でも2度で雪交じりの厳しい天気だ。少し不便な場所にある。のんびり歩いて向かった。
ビザ申請は特に問題ないがその場で発行されず夕方4時の受け取りとなった。写真が一枚必要で費用は11000ドラム(3600円)だ。アルメニア以外には国として認められていない自称国家のくせに手続きだけはずいぶん本格的だ。
質問も多くいちいち訪問目的を説明するのが面倒くさい。
手間がかかる。 -
エレヴァン市内のトロリーバス。
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市中心部の共和国広場。財務省の時計台。このあたりは国を代表する場所なので道路は歩きやすく整備されているが一歩裏に入ればぬかるみだらけの路になる。
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夕方4時にナゴルノカラバフ恒久代表部にビザを受け取りに行った。
受け取ったパスポートにはしっかりビザに張られていた。これでもう敵対するアゼルバイジャンには入国不可能になってしまった。
書類はレジストレーション。 -
翌日ナゴルノカラバフの首都ステパナケルトへ向かうため中央バスターミナルへ向かった。
中央(キリキア)バスターミナル。 -
ステパナケルトへ向かうマシュルートカ(乗り合いバス)。所要7時間で5000ドラム(1650円)だ。
ナゴルノカラバフには空港はあるが、閉鎖されているのでこの乗り合いバスが唯一の交通手段だ。 -
エレヴァン近郊はハイウェイが整備されている。
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昼食で立ち寄ったヴァイクの町。
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その後車は雪山を眺めながら坂をぐんぐん上り2344mの峠を越えた。
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その後も一面銀世界の中を走り続け、南部の主要都市ゴリスに到着した。街は広範囲に広がっているが雪に覆われている。寂しい感じだ。
そのままナゴルノカラバフへ。
ラチン回廊に入り、小さな川にさしかかった。この川を越えたらナゴルノカラバフなのか検問所があった。おそらく国境などだろう。しかしパスポートチェックはなく運転手がなにやら手続きしただけだった。
この一帯は国際的にはアゼルバイジャン領で「ラチン回廊」とよばれている。アルメニアが安全保障目的で占領している保障占領地という扱いだ。
道路は外国のアルメニア人の投資により整備されている。 -
保証占領地のなかにある町「ベラゾル」はアゼルバイジャン人の街で廃墟になった家もあるがそこに新たにアルメニア人が住み始めているので村全体が廃墟になっているような場所は見あたらない。でもアパートだったと思われる大きな建物の屋根が抜け落ちた廃屋や壁だけになった家が至る所に見られる。でも新しい家も建っていて街は機能しているようだ。アルメニア人の街に変わりつつあるようだ。
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この時、車の真ん中の方に座っていたので思うように写真を撮れなかったので帰り道に改めて説明します。
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そのまま雪化粧の山岳地帯を走り続け、ステパナケルトの街が見えてきた。
ステパナケイトの街には雪はなく、色のない灰色の荒廃した街並みが広がっている。人口4万人。鉄道も空港もない。これでも建前上一国の首都だ。
とんでもない所に来てしまった。 -
夕方4時半にバスターミナルに到着した。
バスターミナルにいたタクシー運転手と宿の客引きに一軒の宿泊所へ連れて行ってもらうことになった。その途中オヴィールで外国人登録を受けによってもらった。
連れて行かれた宿はホテルとは呼べないが民宿でもない。
左から2番目の扉が宿泊した宿。 -
部屋は暖房付きの共有スペースに部屋が二つ。お湯は出ないがそれなりに快適だ。1泊4000ドラム(1320円)だ。とりあえず2泊する予定だ。
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宿の前には商店もあるので飲み物も買えそうだ。
ここまで連れて来てもらったタクシーを明日チャーターすることにした。 -
この日の気温は0度。外は小雪混じりの天気だ。とにかく寒い。部屋の暖房も宿の管理人が戻ってくる夜間しか利用できないので部屋の中でも防寒対策が必要だ。すきま風が入ってくるので部屋の中も5度くらいしかない。見た目よりこの部屋は寒い。
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中心部はバザールがあり果物や肉は豊富だ。しかし自炊できないのでそのまま食べられるものはあまりない。
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牛の頭
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魚はけっこう豊富に売られているがこれを食べさせてくれる場所が見つかればいいのだが。
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ステパナケルトは町の中心部。路地の町並みはこんな感じだ。
翌朝
ステパナケルトの朝は遅く8時を過ぎても街は静まりかえっている。目の前の商店もまだ閉まっているので昨日パンを買っておいたのは正解だ。冷たいパンを水でのどに流し込んだ。
この宿にはコイルヒーターがあったのが救いで少しずつお湯を沸かしペットボトルに貯めると顔などを洗うには十分使える。しかし頭を洗うには少し勇気と気合いが必要だ。もう少し暖かくなった日中に決行した方が良さそうだ。
9時過ぎタクシーに乗り込んだ。ソ連製の車だが暖房がついているのはありがたい。まずは北部、アゼルバイジャン国境との最前線の街アスケランへ向かった。
途中ステパナケルトの廃駅や機関車の残骸などを見下ろす場所を通過した。 -
ソ連時代はステパナケルト駅から敵国アゼルバイジャンのバクーを経てモスクワまでの直通列車が運行されていた。その名残がここに生々しく残っている。
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機関車の残骸が見える
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こちらは駅前にあるバスの残骸。
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その後鉄橋跡も頻繁に目についた。
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垂れ下がった送電線。
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アスケランへ行く途中アゼルバイジャン人の廃屋が点在していた。
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軍用車の車列もこの短い距離で二度もすれ違った。まだまだここは戦地なんだと実感させられる。北部にある空港は軍事目的に利用され民間航空は運行していない。
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軍用車が多いと思ったらナゴルノ・カラバフ軍(アルメニア軍)の駐屯地があったりする。
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前方にアスケランの城壁が見えてきた。アスケランのことは知らなかったが、城壁に囲まれた歴史のある場所みたいだ。
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でも町中はなんの変哲もない集落だ。
戦車のモニュメントがある場所まで行きその先には行けないらしい。しかたなく折り返すことにした。本当はこの先にあるアグダムという場所まで行きたかった。
アゼルバイジャン人の街だった人口四万人規模の廃墟の都市。アゼルバイジャン領だがアルメニアが安全保障のため占領している。
今まで例外的に北部のマルタケルトへ行く場合、アグダムの脇を通過するついでに町を見ることができた。でも最近マルタケルトへ向かう新たなバイパスができてしまい、アグダムを通過する必要が無くなった。それによりアグダムには意味もなく近づくのは事実上不可能になってしまったようだ。 -
いったんステパナケルトへ戻る際、ナゴルノカラバフのシンボルでもある「我らの山」像に立ち寄った。入国ビザにもデザインされているあのモアイに似たヘンテコな像だ。
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駐車場で待たしている運転手とタクシー。
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ソビエトバスを追い抜く。
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一旦ステパナケルトの街へ戻り。今回の旅のハイライトでもあるジューシへ向かった。
シューシはステパナケルトの南へ10キロほど行ったところにある。距離は近いが標高は高く、結構遠く感じる。向かう先は霧に覆われている。 -
ステパナケルトに雪はなかったが、標高1200メートルのシューシは完全に雪化粧していた。
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幹線道路からシューシへの分岐点にはアルメニア人の墓地があった。
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シューシの街が見えてきた。
ソ連時代末期、80年代末の戦争でシューシの街は徹底的に破壊された。
元々アゼルバイジャン人が多く住む町でカラバフ戦争の際には最後までアゼルバイジャン勢力の拠点だったが、ついにはアルメニア軍により陥落。アゼルバイジャン人はこの地を追われ多くの難民を生み出した。 -
街はアルメニア人地区を含め、ほぼすべて廃墟となってしまった。近年アルメニア人が居住していたエリアは人が戻りはじめ、少しづつ街は機能し始めている。しかしまだまだ復興には時間がかかりそうだ。廃墟となった建物でも一部だけ勝手に修復して人が住んでいたりする。不思議な感じだ。
写真のビルも廃墟だが左半分だけ人が住んでいた。 -
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旧バザル・バシュ広場。ソ連時代シューシの憩いの場ともいえる広場だが、ひどい有様だ。
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車で街の中に入ってみた。こちらは坂になったヌジュデ通りで元々はアルメニア人居住区だったが、人の住んでいる建物はほとんどない。
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樹木に雪が付着してずいぶん美しい風景だが、街並み一帯に廃墟が続く。
不謹慎だがこの樹氷まさに桜が満開といった眺めだ。 -
奥に巨大な建造物がそびえるのが不気味だ。夜は来たくない。
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シューシの町の中心には修復されたガザンチェツォツ大聖堂があり、ここが新たな町の中心部になろうとしているが、周辺は殺風景だ。
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かつて町で一番のホテルだった「ホテル・シューシ」。ソ連式のホテルだ。今は閉鎖され今後も再開されるめどは立ってない。
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中心部にある焼けたモスク。
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向こうに見えるのはかつてシューシを象徴した「ギョヴヘル・アガのモスク」。
近づきたかったが寒いのでやめた。
今思えばもっとゆっくり見学すればよかった。 -
来た道をまた戻ることにした。
この風景もしばらくいると慣れてくる。 -
部分的に修復されている建物。人が住んでいるようだ。
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シューシの街並み
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ガザンチェツォツ大聖堂がそびえる
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シューシのバザル・バシュ広場で写真を取っていたらこの町で初めてポリスチェックを受けることになった。撮影した写真を見せろと言われるかと思い少し緊張したが、ただこの街でもレジストレーション(滞在登録)を受けるため名前を控えるだけのようだ。
中心部のモスク跡。 -
雪化粧した廃墟は独特の雰囲気。シューシを離れることにした。
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シューシの歴史的に正面ゲートにあたる「ゲンジェ門」の廃墟。いまでは近づくこともままならない。
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散歩に出ることにした。街角の花屋。ステパナケルトで一番カラフルだと思った場所だ。
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ビルとビルの間にロープが張られ洗濯が干されている。
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食べる場所のないステパナケルトで町中で唯一目を引いたレストラン。ここで夕食を食べることにした。
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メニューは多くなく、アルメニア料理のホロヴァツ(羊肉の串焼き)を食べることにした。コーヒーをつけて1500ドラム(495円)。
夜7時頃、宿の戻ったら扉の鍵が開いていたので他に客が来たようだ。どうやらエレバンから来たマシュルートカ(乗り合いバス)の運転手が泊まるらしく、明日エレバンに乗せていってもらうことになった。とはいえ値段が安くなるわけではないが、バス乗り場まで無料なのは有り難い。
朝も昨日ほど寒くなく速やかに起きることができた。運転手を7時に起こし、7時半ぐらいには出発の準備が整った。7時半のステパナケルトはまだ薄暗い。土曜日ということもあるのでまだ人の気配が全くない。運転手は一度バスターミナルに行って客を集めてからエレバンに向かうのかと思ったら町を一周して誰も客を捕まえないままステパナケルトを出発した。事実上貸し切りだ。行きの窮屈なマシュルートカとはえらい違いで快適な移動になりそうだ。 -
シューシを通り過ぎアルメニアに向け山を越えた。
辺り一面雪化粧しているが今日は天気が良いようで青空が見える。 -
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やはり天気が良いと気分も良い。
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雪山がまぶしい
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途中立ち往生したトラックとすれ違った。路面は凍結している。
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雪山をひた走る
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ステパナケルトとゴリスを結ぶ幹線道路。
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ラチン回廊にさしかかり、ベルゾルの町へ。
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来るときは天気も悪く車内も窮屈だったのでよく見ることができなかったアゼルバイジャン人の家の廃墟を眺めることができる。その中で最大の街であるベリゾールはアルメニア人が住み始めているが町の大半は廃墟で崩れ落ちた不気味な建物があちこちに点在している。ラチン回廊とその中にあるベルゾルは正式にはアゼルバイジャン領だが、今はアルメニアが占領している。アルメニアの安全保障のための保証占領地という扱いらしいが、もはやアルメニアの一部と言ってもおかしくない状態だ。
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廃屋を眺めながら。
ラチン回廊のベルゾル。 -
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国境のチェックポイントにさしかかったが、帰りはノーチェックで検問を通過した。
その近くにはアルメニア教会が建っていた。 -
再び山を登る。眼下にはラチン回廊。
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ゴリスへ向かう。
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ゴリスの手前にはかつて人が住んでいた洞窟が見られる。
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羊飼い
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雪道の先にはゴリス。
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南部の主要都市ゴリスを見下ろす展望台にて。
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休憩することになった。しかしチャイが1杯500ドラム(165円)もしたのは誤算だった。
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エレバンへ向かう。
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最後の峠(2344m)を通過。
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コーカサス南部の山はあららっと山をはじめツルツルの山が多く、手が届きそうだ。そんな山々を眺めながら峠を下り、ヴァイクの村に到着。
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ここで昼食を食べることにした。ケバブとスープで結構まともな食事になった。1500ドラム(495円)。
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店のおばさん達は僕が3日前に来たのを覚えてくれていて感じがよい。
ヴァイクからは単調な景色が続き、そのままエレバンに到着したのは午後2時前だ。中央バスターミナルではなく中心部の地下鉄の駅前に到着した。
メトロに乗り、エレバン駅前のリダおばさんの家に向かった。 -
この日の夕食「ラフマージョ」。薄いピザのようなもの。
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日曜日。旅人にとって毎日が日曜日みたいなものだがら特別な日ではないが、今日は現地の人と同じように日曜の過ごし方をしようと思い、博物館に行くことにした。テーマはアルメニア人の紛争による被害と加害だ。
まずオスマントルコ時代に受けた被害について展示された虐殺記念館に行ってみた。 -
丘の上のモニュメントの中にある炎はどことなく広島の平和記念公園を思い出す。しかしこの炎は日本のようにここでは永遠の平和を願っている感じはしなかった。
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虐殺記念館ではトルコ領内で異教徒であったアルメニア人が、第一次世界大戦の敵国でキリスト教のロシア寄りになるのではないかという懸念からオスマントルコによるアルメニア人強制移住や虐殺が行われた事に関して展示されていた。トルコ東部が主に歴史的なアルメニア人居住地域だったが今では民族浄化によりほとんどいなくなってしまった。アルメニア人にとっては悲惨なできごとだ。
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もう一つの戦争に関する博物館がまったく別の場所にある。勝利広場にある母なるアルメニア像だ。この土台部分が博物館になっている。ここも入場料は無料だ。
こちらはアルメニア人が加害者側に立ち、戦争を美化し英雄をたたえる博物館だ。被害立場の虐殺博物館では厳粛な雰囲気だったが、こちらの博物館の周辺は遊園地になってずいぶん賑やかだ。アルメニアによる被害者はアゼルバイジャンだ。昨日まで滞在したナゴルノカラバフで争われた80年代末期のカラバフ紛争での勝利がこの広場の名前の由来だ。この時アルメニアでも被害はあったが、激戦地シューシをはじめ多数のアゼルバイジャン居住機から難民を生み出した。しかしそういった被害状況は一切展示されず、シューシの攻防戦の様子がジオラマで作られていたり、どの場所がいつ陥落できたかなど勇ましさばかり強調されている。博物館内の案内表示がアルメニア語のみで外国語の表示がないのはすこしうしろめたさを感じているのだろう。
やられたことをまたやり返す。二つの博物館を見ていると歴史は繰り返すというのがよくわかる。どのみち悲惨な歴史を背負っているのは日本も同じだ。違うのは歴史から学ぶことができたかどうかだ。 -
母なるアルメニア像周辺には戦争で活躍した車両などが展示されていた。
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エレバンの街を一望できるカスカードという階段状の広場に行ってみた。
エレバンを一望。 -
一部はまだ工事中だ。
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市内を散歩することにした。
写真の建物は「ギョイ・メスジド」
歴史的にはモスクだが、アルメニアではイスラム教徒の活動は禁止されているので「イラン文化センター」という名になっている。 -
聖サルギス教会。
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アルメニアのアララト・コニャックは有名だ。その工場が崖の上にそびえる。
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夕方市内の南部にあるエレブニ遺跡に行ってみた。こちらは丘の上に崩れた遺跡があるだけでいまいちだ。ただここからの眺めなかなかだ。
今日は気温が20度近くまで上がった。上着を着ていると汗ばむ陽気だ。ちょうど今季節の変わり目で、エレバンにも春が来たようだ。 -
エレバン駅の駅舎。
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駅構内も立派だ。
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ホームも立派だが電車はぼろい。
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夕食は市内の中華料理に行ってみた。今回の旅行でご飯を食べるのは初めてだ。グルジア料理のハルチョというスープの中に米は入っていたが、ご飯をほおばるのは初めてだ。しかし値段が高かったのでチキンフライドライスだけ食べることにした。
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最終日。
朝から郊外のガリニ神殿とゲガルド修道院へ行くことにした。バスを乗り継ぎ、ずいぶんローカルな風景の中を走りガリニの村に到着した。 -
ガルニ神殿はエレバン周辺でもっとも有名な遺跡だが、村には少し露天が出ている程度でこじんまりとしている。遺跡自体もギリシャ神殿風だが修復され規模は小さく周辺は公園のように整備されているので少し物足りなさを感じだ。
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周辺の絶景
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雪山を背景にした神殿はレバノンのバールベックのような雰囲気ではあるが。
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それほど長居することもなくさらに遠いゲガルド修道院へ行くことにした。しかし途中のゴグト村へ行くバスは1時間に1本くらいしかないので適当にヒッチしようと思った。するとジュースのケースを商店に配達している業者の車がつかまった。
配達業者のおじさんはパンもくれた。 -
車の荷台。
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この車にゴグト村よりさらに上のゲガルド修道院への分岐点まで乗せていってもらった。途中何軒かの商店に配達しながらで最後の商店まで連れて行ってもらえた。
礼を言い歩いてその先へ向かった。
おじさんの車が遠くに見える。 -
修道院まで3キロほどは歩くことになったが、さらに別の車のヒッチに成功。比較的スムーズに修道院に到着した。
この人たちに修道院まで乗せてもらった。 -
ゲガルド修道院は断崖絶壁の日当たりの悪い場所にひっそりとたたずんでいる。
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岩に建物がちおけ混んだ雰囲気の良い修道院だ。少し苦労した甲斐はある。標高が高いので少し肌寒い。
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壁画
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洞窟のような穴が見られる。かつて人が住んでいたのだろうか。このような穴がアルメニア南部のゴリス近郊でよく目にした。
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修道院内部
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アーチの石橋。
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帰りはヒッチはせず歩いてゴグト村へ向かうことにした。来た道を戻るだけで坂を下るだけなので気分は楽だ。
ゲガルド修道院が遠くなっていく。 -
1時間15分ほど歩いてゴグトのバス停についた。
ちょうどバスが停まっていたのでそのままエレバンに戻ることにした。 -
エレバン最後の夕食はホロヴァツ屋に行くことにした。
羊肉の串焼き。 -
総額300円ほどだ。
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帰国の日。
朝は宿でダラダラし、出発前近くで見つけた有料(500ドラム/165円)のシャワーを浴びてから地下鉄で中心部の空港バス停留所へ向かった。空港までは150ドラム(49円)と馬鹿安だ。 -
2時間半前に空港に到着した。エレバンの空港は円形状のターミナルビルで見た目は近未来的だ。
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しかし近づくとボロボロなのはいつもと同じだ。
空港税は29$。ここまで節約してきたことをすべて否定させた気分だ。持ち合わせが無く、ドルで払うとレートは最悪だった。29ドルあたり1$分くらい損した計算だ。
航空会社のチェックインカウンターはアエロフロートの職員ではなく、愛想は良く最後にアルメニア人に癒された気分だった。しかしマイレージの登録はアエロフロートの事務所に行ってくれと言われる有様だ。それは良いとして肝心のアエロフロートの事務所は閉まっていた。マイルは予想通り事後加算することになるがスカイチームに入ったのは奇跡としかいいようがない。アエロフロートの要領の悪さに腹を立てても仕方ないが、時間がかかったとしても結果的にワールドパークスにマイルが加算されるなら有り難く思わなくてはならないのだろうか。
出国審査の行列は相変わらずだが、自分の番が回ってきて徹底的にパスポートを調べられた。全ページ紫外線を当てられ、ビザもすべて本物か調べられる徹底ぶりだ。アゼルバイジャンのビザにも反応したが、ナゴルノカラバフのビザを興味深げに見ていたのが印象的だ。自分の国が作った傀儡国家のビザなのにやましいことがあるのだろう。目的地までの航空券を見せろと言われただけで特に質問はなかったが相当時間がかかった。入国ならともかく出国審査でこれだけ調べられたのはイスラエル以来だ。 -
アエロフロートのモスクワ行き。
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モスクワへのフライトはソ連製ツポレフ154型機。メタリックな機体は近未来的だが、実はオンボロ飛行機だ。
機内に乗り込んだがアルメニア人が座席番号の通りに座らないので大混乱だ。確かに旧ソ連製の機内の座席番号はわかりにくい。みんな乗り慣れてないのはわかるが客室乗務員がもう少し誘導するなど配慮してもらいたい。またソ連製は妙に荷物入れが小さい。バックパックの中身を取り出してバッグを押し込めなんとか入ったが、思わぬところでも世界基準を満たしていなかったようだ。
ソ連製ツポレフは2回目だが最悪な思い出しかない。ちゃんと折り返しモスクワに飛べるのだろうか。不安だ。なかなか動かないと思っていたら何らかの理由で搭乗できなくなった乗客の荷物を下ろしていた。
結局20分遅れでスポットを離れた。しかし離れたはいいが今度は前進しない。エンジンの回転数を上げようとしているがなかなか調子が出ないようだ。そのまま不安は的中しエンジンは止まってしまった。前回2000年の西アフリカのギニアではそのままエンジンが故障したということで出発が1日延びてしまったのだ(西アフリカ横断④(マリ、セネガル、ガンビア)参照)。今回も同じようなパターンなのだろうか。救援機を呼ぶ場合モスクワから近いのが唯一の救いだが。
しばらくして再びエンジンが掛かり、回転数が上がりだした。今度は調子が良いようだ。とにかく飛ぶなら早くしてもらいたい。モスクワでの乗り継ぎ時間が1時間20分しかないのだ。とにかく今回は大幅な遅延も勘弁してもらいたい状態だ。 -
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ヒヤヒヤすること30分結局45分遅れで滑走路に向け動き出しそのまま飛び立った。ひとまず安心。これだからアエロフロートは乗りたくない。日本・欧米路線やバクーのようにボーイングやエアバスを導入している路線はこのようなエンジントラブルは少ないはずなので心配ない。問題はアルメニアのように親ロシア国家でランクが低い国だ。とにかくこのような国は最新鋭の機材導入が後回しにされている。でもおそらくソ連製の飛行機に乗るのもこれが最後かもしれない。そうしたい。
機内食は2時間台のフライトにしては悪くない。
モスクワまでのフライト時間は2時間50分だ。スピードを上げた回復運航をしたのかはわからないが、モスクワ・シェレメチボ空港には30分遅れで到着した。
モスクワに到着したものの、東京行きの出発まで60分を切っている。乗り継ぎが問題だ。案の定トランジットカウンターは行列ができていた。でもエレバンから東京の乗客にはカウンターから真っ先に声がかかった。そしてスムーズに搭乗券を受け取ることができた。
ワールドパークスのマイレージも自動的に登録されているようだ。あきらめて事後登録するつもりだったが成田で登録したのが全行程に反映加算されていたようだ。感心した。
東京行きの便はパリからの便で大半が日本人だ。機内は快適。ロシアの飛行機だしウォッカを頼んでみた。有料だが3ドルと米系航空会社(5ドル)よりは安い。オレンジジュースで割って気持ちよくなってきた。この便は夜行便なので東京までのフライトは時間がたつのが早い。
またジェット気流の影響で所要時間は8時間半と大幅に短かった。成田には早く到着しすぎて予定のターミナル搭乗口にはまだ別の飛行機が止まっているとかで15分ほど待たされた。
成田空港朝10時、定刻通り到着。
今回のアエロフロートによるコーカサス旅行は無事無了。
【おわり】
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