2019/06/20 - 2019/06/25
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「フラーケのバイキングたちは,今,ひどい目にあっています!
どうもうな敵にとりかこまれ,救援を期待することも,包囲を突破することもできないのです。故郷のフラーケは,はるか遠くのほうです。
バイキングたちは,城塞の内側にいますが,その城塞も,間もなくこわされてしまうにちがいありません。形勢は,絶望的です!
敵が一日じゅうおそろしいさけび声をあげているので,鳥たちはまわり道をして巣にもどり,モグラまでもが地中深くもぐってしまいました。」
「さて,みなさん,ビッケたちは,いったいどうなっているんでしょう。
なぜフラーケのバイキングたちが,外国の城塞の中にいるのでしょうか?
実は,かれらは救援に来ているのです。
以前の遠征で,バイキングはブルガリア人を助けたことがありました。覚えていますか? 町の人の食料をみんなとりあげてしまったなまけもので大食漢の王さまを,ビッケたちが退位させたのでしたね。
ブルガリア人たちは,ビッケに感謝をあらわすため,名誉王になってもらい,純金でできた王冠をさしだしました。ビッケは『いちばんかしこい人だ』と,みとめられたのです。
さて,ブルガリア人は,ブルドゥース人が攻めてくるという,スパイの報告を得ました。そこで,ブルガリア人は,たまたまロシアに来ていたフラーケのバイキングとビッケに,このことを知らせました。フラーケのバイキングとブルガリア人とは,週に一回伝書バトをとばして,れんらくをとりあっていたのです。
バイキングたちは,友人を助けようとかけつけました。かれらはバイキング船を親切なロシア人にあずけ,陸路をとってやってきました。」
「間もなくブルドゥース人がすがたを見せると……バイキングたちは,ブルドゥース人の羊の毛皮服と,のびほうだいのひげを目にして,城塞の中へと逃げこんでしまいました。あんなに元気のよかったチューレは,今までずうっとのどがいたかったので休ませてくれ,といいだしました。」
「本当のことをいうと,みんなも,ブルドゥース人と戦わなければならないと知って,胸がむかついてきました。
幸いなことに,城塞は高く,がんじょうにできていたので,この城塞をたてに,バイキングたちは,二週間もたてこもってきたのです。」
「ブルドゥース人の首領は,カミナリ声のブルレットという,ものすごい力持ちの大男です。どなり声がまるでカミナリのようにひびきわたるので,〈カミナリ声のブルレット〉というあだ名がつけられていました。おこり出すやいなや,部下たちの耳がいたくなるほどの大声をあげるのです。
ブルレットは,フラーケのバイキングたちがいつまでも抵抗するので頭にきています。
『お湯なんかかけやがって! やけどをしてしまった。それに首すじのあかが落ちたのも気にくわん!』
ブルレットがどなったので,テントが吹きとばされてしまいました。百人もの男たちがテントをなおしにかかりましたが,心の中では,『戦争中だというのに,こんなよけいなことまでやらされて,もうまっぴらだ』と思っています。でも,口ごたえでもしようものなら,たいへんなことになるのです。ブルレットは,とんでもない暴君だったのです。」
「ビッケは,こんなブルレットをとっちめてやろうと思いましたが,歯のいたみは少しもやわらぎません。考えをまとめることも,火花をちらすこともできないのです。」
「ハルバルがいいました。
『これはたいへんなことになった! もうやることは一つ,男として死ぬまでいさましく戦うのだ。バイキングは,戦ってこそ真のバイキングだ。だが……無念だ』
『父さんの話って,聞いてると悲しくなるよ』
と,ビッケはいいました。
『だって,いつも男らしく死ぬっていうばかりなんだもん』
『なんだと? ビッケ!』
ハルバルはおこりました。
『おれたちはバイキングなんだぞ』
『もちろんさ,父さん』
ビッケはいいました。
『だけど,男だろうが,女だろうが,死ぬのは同じじゃないかなあ』
『もういい,ビッケ』
ハルバルは,大声でいいました。
『おまえは,こういうことを理解するにはおさなすぎるんだ』
『ふうん』
ビッケは,いいかえしました。
『お父さんったら,どうしていいかわからないから,大声でぼくをおこっているんだ。でも,ぼくは,死ぬよりももっとバイキングらしいやり方があると思うな』
『たとえば,どんなことかな?』
ハルバルは聞きました。
『この場をうまく切りぬけるのさ』
と,ビッケはいいました。
『そして,元気にフラーケに帰って,作物の刈り入れをするんだ。でないと,お母さんたちや,ぼくの友だちは,みんな飢え死にしてしまうもの』」
◆◆◆
「――うまくいった……と,ビッケは思いました。
敵は,不意をうたれて,戦う気力をなくしてしまったようです。かれらは,まさかこんな結果になるとは,ゆめにも考えていませんでした。本来なら,バイキングを一気におしつぶし,略奪のかぎりをつくしているはずだったのです!
なかでも,いちばんおどろいたのはブルレットでした。三分間というもの,かれは口をとじたままでした。去年ブルドゥース国を出発してからというもの,今日の今日まで,こんなに長い間だまっていたことは一度だってなかったのです。
これにひきかえ,バイキングたちの間には,勝利の声があがりました。ついに敵をけちらし,故郷のフラーケに帰れるという希望が持てるようになったのです。」
「さて,カミナリ声のブルレットは,どうなったでしょうか。
口をつぐんでいたのもほんのつかの間,三分後,かれはまた以前のブルレットにもどって,どなりはじめました。
『こんなにやられたのは,運が悪かったからだ』
とかれは弁解しました。物事がうまくいかないと,すぐ責任をのがれようとするのです。ほら,かれのような人って,どこにでもいるでしょう。思ったとおりに事がはこばないと,ほかの人のせいにしたり,いいわけをしたりする人が。ブルレットもその中のひとりでした。何か失敗すると,それは,いつも,不運だったからだということでかたづけてしまうのです。
ブルレットは,小さいときからそうでした。
ほかの子どもたちと,野球をして遊んでいても,自分以外のものが勝つことを,みとめません。自分よりすばやかったり,得点が多かったりすることは,ゆるせないことだったのです。自分がベースから数メートルもはなれているのに,だれかがベースに達しようものなら,たいへんです。ベースなんかふんでないじゃないか,といいはりました! それでも相手がいうことをきかないとわかるや,ボールを持って家に帰ってしまうのです。
みんなの意見と自分の意見がちがうときには,みんなのほうがまちがっているのです。ボールを持って帰ってしまえば,みんなが遊べなくなることを知っているので,ブルレットはわがままほうだいにふるまえるのです。」
「さて,ブルレットは,バイキングに追いはらわれたのは不運ためだとどなりはじめました。毎日,こんないいわけを聞かされている部下たちはたまりません。」
ルーネル・ヨンソン作/エーヴィット・カールソン絵/石渡利康訳「ビッケと木馬の大戦車」(評論社)より
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
前回からの続き。
次は「旧市街Ⅱ」から「アセノフ地区」へ徒歩で向かう。 -
新市街や旧市街からアセノフへ市内バスで行くなら110番など。バス停に路線図が掲示されているので分かりやすい。
ただしダイヤは薄いので,旧市街から乗るのであれば,バスを待つより歩いたほうが早いかも。 -
旧市街からアセノフ方向を眺めるとこんなふうに見える。旧市街のほうが標高が高い。
-
ぐっと目を凝らすと,ヤントラ川に石造りの堅牢な橋が架かっているのが見える。
これは国道の橋で,その向こうにある金色屋根の鐘楼を持つ教会が「ヴェリコ・タルノヴォの聖母被昇天教会Успение Богородично」だ。
これを目標にして国道沿いに歩いていくとアセノフにたどりつく。 -
大聖堂から徒歩20分ほどで,聖母被昇天教会の東側前面に到着。
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アセノフは,教会に限らず民家もいい。
古い家屋にエアコンを取り付け,バラを植えて,現在も人が生活している。
屋根の上にちょこちょこと頭を出している採光窓と煙突が愛らしい。 -
この木造のテラスも,時間がたてばいい味を出してくるだろう。
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旧市街は,当然「市街地」の街並みだが,そこから大して離れていないアセノフは,にわかに緑豊かな「集落」の風景に転じる。
これもアセノフの魅力のひとつなのかもしれない。 -
アセノフの外れにある吊橋。
ツアレヴェッツ吊橋 建造物
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聖ディミタル教会。聖デメトリオスの伝説などについてはクチコミ↓を参照されたい。
聖デメトリオスは,なぜか公衆浴場に拘禁され,そこで槍に刺されて処刑されたといわれている。聖デミタル教会 寺院・教会
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そういえば,アセノフには浴場跡もある(シシュマン浴場Шишманова баня)。
バルカンで浴場跡というとオスマン帝国のハンマームが多いのだが,ここは第二次ブルガリア帝国時代のもの。
浴場にはボイラー室,浴室4つ,更衣室が備わり,ローマ帝国のテルマエを思わせる施設だったようだ。 -
ヤントラ川にかかる木造のウラディシュキ橋。
かつては関所であり,税関が設けられていたという。 -
このあたりから見るツァレヴェッツの丘が,もっとも絵になっているのかもしれない。
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橋の欄干には,お決まりの南京錠。
まあ,これくらいの数なら「微笑ましい」で済ませられる。 -
最後に「(セバステの)聖四十殉教者聖堂Свети Четиридесет Мъченици(40人教会)」を訪れた。
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ヤントラ川の畔にあり,広い庭園を伴っている。
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聖四十人殉教(致命)者の伝説についてはクチコミを参照されたい↓。
40人殉教者教会 寺院・教会
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内部では,フラッシュと三脚の使用は禁止されているが,カメラ撮影は禁止されていない。
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入ると,床は大理石だった。外は暑いが,中の空気はひんやりとしている。
イコノスタシスがあり,厳かなBGMが静かに流れている。 -
続きの間には,破壊を免れたフレスコ画の一部が展示されている。
この聖堂には,19世紀半ば以降にモスクにされていた歴史がある。 -
聖堂の石柱に,碑文が刻まれていた。
これは「イヴァン・アセン2世のタルノヴォ碑文Ivan Asen II's Tarnovo Inscription」と呼ばれるもので,第二次ブルガリア帝国最盛期のツァーリ(皇帝)であったイヴァン・アセン2世が,エピロス専制侯国(=第四次十字軍にいったん滅ぼされた東ローマ帝国の亡命政権のひとつ)との間で起きたクロコトニツァの戦い(1230)に大勝したことを記念して刻まれたものである。
碑文はキリル文字で書かれている。ブルガリア教会スラヴ語の時代のものということになろうか。現在は使用されていない文字をいくつも碑文の中に見ることができる。 -
碑文の訳文が掲示されているのだが,ブルガリア語のみ。
この碑文の日本語訳については,根津由喜夫著「聖デメトリオスは我らとともにあり 中世バルカンにおける『聖性』をめぐる戦い」(山川出版社)に詳しく書かれている。
碑文のことに限らず,これからタルノヴォを訪れようとしている人には一読をお勧めしたい。専門書なのだが,聖デメトリオスを軸に中世ブルガリアと周辺国の歴史物語を一気に読むような面白さだ。 -
聖堂内の石柱には,この聖堂を建立する際に,イヴァン・アセン2世が第一次ブルガリア帝国の遺構から移築したものも含まれている。
そのひとつは「オムルタグのタルノヴォ碑文Omurtag's Tarnovo Inscription」と呼ばれるもので,オムルタグは第一次ブルガリア帝国のハーンである(在位814-831)。碑文の内容は,自らの業績(宮殿の建設)を誇示するものにとどまらず,この碑文を読む未来の人びとへのメッセージにもなっている点が興味深い。
この碑文は822年頃のものといわれている。古代教会スラヴ語が成立する以前の時代のもので,ギリシア語で書かれている。 -
聖堂内には,ブルガリアでキリル文字を考案したといわれるオフリドの聖クリメントのイコンも祀られていた。
キリル文字は,第一次ブルガリア帝国シメオン1世の治世(893-927)に,当時のブルガリアの都プレスラフで成立したと考えられている。
すでにコンスタンティノス・メトディオス兄弟(聖キリル・聖メトディ)によってグラゴール文字が考案され,モラヴィアにおいてスラヴ人のスラヴ語によるキリスト教典礼が整備されていった。
これを敵視したのが,モラヴィアやパンノニアへの影響力を強化したい東フランク王国の意向を受けたフランク教会である。兄弟の死後,その弟子たちは激しい弾圧(異端宣告など)を受けて根こそぎ追放され,焚書が行われ,上記の聖クリメントも奴隷としてベネツィアに売られた。
そんな彼らに保護を与えたのがシメオン1世である。命からがら逃げのびた弟子たちは,ブルガリア帝国の都市オフリドやプレスラフに拠って,スラブ人のスラヴ語によるキリスト教を確立させていった。
当時,スラヴ人が話していた共通スラヴ語は文字を持たなかったとされている。おそらく,文字を必要とするような地位にあったスラヴ人は,当然にギリシャ語やラテン語を身につけており,必要がなかったのであろう。そしてビザンツ帝国に近い地域では,一般のスラブ人の間に,スラブ語をギリシャ文字で簡易に表記する実用的な方法が共有されていたに違いない。
ビザンツ帝国に地理的に近いプレスラフで,スラヴ語によるキリスト教を布教していくに際して,兄弟の弟子たちは,地元で広く使われていたギリシャ文字によるスラヴ語表記の習慣をそのまま取り入れることにした。プレスラフのスラヴ人にとっては,難解なグラゴール文字を一から覚えるよりも,そのほうがずっと受け入れやすかったからだ。この,ギリシャ文字を仮借したスラヴ語の文字が,今に続く「キリル文字」の起源である。
想像するに,プレスラフにいた弟子たちは,おそらくキリル文字を「経過的な措置」のつもりで導入したのではないか。まずはこの地でスラヴ語による典礼が受け入れられることが最重要だから,受け入れられやすい方法をとるのはやぶさかではない。しかしグラゴール文字は,偉大な師とわれらが命を懸けて創り,守ってきたものだ。正統はあくまでもグラゴール文字のほうだ‥‥。 -
聖堂の一角に,献灯をする燭台があった。
-
こういう仕組みは,宗教の違いを超えて,万国どこでも共通のようだ。
(つづく)
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