2019/06/15 - 2019/06/19
249位(同エリア1722件中)
五黄の寅さん
2020年コロナ禍の中、旅行にも行けず暇持て余し。思いついて休止中の4トラ投稿をする事に。
一年以上経過したタイ旅行の記録を残そう。
タイ旅行初めての友人と二人で出発、バンコクで現地在住一名、マレーシア在住一名の二人と合流して四人で観光。
個人的には5年ぶりのバンコク旅行。
旅程 6泊4日(機中2泊)
6月15日
関空発 0:55 JAL727
バンコク着 4:40
電車の走るメークロン市場 アンパワー水上市場ボート遊覧 ワット・アルン
ナイトクルーズ
6月16日
ワット・ポー、ワット・プラケオ
アユタヤ 山田長政記念館
6月17日
ワット・ベンチャマホビット ワットスタット
バーンアルン運河アートハウスで人形劇を見る予定が休みやった
ワットパークナム
6月18日
ワット・サマーン・ラッタナーラーム (ピンクのガネーシャのいる寺院)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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この旅行記では6月16日午後のアユタヤ散策の様子を紹介します。
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アユタヤに到着後、寺院を観光する前に昼食を摂る事にします。
チャオプラヤ川のほとりにあるタイ料理の店、Saitong Thai Restauratに入ります。 -
この店のタイ料理は辛い物が苦手な私にも合う料理が色々あるので、アユタヤでは何時もこの店にしてます。
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店の奥の川沿いの席に座ります。
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まずは野菜と肉の取り合わせ料理を何種類か頼みます。
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さっぱりとしたパイナップルの酸味が肉と野菜に合います。(^^)/
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野菜の煮物料理のこの一品などは和食の料理の様です。
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美味しい食事で大満足。
一休みしてアユタヤの観光案内には必ず出て来る寺院遺跡ワット・マハタートに向かいます。 -
アユタヤ遺跡公園の入場料は50バーツ(¥170程)
チケット表 -
チケット裏面
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アユタヤはご存知のようにビルマ軍に攻撃され徹底的に破壊されました。
後ほど出て来る写真の様に仏像はことごとく首が切断されています。 -
この仏像の首が奇跡的に菩提樹の根に取り込まれて、あたかも菩提樹と一体化した姿を見せているのが、有名なこの木です。
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にこやかに微笑みをたたえる仏の顔を拝むと、我々の顔もにこやかにしてくれました。
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復元した仏像も何体か見る事ができます。
建物も破壊され、壁の一部が残るのみ。向こうの塔も焼かれてしまった姿で残っています。 -
破壊される前は美しい姿の塔が建ち並んでいたのでしょう。
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簡単にワット・マハタートの歴史を説明しましょう。
2代王ラームスワン(在位1369~1370)が作ったという説と、1374年に3代王ボロムラーチャー1世(在位1370~1388)が作ったという説があります。 -
初期アユタヤ時代(1351-1491)、ここには44mの仏塔がありました。
1633年の修復時には高さが増され、50mの高さにまでなりましたが、その後の1767年にビルマ軍の侵攻により破壊されています。
完全に崩れたのは1911年。1956年の発掘調査時にその地下から数々の仏像や宝飾品が見つかっています。
現在チャオサームプラヤー国立博物館に展示されています。 -
破壊された塔
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こちらにビルマ軍に首を切断され持ち去られた仏像が並んでいます。
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アユタヤは水運を生かした水の都として栄え、17世紀にはペルシャやヨーロッパとも貿易を行うアジア屈指の国際都市でした。
しかし、1767年のビルマ軍侵攻により敗れて、王朝は滅亡。 -
寺院や宮殿、仏像は破壊され廃墟と化しましたが、現在でもその姿を見るために多くの観光客が訪れています。
1991年に世界遺産として登録されています。 -
ワット・マハタートの次に訪れたのはワット・ヤイチャイ・モンコン。
遠くからでもひときわ目立つ高さ72メートルの大仏塔で人気があるようです。
大仏塔には、アユタヤ王朝の独立を回復した勝利にちなみ、「プラ・チェーディー・チャイ・モンコン」
(“吉祥なる勝利の仏塔”という意味)と名づけられ、現在の寺院名称はこれに由来しています。 -
車で10分程走れば到着。
https://www.thailandtravel.or.jp/wat-yai-chai-mongkon/ -
1357年、アユタヤを建都した初代ウートン王がセイロン(現スリランカ)に留学中の修行僧たちの瞑想のために建てた寺院で、別名を「ワット・プラ・チャオプラヤータイ」といいます。
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敷地内には、大きな白い涅槃仏(ねはんぶつ)の姿もあり、仏像の足の裏にコインを貼ると、願いがかなうとされるパワースポット。
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漆喰で作られた真っ白な涅槃仏です。
日本にも涅槃仏はありますが、これほど巨大なものは存在していません。 -
遠くからでもひときわ目立つ高さ72mの仏塔は、1592年に19代ナレスワン王が象にまたがり一騎打ちでビルマ王子を敗り、ビルマ軍との戦いに勝利した記念の塔です。
大仏塔は、円すい型で、先がとがったデザイン。これは、古代インドのストゥーパに起源を持ち、スリランカ(セイロン)で発展したスリランカ建築様式の流れをくむもの。
釣鐘型の仏塔で、タイでは先がとがった仏塔のことを、すべて「チェディ」と呼んでいます。 -
ブッダの遺骨を納め、仏教のシンボルとなる建物。
スリランカ様式の中央の仏塔は、参拝者と観光客が上まで行けるようになっています。
塔の上部には大量の金箔がはられた仏像があります。
階段は全体的に手すりは無く、所々欠けたり、窪んでいたりします。
また、途中からはかなり幅が狭くなりますので、登り降りは足元に気をつけましょう。 -
仏塔の周囲を歩くことが出来ます。
大仏塔のまわりには、たくさんの座仏像の姿が見られます。 -
正面から見て真後ろ側に来ると、このように真っ白な仏像があります。
白い仏像や、黄色い袈裟をかけている様子は日本では見られない姿です。 -
白い仏像はアユタヤの中でもあまり多くはありません。
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古い歴史があり、数多くの見所がある世界遺産アユタヤの中で、高い仏塔と白い仏像があるパワースポットがワット・ヤイ・チャイ・モンコンです。
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アユタヤ遺跡の仏像は、戦争で頭部を切り落とされた仏像が多いのですが、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンは、中心部から外れている場所にあるため、比較的に破壊が少なく、復元された仏像も多く並んでいます。 -
アユタヤ観光ではぜひとも訪れてほしい場所ですので、足を運んでみて下さい。
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次に訪れたのは日本人町の跡とそこに在る山田長政記念館です。
日本人町の跡 の碑。 -
日本人町とは、14世紀~18世紀までアユタヤ王朝に存在していた町で、移民としてアユタヤへやって来た日本人達が集まり、貿易や傭兵として生活をし、最盛期には2000人程の日本人が住んでいたと言われています。
最終的に日本人町は焼き払われてしまいますが、その跡地に記念館が建ち、日本人町の時代を知ることが出来る施設となっています。 -
敷地内にあったアユタヤの地図なのですが、日本人町は地図の範囲から外れていて、
右下の方向にあったと記されています。 -
敷地の中は日本庭園や植え込みなど、整備されていて気もちが良いです。
敷地内には鳥居もあり、 -
石灯籠や白砂が敷いてあります。
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この景色を見ていると、ここがタイである事を忘れてしまいそうになります。
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しばし日本庭園を眺めていました。
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山田長政の記念館があります。
山田 長政は、江戸時代前期にシャムの日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で通称は仁左衛門。
記念館には、当時の生活風景を再現した部屋などが展示されていました。 -
敷地はチャオプラヤ川沿いにあります。
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山田長政の像。
彼は日本人町の頭領でもあり、800人の日本人義勇兵の隊長として活躍をしました。 -
記念館の部屋で山田長政の生活の説明映像も観ることが出来るので、より理解が深まります。
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日本人町の跡 の碑の左に在る施設の中に入ると、アユタヤ、日本での時代背景を確認できるヒストリーが展示されています。
オランダで出版され残っていた当時のアユタヤの地図も展示されており、当時の日本人町の場所を確認することが出来ます。 -
遥か昔に海を渡ってやってきた日本人がアユタヤに移り住み、最終的には焼き払われ残った者もタイ文化の中に溶け込み日本人町は消滅してしまいましたが、この施設があることで後世にその歴史が受け継がれていくことに深い感謝の気持ちを持ちました。
アユタヤを訪問される際は、ぜひ一度足を運んでみて下さい。
旅行記 4 マイナーな寺院とバーン・アルン運河散策 に続きます
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