2017/10/28 - 2017/11/05
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スロベニア・クロアチア2508kmドライブ⑧プーラ Pula
2017年の秋、1週間の休みを取り、クロアチアまでドライブしたときのものです。少し古いので記憶を辿りながらの旅行記作成です。旅行は計画を立てているときが一番楽しいとも言われますが、なんの、振り返るのも楽しい。
この旅行記は7~8日目のプーラです。ローマ時代の遺跡が残るイストリア半島の先にある都市。ここは、もう一度、時期を変えて来たいと思った都市のひとつ。写真は円形闘技場。保存状態が比較的いい。
<日程>
10/28 ①ブレッド湖 Blejsko jezero (Lake Bled)
10/29 ②プリトヴィツェ湖群国立公園 Plitvička jezera
10/30 ③スプリト Split
10/31 ④ドゥブロヴニク Dubrovnik
11/ 1 ⑤ドゥブロヴニク Dubrovnik
11/ 2 ⑥シベニク Šibenik
11/ 2 ⑦トロギルTrogir
11/ 3 ⑧プーラ Pula
11/ 4 ⑨ポレチ Poreč
11/ 5 ⑩ポストイナ Postojna
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ここがプーラでの宿泊場所、アパートメント。入り口が開いているところが部屋。
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中に入るとこんな感じ。ロフトになっていて、ベッドは上にある。キッチンあり。奥にシャワー、トイレ。快適です。唯一の心残りはここに電源供給用のUSBアダプターをコンセントに指したまま、忘れてきたこと(泣)。
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プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
まずは、円形闘技場へ。少し離れているが徒歩圏内。
ほぼ閉館時間だったので、中に入るのを諦めて、外から見学。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
<wikiから>
プーラは先史時代から人が暮らしており、近くの洞窟からはその跡が見つかっている。紀元前1万年に遡る。都市が最初に恒久的な居住地として記録されたのは、紀元前10世紀に遡り、古代イストリアに住んでいたイリュリア人らによって築かれた。その後、イストリア半島は紀元前177年にローマ人によって征服された。この時からローマ化が始まった。円形劇場 劇場・ホール・ショー
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プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
ローマが東西に分裂、この地は西ローマの管轄になったが、東ゴート族(ゲルマン人のの侵入により西ローマ帝国は崩壊。一時的に東ゴート王国の支配に入る。
ここからが古代が終わり中世の始まり。東ローマ帝国、西ローマ帝国は便宜上、後世の人がつけた国の名前で、同じ行政システムの中で広大な領土を分けただけ。元の西ローマ帝国の領土に(ローマ人にとって)蛮族が侵入し、それぞれの場所で独自に発展していくが、共通して、カトリックを信仰しローマ化していく。次第に教皇の権力が強くなる。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
このころに、蛮族の言語と俗ラテン語(ローマ人が話していた言葉)が混じりあって、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロマンシュ語といった現代のロマンス諸語の起源となった。また俗ラテン語は、英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
東ゴート王国のゴート族を追い出し、プーラは東ローマ帝国勢力下にはいった。(540年-751年)。この時代にプーラは繁栄し、東ローマ艦隊の主要港となった。大聖堂と聖マリア・フォルモサ教会は、総督府時代からある建物である。
スラヴ人(クロアチア人など)が町周囲に初めてやってきたのは7世紀である。しかし彼らは実際にプーラに定住したことはなく、市は常にローマ都市であり続けた。
788年以降、プーラはカール大帝の治めるフランク王国の支配を受けた。1077年まで、プーラは選挙で選ばれたイストリア伯の本拠となっていた。1148年にヴェネツィア人らに市は征服され、1150年にはヴェネツィア共和国の所有となった。その後数世紀にわたり、市の運命はヴェネツィア勢力ときつく結ばれたのである。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
1238年、ローマ教皇グレゴリウス9世は神聖ローマ帝国に対抗してジェノヴァ共和国とヴェネツィア間の同盟を結んだ。そしてその結果ピサとも対抗することになった。プーラがピサの側についたことから、1243年にヴェネツィアによってプーラは略奪にあった。1267年、1397年の二度、ジェノヴァが海戦でヴェネツィアに敗退するとプーラは破壊された。プーラはゆっくりと衰退していった。ローマ系の旧家セルギ家とイオノタシ家という地元の名家による内部抗争と、ヴェネツィア=ジェノヴァ間のプーラと港を巡る争いによってプーラの凋落はいっそう進んでいった(13世紀終わりから14世紀)。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
1331年にヴェネツィア共和国がプーラを掌握し、その支配は1797年まで続いた。14世紀から16世紀、プーラはジェノヴァ、クロアチア=ハンガリー王国軍、ハプスブルク帝国軍から攻撃と占領とを受け続けた。遠隔の中世定住地と町は数カ所が破壊された。戦争に加え、ペスト、マラリア、腸チフスの大流行が市を荒廃させた。1750年代には、わずか300人の市民が市にいるだけであった。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
1797年、ナポレオン軍に敗退したせいでヴェネツィア共和国が崩壊し、市はハプスブルク家(オーストリア)支配を受けた。フランスが1805年にオーストリアを敗退させた後、プーラはフランス軍の侵攻を受けている。フランス第一帝政の傀儡イタリア王国は、フランス帝国の地方行政区画イリュリア州(Provinces illyriennes)を基礎にして直接すえられたものだった。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
1813年、プーラ及びイストリア半島はオーストリアのもとに戻った。のちにオーストリア=ハンガリー帝国となる。プーラは、ハプスブルク家の直轄領となり、この時代にプーラは繁栄を取り戻した。1859年からプーラの広大な天然港はオーストリア軍の主要海軍基地、主要造船中心地となった。プーラは、消えゆく古代遺跡をもつ小都市から産業の町への変換を遂げたのである。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
(第一次世界大戦終了の)1918年にオーストリア=ハンガリー帝国(=敗戦国、ハプスブルグ家の崩壊)が崩壊すると、プーラとイストリアは和平条約のもとイタリアへ全て与えられた。この時代は、経済・政治ともに不穏な時代であった。ベニート・ムッソリーニのファシスト政権下、非イタリア人、特にスラヴ人住民は政治的・文化的抑圧を受け、多くがイストリアの都市から逃れていった。1943年9月、イタリアが第二次世界大戦に降伏するまで、その支配が続いた。その後は、ナチス・ドイツ軍が、退却するイタリア軍兵士らによって生じた空白地帯を埋めた。ドイツ軍政時代、プーラは最悪の時期であった。パルチザンのゲリラ闘争を疑われた市民の逮捕、追放、処刑が行われたのである。一方で、連合国側の悲惨な空襲が繰り返され、プーラを全体的に破壊したのだった。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
1945年から数年間、プーラは国連管理下にあった。イストリアは占領地として分割統治されており、1947年9月15日に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属するクロアチア社会主義共和国に公式に統合された。
プーラがユーゴスラビアへ併合された際、人口の多数を占めていたのは90%以上いるイタリア人であった。しかし、1947年に和平条約が締結されると、1945年以後も残っていた人々もプーラを去っていった。1946年12月から1947年9月にかけ、イタリア系住民らの多数がプーラを後にした。1947年から1953年の間、イタリアの文化的遺産(碑文、象徴など)はほぼ完全にプーラの記念物から取り除かれた。
直後に、イタリア語名のポーラから、市名は公式にクロアチア語のプーラに改名された。1992年のユーゴスラビア解体後、プーラは新たに独立したクロアチアの一部となった。
1946年の調査では、プーラのイタリア人は人口の90%近くを占めていた。今ではクロアチア人(70%)の都市になっている。
以上、Wikiより。プーラだけのものだけど、複雑。クロアチア全体だとさらに複雑。 -
双子門
Twin Gate
Dvojna vrata
ということで、ここには古代ローマの遺跡が残っている。中央に丘があり、砦があり、その周りを囲むように市壁が築かれていた。
これは、古代ローマ時代からの市壁に開けられた10箇所の門のうちの1つで、2世紀から3世紀頃の建設。現在はイストリア考古学博物館の正面ゲートとして使われている。ツインゲート 建造物
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Roman Octagonal mausoleum
Rimski Oktogonalni mauzolej
あまり情報がないが、ローマ時代の霊廟の建物の土台だけのよう(1世紀)。1941年に発見された。
In close proximity to the Twin Gates, Archaeological Museum of Istria and the city walls is the Octagonal mausoleum. This eight-sided mausoleum dates from the 1st century and only the remains of its lower part are visible today. Archaeologists believe that a tomb was located in its central part and the entire octagon structure had a roof construction. The mausoleum is believed to have been over nine meters high, since only the lower part is about 1.5 meters high.This mausoleum was discovered in 1941. -
Roman Octagonal mausoleum
Rimski Oktogonalni mauzolej
その土台の上にはレリーフのある石が置かれていた。 -
双子門
Twin Gate
Dvojna vrata -
ヘラクレス門
Gate of Hercules
Herkulova vrata
古代ローマ時代からの市壁に開けられた10箇所の門のうちの1つで、紀元1世紀の建設。アーチの最上部にヘラクレス神の頭部とされている浮き彫りがある。ヘラクレス門 建造物
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セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca
この門が町への入り口。黄金の門とも。プーラで重要な立場にいたセルギウス家の栄誉を讃えて建てられたもの。(29-27BC) 凱旋門は、ヘレニズム様式をもつコリント式で建てられ、その方法と装飾の両方に小アジアの影響がみられる。もともと、市壁と市門Porta Aureaに隣あって建てられていたが、19世紀に、街の拡張の為に、その壁と市門が取り壊された。その為、門側でみえなかった東側(写真で見える側)にはそれほど、彫刻で装飾は施されていないが、西側(町側)には装飾が施されている。(公式HPより意訳)セルギ門 建造物
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セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca
凱旋門の隣にあるカフェ「Ulysses(Uliks)」(ユリシーズ)の一角にあるJames Joyceの銅像。20世紀を代表する、アイルランドの詩人、短文小説家(1882-1941)。彼はここで英語の教職をしてい(1904-5年)。当時はプーラは、オーストリア・ハンガリー帝国領。
「Ulysses(ユリシーズ)」は彼の代表作の名前。ウリクス バー
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アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram
しばらく商店街を歩くと市庁舎前の広場に出る。そこに闇夜にひっそりと佇む、このローマ時代の神殿が現れる。アウグストゥス皇帝の死後に、紀元前後(2BC-AD14)に建てられたローマ神と初代皇帝アウグストゥスに捧げられた神殿。第二次世界大戦時1944年の連合軍の空爆により完全に破壊されたが、その後1945-7年に修復された。アウグストゥス神殿 史跡・遺跡
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アウグストゥス神殿と隣は市庁舎。
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市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula
現在は市庁舎。昔から、この建物は行政を行う上で重要な役割を果たしてきた。
プーラが自由自治体だったときに、宮殿は広場(フォーラム)に建てられ、その為の議席がありました。その後、ヴェネツィア支配の間、それは公爵と教会長の議席であり、現在に至るまでは、市長の議席があります。何世紀にもわたって(10~16世紀まで)追加で建築された結果、ロマネスク様式からルネサンス様式までの建築様式を稀な形で組み合わせた建物になりました。 16世紀に復元されたファサードに建てられた碑文から、1296年の共同宮殿の建設をさかのぼることができ、その年より以前にここに自由自治体の建物があったことから、その年の建設は、最初の大規模な再建と増築であったとされています。(公式観光HPより意訳)市民会館 建造物
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プーラ大聖堂
Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije
6世紀に建てられ、10世紀に拡張された。ローマ時代からキリスト教徒が祈りを捧げる場であった。ジェノヴァ、ヴェネツィアの攻撃で破壊された後、15世紀にほぼ完全に再建された。ロマネスク、ビザンチン様式の名残が見られる。ファサードはルネサンス期に加えられた。ここからすぐに先に海がある。Cathedral of the Assumption of the Holy Virgin 寺院・教会
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フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
そこから、登り坂を歩き、砦の方向に歩く。とても暗く、人気がないのでやや不気味。フランシスコ会修道院教会は13世紀後半に建てられた。現在の建物は1314年にロマネスク様式で建てられ、バラ窓はゴシック様式である。教会は石造りでシンプルだが、回廊があり、また、ローマ時代の遺物があちこちに展示されている。明日、また、来ます。この後、夜の小ローマ劇場(Malo rimsko kazalište)もいったが、照明がなく暗くてよくわかなかったので、晩飯の為、繁華街に戻ります。 -
といっても、あまり、レストランが開いていない。暇そうにウェイター同士で喋っているレストランを発見。店の中でなく、店に面した広場に設置したテントみたいなところの席を選ぶ。
Alighieri
Anticova ul. 1, 52100, Pula, クロアチアPiazza Dante Alighieri 広場・公園
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Alighieri
まずはクロアチアの代表的なビール、Ožujsko。ラガー。乾杯。 -
Alighieri
前菜。 -
Alighieri
シーフードのグリルってやつをたのんだ。日本人からすると薄味か。白身の魚に醤油をかけたい欲求に駆られる。今回は結構、シーフードで攻めてます。 -
Alighieri
やはり、レストランも含めて、町自体、イタリアっぽい雰囲気が混じっており、居心地がいい。ついつい、食後のコーヒーとデザートまで戴く。 -
セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca
アパートメントに戻ります。セルギ門 建造物
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セルギウスの凱旋門
Slavoluk Sergijevaca
今日の散策もこの凱旋門から。
昨日、一通り、歩いたので土地勘はばっちり。セルギ門 建造物
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凱旋門をくぐったあと、この商店街の通りを歩く。。。
誰もいない。朝、早すぎた? -
通りから外れて、昨日、見つけることのできなかったモザイクを探しに。黄色の建物が、昨日、晩飯を戴いたレストラン。Alighieri。
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Crkva Svete Marije od Milosrđa
この教会も古いなあ(建築様式から)。レストランの同じ広場に面している教会。 -
壁に3人の肖像。
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「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
しばらくうろうろしてようやく見つけた。途中、案内の矢印があって、その方向通りに歩いてきたのだが、最後は、えっ、こんなところにあるのという場所にあります。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
こんな感じで鉄格子越しでの見学になります。
3世紀ごろに作成された細かなモザイク画で、プーラの価値ある遺跡のひとつ。1枚だけですが、完全な形で残っており、繊細な装飾で見ごたえがあります。フロア モザイク 建造物
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「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
このモザイクは第二次世界大戦での爆撃のあと、セント・マリア教会の近くの古い住居跡で見つかりました。現在は旧市街の裏路地の目立たない場所に移され、直射日光の当たらない涼しい場所で鉄格子がかけられ、とても大切にされています。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
第二次世界大戦の爆撃後、モザイクのあるローマ時代の家々の遺跡が、聖マリアフォルモサ礼拝堂周辺の家のブロックの下で見つかりました。 最も印象的なのは、床のモザイクで、中央のフィールドには「ディルケーの罰(ディルケーの成敗)“The Punishment of Dirce”」の神話のシーンが描かれています。アムピーオーンAmphionとゼートスZethusはディルケーを怒り狂った雄牛に結びつけています。 このシーンは、大きな床モザイク(12 mx 6 m)の中央のフィールドにあります。 全体のモザイク構成は2つの等しいセクションに分割され、全体で40の装飾領域が動物の詳細(魚や鳥)の幾何学的パターンで占められています。このモザイクは、おそらく3世紀のローマ時代の家の中央の部屋の床を覆っていました。 発見された場所に保存されているため、ローマ時代の家の床の高さは、今日の高さから2 mほど下にあります。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
(英文も掲載しておきます。)
After the bombing of World War II remains of Roman houses with mosaics were found under the block of houses around the Chapel of St. Maria Formosa. The most impressive one is surely the floor mosaic with the central field presenting the mythological scene of the “Punishment of Dirce”(Amphion and Zethus are tying Dirce to an enraged bull, since out of envy Dirce had been cruel to their mother Antiope.) This figural scene presents the central field of a large floor mosaic composition (12 m x 6 m). The entire mosaic composition is divided into two equal sections with altogether 40 decorated areas dominated by geometrical patterns with animal details (fish and bird). The mosaic covered the floor of a central room of a Roman house, probably from the 3rd century. It has been preserved at the site where it was found, so that the level of house floors in the Roman times, which is 2 m below today’s level, is clearly visible. -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
これが、「ディルケーの成敗の床モザイク」(拡大)
ギリシャ神話。下にいる女性がディルケーDirce、双子のゼートスZethusとアムピーオーンAmphionは、母親アンティオペーAntiopeを虐待した彼女を牡牛の角に縛り付けて殺そうとする場面。
アンティオペーはリュコスの前妻だったがシキュオーンの王エポーペウスに穢され、リュコスに追い出された後にゼウスに愛された。アンティオペーはサテュロスに変身したゼウスとの間に子供(双子の兄弟アムピーオーンAmphionとゼートスZethus)を身ごもる。(※またまた、女好きのゼウス登場。万能の神ですが、トラブルメーカーです。)だが、父のニュクテウスは娘が身ごもったことを知るとひどく怒った。アンティオペーは父を恐れて逃げ、エポーペウスと結婚した。ニュクテウスは兄弟のリュコスにアンティオペーとエポーペウスを罰するよう頼んで自殺した。リュコスはシキュオーンを攻めてエポーペウスを殺し、アンティオペーをテーバイに連行したが、ゼウスが助け、アンティオペーは途中のエレウテライで双子のゼートスとアムピーオーンを産んで捨てた。その後、リュコスの後妻ディルケーは前妻アンティオペーとリュコスの関係を疑い、アンティオペーを捕らえた。捕らわれたアンティオペーはディルケーに虐待されたが、あるとき牢から逃げ出し、2人の子供たちのところに来て助けを求めたが拒否。再び、ディルケーに捕らえれる。彼らを育てた羊飼いは2人に彼女が母親だと教え、2人は後を追いかけてアンティオペーを救い、リュコスとディルケーを殺し、テーバイの王となった。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
現代でも普通に通用する模様。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke
幾何学模様が美しい。数学はこの時代に発展したことがうかがえる。 -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke -
「ディルケーの成敗の床モザイク」
Floor mosaic The Punishment of Dirce
Mozaik - Kažnjavanje Dirke -
1443年に刻まれたもの。
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アウグストゥス神殿と隣は市庁舎。
昨日の夜にも同じ構図で撮りましたが、改めて。フォロ広場 広場・公園
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アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hramアウグストゥス神殿 史跡・遺跡
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アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram
走る人が刻まれた墓石 紀元前1世紀の終わりから1世紀初め -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula -
市庁舎(共同宮殿、Communal Palace)
Pula-Pola City Government Office
Gradska uprava - Grad Pula
セイレーン。 -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
アウグストゥス神殿
Temple of Augustus
Augustov hram -
プーラ大聖堂
Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije
中には入れず。残念。
まだクリスチャンが迫害されていた時代(4世紀まで)から、すでにここに建てられました。時代とともに大きくなり、5世紀には現在見られる姿になっていました。祭壇の前、裏、祭壇の周りには、5世紀から6世紀の床モザイクの断片がまだあり、お金を払った信者の追悼碑文が残っています。
4世紀の初めから保存されている最古の教会の壁の遺跡は、外から見ることができます。後壁の下部はこの時代のものです。 1242年の火災により、教会は何度か再建されました。身廊の上部の窓はキリスト教の初期に建てられましたが、通路の窓には典型的なゴシック様式の特徴があります。
5世紀に、教会の前に十字架型の洗礼堂が建てられましたが、1885年に破壊されました。16世紀の初めに新しいルネッサンス後期のファサードが建設され、教会の前に17世紀の後半に鐘楼が建てられました(1671-1707)。円形闘技場からの石のブロックがその建設に使用されました。大聖堂の東にある現在の公園には、1657年まで、プーラの守護聖人-セントトーマスに捧げられた教会がありました。この教会も5世紀に建てられ、そのような2つの教会の複合施設はイストリアでは目新しいものではありませんでした。聖トーマス教会は、中世に破壊された後、再建されませんでした。(観光公式HPより意訳) -
1946年8月18日、プーラはヴェルガロラ爆発事件の舞台となった。これはその追悼記念碑。約70名死亡、負傷者100名。当時は連合軍の管理化にあったが、戦後、波で流されてきた弾薬をビーチに集めて処分を待っていたが、それが爆発。そのときに、ビーチにはイベントに参加しようと集まった海水浴客が多数いて、犠牲になった。
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路地を登り、プーラの町の中央のある砦を目指す。
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フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
ちなみに、入り口はこの道沿いにはなく、教会の横の道を降りていき、反対側から入る必要がある。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
市庁舎のあるフォーラムと上部の(砦を取り巻く)環状通りの間の丘の斜面には、14世紀に以前の文化施設の跡地に建てられた、アッシジの聖フランシスに捧げられた修道院があります。 フランシスコ修道会のコミュニティは、13世紀にプーラで最初に記録されました。 教会は、フランシスコ会の教えを具現化した堅固で簡素な建物であり、ゴシック様式の装飾品で後期ロマネスク様式で1314年に建てられました。 壁を構築するために使用された細かくカットされた石のブロックは、建設には熟練した建築家がかかわっていたことを語っています。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
1227年。さっきの説明とは食い違うが。それとも修道院(Samostan)の建物が1227年で、教会の建物が、1314年ということかな。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
回廊。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
ローマ時代のモザイクも存在する。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
なかなか面白そうなデザインなのだが、残念ながら欠落しており全体を見ることはできない。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje
教会は石造りで質素。 -
フランシスコ会修道院教会
Church and Monastery of St. Francis
Crkva i samostan sv. Franje -
小ローマ劇場
Malo rimsko kazalište
1世紀に造られたと考えられるローマ劇場。かつて古代ローマ時代にはこの劇場より大きなローマ劇場(未発掘)が存在したため、こちらを小ローマ劇場と呼んでいる。 -
小ローマ劇場
Malo rimsko kazalište -
小ローマ劇場
Malo rimsko kazalište -
小ローマ劇場
Malo rimsko kazalište -
小ローマ劇場
Malo rimsko kazalište -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
あぜ道を通り、城塞まで。。。。これで、プーラの町を中央の砦を中心に一周したことになる。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
ここが入口。
旧市街の中央の丘にそびえる。4つの堡塁を持つ星形の城。ローマ時代のカピトリウムの跡地に、14世紀ヴェネツィア共和国がフランス人建築家の案を採用して建てた。1961年からイストリア歴史博物館となっており、プーラやクロアチアの歴史を学ぶことができる。写真で見えている塔に登ることができ、そこからの360度の眺めで全体を見渡せる。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
ジュゼッペ・タルティーニ の展示をやっていた。
イタリアのバロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト。イストリア半島のピラーノ(現・スロベニア領ピラン)出身。
調べてみると、差音を発見した人とのこと。結合音の一種で、周波数の異なる2つの音を同時に鳴らした時に聞こえる、2つの音の周波数の差に等しい周波数の音である。 これは、うなりと同じだが聴覚器官の非直線性によって一つの音として認識されてしまう現象である。(wikiより)
参考リンク。
https://www.animations.physics.unsw.edu.au/jw/beats.htm -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
ここでは1920-30年代に、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、イタリア、ドイツの、ファシズムとナチズムと戦った歴史が展示してある。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
城砦の上を散策。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
塔の上からの眺め。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
プーラ円形闘技場(Amfiteatar u Puli)が見える。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress)
プーラ円形闘技場(Amfiteatar u Puli)の拡大。次の目的地はあそこ。 -
プーラ城塞
Kastel/mletačka utvrda
(A Venetian fortress) -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
プーラで最も有名で重要な記念碑。ローマ時代、かつて剣闘士の戦いの場所であったプーラのアリーナと呼ばれる。そのサイズと地理的な構成により、旧市街の城壁の外にある。ローマの壮大なコロシアムと同時に、ヴェスパシアヌス帝の治世中に1世紀に建てられました。ところで、イタリアでは、現在でも街頭の公衆便所をイタリア語で「ウェスパシアノ[vespasiano]」と呼ぶが、当時、尿は染料を塗った衣類を洗うのに効果(ポンポイ遺跡で説明あり)があり、売り物でもあったことから、彼は、トイレの汲み取り業者に課税して、 徴収したことに由来する。
The most famous and important monument, the starting and ending point of every sightseeing tour is the Amphitheater, popularly called the Arena of Pula, which was once the site of gladiator fights. It was built in the 1st century AD during the reign of Emperor Vespasian, at the same time as the magnificent Colosseum in Rome.円形劇場 劇場・ホール・ショー
-
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
この種の建物としては、世界で6番目に大きい円形競技場。紀元1世紀頃からおよそ80年の歳月をかけて、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの業績を讃えるため海を見下ろす高台に建設されました。闘技場を見下ろす位置に置かれたライオンの像は権力の象徴。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
平面図は楕円形で、長軸は約130 m、短軸は約100 mです。グラディエーターの戦いはアリーナと呼ばれる中央の平坦なエリアで行われましたが、観客は石の段の上に座ったり、ギャラリーに立つことができました。円形劇場には約20,000人の観客を収容できると考えられています。建設には地元の石灰岩が使用されました。中世には、騎士のトーナメントや見本市が開催されました。
The ground plan is elliptical, the longer axis measuring about 130 m and the shorter one about 100 m. Gladiator fights took place in the central flat area called the arena, while the spectators could sit on the stone tiers or stand in the gallery. It is believed that the Amphitheater could seat about 20,000 spectators. Local limestone was used for its construction. In the Middle Ages it was the site of knights tournaments and fairs. -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
現在、プーラ映画祭、さまざまなコンサート、オペラ、バレエ、スポーツ大会など、さまざまなイベントの会場となっています。収容人数は約5000人です。毎週夏の間、アリーナでは、歴史的および娯楽的なスペクタクル「Spectacvla Antiqva」の一部として剣闘士の戦いが催されます。
Today, it is the venue for many different events ? Pula Film Festival, various concerts, opera, ballet, sports competitions… since its capacity is about 5000 spectators. Every week during the summer months, the Arena hosts gladiator fights as part of the historical and entertainment spectacle “Spectacvla Antiqva”. -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
かつて剣闘士が使用していた地下通路は、現在、博物館になっていて、古代にイストリア半島で栽培されているブドウ栽培とオリーブの定期的な展示会を開催しています。展示品には、かつてオリーブオイルとワインの製造に使用されていた機械(ミル、プレス、容器)の復元と、オリーブオイルとワインの保管と輸送に使用されたアンフォラが含まれます。
The underground passages, once used by the gladiators, nowadays host a regular exhibition of viticulture and olive growing in Istria in ancient times. The exhibits include reconstructions of machines once used for the production of olive oil and wine (mills, presses, vessels) and amphorae used for storing and transporting olive oil and wine. -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
保存状態が良く修復もされていて、とても見応えのある美しい状態が維持されてます。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
アンフォラもしくはアンポラ(amphora、複数形は amphorae もしくは amphoras)とは陶器の器の一種で、2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を有する。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli
図面、黄色の部分は、剣闘士や猛獣が通った地下通路。 -
プーラ円形闘技場
Amfiteatar u Puli -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
さて闘技場をあとにして、ファーマーズマーケットを見学して、昼飯を食べよう。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
ガラクタ市に遭遇。これも見ていて楽しい。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
この建物には、鮮魚関係が入っており、2階は食堂になっている。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
建物の中に入ります。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
写真のメニューでここに決めた。
Furia -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
今日もシーフード。ここは安くてうまい!!
パンが柔らかいこと自体にも驚く。やはり、日本人向きだな。この国は。
Furia
ビールは、Karlovačko Retro。
Karlovačka Pivovara (Heineken Croatia) -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
一階の鮮魚コーナーをぶらつく。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
建物の外では、野菜、果物を売っている。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
アパートメント近くまで戻ってきました。
ドイツでお馴染みのスーパー、Müllerがある。今回の旅行では初めて見たのではないでしょうか。 -
City Market Pula
Gradska tržnica Pula
ガラクタ市で何か面白いものないかなと思いつつ、会話が成立しないだろうなあ。
後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地に向けて出発です。
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