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友人に誘われてペルシャツアーに参加しました。<br /> <br />イスラム教の国としては、インドネシア、マレーシア、2007年のエジプト、2010年のトルコに次いで5カ国目だったのではないかと思います。エジプト、トルコでは色々苦労したのですが、イランはとても気に入りました。<br /><br />まず①ガイドさんが良かった。押し付けがましくなく、決めつけず、かつどんな質問にも真摯に答えてくれました。<br />②人々が優しく親切でした。<br />③食べ物が口に合いました。<br />④自分の価値観イコール自分、と思っていたのですが、それは今いる環境で作られた価値観だと気付きました。より客観的に身の回りを見るようになったように思います。<br /><br />写真は人物文様のペルシャ絨毯。輸出用には少ないデザインですが、国内では人物文様はよく使われているそうです。<br /><br />以下は準備ほかの記録ですがすでに10年も経っているし、ツアーに参加の為ほとんどなんの準備もした記憶がありません。<br /><br />ビザは旅行社でお願いしました。イランのビザがあると2011年からは米国ESTA取得が出来なくなる、とのことですが、その前だったので何も考えてもいませんでした。私が頻繁に米国へ行っていたのは2005頃までで、その後はパッタリと行かなくなりました。米国の入国審査は2001年を境に劇的に厳しくなりました。同じ都市を年に3回くらい訪問するだけで別室で尋問されました。元々厳しかったイスラエル、サウジアラビアと同様、米国も過去の記録はしっかり残されていると思います。<br /><br />2010年頃はイランではほとんど個人旅行はできませんでした。特に女性1人旅は無理。旅行中に1人だけ個人旅行中の男子学生に会いました。聞くとトルコから陸路で入ったそうですがビザ取得に苦労したと言ってました。<br /><br />当時でさえ米国からの経済制裁の煽りを受けて、そして今はもっと影響は大きいと思うのですが、そういう国の国民は大変です。旅行者が激減していたのは政治によってツアーの催行が頻繁に中止になったりするからですね。<br /><br />ガイドさんも以前は軍関係の仕事をしていたようなんですが、仕事がなくなり観光ガイドをしているけれどそれもどんどん減っていると。国民は疲弊していると言っていました。<br />原子力爆弾の査察を受ければ良いのではないか、という質問に、なぜ原子力爆弾を大量に持つ国から言われなければならないのか。よく考えて欲しい、と言われてハッとしました。いかに米国に洗脳されていることか。<br /><br />イランはそういう訳で貧しいです。反面良いところがたくさん残っています。お金がないからか化学肥料の利用率が少ない。だから肉、野菜、果物などが美味しかったです。<br />旅行者が少ないので比較的良いホテルに宿泊でき、ホテルも空いていました。<br />イマーム広場やカシャーンの宮殿などではどういうわけかスター並みに一緒に写真を撮ってと言われました。<br /><br />イスラム教国へ行くと女性にはいくつかのハードルがあります。<br />①身体を隠すスカーフと長めの上着など<br />9月、ペルセポリスなどは炎天下での観光で、地獄でした。またモスクの中にはもっと厳しい規律があったりします。しかしですね、よく見ると、特に観光地では、足元は素足でサンダルの女性や恋人と手を繋いでいたり、と臨機応変な感じでした。<br />また同じツアーの中でピタッとしたパンツの方がいて、何度も注意されていました。基本腰が隠れるくらいの上着の着用が求められています。<br />②女性一人歩きはダメ<br />危険ということではないのですがイスラムでは非常識ってことでしょう<br />③都市から出たらトイレは自然でーだから人がいてもやたらに近づいてはいけません。砂漠や草原でじっと動かない人に注意です。<br />④ツアーに個人宅訪問するというのが入っていました。伺ったのは3階建てのお宅でした。トイレがイスラム式と西洋式二つありました。ツアー31名が一堂に座れるような広い居間のあるお家でした。しかし家は自分達で建てた、と言ってましたから建材の調達とかやはり苦労があるようでした。<br /><br />現金を使うのはお土産やさんくらい。ナッツ屋さんが人気でした。換金はバスの中で添乗員さんがやってくれたような。記憶が曖昧です。<br /> <br />携帯電話の普及率が高くて、しかし物流などは発達していないので、バスの運転手が観光地で待っている間に同じ出身の村の人から荷物を頼まれたりしているのを見ました。国民同士工夫してますね。

イラン 2010

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2010/09/16 - 2010/09/23

30位(同エリア1300件中)

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Sini

Siniさん

この旅行記のスケジュール

2020/05/19

この旅行記スケジュールを元に

友人に誘われてペルシャツアーに参加しました。

イスラム教の国としては、インドネシア、マレーシア、2007年のエジプト、2010年のトルコに次いで5カ国目だったのではないかと思います。エジプト、トルコでは色々苦労したのですが、イランはとても気に入りました。

まず①ガイドさんが良かった。押し付けがましくなく、決めつけず、かつどんな質問にも真摯に答えてくれました。
②人々が優しく親切でした。
③食べ物が口に合いました。
④自分の価値観イコール自分、と思っていたのですが、それは今いる環境で作られた価値観だと気付きました。より客観的に身の回りを見るようになったように思います。

写真は人物文様のペルシャ絨毯。輸出用には少ないデザインですが、国内では人物文様はよく使われているそうです。

以下は準備ほかの記録ですがすでに10年も経っているし、ツアーに参加の為ほとんどなんの準備もした記憶がありません。

ビザは旅行社でお願いしました。イランのビザがあると2011年からは米国ESTA取得が出来なくなる、とのことですが、その前だったので何も考えてもいませんでした。私が頻繁に米国へ行っていたのは2005頃までで、その後はパッタリと行かなくなりました。米国の入国審査は2001年を境に劇的に厳しくなりました。同じ都市を年に3回くらい訪問するだけで別室で尋問されました。元々厳しかったイスラエル、サウジアラビアと同様、米国も過去の記録はしっかり残されていると思います。

2010年頃はイランではほとんど個人旅行はできませんでした。特に女性1人旅は無理。旅行中に1人だけ個人旅行中の男子学生に会いました。聞くとトルコから陸路で入ったそうですがビザ取得に苦労したと言ってました。

当時でさえ米国からの経済制裁の煽りを受けて、そして今はもっと影響は大きいと思うのですが、そういう国の国民は大変です。旅行者が激減していたのは政治によってツアーの催行が頻繁に中止になったりするからですね。

ガイドさんも以前は軍関係の仕事をしていたようなんですが、仕事がなくなり観光ガイドをしているけれどそれもどんどん減っていると。国民は疲弊していると言っていました。
原子力爆弾の査察を受ければ良いのではないか、という質問に、なぜ原子力爆弾を大量に持つ国から言われなければならないのか。よく考えて欲しい、と言われてハッとしました。いかに米国に洗脳されていることか。

イランはそういう訳で貧しいです。反面良いところがたくさん残っています。お金がないからか化学肥料の利用率が少ない。だから肉、野菜、果物などが美味しかったです。
旅行者が少ないので比較的良いホテルに宿泊でき、ホテルも空いていました。
イマーム広場やカシャーンの宮殿などではどういうわけかスター並みに一緒に写真を撮ってと言われました。

イスラム教国へ行くと女性にはいくつかのハードルがあります。
①身体を隠すスカーフと長めの上着など
9月、ペルセポリスなどは炎天下での観光で、地獄でした。またモスクの中にはもっと厳しい規律があったりします。しかしですね、よく見ると、特に観光地では、足元は素足でサンダルの女性や恋人と手を繋いでいたり、と臨機応変な感じでした。
また同じツアーの中でピタッとしたパンツの方がいて、何度も注意されていました。基本腰が隠れるくらいの上着の着用が求められています。
②女性一人歩きはダメ
危険ということではないのですがイスラムでは非常識ってことでしょう
③都市から出たらトイレは自然でーだから人がいてもやたらに近づいてはいけません。砂漠や草原でじっと動かない人に注意です。
④ツアーに個人宅訪問するというのが入っていました。伺ったのは3階建てのお宅でした。トイレがイスラム式と西洋式二つありました。ツアー31名が一堂に座れるような広い居間のあるお家でした。しかし家は自分達で建てた、と言ってましたから建材の調達とかやはり苦労があるようでした。

現金を使うのはお土産やさんくらい。ナッツ屋さんが人気でした。換金はバスの中で添乗員さんがやってくれたような。記憶が曖昧です。

携帯電話の普及率が高くて、しかし物流などは発達していないので、バスの運転手が観光地で待っている間に同じ出身の村の人から荷物を頼まれたりしているのを見ました。国民同士工夫してますね。

  • 友人が探してきたペルシャツアーはこちら。クラブツーリズムのものでした。参加者は31名。3組を除いて1名で参加していました。<br /><br />成田空港、12:25集合。イラン航空801便。<br />スケジュール表を見ると北京経由でテヘランへ行ったみたいです。北京空港の記憶全くなし。北京から7時間のフライト。テヘラン到着は同日の23:30。<br /><br />到着前に、女性はスカーフと長袖の上着を着ました。

    友人が探してきたペルシャツアーはこちら。クラブツーリズムのものでした。参加者は31名。3組を除いて1名で参加していました。

    成田空港、12:25集合。イラン航空801便。
    スケジュール表を見ると北京経由でテヘランへ行ったみたいです。北京空港の記憶全くなし。北京から7時間のフライト。テヘラン到着は同日の23:30。

    到着前に、女性はスカーフと長袖の上着を着ました。

  • 9月17日<br />朝起きてホテルから見たテヘランの町。普通に都会でした。<br />イランの人口は<br />2006年 7042万人<br />2018年 8180万人(トルコと同じくらい)<br /><br />急増中です。<br /><br />イランは8カ国に国境を接していると聞きました。右から反時計回りに、パキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコ、イラク。あら、7カ国しかない?

    9月17日
    朝起きてホテルから見たテヘランの町。普通に都会でした。
    イランの人口は
    2006年 7042万人
    2018年 8180万人(トルコと同じくらい)

    急増中です。

    イランは8カ国に国境を接していると聞きました。右から反時計回りに、パキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、アルメニア、トルコ、イラク。あら、7カ国しかない?

  • 遠くに山脈が連なっています。多分テヘラン北、カスピ海の手前(南)にあるエルブールズ山脈。最高峰はダマヴァンド山5670メートル。高い!<br /><br />テヘランは暑いのでお金持ちは山の麓に別荘を持っているそうです。人口は1100万人。

    遠くに山脈が連なっています。多分テヘラン北、カスピ海の手前(南)にあるエルブールズ山脈。最高峰はダマヴァンド山5670メートル。高い!

    テヘランは暑いのでお金持ちは山の麓に別荘を持っているそうです。人口は1100万人。

  • 最初に来たのが絨毯博物館です。<br />もう、ここでペルシャ絨毯のすごさに驚き!!

    最初に来たのが絨毯博物館です。
    もう、ここでペルシャ絨毯のすごさに驚き!!

  • デザインとモチーフは様々です。<br /><br />幾何学模様と動物、水牛みたいな動物と、さらに外側に馬に乗っている人?かなり古い模様です。

    デザインとモチーフは様々です。

    幾何学模様と動物、水牛みたいな動物と、さらに外側に馬に乗っている人?かなり古い模様です。

  • こちらは自然、花や木がモチーフです。<br /><br />他にも幾何学模様、唐草模様、円形模様、アラベスク模様などで織られるそうです。

    こちらは自然、花や木がモチーフです。

    他にも幾何学模様、唐草模様、円形模様、アラベスク模様などで織られるそうです。

  • しかしこんな細かい模様を織り上げるって、すごい技術です。<br /><br />素材はウール、絹、綿ですが、絹は稀少性、耐久性から壁飾りが多いそうです。

    しかしこんな細かい模様を織り上げるって、すごい技術です。

    素材はウール、絹、綿ですが、絹は稀少性、耐久性から壁飾りが多いそうです。

  • この細かい模様を見てください。<br /><br />絨毯博物館にあるものは100年以上前のいわゆるクラシックが主。中には1000年前のものも。どの絨毯だったかわからなくなり残念。

    この細かい模様を見てください。

    絨毯博物館にあるものは100年以上前のいわゆるクラシックが主。中には1000年前のものも。どの絨毯だったかわからなくなり残念。

  • 現在では下絵を描きコンピュータで拡大、縮小して絨毯のサイズに合わせて織るらしいです。

    現在では下絵を描きコンピュータで拡大、縮小して絨毯のサイズに合わせて織るらしいです。

  • しかしクラシックのこのようなデザインは下絵を描いたりせず、職人の経験、記憶から織られるそうです。

    しかしクラシックのこのようなデザインは下絵を描いたりせず、職人の経験、記憶から織られるそうです。

  • これを記憶と経験で織れます?<br />

    これを記憶と経験で織れます?

  • 現存している最古の手織り絨毯として、アケメネス朝ペルシアで制作されたと見られる、古代文明パジリクで発見されたおよそ2500年前の絨毯があるそうです。<br /><br />(パジリク古墳群とは、ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓群。)

    現存している最古の手織り絨毯として、アケメネス朝ペルシアで制作されたと見られる、古代文明パジリクで発見されたおよそ2500年前の絨毯があるそうです。

    (パジリク古墳群とは、ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓群。)

  • バジリクで発見された絨毯は、1平方センチメートルあたり、36編み目で編まれていたそうです。これはすごく編み目が密です。<br /><br />現在では縦糸3センチに19本の横糸。 <br />日本の織り手さん(山形県)は縦糸3センチに8本だそうです。

    バジリクで発見された絨毯は、1平方センチメートルあたり、36編み目で編まれていたそうです。これはすごく編み目が密です。

    現在では縦糸3センチに19本の横糸。
    日本の織り手さん(山形県)は縦糸3センチに8本だそうです。

  • Wiki からです<br /><br />ペルシア絨毯の最初の記録は古代中国のもので、224年から651年のサーサーン朝ペルシア時代の記録である。<br />7世紀にイスラム教圏となるまで、ペルシアでは様々な王朝が勃興、衰退を繰り返し、ペルシア絨毯にも多くの変化がもたらされたが、ペルシア絨毯の生産は途切れることなく続いていた。<br />その後、13世紀のモンゴル帝国によるペルシア侵攻のためにペルシア絨毯は衰えていたが、イルハン朝ペルシア、ティムール朝ペルシアのもと、ペルシア絨毯は再び発展してくことになる。

    Wiki からです

    ペルシア絨毯の最初の記録は古代中国のもので、224年から651年のサーサーン朝ペルシア時代の記録である。
    7世紀にイスラム教圏となるまで、ペルシアでは様々な王朝が勃興、衰退を繰り返し、ペルシア絨毯にも多くの変化がもたらされたが、ペルシア絨毯の生産は途切れることなく続いていた。
    その後、13世紀のモンゴル帝国によるペルシア侵攻のためにペルシア絨毯は衰えていたが、イルハン朝ペルシア、ティムール朝ペルシアのもと、ペルシア絨毯は再び発展してくことになる。

  • この後、トルコだったら絨毯を買わせられるところですが、、、何もなく次のガラス博物館へ移動しました。<br /><br />それにしても朝の交通渋滞がひどくて歩いていきました。

    この後、トルコだったら絨毯を買わせられるところですが、、、何もなく次のガラス博物館へ移動しました。

    それにしても朝の交通渋滞がひどくて歩いていきました。

  • ガラス博物館です。<br />1~3世紀のカット装飾のガラスのピッチャー。

    ガラス博物館です。
    1~3世紀のカット装飾のガラスのピッチャー。

  • 10~12世紀のガラスのピッチャー。

    10~12世紀のガラスのピッチャー。

  • 繊細な模様のガラスの箱。模様が素晴らしい。

    繊細な模様のガラスの箱。模様が素晴らしい。

  • 小さくて精巧な置物がたくさん。

    小さくて精巧な置物がたくさん。

  • 金色とガラス。ベネチァンガラスと変わらない。

    金色とガラス。ベネチァンガラスと変わらない。

  • 蓋付って作るのが大変そう。

    蓋付って作るのが大変そう。

  • 装飾品もたくさんありました。<br /><br />ガラス博物館でも、お土産物屋さんなし。セールストークもなし。<br /><br />博物館内の小さなお土産やさんでは、絵葉書でさえなかなか売ってくれません。??まるで商売っ気なし。社会主義国か?品不足?

    装飾品もたくさんありました。

    ガラス博物館でも、お土産物屋さんなし。セールストークもなし。

    博物館内の小さなお土産やさんでは、絵葉書でさえなかなか売ってくれません。??まるで商売っ気なし。社会主義国か?品不足?

  • 次にテヘランから郊外へ向かいます。窓からは大きなアパート群。

    次にテヘランから郊外へ向かいます。窓からは大きなアパート群。

  • エルブールズ山脈の方は高度が上がっていきます。テヘランからたかだか30キロくらいでかなり温度が低くなり過ごしやすいんだそうです。

    エルブールズ山脈の方は高度が上がっていきます。テヘランからたかだか30キロくらいでかなり温度が低くなり過ごしやすいんだそうです。

  • 到着。緑の木々があります。<br /><br />宗教はイスラム教でも規律の厳しいシーア派が主の為、女性観光客は暑い中全身を覆っているのは大変。冷房の効いたバスに乗り込むとすぐに外しました。

    到着。緑の木々があります。

    宗教はイスラム教でも規律の厳しいシーア派が主の為、女性観光客は暑い中全身を覆っているのは大変。冷房の効いたバスに乗り込むとすぐに外しました。

  • イスラム革命以来アメリカと国交断絶しているのに若い人達は英語を学び、コンピュータも学んでいるそうです。

    イスラム革命以来アメリカと国交断絶しているのに若い人達は英語を学び、コンピュータも学んでいるそうです。

  • イスラム教のほか、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教徒がいます。<br /><br />訪問当時2010年の最高指導者は第2代、セイエト・アリー・ハーメネーイ師。<br />2020年は第7代、ハサン・ロウハーニー師。(2013~)

    イスラム教のほか、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教徒がいます。

    訪問当時2010年の最高指導者は第2代、セイエト・アリー・ハーメネーイ師。
    2020年は第7代、ハサン・ロウハーニー師。(2013~)

  • 真っ青な空の下。ここには緑の庭園がありました。

    真っ青な空の下。ここには緑の庭園がありました。

  • 到着したのはサーダバード宮殿。現在は王宮博物館となっています。旧パーレビ家の夏の離宮です。

    到着したのはサーダバード宮殿。現在は王宮博物館となっています。旧パーレビ家の夏の離宮です。

  • 宮殿の中は強い日差しを避ける為、厚い壁と小さな窓で薄暗くなっていました。

    宮殿の中は強い日差しを避ける為、厚い壁と小さな窓で薄暗くなっていました。

  • カーテンが引かれていて出来るだけ日差しを避け、日焼けを防ごうとしていました。

    カーテンが引かれていて出来るだけ日差しを避け、日焼けを防ごうとしていました。

  • 目が慣れてくると豪華な調度品。

    目が慣れてくると豪華な調度品。

  • シャンデリアなど豪華な家具からパーレビ家の贅沢ぶりが窺えました。

    シャンデリアなど豪華な家具からパーレビ家の贅沢ぶりが窺えました。

  • これは昼寝に良さそう。

    これは昼寝に良さそう。

  • 非常に大きなペルシャ絨毯が各部屋に敷かれていました。<br />また壁にも絨毯。<br />他にモスクにも一面絨毯が敷かれているので絨毯需要は大きいですね。

    非常に大きなペルシャ絨毯が各部屋に敷かれていました。
    また壁にも絨毯。
    他にモスクにも一面絨毯が敷かれているので絨毯需要は大きいですね。

  • この部屋はイラン・イスラム革命の最後にパーレビ国王(モハンマド・レザー・パフラヴィー=パフラヴィー二世)と妃がいた部屋。革命を知り急いで逃亡した時のままだそうです。<br /><br />旧国王は1979年1月にエジプト、カイロに逃亡し、翌年8月亡くなりました。

    この部屋はイラン・イスラム革命の最後にパーレビ国王(モハンマド・レザー・パフラヴィー=パフラヴィー二世)と妃がいた部屋。革命を知り急いで逃亡した時のままだそうです。

    旧国王は1979年1月にエジプト、カイロに逃亡し、翌年8月亡くなりました。

  • ペルシャ建国2500年を記念して作られたアザディ・タワー前で記念撮影。<br /><br />イランに到着したのは日付では昨日ですが、ホテルに着いたのは今朝0時半くらいで部屋に入ったのは多分午前1時過ぎ。<br />そして日中はテヘランと近郊を観光。ホテルへ早めに戻り夕食。ルービア ポロ(さやいんげんと牛肉の炊き込みご飯)を食べ早く寝ました。<br /><br />3日目は朝3時半にモーニングコール。食事をして5時には空港へ。そこからシラーズへ飛びました!

    ペルシャ建国2500年を記念して作られたアザディ・タワー前で記念撮影。

    イランに到着したのは日付では昨日ですが、ホテルに着いたのは今朝0時半くらいで部屋に入ったのは多分午前1時過ぎ。
    そして日中はテヘランと近郊を観光。ホテルへ早めに戻り夕食。ルービア ポロ(さやいんげんと牛肉の炊き込みご飯)を食べ早く寝ました。

    3日目は朝3時半にモーニングコール。食事をして5時には空港へ。そこからシラーズへ飛びました!

  • 9月18日、3日目<br />シラーズは高原にある為テヘランより涼しいです。飛行場から真っ直ぐペルセポリスへ行きました。

    9月18日、3日目
    シラーズは高原にある為テヘランより涼しいです。飛行場から真っ直ぐペルセポリスへ行きました。

  • クセルクセス門です。紀元前512年頃、アケメネス朝ペルシャのダリウス1世が着手、その子、クセルクセス1世によって完成されたと。

    クセルクセス門です。紀元前512年頃、アケメネス朝ペルシャのダリウス1世が着手、その子、クセルクセス1世によって完成されたと。

  • 壁には一面レリーフが残っていて歴史を語ってくれます。<br /><br />シラーズは高原にありましたがペルセポリスは低地にあるのか、暑くて!屋外の炎天下で傘をさしていても、湿度が低いのに汗がでます。スカーフと長袖が恨めしい、、、しかし半袖だと日焼けがひどそう。

    壁には一面レリーフが残っていて歴史を語ってくれます。

    シラーズは高原にありましたがペルセポリスは低地にあるのか、暑くて!屋外の炎天下で傘をさしていても、湿度が低いのに汗がでます。スカーフと長袖が恨めしい、、、しかし半袖だと日焼けがひどそう。

  • 貢物をもってくる近隣の部族。右端は、ワイン?次は織物、そして羊。羊が丸々太ってリアル。

    貢物をもってくる近隣の部族。右端は、ワイン?次は織物、そして羊。羊が丸々太ってリアル。

  • 前の2人は手をつないでいるよう。王と王妃でもなさそう。<br />屋外のせいか当時はあったかもしれない彩色などは全くなくしかしよく見るとレリーフは素晴らしく残っていました。<br />しかし暑いので記憶は真っ白。

    前の2人は手をつないでいるよう。王と王妃でもなさそう。
    屋外のせいか当時はあったかもしれない彩色などは全くなくしかしよく見るとレリーフは素晴らしく残っていました。
    しかし暑いので記憶は真っ白。

  • ペルセポリスの後はナグシェ・ロスタムへ。そこは王墓なのだけれどすごい崖の途中にあり、どうやって登ったのか?入ったのか?作ったのか?

    ペルセポリスの後はナグシェ・ロスタムへ。そこは王墓なのだけれどすごい崖の途中にあり、どうやって登ったのか?入ったのか?作ったのか?

  • ハムゼ廟。<br />中は一面銀色で派手な装飾だった。女性はこのような白い全身を覆わないと入れません。

    ハムゼ廟。
    中は一面銀色で派手な装飾だった。女性はこのような白い全身を覆わないと入れません。

  • 9月19日<br />砂漠を何時間も走りヤズドに向かいました。途中に寄ったのがパサルガダエ。<br />ペルシャ帝国はアケメネス朝ペルシャのことで、紀元前6世紀後半から約200年中央アジアからエジプトに及ぶ広域を支配した帝国。<br />この帝国の基礎は、キュロス大王(在位紀元前559~530)が多くの国を征服したことにあります。大王が最初に都を置いたのがパサルガダエ。<br /><br />ところでこの棺の中にはキュロス大王の遺骸が今だに安置されているとのこと。調べて欲しいなぁ。

    9月19日
    砂漠を何時間も走りヤズドに向かいました。途中に寄ったのがパサルガダエ。
    ペルシャ帝国はアケメネス朝ペルシャのことで、紀元前6世紀後半から約200年中央アジアからエジプトに及ぶ広域を支配した帝国。
    この帝国の基礎は、キュロス大王(在位紀元前559~530)が多くの国を征服したことにあります。大王が最初に都を置いたのがパサルガダエ。

    ところでこの棺の中にはキュロス大王の遺骸が今だに安置されているとのこと。調べて欲しいなぁ。

  • イラン北東部で始まった拝火(ゾロアスター)教の教祖、ゾロアスターの絵。15世紀のもの。本人が活躍したのは紀元前2000年~800年にわたる諸説があるようで定説はまだないとのこと。<br /><br />絵がすごく今風すぎる。ゾロアスター教寺院にて。

    イラン北東部で始まった拝火(ゾロアスター)教の教祖、ゾロアスターの絵。15世紀のもの。本人が活躍したのは紀元前2000年~800年にわたる諸説があるようで定説はまだないとのこと。

    絵がすごく今風すぎる。ゾロアスター教寺院にて。

  • ヤズドではつい60年くらい前まで鳥葬、空葬が行われていたそうです。衛生面から禁止になったけれど今は町が大きくなりそんな鳥葬をするこんもりした盛り土とその上に石で囲まれた鳥葬場がいくつかあり、住宅地がそばまで迫っていました。

    ヤズドではつい60年くらい前まで鳥葬、空葬が行われていたそうです。衛生面から禁止になったけれど今は町が大きくなりそんな鳥葬をするこんもりした盛り土とその上に石で囲まれた鳥葬場がいくつかあり、住宅地がそばまで迫っていました。

  • 9月20日<br />ヤズドからイスファハンへまたまた長いバスドライブ。この素晴らしい道路はパーレビ国王時代にアメリカからの支援で作られたそう。<br /><br />イスラム建築の傑作、イマームモスク。本物は素晴らしい、見惚れるような青色とデザインです。

    9月20日
    ヤズドからイスファハンへまたまた長いバスドライブ。この素晴らしい道路はパーレビ国王時代にアメリカからの支援で作られたそう。

    イスラム建築の傑作、イマームモスク。本物は素晴らしい、見惚れるような青色とデザインです。

  • ジャメモスク。こちらも素晴らしいモザイク。<br /><br />これを見た後でスペインのアルハンブラ宮殿を見たときはガッカリしてしまいました。

    ジャメモスク。こちらも素晴らしいモザイク。

    これを見た後でスペインのアルハンブラ宮殿を見たときはガッカリしてしまいました。

  • 9月21日<br />アリカプ宮殿からイマーム広場を望む。<br /><br />16世紀のアッバース1世は、「世界の半分はイマーム広場にある」と言ったとか。シルクロード交易が盛んに行われ、外国人はウエルカムされていたようです。

    9月21日
    アリカプ宮殿からイマーム広場を望む。

    16世紀のアッバース1世は、「世界の半分はイマーム広場にある」と言ったとか。シルクロード交易が盛んに行われ、外国人はウエルカムされていたようです。

  • 夜のイマーム広場。何人もの若い女性から一緒に写真をとってといわれました。 外国人が珍しい?<br />広場の両側にはバザールになっていて夜は夜で楽しいイマーム広場でした。

    夜のイマーム広場。何人もの若い女性から一緒に写真をとってといわれました。 外国人が珍しい?
    広場の両側にはバザールになっていて夜は夜で楽しいイマーム広場でした。

  • 9月22日<br />あっという間の最終日です。<br />テヘランへ向かう途中、カシャーンへ寄りました。砂漠の中のオアシス町です。<br />

    9月22日
    あっという間の最終日です。
    テヘランへ向かう途中、カシャーンへ寄りました。砂漠の中のオアシス町です。

  • カシャーン訪問の後は、山々を走って伝統が息づくアブヤーネ村へ到着。こちらはパンフレットの表紙です。<br />4000m級の山々の万年雪が溶けて小さな川を作りその周りだけ緑の木々。そして山奥深くに残っているこの町。イランは観光地がほとんど決まっていてどのツアーにこの村が入っているみたいです。

    カシャーン訪問の後は、山々を走って伝統が息づくアブヤーネ村へ到着。こちらはパンフレットの表紙です。
    4000m級の山々の万年雪が溶けて小さな川を作りその周りだけ緑の木々。そして山奥深くに残っているこの町。イランは観光地がほとんど決まっていてどのツアーにこの村が入っているみたいです。

  • 村を散策した後、あるカフェ?レストラン?のようなところでティータイム。

    村を散策した後、あるカフェ?レストラン?のようなところでティータイム。

  • 何かを説明していただいたのですが内容は忘れました。

    何かを説明していただいたのですが内容は忘れました。

  • で、それをすりつぶしして

    で、それをすりつぶしして

  • お茶にする?ハチミツかな??

    お茶にする?ハチミツかな??

  • イスラム式に床に座ってお茶をいただきました。<br /><br />この後テヘラン市内の家庭訪問があり、夜の便で帰国。すっかりイランが気に入ったのでまた行ってみたい国の一つです。

    イスラム式に床に座ってお茶をいただきました。

    この後テヘラン市内の家庭訪問があり、夜の便で帰国。すっかりイランが気に入ったのでまた行ってみたい国の一つです。

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