2018/06/03 - 2018/06/03
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frau.himmelさん
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今回はプロイセン歴史第三弾目、フリードリヒ大王を取り上げます。
前々回でヴィルヘルム1世を、前回でフリードリヒ1世と王妃ゾフィー・シャルロッテを取り上げてきました。
プロイセン王国はホーエンツォレルン家が統治した王国です。首都はベルリンにあります。
プロイセン王国で最も有名な国王はフリードリヒ大王ではないでしょうか。ウンターデンリンデン通りの巨大な騎馬像、あの主がフリードリヒ大王です。
シニア3人組、ベルリン3日目はベルリンを飛び出してポツダムにいってまいりました。そしてフリードリヒ大王が愛したサンスーシ宮殿を訪れました。
新型コロナウイスルによる非常事態宣言で外出もままならず、自宅に蟄居する毎日、時間だけはありますので、またまたクドい旅行記になりました。
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2泊したアレキサンダープラッツ駅近くのホテル・モーテルワンをチェックアウトして、タクシーでベルナウアー・シュトラーセにあるホテルにやってきました。
チェックイン時間にはまだ早いので荷物を預かってもらって、これからポツダムへ向かいます。
トラムの停留所はホテルの前、とても便利です。
停留所前の道路はベルナウアー通り、ベルリンの壁があった当時はこの道路を境に壁が築かれていました。
こちらは西側、ホテルがある道路の向こう側は東側でした。 -
M10番のトラムでベルリン中央駅に到着。
ここから近郊電車でポツダムへ向かいます。
チケットはABCゾーン1日券を買ってあります。 -
30分ほどでポツダム中央駅に着きました。
駅前のバス乗り場からサンスーシ宮殿行のバスに乗ります。 -
バスがこの曰く有りげな門の前を通りすぎると、間もなく・・・。
ここはドライケーニッヒ・トア(三王の門)です。 -
フリーデンス教会のバス停でみんなゾロゾロ降りる。
おかしいな~、ここでいいのかな~?。前に来た時と違うみたいだけど・・・。
まぁ、みんなに着いていけばいいでしょう。 -
あれぇ、前はこんな森の中通らなかったような。
それに歩く歩く。
前は風車が見えるバス停で降りて、宮殿はすぐ近くだったような気がするけど。
ふしぎだわ~??
雨も降っているので、なおさら足が遅くなる。
先頭集団からあんなに離れてしまった。 -
前方に見覚えがある大噴水が見えてきました。
よかった~。 -
それに右手の丘の上にはサンスーシ宮殿が見えてきたし・・・。
あの階段を登ればいいのよね。
と・・・。 -
先を行くK氏は前のグループと一緒にずんずん奥の方に入っていきます。
I女史と私、あわてて「Kさ~~ん!」って呼びましたが、この広い庭園です、聞こえるわけがありません。
まあ気が付いて引き返してくるでしょう。
付近を散策して待つことにします。 -
サンスーシ宮殿の庭園はもの凄く広い。
300万㎡もあるそうです。
あちらこちらに白い大理石の彫像が点在しています。 -
歴代の王たちによって、池や泉、大理石の彫像などが加えられました。
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サンスーシ宮殿は、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が、夏の宮殿として造った城です。
兵隊王と呼ばれた厳格な父王に一切の芸術に親しむことを禁じられ、虐待に近い厳しい教育を受け成長したフリードリヒ。
その父王の崩御後、彼は1740年28歳の時にプロイセン王に即位します。
(旅行記文中、フリードリヒ2世、フリードリヒ大王、またはフリードリヒと名前が一貫していないかも知れません。) -
プロイセン国王となったフリードリヒ2世はプロイセン領の拡大を目指します。
隣国ハプスブルク帝国のマリアテレジアとの間でシュレージエンを巡って対立していました。また国政では産業や農業、芸術科学などの振興、また拷問の廃止などを推進し、プロイセンの発展に努めます。
そんな激務のフリードリヒを慰めたのは、夏の離宮として彼の設計により建てられたサンスーシ宮殿です。 -
サンスーシ宮殿は、1745年から1747年のわずか2年間で建てられた部屋数わずか12室の小さな宮殿です。
しかし室内は、大王も設計に携わった「フリードリヒ式ロココ」と呼ばれる大変豪華な宮殿です。
マリアテレジアとの「第二次シュレージエン戦争」のさなかに建築されたこの豪華な宮殿は、オーストリアに対する挑戦ともとられました。
しかしそのころ、マリアテレジアも豪華なシェーンブルン宮殿を完成させていました。 -
丘の上に建てられたサンスーシ宮殿、まるでぶどう畑に埋まっているように見えます。
フリードリヒ大王は農業の振興にも努めました。 -
階段状のテラスには段差の壁を利用して、ブドウとイチヂクが植えられています。
フリードリヒ大王は、北ドイツでは無理だと言われたブドウを栽培することを実現させました。 -
階段を上ってやってきました。
宮殿の名前は「サンスーシ」、フランス語で「憂いなし」。
父王から禁じられていたフランス語でつけられました。 -
宮殿は、平屋ながら青いドームとクリームイエローの美しい外観。
壁に張り付いて屋根を支えている彫像は、ヨーロッパでよく見かけるアトラスという建築様式。
サンスーシ宮殿の彫像は酒の神バッカスがモチーフ。
バッカスの集団です。
屋根の飾りは葡萄酒の壺。 -
それにしても、壁の色が宿敵マリアテレジアのテレジアンイエローと似ているのは不思議。
付近を散策したり、I女史とお喋りしているうちに、K氏が汗を拭き拭き帰ってきました。
「悪い悪い!」と謝りながら。 -
3人揃ったところで、何はともあれまずはチケットをゲットしましよう。
宮殿の裏側がチケット売り場です。 -
ただいま12時半ちょっと過ぎ、13時までのチケットは全て売り切れだけど、13:10分のがあるわよ、と。
ラッキー!
30分ほど待てば入場できるのです。
いつも長蛇の列ができるほど混むというので心配していましたが、意外と早い時間がとれました。 -
少し時間があるので付近を散策。
見覚えのある風車。
前回は(2013年)この風車の近くでバスを降りたのを思い出しました。
奥に見えるドームの宮殿は、ノイエカマーン。迎賓館として使われました。 -
バス停がありました!
ここで降りたら宮殿は近かったのにね。
帰りはここから乗ることにします。 -
遠くに廃墟が見えます。
-
さあ、それでは時間になりました。
13:10入場チケット、一人12ユーロ。
そしてここでも写真撮影料を払います。 -
エントランスホールに入ると世界が一変しました。(①)
コリント様式の列柱が並び、大理石の壁と床。
壁には優雅な植物の曲線模様。 -
扉の上には黄金のレリーフ。
モチーフは神話の物語でしょうか。 -
エントランスホールを左に進むと、そこには細長いギャラリー。(⑦)
大理石の壁と床、豪華なシャンデリア。
壁には絵画が架けられ、大理石の胸像が並んでいます。 -
芸術にも造詣が深いフィリードリヒ大王は絵画蒐集も好きでした。
ここには特にロココの画家の絵が多く飾られています。
Jean-Baptiste Pater、Nicolas Lancret、アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)など。 -
ところでここに置かれた可愛いソファー、幅が狭いと思いませんか?
お尻がチョコンと乗っかるくらいの狭さです。
フリードリヒから招かれるのはほとんど男性ばかりでした。
スカートをふわーっと広げて座る女性はほとんど招かれなかったので、広い幅のソファーは必要なかったのです。 -
見にくいと思いますが、wikiから取った宮殿の見取り図を貼り付けておきます。
文中①②・・・と記述がある数字はこの見取り図の数字に準拠します。
また、回った順序を矢印で示しました。 -
次に入った部屋は、フリードリヒ大王の執務室兼寝室。(⑤)
大王は、夏の間だけでなく、ベルリンの宮殿には帰らないで常にこの部屋で執務していました。 -
フリードリヒ大王の肖像画の下にあるキャビネット付きの時計は大王がスイスから取り寄せたものですが、300年経った今でも動いているそうです。
肖像画は1781年にAnton Graffによって描かれたもの。
亡くなる5年前の肖像画です。
7年戦争で16回の戦いをこなし連戦連勝をして、兵隊王と言われた父王のの3倍の領土を広げたフリードリヒ大王でしたが、戦争が終わった後、大王の身体は確実に疲弊していました。
晩年には様々な既往症を患い歯も抜けて、すっかりおじいさんになった大王に、国民は親しみを込めて「フリッツじいさん」と呼びました。 -
暖炉の横にマホガニー(?)のキャビネットがあり、その上に1枚の絵があります。
この絵は、死後は大好きなサンスーシに葬ってほしいと、1744年に庭にお墓を造らせている絵です。
この時フリードリヒはまだ32歳でした。
同行しているのはフランス人作家で哲学者のアルジャン侯爵(1703-1771)。
彼は27年間フリードリヒ大王の傍で哲学者として仕えました。 -
1786年、フリードリヒ大王は寝室のこの椅子で息をひきとりました。
-
中央の肖像画は若き日のフリードリヒ2世(大王)。
左は父親のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。
シャルロッテンブルク宮殿を造ったフリードリヒ1世と、王妃シャルロッテの長男です。
右は母親のゾフィー・ドロテア。イギリス王ジョージ1世の娘です。
フリードリヒ2世は、兵隊王と呼ばれ武骨もので、芸術に親しむことを禁じた父王が大嫌いでした。また虐待に近い扱いも受けていたようです。
あるとき、厳しい父親から逃げようと、親友と共に 英国王の伯父が住むイギリスへと逃亡を図りました。しかし父王の兵隊に捕まり、フリードリヒは、親友が目の前で処刑されるのを見るように命令されます。
この辛い経験は、その後のフリードリヒ2世の人生感に大きな影響を与えました。 -
次の部屋は音楽室。(④)
白い漆喰に金色の植物の曲線模様、まるで美しい旋律が流れてきそう。
でも、シャンデリアが下がっている中央をよく見ると蜘蛛の巣模様なのです。ご丁寧に蜘蛛が3匹います。
フリードリヒ2世は、母親ゾフィー・ドロテアの影響で、音楽に深い興味を持っていましたが、父王には厳しく禁止されていました。
フリードリヒは、サンスーシ宮殿に父王に禁じられていた音楽室を作りました。 -
お気に入りの絵を掲げ、お気に入りの装飾をして、お気に入りの仲間たちを招いてここでコンサートを開くのが好きでした。
左端のケースの中に置かれているのは大王の「フルート」。
フリードリヒ大王はフルートの名手でした。
実際にフルート曲を何曲も作曲しています。
戦場にもフルートを持って行ったそうです。
譜面台の模様も素敵ですね。 -
ところでフリードリヒ大王のフルートが入って入るケースの下の台はよく見るとピアノの形をしています。
これはパイプオルガン製作で有名なゴットフリート・ジルバーマンの「フォルテピアノ」(ハンマーピアノ)だそうです。
ドイツ語のWIKIによると、1746年に製作されたものらしいです。 -
またそれで思い出したのは、10年ほど前、ベルリンの旧絵画館で見た宮廷画家メンツェルの絵。
自身が開催したサンスーシ宮殿のコンサートで、フルートを吹いているフリードリヒ大王の絵です。
私も撮ってきましたが、写真が下手で不鮮明なので、ネットよりお借りしました。
天井のシャンデリア、壁の金縁模様、床の寄木細工、紅い布張りのソファー。
全てこの部屋で描かれたことを表しています。 -
上の絵とこの写真とを比較してみてください。
ね、同じ部屋ですね。
フルートを吹いているのは大王で、ジルバーマンのフォルテピアノを弾いているのはバッハの息子のエマニュエル・バッハだと記録してあるものを見つけました。
ただこの絵で嘘っぽいと思うのは、女性が数人描かれていること。
大王はここには女性は誰一人、王妃のクリスティーネも呼ばなかったそうですから。
でも、大王のお気に入りの妹ヴィルヘルミーネかもしれません。 -
オーディエンス室(客室のこと?)(③)
数多くの絵画が飾られている部屋はまるで美術館のようです。
うすいピンク色のダマスク織の壁紙、それと同色のソファーや椅子。
とても上品です。 -
ここに飾られている絵画はほとんど18世紀のフランスの画家の作だそうです。
どこかで似たような絵を見たことがあるような・・・、という絵がいっぱいです。 -
フランスの絵画
-
ぶどう模様の可愛い暖炉。
空気清浄器がどこの部屋にもありました。 -
可愛い天使のプレートをくぐると、次の部屋は・・・?
-
次の部屋は豪華な楕円形の大理石のホールです。(②)
この部屋が楕円形だということは、天井からでないとわかりませんので、まず天井を。
白い漆喰を蔽い尽くすように黄金の豪華な装飾模様。
メタルやエンブレム、浮彫・・・。
そして豪華なシャンデリア。 -
ここにも可愛い天使たち。
大王の好きな芸術や科学を象徴したものでしょうか。
コリント様式のペアの柱は大理石。 -
この部屋は、柱はもちろん、壁や窓枠、床まで全て大理石でできています。
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特に、色大理石を組み合わせた象嵌(?)の植物模様の床は素晴らしいの一語。
-
この2つの彫像は、開いた本を持っている方はアポロ(左)、右はヴィーナス。
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「大理石の間」は庭園に面した明るい部屋です。
胸像の主はスェーデン王カール12世。
大王はこの胸像を妹のスェーデン女王、ルイーズ・ウルリケ(1720-1782)からプレゼントされました。 -
ここからゲストルームが続きます。
まずシノワズリの間。(⑧)
白い壁には影絵のような中国風の模様、鏡の枠もシノワズリ。
シノワズリとは中国趣味の美術様式のこと。
当時ヨーロッパで流行りました。 -
白いサテンの豪華な椅子、豪華なシャンデリア、豪華な家具。
-
次の部屋は「青の間」(⑨)。
ベッドはブル-。
全体的にブルーのイメージ。 -
豪華なシャンデリア。凄いな~。
ろうそくを立てるのですね。
一つ一つろうそくを立てていくのが面倒そう。
一晩中点けっぱなし?
それとも客が寝たら、召使が後で消しに来るのかしら?
余計な心配をします。 -
床の寄木細工の繊細なこと。
-
そして壁には、これもどこかで見たことがあるような絵画がずらり。
-
この部屋は「赤の間」(⑩)。
壁も椅子もベッドのカーテンも赤。
ベッドは青ですけど。 -
壁一面に飾られた絵画。
そしてどこかの部屋でも見たキャビネット付きの時計。 -
この部屋には風景画が多いですね。
これもどこかで見たことがあるような画家の絵ばかり。 -
部屋によって絵画はテーマがあるようです。
客人の趣味によって部屋は振り分けられるのでしょうか。
この部屋にはどんな客が滞在したのかな。 -
うわぁ~!この部屋はひときわ美しいです。(⑪)
黄色の壁紙が一面に張りめぐされ、植物の蔦が天井といわず、壁と言わず這っています。
まるで「花園の楽園」?(古い!)。 -
天井から下がっているシャンデリアはマイセンだそうです。
小花の花びらの一つ一つまで磁器で焼かれています。それを組み合わせて造られているのですね。
どれだけ手がこんだ作品なのでしょう。 -
この部屋はフリードリヒ大王の若い時代からの盟友、哲学者ヴォルテールのために造られた「ヴォルテールの間」です。
-
啓蒙専制君主のフリードリヒ大王、フランスの啓蒙思想家で哲学者のヴォルテール(1694-1778)。
彼の著書に感銘した若き日のフリードリヒ(この時はまだフィリードリヒ2世)は早速ファンレターを出します。お得意のフランス語で。
そこから文通が始まります。
フリードリヒは当時24歳、ヴォルテールは41歳。
二人はそれ以来の盟友です。
フリードリヒはヴォルテールをベルリンに呼びよせ、ヴォルテールは3年近くベルリンの宮廷に滞在しました。 -
フリードリヒ大王は7年戦争で、マリア・テレジア、ポンバドール夫人、それにロシア女帝エリザヴェータのベチコート同盟軍やその他の、幾度となく繰り返された戦いに疲れると、戦場からヴォルテールに手紙を送ったそうです。
「あのぶどうの丘に帰りたい、サンスーシに帰りたい・・・」と。 -
大王はヴルテールのためにサンスーシ宮殿に豪華な「ヴォルテールの間」を作りました。
しかし、ささいな諍いが元で、ヴォルテールはフルードリヒ大王から去っていきました。
暖炉の上には豪華な陶磁器の花瓶。
花瓶の横にはマイセンで造られた花びらの飾り。 -
結局ヴォルテールがこの部屋を使うことはありませんでした。
・・・・
可愛い部屋だったわね~。
いかめしい哲学者の部屋というより、なんかオトメチックな夢見る夢子さんの部屋のよう、なんて言いたいことを言っている私たち。 -
出口の方に向かうと、アンディー・ウォーホルのフリードリヒ大王の絵。
-
そして大きな壺と、サンスーシ宮殿に隣接する「絵画館」の案内。
今回私たちは、パス。 -
もう1か所、サンスーシで見ておきたいところがあります。
ガーデンパピリオンを抜けて・・・ -
フリードリヒ大王が愛犬たちと眠っているお墓です。
大王は、サンスーシ宮殿の寝室兼執務室の肘掛け椅子で1786年8月17日に亡くなりました。
彼は生前より遺言を残しておりました。
「私は哲学者として生きた、だから哲学者として埋葬してほしい。11匹の犬と共にサンスーシのあの墓に」と。 -
大王は1744年、32歳の時に宮殿の片隅にお墓を造っています。
この絵は友人のアルジャン侯爵と、お墓を造っている作業を見学している図です。
下は亡くなった際に座っていた寝室の肘掛け椅子 -
しかし彼の遺言は守られなかった。
彼の後継者であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、大王のお墓とあろうものがこんな粗末な場所は似合わない、と判断したからです。
結局ポツダムの宮廷付属教会に置かれました。
第二次大戦中は彼の棺はいろんな場所を転々としました。
地下防空壕の中、岩塩坑の中。
そして終戦、米軍は大王の棺をマールブルクのエリーザベト教会へ。
写真は2009年にマールブルクのエリーザベト教会を訪れた時のもの。
下の教会の図に「PREUSSEN KONIGE 1946-51」(赤←)
とあります。
プロイセン王の棺が1946-51年に置かれていた、ということですね。 -
まだまだ流転は続きます。
東西冷戦により1952年ホーエンツォレルン家の故郷であるホーエンツォレルン城の礼拝堂に安置されました。
ポツダムはDDR東ドイツですから、大王の棺がサンスーシに戻るのは東西ドイツの統一を待たなければなりませんでした。
1991年、ドイツ統一後、39年間ホーエンツェレルン城の礼拝堂で眠っていた大王の棺はポツダムに帰されることになりました。
私は2012年にホーエンツォレルン城を訪れ、この台をみました。
この上に棺が置かれていたのです。
棺の台にはフリードリヒ大王の名前が。またパネルには1952-1991まで置かれていたことが書かれています。 -
いくたびの変遷を経て、ようやくフリードリヒ大王の棺は、待ち望んだサンスーシに戻ってきました。
-
確かに、大王のお墓にしては随分質素なものです。
飾りといえば大理石の彫像が一つ。
しかしやっと大王は憂いなく、大好きなサンスーシで眠れるのです。
11匹の愛犬たちと共に。 -
さて、少し時間をバックします。
バスを降りて、足の早いK氏は先頭集団と一緒にさっさと先に行ってしまいました。
私たちが「Kさ~~ん!」と叫んだのも聞こえなかったようです。
私とI女史は噴水の傍で待つことにします。
追いかけるのは、私たちには無理です。 -
どれだけ遠いか、後でグーグルマップで距離を調べてみました。
大噴水から新宮殿まで片道20分、往復40分の距離です。
やはり私には無理でした。
でも、その間、世界遺産の庭園を散策したり、I女史とお喋りしたり、優雅な時間を過ごしました。 -
そのころ、K氏は・・・。
右手には風車と手前にはノイエカマン宮殿。迎賓館になっています。 -
下は、後で近くで見た風車とノイエカマン宮殿。
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しばらく進むと、奥の方にオランジェリー宮殿が見えます。
ここはフリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795-1861)によって建てられ1864年に完成しました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と言えば、初代ドイツ皇帝となるヴィルヘルム1世の叔父になります。
4世には子供がいなかったので、ヴィルヘルム1世が継承して、後に初代ドイツ皇帝になりました。
*カイザーヴルヘルム教会で既出。 -
やっと新宮殿が見えてきました。
サンスーシ宮殿と違ってこちらは部屋数300の巨大な宮殿です。
今までフランスやオーストリア、ロシアから下に見られていたプロイセン王国。
新宮殿建設は、新興国としての威信を見せつけるという意味もありました。
また繰り返される戦争で疲弊していったプロイセン王国を経済的に救済し、景気高揚を促すという役割も果たしました。 -
例えば、材料は、7年戦争でプロイセンの領土となったシュレージエンの鉱山から発掘される石材を使い、
床も壁も、工芸品のシャンデリアも時計も、織物も全てプロイセンの職人が作りました。
新宮殿は、プロイセン初の芸術作品でした。
しかし大王は新宮殿が完成してもなお、サンスーシ宮殿で暮らしたそうです。 -
これが新宮殿の全容です。
勘違いしたK氏のお蔭で、私の旅行記に新宮殿を載せることができました。ハクが付きましたね(笑)。私には到底ここまでたどり着くことはできなかったのですから。
シニア3人組、道に迷った時どうするか?
3人ともスマホが使えれば問題ないのですが、何しろ全員70歳超、道に迷っても連絡手段がありません(泣)。
まあ、臨機応変ですね。幸いキチキチの計画は立てていませんから何とかなります。
でも、齢だけは取っていますので、そんなアクシデントも楽しみに変えてしまう術も持っています。 -
さて、フリードリヒ大王の憂いなき宮殿を後にして、次へ向かいます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ハッピーねこさん 2020/05/16 20:22:28
- 大王のお墓
- himmelさん、こんばんは。
素晴らしいサンスーシ宮殿記、拝見しました。
詳細に亘るご解説、さすがです。
自分が訪ねた時、旅行記を書いた時に知らなかったことがたくさんで、なるほど~、そうだったのか~、と感動しきりでした。
コンサートの絵画も、私もどこかで(恐らくテレビ番組で)見たことがありましたが、あのサンスーシの「音楽の間」でのコンサートのシーンだったとは!
大王のお墓も私は探し出すことができなかったのです。
あの広大な宮殿敷地のほんの一部しか見ていませんので、いつかゆっくり再訪できるといいのですが。
おはぐれになってもそれぞれでその時間を楽しまれる。旅の達人himmelさん率いられるお三方だからこそおできになるというもの。普通ならお互いに大慌てしてしまいますよね。さすがです。
- frau.himmelさん からの返信 2020/05/16 23:18:34
- RE: 大王のお墓
- ハッピーねこさん、こんばんは。
その節はありがとうございました。参考にさせていただきました。
青の部屋、赤の部屋、中国の部屋・・・。
ハッピーねこさんのご旅行記でヒントを得て調べたものでした。
それに、この部屋行っていなかった、って思ったり。
大王のお墓、ちょっとわかりにくいところにありますよね。
私も前にツアーで連れて行ってもらったので、知っていたのですが、あの広い庭園の中、どうやって探していいかわかりませんよね。
私は、大王の棺とはいろんなところで縁があり、ハッピーねこさんもいらっしゃいましたよね、マールブルクのエリーザベト教会、それにホーエンツォレルン城とか。
それに今回、ハッピーねこさんも書いていらっしゃいましたが、大王が亡くなった肘掛け椅子を見ることができて、ますます関係があるのだなーと思いました。
はぐれた場面、はい、たびたびありました(笑)。もっと後でもありましたよ。
3回目の一緒の旅ともなりますとやはり気が緩んでまいりますが、行動パターンもだいたい察知できますので、なんとなくなるようになっています。
齢をとって図太くなっているのでしょうね(笑)。
こうやって旅行記を書いていますと、あ〜〜、いつになったら行けるのか?
と考えますね。
いつもコメントありがとうございます。
himmel
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