2018/06/03 - 2018/06/03
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frau.himmelさん
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ここ3回ほどプロイセンの歴史が続きました。
実のところ、老化した脳にはフリードリヒ○○とかヴィルヘルム○○とか、似たような名前がなかなか覚えられなくて悩まされました。
今回は第二次世界大戦の戦後処理の話し合いが行われた場所、日本の歴史上でも重要なポツダム宣言が表明された場所、なのでプロイセンの歴史は関係ない~、と喜びたいところなのですが、やはり深~~い繋がりがありました。
ポツダム会談が開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿は、プロイセンと現代を結ぶ大変重要な橋渡しをした館だったのです。
ポツダム会談はいろんな禍根を残しました。
資本主義国と共産主義国(社会主義国)との対立は鮮明になりましたし、会議の最中、投下命令が下された原爆は、現代社会の最も大きな恐怖です。
そして対日本に目を向ければ、ポツダム宣言受諾後にロシアに占領された北方領土問題はまだ尾を引いています。
そして何より重要なことは、第二次世界大戦と言う人類にとっての重大犯罪を決して風化させてはならないということです。
絶対に、第二第三のヒトラーを出してはならないのです。
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サンスーシ宮殿を後にしてバスを乗り継いでツェツィーリエン宮殿にやってまいりました。
この宮殿は、日本とっても大変重要な第二次世界大戦の戦後処理が話し合われたポツダム会談の会議場です。 -
ポツダムの緑深いノイガルテン(新庭園)。
宮殿はこの森の奥深くにあります -
宮殿というより、いつかイギリスの田舎町で見た大きな農園か別荘のような感じの館です。
この館は、ドイツ最後の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために、父親のヴィルヘルム2世が建てたものです。
皇太子の希望で、イギリスのチューダー様式のカントリーハウス調の建築にしたそうです。
煙突がいかにもイギリスの田舎って感じ。 -
あら残念です。入り口が修復中でカバーが掛かっています。
ヴィルヘルム皇太子の父、第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の孫で、カイザーヴィルヘルム教会を祖父の記念として建てた人物でした。 -
入り口の門の紋章が重要なので、2013年の写真を使います。
この紋章は、ホーエンツォレルン家の鷲と、メクレンブルク家の野牛を象った2つの紋章が合わさったものです。
皇太子妃のツェツェーリエは、北ドイツのメクレンブルク家からお輿入れしてきました。 -
ヴィルヘルム皇太子がツェツィーリエ妃と結婚したのが1905年、宮殿は1917年に完成しました。
この宮殿は皇太子妃の名前をとってツェツィーリエンホフと名づけられました。 -
門を入ると、終戦後ここをいち早く占拠したソ連の、赤い星の紋章がモチーフとなった花壇があります。
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この赤い星型をしたゼラニウムは、ソ連によってポツダム会談の週数間前に植え込まれたそうです。
ポツダム会談はソ連主導で動かすぞというスターリンの強い意志の表れです。 -
中に入るとまず、ヴィルヘルム皇太子一家の写真が目に入りました。
君主制と共和制の間で大きく揺れたヴィルヘルム皇太子一家の運命。
最後のドイツ皇帝の皇太子だったヴィルヘルム皇太子と妃ツェツィーリエとの間には四男二女がありました。
この写真を見ると、歴史に翻弄された一家の、幸せな時代と激動の時代が伝わってきます。 -
ヴィルヘルム皇太子とツェツィーリエ妃は、プロイセン王国の崩壊、ワイマール共和制の制定、ヒトラーの台頭、第二次世界大戦勃発・敗戦と、ドイツのさまざまな時代を経験しました。
1918年のドイツ革命によりドイツ帝国が倒れた際は、皇太子は父ヴィルヘルム二世とともにオランダに亡命しました。
しかし妃ツェツィーリエは子供たちとこの宮殿に残りました。 -
1923年にドイツに帰国することを許されたヴィルヘルム皇太子。その後、ヒトラーの台頭に触発されナチスを支持。ナチスの政権誕生後はナチス党の宣伝にしばしば利用されました。
写真(上)はヒトラーと親しく談笑している皇太子。
しかし、1934年、ヒトラーの命で突撃隊幹部だったエルンスト・レームと共に、友人であるクルト・フォン・シュライヒャーが粛清された「長いナイフの夜」事件で、ナチス政権に疑問を抱き距離を置くようになりました。
写真下はヴィルヘルム皇太子を中央に左は突撃隊幹部エルンスト・レームと右はヒトラー時代の労働相、フランツ・ゼルテ。 -
その後、ヴィルヘルム皇太子は第二次世界大戦の敗戦後、1945年5月に、第一次世界大戦の戦争犯罪人として逮捕され、ホーエンツォレルン城に軟禁されていました。
そして、1951年心臓発作で一生を終えました。
写真は2016年5月にホーエンツォレルン城を訪れた時のもの。上は入場チケット。 -
この館が有名になったのは、第2次世界大戦末期の1945年7月17日〜8月2日にわたって、 米・トルーマン、英・チャーチル、ソ連・スターリンによる世界三巨頭が集まってポツダム会談が開かれたことです。
館内にはそれらの歴史年表が展示してありましたので、年代を追って見て行きたいと思います。
飽くまでも頭の老化防止の歴史勉強のつもりです。 -
第二次世界大戦は、1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により勃発し、ポーランドと同盟関係にあった仏・英の対独宣戦布告によりヨーロッパ戦争として始まりました。
ソ連もそれに乗じて、ポーランド侵攻やバルト三国への領土侵略への野心を示し、軍隊を駐留させました。
さらに日独伊三国同盟が結ばれ、アジアでも戦火は広がり、文字通り世界大戦となっていきました。 -
巨頭会談はポツダム会談が初めてではありません。
1941年8月9日 - 12日には、イギリス首相のウィンストン・チャーチルと、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、英戦艦プリンス・オブ・ウェールス上で会談しています(大西洋会談)。
そこで戦後の世界構想が組み込まれた大西洋憲章が調印されています。 -
大西洋憲章から4ヵ月後、1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃して米英に宣戦布告、
戦火は全世界を巻き込み、人類史上最大の世界大戦へと拡大していきました。 -
1941年から1942年には、モスクワやワシントンでもたびたび首脳会談が開かれています。
写真左:モスクワで1942年8月チャーチル、スターリンの会談。
写真右:1941年12月22-1942年1月14日。ワシントンでチャーチル、ルーズベルトの会談。連合国共同声明の合意。
写真はチャーチル英首相 -
ケベック会談(写真左):1943年8月7日−24日、英・チャーチル、米・ルーズベルト、カナダ・キング首相会談。
ノルマンディー上陸作戦の設定、東南アジア指揮系統の再編成、核エネルギーの情報の共有の制限などが、カナダのケベックで話し合われた。
カサブランカ会談(写真右):1943年1月14日-24日。
チャーチル、ルーズベルト、仏シャルル・ド・ゴール大統領ほか。
イタリア侵攻作戦、枢軸国への無条件降伏要求の宣言など。
モロッコのカサブランカで開催。 -
カイロ会談(写真右)。1943.11.22-26。
チャーチル、ルーズベルト、中国・蒋介石。
アジアの戦後に関する会談。
テヘラン会談(写真左):1943.11.28-12.1。
チャーチル、ルーズベルト、スターリン。
三巨頭による始めての会議。
ナチス・ドイツとその同盟国(日・伊)との戦争の最終的な戦略など。イランのテヘランで開催された。 -
ヤルタ会談:1945年2月4-11日。チャーチル、スターリン、ルーズベルトの三巨頭会談。
ドイツ降伏までの最終計画、ヨーロッパの戦後計画、日本へのロシア参戦の状況確認。
この会議が、米を中心とする資本主義側とソ連を中心とする共産主義側の東西冷戦の始まりとなった。 -
1945年5月8日、ドイツ軍無条件降伏。
焼け野原になったベルリン近郊ポツダム市内。ポツダム近郊のグリーニッケ橋も爆撃された。
サンスーシ宮殿は被害が少なかった。 -
1945年7月、戦争終結に伴う戦後処理の話し合いが必要になった。
ベルリンは爆撃が激しく会談の場所がなかったので、比較的戦災が軽かったポツダムのツェツィーリエンホフ宮殿が選ばれた。
世界のビック3が集まる会議ゆえ、厳重な警戒態勢が敷かれ、世界中から報道関係者が集まった。 -
ポツダム会談は最初から波乱含みでした。
アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相は前日の7月15日にベルリン入りしたが、ロシアのスターリンはそれより遅れること2日、7月17日にベルリン入りしました。
健康問題や警備問題を理由と謝罪しましたが、これはスターリンの狡猾さでした。
アメリカのルーズベルト大統領は終戦直前に病死したため、新大統領となったトルーマンにとっては初めての正式な外国訪問でした。 -
空白の7月16日、トルーマンとチャーチルは瓦礫の街となったベルリンを視察しました。
そこで2人が見たものは、「壊れた建物よりも、戦争で生きる目的をなくした老人・女性・子供たちのうつろな目が強く印象に残った」と。
写真上:破壊されたベルリンの街並みを視察しているトルーマン。
下:チャーチル首相は国会議事堂や、ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺した防空壕を訪れた。 -
1945年7月17日、ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に三大国の首脳、米のトルーマン大統領、英のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が集まりポツダム会談が始まりました。
ベルリンをいち早く占拠したソ連がホスト国としてふるまいました。 -
米英ソの宿舎。
ソ連のスターリン書記長と宿舎。 -
米のトルーマン大統領のリトルホワイトハウスと呼ばれた宿舎。
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英のチャーチル首相と宿舎。
チャーチルは令嬢マリーを伴ってポツダム入りしました。 -
さて、会議場です。
15人が座る大きな丸テーブルは、この会議のためにモスクワから運ばれました。
米・英・ソ国家元首は、肘掛がついた特製の椅子に座り、その横に外務大臣、通訳、顧問などが着席しました。
その後ろは随行外交官のためのものです。 -
テーブルの中央には3国の国旗。
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そしてその後ろに議事録作成者のための机と椅子が用意されました。
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天井は船底型の重厚な木調。壁には3国の国旗。
広く取られた窓からは明るい光が射しこんできます。
ここはヴィルヘルム皇太子夫妻の居間でした。 -
ヴィルヘルム皇太子がこだわったチューダー様式とは、客間よりプライベート空間の居間に快適性を求めた様式です。
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広くとられた窓の外はユングフェルン湖の美しい風景。
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上階へ通じる階段は美しい掘り込みが施されています。
これはクダンスクからヴィルヘルム皇太子に贈られたものだそうです。
会議室には扉が2つあり、一方はソ連、もう片方は米英の控え室に通じています。 -
さて、この世界三巨頭を迎えたツェツィーリエン宮殿、各国の執務室の部屋割りもソ連主導のもと決められました。
「白の広間」。
フリードリヒ3世とルイーゼ皇后の胸像が飾られた部屋、暖炉の上に時計や花瓶が飾られています。(①)
この部屋は接待場として使われました。 -
ツェツィーリエン宮殿の図面を貼り付けます。
この中で②が会議場です(皇太子夫妻の居間でした)。
会議場を挟んで右にソ連代表団の執務室、左側は米・英代表団の執務室になっています。 -
最も広い部屋はホスト国ソ連が押さえました。
皇太子妃の書斎「赤の広間」はソ連の執務室になりました。(③) -
ソ連代表団の執務室、続きの部屋(④)
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イギリス代表団の執務室(⑥)
下の写真はヴィルヘルム皇太子時代の部屋の様子。 -
アメリカ代表団の執務室(⑦)
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アメリカの執務室(⑧)
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皇太子一家が過ごした他の部屋も見て参りましょう。
船室を模した皇太子妃の小部屋。
皇太子妃の生まれ故郷北ドイツの船舶会社からの贈り物だそうです。(部屋図面⑤) -
第一次世界大戦後、1918年にホーエンツォレルン王朝一族は退位しました。しかしヴィルヘルム皇太子一家はこのツェツィーリエン宮殿に孫の世代までの終世居住権を獲得していました。
ドイツ革命以降、ヴィルヘルム皇太子は父ヴィルヘルム二世とともにオランダに亡命しましたが、妃ツェツィーリエは子供たちと共にこの宮殿に残りました。 -
しかし第二次大戦終盤になると、近づくソ連軍を前に、夫人は子供たちを連れてこの宮殿をさりました。1945年2月1日のことです。
一切の家具や陶器類も放置したままで。
そのころ、元皇太子はホーエンツフォレルン城近くで病気療養中でした。 -
食事室でしょうか。皇太子妃ツェーツィリエはここで子供たちと楽しく食事をしていたこともあったのですね。
下の写真は以前の同部屋。
素晴らしい食器なども残されていました。 -
ベルリン陥落後、宮殿は、1945年4月27日にいち早くベルリン入りをしたソ連赤軍に接収されました。
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ところでなぜここにヒトラー暗殺未遂のシュタウフェンベルク大佐が?
写真は、クルト・フォン・プレッテンベルク男爵(1891-1945)。
皇太子の家臣だった彼は、1944年7月20日のヒトラー暗殺事件(ワルキューレ作戦)の仲間だったとして、この宮殿で執務していたところをゲシュタポに逮捕されました。
そしてベルリンの刑務所(現在のテロのトポグラフィー)に投獄されましたが、仲間を裏切ることはできず獄中で自殺しました。 -
さて、ポツダム会談の模様はというと・・・。
会談は決して和気藹々とスムースに進行していったわけではありません。
実際はいろんな対立や駆け引きがありました。 -
特に、ポーランドなど東ドイツ国境の問題や賠償問題などをめぐって、イギリスのチャーチルとソ連のスターリンは激しく対立しました。
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会議の最中、英首相チャーチルが失脚して、アトリー新首相がその後の会議に出席しました。しかしアトリーは一歩も引かず、英ソの対立は頂点に達しました。
何とかトルーマンの米国が新提案を出し、受け入れなければ会談から身を引くと脅しをかけます。
それに英ソが合意した形で会議の決裂は免れました。
写真は新首相となったクレメント・アトリー。
アトリーは就任早々ポツダムに駆けつけました。 -
そういう状況であるにもかかわらず、和やかに歓談している様子が全世界に配信されました。
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こちらは和やかに歓談する左より、英チャーチル首相、米トルーマン大統領、ソ連スターリン書記長。
心中は決して穏やかではなかったはずですが。 -
報道関係者
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当時の新聞雑誌はポツダム会談一色です。
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そんな中に日本軍部首脳の顔写真も。
左から、豊田貞次郎、南次郎、岡田啓介、米内光政、小磯。
会期中はまだ交戦中だった大日本帝国の戦争方針についても話し合われました。 -
7月26日には日本政府に対して、日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されました。
このポツダム宣言を日本が受諾すれば戦争終結、受諾しないなら戦争続行ということになるのです。しかし天皇制の維持に関する確証が得られなかったことで日本は受諾しませんでした。
今思えば、この時受諾していれば広島・長崎に原爆が投下されることはなかったのです。 -
そのころ、ベルリンのリトルホワイトハウスのトルーマンの下に奇妙な暗号電報がもたらされました。
『BABIES SATISFACTORILY BORN:赤ん坊は無事生まれた』
これこそが原爆実験に成功したという知らせだったのです。
2016年にトルーマンハウスを訪れた時の写真です。 -
トルーマンはスターリンと非公式会談を行い、ソ連の日本への参戦の約束を取り付けました。
そのさい、原爆成功をほのめかしましたが、スターリンは気のない素振りをしていました。
トルーマンは、ポツダム会議でのソ連の増長に危機感を覚えていました。
ソ連が日本に参戦する前に、原子爆弾を日本に投下して日本軍を降参させなければソ連を優位に立たせることになる、
そう考えたトルーマンは原爆投下の書類にサインをしたのでした。 -
7月17日に始まったポツダム会談は8月2日終了しました。
議定協議書に署名した3巨頭。
上から ヨシフ・スターリン、
ハリー・S・トルーマン、
クレメンス・アトリー -
そして、8月6日と9日、長崎と広島にあの忌まわしい新兵器・原子爆弾が投下されたのです。
(写真)日本に投下された原子爆弾。
上:広島に落とされた『リトル・ボーイ」
下:長崎に落とされた「ファット・マン」 -
焦土と化したヒロシマ。
アメリカの原爆投下で焦ったのはソ連でした。
急いで、当時まだ有効だった日ソ中立条約を破棄して8月9日、日本に宣戦布告をしました。 -
ついに日本は8月14日ポツダム宣言の受諾を連合軍に通告し、
翌8月15日には天皇陛下の玉音放送で日本国民に敗戦が知らされました。
そして9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号に重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長が赴き、全権大使として降伏文書に署名したのでした。 -
ソ連は、日本がポツダム宣言受諾後も樺太や千島列島など北方への侵攻を続けました。
米軍のマッカーサー元帥はソ連に対して攻撃停止を申し入れましたが、協議に応じませんでした。
ソ連軍が一方的な戦闘攻撃を停止したのは、9月5日のことでした。
その間にソ連によって占領された北方領土の問題が今なおくすぶっています。
日本人からしたらなんだか釈然としない、まるで火事場泥棒のよう。 -
この美しいツェツィーリエンホーフ宮殿で行われたポツダム会談は、その後の世界の歴史に大きな影を落としました。
(当時は)ソビエト連邦をリーダーとする共産主義国と、アメリカをリーダーとする資本主義国との対立関係が鮮明となり、その後の東西冷戦の種は生まれました。
会談の最中に原爆投下の決定がなされ、広島・長崎が被爆地となり、その破壊力の凄さに世界中の人々が戦慄しました。
そして日本とロシアの北方領土問題はいまだに解決を見ていません。
終戦から75年近く経過して、戦争を知らない世代が圧倒的割合を占めています。
しかし、第二次世界大戦という人類にとっての重大な犯罪を、私たちは絶対に風化させてはならないと思います。
ポツダムという異国の地で、改めて日本の重い歴史を勉強してそう思ったツェツィーリエン宮殿訪問でした。 -
2016年5月、当時のオバマ大統領が被災地広島をアメリカ大統領として初めて訪問された同じ日、私はトルーマンハウスを訪れました。
広場には被災地、広島と長崎から運ばれた記念の石が置かれていました。
最後に、原爆投下命令が下されたリトルホワイトハウス前にあるこの記念碑の碑文をご紹介します。 -
『連合軍によるポツダム会談が1945年7月17日から8月2日まで行われ、その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が正面にある邸宅に滞在していた。
1945年7月25日、アメリカ大統領の同意の下、ワシントンから軍の原爆投下命令が下された。
原爆の破壊力は数十万人の人々を死に追いやり、人々に計り知れない苦しみをもたらした。 核兵器のない世界を願って。』
写真の字はほとんど見えませんが悪しからず。
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この旅行記へのコメント (10)
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- kiju-jiさん 2020/09/23 16:10:18
- frau.himmelさん。kiju-jiです。
- こんにちは。ツェツィリーエンホーフ宮殿の平面図を捜していたらあなたの旅行記にまたぶつかりました。アメリカのスチムソン?長官が原爆投下は戦争を早く終わらせ多くの人々の命を救ったと語ったことに異論はあると思いますが、その通りです。
私は長崎の被爆者。3歳当時、爆心地から約6.5kmの長与村で、背中が異様に熱いので振り向くと長崎の方向が白く光っていました。
終戦内閣の鈴木貫太郎首相は国体護持(元皇室侍従長、彼の後妻は天皇の育て親)に拘り、外務大臣の東郷茂徳(宣戦布告の発信者、朝鮮からの渡来者の子孫、日本人が嫌いでドイツ人の奥さん。時空を超えて日本に敵討ち?。しかも4月5日にソ連から中立条約の更新?はしないと通報されていたにも拘わらず、戦争終結の斡旋を依頼?)らがポツダム宣言の受諾をしなかった。8月9日にソ連が満州に侵攻し、長崎に原爆が投下されてやっと8月14日に受諾を発信したのです。
私は2014年10月31日にポツダムに行きました。ポツダム宣言を決めたツエツイリーエンホーフ宮殿にも行きました。
私は現在、「忘れられないあの日」と称して小中学校の児童、生徒さんや一般の人を対象にパワーポイントを使って話しています。出来るだけ正確な内容にしたいと色々調べています。私は今年78歳を過ぎました。
frau.himmmelさんのブログは大変参考になり、勉強になりました。どうもありがとうございました。またドイツ語の勉強もされているとのこと。
また、ほかのブログも読まさせていただきます。
私の2014年のドイツ旅行の旅行記を書こうかと、6年前なので忘れていることばかり。
今は、ブログも何とか開けるようになりましたが当時はブログの存在さえ知りませんでした。ガイドブックの・・・の歩き方、マップルが参考書でした。
長々と失礼しました。どうもありがとう。
- frau.himmelさん からの返信 2020/09/24 23:30:36
- RE: frau.himmelさん。kiju-jiです。
- kiji-jiさん、こんばんは。
返信遅くなって申し訳ありません。
やっとさっき新旅行記を書き上げました。齢をとるとなかなか思うように文章も思い浮かばず、苦労しています。
さて、コメント、拝見いたしました。
長崎で実際被爆なさった方の戦争への思いは、また特別なものがおありになるのでしょうね。
今はその体験なさったことを、小中学生や一般の方に、戦争を風化させないための語り部として、お話なさっていらっしゃるとのこと、頭が下がります。戦争体験者もだんだん少なくなりつつある今、その活動は大変すばらしいことと思います。どうか今後もお続けになってくださいませ。
それから2014年のドイツ旅行記、是非拝見したいです。
特にポツダム旅行記、またベルリンにいらっして感じられたことなど、是非お話を伺いたく思います。
私の旅行記は、特にドイツやヨーロッパの歴史に関するものは、ボケ防止のために、自分の勉強のために書いているようなもので、上っ面だけのものです。
kiju-jiさんのような体験に基づく奥深いものではありませんので、恥ずかしい限りです。
さきほど、チュービンゲン旅行記を見せていただきました。
奥深いだけでなく、ユーモアのセンスもあるkiju-jiさんの文章は大変面白かったです。
また別な旅行記も見せていただきますね。
ありがとうございました。
himmel
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- salsaladyさん 2020/05/29 10:59:52
- ポツダム宣言~学生時代の英文速記の先生~
- ☆あと数日でこの記録と同じ時期を迎えます。(覗いても何も進んでないね!と言われそうで。。。)感想のみ述べにに来ました~
☆既に半世紀前の事ですから、歴史の一部と化しているのですが、F女学院英文科時代の速記の先生が正に大正ロマンそのままのスタイルで授業を為さる昔のお嬢様?でした。
☆時代考証は定かでは無いけれど、『ポツダム宣言で速記通訳をされた』のが唯一の自慢?らしかったけれどしゃべりは英吉利風?しかも倍くらい時間を掛ける間延びした英語だから、速記じゃなくてdictationの方が早いんじゃ無い?と熱意を失い、その後就職の特技に不足して改めてYWCAで習得した様な過去があります。
☆アレレ?チャーチル首相とトルーマン大統領~日本人が通訳する訳ないでしょうに~もしかして、サンフランシスコ条約だったかしら・歴史に疎くて御免なさい。間違っていたら、私の記憶ではなく、そのお婆ちゃん先生が認知症だったかも~see you~
- frau.himmelさん からの返信 2020/05/29 20:52:50
- RE: ポツダム宣言?学生時代の英文速記の先生?
- salsaさんこんばんは。
塞ぎ込むことが多かった今日この頃、salsaさんのコメントに大笑いしました。
>☆アレレ?チャーチル首相とトルーマン大統領〜日本人が通訳する訳ないでしょうに〜もしかして、サンフランシスコ条約だったかしら・歴史に疎くて御免なさい。間違っていたら、私の記憶ではなく、そのお婆ちゃん先生が認知症だったかも
確かにポツダム宣言を日本人の大正美人が通訳するわけないですね。
しかも倍くらい時間をかける間延びしたしゃべりの先生が「速記」って(笑)。
その先生、まだご存命なら100近い?
認知症であろうとなかろうと、ポツダム宣言やサンフランシスコ条約の通訳をなさったことがご自慢だとは、随分当時からグローバルな先生だったのですね。
salsaさんはその先生の授業に飽き足らなくてYWCAで勉強なさった。
と言うことはその大正美人の先生、salsaさんの反面教師!?
今の行動的なsalsaさんがあるのもその先生のお蔭かしら?
さて、私が通っているジムは6月1日より再開するようです。
salsaさんのところもそうですか?
salsaさんにとっては待ちに待ったジムの再開ですけど、私にとってはずっと巣ごもり生活だったので、なんだか行くのが面倒くさい。
とも言ってられないですね。
これからは変なウイルスに付け込まれない健康な体が何よりの宝ですから。
いつも楽しいコメント、ありがとうございます。
himmel
-
- M-koku1さん 2020/05/24 23:12:12
- はじめまして
- jijidarmaさんの旅行記経由できました。
多分初めましてかと思います。
このツェチーリエンホフ宮殿には 昔々行ったことがありますが
若かったので 歴史の背景をこのように深く考えることはありませんでした。
今考えるともったいない話です。
去年アメリカのデイトンで 長崎に爆弾を落としたB29と 原爆のサンプルが 展示されていたのを見ました。誇らしげに飾ってありました。さすがにアメリカ人のメンタリティーからすれば あの7月の時点で日本が無条件降伏を受け入れていた場合 原爆攻撃をしたとは思えませんが、 受け入れなかったので 使ってみたかったんでしょうね。正々堂々と。 そしてそれを今でも誇りに思っています。 この爆弾のおかげで、沢山のアメリカの若者の命を救うことができた といって。
北方領土に関しては あそこだけで独立したほうがよかったのかもしれませんね。
日帰りで行っただけなので 歴史ど素人の個人的な印象にしかすぎないのですが、あそこは日本も占領していただけだし、ソ連も占領しているだけだと思います。
本当はアイヌたちの国であるべきだったんじゃないかと思いました。
誰のものか、長い歴史を紐解けば、本当は誰のものでもないんです。
そこに生まれ育った人のものであるべきなんではないでしょうか。
読んでいて勉強になりました。
またそのうち訪問させていただきます。
Mより
- frau.himmelさん からの返信 2020/05/25 10:35:55
- RE: はじめまして
- M-koki1さん、おはようございます。
コメントありがとうございました。
いえ、4トラベルの古い会員さんでいらっしゃいますから、お名前は以前より存じ上げておりました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ツェツィーリエンホーフ宮殿に前にいらっしゃったことがあったそうですね。
私も何度か訪れていますが、そんなに深く考えながら見ているわけではないのです。とりあえず写真だけ撮って帰って、旅行記をUPする際にいろいろ調べます。一度の旅で二度おいしいというか・・・。
でも調べ始めたら枝葉が広がり収拾がつかなくなり、取りまとめるのに苦悩しているのも事実です(笑)。
M-koki1さんはアメリカでB29と長崎の原爆のサンプルをご覧になったそうですね。
異国の地でああいうものを見たら、日本人としてすごく複雑な気持ちになりますね。
アメリカからしたら、原爆を投下したおかげで早く戦争を終わらせることができた、多くの若者の命を助けることができたと、救世主のような扱いをしていることは私も知っていました。
でも、あの驚異的な破壊力を持つ究極の新兵器、あの新兵器をたくさん持てば自国を守れる、侵略にも使えるなんて考えるバカな指導者が出てきたことも事実ですね。怖いことです。
北方領土のことは私には詳しく解りませんが、日本がポツダム宣言を受諾した後も、またミズーリ号の上で降伏文書に署名した後も、無抵抗に等しかった日本に対して一方的に攻め続けたというのに腹が立ちまして(単細胞なのです・笑)。
>本当は誰のものでもないんです。
そこに生まれ育った人のものであるべきなんではないでしょうか。
今回調べた浅い知識ながら、私もそう思います。
さきほどM-koki1さんの旅行記リストを拝見させていただきましたら、私にとって大変興味があるところにいろいろ行ってらっしゃいますね。
後ほど拝見させてください。楽しみです。
himmel
-
- kaoluさん 2020/05/24 15:46:00
- 勉強になりました。
- frau.himmelさん こんにちは。
大変お勉強になりました。
実は昨年10月にそちらを訪問しましたが・・どちらかというと、ドイツの戦後処理の方に興味がいってしまっていて・・オーデルナイセ線とか、結婚に反対されて廃嫡?され戦死したヴィルヘルム皇太子の長男・・・とか余計な方に気が行ってしまっててあまり日本のことを考えませんでした。
日本が考えていたほど、太平洋戦争を終結させることを重要事項と考えてないと思っていたからです。彼らにとっては戦後のドイツの処遇をどうするか・・第1次大戦の処理を間違えて、高い賠償金をふっかけたばっかりにヒトラーの様な輩になびいてしまったという反省と、共産主義と資本主義の駆け引きの場・・という場所でしかみてませんでし。
日本人という立場から考えればfrau.himmelさんの解説してらっしゃるとおりですね。うかつでした。
私の訪問が秋でしたので、あの赤い星マークは枯れていました。
あのあたりは、大好きでサイクリングしたりしてるのですが、今度また再び訪れる機会があれば・・と思っています。
それにしても、コロナ後はどんな世界になって行くのでしょうね。
- frau.himmelさん からの返信 2020/05/24 20:30:41
- RE: 勉強になりました。
- kaoluさん、お久しぶりです。
昨年の秋、ポツダムを訪れられたのですね。ソ連の赤い星は枯れていましたか。
あの湖のあたりをサイクリングしたら気持ちいいでしょうね。
>日本が考えていたほど、太平洋戦争を終結させることを重要事項と考えてないと思っていたからです。
ポツダム会談って言うのは、kaoluさんがおっしゃるように、ドイツの敗戦処理、非ナチス化、オーデルナイセの国境線をどうするかとかを、あの三巨頭が集まって話し合いをした場ですから、日本のことは二の次だったと私も思います。
あの時点では、ソ連は日本と中立条約を結んでいて日本と戦えない状況だったでしょうから。
それに日本にしたって、ポツダム宣言が出された時に何らかの手を打っておけば・・・、と日本人なら誰しもが考えると思います。
私もやはり日本人ですね・・・。
会場で、あの長崎と広島におとされた原爆の写真とか、降伏文書に署名するために正装して直立不動で立っている日本の軍人さんたちの写真などを見ますと、やっぱり無念の情が湧きます。
ところで、皇太子の長男って身分違いの結婚をしたのでしたっけ?そして次男が皇太子の跡を継いだのでしたね。
私は数年前にホーエンツォエルン城に行った際、次男さんご夫婦の写真を見ました。まるで映画俳優みたいに美しいご夫婦でした。
その次男さんが、あの城に長い間眠っていたフリードリヒ大王の棺をポツダムのサンスーシ宮殿に移したそうですね。その時勉強しました。
旅をしていると、歴史がどこかで繋がると嬉しくなります。
やっぱりベルリンの歴史って現代・プロイセン、どちらも面白いですね。
ベルリンが大好きなkaoluさんにとっても、しばらく行けないのは寂しいでしょうね。
himmel
-
- ねもさん 2020/05/23 23:01:02
- お久しぶりです
- frau.himmelさん
あんな絶望的な状況なのに、なぜ日本は降伏しなかったのでしょう!?(せめて広島への原爆投下で降伏すべきです) 為政者にとって、何千万の国民より天皇が大事だったんですね。
日本人は頑張るのが好きですが、諦めることも同じくらい大切と思います(怠け者の私が言っても全く説得力ありませんが、笑)
- frau.himmelさん からの返信 2020/05/24 10:27:43
- RE: お久しぶりです
- ねもさん、おはようございます(こんにちは?)。
コメントありがとうございます。
>あんな絶望的な状況なのに、なぜ日本は降伏しなかったのでしょう!?(せめて広島への原爆投下で降伏すべきです)
私も旅行記を書きながらそう思いました。
ポツダム宣言が発表されたのは7月26日なのですから、あの時受諾していれば広島・長崎に原爆は落とされなかった。
またあのアメリカによる原爆投下にあわてて、ソ連も8月9日に日本に参戦しているのですからそれもなかった。日ロの北方領土問題もなかった(わけないですね。あの国のことですからその後も何かと難癖はつけていますね)。
凄〜く穿った見方をすれば、トルーマンは7月25日には原爆が成功したとの報告を受けているわけですから、どこかでこれを試してみたい思惑はあったでしょうね。
増長しているソ連の鼻をあかすいいチャンス到来。日本が宣言を受諾しなかったのはこれ幸いと考えても不思議ではない。
いえこれは私のすごく意地悪な考えです。
頑張るニッポンジン。
大戦以来の危機と言われるコロナ危機、これも日本人十分がんばりましたね。
しかし、このあと、経済問題、教育問題などは一体どうなるのか?
こちらも気になるところです。
ありがとうございました。
himmel
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