2018/11/14 - 2018/11/14
793位(同エリア1181件中)
三峯霧美さん
山梨御朱印巡りの後半は甲府市内、お寺や神社のほとんどは武田信玄と関連があります。
武田氏や信玄を観光のキーワードにしていて、そこばっかり廻ってるからか、あっち行ってもこっち行っても、武田信玄なのでした。
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14:00 大泉寺 だいせんじ 万年山 大泉寺
武田信虎の墓所があるお寺です。
お寺に続く道は斎場と並んでいて、一瞬迷いました。お寺の総門の右側を進んで境内の駐車場へ。
この総門は甲府城主だった柳沢吉保が建立した永慶寺の門で、柳沢氏が国替えした時にお寺も移転してしまい、門を移設しました。武田信虎の墓 寺・神社・教会
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前身は甲斐市にあった大川寺で、武田信虎が本拠地を石和から甲府に移転したのに伴い現在地に移転しました。
1521年の武田信虎は戦勝の宴で祝酒にまどろみ、これから生まれる子供は曾我五郎時宗(仇討の曾我兄弟)の再来と夢を見て目覚めると、若君(信玄)の誕生の知らせが届きます。
その若君は何カ月たっても右手を開きませんでした。 -
後に大泉寺の開山となる天桂禅師は諸国行脚の旅の途中、富士山のふもとの庵の女性に一宿を借りました。
そこへ甲冑姿の武者が帰って来て、自分は曾我十郎祐成の亡魂で、弟の五郎が甲州の信虎の嫡子に再生すると予言します。 -
大きな銀杏の木があって、本堂の前は真っ黄色です。
その武者は自分のために信虎に法華経一万部読誦するよう告げて欲しいと「金龍の目貫」託します。
もう片方の目貫は五郎(若君)の右手にあり、甲城の大泉という池の水で洗えば、手が開くと教えると庵も人も消え、見回すと周囲は草原でした。 -
本堂 本尊 釈迦如来
戦災で焼け、戦後1965年に再建されたものです。
天桂禅師は甲州に赴き、信虎に十郎亡魂が告げたことを語り、大泉池で若君の手から目貫の片方を取り出します。
信虎は大川寺を禅刹の大泉寺と改めて、天桂を開山にして、武田の祈願所・菩提寺と定めました。 -
その若君が後の武田信玄、信玄は曾我兄弟の生まれ変わりなんだというお話です。
お寺は信玄の叔父が二世住職となり、信玄が信虎を追放したのちもお寺は保護されました。 -
本堂の脇を入っていくと、武田家三代の墓所があります。
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武田菱が入った手水舎。
お寺には文化財が残されていて、武田信虎の肖像画は重要文化財です。 -
息子信玄に追放された信虎は1574年に高遠で死去し、大泉寺で葬儀が行われ、埋葬されました。
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江戸時代に甲府藩主となった柳沢吉保は武田家の後裔と称し、武田家三代の御霊屋をつくり、三代の木造を安置しました。
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賽銭箱の横には風林火山の軍配。
この奥に宝篋印塔があるんだそうですが、そこまで知らなかったので見ていません。
気が付かないよな~。 -
駐車場に向かう砂利道の湧水、とても綺麗な水です。
境内に富士見池(大泉)があり、富士山の姿が水面に映ったという伝承があります。
こんな風に泉から湧いた池だったのかもしれない・・。 -
夢山稲荷 駐車場の手前の山の斜面にあります。
かつてこの辺りは狐の森と呼ばれていました。
山に良い香りのする梅の木があったので、大泉寺に移植したところ、二匹の白狐が現れて梅の木を返せとばかりに、鳴き続けて死んでしまいました。
その白狐を祀ったのだそうです。 -
お寺は甲斐百八霊場第59番
南無釈迦牟尼仏
信虎公創建 大泉寺 -
ご住職に寺宝のポストカードセットを頂きました。
さあ、次なる場所に移動です。 -
14:28 信玄公墓
信玄の墓所は、あちこちにありますが、ここは火葬地と伝わります。
通りの向かい側にある北部幼児教育センターの駐車場に、専用スペースがあります。
1572年、武田軍は徳川氏の三河、遠江にに進軍します。
信玄は三方ヶ原の戦いで家康を破り、三河の野田城を落としますが、信玄の病が重くなり撤退。その途中、信玄は病が癒えず死去します。
亡くなった場所は諸説あり、阿智村駒場とも、根羽村とも・・・。武田信玄公墓 名所・史跡
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信玄の遺言により、死去は3年間、秘匿されました。
3年後、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に付し、1576年恵林寺にて葬儀が行われたと伝わります。
その火葬地がここ。
里の人達は「魔縁塚」と呼んで、恐れて近づかなかったそうです。 -
1779年に発掘したところ、信玄の戒名と年月の銘文がある石棺が発見され、元のように埋め戻し、信玄の墓と幕府に届けました。
武田の旧家臣らが石碑を建てたそうです。 -
山の紅葉が綺麗です。
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14:40 円光院 瑞巌山 圓光禅院 甲府五山
石和にあった甲斐源治の始祖、源清光が開創した清光寺で、のちに成就院となり、
武田氏と共に甲府に移転しました。
信玄の正室、三条夫人の菩提寺で、三条夫人の院号にちなみ円光院と改称しました。円光院 寺・神社・教会
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本堂は1977年に再建
御本尊は釈迦如来
三条夫人の墓所はちょっと離れているので参拝しませんでした。
こんなところで、朝の1時間の出遅れが響く・・・。 -
お寺の奥は墓地になっていて、移動する途中、迷って愛宕山スカイラインで山を登り始めてしまい、慌てて戻ってきました。
曲がる道を間違えてしまったのです。 -
お寺には厨子に入った勝軍地蔵像と刀八毘沙門天像があります。
信玄が軍陣の守護尊として躑躅ヶ崎の城内にある毘沙門堂に安置したもので、彩色が鮮やかに残っています。
信玄の遺言で二体の仏像は円光院に納められました。
毎年4月の信玄公祭に御開帳されます。 -
信玄の正室の三条夫人は、公家の三条左大臣公頼の二女として京都に生まれます。
駿河の今川氏の仲介で信玄に嫁ぎました。
信玄との間に三男二女をもうけますが、長男は信玄に謀反を起こし自害、次男は幼少時に失明、三男は夭折、長女は病死、最後は自信が信玄の結核がうつって亡くなったと伝わります。 -
最近新しくされた大きな庫裏で御朱印をお願いしました。
素敵な傘がかけてあります。 -
御朱印を頂きました。
信玄公守本尊
勝軍地蔵像と刀八毘沙門天像の印が押されています。
山のすそ野を廻って次の訪問地へ向かいます。 -
14:55 山梨縣護國神社
創建は1879年
西南戦争以降の山梨県の戦没軍人や軍属の戦死者を祀っています。護国神社 寺・神社・教会
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春は桜の名所なのだそうです。
ここは江戸時代に甲府藩主だった柳沢氏の菩提寺、永慶寺がありました。
甲府が幕府直轄となり、柳沢氏は大和郡山に転封となり、寺も一緒に移動しました。 -
敷地はとても広く、参拝者は年配のカップルが一組だけ。
私、護国神社にお参りしたのは、ここが初めてかもしれない。 -
御朱印を頂きました。
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15:18 積翠寺 せきすいじ 万松山 積翠寺
武田神社の横を山に向かって登って行くと、お寺はあります。
開祖は行基、境内の巨石から水が湧き出ていたので、石水寺と呼ばれていたそうです。積翠寺 寺・神社・教会
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本堂は昭和に再建されたもののようです。
鎌倉時代末期に夢窓疎石の高弟竺峰によって中興され、中世以降は積翠寺と呼ばれました。
御本尊は釈迦如来。
本堂は閉まっていて、庫裏は人の気配がありません。 -
なんか、いろんなものが置いてある。
石段と草の生えた参道を降りていくと、藪の中で作業をしている年配の男性がいたので、お寺の方ですか?と声をかけると、なんとご住職。
御朱印頂けますかと伺うと、参道を上がっていらっしゃと、ご自身は脇道をゆっくり登っていらした。 -
不動堂 武田信玄像が祀られています。
御朱印を待つ間、ご住職に井戸と庭を見てくるように言われて、探索。 -
この間を入って、本堂に裏に抜けます。
武田信虎は躑躅ヶ崎に居館を作ると同時に、このお寺の奥の要害山に防衛のための山城を築城しました。 -
本堂裏手の庭園は夢窓国師が築庭したそうで、このお庭はちゃんと手が入ってよい景観を保っています。
ただ、本堂に近接しているので、相当な広角レンズでも全面撮影は難しい。 -
本堂とお庭の間を通って奥にあるのが信玄公産湯の井戸。
1521年今川氏家臣の福島正成の軍が甲府に迫り、懐妊していた信虎正室、大井夫人は要害山の山城に退きます。
その途中、この積翠寺で産気づき、信玄が生まれたと伝わっています。
この井戸が信玄公産湯の井戸。 -
井戸があると、覗いてみたくなる。
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信玄公産湯天神 逆光でよくわかりませんね。
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頂いた御朱印は
信玄公 誕生寺
信玄産湯天神の印もある。
作業を中断して書いていただきました。ありがとうございます。 -
ここからは甲府盆地が見下ろせます。
雲間から光が差してます。
山を下りて、武田神社に向かいます。 -
15:40 武田神社
武田信虎が造った躑躅ヶ崎館というお城の跡地。そこに大正時代(1919年)に武田信玄を祭神とする神社が創建されました。
山梨の人は信玄愛が強い。武田神社 寺・神社・教会
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武田氏が滅亡し躑躅ヶ崎館は破却、甲斐の政治の中心は甲府城となります。
江戸時代は古城、御屋形跡と呼ばれていたそうで、明治に入って公園になりました。
信玄は今でも郷土の英雄。 -
手水舎
日露戦争後、神社に軍神を祀ることが奨励され、まさに軍神とされる信玄を祀った神社を創建する機運が高まります。 -
手水鉢も武田菱。
大正天皇の即位を記念して、信玄に従三位が追贈されたことがさらに後押しとなって、1919年に社殿竣工。
信玄は神様になりました。 -
拝殿
祭神 武田信玄
御利益は「勝運」
なんでも、創建当時上杉謙信を祭神とした上杉神社ができたので、対抗意識もあったんだそうです。
何百年経っても、まだライバル。 -
宝物館も拝観しました。受付時間ぎりぎりでした。
あの風林火山の実物の旗が展示されています。
想像より大きなものでした。
館内でこの信玄像だけは撮影可能。武田神社 寺・神社・教会
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授与所 御朱印帳を預けました。
境内を廻ってみましょう。 -
社務所の前に水琴窟 キンコンといい音が響いていました。
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名水 姫の井戸
躑躅ヶ崎館のこのあたりは生活の中心だったところで、信玄公の姫が生まれた時に産湯に使った井戸なので、姫の井戸と名付けたそう。
井戸の底から茶釜が出たそうで、お茶を点てる水もここから汲んでいたんでしょうね。
お水取り、無料みたいですね。 -
甲陽武能殿
薪能などのイベントも行われるようです。 -
神社は躑躅ヶ崎の遺構に建っています。
神社の西側は曲輪跡です。
この想像図を見ると、神社参道を作るために石垣を取り壊したことがわかります。 -
散歩をする人もまばら・・・。
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四方を濠で守られていて、南北には虎口のあとが判ります。
古いお城の知識がないので、ガイドがあったら面白いとおもいます。
ブラタモリじゃないんだから。自分で調べないとだめか。 -
頂いた御朱印
風林火山の軍配と龍の印。 -
こちらは書置きの、百鬼丸氏の切り絵デザインの御朱印
立御姿 -
座御姿
黒澤明監督の映画「影武者」は信玄が亡くなった後、それを秘密にするために影武者を立てるという話、仲代達也が主演ですが、当初、勝新太郎主演で撮影が開始されました。しかし勝と黒沢の意見が合わず、勝が降板。
信玄のイメージは勝だったんだけどね。 -
16:30 すっかり人が少なくなりました。
朝からいいお天気でしたが、雲が増えてきました。 -
まだ写真撮影できるくらい明るいので、ちょっと歩いてみましょう。
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周囲には武将の館跡が点在。
真田幸隆邸跡はアパート。
そう、あの真田丸の真田幸村のおじいさんです。 -
神社の東側、大手口から出たところは発掘と、土塁の再現が行われ、そこここに解説板が展示されています。
誰もいない。 -
井戸があれば覗き、高くなっているところには登ってみる、興味の対象は小学生と変わらないことに気づく。
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ちゃんと解説読むと面白い。
だが、残念なことに、だいたいすぐ忘れてしまいます。
さて、お土産も買ったし、夕食を食べて休憩してから帰ろうかな。
これから、ご飯屋さん探すの面倒なので・・・。 -
17:19 で、やってきたのが、前回友人が教えてくれたほうとうのお店。
小作 石和駅前通り店甲州ほうとう小作 石和駅前通り店 グルメ・レストラン
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平日で、夕食時間ちょっと前。
他にお客さんは二組だけ。休日の昼間、順番待ちして入店したのが嘘みたい。 -
多分 茸ほうとう だったと思います。
食べちゃうと忘れちゃう。
アツアツなのでゆっくり堪能。今回は残さずに食べられたよ!
18:10 小作を出発して一宮御坂インターへ
中央道を快適に流して帰って 19時半ごろ帰宅。 -
桔梗信玄餅も美味しいけど、いい加減飽きたので、今回はこれがお土産。
武田神社御用達 カステラ焼き。 -
うんうん、普通に美味しい。信玄餅は食べるまでに蜜を絡めたりと、手数がかかりますが、これはそのまま。
そういえば、我が家の家紋は四花菱。さて、ルーツは何処なんでしょうかね。
来週末、時間もあるし、お天気が良かったら、その四花菱のツレを誘って、再度山梨に行ってみるかな。こういうのって、勢いが大切です。
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