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2018年5月末からナポリ訪問。イタリアは町ごとに個性があり、楽しい。ミラノ、ヴェネチア、ローマと行ったので、次はナポリ。ここも見どころ満載。正直、綺麗ととは言い難い庶民の下町の雰囲気のスパッカナポリとポンペイ遺跡を中心に。ここは食べ歩きのB級グルメ天国。人々もみな、エネルギッシュ。その一方で教会の数も多く、敬虔なクリスチャンが多いとか。<br />今(2020年4月)は、イタリアはコロナウィルスで大変な時期だけど乗り切ってほしい。ところでナポリはJOJOの巡礼聖地のひとつ。頃合いを見ながら紹介します。<br /><br />この旅行記は2日目。<br />ポンペイ遺跡、エルコラーノ遺跡を訪問。<br />旅行記はそれぞれで分けてつくりました。その1、ポンペイ遺跡です。<br />写真の取捨選択を途中で諦めた為、大量の写真から構成されています。236枚もあるし。。。<br /><br />改めて公式HPをみると日本語のガイドマップ(2019)があり、情報はここから引用します(※をつけています)。また、発掘調査も継続中で次々と新しい発見があるみたいです。一番、興味をひく発見は、ベズビオ火山(Mount Vesuvius)の噴火で壊滅的な被害を受けたのは、これまで考えられていた西暦79年8月24日ではなく、同年10月17日以降だった可能性が出てきたこと。教科書がまた変わります。また、つい最近2019年12月、JOJOの巡礼聖地のひとつ、犬の絵のところで、近畿日本ツアーリストが本当に鍵を置いた件についても、触れます。<br /><br /><ガイドマップ><br />http://pompeiisites.org/wp-content/uploads/Pompeii_JA.pdf

ナポリ(Napoli) 2日目その1(ポンペイ遺跡)

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2018/06/01 - 2018/06/01

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2018年5月末からナポリ訪問。イタリアは町ごとに個性があり、楽しい。ミラノ、ヴェネチア、ローマと行ったので、次はナポリ。ここも見どころ満載。正直、綺麗ととは言い難い庶民の下町の雰囲気のスパッカナポリとポンペイ遺跡を中心に。ここは食べ歩きのB級グルメ天国。人々もみな、エネルギッシュ。その一方で教会の数も多く、敬虔なクリスチャンが多いとか。
今(2020年4月)は、イタリアはコロナウィルスで大変な時期だけど乗り切ってほしい。ところでナポリはJOJOの巡礼聖地のひとつ。頃合いを見ながら紹介します。

この旅行記は2日目。
ポンペイ遺跡、エルコラーノ遺跡を訪問。
旅行記はそれぞれで分けてつくりました。その1、ポンペイ遺跡です。
写真の取捨選択を途中で諦めた為、大量の写真から構成されています。236枚もあるし。。。

改めて公式HPをみると日本語のガイドマップ(2019)があり、情報はここから引用します(※をつけています)。また、発掘調査も継続中で次々と新しい発見があるみたいです。一番、興味をひく発見は、ベズビオ火山(Mount Vesuvius)の噴火で壊滅的な被害を受けたのは、これまで考えられていた西暦79年8月24日ではなく、同年10月17日以降だった可能性が出てきたこと。教科書がまた変わります。また、つい最近2019年12月、JOJOの巡礼聖地のひとつ、犬の絵のところで、近畿日本ツアーリストが本当に鍵を置いた件についても、触れます。

<ガイドマップ>
http://pompeiisites.org/wp-content/uploads/Pompeii_JA.pdf

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 今日も快晴。暑くなりそうな予感。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像(Monumento a Vittorio Emanuele II)がある、ジョヴァンニ・ボヴィオ広場(Piazza Giovanni Bovio)。この地下に地下鉄Università駅があり、地下鉄でナポリ本駅に出発。

    今日も快晴。暑くなりそうな予感。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像(Monumento a Vittorio Emanuele II)がある、ジョヴァンニ・ボヴィオ広場(Piazza Giovanni Bovio)。この地下に地下鉄Università駅があり、地下鉄でナポリ本駅に出発。

  • 地下鉄。意外と新しい電車が走っている(落書きをおいておいて)<br />ナポリ中央駅の地下鉄での正式名称はPiazza Giuseppe Garibaldiで駅前の広場の名前になっている。

    地下鉄。意外と新しい電車が走っている(落書きをおいておいて)
    ナポリ中央駅の地下鉄での正式名称はPiazza Giuseppe Garibaldiで駅前の広場の名前になっている。

  • ナポリ本駅についたあと、広い構内をひたすら(本駅の右手の方へ)歩き、私鉄	チルクムヴェスヴィアーナ鉄道 (Ferrovia Circumvesuviana、SFSM)の駅Circumvesuviana Napoli-Garibaldiの方へ。地下で繋がっている。<br /><br />本駅の構内は明るく怪しい人は見かけないですが、このやや離れた私鉄駅まで来ると、スリなどに気を付ける必要があります。

    ナポリ本駅についたあと、広い構内をひたすら(本駅の右手の方へ)歩き、私鉄 チルクムヴェスヴィアーナ鉄道 (Ferrovia Circumvesuviana、SFSM)の駅Circumvesuviana Napoli-Garibaldiの方へ。地下で繋がっている。

    本駅の構内は明るく怪しい人は見かけないですが、このやや離れた私鉄駅まで来ると、スリなどに気を付ける必要があります。

  • 私鉄駅Pompei Scavi(ポンペイ遺跡)で降りる。駅の周辺は混雑。目の前の道路を右手の方へ。おそらく、人の流れができているので迷いようがないと思う。するとポンペイ考古学公園Parco Archeologico di Pompeiの入り口の建物に到着。行列をスキップしたことは覚えているので、何らかのカードを事前に持っていたかも。音声ガイドもここで借りた。入り口の建物を抜けた後、写真の右に見える、やや坂道を登り、マリーナ門と呼ばれる門をくぐり、高台に上がるとそこがポンペイ遺跡。

    私鉄駅Pompei Scavi(ポンペイ遺跡)で降りる。駅の周辺は混雑。目の前の道路を右手の方へ。おそらく、人の流れができているので迷いようがないと思う。するとポンペイ考古学公園Parco Archeologico di Pompeiの入り口の建物に到着。行列をスキップしたことは覚えているので、何らかのカードを事前に持っていたかも。音声ガイドもここで借りた。入り口の建物を抜けた後、写真の右に見える、やや坂道を登り、マリーナ門と呼ばれる門をくぐり、高台に上がるとそこがポンペイ遺跡。

  • REGIO VII, INSULA XV,2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」<br /><br />※ポンペイ遺跡はおよそ66ヘクタールの広さに及び、そのうち約44ヘクタールがこれまでに発掘されています。レジオネス(区域)とインスラエ(ブロック)による町の分割はジュゼッペ・ フィオレッリによるもので、研究と方向付けを容易にするために1858年に割り振られました。家の所有者の名前が明らかでない場合には、発掘者によって、それぞれの発掘品の特徴や周囲の状況に即して家の名前が付けられています。<br />ということで、ここは、RegioVIIのブロックXVの2。<br />Casa del Marinaio(伊)。「船員の家」(日本語)

    REGIO VII, INSULA XV,2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

    ※ポンペイ遺跡はおよそ66ヘクタールの広さに及び、そのうち約44ヘクタールがこれまでに発掘されています。レジオネス(区域)とインスラエ(ブロック)による町の分割はジュゼッペ・ フィオレッリによるもので、研究と方向付けを容易にするために1858年に割り振られました。家の所有者の名前が明らかでない場合には、発掘者によって、それぞれの発掘品の特徴や周囲の状況に即して家の名前が付けられています。
    ということで、ここは、RegioVIIのブロックXVの2。
    Casa del Marinaio(伊)。「船員の家」(日本語)

  • REGIO VII, INSULA XV,2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」<br /><br />※この建物は1871年に発掘され、入り口に造船所にある6隻の船の舳先がモザイクで描かれていること(写真)から、家の名前が付けられています。このテーマは家に住む人のの安全で平安な避難所を暗示し、おそらくは家の主の職業が船主であることもほのめかしているのではないかと推測されます。

    REGIO VII, INSULA XV,2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

    ※この建物は1871年に発掘され、入り口に造船所にある6隻の船の舳先がモザイクで描かれていること(写真)から、家の名前が付けられています。このテーマは家に住む人のの安全で平安な避難所を暗示し、おそらくは家の主の職業が船主であることもほのめかしているのではないかと推測されます。

  • REGIO VII, INSULA XV,2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」<br /><br />ポンペイの町は、エリアごとに、Regio I-IXと9か所に区切られている。<br />写真は、遺跡の敷地の入ってすぐの左手のエリアのRegioVII。

    REGIO VII, INSULA XV,2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

    ポンペイの町は、エリアごとに、Regio I-IXと9か所に区切られている。
    写真は、遺跡の敷地の入ってすぐの左手のエリアのRegioVII。

  • REGIO VII, INSULA XV,2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」<br /><br />ここにもモザイクが残っている。

    REGIO VII, INSULA XV,2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

    ここにもモザイクが残っている。

  • REGIO VII, INSULA XV,2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」<br /><br />

    REGIO VII, INSULA XV,2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

  • REGIO VII, INSULA XV, 2<br />Casa del Marinaio(伊)<br />「船員の家」

    REGIO VII, INSULA XV, 2
    Casa del Marinaio(伊)
    「船員の家」

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(4b)(伊)<br />ロムルスとレムスの家<br /><br />残念ながら説明は見当たらず。家の名前の由来はローマ建国の双子の名前。ロムルス (Romulus) とレムス (Remus) は、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟で、ローマの建設者。 ローマ市は紀元前753年4月21日にこの双子の兄弟によって建設されたと伝えられている(Wikiより)。

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(4b)(伊)
    ロムルスとレムスの家

    残念ながら説明は見当たらず。家の名前の由来はローマ建国の双子の名前。ロムルス (Romulus) とレムス (Remus) は、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟で、ローマの建設者。 ローマ市は紀元前753年4月21日にこの双子の兄弟によって建設されたと伝えられている(Wikiより)。

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

  • REGIO VII, INSULA VII, 10<br />Casa di Romolo e Remo(伊)<br />ロムルスとレムスの家<br /><br />まさか、この2つのフレスコ壁から家の名前が命名されたのでは。。。

    REGIO VII, INSULA VII, 10
    Casa di Romolo e Remo(伊)
    ロムルスとレムスの家

    まさか、この2つのフレスコ壁から家の名前が命名されたのでは。。。

  • REGIO VII, INSULA VII, 32<br />Santuario di Apollo(伊)<br />アポロンの聖域<br /><br />※アポロンの聖域はポンペイで最も古い信仰の場所の一つで、マリーナ門から上って町の中心部へと進む道に沿って、重要な位置に建てられています。 ポンペイ設立の信仰の神としてアポロンが選ばれたのはカンパーニアにギリシア人エトルリア人が存在していたことによります。

    REGIO VII, INSULA VII, 32
    Santuario di Apollo(伊)
    アポロンの聖域

    ※アポロンの聖域はポンペイで最も古い信仰の場所の一つで、マリーナ門から上って町の中心部へと進む道に沿って、重要な位置に建てられています。 ポンペイ設立の信仰の神としてアポロンが選ばれたのはカンパーニアにギリシア人エトルリア人が存在していたことによります。

  • REGIO VII, INSULA VII, 32<br />Santuario di Apollo(伊)<br />アポロンの聖域<br /><br />日時計。<br /><br />※更に深い層まで行った発掘によって出土した壺や奉納品、テラコッタ製の装飾などから、アルカイック期(紀元前6世紀)にはすでに、ここに神殿が建っていたことが判明しています。 紀元前3から2世紀にかけて、古い神殿は完全に建て直され、その後ネロ帝の時代に小規模な手直しが行われた外はあの噴火の日まで元の姿を維持してきました。

    REGIO VII, INSULA VII, 32
    Santuario di Apollo(伊)
    アポロンの聖域

    日時計。

    ※更に深い層まで行った発掘によって出土した壺や奉納品、テラコッタ製の装飾などから、アルカイック期(紀元前6世紀)にはすでに、ここに神殿が建っていたことが判明しています。 紀元前3から2世紀にかけて、古い神殿は完全に建て直され、その後ネロ帝の時代に小規模な手直しが行われた外はあの噴火の日まで元の姿を維持してきました。

  • REGIO VII, INSULA VII, 32<br />Santuario di Apollo(伊)<br />アポロンの聖域<br /><br />※(続き)神殿は基壇の上に建ち、中老で囲まれ、中央の空間には祭壇が置かれていました。 東側の壁には連続した開口部があり、おそらくはテラスのあった壮大な列柱がこの神域と法廷の広場を結んでいました。

    REGIO VII, INSULA VII, 32
    Santuario di Apollo(伊)
    アポロンの聖域

    ※(続き)神殿は基壇の上に建ち、中老で囲まれ、中央の空間には祭壇が置かれていました。 東側の壁には連続した開口部があり、おそらくはテラスのあった壮大な列柱がこの神域と法廷の広場を結んでいました。

  • REGIO VII, INSULA VII, 32<br />Santuario di Apollo(伊)<br />アポロンの聖域<br /><br />※(続き)広場では剣闘士の戦いや演劇の上演などアポロンの興行と呼ばれた見世物や、アポロンと双子のディアナを守護者としていた児童たちが行う神を讃える祭りなどが行われました。 価値あるブロンズ像のアポロンとディアナはヘレニズム時代の作品で、現在はナポリの考古学博物館に保存されています。

    REGIO VII, INSULA VII, 32
    Santuario di Apollo(伊)
    アポロンの聖域

    ※(続き)広場では剣闘士の戦いや演劇の上演などアポロンの興行と呼ばれた見世物や、アポロンと双子のディアナを守護者としていた児童たちが行う神を讃える祭りなどが行われました。 価値あるブロンズ像のアポロンとディアナはヘレニズム時代の作品で、現在はナポリの考古学博物館に保存されています。

  • REGIO VII, INSULA VII, 32<br />Santuario di Apollo(伊)<br />アポロンの聖域<br /><br />ということで、いうまでもなく、ここにあった銅像も含めて、例えば、モザイクなど、この公園に現在ある貴重な美術品はすべて模倣品です。

    REGIO VII, INSULA VII, 32
    Santuario di Apollo(伊)
    アポロンの聖域

    ということで、いうまでもなく、ここにあった銅像も含めて、例えば、モザイクなど、この公園に現在ある貴重な美術品はすべて模倣品です。

  • REGIO VII<br />Foro<br />フォロ(正面は、ジュピターの神殿、さらに背後にヴェスヴィオ火山)<br /><br />※市民のフォロは市民の日常生活の中心の場で、これに面してすべての公共の建物が並び、町の運営、司法による裁き、事業の管理、市場などの商取引が行われたほか、町の信仰の場でもありました。フォロの広場はもとは打ち固めた地面でほぼ定型の単純な開放空間で、西側でアポロンの聖域に隣接し東側には商店が並んでいました。

    REGIO VII
    Foro
    フォロ(正面は、ジュピターの神殿、さらに背後にヴェスヴィオ火山)

    ※市民のフォロは市民の日常生活の中心の場で、これに面してすべての公共の建物が並び、町の運営、司法による裁き、事業の管理、市場などの商取引が行われたほか、町の信仰の場でもありました。フォロの広場はもとは打ち固めた地面でほぼ定型の単純な開放空間で、西側でアポロンの聖域に隣接し東側には商店が並んでいました。

  • REGIO VII<br />Foro<br />フォロ<br /><br />※(続き)フォロは紀元前3から2世紀にかけて根本的に造り直され、正確な形と凝灰岩のスレートを敷き詰めた床を持ち、回廊に囲まれた姿に変身しました。 広場の中心軸はヴェスヴィオ山を結ぶ直線状にあるジュピター神殿のファサードを起点に引かれました。

    REGIO VII
    Foro
    フォロ

    ※(続き)フォロは紀元前3から2世紀にかけて根本的に造り直され、正確な形と凝灰岩のスレートを敷き詰めた床を持ち、回廊に囲まれた姿に変身しました。 広場の中心軸はヴェスヴィオ山を結ぶ直線状にあるジュピター神殿のファサードを起点に引かれました。

  • REGIO VII<br />Foro<br />フォロ<br /><br />※(続き)帝政時代の初期に、フォロの床は新たにトラヴァーチンで敷き直されました。このうち幾つかの敷板は取り払われて、できた窪みには重要な碑文を刻んだブロンズ製の板が嵌め込まれました。この部分の発掘はマリー・カロリーヌ・ボナパルテの希望で開始されて間もなく、すでに古代に盗掘されたいたことが判明しました。発掘時期: 1813.

    REGIO VII
    Foro
    フォロ

    ※(続き)帝政時代の初期に、フォロの床は新たにトラヴァーチンで敷き直されました。このうち幾つかの敷板は取り払われて、できた窪みには重要な碑文を刻んだブロンズ製の板が嵌め込まれました。この部分の発掘はマリー・カロリーヌ・ボナパルテの希望で開始されて間もなく、すでに古代に盗掘されたいたことが判明しました。発掘時期: 1813.

  • REGIO VII, INSULA VII, 31<br />Mensa Ponderaria<br />ポンデラリアの食堂<br /><br />フォロに面してアポロンの聖域の隣にある。<br /><br />※アポロンの聖域を取り巻く壁の東側にはニッチがあって、内部には量り台の模作が置かれ、原作はナポリの考古学博物館に保存されています。量り台は、商いのやり取りで商品の容量を審査するのに用いられた作業台です。 ここでは液体の商品や穀物などのような固形のものも計量することができました。 計量する品をそれぞれ用意された入れ物に詰め、蓋をして量った後、再び容器から出しました。 オスク語にで記された三つの記録によれば、この量り台はローマの登場前から存在していましたが、ポンペイがローマの傘下に入った(紀元前80年)のを機会に、ローマの重量単位と計量法に改正されたことを記す書き込みが今日でも読み取れます。<br />発掘時期: 1816-1817.

    REGIO VII, INSULA VII, 31
    Mensa Ponderaria
    ポンデラリアの食堂

    フォロに面してアポロンの聖域の隣にある。

    ※アポロンの聖域を取り巻く壁の東側にはニッチがあって、内部には量り台の模作が置かれ、原作はナポリの考古学博物館に保存されています。量り台は、商いのやり取りで商品の容量を審査するのに用いられた作業台です。 ここでは液体の商品や穀物などのような固形のものも計量することができました。 計量する品をそれぞれ用意された入れ物に詰め、蓋をして量った後、再び容器から出しました。 オスク語にで記された三つの記録によれば、この量り台はローマの登場前から存在していましたが、ポンペイがローマの傘下に入った(紀元前80年)のを機会に、ローマの重量単位と計量法に改正されたことを記す書き込みが今日でも読み取れます。
    発掘時期: 1816-1817.

  • REGIO VII<br />Granai del Foro<br />フォロの穀物倉<br /><br />※フォロの西側に広がり、レンガの柱で仕切られた8つの開口部を持つ建物で、果物と野菜の市場として使われていました(フォロ・オリトリオ)。 今日ではポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われ、1800年代の終わりからこの都市で行われてきた発掘による出土品9千点以上がここに保管されています。 ポンペイ最後の10年間に日常の生活で使われた、鍋などのテラコッタ製品、竈や水差し、瓶、アンフォラ、油や葡萄酒、魚精を地中海全域から運搬するための大きな容器などが収蔵されています。 他にも、家々の入り口を飾っていた大理石製のテーブルや噴水用の水槽、犠牲者や犬、樹木の石膏型などが陳列されています。建物は紀元62年の地震の後で建設され、噴火が起きた時点ではまだ工事が完成していなかったのではないかと想像されます。発掘時期:1816-1822.

    REGIO VII
    Granai del Foro
    フォロの穀物倉

    ※フォロの西側に広がり、レンガの柱で仕切られた8つの開口部を持つ建物で、果物と野菜の市場として使われていました(フォロ・オリトリオ)。 今日ではポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われ、1800年代の終わりからこの都市で行われてきた発掘による出土品9千点以上がここに保管されています。 ポンペイ最後の10年間に日常の生活で使われた、鍋などのテラコッタ製品、竈や水差し、瓶、アンフォラ、油や葡萄酒、魚精を地中海全域から運搬するための大きな容器などが収蔵されています。 他にも、家々の入り口を飾っていた大理石製のテーブルや噴水用の水槽、犠牲者や犬、樹木の石膏型などが陳列されています。建物は紀元62年の地震の後で建設され、噴火が起きた時点ではまだ工事が完成していなかったのではないかと想像されます。発掘時期:1816-1822.

  • REGIO VII<br />Granai del Foro<br />フォロの穀物倉<br /><br />火砕流での犠牲者。<br />紀元後79年8月24日(発掘での新発見により同年10月17日以降に変わる可能性がある)に発生したヴェスヴィオ火山による古代ローマの都市ポンペイの埋没は、小プリニウスが書いた文献や後年の発掘調査から、高温の火砕サージとそれに続く火砕流によるとみられている。(Wikiより)

    REGIO VII
    Granai del Foro
    フォロの穀物倉

    火砕流での犠牲者。
    紀元後79年8月24日(発掘での新発見により同年10月17日以降に変わる可能性がある)に発生したヴェスヴィオ火山による古代ローマの都市ポンペイの埋没は、小プリニウスが書いた文献や後年の発掘調査から、高温の火砕サージとそれに続く火砕流によるとみられている。(Wikiより)

  • REGIO VII<br />Granai del Foro<br />フォロの穀物倉<br /><br />※小プリニウスの叔父の大プリニウスはこの当時ローマ海軍の提督であったが、被災者の救助に向かい、そのまま火山ガスにより死亡した。ポンペイとその周辺は9時間に及ぶ噴火により約6mの火砕流堆積物(軽石および火山灰)に覆われ、市民約2000人が死亡したと考えられている。(Wikiより)

    REGIO VII
    Granai del Foro
    フォロの穀物倉

    ※小プリニウスの叔父の大プリニウスはこの当時ローマ海軍の提督であったが、被災者の救助に向かい、そのまま火山ガスにより死亡した。ポンペイとその周辺は9時間に及ぶ噴火により約6mの火砕流堆積物(軽石および火山灰)に覆われ、市民約2000人が死亡したと考えられている。(Wikiより)

  • REGIO VII<br />Granai del Foro<br />フォロの穀物倉<br /><br />子供の犠牲者。<br />※両プリニウスにちなんで、このような形式の噴火をプリニー式噴火と呼び、太い樹木のような噴煙柱を形成することが特徴である。(噴煙柱を形成したあと、密度が空気よりも重くなり、柱が重力崩壊を起こし、倒れてくる為、非常に速い。逃げる暇はない!)なお、ポンペイとほぼ同時に被害にあったヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)を襲ったのは火山泥流(ラハール)と考えられている。(Wikiより)

    REGIO VII
    Granai del Foro
    フォロの穀物倉

    子供の犠牲者。
    ※両プリニウスにちなんで、このような形式の噴火をプリニー式噴火と呼び、太い樹木のような噴煙柱を形成することが特徴である。(噴煙柱を形成したあと、密度が空気よりも重くなり、柱が重力崩壊を起こし、倒れてくる為、非常に速い。逃げる暇はない!)なお、ポンペイとほぼ同時に被害にあったヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)を襲ったのは火山泥流(ラハール)と考えられている。(Wikiより)

  • REGIO VII<br />Granai del Foro<br />フォロの穀物倉<br /><br />

    REGIO VII
    Granai del Foro
    フォロの穀物倉

  • REGIO VII<br />Tempio di Giove<br />ジュピターの神殿<br /><br />※ジュピターの神殿はフォロの北側を占め、その後ろにはまるで映画の背景のようにヴェスヴィオ山が聳えています。ローマの植民都市に組み入れられてから(紀元前80年)、神殿には大きく手が加えられて正真正銘のカピトリウムに生まれ変わり、ジュピター、ユノー、ミネルヴァの三神の像が祀られ、ローマのカピトリウムに準じて整備されました。高い基壇の上に建ち、フォロを通る誰の目にも入る建築でした。 新たな工事によって聖像安置室が延長され、床には大理石製の立派な装飾が施されました。基壇にはファビサエと呼ばれる地下室が造られ、本来は神々に捧げられた奉納物を収める空間でした。

    REGIO VII
    Tempio di Giove
    ジュピターの神殿

    ※ジュピターの神殿はフォロの北側を占め、その後ろにはまるで映画の背景のようにヴェスヴィオ山が聳えています。ローマの植民都市に組み入れられてから(紀元前80年)、神殿には大きく手が加えられて正真正銘のカピトリウムに生まれ変わり、ジュピター、ユノー、ミネルヴァの三神の像が祀られ、ローマのカピトリウムに準じて整備されました。高い基壇の上に建ち、フォロを通る誰の目にも入る建築でした。 新たな工事によって聖像安置室が延長され、床には大理石製の立派な装飾が施されました。基壇にはファビサエと呼ばれる地下室が造られ、本来は神々に捧げられた奉納物を収める空間でした。

  • REGIO VII<br />Tempio di Giove<br />ジュピターの神殿<br /><br />※(続き)幾つかの研究成果によれば、この空間はその後町の公共の財産を保管するのに使われたと言われています。 ルシウス・セシリウス・イヨコンドゥスの家のラル神の祭壇にあるレリーフによって、カピトリウムの基壇の左右には2体の騎馬像が置かれていたことが判ります。発掘時期: 1810; 1816; 1820.<br /><br />背後の山、ヴェスヴィオ山は、共和制ローマ時代の紀元前73年に、剣闘士だったスパルタクス(Spartacus)が、剣闘士養成所を脱走して立て籠もったところ。最後は、クラッススの率いる軍団によって奴隷反乱軍は全滅し、スパルタクスも戦死した。「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争。

    REGIO VII
    Tempio di Giove
    ジュピターの神殿

    ※(続き)幾つかの研究成果によれば、この空間はその後町の公共の財産を保管するのに使われたと言われています。 ルシウス・セシリウス・イヨコンドゥスの家のラル神の祭壇にあるレリーフによって、カピトリウムの基壇の左右には2体の騎馬像が置かれていたことが判ります。発掘時期: 1810; 1816; 1820.

    背後の山、ヴェスヴィオ山は、共和制ローマ時代の紀元前73年に、剣闘士だったスパルタクス(Spartacus)が、剣闘士養成所を脱走して立て籠もったところ。最後は、クラッススの率いる軍団によって奴隷反乱軍は全滅し、スパルタクスも戦死した。「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争。

  • REGIO VII, INSULA IX, 2<br />Tempio del Genius Augusti<br />アウグストゥスの守護神の神殿(ヴェスパシアヌスの神殿)<br /><br />※アウグストゥスのの守護神の神殿は、この神と灰の神の女祭祀だったマミアに願いによって建てられたことが記録によって明らかです。 アウグストゥスの治世(紀元1世紀の最初の10年)に神殿が建設されると、続いて隣のアウグストゥスの調和の回廊の工事が開始されました。今日残るファサード下部の大理石装飾やニッチのモチーフ、あるいは紀元62年の地震の後で修復され一部完成していた祭壇からは、この二つが同じ建築のプロジェクトとして進められていたことが判ります。 神殿には小さな中庭と祭壇、高い基壇の上に建つ4本の円柱のある小神殿で構成されていました。今日、エウマキアの調和の回廊の入り口に見られる花々と動物たちをモチーフにした素晴らしい大理石製の装飾は、おそらくはこの神殿の入り口を飾っていたものと思われます。 フリーズはローマにあるアラ・パチスをモデルにして制作されています。発掘時期: 1817.

    REGIO VII, INSULA IX, 2
    Tempio del Genius Augusti
    アウグストゥスの守護神の神殿(ヴェスパシアヌスの神殿)

    ※アウグストゥスのの守護神の神殿は、この神と灰の神の女祭祀だったマミアに願いによって建てられたことが記録によって明らかです。 アウグストゥスの治世(紀元1世紀の最初の10年)に神殿が建設されると、続いて隣のアウグストゥスの調和の回廊の工事が開始されました。今日残るファサード下部の大理石装飾やニッチのモチーフ、あるいは紀元62年の地震の後で修復され一部完成していた祭壇からは、この二つが同じ建築のプロジェクトとして進められていたことが判ります。 神殿には小さな中庭と祭壇、高い基壇の上に建つ4本の円柱のある小神殿で構成されていました。今日、エウマキアの調和の回廊の入り口に見られる花々と動物たちをモチーフにした素晴らしい大理石製の装飾は、おそらくはこの神殿の入り口を飾っていたものと思われます。 フリーズはローマにあるアラ・パチスをモデルにして制作されています。発掘時期: 1817.

  • REGIO VII<br /><br />ジュピターの神殿の東側の回廊を北に向かって歩きます。今は、土台しか残っていませんが、昔はずっと、列柱が並んでいたのでしょう。

    REGIO VII

    ジュピターの神殿の東側の回廊を北に向かって歩きます。今は、土台しか残っていませんが、昔はずっと、列柱が並んでいたのでしょう。

  • REGIO VII<br /><br />正面に見えるのが名誉の門で右手にその当時の市場が見えてきました。

    REGIO VII

    正面に見えるのが名誉の門で右手にその当時の市場が見えてきました。

  • REGIO VII<br />Archi onorari<br />名誉のアーチ<br /><br />※フォロの北側に位置するジュピター神殿の両脇には、古代にはレンガ造りで大理石で化粧張りされた二つのアーチがありました。東側にあったアーチはわずかに基壇が残るのみで、カリギュラ皇帝に捧げられ、彼の死後取り壊されました。 西側にあったアーチは、ティベリウス帝の息子ドゥルーゾに捧げられたものでした。前出のセシリウス・イオコンドゥスの家に残るラル神の祭壇のレリーフからは、紀元62年の地震で倒壊し、その後建て直して再度装飾された様子が描かれています。フォロの回廊の東側にある出口の北側には二つの半円筒ヴォールトからなる別のアーチがあって、かつては大理石で覆われていました。上部には大きな水槽が載っていて、正面外側にある泉に水を供給し、ユリウス-クラウディウス朝の諸皇帝の像で飾られていました。 おそらくはゲルマニウスに捧げられたもので、カリギュラ帝のアーチのの代わりを果たしていました。ティべリウス帝の時代(紀元14-37年)にはフォルトゥーナ・アウグスタ神殿の近くにメルクリオ通りを跨ぐ形で別のアーチが建てられました。このアーチによって、諸皇帝の祭祀に関連した一連の建物の列が終了します。発掘時期: 1816.

    REGIO VII
    Archi onorari
    名誉のアーチ

    ※フォロの北側に位置するジュピター神殿の両脇には、古代にはレンガ造りで大理石で化粧張りされた二つのアーチがありました。東側にあったアーチはわずかに基壇が残るのみで、カリギュラ皇帝に捧げられ、彼の死後取り壊されました。 西側にあったアーチは、ティベリウス帝の息子ドゥルーゾに捧げられたものでした。前出のセシリウス・イオコンドゥスの家に残るラル神の祭壇のレリーフからは、紀元62年の地震で倒壊し、その後建て直して再度装飾された様子が描かれています。フォロの回廊の東側にある出口の北側には二つの半円筒ヴォールトからなる別のアーチがあって、かつては大理石で覆われていました。上部には大きな水槽が載っていて、正面外側にある泉に水を供給し、ユリウス-クラウディウス朝の諸皇帝の像で飾られていました。 おそらくはゲルマニウスに捧げられたもので、カリギュラ帝のアーチのの代わりを果たしていました。ティべリウス帝の時代(紀元14-37年)にはフォルトゥーナ・アウグスタ神殿の近くにメルクリオ通りを跨ぐ形で別のアーチが建てられました。このアーチによって、諸皇帝の祭祀に関連した一連の建物の列が終了します。発掘時期: 1816.

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />市場の正面。建物の中が市場になります。

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    市場の正面。建物の中が市場になります。

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />※マチェルムは凝灰岩でできたクワドリポルティコ(quadriportico、四方に柱廊のある建物)からなり、入口から伸びる中心軸上にある東側の高い位置には礼拝用の広間がありました(写真奥)。 側面の壁のニッチには武具を身に着けた男女一対の大理石像のコピーがあります。オリジナルの像はおそらくティトゥス帝かヴェスパシアヌス帝と思われる大きな彫像の断片とともに発見され、この場所も皇帝信仰の場所であったと想像されます。 左隣には宗教組織の集まりに使われた空間があり、右側には壁づくりのカウンターを備えた大きな空間が残っていて、魚を売っていたのではないかと想像されます。中庭の中央には円形の建物(ソロス)があり(写真中央)、ここも魚を捌いて売る場所として使われていました。

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    ※マチェルムは凝灰岩でできたクワドリポルティコ(quadriportico、四方に柱廊のある建物)からなり、入口から伸びる中心軸上にある東側の高い位置には礼拝用の広間がありました(写真奥)。 側面の壁のニッチには武具を身に着けた男女一対の大理石像のコピーがあります。オリジナルの像はおそらくティトゥス帝かヴェスパシアヌス帝と思われる大きな彫像の断片とともに発見され、この場所も皇帝信仰の場所であったと想像されます。 左隣には宗教組織の集まりに使われた空間があり、右側には壁づくりのカウンターを備えた大きな空間が残っていて、魚を売っていたのではないかと想像されます。中庭の中央には円形の建物(ソロス)があり(写真中央)、ここも魚を捌いて売る場所として使われていました。

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />※南側には商店が並んでいました。 回廊の壁面には魚や鶏の販売などの日常の風景と共に、神話を題材とした場面も描かれています。<br />建物は紀元前130-120年に建設されました。発掘時期: 1818; 1821; 1888.

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    ※南側には商店が並んでいました。 回廊の壁面には魚や鶏の販売などの日常の風景と共に、神話を題材とした場面も描かれています。
    建物は紀元前130-120年に建設されました。発掘時期: 1818; 1821; 1888.

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />上の写真の中央拡大。

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    上の写真の中央拡大。

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />この絵は、妖精っぽい。

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    この絵は、妖精っぽい。

  • REGIO VII, INSULA IX, 7<br />Macellum<br />マチェルム(市場)<br /><br />パンのように見えます。

    REGIO VII, INSULA IX, 7
    Macellum
    マチェルム(市場)

    パンのように見えます。

  • REGIO VII<br /><br />さらに突き進みます。左手はフォロの浴場なのですが、入り口はどうも、この道路には面していないようです。

    REGIO VII

    さらに突き進みます。左手はフォロの浴場なのですが、入り口はどうも、この道路には面していないようです。

  • REGIO VII<br />Tempio della Fortuna Augusta<br />フォルトゥーナ・アウグスタの神殿<br /><br />4つ角の右手にあります。<br />※基壇の上に載り、大理石の円柱と柱頭と全面の祭壇を持つこの小さな神殿は、ローマ全体に行き渡っていたように、単に皇帝アウグストゥス(紀元前31-後14年)を讃える信仰の場ではなく、地元のエリート階級による皇帝一族擁護の宣伝の場でもありました。 この神殿については建設を命令した人物の名が記録に残っています。 マルクス・トゥリウス、別のマルクスの息子でポンペイのドゥオヴィロDuoviroでした。 自らの所有する土地に自費で皇帝礼賛の神殿を建設することで、マルクス・トゥリウスは皇帝の有力な支持者としての地位を得ました。 フォルトゥーナ・アウグスタの信仰は自由民の信者で結成された組織によって運営され、彼らは皇帝と協力な繋がりを持ち、皇帝は彼らの権利と野心を保証する関係でした。 神殿を覆っていた大理石の化粧板は、噴火の数年の血には持ち去らました。 神殿内の聖像安置室にはフォルトゥーナ神の像が置かれ、両側のニッチには皇帝一族の像が並んでいました。<br />発掘時期: 1823-1824; 1826; 1859.<br /><br />ドゥオヴィロ: ローマの植民地、下っては中世の自由都市における、最も高い位の行政官を指します。 ラテン語のドゥムヴィルが示すように、二人の行政官から構<br />成され、任期は一年で政治的・行政的な任務を遂行しました。

    REGIO VII
    Tempio della Fortuna Augusta
    フォルトゥーナ・アウグスタの神殿

    4つ角の右手にあります。
    ※基壇の上に載り、大理石の円柱と柱頭と全面の祭壇を持つこの小さな神殿は、ローマ全体に行き渡っていたように、単に皇帝アウグストゥス(紀元前31-後14年)を讃える信仰の場ではなく、地元のエリート階級による皇帝一族擁護の宣伝の場でもありました。 この神殿については建設を命令した人物の名が記録に残っています。 マルクス・トゥリウス、別のマルクスの息子でポンペイのドゥオヴィロDuoviroでした。 自らの所有する土地に自費で皇帝礼賛の神殿を建設することで、マルクス・トゥリウスは皇帝の有力な支持者としての地位を得ました。 フォルトゥーナ・アウグスタの信仰は自由民の信者で結成された組織によって運営され、彼らは皇帝と協力な繋がりを持ち、皇帝は彼らの権利と野心を保証する関係でした。 神殿を覆っていた大理石の化粧板は、噴火の数年の血には持ち去らました。 神殿内の聖像安置室にはフォルトゥーナ神の像が置かれ、両側のニッチには皇帝一族の像が並んでいました。
    発掘時期: 1823-1824; 1826; 1859.

    ドゥオヴィロ: ローマの植民地、下っては中世の自由都市における、最も高い位の行政官を指します。 ラテン語のドゥムヴィルが示すように、二人の行政官から構
    成され、任期は一年で政治的・行政的な任務を遂行しました。

    フォルトゥーナ アウグスタ神殿 史跡・遺跡

  • REGIO VII<br />Archi onorari<br />名誉のアーチ(Arco di Caligola)<br /><br />※ティべリウス帝の時代(紀元14-37年)にはフォルトゥーナ・アウグスタ神殿の近くにメルクリオ通りを跨ぐ形で別のアーチが建てられました。このアーチによって、諸皇帝の祭祀に関連した一連の建物の列が終了します。<br /><br />4つ角に立つ。向こうはメルクリオ通りであり、REGIO VI地区。フォロの浴場へ行くために左に行きます。

    REGIO VII
    Archi onorari
    名誉のアーチ(Arco di Caligola)

    ※ティべリウス帝の時代(紀元14-37年)にはフォルトゥーナ・アウグスタ神殿の近くにメルクリオ通りを跨ぐ形で別のアーチが建てられました。このアーチによって、諸皇帝の祭祀に関連した一連の建物の列が終了します。

    4つ角に立つ。向こうはメルクリオ通りであり、REGIO VI地区。フォロの浴場へ行くために左に行きます。

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場<br /><br />※フォロの浴場はジュピター神殿の後ろに位置し、将軍シッラによってポンペイがローマの植民都市となって(紀元前80年)間もなく建設されました。入口は婦人用と男性用に分けられていました。 男性用の区画ではアポディテリウム(脱衣場)がテピダリウム(中温の風呂)としても利用され、続いてフリジダリウム(低温の風呂)、カリダリウム(高温の風呂)がありました。

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    ※フォロの浴場はジュピター神殿の後ろに位置し、将軍シッラによってポンペイがローマの植民都市となって(紀元前80年)間もなく建設されました。入口は婦人用と男性用に分けられていました。 男性用の区画ではアポディテリウム(脱衣場)がテピダリウム(中温の風呂)としても利用され、続いてフリジダリウム(低温の風呂)、カリダリウム(高温の風呂)がありました。

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場<br /><br />※(続き)ポンペイの他の多くの建物と同様に、この浴場も紀元62年の地震で大きな被害を受けています。 現在見られる状態の大部分は、その後の修復作業の結果と言えます。

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    ※(続き)ポンペイの他の多くの建物と同様に、この浴場も紀元62年の地震で大きな被害を受けています。 現在見られる状態の大部分は、その後の修復作業の結果と言えます。

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場<br /><br />※(続き)内部装飾の素晴らしさは注目に値し、入浴の際に衣類や持ち物を置くためのニッチにはテラコッタ製の男性像が飾られ(テラモニ)、アポディトゥリウム(脱衣場)とテピダリウム(中温の風呂)のスタッコ仕上げのレリーフのあるヴォールトなどが特筆されます。 同じ空間には暖房に使われたブロンズ製の大きな火鉢が見られます。

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    ※(続き)内部装飾の素晴らしさは注目に値し、入浴の際に衣類や持ち物を置くためのニッチにはテラコッタ製の男性像が飾られ(テラモニ)、アポディトゥリウム(脱衣場)とテピダリウム(中温の風呂)のスタッコ仕上げのレリーフのあるヴォールトなどが特筆されます。 同じ空間には暖房に使われたブロンズ製の大きな火鉢が見られます。

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場<br /><br />※(続き)婦人用の区画はより小さく、噴火の時点では修復中でした。 男性用の施設入口の近くでは、夜間の開場時間に使われたカンテラが500個以上も見つかっています。発掘時期: 1823-1824.

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    ※(続き)婦人用の区画はより小さく、噴火の時点では修復中でした。 男性用の施設入口の近くでは、夜間の開場時間に使われたカンテラが500個以上も見つかっています。発掘時期: 1823-1824.

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場<br /><br />壁に薄い層があり、熱い蒸気が通っていたと思われる。

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    壁に薄い層があり、熱い蒸気が通っていたと思われる。

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

  • REGIO VII<br />Terme del Foro<br />フォロの浴場

    REGIO VII
    Terme del Foro
    フォロの浴場

    フォロの浴場 史跡・遺跡

  • REGIO VI, INSULA VIII, 8<br />Thermopolium<br />テルモポリウム<br /><br />フィロの浴場の道を挟んで反対側にあるテルモポリウム。食堂。<br /><br />※ポンペイで発掘済みの部分(かつてのポンペイの町の2/3がこれまでに発掘済み)に89のテルモポリウム、飲み物と温かい食べ物を売っていたオステリアが確認されても、アトリウムのあるような大きな家に住む富裕な市民たちがそこで食事をしたわけではありません。 オステリアを利用していたのは、社会的地位の比較的低い層の人々でした。

    REGIO VI, INSULA VIII, 8
    Thermopolium
    テルモポリウム

    フィロの浴場の道を挟んで反対側にあるテルモポリウム。食堂。

    ※ポンペイで発掘済みの部分(かつてのポンペイの町の2/3がこれまでに発掘済み)に89のテルモポリウム、飲み物と温かい食べ物を売っていたオステリアが確認されても、アトリウムのあるような大きな家に住む富裕な市民たちがそこで食事をしたわけではありません。 オステリアを利用していたのは、社会的地位の比較的低い層の人々でした。

  • REGIO VI, INSULA VIII, 8<br />Thermopolium<br />テルモポリウム<br /><br />※(続き)ポンペイの町を歩いて回ると、大きな家に組み込まれた商店住居が道に面して住居や大きな家の一部を使った商店が見られ、こうした商店ではしばしば、内部は一つの大きな空間になっています。職人や商人たちはここで生活し、仕事をし、しばしば上の階には彼らが家族と共に暮らす部分が確保されていました。 こうした住居で台所が確認されることは稀です。 つまり、彼らはたくさんあったテルモポリウムへ、出来たての熱い料理を食べに行っていました。<br />発掘時期:1820年代

    REGIO VI, INSULA VIII, 8
    Thermopolium
    テルモポリウム

    ※(続き)ポンペイの町を歩いて回ると、大きな家に組み込まれた商店住居が道に面して住居や大きな家の一部を使った商店が見られ、こうした商店ではしばしば、内部は一つの大きな空間になっています。職人や商人たちはここで生活し、仕事をし、しばしば上の階には彼らが家族と共に暮らす部分が確保されていました。 こうした住居で台所が確認されることは稀です。 つまり、彼らはたくさんあったテルモポリウムへ、出来たての熱い料理を食べに行っていました。
    発掘時期:1820年代

  • REGIO VI<br />Casa del Poeta Tragico<br />悲劇詩人の家<br /><br />アクリル板越しなので、反射があります。<br />※伝統的なアトリウム形式を保つこの家は、入口の床面にあるCAVE CANEM(“犬<br />に注意”)と刻まれたモザイクで有名です。このモザイクは現在ではガラス(実際はアクリル板)で保護されています。 ペリスティリウム直接通じている脇の入り口から入ります。 アトリウムとタブリーノには洗練されたモザイクが残っていました。そのうちの一つには、公演の準備をする役者たちのシーンがあって、家の名の由来となっています。<br />今の装飾には特別な注意が払われました。「イリアス」のエピソードによる神話の大画面のうち、「テセウスに捨てられたアリアドネ」が今日でも見られ、反対側の壁面には“キューピッドの売り”と名付けられた画面があって、1800年代の初め、この家の発掘の後にはこの絵が一般に人気を博しました。ペリスティリウム(*)には小さなニッチが付けられています。ほとんど家にあるラル神の祭壇で、ラルの諸神の他にも、家を守る神が祀られてていました。壁画とモザイクのオリジナルはナポリの考古学博物館に保存されています。家の内部にはエドワード・ブルウァー‐ロイトンが書いた小説「ポンペイ最後の日」(1838)の一部が再現されています。<br />発掘時期: 1824-1825.

    REGIO VI
    Casa del Poeta Tragico
    悲劇詩人の家

    アクリル板越しなので、反射があります。
    ※伝統的なアトリウム形式を保つこの家は、入口の床面にあるCAVE CANEM(“犬
    に注意”)と刻まれたモザイクで有名です。このモザイクは現在ではガラス(実際はアクリル板)で保護されています。 ペリスティリウム直接通じている脇の入り口から入ります。 アトリウムとタブリーノには洗練されたモザイクが残っていました。そのうちの一つには、公演の準備をする役者たちのシーンがあって、家の名の由来となっています。
    今の装飾には特別な注意が払われました。「イリアス」のエピソードによる神話の大画面のうち、「テセウスに捨てられたアリアドネ」が今日でも見られ、反対側の壁面には“キューピッドの売り”と名付けられた画面があって、1800年代の初め、この家の発掘の後にはこの絵が一般に人気を博しました。ペリスティリウム(*)には小さなニッチが付けられています。ほとんど家にあるラル神の祭壇で、ラルの諸神の他にも、家を守る神が祀られてていました。壁画とモザイクのオリジナルはナポリの考古学博物館に保存されています。家の内部にはエドワード・ブルウァー‐ロイトンが書いた小説「ポンペイ最後の日」(1838)の一部が再現されています。
    発掘時期: 1824-1825.

  • REGIO VI<br />Casa del Poeta Tragico<br />悲劇詩人の家<br /><br />JOJOファンならば、ご存じのとおり、ここは巡礼地のひとつ。「乗り物」の鍵が置いてある『悲劇詩人の家』の犬の絵。こんなところに鍵を隠すなんて、人目に付きやすい。ここで、JOJOたちは、ヒットマンチームのイルーゾォのスタンド「マン・イン・ザ・ミラー」と対決。<br />ところで、最近(2019年12月)、近畿日本ツーリストのJOJOツアーで(許可を取って)ここに鍵を置き、鍵のある演出をしたところまではよかったが最終組のツアーのガイドが回収を忘れて、しばらく、鍵のある状態だった。それを別の日本人旅行者が12/24にわざわざ鍵を回収に行ったという話。結局、皆、JOJO好き。<br /><br />https://honeshabri.hatenablog.com/entry/get_the_key

    REGIO VI
    Casa del Poeta Tragico
    悲劇詩人の家

    JOJOファンならば、ご存じのとおり、ここは巡礼地のひとつ。「乗り物」の鍵が置いてある『悲劇詩人の家』の犬の絵。こんなところに鍵を隠すなんて、人目に付きやすい。ここで、JOJOたちは、ヒットマンチームのイルーゾォのスタンド「マン・イン・ザ・ミラー」と対決。
    ところで、最近(2019年12月)、近畿日本ツーリストのJOJOツアーで(許可を取って)ここに鍵を置き、鍵のある演出をしたところまではよかったが最終組のツアーのガイドが回収を忘れて、しばらく、鍵のある状態だった。それを別の日本人旅行者が12/24にわざわざ鍵を回収に行ったという話。結局、皆、JOJO好き。

    https://honeshabri.hatenablog.com/entry/get_the_key

    悲劇詩人の家 建造物

  • REGIO VI, INSULA VI, 1<br />Casa di Pansa<br />パンサの家<br />アリアナ・ポリアナのインスラ<br /><br />ここで言葉の説明。<br /><ペリスティリウム><br />スプリトの町の中央の広場の名前としても紹介済みですが、ペリスティリウム、もしくは、ペリスタイル(peristyle)は、ギリシア建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、または中庭を取り囲むコロネードで中央に庭園などがあるものを指す。&quot;tetrastoon&quot;(4つのアーケード)とも呼ぶ。列柱郭とも。ローマ建築を受け継いだキリスト教の教会建築では、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂などのバシリカが、ペリスタイルで囲まれた前庭の背後にあって、表通りから隔てられていた。その後、ペリスタイルから回廊へと発展していった。(Wikiより)<br /><br /><アトリウム><br />屋根の中央部に天窓があり、床に石を敷き、中央に雨水を受ける水盤を置いた。現代でも使われ、ホテルやオフィスのロビー、マンションのエントランスなどに設けた開放的な吹抜け空間を指す。吹抜け空間の上部にガラスの屋根がかかっていたり、屋内庭園のようになっている。<br /><br /><インプルヴィウム、インプルヴィオ><br />アトリウムの中央のさらに四角く石で囲まれたところをと言う。インプルビウムはアトリウムの床より低くなっていて、そこに雨水 が流れ込むようになっており、<br />その雨水を地下の貯水槽に溜めるように作られている。<br /><br /><タブリウム><br />アトリウムを挟んで家の入り口の反対側にある部屋で、ペリスティリウムとアトリウムを区切っています。 家の中心的な空間で、主のオフィスで、客を迎える場所でもありました。 もとは主人の寝室として使われていました。

    REGIO VI, INSULA VI, 1
    Casa di Pansa
    パンサの家
    アリアナ・ポリアナのインスラ

    ここで言葉の説明。
    <ペリスティリウム>
    スプリトの町の中央の広場の名前としても紹介済みですが、ペリスティリウム、もしくは、ペリスタイル(peristyle)は、ギリシア建築やローマ建築における、柱のあるポーチ、または中庭を取り囲むコロネードで中央に庭園などがあるものを指す。"tetrastoon"(4つのアーケード)とも呼ぶ。列柱郭とも。ローマ建築を受け継いだキリスト教の教会建築では、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂などのバシリカが、ペリスタイルで囲まれた前庭の背後にあって、表通りから隔てられていた。その後、ペリスタイルから回廊へと発展していった。(Wikiより)

    <アトリウム>
    屋根の中央部に天窓があり、床に石を敷き、中央に雨水を受ける水盤を置いた。現代でも使われ、ホテルやオフィスのロビー、マンションのエントランスなどに設けた開放的な吹抜け空間を指す。吹抜け空間の上部にガラスの屋根がかかっていたり、屋内庭園のようになっている。

    <インプルヴィウム、インプルヴィオ>
    アトリウムの中央のさらに四角く石で囲まれたところをと言う。インプルビウムはアトリウムの床より低くなっていて、そこに雨水 が流れ込むようになっており、
    その雨水を地下の貯水槽に溜めるように作られている。

    <タブリウム>
    アトリウムを挟んで家の入り口の反対側にある部屋で、ペリスティリウムとアトリウムを区切っています。 家の中心的な空間で、主のオフィスで、客を迎える場所でもありました。 もとは主人の寝室として使われていました。

  • REGIO VI<br /><br />写真では分からないが、ここは二股に道が分かれており、股のところに水飲み場が置かれている。ここは、秘儀荘(Villa dei Mister)へ行くために、左の道をいく。写真で見えている直線の道は右の道。秘儀荘はポンペイの城壁の外にあり、やや離れている。

    REGIO VI

    写真では分からないが、ここは二股に道が分かれており、股のところに水飲み場が置かれている。ここは、秘儀荘(Villa dei Mister)へ行くために、左の道をいく。写真で見えている直線の道は右の道。秘儀荘はポンペイの城壁の外にあり、やや離れている。

  • REGIO VI, INSULA III, 3<br />Casa del Forno<br />パン焼き釜の家<br /><br />※最初に建てられたのは紀元前2世紀ですが、紀元62年の地震の後で修復工事が行われた際にパン屋に作り替えられました。地上階は仕事場になり、店のオーナーはおそらく上の階に住んでいたものと推定されます。 パン焼きは非常に利益の上がる商売で、ポンペイではこれまでに30以上ものパン屋の跡が確認されています。

    REGIO VI, INSULA III, 3
    Casa del Forno
    パン焼き釜の家

    ※最初に建てられたのは紀元前2世紀ですが、紀元62年の地震の後で修復工事が行われた際にパン屋に作り替えられました。地上階は仕事場になり、店のオーナーはおそらく上の階に住んでいたものと推定されます。 パン焼きは非常に利益の上がる商売で、ポンペイではこれまでに30以上ものパン屋の跡が確認されています。

  • REGIO VI, INSULA III, 3<br />Casa del Forno<br />パン焼き釜の家<br /><br />※(続き)パンを焼く大きなかまどの他、家の裏側にはペリスティリウムを改修して造った石畳の空間があって、麦を製粉するための巨大な4つの溶岩性の石臼と洗浄用の水桶が置かれていました。 ひき臼の上部に差し込んだ木製の棒を人またはロバの力で回転しさせて使用していました ペリスティリウムの隣にあった家畜小屋からはラバの骨が一体丸ごと見つかっています。発掘時期: 1809-1810.<br />

    REGIO VI, INSULA III, 3
    Casa del Forno
    パン焼き釜の家

    ※(続き)パンを焼く大きなかまどの他、家の裏側にはペリスティリウムを改修して造った石畳の空間があって、麦を製粉するための巨大な4つの溶岩性の石臼と洗浄用の水桶が置かれていました。 ひき臼の上部に差し込んだ木製の棒を人またはロバの力で回転しさせて使用していました ペリスティリウムの隣にあった家畜小屋からはラバの骨が一体丸ごと見つかっています。発掘時期: 1809-1810.

  • REGIO VI, INSULA II, 4<br />Casa di Sallustio<br />サルスティオの家<br /><br />※この家はサンニウム時代の住居の顕著な一例(想定建築時期紀元前180年)で、凝灰岩のブロックで造られた質素な正面や同じく凝灰岩製のインプルヴィオを備えたアトリウム、凝灰岩の円柱が囲む裏手の小さな回廊など、オリジナルな姿を全体的に保存しています。 壁面装飾の大部分も建築当時のもので、ポンペイで最もよく保存された例の一つです。 壁面に描かれただまし絵による大理石の化粧板からは、当時この家を訪問した人に与えたであろう重厚な壮大さが想像できます。 この家はおそらく紀元62年の地震の後で宿屋として改装され、道に面した部分には上の階が増築され、インプルヴィオの縁に置かれたブロンズ製のエルコレと女鹿の像(現在はパレルモの国立考古学博物館に収蔵)や1943年の連合軍の爆撃で部分的に破壊された、小庭園の奥にある壁に描かれた女神ダイアナの猟犬に付き添われた等身大のアテオネの壁画など、装飾も部分的に新しくされたものと思われます。印章指輪が示すところによれば、この家の主はアウルス・コシウス・リバヌスという人でした。<br />発掘時期: 1806-1808; 1969-1971; 2005-2006.

    REGIO VI, INSULA II, 4
    Casa di Sallustio
    サルスティオの家

    ※この家はサンニウム時代の住居の顕著な一例(想定建築時期紀元前180年)で、凝灰岩のブロックで造られた質素な正面や同じく凝灰岩製のインプルヴィオを備えたアトリウム、凝灰岩の円柱が囲む裏手の小さな回廊など、オリジナルな姿を全体的に保存しています。 壁面装飾の大部分も建築当時のもので、ポンペイで最もよく保存された例の一つです。 壁面に描かれただまし絵による大理石の化粧板からは、当時この家を訪問した人に与えたであろう重厚な壮大さが想像できます。 この家はおそらく紀元62年の地震の後で宿屋として改装され、道に面した部分には上の階が増築され、インプルヴィオの縁に置かれたブロンズ製のエルコレと女鹿の像(現在はパレルモの国立考古学博物館に収蔵)や1943年の連合軍の爆撃で部分的に破壊された、小庭園の奥にある壁に描かれた女神ダイアナの猟犬に付き添われた等身大のアテオネの壁画など、装飾も部分的に新しくされたものと思われます。印章指輪が示すところによれば、この家の主はアウルス・コシウス・リバヌスという人でした。
    発掘時期: 1806-1808; 1969-1971; 2005-2006.

  • REGIO VI, INSULA II, 4<br />Casa di Sallustio<br />サルスティオの家<br />

    REGIO VI, INSULA II, 4
    Casa di Sallustio
    サルスティオの家

  • REGIO VI, INSULA II, 4<br />Casa di Sallustio<br />サルスティオの家

    REGIO VI, INSULA II, 4
    Casa di Sallustio
    サルスティオの家

  • REGIO VI, INSULA II, 4<br />Casa di Sallustio<br />サルスティオの家

    REGIO VI, INSULA II, 4
    Casa di Sallustio
    サルスティオの家

  • REGIO VI, INSULA II, 4<br />Casa di Sallustio<br />サルスティオの家

    REGIO VI, INSULA II, 4
    Casa di Sallustio
    サルスティオの家

  • REGIO VI<br />Porta Ercolano e cinta muraria<br />エルコラーノ門<br /><br />※門は紀元前89年にローマの将軍シッラがポンペイを征服したのちに建造されたもので、この当時すでに外壁がその機能を失いつつあった時期に造られたため、防御的な設計がされていません。 三つの半円筒ヴォールトからなり、両側の二つはサイズが小さめで、中央のヴォールトは一部が崩れ落ちています。 門の名前は、ここからエルコラーノに向かう道が出ていたことによるものです。 門の内側では、これに続く防御壁はサンニウム時代(紀元前2世紀)以前に造られたもので、凝灰岩でできた大きな階段が歩哨路へのアクセスを容易にしていました。 門の外側の左手には、大きな凝灰岩のブロックを規則正しく積み上げて造られた、高さ7mに及ぶ壁の一部が見られます。外壁の表面仕上げの上には、ポンペイ攻撃の際にとりわけこの部分を激しく襲ったシッラの兵が投げた石による傷跡が、今日でも残っています。発掘時期:18世紀以降<br /><br />ヴォールト(英語:vault)<br />アーチを平行に押し出した形状(かまぼこ型)を特徴とする天井様式および建築構造の総称である。教会や回廊での建築構造での説明によく使われる。

    REGIO VI
    Porta Ercolano e cinta muraria
    エルコラーノ門

    ※門は紀元前89年にローマの将軍シッラがポンペイを征服したのちに建造されたもので、この当時すでに外壁がその機能を失いつつあった時期に造られたため、防御的な設計がされていません。 三つの半円筒ヴォールトからなり、両側の二つはサイズが小さめで、中央のヴォールトは一部が崩れ落ちています。 門の名前は、ここからエルコラーノに向かう道が出ていたことによるものです。 門の内側では、これに続く防御壁はサンニウム時代(紀元前2世紀)以前に造られたもので、凝灰岩でできた大きな階段が歩哨路へのアクセスを容易にしていました。 門の外側の左手には、大きな凝灰岩のブロックを規則正しく積み上げて造られた、高さ7mに及ぶ壁の一部が見られます。外壁の表面仕上げの上には、ポンペイ攻撃の際にとりわけこの部分を激しく襲ったシッラの兵が投げた石による傷跡が、今日でも残っています。発掘時期:18世紀以降

    ヴォールト(英語:vault)
    アーチを平行に押し出した形状(かまぼこ型)を特徴とする天井様式および建築構造の総称である。教会や回廊での建築構造での説明によく使われる。

  • REGIO VI<br />Porta Ercolano e cinta muraria<br />エルコラーノ門<br /><br />ちなみに、エルコラーノとはイタリア語でヘラクレスのこと。

    REGIO VI
    Porta Ercolano e cinta muraria
    エルコラーノ門

    ちなみに、エルコラーノとはイタリア語でヘラクレスのこと。

  • REGIO VI<br />Necropoli di Porta Ercolano<br />エルコラーノ門のネクロポリス<br /><br />※エルコラーノ門のネクロポリスは、ナポリに向かって伸びる街道沿いに広がっていました。現在見られる墳墓は紀元前1世紀以降のものですが、場所自体はすでに<br />ポンペイの歴史の最初の世紀の頃から利用されていました。 ここに見られる記<br />念碑的な墳墓は当時の代表的なタイプを示しています。 エルコラーノ門から出て左<br />側には、スコラ(ギリシア語のスコレ、スクオーラ=学校の語源)と呼ばれる、凝灰岩製の半円形の椅子型墳墓が見られます。この型の墳墓はポンペイに特徴的なタイプで、著名な市民や功のあった人に市の議会から贈られたものでした。 これらの<br />墓の一つには大きな文字で墓の主の名が刻まれています。フォロにアウグスティヌスの守護神の神殿を建てさせた公共の女祭司マミアが紀元29年に亡くなり、ここに埋葬されました。 その他の墳墓は祭壇型の高い基壇の上に築かれ、ナエヴォレイア・ティケやムナティウス・ファウストゥスの墓には、劇場で最前列に座る名誉と港に入る船を表すシンボルとして、二つのベンチが表現されています。 先に進むと、墓と墓の間に多くのヴィラが点在する郊外地区が始まります。<br />発掘時期:1763-1838.

    REGIO VI
    Necropoli di Porta Ercolano
    エルコラーノ門のネクロポリス

    ※エルコラーノ門のネクロポリスは、ナポリに向かって伸びる街道沿いに広がっていました。現在見られる墳墓は紀元前1世紀以降のものですが、場所自体はすでに
    ポンペイの歴史の最初の世紀の頃から利用されていました。 ここに見られる記
    念碑的な墳墓は当時の代表的なタイプを示しています。 エルコラーノ門から出て左
    側には、スコラ(ギリシア語のスコレ、スクオーラ=学校の語源)と呼ばれる、凝灰岩製の半円形の椅子型墳墓が見られます。この型の墳墓はポンペイに特徴的なタイプで、著名な市民や功のあった人に市の議会から贈られたものでした。 これらの
    墓の一つには大きな文字で墓の主の名が刻まれています。フォロにアウグスティヌスの守護神の神殿を建てさせた公共の女祭司マミアが紀元29年に亡くなり、ここに埋葬されました。 その他の墳墓は祭壇型の高い基壇の上に築かれ、ナエヴォレイア・ティケやムナティウス・ファウストゥスの墓には、劇場で最前列に座る名誉と港に入る船を表すシンボルとして、二つのベンチが表現されています。 先に進むと、墓と墓の間に多くのヴィラが点在する郊外地区が始まります。
    発掘時期:1763-1838.

  • REGIO VI<br />Necropoli di Porta Ercolano<br />エルコラーノ門のネクロポリス<br /><br />ネクロポリス(necropolis)とは、巨大な墓地または埋葬場所である。語源は、ギリシャ語のnekropolis(死者の都)。大都市近郊の現代の共同墓地の他に、古代文明の中心地の近くにあった墓所、しばしば人の住まなくなった都市や町を指す。(wikiより)

    REGIO VI
    Necropoli di Porta Ercolano
    エルコラーノ門のネクロポリス

    ネクロポリス(necropolis)とは、巨大な墓地または埋葬場所である。語源は、ギリシャ語のnekropolis(死者の都)。大都市近郊の現代の共同墓地の他に、古代文明の中心地の近くにあった墓所、しばしば人の住まなくなった都市や町を指す。(wikiより)

  • REGIO VI<br />Necropoli di Porta Ercolano<br />エルコラーノ門のネクロポリス

    REGIO VI
    Necropoli di Porta Ercolano
    エルコラーノ門のネクロポリス

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />ヴィラの名称は建物内の、海を見晴らす居住部分に残る秘儀の間に由来しています。 三方の壁面を占める連続したフレスコ画は、古代の絵画の中でも最もよく保存された例の一つで、信者のみが参加できる秘密の儀式の場面が描かれています。 シーンは中央の壁に花嫁アリアンナと共に描かれているデュオニソスに関するものです。両側の壁には婦人たちの他にもファウノやマイナデス、翼のある人物などがそれぞれに、祭儀の任務を担っています。 踊りや葡萄酒、デュオニソスの陶酔の他、座る夫人の膝に身を投げた若い女性の鞭打ちの儀式が描かれています(奥の右側角)。 これ以外の空間にも、第2のスタイル、すなわち建築的な表現を用いた見事な壁面装飾が残されています。一方、タブリウムにはエジプトに想を得たミニアチュールの絵画が現存しています。ヴィラには葡萄酒を作っていた区画もあり、木製の圧搾機が再現されています。建物の起源は前2世紀に遡りますが、現在の形になったのは前80-70年ごろで、秘儀のフリーズ(帯状装飾)もその時期のものです。<br />発掘時期: 1909-1910; 1929-1930.

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    ヴィラの名称は建物内の、海を見晴らす居住部分に残る秘儀の間に由来しています。 三方の壁面を占める連続したフレスコ画は、古代の絵画の中でも最もよく保存された例の一つで、信者のみが参加できる秘密の儀式の場面が描かれています。 シーンは中央の壁に花嫁アリアンナと共に描かれているデュオニソスに関するものです。両側の壁には婦人たちの他にもファウノやマイナデス、翼のある人物などがそれぞれに、祭儀の任務を担っています。 踊りや葡萄酒、デュオニソスの陶酔の他、座る夫人の膝に身を投げた若い女性の鞭打ちの儀式が描かれています(奥の右側角)。 これ以外の空間にも、第2のスタイル、すなわち建築的な表現を用いた見事な壁面装飾が残されています。一方、タブリウムにはエジプトに想を得たミニアチュールの絵画が現存しています。ヴィラには葡萄酒を作っていた区画もあり、木製の圧搾機が再現されています。建物の起源は前2世紀に遡りますが、現在の形になったのは前80-70年ごろで、秘儀のフリーズ(帯状装飾)もその時期のものです。
    発掘時期: 1909-1910; 1929-1930.

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />ガラスケースの中にはここで犠牲になった人の遺体がおいてある。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    ガラスケースの中にはここで犠牲になった人の遺体がおいてある。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />上の壁の中央の小さな絵。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    上の壁の中央の小さな絵。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />犬が暑さから逃れて部屋の片隅で寝ています。<br />おそらく、ここがタブリウム。エジプトに想を得たミニアチュールの絵画が現存しています。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    犬が暑さから逃れて部屋の片隅で寝ています。
    おそらく、ここがタブリウム。エジプトに想を得たミニアチュールの絵画が現存しています。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />見どころのひとつ。この「秘儀荘」の名前はポンペイ・レッドと呼ばれる鮮やかな赤を背景に「ディオニッソスの秘儀」のありさまを描いたこの壁画に由来する。 この壁画は3面の壁面に縦3m、横17mという規模で、その中に29人の人物(天使も含む)が描かれている。<br /><br />この部屋の中には入れず(床一面にモザイクが保存されている)、写真を撮るのに苦労する。(右に窓があり、光が差しこみ、どうしても絵が反射する。。。。)

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    見どころのひとつ。この「秘儀荘」の名前はポンペイ・レッドと呼ばれる鮮やかな赤を背景に「ディオニッソスの秘儀」のありさまを描いたこの壁画に由来する。 この壁画は3面の壁面に縦3m、横17mという規模で、その中に29人の人物(天使も含む)が描かれている。

    この部屋の中には入れず(床一面にモザイクが保存されている)、写真を撮るのに苦労する。(右に窓があり、光が差しこみ、どうしても絵が反射する。。。。)

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />本来は絵巻物のように、左から右へ話が流れるのだが、正面の絵から。残念ながら、最も見たいメインとなる絵の中央部が欠落している。向かって左手の、顔の部分が欠けている、斜めに腰かけている男性と、その背後に男性よりもやや高い位置で、後ろから手を男性の胸部に回している女性(こちらも顔の部分が欠けている)は、ディオニソスとアリアドネの結婚を現わしているらしい。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    本来は絵巻物のように、左から右へ話が流れるのだが、正面の絵から。残念ながら、最も見たいメインとなる絵の中央部が欠落している。向かって左手の、顔の部分が欠けている、斜めに腰かけている男性と、その背後に男性よりもやや高い位置で、後ろから手を男性の胸部に回している女性(こちらも顔の部分が欠けている)は、ディオニソスとアリアドネの結婚を現わしているらしい。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />右の方では、ベールを取る入信者の女性と、鞭を振り上げた羽をもつ天使。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    右の方では、ベールを取る入信者の女性と、鞭を振り上げた羽をもつ天使。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />三面の壁の絵のうち、一番右端の絵。無事に儀式を終え、身支度をしているところ。天使が鏡を掲げている。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    三面の壁の絵のうち、一番右端の絵。無事に儀式を終え、身支度をしているところ。天使が鏡を掲げている。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />左面の絵。つまり、儀式の始まる前の様子。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    左面の絵。つまり、儀式の始まる前の様子。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />一番、左の絵。少年ディオニソス(左から2二人目)が教理を受ける女性(右端の女性)に儀式作法を読んで聞かせているところ。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    一番、左の絵。少年ディオニソス(左から2二人目)が教理を受ける女性(右端の女性)に儀式作法を読んで聞かせているところ。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘<br /><br />踊るサテュロス。すこし、ユーモラス。

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    踊るサテュロス。すこし、ユーモラス。

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

  • REGIO VI<br />Villa dei Misteri<br />秘儀荘

    REGIO VI
    Villa dei Misteri
    秘儀荘

    秘儀荘 史跡・遺跡

  • REGIO VI<br /><br />さてポンペイの町に戻ってきました。まだ行ってない東の方へ向かいます。

    REGIO VI

    さてポンペイの町に戻ってきました。まだ行ってない東の方へ向かいます。

  • REGIO VI, INSULA IX, 6<br />Casa dei Dioscuri<br />ディオスクーリの家<br /><br />※ポンペイ最後の時代に造られた建物の中で、最も壮麗で広い物の一つです。建<br />築的に複雑な空間の構成と豊かな絵画が特徴です。建物には、水の戯れを実現<br />するための深い水槽に面して優雅な居間(エセドラ)を持ち、北側が高く設計され<br />たロードス式の典雅なペリスティリウムを挟んで二つのアトリウムがあります。<br />メインのアトリウムは凝灰岩の12本の円柱で囲まれ、その周りに豪華な来客用<br />の部屋や饗宴用の空間が配され、奥は小さな庭園で仕切られていました。もう一<br />つのアトリウムの周囲は家族の休息や日常の生活に使われた空間が囲んでいまし<br />た。 壁面の装飾は近くにあるヴェッティの家(後で紹介)を手掛けたのと同じ工房によるもので、家の名の元となった入口のデイオスクーリ、カストルとポリュックス<br />の壁画を始め、主要な作品はナポリの考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1826; 1828-1829; 1837.<br /><br />※デイオスクーリ<br />ギリシア神話に登場する双子の兄弟のこと。

    REGIO VI, INSULA IX, 6
    Casa dei Dioscuri
    ディオスクーリの家

    ※ポンペイ最後の時代に造られた建物の中で、最も壮麗で広い物の一つです。建
    築的に複雑な空間の構成と豊かな絵画が特徴です。建物には、水の戯れを実現
    するための深い水槽に面して優雅な居間(エセドラ)を持ち、北側が高く設計され
    たロードス式の典雅なペリスティリウムを挟んで二つのアトリウムがあります。
    メインのアトリウムは凝灰岩の12本の円柱で囲まれ、その周りに豪華な来客用
    の部屋や饗宴用の空間が配され、奥は小さな庭園で仕切られていました。もう一
    つのアトリウムの周囲は家族の休息や日常の生活に使われた空間が囲んでいまし
    た。 壁面の装飾は近くにあるヴェッティの家(後で紹介)を手掛けたのと同じ工房によるもので、家の名の元となった入口のデイオスクーリ、カストルとポリュックス
    の壁画を始め、主要な作品はナポリの考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1826; 1828-1829; 1837.

    ※デイオスクーリ
    ギリシア神話に登場する双子の兄弟のこと。

  • REGIO VI, INSULA IX, 6<br />Casa dei Dioscuri<br />ディオスクーリの家<br /><br />

    REGIO VI, INSULA IX, 6
    Casa dei Dioscuri
    ディオスクーリの家

  • REGIO VI, INSULA VII, 18<br />Casa di Adone ferito<br />傷ついたアドニスの家<br /><br />中には入れず、この家の名前にもなったフレスコ画は見ることができず。<br /><br /><br />

    REGIO VI, INSULA VII, 18
    Casa di Adone ferito
    傷ついたアドニスの家

    中には入れず、この家の名前にもなったフレスコ画は見ることができず。


  • REGIO VI, INSULA VII, 18<br />Casa di Adone ferito<br />傷ついたアドニスの家<br /><br />※もとは紀元前2世紀の半ばに建てられた家に、後年になって隣の建物を併合し、一つの大きな邸宅になりました。ポンペイが埋没する少し前に、建物内の多くの部分が改修され、壁画も大部分描き直されました。 この時期のフレスコ画としては、庭園にある死にかけたアドニスと女神アフロディテの大きな画面が際立ち、この家の名の由来ともなっています。 ギリシア神話によれば、この上なく美しい青年アドニスは女神アフロディテに愛されましたが、マルス(またはアポロという説)が嫉妬して放ったイノシシによって森で狩りをしている間に襲われたとあります。 神話には、死にゆくアドニスの血がアネモネの花になったと記されています。 庭園に向かって開放された大きな空間には、愛と所望をテーマにした別の大きな絵が残っています。左手の東側壁面には“雌雄同体のToeletta”と題されたフレスコ画の一部が見られます。 これらの画面が暗示する、達成できない、実現不可能な愛<br />は、古代の美術や文学では繰り返し取り上げられるテーマでした。発掘時期: 1835-1838.

    REGIO VI, INSULA VII, 18
    Casa di Adone ferito
    傷ついたアドニスの家

    ※もとは紀元前2世紀の半ばに建てられた家に、後年になって隣の建物を併合し、一つの大きな邸宅になりました。ポンペイが埋没する少し前に、建物内の多くの部分が改修され、壁画も大部分描き直されました。 この時期のフレスコ画としては、庭園にある死にかけたアドニスと女神アフロディテの大きな画面が際立ち、この家の名の由来ともなっています。 ギリシア神話によれば、この上なく美しい青年アドニスは女神アフロディテに愛されましたが、マルス(またはアポロという説)が嫉妬して放ったイノシシによって森で狩りをしている間に襲われたとあります。 神話には、死にゆくアドニスの血がアネモネの花になったと記されています。 庭園に向かって開放された大きな空間には、愛と所望をテーマにした別の大きな絵が残っています。左手の東側壁面には“雌雄同体のToeletta”と題されたフレスコ画の一部が見られます。 これらの画面が暗示する、達成できない、実現不可能な愛
    は、古代の美術や文学では繰り返し取り上げられるテーマでした。発掘時期: 1835-1838.

  • REGIO VI, INSULA VII, 18<br />Casa di Adone ferito<br />傷ついたアドニスの家(?)<br /><br />どこで撮ったか不明だが、順番から「傷ついたアドニスの家」と思われる。

    REGIO VI, INSULA VII, 18
    Casa di Adone ferito
    傷ついたアドニスの家(?)

    どこで撮ったか不明だが、順番から「傷ついたアドニスの家」と思われる。

  • REGIO VI, INSULA VII, 18<br />Casa di Adone ferito<br />傷ついたアドニスの家<br /><br />どこで撮ったか不明だが、順番から「傷ついたアドニスの家」と思われる。<br />上の写真の拡大。

    REGIO VI, INSULA VII, 18
    Casa di Adone ferito
    傷ついたアドニスの家

    どこで撮ったか不明だが、順番から「傷ついたアドニスの家」と思われる。
    上の写真の拡大。

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />※富と社会的な地位を想像することができます。入口の前の歩道には歓迎を表す言葉(HAVE)がラテン語で記されています。壮麗な表玄関は装飾された柱頭を持つ角柱で囲まれ、入口の床には三角にカットした黄色、緑、赤、バラ色の大理石編で構成した象嵌模様(オプス・セクティレ)が施されています。 両側の壁の高い部分には、家の守護神ラルを祭った小祭壇が浮き彫りで設えられています。内部には二つのアトリウムと二つのペリスティリウムがあり、それらの周囲に他の空間が展開しています。接待用に使われた空間には見事な装飾が施され、それ以外にも家族のための空間、台所や浴室などの空間が整っていました。メインのアトリウムにあるインプルヴィオの中央には、有名な踊るサテュロス、またはファウノの彫刻のコピーが置かれています。家の名はこの彫刻に由来し、同時に所有者であった人物の家名、すなわちサトゥリィを暗示しています。二つのペリスティリウムの間にある居間(エセドラ)には、アレクサンダー大王とペルシア王ダリウス(ダレイオス3世)との間の歴史を変えた大戦(イッソスの戦い、紀元前333年)をテーマにした、有名な紀元前2世紀のモザイクの模作があります。モザイクとファウノの像のオリジナルは、ナポリの国立考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1829-1833; 1900; 1960-1962.

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    ※富と社会的な地位を想像することができます。入口の前の歩道には歓迎を表す言葉(HAVE)がラテン語で記されています。壮麗な表玄関は装飾された柱頭を持つ角柱で囲まれ、入口の床には三角にカットした黄色、緑、赤、バラ色の大理石編で構成した象嵌模様(オプス・セクティレ)が施されています。 両側の壁の高い部分には、家の守護神ラルを祭った小祭壇が浮き彫りで設えられています。内部には二つのアトリウムと二つのペリスティリウムがあり、それらの周囲に他の空間が展開しています。接待用に使われた空間には見事な装飾が施され、それ以外にも家族のための空間、台所や浴室などの空間が整っていました。メインのアトリウムにあるインプルヴィオの中央には、有名な踊るサテュロス、またはファウノの彫刻のコピーが置かれています。家の名はこの彫刻に由来し、同時に所有者であった人物の家名、すなわちサトゥリィを暗示しています。二つのペリスティリウムの間にある居間(エセドラ)には、アレクサンダー大王とペルシア王ダリウス(ダレイオス3世)との間の歴史を変えた大戦(イッソスの戦い、紀元前333年)をテーマにした、有名な紀元前2世紀のモザイクの模作があります。モザイクとファウノの像のオリジナルは、ナポリの国立考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1829-1833; 1900; 1960-1962.

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。<br />本物はナポリの考古学博物館にあります。

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。
    本物はナポリの考古学博物館にあります。

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。<br />本物はナポリの考古学博物館にあります。

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。
    本物はナポリの考古学博物館にあります。

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。<br />本物はナポリの考古学博物館にあります。

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    イッソスの戦い(紀元前333年)をテーマにしたモザイク(模作)。
    本物はナポリの考古学博物館にあります。

    牧神の家 史跡・遺跡

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br />

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />家の名前の由来となった踊るファウヌス(牧神)の像。こちらもコピーで、本物は考古学博物館にあります。

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    家の名前の由来となった踊るファウヌス(牧神)の像。こちらもコピーで、本物は考古学博物館にあります。

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

  • REGIO VI, INSULA VII, 2<br />Casa del Fauno<br />ファウノの家<br />(ファウヌスの家)<br /><br />玄関にある「HAVE」の文字。ようこその意味らしい。

    REGIO VI, INSULA VII, 2
    Casa del Fauno
    ファウノの家
    (ファウヌスの家)

    玄関にある「HAVE」の文字。ようこその意味らしい。

  • REGIO VI<br /><br />次の家を目指します。

    REGIO VI

    次の家を目指します。

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家<br /><br />※ポンペイで最も有名で見事なこの家は、奴隷出身の自由民で商いで財を成したアウルス・ヴェッティウス・レスティトトスとアウルス・ヴェッティウス・コンヴィーヴァ兄弟が所有し、扉の右側にはあるじの経済的な繁栄を約束する神プリアポがシンボルとして描かれています(写真)。<br /><br />自分の巨大な男根と金貨の入った袋を天秤にかけている豊穣の神プリアポス。巨大な性器は繁栄のシンボルで、魔除けの意味もあったそうです。キリスト教が布教する前は、結構、性的にはおおらかな時代。

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

    ※ポンペイで最も有名で見事なこの家は、奴隷出身の自由民で商いで財を成したアウルス・ヴェッティウス・レスティトトスとアウルス・ヴェッティウス・コンヴィーヴァ兄弟が所有し、扉の右側にはあるじの経済的な繁栄を約束する神プリアポがシンボルとして描かれています(写真)。

    自分の巨大な男根と金貨の入った袋を天秤にかけている豊穣の神プリアポス。巨大な性器は繁栄のシンボルで、魔除けの意味もあったそうです。キリスト教が布教する前は、結構、性的にはおおらかな時代。

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家<br /><br />※(続き)アウグスティヌス帝の時代(紀元前1世紀)には改修されて、ファウノの家やサルスティウスの家に見られるような典型的な住居形式に変更が加えられ、タブリヌムを取り除いてより大きなスペースを、彫刻で飾られ噴水が溢れるこの館のメインとなる庭園に割いています。 ペリスティリウムに面しては、より見事な装飾を施した部屋が集まり、中でもキューピッドたちが、ワインの販売や衣類の洗濯、花の栽培やブドウの収穫、宝石細工の加工や香料の製造など、当時の製造活動にいそしむシーンを描いたサロンのフリーズ壁画はとりわけ興味深い作品です。 台所の区域にはラル神の祭壇が描かれ、近くにある官能的な小絵画で飾られた部屋では、家の入口に刻まれているように、エウティキスという名の娼婦がアス銅貨数枚で商売をしていました。発掘時期: 1894-1895.

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

    ※(続き)アウグスティヌス帝の時代(紀元前1世紀)には改修されて、ファウノの家やサルスティウスの家に見られるような典型的な住居形式に変更が加えられ、タブリヌムを取り除いてより大きなスペースを、彫刻で飾られ噴水が溢れるこの館のメインとなる庭園に割いています。 ペリスティリウムに面しては、より見事な装飾を施した部屋が集まり、中でもキューピッドたちが、ワインの販売や衣類の洗濯、花の栽培やブドウの収穫、宝石細工の加工や香料の製造など、当時の製造活動にいそしむシーンを描いたサロンのフリーズ壁画はとりわけ興味深い作品です。 台所の区域にはラル神の祭壇が描かれ、近くにある官能的な小絵画で飾られた部屋では、家の入口に刻まれているように、エウティキスという名の娼婦がアス銅貨数枚で商売をしていました。発掘時期: 1894-1895.

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家<br /><br />彫像。何となく、モチーフがいたのでは思うぐらいリアルなので、おそらく家の主人?男根の先に穴が開いているので、ここから水が出ていたのかな!?<br />

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

    彫像。何となく、モチーフがいたのでは思うぐらいリアルなので、おそらく家の主人?男根の先に穴が開いているので、ここから水が出ていたのかな!?

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家<br /><br />

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

  • REGIO VI<br />Casa dei Vettii<br />ヴェッティの家

    REGIO VI
    Casa dei Vettii
    ヴェッティの家

    ヴェッティの家 建造物

  • この辺りはあまり観光客が来ないみたい。。。ヴェッティの家から北へ行きます。

    この辺りはあまり観光客が来ないみたい。。。ヴェッティの家から北へ行きます。

  • REGIO VI<br />Casa del Principe di Napoli<br />ナポリ王子の家<br /><br />※この家はもとは独立していた二軒の小規模な住宅を一つに造り直したため、間取りが不規則になっています。 アトリウムの区域には町の最後の時期に制作された装飾が残され、特に上部の彩色ブロックの列はよく保存されています。 インプルヴィオは有翼の獅子を形どった脚に載った大理石製のテーブルで縁取りされています。建物の後ろ部分は回廊と真ん中の庭園を中心に展開し、豊かな装飾が施されていて接客や饗宴に用いられました。 ニッチの壁面には等身大のバッカスとヴィーナスが描かれ、トリクリニオの床面の中央には貴重な有色大理石の象眼模様が施されています。また庭園の奥には家庭での礼拝に使われたラル神の祭壇がニッチの中に置かれています。発掘時期: 1896-1897.

    REGIO VI
    Casa del Principe di Napoli
    ナポリ王子の家

    ※この家はもとは独立していた二軒の小規模な住宅を一つに造り直したため、間取りが不規則になっています。 アトリウムの区域には町の最後の時期に制作された装飾が残され、特に上部の彩色ブロックの列はよく保存されています。 インプルヴィオは有翼の獅子を形どった脚に載った大理石製のテーブルで縁取りされています。建物の後ろ部分は回廊と真ん中の庭園を中心に展開し、豊かな装飾が施されていて接客や饗宴に用いられました。 ニッチの壁面には等身大のバッカスとヴィーナスが描かれ、トリクリニオの床面の中央には貴重な有色大理石の象眼模様が施されています。また庭園の奥には家庭での礼拝に使われたラル神の祭壇がニッチの中に置かれています。発掘時期: 1896-1897.

  • Regio VI<br />Castellum Aquae<br />カステッルム・アクアエ<br /><br />※この水道の分配設備はポンペイで最も標高の高い位置(42m)に設けられ、アヴェッリーノ近郊にあるアウグスティヌス時代のセリノの水道橋に接続され、ポンペイの町全体に水を供給していました。 この水道施設の機能からは、古代の水道工事の水準の高さが証明されます。カステッルムは円形の巨大な水槽で占められ、北側にある送水管から送られてくる水を流量調節と水を分断する低い仕切り壁のシステムによって、必要に応じて水量の配分を調節していました。 水は落ちる際の圧力を利用して高さの異なる三つの導管へ向かって導かれる仕組みでした。 導管は必要な際には木製の楔を打ち込んで閉じることが可能でした。この水道施設は紀元62年の地震で被害を受け、噴火の起きた72年の時点では町の中に設置された40の泉同様、機能していなかったものと推測されます。発掘時期: 1902.<br /><br />*地図は近くのヴェスーヴィオ門を示しています。

    Regio VI
    Castellum Aquae
    カステッルム・アクアエ

    ※この水道の分配設備はポンペイで最も標高の高い位置(42m)に設けられ、アヴェッリーノ近郊にあるアウグスティヌス時代のセリノの水道橋に接続され、ポンペイの町全体に水を供給していました。 この水道施設の機能からは、古代の水道工事の水準の高さが証明されます。カステッルムは円形の巨大な水槽で占められ、北側にある送水管から送られてくる水を流量調節と水を分断する低い仕切り壁のシステムによって、必要に応じて水量の配分を調節していました。 水は落ちる際の圧力を利用して高さの異なる三つの導管へ向かって導かれる仕組みでした。 導管は必要な際には木製の楔を打ち込んで閉じることが可能でした。この水道施設は紀元62年の地震で被害を受け、噴火の起きた72年の時点では町の中に設置された40の泉同様、機能していなかったものと推測されます。発掘時期: 1902.

    *地図は近くのヴェスーヴィオ門を示しています。

    ヴェスーヴィオ門 史跡・遺跡

  • REGIO VI, INSULA XVI, 15<br />Casa dell&#39;Ara Massima<br />アラ・マッシマの家<br /><br />※限られた敷地のため、一般的な住宅のプランを踏襲せず、快適な庭園もないこの家の中心はアトリウムでした。入口から伸びる直線状の、通常タブリヌムのある位置には小さな部屋があって、内部の壁の中央にはナルシスの神話に題材をとったフレスコ画が描かれています。同じ側には家の守護神であるラル神のニッチもあり、祭壇の両脇には幸運を招く二匹の蛇が描かれています。 この家からはブロンズのエジプトのスフィンクスを形どった支えを持つテーブルが見つかり、現在はナポリの考古学博物館に展示されています。その他にも数多くのブロンズ製の製品に交じって、120もの魚釣り用の針が残されています。 この家の名は、祭壇の前に立つエルコレのフレスコ画に因んだもので、祭壇は英雄がローマに建てたアラ・マクシマであるという見解が一般的です。従って、実際にはアルチェスティの墓所の前に立つエルコレとアドメテウスと解釈することができます。発掘時期: 1903.

    REGIO VI, INSULA XVI, 15
    Casa dell'Ara Massima
    アラ・マッシマの家

    ※限られた敷地のため、一般的な住宅のプランを踏襲せず、快適な庭園もないこの家の中心はアトリウムでした。入口から伸びる直線状の、通常タブリヌムのある位置には小さな部屋があって、内部の壁の中央にはナルシスの神話に題材をとったフレスコ画が描かれています。同じ側には家の守護神であるラル神のニッチもあり、祭壇の両脇には幸運を招く二匹の蛇が描かれています。 この家からはブロンズのエジプトのスフィンクスを形どった支えを持つテーブルが見つかり、現在はナポリの考古学博物館に展示されています。その他にも数多くのブロンズ製の製品に交じって、120もの魚釣り用の針が残されています。 この家の名は、祭壇の前に立つエルコレのフレスコ画に因んだもので、祭壇は英雄がローマに建てたアラ・マクシマであるという見解が一般的です。従って、実際にはアルチェスティの墓所の前に立つエルコレとアドメテウスと解釈することができます。発掘時期: 1903.

  • REGIO VI, INSULA XVI, 15<br />Casa dell&#39;Ara Massima<br />アラ・マッシマの家

    REGIO VI, INSULA XVI, 15
    Casa dell'Ara Massima
    アラ・マッシマの家

  • REGIO VI, INSULA XVI, 15<br />Casa dell&#39;Ara Massima<br />アラ・マッシマの家

    REGIO VI, INSULA XVI, 15
    Casa dell'Ara Massima
    アラ・マッシマの家

  • REGIO VI, INSULA XVI, 15<br />Casa dell&#39;Ara Massima<br />アラ・マッシマの家

    REGIO VI, INSULA XVI, 15
    Casa dell'Ara Massima
    アラ・マッシマの家

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家<br /><br />※飾り気のないポルタイユと内部の壁の工法から、最初に建てられたのは紀元前2世紀の半ばであることが明らかですが、その後、ポンペイ最後の時期にカエチリ家の所有となった際に本格的な改築と繊細な装飾が行われました。 紀元79年の時点で一族の長であり、家の所有者でもあったルシウス・カエシリウス・ウクンドゥスに捧げられた青銅製の肖像がタブリーノの前で発見されて、現在はナポリの考古学博物館に展示されています。 家の中から見つかった154に及ぶ蠟塗りの資料から、チェチリオ・ジョコンドは金融業者であったことが判っています。資料には紀元52から62年の間に財産(特に奴隷)を売った人々に支払われたお金や家賃の取り立てによって得ていた1-4%のマージンなどが記されています。 この家からはアトリウムにあるラル神の祭壇を飾っていた大理石製のレリーフが2点見つかり、62年の地震による公共の建物への被害を示しています。発掘時期:1844; 1875-1876.<br /><br />ここにも番犬のモザイクが玄関の床にある。

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

    ※飾り気のないポルタイユと内部の壁の工法から、最初に建てられたのは紀元前2世紀の半ばであることが明らかですが、その後、ポンペイ最後の時期にカエチリ家の所有となった際に本格的な改築と繊細な装飾が行われました。 紀元79年の時点で一族の長であり、家の所有者でもあったルシウス・カエシリウス・ウクンドゥスに捧げられた青銅製の肖像がタブリーノの前で発見されて、現在はナポリの考古学博物館に展示されています。 家の中から見つかった154に及ぶ蠟塗りの資料から、チェチリオ・ジョコンドは金融業者であったことが判っています。資料には紀元52から62年の間に財産(特に奴隷)を売った人々に支払われたお金や家賃の取り立てによって得ていた1-4%のマージンなどが記されています。 この家からはアトリウムにあるラル神の祭壇を飾っていた大理石製のレリーフが2点見つかり、62年の地震による公共の建物への被害を示しています。発掘時期:1844; 1875-1876.

    ここにも番犬のモザイクが玄関の床にある。

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

  • REGIO V, INSULA I, 26<br />Casa di Cecilio Giocondo<br />チェチリオ・ジョコンドの家

    REGIO V, INSULA I, 26
    Casa di Cecilio Giocondo
    チェチリオ・ジョコンドの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家<br /><br /><br />※シンプルな正面の背後には、ポンペイでも指折りの美しい住居が展開し、所有者の文化レベルの高さを証明する文学や美術に言及した極めて洗練された絵画が残されています。中でもアトリウムとタブリーノでは、とりわけ主の繊細な感性が認められます。 アトリウムには大理石製のインプルヴィオの池が目に入ります。また、獅子の脚を持つテーブル(写真)があって、発掘された品々が展示されていました。

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家


    ※シンプルな正面の背後には、ポンペイでも指折りの美しい住居が展開し、所有者の文化レベルの高さを証明する文学や美術に言及した極めて洗練された絵画が残されています。中でもアトリウムとタブリーノでは、とりわけ主の繊細な感性が認められます。 アトリウムには大理石製のインプルヴィオの池が目に入ります。また、獅子の脚を持つテーブル(写真)があって、発掘された品々が展示されていました。

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家<br /><br />※(続き)タブリーノにはバッカスとアリアドネの勝利、ヴィーナスとマルスのキューピッドたちが描かれています。 近くには当時流行していた海辺のヴィラや静物画が配置されています。 庭園の壁にはライオンやヒョウ、クマや家畜たちの狩りの情景が描かれ、当時この題材は半開放の空間の装飾にしばしば用いられていました。<br />家の所有者は行政官マルクス・ルクレティウス・フロントで、ここでも上の正面の選挙登録から名前が確認できます。発掘時期: 1899-1900; 1972-1974.

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    ※(続き)タブリーノにはバッカスとアリアドネの勝利、ヴィーナスとマルスのキューピッドたちが描かれています。 近くには当時流行していた海辺のヴィラや静物画が配置されています。 庭園の壁にはライオンやヒョウ、クマや家畜たちの狩りの情景が描かれ、当時この題材は半開放の空間の装飾にしばしば用いられていました。
    家の所有者は行政官マルクス・ルクレティウス・フロントで、ここでも上の正面の選挙登録から名前が確認できます。発掘時期: 1899-1900; 1972-1974.

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家<br /><br />中央部拡大。

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    中央部拡大。

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家<br /><br />中央部拡大。

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    中央部拡大。

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家<br /><br />中央部拡大。

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    中央部拡大。

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO V, INSULA IV, A<br />Casa di Marco Lucrezio Frontone<br />マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

    REGIO V, INSULA IV, A
    Casa di Marco Lucrezio Frontone
    マルコ・ルクレツィオ・フロントーネの家

  • REGIO IX, INSULA XIV, 4<br />Casa di Obellio Firmo<br />オベリオ・フィルモの家<br /><br />※ポンペイで最も大きく複雑な構成の住宅の一つで、正面だけでもこの区画の短い一辺を完全に占領しています。内部には二つのアトリウムと一つのペリスティリウムが見られます。 凝灰岩製のコリント式円柱を持つ最初のアトリウムは堂々とした壮大な造りで、そこに置かれた洗練された調度からは所有者の豊かさが覗えます。 これら調度品には、獅子の脚で支えられた大理石製のテーブルやこれも大理石で作られたサテュロスの像を載せていた溝彫のある台座、噴水の水を集める水受けなどが含まれていました。 アトリウムの右側には、発掘の際に見つかった鉄の板で覆われた木製の金庫が置かれています。ドリス式の円柱があるもう一つのアトリウムは、日常の生活空間や台所浴室などの施設が囲んでいました。この家の建設時期はローマ時代に先立ち、所有者の一族は高い階層に属していました。噴火の前にこの家に住んでいたのが、当時第一線で政治活動をしていたオベリイ一族であるかどうかは定かではありません。発掘時期: 1888; 1903; 1910-1911.

    REGIO IX, INSULA XIV, 4
    Casa di Obellio Firmo
    オベリオ・フィルモの家

    ※ポンペイで最も大きく複雑な構成の住宅の一つで、正面だけでもこの区画の短い一辺を完全に占領しています。内部には二つのアトリウムと一つのペリスティリウムが見られます。 凝灰岩製のコリント式円柱を持つ最初のアトリウムは堂々とした壮大な造りで、そこに置かれた洗練された調度からは所有者の豊かさが覗えます。 これら調度品には、獅子の脚で支えられた大理石製のテーブルやこれも大理石で作られたサテュロスの像を載せていた溝彫のある台座、噴水の水を集める水受けなどが含まれていました。 アトリウムの右側には、発掘の際に見つかった鉄の板で覆われた木製の金庫が置かれています。ドリス式の円柱があるもう一つのアトリウムは、日常の生活空間や台所浴室などの施設が囲んでいました。この家の建設時期はローマ時代に先立ち、所有者の一族は高い階層に属していました。噴火の前にこの家に住んでいたのが、当時第一線で政治活動をしていたオベリイ一族であるかどうかは定かではありません。発掘時期: 1888; 1903; 1910-1911.

  • うーん、この辺は誰もいない。。。

    うーん、この辺は誰もいない。。。

  • REGIO IX, INSULA III, 5<br />Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana<br />スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家<br /><br />※平面図から明らかなように、もとは二つの住宅であったものを一つにまとめたもので、床面の高さの異なる二つのアトリウムが直角に配置される結果となっています。アトリウムの開放空間に残る壁画はよい仕上がりで、ポンペイ最後の時期の作品と推定され、その一部はナポリの考古学博物館に展示されています。この家で注目に値するのは小さな庭園で、アトリウムより一段高い位置に造られ、シレノスを形どった彫刻から湧き出る水が、入念に装飾された大理石製の優雅な滝状の噴水に落ちるように工夫されています。 庭園では、円形の池の周りに4つのヘルメス柱像とエロテスErotes and とシレノスSileniのサイズの異なった大理石の彫像が配されていました。 家の名前は筆記具をモチーフにした小さな絵に由来し、その中にはポンペイの参事会員でマルス神の祭祀であったマルコ・ルクレツィオに宛てられた手紙も描かれています。発掘時期: 1846-1845; 1851; 2002-2005.<br /><br />という訳で壁にあったであろう壁画がきれに剥がれて、博物館に保管されています。

    REGIO IX, INSULA III, 5
    Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana
    スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家

    ※平面図から明らかなように、もとは二つの住宅であったものを一つにまとめたもので、床面の高さの異なる二つのアトリウムが直角に配置される結果となっています。アトリウムの開放空間に残る壁画はよい仕上がりで、ポンペイ最後の時期の作品と推定され、その一部はナポリの考古学博物館に展示されています。この家で注目に値するのは小さな庭園で、アトリウムより一段高い位置に造られ、シレノスを形どった彫刻から湧き出る水が、入念に装飾された大理石製の優雅な滝状の噴水に落ちるように工夫されています。 庭園では、円形の池の周りに4つのヘルメス柱像とエロテスErotes and とシレノスSileniのサイズの異なった大理石の彫像が配されていました。 家の名前は筆記具をモチーフにした小さな絵に由来し、その中にはポンペイの参事会員でマルス神の祭祀であったマルコ・ルクレツィオに宛てられた手紙も描かれています。発掘時期: 1846-1845; 1851; 2002-2005.

    という訳で壁にあったであろう壁画がきれに剥がれて、博物館に保管されています。

  • REGIO IX, INSULA III, 5<br />Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana<br />スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家<br />

    REGIO IX, INSULA III, 5
    Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana
    スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家

  • REGIO IX, INSULA III, 5<br />Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana<br />スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家<br />

    REGIO IX, INSULA III, 5
    Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana
    スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家

  • REGIO IX, INSULA III, 5<br />Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana<br />スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家<br />

    REGIO IX, INSULA III, 5
    Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana
    スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家

  • REGIO IX, INSULA III, 5<br />Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana<br />スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家<br /><br />このあと、南へ進み観光客が多くいるメインストリートに戻ります。

    REGIO IX, INSULA III, 5
    Casa di Marco Lucrezio sulla via Stabiana
    スタビアナ通りのマルコ・ルクレツィオの家

    このあと、南へ進み観光客が多くいるメインストリートに戻ります。

  • REGIO I, INSULA VI,11<br />Casa di Casca Longus<br />カスカ・ロングスまたは演劇モチーフの小絵画の家<br /><br />※建物全体は紀元前2世紀に建てられた、隣接する二つの家を統合したもので、今日メインのアトリウムと付属のアトリウムにそれを見ることができます。 メインのアトリウムの壁画は「メナンドロの悲劇」の演劇場面を描いたもので、アウグスティヌス時代にそれ以前の壁画に代わって制作され、高い水準の作品となっています。空間全体が非常に洗練され、インプルヴィオ* は有色の大理石で覆われ、雨水を流すコンプルヴィオ* は完璧に復元されてテラコッタの水切りで装飾されています。 インプルヴィオの片側には、獅子の脚を形どった大理石の三脚で支えられた特徴のある石板が見られ、もとの所有者で、紀元前44年にシーザーを暗殺したグループに加わってたプブリウス・セルヴィリウス・カスカ・ロングスの名が刻まれています。 シーザーの暗殺者から剥奪されたこの価値ある品は、その後貴重品の収集家であったこの家の持ち主の見事な調度品に加えられました。他にも銀製の皿やアトリウムにあった戸棚から、ブロンズ製の小彫刻などが見つかり、主のコレクション好きを物語っています。発掘時期: 1912; 1926-1927.

    REGIO I, INSULA VI,11
    Casa di Casca Longus
    カスカ・ロングスまたは演劇モチーフの小絵画の家

    ※建物全体は紀元前2世紀に建てられた、隣接する二つの家を統合したもので、今日メインのアトリウムと付属のアトリウムにそれを見ることができます。 メインのアトリウムの壁画は「メナンドロの悲劇」の演劇場面を描いたもので、アウグスティヌス時代にそれ以前の壁画に代わって制作され、高い水準の作品となっています。空間全体が非常に洗練され、インプルヴィオ* は有色の大理石で覆われ、雨水を流すコンプルヴィオ* は完璧に復元されてテラコッタの水切りで装飾されています。 インプルヴィオの片側には、獅子の脚を形どった大理石の三脚で支えられた特徴のある石板が見られ、もとの所有者で、紀元前44年にシーザーを暗殺したグループに加わってたプブリウス・セルヴィリウス・カスカ・ロングスの名が刻まれています。 シーザーの暗殺者から剥奪されたこの価値ある品は、その後貴重品の収集家であったこの家の持ち主の見事な調度品に加えられました。他にも銀製の皿やアトリウムにあった戸棚から、ブロンズ製の小彫刻などが見つかり、主のコレクション好きを物語っています。発掘時期: 1912; 1926-1927.

  • REGIO I, INSULA VI,11<br />Casa di Casca Longus<br />カスカ・ロングスまたは演劇モチーフの小絵画の家<br /><br />2階部が残っている。

    REGIO I, INSULA VI,11
    Casa di Casca Longus
    カスカ・ロングスまたは演劇モチーフの小絵画の家

    2階部が残っている。

  • REGIO I, INSULA VI,7<br />Fullonica di Stephanus<br />ステファヌスのフロニカ<br />(ステファヌスの洗濯屋)<br /><br />※この家は紡いだ糸の油抜きや汚れた衣類や布の洗濯をする作業場として使われ、もとはアトリウム形式だった家を改造してポンペイ最後の時期に改造されたものです。アトリウムの中央には、本来インプルヴィオがあるべき位置に大きな貯水槽が置かれ、コンプルヴィオがあった場所には明り取りの開口部が作られて、テラスの上階部分は布地を乾す場所に改造されています。その他の水槽は家の後ろ側にある庭に置かれていました。 発掘によってフロニカ(洗濯場)の全貌が現れた際に、入り口近くでまとまった貨幣と共に一体の人骨が発見されました。 フロニカの所有者で、選挙人登録から明らかなステファヌスのものと推測され、最後の売り上げをもって逃げようとしたものの、紀元79年の噴火で命を失いました。 ステファヌスの使用人はほとんどすべて奴隷の身分で、動物や人間の尿を含んだ液に付けた布地を何時間も足で踏み続けるのが仕事でした。道路に沿って液体の入った壺が並んでいました。発掘時期: 1912-1913.

    REGIO I, INSULA VI,7
    Fullonica di Stephanus
    ステファヌスのフロニカ
    (ステファヌスの洗濯屋)

    ※この家は紡いだ糸の油抜きや汚れた衣類や布の洗濯をする作業場として使われ、もとはアトリウム形式だった家を改造してポンペイ最後の時期に改造されたものです。アトリウムの中央には、本来インプルヴィオがあるべき位置に大きな貯水槽が置かれ、コンプルヴィオがあった場所には明り取りの開口部が作られて、テラスの上階部分は布地を乾す場所に改造されています。その他の水槽は家の後ろ側にある庭に置かれていました。 発掘によってフロニカ(洗濯場)の全貌が現れた際に、入り口近くでまとまった貨幣と共に一体の人骨が発見されました。 フロニカの所有者で、選挙人登録から明らかなステファヌスのものと推測され、最後の売り上げをもって逃げようとしたものの、紀元79年の噴火で命を失いました。 ステファヌスの使用人はほとんどすべて奴隷の身分で、動物や人間の尿を含んだ液に付けた布地を何時間も足で踏み続けるのが仕事でした。道路に沿って液体の入った壺が並んでいました。発掘時期: 1912-1913.

  • REGIO I, INSULA VI,7<br />Fullonica di Stephanus<br />ステファヌスのフロニカ<br />(ステファヌスの洗濯屋)<br /><br />アトリウムの中央に置かれた貯水槽。

    REGIO I, INSULA VI,7
    Fullonica di Stephanus
    ステファヌスのフロニカ
    (ステファヌスの洗濯屋)

    アトリウムの中央に置かれた貯水槽。

  • REGIO I, INSULA VI,7<br />Fullonica di Stephanus<br />ステファヌスのフロニカ<br />(ステファヌスの洗濯屋)<br />

    REGIO I, INSULA VI,7
    Fullonica di Stephanus
    ステファヌスのフロニカ
    (ステファヌスの洗濯屋)

  • REGIO I, INSULA VI,7<br />Fullonica di Stephanus<br />ステファヌスのフロニカ<br />(ステファヌスの洗濯屋)

    REGIO I, INSULA VI,7
    Fullonica di Stephanus
    ステファヌスのフロニカ
    (ステファヌスの洗濯屋)

  • REGIO I, INSULA VI,7<br />Fullonica di Stephanus<br />ステファヌスのフロニカ<br />(ステファヌスの洗濯屋)<br /><br />建物の奥にある、確か染物をする場所だったと記憶している(間違えていたらすみません。)

    REGIO I, INSULA VI,7
    Fullonica di Stephanus
    ステファヌスのフロニカ
    (ステファヌスの洗濯屋)

    建物の奥にある、確か染物をする場所だったと記憶している(間違えていたらすみません。)

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家<br /><br />※入口の扉に見られる立方体の柱頭から明らかなように、最初の住居はサンニウ<br />ム時代(紀元前2世紀)に造られたもので、床面には半閉じの扉の前に座る鎖で<br />つながれた犬のモザイクが残されています。帝政ローマでは犬は家の守りのシ<br />ンボルとされていたことから、このモザイクはその時代のものとされています。 アトリウムはモザイクで覆われ、繁栄を引喩する多色使いの動物たちが大きな角に仕切られた空間に配置され、更に男女二人の人物が配されています。 他にも、ペリスティリウムに開かれた居住空間に見られる高価な大理石を組み込んだ床や、床の中央に配された細かい多色の小片で描かれた繊細なモザイク画は、極めて高度な装飾技法によるものです。 トリクリニオにはその当時ポンペイで活躍していたアトリエが手掛けた作品があって、六人の小人が滑稽な漁をしている場面が描かれています。もう一つの作品は現在ナポリの国立考古学博物館に展示され、酩酊したシレノスの下敷きになるロバの場面が描かれています。 家の正面に描かれた多くの選挙掲示物から、この家の所有者はプブリウス・パクイウス・プロクルスか、或いはカイウス・クスピウス・パンサであると思われます。発掘時期: 1911; 1912; 1923-1926.

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

    ※入口の扉に見られる立方体の柱頭から明らかなように、最初の住居はサンニウ
    ム時代(紀元前2世紀)に造られたもので、床面には半閉じの扉の前に座る鎖で
    つながれた犬のモザイクが残されています。帝政ローマでは犬は家の守りのシ
    ンボルとされていたことから、このモザイクはその時代のものとされています。 アトリウムはモザイクで覆われ、繁栄を引喩する多色使いの動物たちが大きな角に仕切られた空間に配置され、更に男女二人の人物が配されています。 他にも、ペリスティリウムに開かれた居住空間に見られる高価な大理石を組み込んだ床や、床の中央に配された細かい多色の小片で描かれた繊細なモザイク画は、極めて高度な装飾技法によるものです。 トリクリニオにはその当時ポンペイで活躍していたアトリエが手掛けた作品があって、六人の小人が滑稽な漁をしている場面が描かれています。もう一つの作品は現在ナポリの国立考古学博物館に展示され、酩酊したシレノスの下敷きになるロバの場面が描かれています。 家の正面に描かれた多くの選挙掲示物から、この家の所有者はプブリウス・パクイウス・プロクルスか、或いはカイウス・クスピウス・パンサであると思われます。発掘時期: 1911; 1912; 1923-1926.

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家<br /><br />ここにも番犬がいる。

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

    ここにも番犬がいる。

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

  • REGIO I, INSULA VII, 1<br />Casa di Paquius Proculus<br />パクイウス・プロクルスの家

    REGIO I, INSULA VII, 1
    Casa di Paquius Proculus
    パクイウス・プロクルスの家

  • ローマ時代の落書き?

    ローマ時代の落書き?

  • REGIO I, INSULA VII, 2-3<br />Casa di Fabius Amandio<br /><br />※説明なし。

    REGIO I, INSULA VII, 2-3
    Casa di Fabius Amandio

    ※説明なし。

  • REGIO I, INSULA VII, 2-3<br />Casa di Fabius Amandio

    REGIO I, INSULA VII, 2-3
    Casa di Fabius Amandio

  • REGIO I, INSULA VII, 2-3<br />Casa di Fabius Amandio

    REGIO I, INSULA VII, 2-3
    Casa di Fabius Amandio

  • REGIO I, INSULA VIII, 8<br />Case e Thermopolium di Vetutius Placidus<br />ヴェトゥティウス・プラキドゥスの家とテルモポリウム<br /><br />※ヴェトゥティウス・プラチドゥスのテルモポリウム(ギリシア語から派生したラテン語)はアッボンダンツァ通りに面し、かつては土地所有者層だけに限られていた社会的な地位を、ローマ時代のポンペイでは商人や職人たちも享受していたことを示す良い例と言えます。 名前が示すように、この建物では豊かな装飾のあるレンガ造りのカウンターに大きなかめの下半分を陥れることができるようになっていて、その中に保存された温かい食べ物と飲み物を提供していました。 興味深いのは奥の壁にあるニッチで、家の神々(ラル神)、オーナーの守護神ジェニオ、商いの神(メルクリオ)、酒の神(デュオニソス)を祀った祭壇がよく保存されています。

    REGIO I, INSULA VIII, 8
    Case e Thermopolium di Vetutius Placidus
    ヴェトゥティウス・プラキドゥスの家とテルモポリウム

    ※ヴェトゥティウス・プラチドゥスのテルモポリウム(ギリシア語から派生したラテン語)はアッボンダンツァ通りに面し、かつては土地所有者層だけに限られていた社会的な地位を、ローマ時代のポンペイでは商人や職人たちも享受していたことを示す良い例と言えます。 名前が示すように、この建物では豊かな装飾のあるレンガ造りのカウンターに大きなかめの下半分を陥れることができるようになっていて、その中に保存された温かい食べ物と飲み物を提供していました。 興味深いのは奥の壁にあるニッチで、家の神々(ラル神)、オーナーの守護神ジェニオ、商いの神(メルクリオ)、酒の神(デュオニソス)を祀った祭壇がよく保存されています。

  • REGIO I, INSULA VIII, 8<br />Case e Thermopolium di Vetutius Placidus<br />ヴェトゥティウス・プラキドゥスの家とテルモポリウム<br /><br />※(続き)仕事場に直接通じている建物の後方には、見事なフレスコ画で装飾された住居と屋外での饗宴に用いられたトリクリニオ(*)が残っています。台に嵌めたままの形で残されたテラコッタ製のかめの一つからは、最後の日の売上金と思われる重さ3キロ近くものたくさんの貨幣が見つかり、オステリアの商いがどれほど繁盛していたかが想像できます。発掘時期:1912; 1939.<br /><br />*トリクリニオ、横臥食卓: ローマの住宅に見られた食堂で、そこに置かれていた3つの寝台を意味する言葉がもととなっています。家の主と招待された客は部屋の<br />三方に置かれた寝台の上に三人づつ横たわり、最後の一方は給仕のために空けてありました。 一般的には、この空間は庭園に向かって開放されていて、客が緑の眺めを楽しめるように配慮されていました。

    REGIO I, INSULA VIII, 8
    Case e Thermopolium di Vetutius Placidus
    ヴェトゥティウス・プラキドゥスの家とテルモポリウム

    ※(続き)仕事場に直接通じている建物の後方には、見事なフレスコ画で装飾された住居と屋外での饗宴に用いられたトリクリニオ(*)が残っています。台に嵌めたままの形で残されたテラコッタ製のかめの一つからは、最後の日の売上金と思われる重さ3キロ近くものたくさんの貨幣が見つかり、オステリアの商いがどれほど繁盛していたかが想像できます。発掘時期:1912; 1939.

    *トリクリニオ、横臥食卓: ローマの住宅に見られた食堂で、そこに置かれていた3つの寝台を意味する言葉がもととなっています。家の主と招待された客は部屋の
    三方に置かれた寝台の上に三人づつ横たわり、最後の一方は給仕のために空けてありました。 一般的には、この空間は庭園に向かって開放されていて、客が緑の眺めを楽しめるように配慮されていました。

  • REGIO I, INSULA IX, 5<br />Casa del Frutteto o dei Cubicoli Floreali<br />果樹園または草花装飾の寝室の家<br /><br />※この家のアトリウムは後方に緑の空間を持つ設計で、ポンペイでも最も美しい庭園画が保存されています。 ポンペイに残る他の建築例では、庭園画は客用の広間など公けの空間に限られていたのに対し、この家ではプライベートな部分、二つの小さな寝室の壁に描かれています。この庭園画にはエジプトのイシス神に関連するモチーフが組み込まれていて、家の主がこの女神の信奉者であったことを想像させます。二つの寝室のうち、最初の部屋には観賞用の植物と果樹が描かれ、レモンやセイヨウヤマモモなど、その種類が分かるほど正確に描写されています。 二つ目の部屋には大きさの異なる3本の木が描かれ、中でも中央のひときわ大きい木はイチジクで、繁栄のシンボルである蛇が住む木とされていました。発掘時期: 1913; 1951.

    REGIO I, INSULA IX, 5
    Casa del Frutteto o dei Cubicoli Floreali
    果樹園または草花装飾の寝室の家

    ※この家のアトリウムは後方に緑の空間を持つ設計で、ポンペイでも最も美しい庭園画が保存されています。 ポンペイに残る他の建築例では、庭園画は客用の広間など公けの空間に限られていたのに対し、この家ではプライベートな部分、二つの小さな寝室の壁に描かれています。この庭園画にはエジプトのイシス神に関連するモチーフが組み込まれていて、家の主がこの女神の信奉者であったことを想像させます。二つの寝室のうち、最初の部屋には観賞用の植物と果樹が描かれ、レモンやセイヨウヤマモモなど、その種類が分かるほど正確に描写されています。 二つ目の部屋には大きさの異なる3本の木が描かれ、中でも中央のひときわ大きい木はイチジクで、繁栄のシンボルである蛇が住む木とされていました。発掘時期: 1913; 1951.

  • REGIO III, INSULA II, 1<br />Casa di Trebio Valente<br />トレビオ・ヴァレンテの家<br /><br />※アトリウムとペリスティリウムを備えたこの家は、共和国時代のローマの典型的な住宅例ということができます。正面は1943年のイギリス軍とアメリカ軍の爆撃で被害を受ける(こんな田舎に爆弾落としたの!?)までは、古代における壁面広告の最大の例でしたが、今日では東側の部分に黒色の掲示の一部が残るのみです。この掲示には沢山の選挙関係のプログラムや円形劇場で催される出し物などが含まれ、当時の町の日常生活を彷彿とさせます。家の最後の部分に展開する夏用のトリクリニオは、四角で軽快に彩色された壁面とそれを覆う四本の円柱で支えられたペルゴラが見られます。家の所有者はトレビィと言い、ローマが征服するまではポンペイで最も勢力のあった家柄で、噴火直前の数年間その勢力を回復していました。発掘時期: 1913; 1915-1918.

    REGIO III, INSULA II, 1
    Casa di Trebio Valente
    トレビオ・ヴァレンテの家

    ※アトリウムとペリスティリウムを備えたこの家は、共和国時代のローマの典型的な住宅例ということができます。正面は1943年のイギリス軍とアメリカ軍の爆撃で被害を受ける(こんな田舎に爆弾落としたの!?)までは、古代における壁面広告の最大の例でしたが、今日では東側の部分に黒色の掲示の一部が残るのみです。この掲示には沢山の選挙関係のプログラムや円形劇場で催される出し物などが含まれ、当時の町の日常生活を彷彿とさせます。家の最後の部分に展開する夏用のトリクリニオは、四角で軽快に彩色された壁面とそれを覆う四本の円柱で支えられたペルゴラが見られます。家の所有者はトレビィと言い、ローマが征服するまではポンペイで最も勢力のあった家柄で、噴火直前の数年間その勢力を回復していました。発掘時期: 1913; 1915-1918.

  • これが壁面広告のことかな?<br />

    これが壁面広告のことかな?

  • ポンペイの町並み。

    ポンペイの町並み。

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家<br /><br />※この家は、当時町の外の田舎に点在していた貴族階級の壮大な館の“ミニチュア版”で、噴火の直前にはポンペイのエリート階級の人物の住まいでした。 入口の部分には一部に伝統的なアトリウムを備えたオリジナルな空間が残っているのに対し、庭園は二つの高さの違うエリアに分けられ、それらを繋ぐように2本の水の流れ(エウリポ)が造られて、小さな滝や噴水が設えられていました。 <br /><br />写真は入り口にアトリウム。噴水がでています。

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

    ※この家は、当時町の外の田舎に点在していた貴族階級の壮大な館の“ミニチュア版”で、噴火の直前にはポンペイのエリート階級の人物の住まいでした。 入口の部分には一部に伝統的なアトリウムを備えたオリジナルな空間が残っているのに対し、庭園は二つの高さの違うエリアに分けられ、それらを繋ぐように2本の水の流れ(エウリポ)が造られて、小さな滝や噴水が設えられていました。

    写真は入り口にアトリウム。噴水がでています。

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家<br /><br />※(続き)注目したいのはエジプトと女神イシスからの着想で、壁面装飾や多くの大理石像の他、庭園の建築にも反映されています。2本のエウリポの高い方の末端には二つの空間が面しています。西側にはイシス神に捧げられた小さな礼拝所、東側には野外での食事用にダブルの寝台(ビクリニオ)が一台と神話をテーマにしたフレスコ画で飾られた洞窟を模したニッチが置かれていました。 絵画の作者はルチウスという人物で、作品にサインを残しています。 家の主は印章が物語るとおり、デチムス・オクタヴィウス・クアルティオで、諸皇帝を祭るアウグスターリの祭祀の組織メンバーの一人でした。 この家はまたロレイオ・ティブルティーノの家としても知られています。<br />発掘時期: 1916; 1918; 1921; 1933-1935; 1973.

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

    ※(続き)注目したいのはエジプトと女神イシスからの着想で、壁面装飾や多くの大理石像の他、庭園の建築にも反映されています。2本のエウリポの高い方の末端には二つの空間が面しています。西側にはイシス神に捧げられた小さな礼拝所、東側には野外での食事用にダブルの寝台(ビクリニオ)が一台と神話をテーマにしたフレスコ画で飾られた洞窟を模したニッチが置かれていました。 絵画の作者はルチウスという人物で、作品にサインを残しています。 家の主は印章が物語るとおり、デチムス・オクタヴィウス・クアルティオで、諸皇帝を祭るアウグスターリの祭祀の組織メンバーの一人でした。 この家はまたロレイオ・ティブルティーノの家としても知られています。
    発掘時期: 1916; 1918; 1921; 1933-1935; 1973.

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家<br /><br />庭園に植物が植えられ、再現されている。

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

    庭園に植物が植えられ、再現されている。

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II, INSULA II, 2<br />Casa di Octavius Quartio<br />オクタヴィウス・クアルティオの家

    REGIO II, INSULA II, 2
    Casa di Octavius Quartio
    オクタヴィウス・クアルティオの家

  • REGIO II<br />Anfiteatro<br />円形劇場<br /><br />※この円形劇場は、古代ローマ世界で知られたもののうちで最古の劇場です。 紀元前70年、ポンペイがローマの植民都市となってから間もなく、行政官であったカイウス・クインクトス・ヴァルガスとマルクス・ポルシウスの発意により、オデイオンと共に建てられたものです。劇場にはポンペイの住人だけでなく周辺の沿岸地域からやってくる観客2万人を収容することができました。 劇場の建物は町の中心を外れた位置に建てられ、大勢の観客の移動を容易にするよう工夫されていました。外部に取り付けられた二重の階段によって上層の階へ行けるように設計され、一方下りのスロープによって下層階への移動ができるようになっていました。

    REGIO II
    Anfiteatro
    円形劇場

    ※この円形劇場は、古代ローマ世界で知られたもののうちで最古の劇場です。 紀元前70年、ポンペイがローマの植民都市となってから間もなく、行政官であったカイウス・クインクトス・ヴァルガスとマルクス・ポルシウスの発意により、オデイオンと共に建てられたものです。劇場にはポンペイの住人だけでなく周辺の沿岸地域からやってくる観客2万人を収容することができました。 劇場の建物は町の中心を外れた位置に建てられ、大勢の観客の移動を容易にするよう工夫されていました。外部に取り付けられた二重の階段によって上層の階へ行けるように設計され、一方下りのスロープによって下層階への移動ができるようになっていました。

  • REGIO II<br />Anfiteatro<br />円形劇場<br /><br />※(続き)アレーナは剣闘士を描いたフレスコ画で飾られた手すりによって観客席と仕切られ、客席の上部には階段席を作らせた行政官たちの名前を今日でも読み取ることができます。紀元59年には熱狂したポンペイとノチェーラの観客の間で流血の喧嘩が起こりました。この暴動騒ぎの後、ローマの元老院はポンペイの円形劇場を10年の間閉鎖する命令を下しましたが、62年に起きた地震で町が大きな被害を受けて、この命令は撤回されました。発掘時期: 1748; 1813-1814.

    REGIO II
    Anfiteatro
    円形劇場

    ※(続き)アレーナは剣闘士を描いたフレスコ画で飾られた手すりによって観客席と仕切られ、客席の上部には階段席を作らせた行政官たちの名前を今日でも読み取ることができます。紀元59年には熱狂したポンペイとノチェーラの観客の間で流血の喧嘩が起こりました。この暴動騒ぎの後、ローマの元老院はポンペイの円形劇場を10年の間閉鎖する命令を下しましたが、62年に起きた地震で町が大きな被害を受けて、この命令は撤回されました。発掘時期: 1748; 1813-1814.

  • REGIO II<br />Anfiteatro<br />円形劇場<br /><br />地下通路。

    REGIO II
    Anfiteatro
    円形劇場

    地下通路。

  • REGIO II<br />Anfiteatro<br />円形劇場<br /><br />蛇の壁画。

    REGIO II
    Anfiteatro
    円形劇場

    蛇の壁画。

  • REGIO II<br />Anfiteatro<br />円形劇場

    REGIO II
    Anfiteatro
    円形劇場

  • 円形劇場をでて、今度は、西へフォロの方向へ向かいます。

    円形劇場をでて、今度は、西へフォロの方向へ向かいます。

  • REGIO I<br />Casa del Menandro<br />メナンドロの家<br /><br />※この大きな建物は建築学的に複雑な変遷を経ていて、身分の高い一族の典型的な住居の好例です。アトリウムには「イリアス」と「オデュッセイア」の場面が描かれています。ペリスティリウムはロードス式で、北側の部分が他より高くなっています。 家の名前は、ポルティコに飾られていたアテネの喜劇作家メナンドロの肖像に由来しています。この家には小さなテルメ施設があり、その下にはおそらくは貯蔵室であったかと思われる地下室があって、そこから118もの銀製品が納められた箱が見つかりました。発見された品々は現在ナポリの国立考古学博物館に収蔵されています。 この宝は修復工事の前に隠されたもので、家族の食事のサービスに使用された銀器でした。 これらの食器の中には葡萄酒用のピッチャーも含まれていまし<br />たが、饗宴用の杯や皿が主なものでした。 南側には仕上げの施されていない空間があって、復元された馬車が展示されています。この家はポッペイ一族のクイント・ポッペオ・サビーノの所有によるもので、ネロ帝の2番目の妃ポッペア・サビー<br />ナの親戚でした。発掘時期: 1928; 1930; 1932.<br /><br />2階に出窓が残っている。

    REGIO I
    Casa del Menandro
    メナンドロの家

    ※この大きな建物は建築学的に複雑な変遷を経ていて、身分の高い一族の典型的な住居の好例です。アトリウムには「イリアス」と「オデュッセイア」の場面が描かれています。ペリスティリウムはロードス式で、北側の部分が他より高くなっています。 家の名前は、ポルティコに飾られていたアテネの喜劇作家メナンドロの肖像に由来しています。この家には小さなテルメ施設があり、その下にはおそらくは貯蔵室であったかと思われる地下室があって、そこから118もの銀製品が納められた箱が見つかりました。発見された品々は現在ナポリの国立考古学博物館に収蔵されています。 この宝は修復工事の前に隠されたもので、家族の食事のサービスに使用された銀器でした。 これらの食器の中には葡萄酒用のピッチャーも含まれていまし
    たが、饗宴用の杯や皿が主なものでした。 南側には仕上げの施されていない空間があって、復元された馬車が展示されています。この家はポッペイ一族のクイント・ポッペオ・サビーノの所有によるもので、ネロ帝の2番目の妃ポッペア・サビー
    ナの親戚でした。発掘時期: 1928; 1930; 1932.

    2階に出窓が残っている。

    メナンドロの家 史跡・遺跡

  • REGIO VIII, INSULA VII, 28<br />Tempio di Iside<br />イシス神殿<br /><br />※発掘された当時、イシス神殿は装飾や備品がほとんど当時のままに残っていて、その姿はポンペイを世界中に知らせるのに貢献しました。イシス信仰はエジプト起源の非常に古い女神信仰で、紀元前3世紀頃から地中海全域に広まり、信者だけに限定された秘儀信仰でした。神話によれば、イシスはセトによって殺され解体された夫オシリスの遺体の断片を集め、魔法のような技で再度繋ぎ合わせて命を与えたことから、生命を支配する女神となりました。死後の世界で生き続けるという希望から、イシス信仰は、とりわけポンペイの下層民の間に広く普及していました。柱廊で囲まれた中庭の中央に、高い基壇の上に建つ神殿があり、その手前の空間には祭壇、供物を置くための溝、(プルガトリウム)と呼ばれる小さな建物が見られます。<br />プルガトリウムの内部の階段を上ると、ナイル川から直接運ばれたとされる水を湛えた水盤がありました。 神殿の後ろ側には、信者たちが集まりを持った広いホール(エクレシアステリオン)があり、より小さな(サクラリウム)にはイシス女神の神話のエピソードを描いた絵画が残されていました。

    REGIO VIII, INSULA VII, 28
    Tempio di Iside
    イシス神殿

    ※発掘された当時、イシス神殿は装飾や備品がほとんど当時のままに残っていて、その姿はポンペイを世界中に知らせるのに貢献しました。イシス信仰はエジプト起源の非常に古い女神信仰で、紀元前3世紀頃から地中海全域に広まり、信者だけに限定された秘儀信仰でした。神話によれば、イシスはセトによって殺され解体された夫オシリスの遺体の断片を集め、魔法のような技で再度繋ぎ合わせて命を与えたことから、生命を支配する女神となりました。死後の世界で生き続けるという希望から、イシス信仰は、とりわけポンペイの下層民の間に広く普及していました。柱廊で囲まれた中庭の中央に、高い基壇の上に建つ神殿があり、その手前の空間には祭壇、供物を置くための溝、(プルガトリウム)と呼ばれる小さな建物が見られます。
    プルガトリウムの内部の階段を上ると、ナイル川から直接運ばれたとされる水を湛えた水盤がありました。 神殿の後ろ側には、信者たちが集まりを持った広いホール(エクレシアステリオン)があり、より小さな(サクラリウム)にはイシス女神の神話のエピソードを描いた絵画が残されていました。

  • REGIO VIII, INSULA VII, 28<br />Tempio di Iside<br />イシス神殿<br /><br />※(続き)モーツァルトは1770年に父親のレオポルドと共にここを訪れて大きな感銘を受け、その印象をもとに1791年にウィーンで初演された「魔笛」の筋書きを構想しました。神殿を飾っていた彫刻や付属品は、ナポリの考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1764; 1958-1959, 1988-1991.

    REGIO VIII, INSULA VII, 28
    Tempio di Iside
    イシス神殿

    ※(続き)モーツァルトは1770年に父親のレオポルドと共にここを訪れて大きな感銘を受け、その印象をもとに1791年にウィーンで初演された「魔笛」の筋書きを構想しました。神殿を飾っていた彫刻や付属品は、ナポリの考古学博物館に展示されています。発掘時期: 1764; 1958-1959, 1988-1991.

  • REGIO VIII<br />Teatro Grande<br />大劇場<br /><br />※大劇場は、中央のすり鉢部分のために丘の自然な傾斜を利用して建設されました。 ドーム型ヴォールトの上に置かれた階段席は通路によって3つのゾーンに分けられ、それぞれが5つの区画に分けられていました。建設の時期は紀元前2世紀の中頃で、後にローマ人の好みに合わせて、大きな変更が加えられています。 数少ない記録のうち、東側の出入り用通路の入り口に残された碑文にはアルキテクトゥス(建築家)の名マルクス・アルトリウス・プリムスがアウグストゥスの時代に工事を担当したことが記されています。その工事の内容は、舞台装置とステージ関係、ヴェラリウムと呼ばれる暑い日の日よけのヴェール、座席の番号付けに関するものでした。 この劇場では伝統的なギリシア-ローマの喜劇や悲劇が上演されていました。また、この劇場は公共建築の中では最初に完全に発掘された建物です。<br />発掘時期: 1764-1765; 1767-1769; 1773; 1789; 1791-1794; 1902; 1951.

    REGIO VIII
    Teatro Grande
    大劇場

    ※大劇場は、中央のすり鉢部分のために丘の自然な傾斜を利用して建設されました。 ドーム型ヴォールトの上に置かれた階段席は通路によって3つのゾーンに分けられ、それぞれが5つの区画に分けられていました。建設の時期は紀元前2世紀の中頃で、後にローマ人の好みに合わせて、大きな変更が加えられています。 数少ない記録のうち、東側の出入り用通路の入り口に残された碑文にはアルキテクトゥス(建築家)の名マルクス・アルトリウス・プリムスがアウグストゥスの時代に工事を担当したことが記されています。その工事の内容は、舞台装置とステージ関係、ヴェラリウムと呼ばれる暑い日の日よけのヴェール、座席の番号付けに関するものでした。 この劇場では伝統的なギリシア-ローマの喜劇や悲劇が上演されていました。また、この劇場は公共建築の中では最初に完全に発掘された建物です。
    発掘時期: 1764-1765; 1767-1769; 1773; 1789; 1791-1794; 1902; 1951.

    大劇場 史跡・遺跡

  • REGIO VIII

    REGIO VIII

  • REGIO VIII<br />Casa del Cinghiale<br />いのししの家<br /><br />※説明はなし。

    REGIO VIII
    Casa del Cinghiale
    いのししの家

    ※説明はなし。

  • REGIO VIII<br />Casa del Cinghiale<br />いのししの家<br /><br />家の名前のもとになったと思われるモザイク。

    REGIO VIII
    Casa del Cinghiale
    いのししの家

    家の名前のもとになったと思われるモザイク。

  • フォロに戻ってきました。ケンタロウスの像。ポンペイの町の散策も終盤。<br />暑いなか、結構歩いたなあ。

    フォロに戻ってきました。ケンタロウスの像。ポンペイの町の散策も終盤。
    暑いなか、結構歩いたなあ。

  • REGIO VIII<br />Basilica<br />バジリカ<br /><br />※延べ面積1500平方メートルに及ぶバジリカは、フォロの区域で最大の建物で、裁判や商取引に使われていました。フォロから凝灰岩の柱の間に開いている5つの入り口を通じて中に入ることができ、内部はレンガでできたイオニア式の柱頭を持つ2列の円柱によって3つの廊に分かれています。西に面した短い方の側面の中央には見事な装飾を施した特別席があって、裁判の際にはここに司法官たちが座りました。 空間には騎馬像が置かれ、壁面は大きな大理石のブロックを模したスタッコ装飾で豊かに飾られています。バジリカの建設時期は紀元前130-20年頃と推定され、このタイプの建築としては、古代ローマ世界の中でも最も古い建物の一つです。 19世紀にフォロの区域で発掘調査が始まった時代にこの建物も掘り出されました。発掘時期: 1806; 1813; 1820; 1928; 1942; 1950.

    REGIO VIII
    Basilica
    バジリカ

    ※延べ面積1500平方メートルに及ぶバジリカは、フォロの区域で最大の建物で、裁判や商取引に使われていました。フォロから凝灰岩の柱の間に開いている5つの入り口を通じて中に入ることができ、内部はレンガでできたイオニア式の柱頭を持つ2列の円柱によって3つの廊に分かれています。西に面した短い方の側面の中央には見事な装飾を施した特別席があって、裁判の際にはここに司法官たちが座りました。 空間には騎馬像が置かれ、壁面は大きな大理石のブロックを模したスタッコ装飾で豊かに飾られています。バジリカの建設時期は紀元前130-20年頃と推定され、このタイプの建築としては、古代ローマ世界の中でも最も古い建物の一つです。 19世紀にフォロの区域で発掘調査が始まった時代にこの建物も掘り出されました。発掘時期: 1806; 1813; 1820; 1928; 1942; 1950.

  • REGIO VIII<br />Basilica<br />バジリカ

    REGIO VIII
    Basilica
    バジリカ

    バジリカ 史跡・遺跡

  • REGIO VIII, INSULA I, 3<br />Santuario di Venere<br />ヴィーナスの聖域<br /><br />ヴィーナスの聖域はナポリ湾を見晴らす素晴らしい眺めの良い人工のテラスの上に造られ、ポンペイの持つ港を遠くから監視することができました。ヴィーナスはポンペイの守護神であり、紀元前80年にローマの傘下に入る際にはポンペイの町はこの女神に奉献されました。ローマ時代以前からすでに信仰の対象で、後には航海の守り神としての性格も与えられました。紀元62年の地震とそれに続いた出来事で、神殿は大きく破壊され、噴火の79年の時点で再建工事はまだ完成していませんでした。最初の聖域は紀元前2世紀のもので、柱廊に囲まれた空間の中央に神殿が建っていました。 現在見られる遺構は、帝政ローマ時代初期のものです。19世紀に行われた発掘で、神殿の製造安置室の奥に仮り寄せして建てられた小さな祈祷所から、ネロ帝が寄進した重さ896gの大きな金のランプが見つかり、現在はナポリの考古学博物館に収められています。<br />発掘時期:1852; 1869; 1872; 1898; 1937, 1952-1953;<br />1984-1985; 2004-2005.

    REGIO VIII, INSULA I, 3
    Santuario di Venere
    ヴィーナスの聖域

    ヴィーナスの聖域はナポリ湾を見晴らす素晴らしい眺めの良い人工のテラスの上に造られ、ポンペイの持つ港を遠くから監視することができました。ヴィーナスはポンペイの守護神であり、紀元前80年にローマの傘下に入る際にはポンペイの町はこの女神に奉献されました。ローマ時代以前からすでに信仰の対象で、後には航海の守り神としての性格も与えられました。紀元62年の地震とそれに続いた出来事で、神殿は大きく破壊され、噴火の79年の時点で再建工事はまだ完成していませんでした。最初の聖域は紀元前2世紀のもので、柱廊に囲まれた空間の中央に神殿が建っていました。 現在見られる遺構は、帝政ローマ時代初期のものです。19世紀に行われた発掘で、神殿の製造安置室の奥に仮り寄せして建てられた小さな祈祷所から、ネロ帝が寄進した重さ896gの大きな金のランプが見つかり、現在はナポリの考古学博物館に収められています。
    発掘時期:1852; 1869; 1872; 1898; 1937, 1952-1953;
    1984-1985; 2004-2005.

  • 最後は併設の博物館を見学。姿勢から想像するに、あっという間に亡くなったんだろう。

    最後は併設の博物館を見学。姿勢から想像するに、あっという間に亡くなったんだろう。

  • Pompei Scavi - Villa Dei Misteri駅<br /><br />ナポリ方向に向かうには、反対側のホームに行く必要があるのだが、渡り方が分からない。いろいろ探し回って、、、地下通路がありました。さて、このあと、ナポリへの途中にあるエルコラーノ遺跡へ向かいます。

    Pompei Scavi - Villa Dei Misteri駅

    ナポリ方向に向かうには、反対側のホームに行く必要があるのだが、渡り方が分からない。いろいろ探し回って、、、地下通路がありました。さて、このあと、ナポリへの途中にあるエルコラーノ遺跡へ向かいます。

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