2012/07/03 - 2012/07/19
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PETERtnさん
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妻と2人、2週間かけてポーランドとドイツを鉄道での旅行体験記。
本編(前編)はポーランドの旅。旅の最大の目的はナチスが先の大戦中にユダヤ人絶滅を企図してヨーロッパ各地のユダヤ民を収容したアウシュヴィッツとビルケナウ強制収容所の見学。同時にワルシャワではポーランドの生んだ楽聖ショパンゆかりの地を訪ね、ドイツへの出国前にブロツワフでは17世紀に数々の制限をつけられて建立した2か所の平和教会の見学をすることができた。平和教会は木造建築でありながら、内部の会衆席は5階建て、7000人を収容できる壮大な聖堂である。
今までのシリーズは下記のULRで目的地別に目録としてご覧になれます。本編とともにご愛読ください。⇒
https://4travel.jp/travelogue/11630688/
「ペテロのアトリエ旅行記目録」 でも検索可能ですその他下記の旅行記もご覧ください
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- エールフランス オップ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ポーランドそしてドイツへ(①ポーランド編)
第2次世界大戦中にドイツの政権を握っていたヒットラーはアーリア人種至上主義を唱え、非アーリア人種、特にユダヤ民を徹底的に排撃し、ドイツとその周辺国のユダヤ民を絶滅の目的で各地に設立した強制収容所に拘束した。強制収容所の総数は2万ヶ所、収容されたユダヤ民をはじめとする非アーリア人種の総数は300万人以上とも言われている。
歴史の汚点とも思える強制収容所だが、ドイツは過去への反省を兼ねて数多くの収容所を復元し見学者に無料で公開している。私は2000年以来、訪独の機会を利用して数か所の収容所を見学したが、絶滅収容所ともいわれ、入口はあっても出口のない収容所・アウシュヴィッツはドイツではなくポーランドにあったこともあり2012年まで訪問がかなわなかった。そして2012年にアウシュヴィッツ強制収容所を目的としてポーランドへの旅行を企図した。「ポーランドそしてドイツへ」と題したこの旅行記はその時の記録を前半(ポーランド)と後半(ドイツ)の2部に分けての報告である。
前半【ポーランド】:ワルシャワ 2012年07.04~07・クラクフ(アウシュヴィッツ強制収容所)7.07~10・ブロツワフ 7.10~12
以下後半は後編【ポーランドそしてドイツへ後編(ドイツ編)】参照
*****http
後半【ドイツ】:ドレスデン・ライプツィヒ・ベルリン 7.12~18 -
パリシャルルドゴール空港午前6時半
今回は羽田発のエールフランス機を利用したので、パリ経由でワルシャワに入った。 -
ドゴール空港でローカル便に乗り換え、正午ワルシャワ上空に到着
ワルシャワ市街の向こうにはヴィスワ川がポーランドの大地を潤しながら、1000㎞の旅路ののち、バルト海に注ぐ。 -
ワルシャワ市内中心部にある文化科学宮殿。
スターリン時代の1955年、旧ソ連が建ててポーランドに贈った文化科学宮殿。塔の高さは237メートル。地震の少ない地域なので高層建築は比較的容易に建てることができる。
文化科学宮殿には映画館、劇場、博物館、書店、会議場及び展示場などがあるが、ポーランド人の評判はあまり芳しくない。 -
ワルシャワの市場広場
ワルシャワ到着の日、ホテルに落ち着いてから夕食のため、市場広場に出向く。 -
マーケット広場のレストラン ウ・フキエラで夕食
間口は狭いレストランだが、店内を抜けた先、ロの字の中央の中庭が落ち着いたパティオとなっていた。 -
広場中央にあるワルシャワのシンボル人魚像
言い伝えによれば、ヴィスワ川で漁をしている漁師の網に人魚がかかった。漁師はこの美しい人魚を自宅に連れて帰ったが、人魚がヴィスワ川に帰りたいと懇願するので、帰してやったところ、その漁師の網には大量の魚がかかるようになった。ワルシャワという名前はこの漁師夫妻の名前・ワルス(Wars)とサワ(Sawa)にちなむという。 -
広場で立ち話に花が咲く
中央の赤服の男性の衣装(コントゥシュKontusz)は中世の貴族がまとった衣服。サルマティズムまたはサルマタイ主義(ポーランド語: Sarmatyzm/英語: Sarmatism)は、16世紀から19世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサックの生活様式や思想などにおいて支配的だった文化現象。いわゆる共和国の「黄金の自由」時代と共に興隆した。この衣装、日本では「コンツ」とも呼ばれている。 -
(ワルシャワ)路地から聖マルチン教会をみる
聖マルチン教会は1353年に隣接するアウグスティヌス修道院・聖霊病院とともに、マソヴィア3世夫妻によって設立された。
この路地を挟んで反対側(画面の手前側)には聖ヨハネ大聖堂がある。 -
ワジェンキ公園のショパン像
ワルシャワ市内にあるワジェンキ公園はショパンゆかりの公園で、夏期には日曜ごとにショパンコンサートが開かれる -
ショパンが洗礼を受けた聖ロフ教会(ジェラソヴァボーラ)
1810年3月1日生まれの楽聖ショパンは同年4月23日・復活日に聖ロフ教会で洗礼を受けている。生後6週間での受洗はやや早いが、彼の生年は1年早く1809年だったともいわれている。 -
ポーランド生まれのショパンは1849年に結核のためパリで亡くなったが、姉ルドヴィカが遺言に従って遺体から心臓を取り出すと、ワルシャワに持ち帰り、聖十字架教会の聖堂内に葬った。
手前は地動説の論考をまとめたコペルニクスの像 -
聖十字架教会前のコペルニクス像
コペルニクスは地動説で有名だが、活躍の範囲は多岐にわたり、天文学以外に経済学の分野でも貨幣経済学の研究、さらにカトリックの司祭でもあった。 -
客死したパリから運ばれたショパンの心臓は聖十字架教会聖堂の左翼側廊の壁面に埋め込まれた。
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漁師夫妻が逃がしてやった人魚の像は市内に何体もあった
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電気のコンセントは同じヨーロッパでも国によってA、B、C、SE型・・と形状が異なり、接続用のアダプターは携行必需品だが、ワルシャワのホテルの壁面には器具にあわせたいくつかのコンセントがあった。
ソケットの上には供給電圧が書かれている。日本の平型2本足のプラグ用は左端のA型だが、日本は100V給電なのに対して、左端のコンセントは110V給電だったが、実用には差支えなく共用できる。右の3種のコンセントには220V給電の表示があった。 -
ワルシャワに3泊後、9時半の特急列車でクラクフに移動した。クラクフ着が12時20分。両駅間の距離は250㎞を平均時速80㎞/h程度で走り抜けた。ポーランドは約31万平方㎞の国土で鉄道網の総延長は23000㎞。日本は37万平方㎞で鉄道網の総延長は26000㎞だから、鉄道網の密度はほぼ同じ程度だ。
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3泊4日のワルシャワ滞在後クラクフ到着。クラクフ滞在の目的はアウシュヴィッツとビルケナウのユダヤ人強制収容所の見学だが、アウジュヴィッツはクラクフから50㎞も西にあり、収容所の公式ガイドには明日の案内を依頼してある。
今日の午後はクラクフ市内からほど近いヴィエリチカの岩塩坑の見学に出かけた。 -
四方を海に囲まれた日本では食塩は海水からの製塩が主だが、ヨーロッパでは山中に堆積した岩塩が食塩の原料となる。クラクフの岩塩坑は良質な岩塩を産出することで名高い。
ポーランド王国がクラクフに遷都した11世紀から採掘がはじまった。坑道は深さ327メートル、全長300㎞にも及んだが採掘コストの問題と坑内に出水の危険があることから1996年に採掘は中止された。
1978年に世界遺産に登録され、採掘中止後も見学用の坑道は公開されている。 -
塩坑内の聖キンガ礼拝堂(ポーランド王ボレスワフ5世の王妃アールパードハージ・キンガ妃を記念した地下聖堂)は深さ101メートルの地底にあり、数百人は入れそうな巨大な聖堂だ。
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凛々しい制服がよく似合う塩坑のガイド
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聖フローリアン教会
聖フローリアン教会は「フローリアン」の名前の通り、外側も聖堂内も白を基調とした聖堂だ。
聖堂は1185年から1216年にかけて建立されたが、12世紀・16世紀と17世紀に何度も大火に見舞われたという。
※フローリアンは白鳥を意味し、転じてオーストリー皇帝の純白の愛馬にもフローリアンと命名された白馬がいた。またカトリックで列聖された聖人・聖フローリアンは安全の守護政人とされ、消防関係者がコイン型のフローリアヌス十字を身に着けていることがある。白鳥⇒水鳥⇒消防用水の連想も働いているようだ。 -
聖マリア大聖堂(クラクフ)
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市場広場に面して建つ聖マリア大聖堂(織物会館から撮影)
聖堂右手の像は詩人アダム・ミツケヴィチ(1798~1855)。彼は国民的ロマン派詩人といわれたが、帝政ロシア支配下にあったポーランド独立に尽くした活動家としても知られている。
マリア大聖堂は長方形の広場に対して約30度ひねった形で建っている。「聖堂は真東に向けて建てる」という古来からの原則に従って、あえて広場の縦横に対して30度の角度を持たせて建てられている。 -
広場の中央に立つ織物会館
クラクフにポーランドの都が置かれたのは13世紀だが、1555年には織物会館がルネサンス建築様式で市場広場の中央に再建された。会館は細長く土産物店が並ぶ1階のアーケードの長さは100メートルあり、2階はクラクフ国立美術館になっている。
クラクフには重厚感あふれるレンガ造りの建物が多く、織物会館もクリーム色の壁とオレンジ色のレンガのコントラストが芸術的だ。
「中世ヨーロッパ最大の広場」とも呼ばれるように、約3.8ヘクタールの広さがある大きな広場だ。 -
ヴァヴェル城
クラクフは1611年、首都のワルシャワ奠都までポーランドの首都だった。クラクフの南に位置するヴァヴェル城は歴代の王族が住んでいた関係で歴史的な価値が高く評価されている -
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町中見物を終えてホテルの前に戻ってきたら、そこでも若い女性の二重奏が。
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アウシュヴィッツ強制収容所へ
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収容所入口に掲げられた標語
ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)はナチスの命令で収容者が製作したが、レジスタンスの意味で”ARBEIT”のBが上下さかさまにつけられている。 -
アウシュヴィッツ強制収容所
ナチスドイツが主としてユダヤ民絶滅を企図して、占領下にあったポーランドに建設した強制収容所、絶滅収容所ともいわれていた。戦後、ドイツは過去の過ちを繰り返さないための教育的見地からいくつかの収容所を復元保存し、一般に無料で公開している。私はアウシュヴィッツとその隣接地にあるビルケナウの他に、ダッハウ(ミュンヘン)、ベルゲンベルゼン(ツェレ)、ブーヘンヴァルト(ワイマル)の強制収容所などを見てきた(ダッハウ以下はドイツ国内にある)。
アウシュヴィッツ収容所の総面積は1.4ha、隣接するビルケナウ収容所はアウシュヴィッツより広く1.7ha.の敷地内に建てられている。 -
ナチスドイツの純血政策は非アーリア人種の隔離・抹殺だけでは飽き足らず、隣国・主としてポーランドの子供たちのうち見かけがアーリア人種に近い15歳未満の子供らを誘拐拉致して、ドイツで育てるという「アーリア人種の促成栽培」にまで手を広げたという。
誘拐された子供の数はポーランドだけでも5万人とも20万人とも言われている。このレーベンスボルン政策で誘拐された子供たちは二度と親元に戻ることはなかった。
ナチスが「優秀なアーリア人種」と規定した条件は高い知能指数に加えて、頭の形状、高身長、運動能力、青い瞳、金髪であった。 -
「アンネの日記」の原作者ユダヤ系ドイツ人アンネ・フランクの父オットー・フランクはドイツのフランクフルトで事業を行っていた。ドイツ国内でのナチスドイツの取締りが厳しさを増したころ、支援者を頼って家族とともにアムステルダム(オランダ)に移住し、事業を続けていた。ナチスドイツのオランダ侵攻で市内にある事業所3階の隠し部屋で息をひそめていたが、ついに密告でナチスに拘束され、アウシュヴィッツに移送後、アンネは母・姉とともにドイツ中部・ベルゲンベルゼン収容所に再移送され、チフスのため亡くなった。
「アンネの日記」はアムステルダムに潜伏中、誕生日のプレゼントとして母から送られた日記帳に潜伏中の日々の出来事をアンネが書き続けていた。戦後ただ一人生き残った父オットーは偶然見つけ出した日記を出版した。日記帳を「キティ」と名付けて擬人化し、アンネが話しかける形式で書き続けている。 -
収容所内の処刑場
脱走者などはこの場所で銃殺刑によって抹殺された。カトリックの神父として収容されていたマキシミリアノ・コルベ神父は、餓死刑を言い渡され「私には妻子がいる」と泣き叫ぶ収容者の身代わりとして「私には家族がいないから」と慫慂として餓死刑に服した。神父は聖歌を歌いながら祈りつつ死に就いたという。
コルベ神父は1971年10月、教皇パウロ6世によって列福され、1982年10月にはポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され聖人コルベとなった。 -
何事も画一的に律したがるドイツ人は収容者のトイレタイムも時間を決めて一斉にトイレに入り、午前と午後に合計2回だけ、用足しに決められた所要時間も極めて短時間だった。
アウシュヴィッツのトイレとまったく同じような形式の共同トイレは、トルコの古代遺跡で見たことがあった。 -
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収容者たちは牛馬8頭が「定員」の牛馬輸送用の貨車1台に200人も詰め込まれて、各地から収容所に送られてきた。
収容所内に保存または復元されたナチス時代の「遺跡」はドイツにとっては忘れてしまいたい過去の悪夢だが、彼らはそれらの遺跡を記憶文化として、後世に伝えることで過ちを繰り返さないことを誓っている。写真はアウシュヴィッツに隣接のブルケナウ収容所にて -
遺体焼却場
収容者のうち、労役に耐えられない者は「消毒する」とだまされてガス室に送り込まれた。生き延びて労役を強いられた収容者も劣悪な環境下での労働で死亡率は高かった。特に収容所内ではチフスが発生し、大量の死者が出た。アンネとマルゴット姉妹もチフスのため相次いで亡くなった。
死者を効率的に処分し、チフス菌に冒された死体の安全管理の必要もあって、遺体は焼却処分された。 -
ガス室の近くには慰霊碑が建立されている
1945年に(当時の)ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を開放したとき、ソ連の調査委員会は同収容所の死者は400万人だと発表し、その報告をもとにシオニスト団体はナチスドイツの手で虐殺されたユダヤ民の総数は600万人だったと主張していた。
1990年にポーランドの新聞の調査結果が報道された。その発表ではアウシュヴィッツ収容所での死者数は多めに見積もっても150万人程度だったことが判明したと発表した。
この調査結果に基づいて「死者は400万人」と記されていた慰霊碑の銘板は1995年に「死者は150万人」と訂正された銘板に置き換えられた。
この調査で犠牲者はユダヤ民だけではなく、ポーランド人やロマ(ジプシー)・ソ連兵捕虜もいたことが明らかとなった。 -
オスカー・シンドラー
国民社会主義者テロの際に確実な死から1200人以上のユダヤ人を救った。1945年11月から1950年5月まで、彼はレーゲンスブルクのアルテニュルンベルガー通り25番地に住んでいた。
1995年顕彰碑建立、レーゲンスブルク市
・・・・・・・・・
クラクフの琺瑯工場の経営者オスカー・シンドラーはユダヤ民の解放に尽力し、生地レーゲンスブルクには顕彰碑が建立されている。
※同じころリトアニアでユダヤ民の出国に尽力した日本の外交官杉原千畝は「日本のシンドラー」とも呼ばれている。 -
クラクフで充実の3泊を終えて、鉄道でブロツワフに移動した。ブロツワフはポーランド語ではWrocławと書く。ł (大文字はŁ)は一見L(エル)みたいだが発音はまったく違って、発音はどちらかというとWに近い音となる。現にWrocławを隣国のドイツではBreslauと書いて発音もブレスラウとなる。本稿では現地での発音ブロツワフで表記する。
ブロツワフ駅は古き良き時代の面影をとどめた駅。3番線ホームには映画「灰とダイモンド」の撮影中に走り出した列車への飛び乗りに失敗して亡くなった主演俳優ツィブルスキの記念碑がある。 -
ブロツワフ駅前にある等身大の群像「名もなき通行人達の記念碑」
町中にも子猫大のブロンズ像(オレンジオルタナティブ)が点在する -
オレンジオルタナティヴは若者たちが始めたレジスタンス活動。
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聖ヤン教会の「ヤン」はヨハネを意味するが、聖書に登場するヨハネではなく、14世紀のボヘミヤにいた司祭で「ネポムクの聖ヨハネ」と言われ、水難や船員・橋の守護聖人とされている。
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十字架を高く掲げて立つ聖ヤン(ヨハネ)・聖ヤン教会
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手の込んだ聖ヤン教会のファサードの飾り。右の彫刻は聖母と幼子
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聖ドロテア教会は第二次世界大戦末期のブロツワフ包囲戦でも損害はわずかだったため、ヴロツワフで最も保存状態の良い中世の建物だった。戦後は一時期司教座聖堂として使用されていたことがある。
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聖ドロテア教会聖堂内の聖画(コラージュ)
周辺の12枚は聖堂両脇の壁面にある「十字架の道行」。中央は祭壇内にある聖餐制定の図(最後の晩餐)のようだが制作画家は未調査 -
ボレスワフ1世(グレート)(967~1025)の巨大な騎馬像
強大な隣国ドイツの侵攻に備えて、ボレスワフ1世は強力な騎兵隊を編成して軍備を強化した。 -
「平和教会」訪問
1618年から1648年まで、ヨーロッパ各地は30年戦争と呼ばれた宗教戦争で疲弊してしまう。農地も市街地もカトリック教会軍とプロテスタント軍があい乱れて戦闘を繰り返し、市街地は廃墟と化し、兵士と軍馬の乱入で荒れ果てた農地は収穫ができず市民も農民も飢えに苦しんだ。
1648年の戦争終結時に締結されたウェストファリア条約で「領民は領主の宗教に帰属する」こととされたため、領民たちは領主の勧めで神聖ローマ皇帝が所管するシレジア地方の領地に教会の建設の権利を認めさせた。教会はヤヴォル・シフィドニツァとグウォグフに建設されたが、ヤヴォルとシフィドニツァの教会だけが現存している。建立の歴史的事情からこれらの教会は「平和教会」と呼ばれている。
建立に当たっては厳しい条件が付けられていた
1、市壁の外側に建てなければならない。
2、建設は1年以内で終わること
3、建材は材木・粘土・砂。わら に限ること
それにも関わらず5階建、7500人収容の聖堂が建設された -
シフィドニツァ平和教会
シフィドニツァ平和教会のオルガン。聖堂完成10年後の1669年に設置されたオルガンだが複雑な仕掛けのため、故障が多かった。1991年にドルネイ・シロンスク県のオルガン保存会の協力で修復が完成し、同県内を代表する楽器は故障なく毎週の礼拝に素晴らしい音色を奏でている。
オルガンの下の肖像画は建設に際して全体の必要量の3分の2にあたる2000本のチーク材を寄贈したヨハン・ハインリッヒ・ホフベルク伯。 -
祭壇:画面下部・祭壇の上には左からモーセ、アロン、イエス、洗礼者ヨハネ、使徒ペテロ、使徒パウロの彫刻がある。6本のコリント様式の円柱には「これは私の愛する子、私の心にかなうものである」という聖句(マタイ伝 3:17)が刻まれている。
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祭壇上の天井画は天上のエルサレム、つまり「天国」を描いている。画面中央には聖書を開いている天使、枠内の右端が使徒ヨハネ。この聖画は他の聖画とともにシフィドニツァ出身の2人の画家 C.ズーセンバッハと C.コリツキが3年の歳月をかけて、1696年に完成した。
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ヤヴォル教会の祭壇(上)と説教壇(下)
2階の側廊には新約聖書、4階には旧約聖書の物語が描かれている。聖堂内の絵の大部分はコヴァリー出身の画家G.フレーゲルの作品。 -
ヤヴォル教会のオルガン(右手前は説教壇)
オルガンは1855年、教会の改築に合わせてヴロツワフのオルガンビルダーA・ルンメルト製作のオルガンに更新した。1896年にH・シュラークによって手鍵盤を増設した。 -
建設当初「塔屋の建築は禁止」とされたアルトランスタート協定により塔の建設は見送られ、教会建立から半世紀後の1707年に完成し、翌年C.デムニングルが製作した3つの鐘が鐘楼に備えられた。
教会周辺の公園風の敷地は墓地だったが、1972年に閉鎖され、聖堂の壁にはバロック様式に装飾された墓石が残されている。
教会付属の牧師館もバロック風の特徴を持った荘厳な建物だ。 -
午後9時半のブロツワフ市庁舎
日本より高緯度のポーランドの夜は9時半過ぎてもまだ宵の口だ。
ちなみに日本の北端、宗谷岬の緯度は北緯45度だがブロツワフの緯度は北緯51度で北海道の北にあって南北に長いサハリンの真ン中、間宮海峡辺が北緯50度である。
さて、ブロツワフでの3日間の滞在後、ドイツのドレスデンまで鉄道での移動となった。この先はドイツ編の続編にバトンタッチしたい。
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駅の近くにある歌劇場は1839年に建設が始まった。建築家ハンスラングの設計で着工し、2年の歳月をかけて完成した。戦災の被害も軽微で創建当時の面影を残す貴重な建物だ。
この歌劇場ではパガニーニ、ワグナー、フルトヴェングラー、リストなどの数多の名演奏家が演奏会に招かれている。
奇跡的にも歌劇場は被災しなかったがヴロツワフは第二次世界大戦ではドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘で歴史地区の大半が破壊された。戦後はそれまで残っていた資料を元にポーランド市民の手によって街並が正確に復元された。
欧州浪漫紀行ポーランド&ドイツ【後編:ドイツ】に続く
https://4travel.jp/travelogue/11634553
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