2018/05/31 - 2018/05/31
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frau.himmelさん
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ブーヘンヴァルトは強制労働収容所です。
ヒトラーの政策の一環として、大量の煉瓦を生産する必要に迫られ、煉瓦工場を建設する目的で造られました。
労働力は囚人たち。
ナチスの価値観に合わない人々・・・、ナチに反対する政治家、犯罪者、アルコール中毒者、ホームレス・乞食、シンティ・ロマなどのジプシー、精神・身体障碍者、同性愛者、エホバの証人、売春婦・・・、そしてホロコーストが始まると大勢のユダヤ人など。ありとあらゆる広範囲に及ぶ人々をゲシュタポが逮捕して連れてきました。
そして多くの人々が過酷な労働、虐待、劣悪な環境、飢え、人体実験などで死亡し、また捕虜などは組織的に射殺されました。
1937年7月に収容所が設置されてから1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまでの間に、ブーヘンヴァルトには総計で23万3800人の人間が囚人として送られ、そのうち5万5000人以上の人間がここで死亡したと言われています。
ワイマールの宰相だったゲーテが瞑想したと言われている美しい静かなブナの森、後世にそんな物騒なものが建てられようとは、ゲーテさまでもご存知なかったでしょう。
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それでは資料展示館に入りましょう。
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館内は圧倒的に若者が多い。
パネル展示などを真剣に見ています。 -
ここにブーヘンヴァルト強制収容所の数値的概要があります。
主なところだけ。
1937年の収容所開設から1945年4月のアメリカ軍により解放されるまでの期間。
広さ 400,000㎡、高電圧フェンス 3,500m。
277,800人が囚人として送られ、そのうち56,000人が死亡した。
またアウシュヴィッツ方面への死の行進で1,944人が(亡くなった?)。
1938年の開設当時は囚人の数は2,728人に過ぎなかったが、戦争末期の1945年2月には112,050人の囚人を収容していた。(Wikiと数字が違っています。) -
ブーヘンヴァルトに到着したユダヤ人収容者。
彼らは到着してすぐに丸坊主され、点呼広場に集合させられました。到着間もないのでみんな暖かいコートを着ていますが、この後身ぐるみはがされ、粗末な囚人服に着替えさせられます。
なおこの写真は、プロパガンダ用として、わざわざ照明をあてて、監視塔から見下ろす位置から何枚も撮られたそうです。
私の疑問に対して、qi1008さんからコメントをいただきました。
ありがとうございました。 -
収容所に収監されていた人々の写真と資料室の様子。
写真の経歴を見ると革命家、政治家、宗教家、シンティとロマ、エホバの証人、ホモセクシャルなど。
館内は静かでゆっくり見学できました。 -
収容所に到着した囚人は、私物と衣服を剥ぎとられ、丸坊主にさせられ、粗末な囚人服に着替えさせられる。
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胸には階層と国名、囚人番号を付けなければなりませんでした。
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ちなみに、階層分類。
赤の逆三角形は政治犯、黒は知的障碍者、ピンク色は同性愛者、ダブル三角(星型)はユダヤ人。
また国別(Fはフランス、Pはポーランド、Tはチェコなど) -
囚人たちが使っていた粗末な食器。
穴が開いているもの、缶詰の缶を利用したものなど。 -
囚人たちの食事風景。
後に元囚人が描いたものでしょうか。 -
囚人たちの食事風景。
バケツに頭を突っ込んで我先にブタのように食べている・・・。
収容所は人間の尊厳もみな奪いとります。 -
ここにも収容者の写真が。
調べてみると生きて収容所を出られた人のようです。
たぶん著名な囚人の特別隔離兵舎に収容された人々なのかも。
Werner Hilpert:ライプティヒの政治家、5年間の強制労働の末、釈放。
Willen Drees:オランダの政治家。1か月で釈放。
Jindrich Waldes:チェコの政治家 など。 -
この方も著名な囚人の隔離棟でしょう。
収容所には王室関係の方も収監されていました。
マファルダ・ディ・サヴォイア( 1902-1944年8月27日)
ヘッセン=カッセル方伯フィリップの妻。
夫フィリップ公がナチス信望者だったにもかかわらず、ヒトラーは妻マファルダを反ナチスと信じていました。
1943年故国イタリアが連合軍に降伏したことで、ゲシュタポにより逮捕され、ブーヘンヴァルト収容所に送られました。
1944年8月24日、収容所が連合軍に爆撃された時、死亡しました。 -
1944年8月24日の連合軍の爆撃により亡くなった人がここにも。
ルドルフ・ブライトシャイト(1874-1945.8.24)
ワイマール共和国時代の社会民主党の主要メンバー。
後にナチスが台頭してきた際にも反ナチの態度を崩さなかった。
1933年ゲシュタポに追われ、スイスを経由してフランスに移住しますが、ビシー政権になるとブライシャイトは逮捕され、ブーヘンヴァルトの著名な囚人の隔離兵舎に収容されました。
彼は1944年8月24日、連合軍の空爆で死亡しました。
下:敷地内にはブライシャイトの記念碑がありました。
(写真ネットより) -
館内にはこんなものも展示してありました。
フックが付いていますので絞首刑用??。 -
ローラー。
本来は地均し用なのですが、時には処罰のために使われました。
この重いローラーを処罰のために、何時間も引いて回るよう強要されたそうです。 -
SS親衛隊の持ち物。
お肉の缶詰、温かい毛布・・・。
囚人の服装や食器、食事に比べて何と立派なことか。 -
レジスタンス運動家。
勇敢にもナチスに抵抗してレジスタンス活動をした人々。
中には残念ながらブーヘンヴァルト収容所で殺された人もいます。 -
前編でご紹介した死体焼却炉の図面です。
エアフルトにあったTopf & Soene社で造られました。
この会社はアウシュヴィッツやダッハウなど多くの収容所の焼却炉を手掛けていました。 -
これは何だと思いますか?
これもTopf & Soene社で造られた遺灰壺。
焼却炉の近くに積み上げてあった、チクロガスの空き缶だと勘違いしたあの壺です。
「焼却炉から遺灰壺」まで。まさに死の商人。
現在この会社はありません。 -
ユダヤ人の移送。
1945年1月21日から26日アウシュヴィッツからブーヘンヴァルト収容所に移送されたユダヤ人たち。
(死の行進)
戦況が悪化し、連合軍の足音が近づいてくると、SSは囚人たちを別の収容所に移送します。
最初は暖房のない貨車でしたが、後には徒歩で行進させられました。
囚人たちは極寒の中、食料、休憩をほとんど与えられず、長い距離を歩かなければならなかった。弱って動けなくなると容赦なく射殺されました。
やっと到着したものの力尽きて亡くなったユダヤ人もいます。
写真はユダヤ人の囚人番号つきカード。 -
「今日、我々は自由になった!」
大戦末期、アメリカ軍が接近したのを察知したSS親衛隊総司令官ハインリッヒ・ヒムラーはテレージエンシュタットへの撤退を指示しました。
しかし余りの囚人の数の多さに、囚人2万1000人は残されたままでした。
そして1945年4月11日、その日がやってきました。
ブーヘンヴァルト強制収容所がアメリカ軍によって解放されたのです。 -
ここに到着するまでの間、何度も激しい戦闘をくぐりぬけ、死体もたくさん見てきたはずのアメリカ兵たちもブーヘンヴァルト強制収容所の惨状には思わず言葉を失った。
腐乱した囚人の死体があちこちに転がり、中庭には裸の老若男女の死体が山積みにされていた。(wikiより) -
生き残っていた囚人たちも肉がほとんどなく骨と皮のようにやせ細っていたのだった。(wikiより)
写真の中には後にノーベル賞作家となったエリ・ヴィーゼル(1928-2016)の姿もあります。(左の写真赤丸・矢印) -
(参考)
2009年6月5日、バラク・オバマ米国大統領がブーヘンヴァルト強制収容所跡地を訪問しました。
アンゲラ・メルケルドイツ首相とともに、オバマに同行したのは元収容者でノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼルでした。
写真左の人物(写真はネットより) -
救出された囚人たち。骨と皮だけのやせ細った身体。
しかし安堵の表情が見えます。 -
救出された囚人が、極寒の中の厳しい労働で凍傷に罹った足を見せている。
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その光景を見たジョージ・パットンは激怒。
そのため彼はドイツ国民に自国の政府、すなわちナチス政権の犯した非人道的行為をしっかり目に焼き付けさせるため、付近の都市であるヴァイマルの市民たちを収容所へ連れてくるよう命じた。(wikiより)
貨車にうず高く積まれた死体、絞首台に吊るされたままの死体を見せられるワイマールの市民。 -
命令を受けたアメリカ軍憲兵隊は約2000人の市民を連行し、収容所内の惨状を見させた。
解放後の収容所に連れてこられたドイツ人たちはほとんどがその光景から目をそらすか気を失ったかのどちらかだったという。(wikiより)
まだ焼け残っている遺体を焼却炉で見せられるワイマールの市民たち。
(下の写真)
ブーヘンヴァルトの魔女と言われるイルゼ・コッホ(後出)が作らせた囚人の内臓を樹脂で固めたものや、囚人の皮膚で作ったランプシェードを見せられて目を背けているワイマール市民。
しかし召集されたワイマール市民が一様に声をそろえて言ったことは「私たちは何も知らなかった」でした。 -
解放から数日経った1945年4月19日、元囚人たちが参加して最初の追悼式が行われました。
残っていた元囚人は21,000人でした。 -
そして、裁判が始まりました。
ブーヘンヴァルト強制収容所の初代所長はカール・オットー・コッホ親衛隊大佐 (所長在任1937年7月‐1941年12月)。
1941年に横領や不正経理などによりゲシュタポに逮捕、処刑される。
写真はオットー・コッホではありません。 -
初代所長だったオットー・コッホの妻で、女性看守だったイルゼ・コッホ(1906-1967)。
夫が所長であることを盾にとり、囚人に対してサディスティックな拷問や虐待行為を行い、ブーヘンヴァルトの魔女と言われていました。
また囚人の皮膚でランプシェードを作ったり、囚人の内臓を樹脂で固めた標本を作らせたりと悪の限りをつくしていました。
ところが裁判では証拠不十分ということで減刑され、恩赦により釈放されます。 -
しかし、ドイツ国民がこれを許すわけがありません。
西ドイツの司法当局は再度イルゼを告発し、1951年には終身刑が言い渡されました。
そして獄中自殺しました。
イルゼのそうした行状は面白おかしく脚色されて、映画やテレビの題材になっているそうです。 -
オットー・コッホの後任所長として赴任したのはヘルマン・ピスター親衛隊上級大佐(所長在任1941年12月‐1945年4月13日)。
彼は収容所が解放されたときの所長でもあります。
裁判で終身刑を言い渡されますが、獄中で死亡しました。(写真はネットより) -
助かった元囚人たち。
彼らは裁判で収容所の悲惨な実態を証言しました。 -
解放後、元囚人によって描かれた似顔絵。
下の文字は看守の日誌?
死亡とか感染症とか、ふつーに書いてあるのが怖い。 -
こちらは救出されたユダヤ人たちの個人情報カードでしょうか。
名前、生年月日、生まれた国、それに囚人番号、経歴(アウシュヴィッツから送られたなど)など、個人のサイン付きで管理してあります。 -
囚人番号を彫られた腕を見せている元ユダヤ人の囚人。
一生消えることのない数字なのです。 -
最後に興味ある囚人を見つけました。
ジョルジュ・アンジュリ(フランスの写真家)
囚人としてブーヘンヴァルトに送りこまれた彼は、写真班(囚人の身分証明書用の写真担当)としての作業を割り当てられました。
彼はリスクを犯して、収容所内の写真を撮ったり、またSSが持ちこんだ写真の複製をとったりして、地下に埋めて隠し持っていました。
解放の翌日、それらを回収し、フランスに帰って公表しました。 -
外に出ます。
記念石「ブルガリアの政治囚」(1970)
キルリ文字で書かれた碑文。
ブラチスラバとドレスデン工科大学で勉強していたブルガリア人学生は、ドイツ軍への兵役を拒んだことでブッヘンヴァルト強制収容所で拘留されました。
碑には彼らの名前が記されています。 -
英国とカナダの軍隊の殺害されたメンバーへの記念碑
1944年8月の空爆で捕虜となった連合軍の兵士たち。
SSは9月~10月にかけて彼らを殺害しました。
しかし、3人の兵士だけは、収容所の抵抗組織の助けを借りて、死んだ囚人の替え玉となって助かることができました。 -
ナチスの恐怖政治により犠牲になった人々の碑
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その他にもいろいろな慰霊碑があります。
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・上左:エホバの証人の追悼碑、
・上右:ホモセクシュアルの追悼碑。ピンクの三角マークが彼らの識別。約650名がブーヘンヴァルトに送りこまれ、その3分の1はなくなった。
・下左:スペイン共和国犠牲者の記念碑、
・下右:連合国空軍の記念碑 -
まだ壊れたまま取り残されているバラックの跡。
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殺害されたシンティとローマの記念碑
ナチスが人種的に迫害の対象としたシンティーとロマ族(ジプシー)。
日本の墓石に似た黒い石がポツポツと立っている場所は、ナチスの犠牲者であった彼らを追悼して造られた、いわば墓場です。
シンティーとロマは約3,500人がブーヘンヴァルトに連れてこられ、少なくとも400人が死亡しました。 -
遠くに見えるのは唯一再現されたバラック。
現在は展示室とセミナーとして使われているようです。
歩き疲れてあそこまで行く元気なし、パス!。 -
それではそろそろ引き上げましょう。
ここはSS親衛隊の兵舎です。
やはりバラックとは違いますね。 -
SS高官たちは、居心地のよい邸宅を自分の好みで建てることができました。
近くにはお狩場などもあったそうです。 -
犬小屋と書かれた立札。
SSエリアには犬小屋どころか、家族の余暇スパースとして動物園まであったそうです。そこではクマも飼われていました。
初代所長オットー・コッホは趣味のための馬小屋付きの乗馬場まで持っていたといいますから、かなり贅沢していたのでしょうね。
結局彼は横領や不正会計で逮捕され、処刑されました。 -
ここはSS親衛隊の兵舎でした。
現在は青少年センターとして使われています。 -
バス停は並んでいる親衛隊兵舎の端のほうにあります。
この広場はSSのパレード場でした。 -
バスに乗ってワイマール市内へ戻ります。
帰りも若者と一緒でした。
彼らの明るい笑い声に、「平和でよかったねー」と声をかけたくなったブーヘンヴァルト見学でした。
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この旅行記へのコメント (6)
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- qi1008さん 2021/09/21 19:09:45
- ブナの森
- この収容所はもともとブーヘンヴァルト(独)ブナの森のまっただ中にあることからこの名前が付けられました。ワイマール市内からも、車で15分ほど森林地帯を突き抜けなければ到着できません。
私が始めてその名を聞いた時、思わず口ずさんでしまったのは🎵ブナの森の葉隠に~🎶
なんと皮肉なことでしょう、17世期のロマンチックなドイツ歌曲がこんなところで意味深に重ります。
この地はシンティ・ロマなどのジプシーも含めた囚人達が強制労働として隙間なく生い茂る密林を伐採し、地均しし、近くのエッタースベルク石切場から採掘した砂利を敷地一面に引いて、初めて家屋が建てられるように開拓したわけです。今、当たり前のように整然とした点呼広場の地面に立つ時、そんな血と汗と涙によって固められた場所であることを知り、鳥肌が立たない人はいないでしょう。
> ワイマールの宰相だったゲーテが瞑想したと言われている美しい静かなブナの森、後世にそんな物騒なものが建てられようとは、ゲーテさまでもご存知なかったでしょう。
この偶然は同様に『流浪の民』を作曲したシューマンさまもご存知なかったと思います。
- qi1008さん からの返信 2021/09/21 19:32:43
- Re: ブナの森 – シューマン 流浪の民 訂正
- ごめんなさい、間違えました。
ロベルト・シューマンによって作曲された流浪の民は1840年作で、もちろん17世紀ではなく19世紀です!
- frau.himmelさん からの返信 2021/09/21 21:42:36
- RE: Re: ブナの森 ? シューマン 流浪の民 訂正
- qi1008さん、追加のコメントありがとうございます。
私たちもワイマールの駅からバスでブナの森を抜けていきました。14,5分くらい。
お恥ずかしい〜〜。
>ブナの森の葉隠に〜♪・・・。
これは何ぞや?
理解できなくて検索をかけました。そしたら曲が流れてきました。
シューマンの流浪の民、
懐かしい〜〜!
あの曲を聴くのは何年ぶり、いえ何十年ぶりだろう。昔々そう言えばコーラスでも唄ったなー。
「流浪の民」、すなわちジプシーたちが囚人としてナチスに連れてこられ、砂利を敷き詰めて、血のにじむような思いをして開拓したブーヘンヴァルトのあの広場。
後世にそんなむごい歴史がつくられたなんて、ゲーテさまもシューマンさまもご存知なかったでしょうね。
いつかお会いしてそんなお話ができるといいですね。
ドイツはそろそろフェダーヴァイサーの季節ではありませんか?
秋のドイツ、また行きたいです。
ありがとうございました。
himmel
- qi1008さん からの返信 2021/09/25 20:45:16
- RE: RE: Re: ブナの森 老婆の夏
- ドイツまさしく今、フェダーヴァイサーの季節で、ワイン濁酒が瓶の中でフツフツ秋の訪れを謳っています。
それに欠かせない、玉ねぎクーヘンももちろん旬です!
現地は朝晩はグッと冷えるのに、澄んだ空気の中、日中の日差しが一段と強い今日この頃です。
ご存知かとは思いますが、この時期はドイツ語で『老婆の夏 =アルトバイバー・ゾマー』 と名付けられています。蜘蛛がたくさん糸をはり、それが風になびいて銀の老婆の髪のように見えるからだからだそうです。
毎年、私はそんな風景に出会うと、人生の冬に突入する最後の夏の日々に青春よりもっと強く太陽を照らし上げる老婆の情熱を想像してしまいます。
ヘルマン・ヘッセの『人は成熟するにつれて若くなる』の舞台にぴったりの季節。ここでもまた対比するように平和主義の彼とナチスが関連しましたね。
旅行記のテーマとは番外編のコメントで、ごめんなさい。
お返事したかったのでこの場を利用させていただきました。
Himmelさんとお友達の方々にとりましても、キラキラのアルトバイバー・ゾマーをお過ごしください。
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- qi1008さん 2021/09/21 17:34:54
- 謎の写真
- Liebe Frau Himmel,
はじめまして!
ネット検索からHimmelさんの記事を拝読させていただく幸せに至りました。
たくさんの美しい写真もさることながら、綿密に調べ上げられたコメントや、くまなくドイツ中を廻られた情熱には脱帽するばかりです。
私は、Himmelさんが何度も訪れられたフランクフルト・アム・マインに在住しております(シュテーデル美術館の旅行記も地元民よりご存知で素晴らしかったです)。
実はこの間、ドイツの高校生達のようにワイマール・ブーヘンヴァルト強制収容所の写真にもある敷地内の元SS兵舎だった青少年センターに宿泊し、3日間の『シニア講座』(笑)としてセミナーを受けたばかりで、資料展示館の謎の写真の答えがわかりました。
この写真はまさしくご想像通り、収容所に到着し丸坊主にされたあと、点呼広場に整列を強いられたユダヤ人達です(別の写真には、まだ髪を剃られていない人も見られます。わざわざ照明を当て、監視塔から見下ろす写真が何枚もプロパガンダ用に撮られました)。時は1938年11月『水晶の夜』の直後です。(ちなみに現代のドイツでは『水晶の夜』の名称はゲッベルスにより美化されたものなので、一般には『11月ポグロム』と呼びます。)
このテーマについては、臭いものには蓋でなくて、正しい認識を深め、このような事態を絶対に繰り返さないように未来に伝えなければならないと毎度のことながら反省させられます。
それを旅行記というかたちで広めているHimmelさんは、すばらしいです!
できれば、いつの日か現地でこれらのお話をご一緒にしたいです。
どうぞその日までお元気で、ぜひぜひまたこちらにおいでくださいね!
Liebe Gruesse aus Frankfurt
qi1008
- frau.himmelさん からの返信 2021/09/21 21:15:20
- RE: 謎の写真
- qi1008さんこんばんは。
私の拙い旅行記がフランクフルト在住の方のお目に留まるなんて光栄です。
それとともに恥ずかしい〜〜。適当なことを書いていますので(笑)。
さて、この度は、ブーヘンヴァルト旅行記の私の独り言のような呼びかけに応えてくださり、ありがとうございます。
あの広場にならんで点呼を受けている写真ですね。
いつも縞々の囚人服を着て寒そうに点呼を受けている写真を見慣れておりましたので、立派な外套を着てならんでいる囚人の姿が奇異にうつったのです。
そうですか、あの写真はわざわざ照明を当てて撮られたのですか、プロパガンダ用に。
囚人たちが着ていたあの外套はその後SS親衛隊に身ぐるみはがされたのですね。
「水晶の夜」という呼び方もゲッペルスが美化してつけたものというのも初めて知り、勉強になりました。
覚えております。あのSSの宿舎だった黄色い建物。
現在は青少年センターになっており、そこで3日間(!)の講座を受けられたとのこと、凄いですね。
そんな方に見ていただいたなんて、ますます私のあの旅行記が恥ずかしくなります(笑)。
なるほど、そしてあの囚人たちは、水晶の夜(11月ポグロム)の直後だから全てユダヤ人で季節的にも外套を着ているのですね。ユダヤ人を収容するようになって収容者が一気に膨らんだと、私の旅行記にも書いていますね。
大変興味あるコメントをありがとうございました。
このことをブーヘンヴァルトに一緒に行ったシニア仲間にも教えてあげたいと思います。彼らもきっと喜びます。
またいろいろ教えてください。
himmel
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