
2019/10/05 - 2019/10/05
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しゅいぐーさん
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昼食後、出発です。鎌倉駅からまずは、本覚寺→妙本寺→常栄寺(ぼたもち寺)→安養院→妙法寺→長勝寺へ行ってきました。最後の妙法寺は、別名「苔寺」です。写真は、苔の階段です。奥の院まで行くと景色も良く海も見ることができます。
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本覚寺は、日蓮宗の寺院です。日出上人を開山として永亨八年(1436)に創建されました。
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両側に仁王像を配する楼門を過ぎると正目に堂々とした本堂が見えます。本堂は大正八年に完成したもので、七間四方、 正面に唐破風の向拝を付けたものです。中には500人も入れるということで、規模も市内有数で、大正時代のものとして貴重なものです。
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本覚寺(神奈川県鎌倉市) 寺・神社
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本覚寺 御朱印
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妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。
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この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。
妙本寺(神奈川県鎌倉市) 寺・神社
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比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
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日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。
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第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世 島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。
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妙本寺 御朱印
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ぼたもち寺由来。鎌倉時代に龍ノ口で刑に処されることになっていた日蓮に、一人の老婆がぼたもちを差し出した逸話に由来します。
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法華経を広めるため、他の宗派を否定した日蓮は、幕府に危険視されており、刑に処されることになりました。その刑場へ向かう途中、ひとりの老婆「桟敷の尼」が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げました。
常栄寺 寺・神社
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刑がまさに執行される時、江ノ島方面の空に光る物体が出現したために、周囲がが恐れをなして刑は中止になりました。その後、老婆が渡したぼたもちは「首つなぎぼたもち」として語られて、このお寺の由来になっています。
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寺号は老婆「桟敷の尼」の法号「妙常日栄」にちなんだものです。
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安養寺
安養院(神奈川県鎌倉市) 寺・神社
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この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係している。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。
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日蓮が鎌倉にきて布教を行うために建てた草庵が、鎌倉の僧・武士によって焼き打ちされた。
妙法寺(苔寺) 寺・神社
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お庭も御住職が一人で手入れをしているそうです
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ここが、苔の階段
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通行することはできません
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日蓮聖人 (1222-82) のために、この地の石井長勝が、小庵を建てたのに始まるといわれています。
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日蓮聖人は、建長五年 (1253) 鎌倉に来て布教をし、当時の社会の不安や天災の原因を幕府や他の宗派のせいとして激しく非難しました。文応元年(1260) には『立正安国論』を時の執権北条時頼に提出し、他宗を激しく攻撃していました。
長勝寺(神奈川県鎌倉市) 寺・神社
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そのために、弘長元年 (1261) に幕府の手により捕らえられ、伊豆に流されますが、1263年に赦されて鎌倉に戻ります。その時に石井長勝が邸内に小庵を建て、提供したとのことです。これは法華堂と呼ばれましたが、後に本圀寺となりました。
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室町時代の初めの貞和元年(1345) 、本圀寺は日静上人により京都に移されました。日静上人が足利尊氏の叔父であったからとのことです。
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その後、荒地になってしまったお寺を、日隆上人 (1385-1464) が復興し、石井長勝の名前から、石井山 長勝寺としたと伝えられています。 日隆上人は、小湊のひとで、中興開山とされています。
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