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2017年11月27日(月)、パラグアイ(Paraguay)アスンシオン(Asuncion)の早朝と云うか夜中。この日のフライトは朝6時過ぎと云うことで、3時半にホテルを出発。昨日フロントで頼んでおいたタクシーがちゃんと来てくれる。問題なく空港に着き、タクシー料金でもめることもなく(確かUS$で払ったが、いくらだったか忘れた)、4時過ぎには無事チェックイン完了し、イミグレを抜けて出発ゲートへ進み、そこで朝食(下の写真)。パイが32,000G(約640円)、オレンジジュースが10,000G(約200円)とコーヒーが16,000G(約320円)。あと前日が日曜で何も買えなかったので、パラグアイTシャツを58,000G(約1160円)で購入。両替したグアラニー、ミネラルウォーターを買った以外は使うことがなかったので、残ってる500円くらいで買えるものを探し、ミネラルウォーターとチョコレートを購入。それでもまだお札が残ったが、2000G札って40円札なんだよなあ・・・<br /><br />朝6時5分のほぼ定刻、アビアンカ航空(Avianca)の906便はアスンシオンのシルビオ・ペティロッシ国際空港(Aeropuerto International Silvio Pettirossi)を飛び立つ。この旅、アビアンカ航空に乗るのは、キュラソー(Curacao)からボゴタ(Bogota)、ボゴタからサンパウロ(Sao Paulo)以来だが、この時のアビアンカはコロンビアのフラッグキャリア(flag carrier)であるアビアンカ航空で、この日は正確にはアビアンカペルー航空(Avianca Peru)。グループ会社であるが、アビアンカの持ち株は49%。元々はトランザム航空(TransAm)として1999年に設立され、2012年に現在のブランドとなった。このフライトの機種は日本でも全日空などで使われているエアバス社(Airbus)のベストセラーシリーズのA320。<br /><br />この便が向かっているのは、私に取ってこの旅7か国目になるペルー。正式にはペルー共和国(Republica del Peru)。日本語漢字表記では秘露。国名ペルーの語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ(Panama)南部を支配していたビルー(Biru)という首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国があると云う話を先住民から伝え聞いたスペイン人がさらに南の南米大陸西部をピルーと呼ぶようになり、それが転じてペルーになったと云うのが最も有力な説。<br /><br />1543年に創設されたスペインのペルー副王領(Virreinato del Peru)の名前を受け継いでおり、当時のペルー副王領は北米・カリブ海などで構成されるヌエバエスパーニャ副王領(Virreinato de Nueva Espana)に含まれる現在のベネズエラ(Venezuela)の海岸部を除くスペイン領南アメリカのすべてを含んでいた。<br /><br />面積は128.5万平方km余りで、日本の約3.4倍、世界で19位に入る広さ。南米大陸の太平洋岸北部に位置し、首都は飛行機が向かっているリマ(Lima)。太平洋に面する西側以外は、北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接している。<br /><br />ほぼ赤道直下から南緯18度にわたる多様な地勢を持ち、国土は大きくは3つの地形に分けられる。コスタ(Costa)もしくはチャラ(Chala)は国土の約12%を占め、沿岸部の砂漠が広がる地域。国土の約28%はシエラ(Sierra)で、標高6000m級の雄峰が連なるアンデス山脈(Cordillera de los Andes)が連なる高地。残る約60%がアマゾン川(Rio Amazonas)流域のジャングル、セルバ(Selva)となる。流域面積世界一を誇るアマゾン川は、ペルーのアンデスを源流としてブラジルへ注いでいることは意外と知られていない。これに加え、コスタとシエラは北部、中部、南部でも違いがあり、多様な地域性を生み出している。<br /><br />人口は約3,300万人で、45%がケチュア人(Quechua)、アイマラ人(Aymara)などのインディヘナ(Indigena)とスペイン人などヨーロッパ人との間の混血のメスティーソ(Mestizo)で一番多く、インディヘナ(公式にはカンペシーノ(Campesino))が37%、ヨーロッパ系ペルー人が15%で、その他アフリカ系ペルー人、アジア系ペルー人もおり、非常に複雑で多様な人種から構成されている。<br /><br />ほとんどの人がスペイン語を話せるが、公用語としては1975年にケチュア語が、1980年にはアイマラ語が追加されている。約81%がカトリック(Iglesia Catolica)で、プロテスタント(Protestantismo)も約12.5%いる。近年カトリック信仰者が減少しているそうだ(93年には89%だった)。憲法で信仰の自由は謳われているが、カトリック教会に「国家の歴史的、文化的、道徳的発展における重要な要素」と云う役割を規定しており、初等、中等教育でカトリック教育が法律で義務付けられており、また、カトリックの宗教的なシンボルは、すべての政府の建物と公共の場所にあり、カトリックと政府の結びつきは大変強い。<br /><br />これまで訪ねた南米大陸東海岸から中部地帯の国々とは違い、紀元前から古代文明が栄えたところで、最も古い遺跡は紀元前3000年とも云われる。その後さまざまな文明が現れ、滅んで行き、現在も多くの遺跡が残り、未だ謎の包まれたものも多い。<br /><br />15世紀に入るとケチュア人のクスコ王国(Curacazgo Inca)のパチャクテク王(Pachacutec)が勢力を広げ始め、インカ帝国(Imperio Inca)を樹立。最盛期の16世紀初めにはその領土はペルー、ボリビア(Bolivia)、エクアドル(Ecuador)の大部分、マウレ川(Rio Maule)以北のチリ(Chile)の北半分、さらにアルゼンチン(Argentina)、コロンビア(Columbia)にまで及んでいた。<br /><br />しかし、1532年、黄金を求めてフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)に率いられたスペインの征服者たちがペルーに到着、インカ帝国はあっという間に制圧された。彼らはその後も細々と抵抗を続けたが、1572年に最後の皇帝が捕らえられて処刑され、その歴史の幕を閉じた。<br /><br />1543年にスペインがペルー副王領を創設。リマを首都として金銀などの鉱物の搾取が行われた。ミタ制(Mita)と呼ばれる先住民に対する強制労働が行われ、酷使された先住民の多くが殺された。実数は不明だが、最盛期に1600万人だった先住民の人口が、スペインの征服から植民地時代を通して、18世紀末のペルーで108万人になったそうで、その酷さが想像できる。<br /><br />1717年にペルー副王領から現在のコロンビア、エクアドル、ベネズエラをヌエバグラナダ副王領(Virreinato de Nueva Granada)を分離、23年にいったん廃止されたが、39年に再び分離された。さらに1776年に現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアをリオ・デ・ラプラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata)に分離し、ペルー副王領は現在のペルーとチリだけとなった。<br /><br />19世紀に入り他のスペイン植民地に独立運動が起こると、ペルー副王領はスペインの中南米支配の最大の拠点として各地に軍を派遣し、新興独立政府を倒していた。しかし、アルゼンチンだけでなく全ての南アメリカ諸国が独立すべきと考えたアルゼンチン人のホセ・デ・サンマルティン(Jose Francisco de San Martin y Matorras)が、アンデス山脈越え(Cruce de los Andes)を行い、1818年にチリを独立させた後、1821年にリマに侵攻、ペルーは独立を果たした。しかし、その後もペルー副王領政府は抵抗を続け、1824年のアヤクーチョの戦い(Batalla de Ayacucho)でシモン・ボリバル(Simon Bolivar)配下の解放軍が政府軍を打ち破り、ペルー副王領が滅亡した。1825年に憲法が制定され、27年、初代大統領にホセ・デ・ラ・マル(Jose de La Mar)が就任した。<br /><br />この後19世紀前半は、隣国ボリビアとの争いが続く。まずは1828年にペルーの事実上の支配者だったアグスティン・ガマーラ(Agustin Gamarra)がペルーをインカ帝国の後継国家だと考え、旧インカ帝国の領土を回復するためにボリビアを併合しようと軍を送ったが、打ち破られる。逆に1836年にはボリビアがペルー内戦に介入しペルーを征服、ペルーは南ペルー共和国(Estado Sud-Peruano)と北ペルー共和国(Estado Nor-Peruano)に分けられ、ボリビアと併せてペルー・ボリビア連合(Confederacion Peru-Boliviana)となる。しかしチリに亡命したガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリとアルゼンチンの力を得て1839年に連合戦争(Guerra de la Confederacion)もしくはペルー・ボリビア戦争(Guerra contra la Confederacion Peru-Boliviana)で勝利し、この連合は崩壊した。さらに1841年、ガマーラはペルー主導で再び連合を結成しようと再びボリビアに侵攻したが敗れ、戦死し、これ以後両国を統一しようとする動きはなくなった。<br /><br />1858年から60年のエクアドルとアマゾン盆地(Cuenca del Amazonas)の領有を争ったエクアドル・ペルー戦争(Guerra peruano-ecuatoriana)、1866年のスペインの南米再征服を図っての侵攻に対するチンチャ諸島戦争(Guerra hispano-sudamericana)を経て、1879年にはアタカマ砂漠(Desierto de Atacama)の硝石資源の開発をめぐって、チリがペルーとボリビアに宣戦布告し、太平洋戦争(Guerra del Pacifico)が始まった。海軍力に優れたチリが81年リマを占領し、84年にアンコン条約(Tratado de Ancon)で終戦、ペルーは硝石資源のみならず新たに最南部の3県を失った(ただし、1県は1929年に返還された)。<br /><br />この戦争でペルー経済は大きな打撃を受けたが、19世紀末から非鉄金属鉱山の開発や沿岸部の砂糖プランテーションの拡大が始まり、上昇傾向をたどった。1908年にアウグスト・レギーア(Augusto Leguia)政権が誕生、7年の中断期間を挟んで1930年まで独裁が続いたが、その間アメリカの資本や援助が積極的に導入され、経済はその支配下に入った。<br /><br />こうした支配層に対抗して1920年代末からアプラ党(APRA)と共産党が登場し,アプラは中産階級に依拠した改革構想を掲げるが,1950年代半ばには支配体制の一翼に吸収された。議会による改革に見切りをつけたベラスコ(Juan Velasco Alvarado)将軍が1968年クーデタで政権を握る。1968年から80年までの軍政はペルー革命(Historia del Peru)と呼ばれ、農地改革や基幹産業の国有化、ケチュア語の公用語化などが行われたが、農村部の貧困と関わって1970年代から何回か左翼武装組織のゲリラ活動が起こっている。<br /><br />1990年の大統領選で日系のアルベルト・フジモリ(Alberto Kenya Fujimori Inomoto)氏が当選、治安回復や経済再建に取り組み、95年再選された。2000年にもフジモリは3選されたが、側近の政治スキャンダルがらみで、滞日中に辞表を提出、国会で罷免された。2001年大統領選挙では中道右派政党のトレド(Alejandro Celestino Toledo Manrique)氏が当選,初の先住民系大統領となった。<br /><br />大統領を元首とする三権分立、一院制議会に基づく立憲共和国。大統領の任期は5年で連続再選は1回まで。現在(19年9月)の大統領は56歳のマルティン・ビスカラ(Martin Alberto Vizcarra Cornejo)氏。政治的には中道とされる。軍隊が憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。1999年に徴兵制は廃止され、現在は志願制で、兵力は8.1万人。<br /><br />アジア太平洋経済協力(APEC)、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の参加国であり、メキシコ、チリ、コロンビアと共に,中南米地域において開かれた経済連合を目指すイニシアティブである太平洋同盟(Alianza del Pacifico)のメンバー国でもある。2018年の経済成長率(GDP)は4.0%。鉱業や水産業が主要産業で、銀の産出量、漁獲高とも世界第2位。鉱産物が輸出の大部分を占める。<br /><br />現在の通貨はソル(Sol、複数形はSoles)で、略号はS/。補助通貨がセンティモ(1/100)。19年9月時点では1US$が3.39S/。1S/が約32円だが、私の訪問時は約36円だった。国旗は縦割りの赤、白、赤の三色旗で、赤は勇気と愛国心を、白は平和と名誉を象徴する。なお、ペルーの公的機関は、旗の中央に国章が入ったものを使用する。現在のデザインは、1825年に正式な国旗として定められた。<br /><br />他のラテンアメリカ諸国と同じようにサッカーが盛ん。代表チームはFIFAワールドカップ(FIFA World Cup)に5度出場、2018年のロシア大会に9大会ぶりに出場したが、1次リーグ1勝2敗で決勝トーナメントには進めなかった。最高成績はベスト8が2回。コパアメリカ(Copa America)は2度優勝、2019年大会は決勝でブラジルに敗れた。その他のスポーツとしては、バレーボール、テニス、サーフィンなどが盛ん。<br /><br />外交関係設立は1873年で中南米で最も早い。両国の関係は、第二次大戦期を除き常に良好に推移してきている。日本との関係も深く、日本人移民はブラジルに次いで多く、日系ペルー人は推定10万人だが、実際は数十万とも云われる。在留邦人も3400名程度で、在日ペルー人は5万人近くいる。米国、ドイツに次いで日本が3番目の援助国でもある。首脳や外相訪問も頻繁に行われており、近年では16年に安倍総理が公式訪問している。外相レベルでは今年(19年)5月のパリでのOECD閣僚理事会(MCM)において外相会談が行われた。1996年末に左翼武装ゲリラが日本大使公邸に侵入し、約70人を人質に取り、翌年4月にペルー軍特殊部隊が突入してゲリラ全員を射殺すると云う不幸な事件も過去にはあった。<br /><br />日本との時差は14時間遅れで、サマータイムを採用していたこの時のパラグアイとは2時間の時差があった。<br /><br />アンデスの山々にこだまするフォルクローレ(Folclore)の音楽、鮮やかな民族衣装をまとった先住民の人々、神秘的な古代遺跡、アマゾンの秘境。南米といわれて思い浮かべるイメージの全てがある国。アマゾンの秘境は行かないが、今回の旅の目玉のマチュピチュ(Machu Picchu)、ナスカ(Nazca)がとても楽しみ。<br /><br />前夜あまり寝てないし、時差で2時間遅れになるので、飛行機が飛び立ってからは出来るだけ眠る。飛び立って約3時間、到着まであと1時間ほどのペルー時間の7時前、久々に機内食が出る(表紙写真)。3時間半前にも食べたが、しっかり食べて、今日1日の活動に備える。<br /><br /><br />リマへ入るが続く。

ペルー(Peru)

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2017/11/27 - 2017/11/27

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ちふゆ

ちふゆさん

2017年11月27日(月)、パラグアイ(Paraguay)アスンシオン(Asuncion)の早朝と云うか夜中。この日のフライトは朝6時過ぎと云うことで、3時半にホテルを出発。昨日フロントで頼んでおいたタクシーがちゃんと来てくれる。問題なく空港に着き、タクシー料金でもめることもなく(確かUS$で払ったが、いくらだったか忘れた)、4時過ぎには無事チェックイン完了し、イミグレを抜けて出発ゲートへ進み、そこで朝食(下の写真)。パイが32,000G(約640円)、オレンジジュースが10,000G(約200円)とコーヒーが16,000G(約320円)。あと前日が日曜で何も買えなかったので、パラグアイTシャツを58,000G(約1160円)で購入。両替したグアラニー、ミネラルウォーターを買った以外は使うことがなかったので、残ってる500円くらいで買えるものを探し、ミネラルウォーターとチョコレートを購入。それでもまだお札が残ったが、2000G札って40円札なんだよなあ・・・

朝6時5分のほぼ定刻、アビアンカ航空(Avianca)の906便はアスンシオンのシルビオ・ペティロッシ国際空港(Aeropuerto International Silvio Pettirossi)を飛び立つ。この旅、アビアンカ航空に乗るのは、キュラソー(Curacao)からボゴタ(Bogota)、ボゴタからサンパウロ(Sao Paulo)以来だが、この時のアビアンカはコロンビアのフラッグキャリア(flag carrier)であるアビアンカ航空で、この日は正確にはアビアンカペルー航空(Avianca Peru)。グループ会社であるが、アビアンカの持ち株は49%。元々はトランザム航空(TransAm)として1999年に設立され、2012年に現在のブランドとなった。このフライトの機種は日本でも全日空などで使われているエアバス社(Airbus)のベストセラーシリーズのA320。

この便が向かっているのは、私に取ってこの旅7か国目になるペルー。正式にはペルー共和国(Republica del Peru)。日本語漢字表記では秘露。国名ペルーの語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ(Panama)南部を支配していたビルー(Biru)という首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国があると云う話を先住民から伝え聞いたスペイン人がさらに南の南米大陸西部をピルーと呼ぶようになり、それが転じてペルーになったと云うのが最も有力な説。

1543年に創設されたスペインのペルー副王領(Virreinato del Peru)の名前を受け継いでおり、当時のペルー副王領は北米・カリブ海などで構成されるヌエバエスパーニャ副王領(Virreinato de Nueva Espana)に含まれる現在のベネズエラ(Venezuela)の海岸部を除くスペイン領南アメリカのすべてを含んでいた。

面積は128.5万平方km余りで、日本の約3.4倍、世界で19位に入る広さ。南米大陸の太平洋岸北部に位置し、首都は飛行機が向かっているリマ(Lima)。太平洋に面する西側以外は、北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接している。

ほぼ赤道直下から南緯18度にわたる多様な地勢を持ち、国土は大きくは3つの地形に分けられる。コスタ(Costa)もしくはチャラ(Chala)は国土の約12%を占め、沿岸部の砂漠が広がる地域。国土の約28%はシエラ(Sierra)で、標高6000m級の雄峰が連なるアンデス山脈(Cordillera de los Andes)が連なる高地。残る約60%がアマゾン川(Rio Amazonas)流域のジャングル、セルバ(Selva)となる。流域面積世界一を誇るアマゾン川は、ペルーのアンデスを源流としてブラジルへ注いでいることは意外と知られていない。これに加え、コスタとシエラは北部、中部、南部でも違いがあり、多様な地域性を生み出している。

人口は約3,300万人で、45%がケチュア人(Quechua)、アイマラ人(Aymara)などのインディヘナ(Indigena)とスペイン人などヨーロッパ人との間の混血のメスティーソ(Mestizo)で一番多く、インディヘナ(公式にはカンペシーノ(Campesino))が37%、ヨーロッパ系ペルー人が15%で、その他アフリカ系ペルー人、アジア系ペルー人もおり、非常に複雑で多様な人種から構成されている。

ほとんどの人がスペイン語を話せるが、公用語としては1975年にケチュア語が、1980年にはアイマラ語が追加されている。約81%がカトリック(Iglesia Catolica)で、プロテスタント(Protestantismo)も約12.5%いる。近年カトリック信仰者が減少しているそうだ(93年には89%だった)。憲法で信仰の自由は謳われているが、カトリック教会に「国家の歴史的、文化的、道徳的発展における重要な要素」と云う役割を規定しており、初等、中等教育でカトリック教育が法律で義務付けられており、また、カトリックの宗教的なシンボルは、すべての政府の建物と公共の場所にあり、カトリックと政府の結びつきは大変強い。

これまで訪ねた南米大陸東海岸から中部地帯の国々とは違い、紀元前から古代文明が栄えたところで、最も古い遺跡は紀元前3000年とも云われる。その後さまざまな文明が現れ、滅んで行き、現在も多くの遺跡が残り、未だ謎の包まれたものも多い。

15世紀に入るとケチュア人のクスコ王国(Curacazgo Inca)のパチャクテク王(Pachacutec)が勢力を広げ始め、インカ帝国(Imperio Inca)を樹立。最盛期の16世紀初めにはその領土はペルー、ボリビア(Bolivia)、エクアドル(Ecuador)の大部分、マウレ川(Rio Maule)以北のチリ(Chile)の北半分、さらにアルゼンチン(Argentina)、コロンビア(Columbia)にまで及んでいた。

しかし、1532年、黄金を求めてフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)に率いられたスペインの征服者たちがペルーに到着、インカ帝国はあっという間に制圧された。彼らはその後も細々と抵抗を続けたが、1572年に最後の皇帝が捕らえられて処刑され、その歴史の幕を閉じた。

1543年にスペインがペルー副王領を創設。リマを首都として金銀などの鉱物の搾取が行われた。ミタ制(Mita)と呼ばれる先住民に対する強制労働が行われ、酷使された先住民の多くが殺された。実数は不明だが、最盛期に1600万人だった先住民の人口が、スペインの征服から植民地時代を通して、18世紀末のペルーで108万人になったそうで、その酷さが想像できる。

1717年にペルー副王領から現在のコロンビア、エクアドル、ベネズエラをヌエバグラナダ副王領(Virreinato de Nueva Granada)を分離、23年にいったん廃止されたが、39年に再び分離された。さらに1776年に現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアをリオ・デ・ラプラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata)に分離し、ペルー副王領は現在のペルーとチリだけとなった。

19世紀に入り他のスペイン植民地に独立運動が起こると、ペルー副王領はスペインの中南米支配の最大の拠点として各地に軍を派遣し、新興独立政府を倒していた。しかし、アルゼンチンだけでなく全ての南アメリカ諸国が独立すべきと考えたアルゼンチン人のホセ・デ・サンマルティン(Jose Francisco de San Martin y Matorras)が、アンデス山脈越え(Cruce de los Andes)を行い、1818年にチリを独立させた後、1821年にリマに侵攻、ペルーは独立を果たした。しかし、その後もペルー副王領政府は抵抗を続け、1824年のアヤクーチョの戦い(Batalla de Ayacucho)でシモン・ボリバル(Simon Bolivar)配下の解放軍が政府軍を打ち破り、ペルー副王領が滅亡した。1825年に憲法が制定され、27年、初代大統領にホセ・デ・ラ・マル(Jose de La Mar)が就任した。

この後19世紀前半は、隣国ボリビアとの争いが続く。まずは1828年にペルーの事実上の支配者だったアグスティン・ガマーラ(Agustin Gamarra)がペルーをインカ帝国の後継国家だと考え、旧インカ帝国の領土を回復するためにボリビアを併合しようと軍を送ったが、打ち破られる。逆に1836年にはボリビアがペルー内戦に介入しペルーを征服、ペルーは南ペルー共和国(Estado Sud-Peruano)と北ペルー共和国(Estado Nor-Peruano)に分けられ、ボリビアと併せてペルー・ボリビア連合(Confederacion Peru-Boliviana)となる。しかしチリに亡命したガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリとアルゼンチンの力を得て1839年に連合戦争(Guerra de la Confederacion)もしくはペルー・ボリビア戦争(Guerra contra la Confederacion Peru-Boliviana)で勝利し、この連合は崩壊した。さらに1841年、ガマーラはペルー主導で再び連合を結成しようと再びボリビアに侵攻したが敗れ、戦死し、これ以後両国を統一しようとする動きはなくなった。

1858年から60年のエクアドルとアマゾン盆地(Cuenca del Amazonas)の領有を争ったエクアドル・ペルー戦争(Guerra peruano-ecuatoriana)、1866年のスペインの南米再征服を図っての侵攻に対するチンチャ諸島戦争(Guerra hispano-sudamericana)を経て、1879年にはアタカマ砂漠(Desierto de Atacama)の硝石資源の開発をめぐって、チリがペルーとボリビアに宣戦布告し、太平洋戦争(Guerra del Pacifico)が始まった。海軍力に優れたチリが81年リマを占領し、84年にアンコン条約(Tratado de Ancon)で終戦、ペルーは硝石資源のみならず新たに最南部の3県を失った(ただし、1県は1929年に返還された)。

この戦争でペルー経済は大きな打撃を受けたが、19世紀末から非鉄金属鉱山の開発や沿岸部の砂糖プランテーションの拡大が始まり、上昇傾向をたどった。1908年にアウグスト・レギーア(Augusto Leguia)政権が誕生、7年の中断期間を挟んで1930年まで独裁が続いたが、その間アメリカの資本や援助が積極的に導入され、経済はその支配下に入った。

こうした支配層に対抗して1920年代末からアプラ党(APRA)と共産党が登場し,アプラは中産階級に依拠した改革構想を掲げるが,1950年代半ばには支配体制の一翼に吸収された。議会による改革に見切りをつけたベラスコ(Juan Velasco Alvarado)将軍が1968年クーデタで政権を握る。1968年から80年までの軍政はペルー革命(Historia del Peru)と呼ばれ、農地改革や基幹産業の国有化、ケチュア語の公用語化などが行われたが、農村部の貧困と関わって1970年代から何回か左翼武装組織のゲリラ活動が起こっている。

1990年の大統領選で日系のアルベルト・フジモリ(Alberto Kenya Fujimori Inomoto)氏が当選、治安回復や経済再建に取り組み、95年再選された。2000年にもフジモリは3選されたが、側近の政治スキャンダルがらみで、滞日中に辞表を提出、国会で罷免された。2001年大統領選挙では中道右派政党のトレド(Alejandro Celestino Toledo Manrique)氏が当選,初の先住民系大統領となった。

大統領を元首とする三権分立、一院制議会に基づく立憲共和国。大統領の任期は5年で連続再選は1回まで。現在(19年9月)の大統領は56歳のマルティン・ビスカラ(Martin Alberto Vizcarra Cornejo)氏。政治的には中道とされる。軍隊が憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。1999年に徴兵制は廃止され、現在は志願制で、兵力は8.1万人。

アジア太平洋経済協力(APEC)、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の参加国であり、メキシコ、チリ、コロンビアと共に,中南米地域において開かれた経済連合を目指すイニシアティブである太平洋同盟(Alianza del Pacifico)のメンバー国でもある。2018年の経済成長率(GDP)は4.0%。鉱業や水産業が主要産業で、銀の産出量、漁獲高とも世界第2位。鉱産物が輸出の大部分を占める。

現在の通貨はソル(Sol、複数形はSoles)で、略号はS/。補助通貨がセンティモ(1/100)。19年9月時点では1US$が3.39S/。1S/が約32円だが、私の訪問時は約36円だった。国旗は縦割りの赤、白、赤の三色旗で、赤は勇気と愛国心を、白は平和と名誉を象徴する。なお、ペルーの公的機関は、旗の中央に国章が入ったものを使用する。現在のデザインは、1825年に正式な国旗として定められた。

他のラテンアメリカ諸国と同じようにサッカーが盛ん。代表チームはFIFAワールドカップ(FIFA World Cup)に5度出場、2018年のロシア大会に9大会ぶりに出場したが、1次リーグ1勝2敗で決勝トーナメントには進めなかった。最高成績はベスト8が2回。コパアメリカ(Copa America)は2度優勝、2019年大会は決勝でブラジルに敗れた。その他のスポーツとしては、バレーボール、テニス、サーフィンなどが盛ん。

外交関係設立は1873年で中南米で最も早い。両国の関係は、第二次大戦期を除き常に良好に推移してきている。日本との関係も深く、日本人移民はブラジルに次いで多く、日系ペルー人は推定10万人だが、実際は数十万とも云われる。在留邦人も3400名程度で、在日ペルー人は5万人近くいる。米国、ドイツに次いで日本が3番目の援助国でもある。首脳や外相訪問も頻繁に行われており、近年では16年に安倍総理が公式訪問している。外相レベルでは今年(19年)5月のパリでのOECD閣僚理事会(MCM)において外相会談が行われた。1996年末に左翼武装ゲリラが日本大使公邸に侵入し、約70人を人質に取り、翌年4月にペルー軍特殊部隊が突入してゲリラ全員を射殺すると云う不幸な事件も過去にはあった。

日本との時差は14時間遅れで、サマータイムを採用していたこの時のパラグアイとは2時間の時差があった。

アンデスの山々にこだまするフォルクローレ(Folclore)の音楽、鮮やかな民族衣装をまとった先住民の人々、神秘的な古代遺跡、アマゾンの秘境。南米といわれて思い浮かべるイメージの全てがある国。アマゾンの秘境は行かないが、今回の旅の目玉のマチュピチュ(Machu Picchu)、ナスカ(Nazca)がとても楽しみ。

前夜あまり寝てないし、時差で2時間遅れになるので、飛行機が飛び立ってからは出来るだけ眠る。飛び立って約3時間、到着まであと1時間ほどのペルー時間の7時前、久々に機内食が出る(表紙写真)。3時間半前にも食べたが、しっかり食べて、今日1日の活動に備える。


リマへ入るが続く。

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