2019/07/20 - 2019/07/20
257位(同エリア4050件中)
じゃが♪さん
イタリア旅行へ行ってきました。
「おっぱい橋」へ行ってみた編です。
ベネチアは、今回で3回目。
旅行前に、今までに行ったことのない場所へ行きたく、
いろいろ調べて初めて知ったのですが、
ベネチアには、おっぱい橋(Ponte de le TETTE)と呼ばれる小さな橋が
あるのです。
ナヌッ!?
これはいかなきゃ!
(* ̄▽ ̄)フフフッ♪ ~♪
※ガイドブックには載っておりません。
旅行にあたり、参考文献をいろいろ調べました。
♪ ~♪
□7/19(金) 成田⇒イスタンブール⇒ベネチア(7/20朝着)
■7/20(土) ベネチア
□7/21(日) ベネチア
□7/22(月) ベネチア⇒モンタルチーノ
□7/23(火) モンタルチーノ
□7/24(水) モンタルチーノ⇒バニョレージョ
□7/25(木) バニョレージョ⇒ローマ
□7/26(金) ローマ
□7/27(土) ローマ
□7/28(日) ローマ⇒イスタンブール⇒成田 (7/29夜着)
※動画を作成しました。
https://youtu.be/la8DOD7ZFZU?vq=hd2160
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
いきなりですが、「おっぱい橋」って、ご存じでしょうか。
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※線より下は、撮影写真の解説です。
リアルト橋。
(ここは、おっぱい橋じゃないよ)
渡ります。リアルト橋 建造物
-
自分は、今回の旅行前に初めて知ったのですが、
ベネチアには、「おっぱい橋」と呼ばれる小さな橋があるのです。
「えっ!」
「なにそれ??」
「気になるー !!」
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西の方へ向かいます。 -
というわけで、いろいろ調べました。
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カナル運河沿いの道。 -
♪
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カナル運河沿いのゴンドラ。 -
「おっぱい」はイタリア語で、「テッテ(Tette)」といいます。
「おっぱい橋」は、"Ponte delle Tette"です。
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運河沿いの建物。 -
これがその地図。
「テッテ橋」と記載されているところです。
Google Mapで簡単に検索できます。
世の中、本当に便利ですね。 -
では、なぜ「おっぱい橋」と呼ばれるのでしょう?
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市場の広場へ進みます。 -
ベネチアの歴史を知ると、より楽しく理解できますので、
ほんの少し、歴史をかじりましょう。
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果物と野菜などが売っています。 -
7世紀末期にヴェネツィア共和国が誕生します。
その後、1797年まで1000年以上の間に亘り、
歴史上最も長く続いた共和国として繁栄します。
「晴朗きわまる所」や「アドリア海の女王」とも呼ばれ、
東地中海貿易によって栄えた海洋国家でした。
信教の自由や法の支配が徹底されており、
元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰されました。
●参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェネツィア共和国
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魚市場。 -
イチオシ
ベネチアは、国際的な観光都市としても栄えます。
バロック時代のベネチアは、爛熟した祝祭都市として、
イタリア人はおろかヨーロッパ中の富裕な貴族や階層が観光客として訪れました。
彼らにとっては、ベネチアへ観光旅行へいき、
刺激を満喫することが、いわば勲章でした。
その刺激とは、
毎日がカーニヴァルのような街のざんめき、
カストラートが主演するオペラ、
豪奢な食事、
さらに高級遊女と遊ぶことでした。
帰りは最高級のお土産として、
ベネチア生まれの画家カナレットが描いたベネチアの風景画です。
●参考
「オペラの数ほど愛がある―オペラ史でたどる愛のかたち」
永竹 由幸 (著) 集英社 インターナショナル
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午後15:00すぎくらい。
既に終わって、綺麗に片づけられていました。
午前中で終わり、綺麗に掃除をしています。 -
ベネチアに訪れるのは、お金持ちの貴族や富裕層たちばかりではありません。
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橋の方へ向かいます。 -
商人や巡礼者、庶民たちも訪れました。
商人は、アドリア海から、東洋のスパイス、塩、織物などを運びました。
巡礼者は、サンマルコ寺院へ聖マルコの聖遺物(遺骸)を巡礼しました。
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市場の隣の橋。
これはおっぱい橋じゃないよ!! -
彼らにとって、ベネチアへいく目的は、商売や巡礼、観光だけではありません。
歓楽街で遊女と遊ぶことが大きな楽しみでした。
ベネチア政府にとって、彼らが歓楽街や彼女たちと遊びに費やすお金は、
大きな収入源だったそうです。
●参考
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=it&u=http://www.veniceguide.net/cortigiane.htm&prev=search
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&tl=ja&u=http%3A%2F%2Fdipoco.altervista.org%2Fvenice-history-courtesans%2F
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橋の上からの光景。 -
1509年の国勢調査によると、
ベネチアでは約14万人の人が住んでいましたが、
そのうち、約1割の11,164人が娼婦として登録されています。
今では全く想像がつきませんが、
当時のベネチアは、娼婦の楽園でもあったそうです。
●参考
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=it&u=http://www.veniceguide.net/cortigiane.htm&prev=search
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反対側。 -
娼婦は、大きく2つのランクに分類されます。
大衆向けの遊女と、
「コルティジャーナ」と呼ばれる貴族や富裕層向けの高級遊女です。
「コルティジャーナ」は、大衆向けの遊女達とは違い、
宮廷やサロン(政治や文学など知的な話を交わす所)に出入りして、
貴族や国賓達と政治の話をしたり、詩を詠んだり、リュートを奏でたりと、
相当な教養を備えた人物でした。
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♪ -
ちなみにフランスでは、
「クルチザンヌ」
と呼ばれています。
(フランス語: courtisane)
フランスにも、高級娼婦がいました。
●参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/クルチザンヌ
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小道を進みます。 -
当時の高級娼婦の手記が、記録として残っています。
ハリウッドで映画にもなりました。
英語タイトル:"dangerous beauty" ,1998年
邦題: 「娼婦ベロニカ」
原作: マーガレット・ローゼンタール「The Honest Courtesan」
●参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/娼婦ベロニカ
ヴェロニカ・フランコ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェロニカ・フランコ
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Campo San Cassiano.
小さな広場を通り抜けて、小さな橋を渡ります。 -
コルティジャーナについては、日本人が書いたわかりやすい本があります。
「オペラの数ほど愛がある―オペラ史でたどる愛のかたち」
永竹 由幸 (著) 集英社 インターナショナル
オペラに関する本ですが、オペラはコルティジャーナ抜きでは語ることができないそうで、彼女たちのことが詳しくかかれています。
以下、引用です。
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コルティジャーナの具体的なイメージとして役立ちそうなのは、ハリウッド映画「娼婦ベロニカ」です。
なかでも特に印象的なシーンがありました。
元は自分自身もコルティジャーナであったという母親は、
その娘ベロニカを”一人前”にするため、女人禁制の荘厳な図書館に連れていくのです。
娘に向かって母親は言う、
「ここは女は入ってはいけないの。でもコルティジャーナだけは別」
つまり、コルティジャーナは教養を身につける必要があり、それをベネチアの男性社会が認めていたというわけです。
実際、ベロニカのように、群を抜く美貌と古典に通じるほどの素養を身につけたコルティジャーナと遊ぶことは、
何もベネチアの有力者だけではなく、
外国から訪れた諸侯にとっても垂涎のまとでした。
男どもは妻に「チチスベオ(cicisbeo=扈従の騎士)」と呼ばれた公認の愛人を与え、自邸に妻を留め置き、
みずからは社交界でコルティジャーナを伴っていたのです。
その行先の一つがオペラ劇場でした。
バロック時代、裕福な市民や外国からきた貴族が好んだオペラ劇場の桟敷席は、
ずばりハイツな社交場だったのです。
そこでオペラを見やりながら、飲食や逢引きにふけったり、
有力者どうし、お互い話しを交わすところだったのです。
後世、小デュマの小説「椿姫」のモデルとなったクルティザンヌの名花、
マリ・デュプレシもパリの「オペラ座」桟敷席の常連だったそうです。
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おっぱい橋の近くに到着。 -
イチオシ
高級娼婦になれるのは、ほんの一握り。
16世紀当時に11,164人の娼婦がいた中で、
1570年に出版された「コルティジャーナ便覧」には1150人が登録されています。
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この小さな橋から見えるはず。 -
イチオシ
ではその多大勢の遊女たちはどうだったのでしょうか。
当時、娼婦の子供として生まれた娘も多かったそうで、
修道女になるか、遊女になるかぐらいしか選択肢がなかったそうです。
教会に併設された孤児院は、彼女たちを保護する場所でもありました。
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みえました!
この橋です。 -
そんな遊女たちがいた歓楽街が、おっぱい橋の近辺でした。
では、なぜおっぱい橋なのでしょう?
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路地裏の小道を進みます。 -
16世紀、日が陰りはじめると、この橋ちかくの一帯に、
胸をあらわにした女性たちがバルコニーから姿を見せていたのです。
当時の娼婦は、バルコニーから股を広げたり胸を見せる事で、
客の呼び込みをしていました。
⇒だからおっぱい橋です。
そのまんまじゃん!!
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路地を進みます。 -
このような客引きは、彼女たちが特に大胆だったからではありません。
国の法律に従った行為でした。
「娼婦は、日没以降、橋の向かいの窓から顔と、乳房をよく見せること」
「暗くて見えにくい場合はキャンドルで照らすこと」
今では考えられない、凄い法律です。
この法律が作られたのには理由がありました。
当時、ベネチアでは同性愛が流行っていて、
男たちが自然に背いて、よこしまな行為に走らないようにするためです。
当時の法律では同性愛は極刑で、これが発覚すると死刑になりました。
彼らは、サンマルコ小広場の2本の柱の間で絞首刑にされて、
「完全な灰になるまで」焼かれたそうです。
●参考
テッテ橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/テッテ橋
「おっぱい橋」から見えるコルティジャーナたち。
https://ameblo.jp/tta33cc/entry-12151756073.html
ヴェネツィアのおっぱい橋
http://europenavi.seesaa.net/article/ヴェネツィアのおっぱい橋.html
cercodiamanti
http://dipoco.altervista.org/venice-history-courtesans/
など
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サンマルコ広場やリアルト橋付近と違い、人は全く歩いていません。
誰もいないと怖い感じさえもします。 -
そんなおっぱい橋。
近づいてきましたよ。
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この建物の下を通ります。 -
ここをくぐり抜けると、、
-
見えました!!
おっぱい橋です。 -
反対側を振り返ると、
真ん中あたりに、先ほど渡った橋が見えます。
バルコニーがたくさんあります。 -
おっぱい橋。
この橋は1874年に作られたものです。
150年ぐらい前の建築物なら「新しい」と呼ばれるこの街では、
橋自体にはあまり意味はないのですが、名前には由来があるというわけです。 -
イチオシ
真ん中にプレートが描かれています。
"PONTE DE LE TETTE"
(おっぱい橋) -
反対側からみたところ。
橋の上から、写真を撮っている方がいらっしゃいました。
「おっぱい、見えますかー?」 -
橋の上からの光景。
「おっぱいは、どこーーー?」 -
反対側。
残念ながら、おっぱいはどこにも見えませんでした。
(´;ω;`)シクシク.. -
橋の近辺。
-
娼婦館らしきものは、どこにあるのかさっぱりわかりません。
たぶん昔と今では、建物も橋も異なるのでしょうか。 -
あーー、
16世紀の時代にタイムスリップしたい。 -
はっ!
素敵な女性二人が、おっぱい橋に座っています。
スマホをみているのが、いかにも現代風。
♪ ~♪
オイラへのご褒美かしら。
(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
(いけない!)
(変な妄想を。。) -
アホな妄想はやめましょう。。。
-
今と昔は違うって、わかってはいたけれどね。
(((o(*゚▽゚*)o))) ♪ -
歴史が気になるだけです。
だって、歴史は知れば知る程、おもしろいし。
(当たり前ですが、)
海外旅行へいくとき、その土地の歴史というかエピソードを知ってからいくと、
すっごく楽しめるのです。
もしそれがおっぱいの歴史だとしたら、そりゃたまりません!!
ヾ(#*´ω`*#)ノ -
何か見えますかー?
-
素敵な路地裏(水路裏?)がみえます。
ベネチアはこういう場所が随所にあります。
400年前は、この水路でどんなロマンスがあったのでしょう。
オペラにでてくるような、男女の交わりがあったのでしょうか。
(〃▽〃)ポッ
オペラといえば、
発祥の地はフィレンツェですが、
オペラの発展にベネチアは相当な貢献をしたそうです。
バイオリン協奏曲「四季」などが有名な音楽家「ヴィヴァルディ」も、
ベネチアのオペラ作曲家として、数多くの楽曲を残しています。
以下、参考文献からの引用です。
オペラの発展に貢献した孤児院の少女たちとヴィヴァルディのお話です。
===============
教会に併設された孤児院では、音楽教育を受けて、
相当な腕利きのバイオリン奏者となる女子が数多く輩出したそうです。
彼女たちは孤児院で開催される定期的な演奏会のオーケストラに採用され、
評判をとります。
サンマルコ広場からカナルグランデ沿いに歩いて5分。
「ピエタ教会(サンタマリア・デラ・ピエタ教会)」はそのような孤児院があった教会の一つです。
1703年にここの聖職者兼音楽教師に就いたのが、のちにおびただしい数のオペラを作曲することになるアントニオ・ヴィヴァルディです。
当時、「ピエタ慈善養育院」と呼ばれていたこの孤児院で、
ヴィヴァルディは女子の孤児に音楽を教えたのです。
彼によって、バイオリンの演奏技術は飛躍的に向上していきます。
音楽的な素養があった孤児たちは、じつのところ、そのほとんどが遊女たちが産み落とした庶子だったと伝わっています。
ベネチアにはこのような慈善養育院がピエタ教会のほかになんと三か所を数えたそうです。
ベネチアという都市国家がバロック音楽の父親だとすれば、コルティジャーナはそのまったき愛人にして、文化の乳母となったのです。
一方、楽器の演奏技術が向上した要因はカストラートの唱法の変化にもありました。
ベネチアでカストラートの「芸」は人間業とも思えぬほど多彩にして複雑になりました。
これを見聞きしていた演奏家は、カストラートの歌いっぷりに少しでも近づこうと、演奏技術を磨いていったのです。
カストラートが楽器を真似したわけではなく、その逆で器楽演奏家がカストラートの唱法をなぞったのです。
●参考
「オペラの数ほど愛がある―オペラ史でたどる愛のかたち」
永竹 由幸 (著) 集英社 インターナショナル
アントニオ・ヴィヴァルディ
https://ja.wikipedia.org/wiki/アントニオ・ヴィヴァルディ -
いろいろと妄想にふける「おっぱい橋」。
名残惜しいですが、そろそろ先に進みましょう。 -
たまに通路が袋小路の行き止まりにぶつかります。
無人で、誰もいなくて、どこへ行けばいいのかわからなくて、
妙に怖い気分になったりします。 -
だけど、こんな綺麗な建物と水路があちこちにあります。
-
運河沿いの扉。
水につかって、緑色のコケが生えています。
昔は、もっと水位が低くて、
ここを出入り口として使われていたのでしょう。 -
水路。
-
建物を、よーーーーーく見ると、
壁を継ぎ足した後があります。
地盤沈下などで、建物が傾いたためです。
ベネチアは、全ての建物において、
傾きと間取りの設計図が精密に記録されているそうです。
もし修理をする場合は、ベネチア市の修繕の許可がいるそうです。 -
水路。
-
イチオシ
あら、なんて素敵な橋。
♪ ~♪ -
イチオシ
水路の向こうで、ゴンドラの漕ぎ手がお客さんを待っていました。
この近辺のゴンドラは、人が少なくて綺麗ですよー。 -
♪
-
♪ ~♪
-
通路。
-
カナルグランデが近づいてきました。
-
カナルグランデ。
-
ヾ(*´∀`*)ノ
-
さらに道を進みます。
-
シルベストロ広場。
CAMPO SILVESTRO -
カナルグランデ。
-
リアルト橋に到着。
ちょっとだけ、
あまり語られることのないベネチアの歴史に触れたひとときでした。
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