オロモウツ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
車で、チェコのプラハ、チェスキー・クルムロフ以外のマイナーな世界遺産を巡る旅。総走行距離1823.9km。<br /><br />本旅行記はその⑤、オロモウツ(Olomouc)。<br />世界遺産「オロモウツの聖三位一体柱」を訪問しています。<br /><br /><大日程><br />5/25 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ①前編<br />   クトナー・ホラ泊<br />5/26 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ②後編<br />   ゼレナー・ホラ(Zelené hoře) ③<br />   テルチ(Telč) ④<br />   オロモウツ(Olomouc) 泊<br />5/27 オロモウツ(Olomouc) ⑤<br />   クロムニェジーシュ(Kroměříž) ⑥<br />   チェスケー・ブジェヨビツェ(České Budějovice) 泊⑦<br />5/28 フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ城(Státní zámek Hluboká) ⑦<br />   ホラショヴィツェ(Holašovice) ⑧<br /><br />------------------<br />チェコの世界遺産(Wikiより) 2019年現在。<br />プラハ歴史地区 - (1992年)<br />チェスキー・クルムロフ歴史地区 - (1992年)<br />テルチ歴史地区 - (1992年)<br />ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会 - (1994年)<br />クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂 - (1995年)<br />レドニツェとヴァルティツェの文化的景観 - (1996年)<br />クロムニェジーシュの庭園と城 - (1998年)<br />ホラショヴィツェ歴史地区 - (1998年)<br />リトミシュル城 - (1999年)<br />オロモウツの聖三位一体柱 - (2000年)<br />ブルノのトゥーゲントハット邸 - (2001年)<br />トシェビーチのユダヤ人地区と聖プロコピウスのバシリカ - (2003年)<br />エルツ山地(クルスナホリ)鉱業地域 -(2019年 / ドイツと共有)<br />クラドルビ・ナト・ラベム(英語版)の儀礼用馬車馬の繁殖・訓練の景観 -(2019年)

チェコ周遊⑤ オロモウツ(Olomouc)

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2017/05/26 - 2017/05/27

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車で、チェコのプラハ、チェスキー・クルムロフ以外のマイナーな世界遺産を巡る旅。総走行距離1823.9km。

本旅行記はその⑤、オロモウツ(Olomouc)。
世界遺産「オロモウツの聖三位一体柱」を訪問しています。

<大日程>
5/25 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ①前編
   クトナー・ホラ泊
5/26 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ②後編
   ゼレナー・ホラ(Zelené hoře) ③
   テルチ(Telč) ④
   オロモウツ(Olomouc) 泊
5/27 オロモウツ(Olomouc) ⑤
   クロムニェジーシュ(Kroměříž) ⑥
   チェスケー・ブジェヨビツェ(České Budějovice) 泊⑦
5/28 フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ城(Státní zámek Hluboká) ⑦
   ホラショヴィツェ(Holašovice) ⑧

------------------
チェコの世界遺産(Wikiより) 2019年現在。
プラハ歴史地区 - (1992年)
チェスキー・クルムロフ歴史地区 - (1992年)
テルチ歴史地区 - (1992年)
ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会 - (1994年)
クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂 - (1995年)
レドニツェとヴァルティツェの文化的景観 - (1996年)
クロムニェジーシュの庭園と城 - (1998年)
ホラショヴィツェ歴史地区 - (1998年)
リトミシュル城 - (1999年)
オロモウツの聖三位一体柱 - (2000年)
ブルノのトゥーゲントハット邸 - (2001年)
トシェビーチのユダヤ人地区と聖プロコピウスのバシリカ - (2003年)
エルツ山地(クルスナホリ)鉱業地域 -(2019年 / ドイツと共有)
クラドルビ・ナト・ラベム(英語版)の儀礼用馬車馬の繁殖・訓練の景観 -(2019年)

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • オロモウツ<br />Olomouc<br /><br />ローカルな下道を通って、、、丘陵地帯の中を彷徨うような感じのドライブ、どこに向かっているのか不安に駆られながらも、ようやく、日も暮れかけるころにホテルに到着。そのまま、ホテルから徒歩5分の広場にある聖三位一体の像を見学。<br /><br />聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice

    オロモウツ
    Olomouc

    ローカルな下道を通って、、、丘陵地帯の中を彷徨うような感じのドライブ、どこに向かっているのか不安に駆られながらも、ようやく、日も暮れかけるころにホテルに到着。そのまま、ホテルから徒歩5分の広場にある聖三位一体の像を見学。

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    オロモウツの聖三位一体柱 モニュメント・記念碑

  • 聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice<br /><br />後ろには改装中のオロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と時計塔。あっという間に暗くなりました。ライトアップが始まり、綺麗に彫刻が浮かび上がります。

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    後ろには改装中のオロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と時計塔。あっという間に暗くなりました。ライトアップが始まり、綺麗に彫刻が浮かび上がります。

  • Caesarova kašna<br />芸術家で建築家のWenzel Render(1669-1733)がローマ皇帝ジュリアス・シーザー(Julius Caesar)に捧げた美しい噴水<br />

    Caesarova kašna
    芸術家で建築家のWenzel Render(1669-1733)がローマ皇帝ジュリアス・シーザー(Julius Caesar)に捧げた美しい噴水

    カエサル噴水/ヘラクレス噴水 モニュメント・記念碑

  • オロモウツ時計塔<br />Olomoucký orloj<br /><br />残念ながら、滞在中に仕掛けが動くところは見れなかった。<br /><br />

    オロモウツ時計塔
    Olomoucký orloj

    残念ながら、滞在中に仕掛けが動くところは見れなかった。

    仕掛け時計 (天文時計) 建造物

  • オロモウツ時計塔<br />Olomoucký orloj

    オロモウツ時計塔
    Olomoucký orloj

    仕掛け時計 (天文時計) 建造物

  • 聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice<br /><br />高さは35メートル、最上部には銅に金めっきをほどこした聖三位一体の柱、その下には聖母の被昇天の像、その他聖人像やレリーフなどで飾られ、最下層には礼拝堂がある。<br />三十年戦争が終結し、スウェーデンによる占領状態が解かれて再建されたオロモウツには、聖三位一体柱をはじめとしたバロック建築の建造物群が作られた。<br />聖三位一体柱は1716年、石工ヴァーツラフ・レンダーの指揮および出資によって建設が始められたもので、レンダーの没後も職人たちが引き継いで1754年に完成させた。献堂式にはマリア・テレジアとその夫の神聖ローマ皇帝フランツ1世が臨席している。(Wikiより)

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    高さは35メートル、最上部には銅に金めっきをほどこした聖三位一体の柱、その下には聖母の被昇天の像、その他聖人像やレリーフなどで飾られ、最下層には礼拝堂がある。
    三十年戦争が終結し、スウェーデンによる占領状態が解かれて再建されたオロモウツには、聖三位一体柱をはじめとしたバロック建築の建造物群が作られた。
    聖三位一体柱は1716年、石工ヴァーツラフ・レンダーの指揮および出資によって建設が始められたもので、レンダーの没後も職人たちが引き継いで1754年に完成させた。献堂式にはマリア・テレジアとその夫の神聖ローマ皇帝フランツ1世が臨席している。(Wikiより)

  • ホテルに帰り、ビールを戴く。<br /><br />チェコはビールがうまい。<br />見たこともない銘柄、とりあえず、指で指して、コレ。

    ホテルに帰り、ビールを戴く。

    チェコはビールがうまい。
    見たこともない銘柄、とりあえず、指で指して、コレ。

  • アリオンの噴水<br />Ariónova kašna<br /><br />翌朝、再び、昨晩歩いた道を歩き、広場へ。。。。<br /><br />亀がいるとは気が付かなかった。

    アリオンの噴水
    Ariónova kašna

    翌朝、再び、昨晩歩いた道を歩き、広場へ。。。。

    亀がいるとは気が付かなかった。

    アリオンの噴水 モニュメント・記念碑

  • 聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice<br /><br />民族衣装を身にまとった方々がちらほら。快晴!!

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    民族衣装を身にまとった方々がちらほら。快晴!!

    オロモウツの聖三位一体柱 モニュメント・記念碑

  • 聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice<br /><br />三位一体とは、キリスト教において<br />父(=父なる神・父神)<br />子(=神の子・子なるキリスト)<br />霊(=聖霊・聖神)[注釈 2]<br />の三つが「一体(=唯一神・唯一の神)」であるとする教え。カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会といった大半の教派が、この教えを共有している。上述の諸教会において、三位一体は、「三神」(三つの神々)ではない。また「父と子と聖霊は、神の三つの様式でしかない」「神が三役をしている」といった考え(様態論)も否定される。(Wikiより)<br /><br />難解だな。

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    三位一体とは、キリスト教において
    父(=父なる神・父神)
    子(=神の子・子なるキリスト)
    霊(=聖霊・聖神)[注釈 2]
    の三つが「一体(=唯一神・唯一の神)」であるとする教え。カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会といった大半の教派が、この教えを共有している。上述の諸教会において、三位一体は、「三神」(三つの神々)ではない。また「父と子と聖霊は、神の三つの様式でしかない」「神が三役をしている」といった考え(様態論)も否定される。(Wikiより)

    難解だな。

    オロモウツの聖三位一体柱 モニュメント・記念碑

  • 聖三位一体柱<br />Sloup Nejsvětější Trojice<br /><br />昨晩は暗くてよく分からなかったが、結構、精密な彫刻が施されている。

    聖三位一体柱
    Sloup Nejsvětější Trojice

    昨晩は暗くてよく分からなかったが、結構、精密な彫刻が施されている。

  • 広場ではマーケットが立っていましたが、何のイベントかは分からずじまい。今のところ、準備中といった感じ。後で戻ってきます。

    広場ではマーケットが立っていましたが、何のイベントかは分からずじまい。今のところ、準備中といった感じ。後で戻ってきます。

  • いろんな店がでています。

    いろんな店がでています。

  • オロモウツ時計塔<br />Olomoucký orloj<br /><br />昨晩も写真を撮りましたが、、改めて。<br />市庁舎の北側に置かれたこちらのオロモウツ時計塔は、1400年代に建てられましたが第二次世界大戦で被害を受けた後、「社会的現実主義」スタイルとして再設計が行われ、政治的な背景を背に建て直されており、聖人の代わりに労働者と技術者の描写がされ文字盤にはレーニンとスターリンの誕生日と国際労働者の日が表示されています。<br />革命後、オロモウツ周辺の共産主義風のものは消えていきましたが、このオロモウツ時計だけは、その当時の記憶を残すのものであり、ある意味、貴重です。

    オロモウツ時計塔
    Olomoucký orloj

    昨晩も写真を撮りましたが、、改めて。
    市庁舎の北側に置かれたこちらのオロモウツ時計塔は、1400年代に建てられましたが第二次世界大戦で被害を受けた後、「社会的現実主義」スタイルとして再設計が行われ、政治的な背景を背に建て直されており、聖人の代わりに労働者と技術者の描写がされ文字盤にはレーニンとスターリンの誕生日と国際労働者の日が表示されています。
    革命後、オロモウツ周辺の共産主義風のものは消えていきましたが、このオロモウツ時計だけは、その当時の記憶を残すのものであり、ある意味、貴重です。

    仕掛け時計 (天文時計) 建造物

  • オロモウツ時計塔<br />Olomoucký orloj

    オロモウツ時計塔
    Olomoucký orloj

  • 広場を取り囲む建物もパステルカラーでテルチを思い起させる。

    広場を取り囲む建物もパステルカラーでテルチを思い起させる。

  • 聖三位一体柱と屋台。世界遺産なのだけど、地元の人々の生活に溶け込んでいる。

    聖三位一体柱と屋台。世界遺産なのだけど、地元の人々の生活に溶け込んでいる。

  • オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)とジュリアス・シーザー(Julius Caesar)の像。<br /><br />聖ヴァーツラフ大聖堂の方に路面電車のある通りを歩きます。<br />始めは大聖堂の尖塔を目印に歩けるのですが、、、、<br />近づけば、建物に遮られて見えなくなります。

    オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)とジュリアス・シーザー(Julius Caesar)の像。

    聖ヴァーツラフ大聖堂の方に路面電車のある通りを歩きます。
    始めは大聖堂の尖塔を目印に歩けるのですが、、、、
    近づけば、建物に遮られて見えなくなります。

    カエサル噴水/ヘラクレス噴水 モニュメント・記念碑

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />市庁舎や聖三位一体柱のある広場から路面電車のある道をまっすぐに歩き、あるところで、左に曲がるだけでいいのですが、通り過ぎてしまい、気が付けば、川を渡る橋まできてしまい、気が付けば、背後に大聖堂の塔が。戻ろうとして、素直に来た道を戻るのに抵抗を感じ、裏道があると信じ、大聖堂を取り囲む公園に入ったが、、、結局そんな裏道はなく、、、ほぼ、360度大聖堂を周り、ようやく入り口にたどり着いた。<br /><br />その左に曲がるところには何のサインもないので気を付けて下さい(私が確認する限り)。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    市庁舎や聖三位一体柱のある広場から路面電車のある道をまっすぐに歩き、あるところで、左に曲がるだけでいいのですが、通り過ぎてしまい、気が付けば、川を渡る橋まできてしまい、気が付けば、背後に大聖堂の塔が。戻ろうとして、素直に来た道を戻るのに抵抗を感じ、裏道があると信じ、大聖堂を取り囲む公園に入ったが、、、結局そんな裏道はなく、、、ほぼ、360度大聖堂を周り、ようやく入り口にたどり着いた。

    その左に曲がるところには何のサインもないので気を付けて下さい(私が確認する限り)。

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />http://www.katedralaolomouc.cz<br /><br />2つの塔が正面にある聖ヴァーツラフ大聖堂はこの街の欠かすことができない景観です。南側の3つ目の塔は高さ100,65mでモラヴィアで最も高く、チェコ国内では2番目に高い塔です。<br />大聖堂の建築はオロモウツの王子スヴァツプルクによって1104~1107年開始され、息子のヴァーツラフがこれを引き継ぎ、亡くなる前に司教 インドジフ ズディーク に託し、まだ未完成の建物として1131年に聖別されました。その後1141年に完成し、司教教会として指定されました。幾度も改築が行われ、1265年の大火の後ゴシック様式の形にするために完全に再建されました。<br /><br />ゴシック様式の柱は13世紀建てられました。35m x 23mという広い内陣は初期バロック時代に建てられ、19世紀末には内部外部ともにネオゴシック様式に改築されました。内陣の下には2つの階段からつながる地下聖堂があります。その南側身廊にマニエリスム様式の聖スタニスラヴ礼拝堂の門があり、両側に16及び17世紀の初めに作られた墓石が置かれています。柱の横にあるネオゴシック様式の祭壇には、1995年にローマ教皇 ヨハネ パウロ2世 によって聖人と認められた 聖ヤン サルカンデル の聖骨箱と遺骨が置かれています。こちらのパイポルガンは国内の最高の幻想的なオルガンのひとつです。<br />(公式の観光WEBサイトより)

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    http://www.katedralaolomouc.cz

    2つの塔が正面にある聖ヴァーツラフ大聖堂はこの街の欠かすことができない景観です。南側の3つ目の塔は高さ100,65mでモラヴィアで最も高く、チェコ国内では2番目に高い塔です。
    大聖堂の建築はオロモウツの王子スヴァツプルクによって1104~1107年開始され、息子のヴァーツラフがこれを引き継ぎ、亡くなる前に司教 インドジフ ズディーク に託し、まだ未完成の建物として1131年に聖別されました。その後1141年に完成し、司教教会として指定されました。幾度も改築が行われ、1265年の大火の後ゴシック様式の形にするために完全に再建されました。

    ゴシック様式の柱は13世紀建てられました。35m x 23mという広い内陣は初期バロック時代に建てられ、19世紀末には内部外部ともにネオゴシック様式に改築されました。内陣の下には2つの階段からつながる地下聖堂があります。その南側身廊にマニエリスム様式の聖スタニスラヴ礼拝堂の門があり、両側に16及び17世紀の初めに作られた墓石が置かれています。柱の横にあるネオゴシック様式の祭壇には、1995年にローマ教皇 ヨハネ パウロ2世 によって聖人と認められた 聖ヤン サルカンデル の聖骨箱と遺骨が置かれています。こちらのパイポルガンは国内の最高の幻想的なオルガンのひとつです。
    (公式の観光WEBサイトより)

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />さて、大聖堂前で先ほど見かけた民族衣装を着た若者の集団に遭遇。何が始まるの?

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    さて、大聖堂前で先ほど見かけた民族衣装を着た若者の集団に遭遇。何が始まるの?

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />列になっています。。<br /><br />

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    列になっています。。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />このときは何の旗?と思っていましたが、、、

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    このときは何の旗?と思っていましたが、、、

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br /><br /><br />

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc



  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />列の後に続いて大聖堂に入ったりして。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    列の後に続いて大聖堂に入ったりして。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />何となく結婚式っぽいけど。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    何となく結婚式っぽいけど。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />何故だろう。この旗持ちの彼女たちだけは隣の礼拝堂に入っていった。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    何故だろう。この旗持ちの彼女たちだけは隣の礼拝堂に入っていった。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />この旗持ちの彼女たちはこの場所で暫く待機していた。何故だろう。好奇心が沸くのだが。結局分からずじまい。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    この旗持ちの彼女たちはこの場所で暫く待機していた。何故だろう。好奇心が沸くのだが。結局分からずじまい。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />という感じで、後ろの方で一連の行事を眺めていたら、小さな旗とバッジ、そして「Morava(チェコ語でモラヴィアのこと)」と書いたしおりをもらった。<br /><br />ということは、これはモラヴィア民族意識復興に関わる行事だったのかな。<br /><br />チェコ人とスロバキア人はスラブ族に属し、スラブ族は、地理的な位置と言語の近さによって<br />東スラブ族(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、<br />西スラブ族(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソルブ人)、<br />南スラブ族(ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人)<br />に分けられます。その中でも、チェコ人とスロバキア人は特に似ており、チェコ語とスロバキア語で、まったく問題なく意思疎通ができます。<br />上の民族構成の中にさらに「モラヴィア人」があり、モラヴィア(ドイツ語ではメーレン)と呼ばれる地域は、現在のチェコ共和国の東部、地理的にはボヘミア・モラヴィア高地とスロバキアの間にあたります。19世紀前半までは、モラヴィアのスラブ系住民は、自分たちのことをチェコ人ではなく、モラヴィア人であり、自分たちの話す言葉はモラヴィア語であると考えていました。実際には、モラヴィア民族を形成することはなく、19世紀後半には、モラヴィアのスラブ系住民もチェコ人としてのアイデンティティを受け入れていきます。しかし、モラヴィアの人々がモラヴィアへの意識を喪失したということではなく、モラヴィア人としてのアイデンティティとチェコ人としてのアイデンティティは両立すると考えているのです。国勢調査の時に、モラヴィア人として登録する人々がいるのは、「チェコ人として生きているけれど実際にはモラヴィア人である」という意識の表れでもあるのです。(WEBから抜粋)

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    という感じで、後ろの方で一連の行事を眺めていたら、小さな旗とバッジ、そして「Morava(チェコ語でモラヴィアのこと)」と書いたしおりをもらった。

    ということは、これはモラヴィア民族意識復興に関わる行事だったのかな。

    チェコ人とスロバキア人はスラブ族に属し、スラブ族は、地理的な位置と言語の近さによって
    東スラブ族(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、
    西スラブ族(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソルブ人)、
    南スラブ族(ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
    に分けられます。その中でも、チェコ人とスロバキア人は特に似ており、チェコ語とスロバキア語で、まったく問題なく意思疎通ができます。
    上の民族構成の中にさらに「モラヴィア人」があり、モラヴィア(ドイツ語ではメーレン)と呼ばれる地域は、現在のチェコ共和国の東部、地理的にはボヘミア・モラヴィア高地とスロバキアの間にあたります。19世紀前半までは、モラヴィアのスラブ系住民は、自分たちのことをチェコ人ではなく、モラヴィア人であり、自分たちの話す言葉はモラヴィア語であると考えていました。実際には、モラヴィア民族を形成することはなく、19世紀後半には、モラヴィアのスラブ系住民もチェコ人としてのアイデンティティを受け入れていきます。しかし、モラヴィアの人々がモラヴィアへの意識を喪失したということではなく、モラヴィア人としてのアイデンティティとチェコ人としてのアイデンティティは両立すると考えているのです。国勢調査の時に、モラヴィア人として登録する人々がいるのは、「チェコ人として生きているけれど実際にはモラヴィア人である」という意識の表れでもあるのです。(WEBから抜粋)

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />モラヴィア王国<br />9~10世紀に西スラヴ人がつくったモラヴィア王国というものが100年にも満たないが、存在しており、歴史の中でかなり特異な扱いを受けることになった。実はこの国は名称が一定していない。10世紀のビザンツ皇帝コンスタンティノス7世が、その著述の中で“大モラヴィア”という用語を使っていることから、近代になって“大モラヴィア帝国”という大げさな呼び方も通用するようになってしまった。<br /><br /> 東方から侵入してフランク王国の東辺を支配していた遊牧民アヴァール人がカール大帝に敗れて衰えた結果、この地の西スラヴ人が自立して、モイミールという王のもとで830年頃にモラヴィア王国は建国した。<br /> 9世紀の後半、スヴァトプルク王のころ、現在のチェコとスロヴァキアを併せ、ポーランド南部、ドナウ川中流に版図を広げて有力になった。始めはフランク王国と接触してローマ=カトリック教会のキリスト教を受容したが、フランク王国が分裂して東フランク王国と境界を接するようになると、関係は悪化した。863年頃にはモラヴィア王国の王は東フランク王国と対抗するため、ビザンツ帝国に使節を派遣し、ギリシア正教会(東方教会)を受け容れることを申し入れた。それに答えてビザンツ皇帝ミカエル3世の名により、宣教師キュリロス(本名をコンスタンティノスといい、テッサロニケ生まれのギリシア人で、高名な学者として知られていた)は兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教を行った。これはローマ教会と対抗したギリシア正教の勢力拡大としても重要である。<br /> モラヴィア王国は9世紀の後半には現在の東欧の広い地域を支配する大国であったが、10世紀の初頭に東方から侵入してきたウラル語族の遊牧民、マジャール人(後にパンノニアに定住してハンガリー王国を作る)の侵攻を受けていた。西スラヴ系の部族連合にすぎなかったモラヴィア王国は東フランク王国の助けを借りて抵抗したが、マジャール人の騎馬部隊の前に敗れ、滅ぼされてしまった(906年頃)。モラヴィア王国が支配していた領域は、南のパンノニア平原にかけてはマジャール人がハンガリー王国を建て、北部のベーメンにはチェコ人が自立してベーメン王国を樹立、そのベーメン王国がモラヴィア地域も支配するようになった。さらにその北にはポーランド王国が成立する。この地にキュリロスらによって布教されたギリシア正教はモラヴィア王国の滅亡とともに消滅し、この国の跡地に成立したハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国はいずれもローマ=カトリック教会を受容することとなる。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    モラヴィア王国
    9~10世紀に西スラヴ人がつくったモラヴィア王国というものが100年にも満たないが、存在しており、歴史の中でかなり特異な扱いを受けることになった。実はこの国は名称が一定していない。10世紀のビザンツ皇帝コンスタンティノス7世が、その著述の中で“大モラヴィア”という用語を使っていることから、近代になって“大モラヴィア帝国”という大げさな呼び方も通用するようになってしまった。

     東方から侵入してフランク王国の東辺を支配していた遊牧民アヴァール人がカール大帝に敗れて衰えた結果、この地の西スラヴ人が自立して、モイミールという王のもとで830年頃にモラヴィア王国は建国した。
     9世紀の後半、スヴァトプルク王のころ、現在のチェコとスロヴァキアを併せ、ポーランド南部、ドナウ川中流に版図を広げて有力になった。始めはフランク王国と接触してローマ=カトリック教会のキリスト教を受容したが、フランク王国が分裂して東フランク王国と境界を接するようになると、関係は悪化した。863年頃にはモラヴィア王国の王は東フランク王国と対抗するため、ビザンツ帝国に使節を派遣し、ギリシア正教会(東方教会)を受け容れることを申し入れた。それに答えてビザンツ皇帝ミカエル3世の名により、宣教師キュリロス(本名をコンスタンティノスといい、テッサロニケ生まれのギリシア人で、高名な学者として知られていた)は兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教を行った。これはローマ教会と対抗したギリシア正教の勢力拡大としても重要である。
     モラヴィア王国は9世紀の後半には現在の東欧の広い地域を支配する大国であったが、10世紀の初頭に東方から侵入してきたウラル語族の遊牧民、マジャール人(後にパンノニアに定住してハンガリー王国を作る)の侵攻を受けていた。西スラヴ系の部族連合にすぎなかったモラヴィア王国は東フランク王国の助けを借りて抵抗したが、マジャール人の騎馬部隊の前に敗れ、滅ぼされてしまった(906年頃)。モラヴィア王国が支配していた領域は、南のパンノニア平原にかけてはマジャール人がハンガリー王国を建て、北部のベーメンにはチェコ人が自立してベーメン王国を樹立、そのベーメン王国がモラヴィア地域も支配するようになった。さらにその北にはポーランド王国が成立する。この地にキュリロスらによって布教されたギリシア正教はモラヴィア王国の滅亡とともに消滅し、この国の跡地に成立したハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国はいずれもローマ=カトリック教会を受容することとなる。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />(引用)9世紀に彗星のように姿を現し、100年と経たないうちに忽然と消えていったモラヴィア王国が、もっと重大なのは、この国がチェコとスロヴァキアの共通の祖先として位置づけられたことである。すなわちモラヴィア王国は、後のチェコとスロヴァキアの境界にまたがっていたことから、チェコ人とスロヴァキア人がかつて共存していたことの証として、19世紀以降、しばしば引き合いに出されることになった。要するに、モラヴィア王国が崩壊した後、チェコ人は自分たちの国家(ベーメン王国)を創り、スロヴァキア人はハンガリーの支配下に入って、別々の道を歩むことになったが、1000年の歴史を超えて、今や再び二つの民族は手を取り合い「チェコスロヴァキア」を創るのだというわけである。しかしモラヴィア王国の実態は、モイミール一族の王朝のもとでスラヴ系の住民がゆるくまとまっていたにすぎず、近代のような民族概念に支えられていたわけではない。チェコ人とかスロヴァキア人とか言う民族がまとまってモラヴィア王国を創っていたと考えるのは、歴史の実態と大きくかけ離れているのである。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26><br />

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    (引用)9世紀に彗星のように姿を現し、100年と経たないうちに忽然と消えていったモラヴィア王国が、もっと重大なのは、この国がチェコとスロヴァキアの共通の祖先として位置づけられたことである。すなわちモラヴィア王国は、後のチェコとスロヴァキアの境界にまたがっていたことから、チェコ人とスロヴァキア人がかつて共存していたことの証として、19世紀以降、しばしば引き合いに出されることになった。要するに、モラヴィア王国が崩壊した後、チェコ人は自分たちの国家(ベーメン王国)を創り、スロヴァキア人はハンガリーの支配下に入って、別々の道を歩むことになったが、1000年の歴史を超えて、今や再び二つの民族は手を取り合い「チェコスロヴァキア」を創るのだというわけである。しかしモラヴィア王国の実態は、モイミール一族の王朝のもとでスラヴ系の住民がゆるくまとまっていたにすぎず、近代のような民族概念に支えられていたわけではない。チェコ人とかスロヴァキア人とか言う民族がまとまってモラヴィア王国を創っていたと考えるのは、歴史の実態と大きくかけ離れているのである。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26>

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />キュリロスとキリル文字<br />キュリロスらによって布教されたギリシア正教はモラヴィア王国の滅亡とともに消滅し、この国の跡地に成立したハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国はいずれもローマ=カトリックがカトリックが定着していく。なお、モラヴィアに布教したギリシア正教の宣教師キュリロスは、スラヴ人に布教するにあたって、スラヴ系の言語を表記する文字を考案した。この文字はグラゴール文字といわれ、モラヴィアでは定着しなかったが、後に弟子たちによってブルガリアにもたらされ、キリル文字となった。キリル文字は後東ヨーロッパからロシアまでのスラヴ世界で広く用いられる文字になる。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    キュリロスとキリル文字
    キュリロスらによって布教されたギリシア正教はモラヴィア王国の滅亡とともに消滅し、この国の跡地に成立したハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国はいずれもローマ=カトリックがカトリックが定着していく。なお、モラヴィアに布教したギリシア正教の宣教師キュリロスは、スラヴ人に布教するにあたって、スラヴ系の言語を表記する文字を考案した。この文字はグラゴール文字といわれ、モラヴィアでは定着しなかったが、後に弟子たちによってブルガリアにもたらされ、キリル文字となった。キリル文字は後東ヨーロッパからロシアまでのスラヴ世界で広く用いられる文字になる。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />(引用)キュリロス(本名:コンスタンティノス)はギリシア正教会の宣教師として活躍したギリシア人で「スラヴの使徒」と言われている。モラヴィア王国でキュリロスは兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教を行った。国王ロスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行い、弟子を養成し、教会組織の基礎固めをして867年に任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなったが、二人の運命は一転する。本国で政変が起こり皇帝が暗殺されたのである。政争に巻き込まれることを避けた二人はローマに向かい、教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けた。コンスタンティノスはローマで修道士となり、キュリロスの名を名乗ったが、間もなくその地で病没した。<br /> 兄のメトディオスは大司教に任命されてブルガリアの勢力圏の現在のセルビアに派遣されることになった。ところが、東フランク王国の聖職者がそれに反対した。その理由は、典礼はあくまでラテン語で行うべきで、スラヴ語の典礼は認められないという彼らの訴えでメトディオスはとらえられてしまった。釈放された後は再びモラヴィアに戻り全盛期の王スヴァトプルクのもとでスラヴ語による典礼を認めさせようとしたが、その地でもラテン語典礼に固執する聖職者と対立、結局ローマに送り返された。880年、ローマ教皇は「ラテン語派」と「スラヴ語派」の対立を裁定し、モラヴィアの教会では典礼の際はまずラテン語で読み上げ、その後にスラヴ語を読み上げるとした。ラテン語典礼派とスラヴ語典礼派の対立の中で、こうした一応の妥協が成立した後、885年にメトディオスは波乱の生涯を終えた。しかしその死後、モラヴィアではスラヴ語の典礼は禁止され、メトディオスの努力は酬われなかった。しかも906年頃、モラヴィア王国そのものがマジャール人の攻撃によって滅亡し、その地にスラヴ語で典礼を行う教会組織を作るというキュリロス兄弟の夢は潰えた。<br /> ところが、スラヴ語典礼は意外なところに生き残った。モラヴィアを追放されたスラヴ語典礼派はバルカンに南下してブルガリアのボリス1世に保護を求めると、ボリス1世は、ビザンツ帝国と対抗する意図もあって彼らを保護、その後のブルガリアで古代スラヴ語によるキリスト教文化が開化することとなった。こうしてブルガリアで保護されたことによって(モラヴィアでは定着しなかったが)ギリシア正教の信仰とキリル文字がスラヴ系の人々に広がっていくことになった。<br /><薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26>

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    (引用)キュリロス(本名:コンスタンティノス)はギリシア正教会の宣教師として活躍したギリシア人で「スラヴの使徒」と言われている。モラヴィア王国でキュリロスは兄のメトディオスと二人で、ギリシア正教の布教を行った。国王ロスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行い、弟子を養成し、教会組織の基礎固めをして867年に任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなったが、二人の運命は一転する。本国で政変が起こり皇帝が暗殺されたのである。政争に巻き込まれることを避けた二人はローマに向かい、教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けた。コンスタンティノスはローマで修道士となり、キュリロスの名を名乗ったが、間もなくその地で病没した。
     兄のメトディオスは大司教に任命されてブルガリアの勢力圏の現在のセルビアに派遣されることになった。ところが、東フランク王国の聖職者がそれに反対した。その理由は、典礼はあくまでラテン語で行うべきで、スラヴ語の典礼は認められないという彼らの訴えでメトディオスはとらえられてしまった。釈放された後は再びモラヴィアに戻り全盛期の王スヴァトプルクのもとでスラヴ語による典礼を認めさせようとしたが、その地でもラテン語典礼に固執する聖職者と対立、結局ローマに送り返された。880年、ローマ教皇は「ラテン語派」と「スラヴ語派」の対立を裁定し、モラヴィアの教会では典礼の際はまずラテン語で読み上げ、その後にスラヴ語を読み上げるとした。ラテン語典礼派とスラヴ語典礼派の対立の中で、こうした一応の妥協が成立した後、885年にメトディオスは波乱の生涯を終えた。しかしその死後、モラヴィアではスラヴ語の典礼は禁止され、メトディオスの努力は酬われなかった。しかも906年頃、モラヴィア王国そのものがマジャール人の攻撃によって滅亡し、その地にスラヴ語で典礼を行う教会組織を作るというキュリロス兄弟の夢は潰えた。
     ところが、スラヴ語典礼は意外なところに生き残った。モラヴィアを追放されたスラヴ語典礼派はバルカンに南下してブルガリアのボリス1世に保護を求めると、ボリス1世は、ビザンツ帝国と対抗する意図もあって彼らを保護、その後のブルガリアで古代スラヴ語によるキリスト教文化が開化することとなった。こうしてブルガリアで保護されたことによって(モラヴィアでは定着しなかったが)ギリシア正教の信仰とキリル文字がスラヴ系の人々に広がっていくことになった。
    <薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.24-26>

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />外に出るとポルカを踊っていた。<br />

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    外に出るとポルカを踊っていた。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />再び列をつくってどこかに向かいますが、今回は後をついていかず。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    再び列をつくってどこかに向かいますが、今回は後をついていかず。

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • 聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />逆光なのが残念。昼以降にくれば綺麗にみえると思います。

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    逆光なのが残念。昼以降にくれば綺麗にみえると思います。

    聖ヴァーツラフ大聖堂 城・宮殿

  • トリトンの噴水<br />Kašna Tritónů<br /><br />再び、広場を目指して戻ります。

    トリトンの噴水
    Kašna Tritónů

    再び、広場を目指して戻ります。

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

    聖母マリア教会 寺院・教会

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné<br /><br />この紋章からイエズス会のものと分かる。<br />興味あるひと為だけに、以下が歴史(チェコ語のグーグル翻訳版)<br /><br />Jesuits in Olomouc until 1773<br />The Jesuits came to Olomouc in January 1566 at the invitation of Bishop Prusinovsky. General of the Order František Borja confirmed the foundation of the college, which was approved by Pope Pius V on 22 April 1567. Francis from 1267, which until 1712 stood on the site of today&#39;s Church of Our Lady of the Snow. The Society of Jesus came into the consciousness of history as an order seeking pedagogical activity. This was also the purpose of the work of the Jesuits in Olomouc, where the Church of Our Lady of the Snows was bound to a university founded in 1576. The activities of the Jesuits in Olomouc until 1773 can be divided into three phases:<br />1. 1566 - 1619 pioneering work at the university, support of the university by Bishop Prusinovsky, expulsion of Jesuits from Olomouc<br />2. 1621 - 1747 reorganization of the university, period of prosperity, support of the university by Cardinal Dietrichstein<br />3. 1747 - 1773 time of confrontation with state laws, abolition of the Society of Jesus

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

    この紋章からイエズス会のものと分かる。
    興味あるひと為だけに、以下が歴史(チェコ語のグーグル翻訳版)

    Jesuits in Olomouc until 1773
    The Jesuits came to Olomouc in January 1566 at the invitation of Bishop Prusinovsky. General of the Order František Borja confirmed the foundation of the college, which was approved by Pope Pius V on 22 April 1567. Francis from 1267, which until 1712 stood on the site of today's Church of Our Lady of the Snow. The Society of Jesus came into the consciousness of history as an order seeking pedagogical activity. This was also the purpose of the work of the Jesuits in Olomouc, where the Church of Our Lady of the Snows was bound to a university founded in 1576. The activities of the Jesuits in Olomouc until 1773 can be divided into three phases:
    1. 1566 - 1619 pioneering work at the university, support of the university by Bishop Prusinovsky, expulsion of Jesuits from Olomouc
    2. 1621 - 1747 reorganization of the university, period of prosperity, support of the university by Cardinal Dietrichstein
    3. 1747 - 1773 time of confrontation with state laws, abolition of the Society of Jesus

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné<br /><br />History of the Olomouc Jesuits after 1989<br />The Jesuits in the Olomouc region were already blessed before the &quot;1989 revolution&quot;. P. Antonín Holas SJ in Štěpánov near Olomouc developed a rich apostolate. In 1990 a scholasticate was established here - the study house of young forming Jesuits. The students were commuting to the renewed Olomouc Cyril and Methodius Theological Faculty in Olomouc. Karel Říha SJ, who moved to Štěpánov from Austria, began lecturing philosophy here. Pavel Ambros SJ was established in Olomouc as a spiritual seminary in 1990, and a year later he was replaced by the long-time former Provincial Jan Pavlík SJ.<br />University students (VKH) begged the father of the Archbishop to make the Jesuit Provincial Josef Čupr SJ release one Jesuit for their formation. On March 19, 1993 Michal Altrichter SJ came from Innsbruck to Olomouc. He lived in Castle 2, near the Church of Sts. Michael. He began lecturing philosophy at the theological faculty, became rector of the Church of Our Lady of the Snow and student chaplain. The spiritual administration of college students began to be systematized until a beautiful work was built.<br />In 1995 Tomáš Špidlík SJ from Rome was on a two-month stay in Olomouc. Here you can see the beginning of the Aletti Center admission to Olomouc. The task was verified by Pavel Ambros SJ, who, after coming from his studies in November 1995, became director of the work of the Center Aletti Velehrad - Roma in Olomouc. When the Olomouc Chapter at St. Wenceslas together with his father Archbishop Msgr. Jan Graubner generously offered suitable premises for their work in Olomouc, the General Superior of the Order Peter-Hans Kolvenbach established the Aletti Center as a work of the entire Society of Jesus.<br />Pavel Ambros SJ began lecturing at the Faculty of Theology of Pastoral and Spiritual Theology. Jiří Novotný SJ, a Czech Jesuit formerly active in Canada, also came to Slovakia from three scattered flats at Na Hradě 2, the temporary home of the community. He lectured on Hebrew and the Old Testament at the Theological Faculty. Gradually, the Jesuit community was replaced by a number of Jesuits. In 1996, the Department of Spirituality, Interreligious Dialogue and Christian East Studies was established at the Faculty of Theology and the necessary reconstruction of two former canonical houses where the Jesuits and their works were to have their permanent residence proceeded. On Dušičky in 1999, the Jesuits moved to the present SJ Residence on Křížkovského Street No. 4, Aletti Center to the neighboring house on Křížkovského Street No. 2.<br /><br />Cyril(キリル、キュリロス)とMethodius(メトディオス)の名前がここでも出てくる。

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

    History of the Olomouc Jesuits after 1989
    The Jesuits in the Olomouc region were already blessed before the "1989 revolution". P. Antonín Holas SJ in Štěpánov near Olomouc developed a rich apostolate. In 1990 a scholasticate was established here - the study house of young forming Jesuits. The students were commuting to the renewed Olomouc Cyril and Methodius Theological Faculty in Olomouc. Karel Říha SJ, who moved to Štěpánov from Austria, began lecturing philosophy here. Pavel Ambros SJ was established in Olomouc as a spiritual seminary in 1990, and a year later he was replaced by the long-time former Provincial Jan Pavlík SJ.
    University students (VKH) begged the father of the Archbishop to make the Jesuit Provincial Josef Čupr SJ release one Jesuit for their formation. On March 19, 1993 Michal Altrichter SJ came from Innsbruck to Olomouc. He lived in Castle 2, near the Church of Sts. Michael. He began lecturing philosophy at the theological faculty, became rector of the Church of Our Lady of the Snow and student chaplain. The spiritual administration of college students began to be systematized until a beautiful work was built.
    In 1995 Tomáš Špidlík SJ from Rome was on a two-month stay in Olomouc. Here you can see the beginning of the Aletti Center admission to Olomouc. The task was verified by Pavel Ambros SJ, who, after coming from his studies in November 1995, became director of the work of the Center Aletti Velehrad - Roma in Olomouc. When the Olomouc Chapter at St. Wenceslas together with his father Archbishop Msgr. Jan Graubner generously offered suitable premises for their work in Olomouc, the General Superior of the Order Peter-Hans Kolvenbach established the Aletti Center as a work of the entire Society of Jesus.
    Pavel Ambros SJ began lecturing at the Faculty of Theology of Pastoral and Spiritual Theology. Jiří Novotný SJ, a Czech Jesuit formerly active in Canada, also came to Slovakia from three scattered flats at Na Hradě 2, the temporary home of the community. He lectured on Hebrew and the Old Testament at the Theological Faculty. Gradually, the Jesuit community was replaced by a number of Jesuits. In 1996, the Department of Spirituality, Interreligious Dialogue and Christian East Studies was established at the Faculty of Theology and the necessary reconstruction of two former canonical houses where the Jesuits and their works were to have their permanent residence proceeded. On Dušičky in 1999, the Jesuits moved to the present SJ Residence on Křížkovského Street No. 4, Aletti Center to the neighboring house on Křížkovského Street No. 2.

    Cyril(キリル、キュリロス)とMethodius(メトディオス)の名前がここでも出てくる。

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

  • Church of Our Lady of the Snows<br />Kostel Panny Marie Sněžné

    Church of Our Lady of the Snows
    Kostel Panny Marie Sněžné

  • 建物の壁に王様発見。<br />建物自体は普通の店が入っているものだけど。このまま、広場に戻っても来た道を戻るだけなので、ふらっと、三叉路を左に曲がります。(同じ道を通りたくないという悪い癖です。)

    建物の壁に王様発見。
    建物自体は普通の店が入っているものだけど。このまま、広場に戻っても来た道を戻るだけなので、ふらっと、三叉路を左に曲がります。(同じ道を通りたくないという悪い癖です。)

  • Kaple svatého Jana Sarkandra<br /><br />聖サルカンダー礼拝堂

    Kaple svatého Jana Sarkandra

    聖サルカンダー礼拝堂

    聖サルカンダー礼拝堂 寺院・教会

  • Kaple svatého Jana Sarkandra<br /><br />聖サルカンダー礼拝堂<br />

    Kaple svatého Jana Sarkandra

    聖サルカンダー礼拝堂

  • Merkurova kašna<br />Mercury Fountain<br /><br />

    Merkurova kašna
    Mercury Fountain

  • Kostel sv. Mořice<br />St.Morice Cathedral<br />聖モジツ教会<br /><br />モリースはモジツとなるのか。。。<br /><br />

    Kostel sv. Mořice
    St.Morice Cathedral
    聖モジツ教会

    モリースはモジツとなるのか。。。

  • Kostel sv. Mořice<br />St.Morice Cathedral<br />聖モジツ教会

    Kostel sv. Mořice
    St.Morice Cathedral
    聖モジツ教会

  • Kostel sv. Mořice<br />St.Morice Cathedral<br />聖モジツ教会<br /><br />ここに入ったのは屋上から眺めがいいとのこと。「馬鹿と煙は高いところに上がる」で早速。(実際には、愚か者はおだてにのりやすいというたとえ。)

    Kostel sv. Mořice
    St.Morice Cathedral
    聖モジツ教会

    ここに入ったのは屋上から眺めがいいとのこと。「馬鹿と煙は高いところに上がる」で早速。(実際には、愚か者はおだてにのりやすいというたとえ。)

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)<br />屋上からの眺め<br /><br />オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と聖三位一体柱のある広場<br />

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)
    屋上からの眺め

    オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と聖三位一体柱のある広場

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)<br />屋上からの眺め<br /><br />オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と聖三位一体柱のある広場

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)
    屋上からの眺め

    オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)と聖三位一体柱のある広場

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め<br /><br />あっ、さっきの民族衣装集団発見。

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

    あっ、さっきの民族衣装集団発見。

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め<br /><br />聖ヴァーツラフ大聖堂<br />Katedrála sv. Václava Olomouc<br /><br />あれ、3つの塔の高さってこんな違っていたっけ。と改めて気が付く。<br />

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

    聖ヴァーツラフ大聖堂
    Katedrála sv. Václava Olomouc

    あれ、3つの塔の高さってこんな違っていたっけ。と改めて気が付く。

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め<br /><br />オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

    オロモウツ市庁舎(Magistrát města Olomouce)

    聖モジツ教会 寺院・教会

  • 聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

    聖モジツ教会(Kostel sv. Mořice)屋上からの眺め

  • 聖モジツ教会<br />Kostel sv. Mořice

    聖モジツ教会
    Kostel sv. Mořice

  • Kostel sv. Mořice<br />St.Morice Cathedral<br />聖モジツ教会

    Kostel sv. Mořice
    St.Morice Cathedral
    聖モジツ教会

  • オロモウツ市庁舎<br />Magistrát města Olomouce<br />

    オロモウツ市庁舎
    Magistrát města Olomouce

  • さて広場に戻ってきました。すこし腹ごしらえします。

    さて広場に戻ってきました。すこし腹ごしらえします。

    市庁舎 建造物

  • しかし気持ちいいぐらいに晴れている。

    しかし気持ちいいぐらいに晴れている。

  • パン屋かな。チェコでよく見るやつ。

    パン屋かな。チェコでよく見るやつ。

  • これもスイーツ系なのでパス。美味しそうだけど。

    これもスイーツ系なのでパス。美味しそうだけど。

  • まずはビールを調達。<br />Šternberg<br />11° Světlý ležák<br />ラガー系です。<br />

    まずはビールを調達。
    Šternberg
    11° Světlý ležák
    ラガー系です。

  • この店がよさそう。

    この店がよさそう。

  • この煮込みを指さし注文。正直、何の煮込み料理かは分からない。ここは自分の直感と運を信じて。

    この煮込みを指さし注文。正直、何の煮込み料理かは分からない。ここは自分の直感と運を信じて。

  • 普通に美味しい。辛くもなく。

    普通に美味しい。辛くもなく。

  • さて、これを食べたのですが、、、何でしょうかね。。。<br />肉のフライパン(で煮込み)が正しい訳でしょうか?<br />何の肉かは分からなかった。。。<br />

    さて、これを食べたのですが、、、何でしょうかね。。。
    肉のフライパン(で煮込み)が正しい訳でしょうか?
    何の肉かは分からなかった。。。

  • オロモウツ市庁舎<br />Magistrát města Olomouce<br />

    オロモウツ市庁舎
    Magistrát města Olomouce

    市庁舎 建造物

  • 普通の旅行とは違って、こうした祭りに参加できると、なんか得した気分。

    普通の旅行とは違って、こうした祭りに参加できると、なんか得した気分。

    オロモウツの聖三位一体柱 モニュメント・記念碑

  • アリオンの噴水 モニュメント・記念碑

  • モラヴィアの旗と聖三位一体柱。

    モラヴィアの旗と聖三位一体柱。

    オロモウツの聖三位一体柱 モニュメント・記念碑

  • さて次の目的地へ。<br /><br />オロモウツ。意外と写真100枚の大作の旅行記を作ってしまった。写真を選択して削除してきたが、これ以上は削除できず。チェコは、こうした地方都市も素朴さと文化、歴史を感じられていい。また、来ることはあるかな。

    さて次の目的地へ。

    オロモウツ。意外と写真100枚の大作の旅行記を作ってしまった。写真を選択して削除してきたが、これ以上は削除できず。チェコは、こうした地方都市も素朴さと文化、歴史を感じられていい。また、来ることはあるかな。

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