2017/05/25 - 2017/05/26
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この旅行記のスケジュール
2017/05/25
この旅行記スケジュールを元に
車で、チェコのプラハ、チェスキー・クルムロフ以外のマイナーな世界遺産を巡る旅。総走行距離1823.9km。
本旅行記はその②、クトナー・ホラの後編。
世界遺産「クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」を巡る旅の後編、セドレツ地区。
表紙は、人骨でつくったシュヴァルツェンベルク家の紋章。
<大日程>
5/25 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ①前編
クトナー・ホラ泊
5/26 クトナー・ホラ(Kutná Hora) ②後編
ゼレナー・ホラ(Zelené hoře) ③
テルチ(Telč) ④
オロモウツ(Olomouc) 泊
5/27 オロモウツ(Olomouc) ⑤
クロムニェジーシュ(Kroměříž) ⑥
チェスケー・ブジェヨビツェ(České Budějovice) 泊⑦
5/28 フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ城(Státní zámek Hluboká) ⑦
ホラショヴィツェ(Holašovice) ⑧
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チェコの世界遺産(Wikiより) 2019年現在。
プラハ歴史地区 - (1992年)
チェスキー・クルムロフ歴史地区 - (1992年)
テルチ歴史地区 - (1992年)
ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会 - (1994年)
クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂 - (1995年)
レドニツェとヴァルティツェの文化的景観 - (1996年)
クロムニェジーシュの庭園と城 - (1998年)
ホラショヴィツェ歴史地区 - (1998年)
リトミシュル城 - (1999年)
オロモウツの聖三位一体柱 - (2000年)
ブルノのトゥーゲントハット邸 - (2001年)
トシェビーチのユダヤ人地区と聖プロコピウスのバシリカ - (2003年)
エルツ山地(クルスナホリ)鉱業地域 -(2019年 / ドイツと共有)
クラドルビ・ナト・ラベム(英語版)の儀礼用馬車馬の繁殖・訓練の景観 -(2019年)
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
宿泊したホテルの目と鼻の先にあるセドレツ納骨堂。以下、いつもどおりWikiより。
セドレツ納骨堂は、チェコの首都プラハから東に約70キロほどの町クトナー・ホラ近郊のセドレツにある納骨堂。セドレツ墓地内の全聖人教会地下にある。この教会と納骨堂は約4万人の人骨を保管し、そのうち約1万人分の人骨を用いて礼拝堂内の装飾をしていることで知られる。
歴史
伝承によれば、シトー会セドレツ修道院の修道院長であったハインリヒなる人物が1278年、プシェミスル朝のボヘミア王オタカル二世によってエルサレムに使節として派遣された。ハインリヒは帰還に際してゴルゴダの丘の土を手に一杯持ち帰り、その土を修道院墓地に撒いた。このことにより、この墓地は神聖であるとされている。
そのようなわけでこの墓地は中央ヨーロッパ中の知るところとなり、セドレツ周辺のみならず、ボヘミアやポーランド、バイエルンからも埋葬希望者があらわれるようになった。14世紀中頃にはペスト大流行により約3万人がこの墓地に埋葬され、また15世紀のフス戦争では数千人の犠牲者が弔われ、セドレツ墓地はひっきりなしの拡大を余儀なくされていた。約3.5ヘクタールの共同墓地に、無数の死者が埋められた。
教会の建設
15世紀初頭、ゴシック様式の地上1階地下1階建ての教会が墓地の中央に建てられた。教会の建設工事に伴って埋葬者の一部が掘り起こされて亡骸が教会の建物の地下に運び込まれた。それ以来、教会の地下階が納骨堂として用いられるようになった。大きくなりすぎた墓地の規模を縮小するため、教会が完成したあとも死者の掘り起こしが続けられた。この作業は1511年の半盲のシトー会修道士の記録にはじまり、掘り出された人骨は納骨堂に整然と積み重ねられていった。堂内には、全部で約4万人分の人骨が納められた。
1703年から1710年にかけて、イタリア系チェコ人建築家のヤン・ブラジェイ・サンティニ・アイヒェル (Jan Blažej Santini Aichel) によって、教会地上部分と入り口がボヘミア後期バロック様式に改築された。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の改革により、侯爵の家系であったシュヴァルツェンベルク家がこの教会の後見となり、19世紀には教会を購入した。1870年、シュヴァルツェンベルク家はスカリツェ出身の木彫家フランティシェク・リント (František Rint) に尋常ならざる内装制作を依頼した。それは、制作の素材として木材ではなく、納骨堂に納められていた人骨を用いるというものであった。リントは内装のすべてを、約1万人分の骨を用いて制作した。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
<テキストパンフレットより>
※Wikiの説明とは、ちょっと微妙に異なるので掲載。
1142年、シトー修道会(1098年創設)の修道院がこの近くに設立されました。修道士の主なる務めは修道院の周囲の土地の開墾、耕作でした。
1278年、ボヘミアのオタカル二世はセドレツの大修道院長インドジッフを聖地へ外交使節として派遣しました。エルサレムを去る際インドジッフはゴルゴダの丘の土をひとつかみ持ち帰り、セドレツ修道院の墓地に振りまきました。その結果この墓地はボヘミアのみならず中央ヨーロッパ一帯においても知られることとなり、多くの裕福な人達がここに埋葬されることを望むようになりました。
14世紀のペスト大流行の際、墓地の面積が大幅に拡大されました。
一例を挙げると、1318年にはおよそ三万人の人々が、また十五世紀初頭のフス教徒による戦さの間にも多くの人々がこの地に埋葬されました。
1400年、大修道院長の一人が墓地の中央にゴシック様式の諸聖人教会建設に着手し、その地下には廃止される埋葬地の遺骨のために礼拝堂が建てられることになりました。
この務めは1511年からシトー修道会の半盲の修道士によって始められました。納骨堂は1703年から1710年にかけてイタリアの高名な建築家ジョヴァンニ・サンティーニによってチェコ・バロック様式に改築されました。
現在の骨を素材としたこの装飾は1870年からチェコの木彫師フランチーシェック・リントによって造られたものです。階段の右側の壁に骨の組み合わせによる彼の名前を見ることができます。
この納骨堂は約四万人の遺体が用いられています。骨によるもっとも大きな装飾品は納骨堂の四隅にある鐘の形をしたものです。
リント師によるもっとも興味深い創造物は、本堂の中央にあるシャンデリア(これは人体のすべての骨をもちいています)、中央祭壇の側面にある顕示台、そして礼拝堂左のシュヴァルツェンベルグ家の盾型の紋章です。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec全聖人墓地教会 (セドレツ納骨礼拝堂) 寺院・教会
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セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
地下への入り口にある早速インパクトのある装飾。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
聖杯
教会の玄関口近くにある、地下堂へと通じる階段の降り口両側には、ほぼ等身大の二つの聖杯がある。そのうちの片方の杯には骨としゃれこうべでイエスのモノグラムがつくられている。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
地下への入り口。中はこんな感じ。薄暗い。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
スカリツェ出身の木彫家フランティシェク・リント (František Rint) は、骨で形作ったアルファベットで自身の名前を階段出口の脇の壁に残している。
(1870年の下) -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
地下堂の中心には八腕のシャンデリアが吊り下げられている。このシャンデリアは、人体の骨格のうち、ほとんどすべての種類の骨を用いてつくられている。
シャンデリアの下には、4つの小尖塔があり、それぞれに22のしゃれこうべがつけられている。天井の穹窿にはしゃれこうべと上腕骨でつくられた花環装飾がしつらえられている。同様の装飾は、壁飾りや、とくに迫持の部分にも見られる。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
中央祭壇の左右両脇の壁龕には二つの聖体顕示器が置かれている。しゃれこうべのうちでも、祭壇脇に据えられているいくつかのものは、フス戦争の戦いにおける死者であることが分かっている。当時の戦闘では、フレイルや大槌が武器として用いられていた。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
紋章
部屋の左側にはシュヴァルツェンベルク家の紋章が掛けられている。紋章の右下部には、一羽の大鴉の骸骨が戦場に斃れた兵士のしゃれこうべの左目を突いている飾りがある。カラスは、16世紀のオスマン帝国との戦いのシンボルであった。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
納骨室
納骨のための主たる部屋は隣室である。骨は円錐形に積まれて保管されており、全部で四つの巨大な円錐が半地下室の側廊を飾っている。 -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec -
セドレツ納骨堂
Kostnice Sedlec
実はここは世界遺産の建物としては含まれていない。けど、ここが一番、インパクトがある。メメントモリ。「死を忘るなかれ」 -
セドレツ納骨堂脇の記念碑。
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聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
シトー会の修道院に併設されたセドレツの聖母マリア大聖堂。ボヘミアで最初のもの。1142年。 -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie聖母マリア大聖堂 寺院・教会
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聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
外観とは異なり中は明るいパステルカラー調。背が高く窓が大きく光が中に差し込み、明るい。 -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
"St. Bernard becomes a member of the Cistercian Order"
Michael Lucas Leopold Willmann(1639-1706) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
”St. Juliana of Liege"
Petr Brandl(1668-1735) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
"The Death of St. Josefa"
Genaro Basili/Rilli
(1722-1782)(1782-1841) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
"St. Anne teaching Virgin Mary"
Genaro Basili/Rilli
(1722-1782)(1782-1841) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
"St. Luitgarda`s Vision"
Petr Brandl(1668-1735) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
”Czech Patron Saints"
Petr Brandl(1668-1735) -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
屋根裏に登れます。 -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
Chapel of Virgin Mary of Sedlec
The chapel was built by monk Judah Thadeus Supper(1712-1771). -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie
1730年ごろ。マグダラのマリアの像のある懺悔室。 -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
聖母マリア大聖堂
Katedrála nanebevzetí Panny Marie -
次の目的地の途中にあった菜の花畑。
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次の目的地の途中にあった菜の花畑。
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