2011/05/01 - 2011/05/05
21位(同エリア29件中)
パンダ番長さん
- パンダ番長さんTOP
- 旅行記55冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 10,149アクセス
- フォロワー2人
韓国旅行の2日目。慶州から世界遺産観光を行い、温陽温泉までの旅程。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
PR
-
<旅行2日目の朝と慶州コーロンホテルでの朝食>
朝6時前に冨田君がベッドから出た。私も既に目は覚めていたが、目覚し時計が鳴れば起きるつもりでいたが、結局鳴らなかったので、5分程してベッドから出る。
昨晩は途中から頭痛の為に殆ど眠れなかった。まだ、頭痛が酷い。体も少し熱っぽい感じである。
朝なので多少、体調が思わしくないのであろうと気分だけでも元気を出す。
顔を洗い、部屋着がないのでそのまま身支度を行う。
冨田君も身支度が出来たみたいなので、6時15分前に部屋を出て、ロビー階のレストランに向かう。
レストランには既にテコンドウの何処かの国々の選手達が食事をしており、幾つかのテーブルは埋まっている。 -
我々も窓際の外が見えるテーブルを確保し、料理を取りに行く。
料理は、西洋式のバイキングがメインで、他に韓国式の朝食も食べられる様になっている。
私は西洋式のバイキング料理を数種、皿に取り、またパンはクロワッサンやマフィンなども取る。
皿に取ったものは、お決まりの野菜、ハムとチーズ、ソーセージ、フライドポテト、スクランブルエッグ、ゆで卵などである。飲物はパイナップルジュースを取った。
席からは、ホテルの建物の外環が良く見えている。また、このホテルはゴルフコースも併設されているので、そのコースで早朝からゴルフを楽しんでいる観光客も見ている。 -
まだ朝の早い時間のせいか、遠くの景色がかすんでいる。それとも今日も黄砂が酷いせいかも知れない。
皿に取った料理を一通り食べ終わり、最後に珈琲を飲んで食事を終える。我々が食事を終える頃にはこのレストランも人で満員状態であった。
丁度7時頃に席を立ち、レストランを出る。そして昨晩立寄った土産物店に行く事にした。
冨田君は昨晩目を付けていた土産物があるらしく、早々に店員と交渉をしている。
私はもう一度、土産物を見て廻るが、特に興味を引く物はないので、早々に店を出る。
冨田君は結局幾つかの土産物を購入していた。そして、部屋に戻る途中にまたエレベーター前に昨晩と同じ様に若者が屯している。
今日はジャージ姿で背中には“カザフスタン”の文字が見える。欧米人の顔立ちではあるが、アジア人である。
その中には可愛らしい女の子もいるが、この子もテコンドウの選手なのだろうか?
部屋に戻ったのが、7時30分前である。今日の集合時間にはまだ1時間弱ある。
荷物の整理を始め、昨日購入した土産物など必要ない物を旅行カバンに詰め込む。特に荷物が増えた訳ではないが、手持ちの持ち物を出来る限り減らしたい。
荷物の整理を終え、集合時間を待つ。冨田君と相談し、8時過ぎのロビーに下りる事にした。
8時過ぎの予定通りに部屋を出て、ロビー階に下りる。
既に他の同ツアーの人達は集合し、ロビーのソファで休んでいる。我々はチェックアウトの為にフロントに行く。
特に冷蔵庫内のものに手を付けていないので、特に何もなくチェックアウトを済ませる。
我々がチェックアウトを済ませた直後に趙さんがロビーに現れた。
少し早いが全員揃っている事を確認し、ホテルロビーから我々と共に車に乗り込む。
8時15分過ぎに慶州コーロンホテルを出発する。 -
<珍しい石窟の寺院~世界遺産の石窟庵(ソックラム)~>
車が走り出すと趙さんが今日の予定を話し始める。今日最初の観光目的地は、石窟庵である。
ここから20分程で到着する予定との事。
その後、山の麓の仏国寺に行き、長距離移動を行い、伽耶山に行く。ここで昼食後、伽耶山の海印寺に寄り、その後再度長距離移動を行い、大田に移動し、ここで夕食後、今晩の宿泊地である温陽に行くのである。
今日は、かなりの時間が移動に割かれている。
この様な趙さんの話の途中に仏国寺の入口を通り過ぎた。そして車が山を上り始める。
今昇っている山が石窟庵のある吐含山である。ヘアピンカーブの昇り坂が続く道を車が上り始める。幾つかのヘアピンカーブを過ぎたところで、レンガ造りの門が見えて来た。この門が石窟庵の入口なのか?
そこから更に多くのカーブを曲がりながら徐々に山を登る。やっとカーブが少なくなり、山の尾根に昇り切った様である。すると、道が分かれ、その前にゲートが現れる。
このゲートが石窟庵の駐車場入口で、この先が駐車場である。時刻は8時35分過ぎである。
この早い時間にも関わらず、駐車場には何台かの車が止まっている。
車を降り、趙さんについて駐車場から一段高い所へ階段を上る。この階段の左手には鐘楼が建っている。
ここの梵鐘も立派な鐘である。ここも国立慶州博物館にあった聖徳大王神鐘と同じ様に地面すれすれの状態で釣るされている。
この鐘は突く事が出来るが、1回突くのに1,000WON(約90円)必要だと書かれている。 -
その前を通り過ぎ、右手奥に見えている山門前に進む。ここで趙さんの入場手続きを待つ。
山門の横には、この石窟庵の地図の立て看板と世界遺産の記念碑が造られている。
趙さんを待つ間にこの記念碑の前で記念撮影を行なう事にした。この記念碑は日本のある記念碑とよく似ている。ハングル文字の下に漢字でも文字が彫られているのでよく判る。 -
記念撮影を終えると丁度、趙さんが戻り、みんなで山門を潜る。山門には吐含山石窟庵の文字が見える。
この山門はまだ新しいので最近造られたものなのだろう。
山門を抜けると舗装されていない山道に入る。
しかし、道幅は広く、充分車2台が走れる幅はある。また、今は山道の両側に色彩り彩りの提灯らしきものが1m間隔で吊るされている。お祭りがあるのだろうか?
趙さんに聞くと、仏様の誕生祭が5月10日にあるので、その準備であると言う。
この日は韓国では祝日なのだそうだ。仏誕祭?韓国はそんなに仏教国なのか?とこれを聞いた時に思った。
その事を趙さんに聞くと、韓国は仏教徒とキリスト教徒が半々くらいであると言う。その為にクリスマスの日も祝日なのだそうだ。
その紙の提灯が吊るされた山道を登り下りする。途中、何回か野生のリスを見かける。 -
15分くらい歩くと前方に建物が見えて来た。ここが石窟庵である。
その前まで来ると、広場になっており、仏誕祭の為にわざわざ提灯棚が造られており、色毎に整然と並んでいる。
その提灯の下にはお願い事が書かれた短冊が吊るされている。まだ、5月10日まで日があるので、短冊が吊るされている提灯は全体の5分の1くらいである。
ここから石窟庵はもう少し上にある。その石窟庵を見上げると丁度、建物の後がこんもりと古墳の様に盛り上がっている。広場から左手の石段を上ると、その石窟庵の建物まで行ける。
その石段の前には石窟庵の説明図面が描かれている。その前で趙さんの説明が始まる。
この石窟庵は、吐含山の麓に位置する仏国寺から吐含山の山頂に向かう途中に位置する。
新羅の景徳王10年(751年)に仏国寺の創建と同様に宰相の金大成によって石仏寺という名前で創建されるが、金大成の生前には完成に至らず、彼が亡くなった後は国が工事を引き受けて完成させたものである。
金大成は、前世の親のために石仏寺(石窟庵)を創建し、現世の親の為に仏国寺を創建した。
石窟庵は花崗岩を加工し、それを積み上げてドームの型に石窟を築いてからその上に土を覆いかぶせ、洞窟に見える様に建てられた石窟寺院であります。
石窟庵の構えは大きく、前室の四角い空間と丸型の主室に分けられており、主室には本尊仏である釈迦如来坐像と共に菩薩像と十大弟子像が安置されており、前室には仁王像と四天王像などが彫刻されている。
この石窟庵は統一新羅時代の宗教的な情熱と芸術、科学の力で完成させた最高の傑作品である。
この様な説明の後、石段を登る。この石段は自然石で造られた石段なので、高さも幅もまちまちで非常に登り難い。その石段を登り終え、少し小道を行くと建屋の横に到達する。建屋前には石灯が立っていたのか、その土台のみが残っている。
この建屋の中から石窟庵が見えるのであろう。入口には写真禁止の看板がある。
また、入口と出口には係員が立っている。これは写真が撮れない。仕方なく、カメラをしまう。
建屋内に入ると、建屋の前がガラス張りになっている。そのガラスの中が石窟になっている。
その中の中央奥には石仏が鎮座している。少しライトが弱いのか奥が暗く、表情などが少し判り難い。それにしても8世紀に造られた物にしては非常に保存状態が良い。本当に最近造られた様な石仏に見える。
奥の主室には、菩薩像や十大弟子像があるらしいが全然見えない。
前室の空間はガラス越しではあるが、全容が見学出来る。しかし、ここもライトが暗く、壁面のレリーフの表情などは良く判らない。ガラス越しなのだから、もう少し良く見える様にライトなどは工夫して欲しい。保存の為とは言え、全てがガラス越しなので少し興ざめである。
ほんの5分足らずで見学終了となる。建屋を通り抜け、反対側から出て、そこから続く石段を降りる。
途中にこの石窟庵の修復作業時の花崗岩が無造作に放置されている。
しかし、保存の為とは言え、どうしてここまでしてしまったのかと思ったが、どうも日本統治下での修復作業に問題があったのだという。
もともとの石窟庵は湿気が多い自然の障害を乗り越えて、換気と湿度の調節出来る能力を持っていたが、日本統治下での補修工事の際に、石窟の周りをコンクリートで固めてしまった為、石窟内部に湿気が溜まる原因となってしまった。その為に現在の様な人為的な換気装置を設置して湿気や温度を調節しなければならない状態になってしまったらしい。
また、1913年から3回の復元工事が行われたが、石窟全体を解体してから組み立てた為に復元の仕方を間違えてしまい、仏像の位置と石窟庵の正確な構造が全く分からなくなってしまったのである。その為に、先程の様に余った花崗岩が放置されているのである。
石段を降りるとまたお堂があり、その前には石灯が立っている。先程の建屋前もこの様な石灯が立っていたのであろう。 -
その後、その横にあった土産物店に寄ったが、趙さんからはここでは高いので買わない方が良いと言われ、直ぐにそこを後にする。
そして、更に階段を下り、先程の提灯棚のところに出て来た。その提灯棚の下を抜ける。その棚下に入り見上げると、その色彩り彩りの提灯が非常に綺麗である。
ここで少しトイレ休憩になる。この時間を利用して、石窟庵をバックに記念撮影を行なう。
他のツアー客の人達も趙さんにお願いし、記念撮影を行なっていた。
みんなが集合し、再び山道を山門に戻る。行きは時間がかかった様に思ったが、帰りは比較的早く山門まで戻って来た。
山門を抜け、山門脇にある売店兼土産物屋に少し立寄ったが誰も土産物を買う事がなく、駐車場に歩き出す。
駐車場からは非常に眺めが良いと言うことだが、今日は天気は良いが黄砂が酷く、景色は靄っている。残念である。 -
ここで朝、この駐車場に到着した時に見かけなかった物売りのおばちゃん(おばちゃんと言うよりはおばあちゃん)達が色々な物を駐車場脇で広げている。
趙さんも気になったのか、その物売りのおばちゃん達のところに自然と足を向ける。
行くと、何なのか判らないものが多い。ひとつひとつ、趙さんに聞く。
まず目に付いたのは、木の皮の様なものが束ねて置かれている。これはもしやニッキ?趙さんに聞くと、そうだと言う。これを乾燥したものが、シナモンである。昔はよくこの皮をかじった覚えがある。
その他には、霊芝、乾燥蕨、栗、何やら緑の粉などが売られている。この緑の粉が気になったので、趙さんに聞くと、趙さんも判らなかった様で、おばちゃんに聞いている。
それは松の葉を粉にした物だと言う。何に使用するのであろうか?これも聞いて貰うと、スープやお粥などに入れるのだそうだ。
その内、美味しそうな匂いが漂って来た。おばちゃんが栗を焼いているのである。非常に大きな栗である。同じツアーの人が幾らなのかを趙さんに聞いてほしいと言う。
10個で3,000WON(約270円)だと言う。高いと趙さんがおばちゃんに言うと、韓国産だからだと言う。中国産ではないので高いと言う。趙さんによると最近韓国でも栗は中国産が多いのだそうだ。
この様なものをかなりの時間見ていたが、そろそろ車に戻る様に趙さんに促される。
全員が車に乗り込み、この石窟庵の駐車場を後にする。次はこの山の麓にある仏国寺である。
先程、趙さんに焼栗の値段を聞いていた人が本当に焼栗を買ったらしく、ツアーのみんなに1個ずつ渡している。我々も焼栗を1個頂いた。
非常に大きな栗である。外皮と渋皮を剥き、かぶり付く。非常に甘い栗で美味しい。
まだ栗が余っていたのか、車の後方に座っていた我々数人だけに2個目が廻って来た。これも美味しく頂いた。
その間にも車は山を下っている。その内、行きにも潜った門を抜ける。
そこから少し下ると仏国寺への分かれ道に到着した。そこを右に曲がる。すると仏国寺の入口が見えて来た。
その前で車が止まり、そこで全員が車を降りる。 -
<韓国国宝の宝庫~韓国仏教芸術の粋と讃えられる仏国寺(ブルグッサ)~>
ここで少しこの仏国寺について説明すると、慶州の吐含山の麓にある仏国寺は、石窟庵と共に護国の念願を達する為に新羅第35代景徳王10年(751年)、当時宰相であった金大成によって設計、創建されたお寺である。
この仏国寺は、世界文化遺産に指定されており、現在もかなりの大きさの寺院あるが、最盛期の8世紀には総面積2000坪(約6600m2)に60余棟の木造建物が並び建つ壮大なスケールを誇る大寺院であった。
三国統一後、国が最も安定した文化が栄えた時期に、この仏国寺は建立された。仏国という言葉には、全てが完全に備わった安楽と清潔な国になろうとする願いが込められている。以降、高麗、朝鮮時代に何度か補修・改修を繰り返しながら、650年間引き続いた仏国寺であったが、1592年壬辰倭乱(文縁の役)の際に多くの建造物が焼失した。しかし、仏教芸術の粋と讃えられた美しさは今も変わる事はない。
戦争で国力が傾いた後、崇儒抑仏政策で仏教が弾圧され、新羅の精神を生かす事が出来なくなって行った。
朝鮮王朝時代に一部が復元されたが、今日ある姿になったのは、1973年の大改修後の事である。
まず目の前に見えているのが、お寺の入口門で、一柱門と言うらしい。不思議な事にこの門には扉がない。柱を見ても元々扉が無かった様である。これにも訳がある。 -
この門の名前は、柱が一の字形で並んでいる門という意味である。一柱門は世の中の煩悩の濁りを払って一心で仏法の世界に向かうという意味もある。
また、この門に扉がない理由は、どんな人に対しても出入の制限がない事を表している。
一柱門のその横にはこの仏国寺の全景図があり、更にその横には世界遺産の記念碑がある。
お決まりではあるが、この世界遺産の記念碑の前で記念撮影を行なう。この記念碑もハングル文字の下に漢字の表記がある。 -
趙さんの入場手続きが済み、みんなでこの一柱門を抜ける。ここも仏誕祭の飾り付けが綺麗に施されている。
そこから庭園の様な境内を歩く、少し歩くと左手に池が見えて来る。
それを過ぎると小路の両側の木々が生い茂り、その先にまた門が見えて来た。 -
この門が天王門である。その門の手前右手は今工事中なのか、トタンで塀が出来ている。
門まで辿り着くと、この手前で趙さんが説明を始める。
天王とは、欲界六天の最下天にいる四天王の事を表している。天王門は、この四天王が安置された門である。 -
寺刹守護の役割を担当している四天王像が安置されており、その彫刻は朝鮮後期の手法を良く表現している。
四天王とは、東方を守護する-持国天王(手に琵琶を持っている)、南方を守護する-増長天王(手に剣を持っている)、西方を守護する-広目天王(手に竜を持っている)、北方を守護する-多聞天王(手に宝塔を持っている)である。
門の中に入るとなかなか大きな像が立っている。まだ造られて然程年代が経たないのか、結構色鮮やかである。
しかし、残念な事にほこりだらけと言うよりは砂まみれである。
もう少し手入れをして欲しい。そう思いながらこの門を抜ける。
門を抜けると再び小路が少し続く。そして、前方に大きな建物群が見えて来る。その手前には、小さな石橋があり、その左手にはまた池が見える。この橋を過ぎると寺院境内の中壇に入る。
すると大きな木々の奥に石垣の上に伽藍が見えて来る。その手前まで行くと、ここでまた趙さんの説明が始まる。 -
垣の上には左右に門が見えている。向かって右手が比較的大きな門で、左手が少し小さな門である。そして、その門へ延びる石段が国宝に指定されている石段である。
まず右手は、泛影楼と左経楼という回廊途中の楼閣が聳える基壇の中央に勢い良く延びているのが、その国宝の石段で、上方の16石段が白雲橋で、その下方の17石段が青雲橋と呼ばれている。合わせて33段ある橋は仏教で言う33天(神々の住む城)を意味し、この石段を登って紫霞門を潜ると、そこはお釈迦様の彼岸世界である仏の国を表現する境内という訳である。
仏様の体は「紫金光身」とも言われ、紫霞門というのは、「仏様の体から出る紫の金色がまるで、霧のように曇っていた」と言う事である。この門を過ぎると世俗の無知と束縛から脱して仏様の世界に到る事を象徴している。
青雲橋の下は、虹の形に造られた曲線美が美しい虹門があり、嘗て基壇石段の下は池があったと言われている。
創建当時、1,200余年前の基壇石段がそのまま保存され、その価値を一層高めている。青雲橋、白雲橋は韓国国宝23号に指定されている。確かに石段の基壇の虹門は高度な技術で石が組まれている。
また、この紫霞門の反対側にはもうひとつの門である安養門がある。 -
この安養門の前の石段も、青雲橋と白雲橋と同じ様式で造られた石段で、蓮華橋と七宝橋と言う。
大きさは青雲橋と白雲橋よりも小さくなっている。蓮華の花弁が美しく刻まれている下の石段が蓮華橋で、その上の石段が七宝橋である。
この石段を登って安養門を潜ると、阿彌陀仏の極楽世界を表現する極楽殿の区域に至る。
この石段も昔そのまま保存され、その価値が高く評価されて、蓮華橋と七宝橋は、韓国国宝第22号に指定されている。共にこの石段には柵が手前に設けられ、中には入れない。仕方なく、その前で記念撮影を行なう。 -
その後、趙さんに付いて、右手に廻り、右手前の小路を紫霞門の裏手に上る。そこには境内回廊に小さな入口があり、ここから伽藍内に入る事が出来る。
この回廊入口を入ると目の前に大きな石塔が現れる。
これが国立慶州博物館の中庭にあったレプリカの本物である。
この石塔は多宝塔と呼ばれている。
この多宝塔は「常住証明」と言い、多宝如来が釈迦世尊の説法を賛嘆して、これが真理である事を証明する事を象徴した塔である。四角瓦家形式のこの塔は、正方形の基壇の上に蓮の花弁模様の窓が開き、繊細な八角亭がその上に乗る美しい三層様式の石塔である。
統一新羅最全盛期に造られた石塔らしく、当時の規範を脱した新鮮な発想で造られ、木造構造物で見る事が出来る精巧な彫刻技法と三層石塔の定型を要し、女性美を感じさせる石塔である。
この多宝塔は、韓国国宝第20号に指定されている。 -
この横を過ぎ、回廊隅に移動する。そこには、木魚と銅鑼が架かっている。ここでお寺での鳴り物について説明が入る。仏教において鳴り物を叩く行為は鎮魂の意味が籠められているのだそうだ。
例えば、魚鼓(木魚)を叩くのは、水の中に住む生き物の魂の沈める為に、銅鑼を叩くのは、空を飛ぶ生き物の魂を沈める為だそうだ。仏教の諸事には各々意味があるのだ。 -
その後、この伽藍の中心にある大雄殿前に移動する。
この大雄殿は、仏国寺の本殿である。壬辰倭乱(文縁の役)の際に焼失したが、今の本殿は1695年に再建されたものである。本殿の基壇のみが、新羅時代のそのままものである。何度か改修を行なっているが、新羅時代の原型を比較的残しているという。
この大雄殿は全面が五間取り、側面が四間取りで、内部には中央全面に釈迦三尊仏が安置されている。
釈迦牟尼仏を中心に、左右に未来の仏様の弥勒菩薩と過去の燃灯仏かつら菩薩が並び、過去、現在、未来の三世仏を成している。
丁度、大雄殿前に建つ石灯篭の窓から中央の釈迦牟尼仏の顔が拝める。観光客が競って、この石灯篭の前で、その顔を拝んでいる。
趙さんも説明していたが、この大雄殿の本尊である釈迦牟尼仏には仏様には珍しく、髯がある。
中性的な表現の仏像が多い中では言われる様に珍しい。日本では見た事がない様に思う。 -
この大雄殿で本尊を拝み、その横にある石塔前に移動する。これも国立慶州博物館にそのレプリカがあった釈迦塔である。
三重石塔の釈迦塔は、別名無影塔と呼ばれ、釈迦の「常住説法」を象徴した塔である。
新羅の多くの石塔の中で最も代表的な石塔で、多宝塔とは対照的な形を持ちながら、お互いに調和し、その美しさと気品を増やしている。
二段の基壇の上に花崗岩で建てられた釈迦塔は、統一新羅時代の三層石塔である。
1966年の復元工事途中に、塔身二段の中央部から世界最古の木版印刷物である「無垢浄光陀羅尼経(韓国国宝第126号)」が発見された。釈迦塔は、韓国国宝第21号に指定されている。
また、その奥の回廊隅には大太鼓が置かれている。そして、この太鼓を叩くのは、陸に住む全ての生き物の魂を沈める為である。そして、この伽藍の外の左手に鐘楼がある。
この鐘を叩くのはあの世に住む生き物の魂を沈める為である。
大雄殿の裏手には講堂があるが、現在は工事中なので、大雄殿左手の回廊から石段を下り、一段低い位置に造られた極楽殿の境内に入る。そして極楽殿の横を通り、極楽殿の裏手回廊から更に伽藍の奥に向かう。
その奥には比較的小さなお堂の羅漢殿が建っている。 -
その羅漢殿の右手から更に奥に進む。羅漢殿横の小さな門を潜ると、直ぐ左手に小さな石塔がある。これが舎利塔である。この舎利塔は、高麗時代初期に建てられたものと推定されている。1905年に日本に持ち出されたものを1933年に返還され、現在の位置に安置された。
この舎利塔も韓国宝物第61号に指定されている。 -
そして、その舎利塔の奥には、毘盧殿が建っている。
この建物は1973年に復元され、その復元の際に高麗時代の建物様式で再建されたものである。
毘盧殿の中には、統一新羅時代に造成された金銅毘盧遮那仏が安置されている。
毘盧遮那とは太陽、光明の象徴とされ、仏様の中でも最も高い位置の華厳仏国の主人となる仏様である。金銅毘盧遮那仏像は統一新羅時代の作品で、韓国国宝第26号に指定されている。
そして、小さな階段を上がるともう一段高い場所に観音殿が建っている。丁度、お祈りの時間帯なのか、殿内で僧侶数人がお経を唱えている。途中、羅漢殿の裏手に多くの積み石の小さな塔が作られているのを見つける。 -
この前で少し休憩を取った後に先程の来た道を極楽殿まで戻る。
極楽殿の境内まで戻るとここで先程、この境内に下りる時に通った石段について趙さんより説明があった。
阿弥陀仏が、仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って48の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界が「極楽浄土」である。その48を階段の数に表している。16段の階段が3つの部分に分かれて、48段の石段が造られている。
大雄殿の西側の回廊からこの48段に分けられた石段を踏んで下りると阿弥陀仏の極楽浄土である極楽殿に到達すると言う意味を表しているのである。
また境内の中壇からは左側に位置した蓮華橋と七宝橋の石段を登って安養門を潜ると、この極楽殿に到るようになっている。
固い基壇の上に木造で建てられた極楽殿は、壬辰倭乱の際に焼失したのが、1750年(朝鮮、英祖26年)に再建され、現在のものは1925年に再び建て直されたものである。
極楽殿の中には金銅阿弥陀如来坐像が安置されている。この仏像は国立慶州博物館にある栢栗寺の薬師如来像と共に、新羅時代の金銅仏像の中で最も大きくて優れたものとされている。
金銅阿弥陀如来坐像は、8世紀の作品で、韓国国宝第27号に指定されている。 -
我々は、この極楽殿へは、正面右手から殿上に上がる。
殿上に上がり、上を見上げると屋根下には綺麗な装飾がびっしりと施されている。
十二支の彫刻なども施されている。韓国の十二支は日本と違い、猪の代わりに豚が入る。
その豚の彫刻もあるが、どう見ても豚よりも猪に見える。その理由は牙が生えているからである。
趙さんがその説明を行なうと、他のツアー客の人達も私と同じ思いなのか、みんながどう見ても猪に見えると言う。 -
極楽殿から下りて、この境内の正面門である安養門へ向かう途中に、石台の上に金属製の動物の像がある。
多くの観光客に撫でられ、綺麗な黄金の光沢が出ている。この像も豚の像である。
また、よく見るとこの豚にもはっきりと牙が生えている。
日本人が見ればどう見ても猪である。
しかし、韓国ではこの動物が豚なのである。この豚が韓国では金運を呼ぶラッキーな動物なのである。
趙さん曰く、2007年は600年に一度の“黄金の豚年”であったそうである。
普通、韓国では年を表す時には、十干と十二支(これは日本と同じである)で年を表す。
しかし、この場合は60年で全ての組み合わせがあり、2007年もこの組合せでは“赤の豚年”で“黄金の豚年”ではない。これがなぜ600年の一度の豚年になったかと言うと、これに中国的な陰陽五行(木、火、土、金、水について陰陽2種)が加わり、600年の単位になったのである。
この2007年には韓国で黄金の豚が大流行したそうだ。その豚像を我々も撫でて、お金が溜まる事をお願いする。 -
それから安養門から蓮華橋と七宝橋などを見た後、この境内の左手回廊から伽藍の外に出る。
伽藍の外には、鐘楼が建っている。その場所の横を抜け、伽藍右手の道を下る。
この道は綺麗に石畳が敷かれ、歩き易い。これが帰りの道になっているのである。
この道を10分程歩くと、大きな門が見えて来る。ここが出口である。
この門を潜るとその前には大きな駐車場が広がる。ここに我々の車も止まっている。
ここから次の目的地まで2時間以上かかる予定である。ここでみんなトイレに行く。トイレが済み、車に乗り込む。しかし、この仏国寺で歩き疲れた。車が動き出し、ここからは移動なのでこの時間は寝る事にした。 -
<海印寺(ヘインサ)の門前町での昼食>
車は山間の道を戻り、我々の泊まっていた慶州コーロンホテル前を再び通り、慶州の街に戻る。そして慶州の街を抜け、再び慶州から高速道路に乗る。
ここから当分山間の道路で、景色も然程見る所もなくなり、何時の間にか寝てしまっていた。
次に目が覚めたのは、まだ山間の高速道路を走っている途中であった。1時間以上寝ていた様である。
その後、うとうとしたりはしたが、本格的に寝る事はなく、ぼんやりと外を眺めながめていた。それから15分程で、高速道路を下りる。
ここから暫く、高速道路沿いの道を通っていたが、その後道は山の中に入って行く。左手には綺麗な川が流れている。その川沿いの道をどんどん山の中に入って行く。
その内更に山間に入り、徐々に木々が道路の両側に増えてくる。相変わらず、川は道路左手を流れている。その山道の途中に大きな門が現れる。
この門には、法寶宗刹伽倻山海印寺の文字が見える。この門のところで車が一旦停車する。
ここからは有料なのか?それから車は再び、山道を進む。
この門から5分程で伽倻山の門前町の様なところに到着した。この建物が密集する街中に車が入って行く。そして急な下り坂の途中で車が止まる。ここが、今日の昼食場所の様だ。
ここでまずは昼食を取り、昼食後、海印寺まで少し歩くのである。 -
店の名前はハングル文字ばかりで漢字がないので判らない。料理は旅行日程表によると門前山菜料理となっている。
店に入ると、既に多くの客が店で食事を取っている。我々もその店内で空いているテーブルの席に着く。
テーブルの上には既に多くの料理が小皿で並んでいる。小皿で出ている料理は以下のものである。
①蕨の佃煮
②唐辛子のから揚げ
③空芯菜のおひたし
④茹で栗
⑤茹で木耳
⑥椎茸と人参と葱の和え物
⑦白菜キムチ
⑧茹でしめじ
⑨ほうれん草のおひたし
⑩根人参のおひたし
⑪蓮根の煮物
⑫ウズラ卵の煮物
⑬葱チヂミ
⑭瓜の漬物
⑮きゅうりの漬物
それにご飯と青菜と味噌汁風スープが来た。
小皿のおかずを少しずつ食べながら、ご飯を食べるが、味が濃い物が少なく、ご飯のおかずになる様な物は少なかった。白菜キムチなどは酸っぱく、口に合わない。
隣で食べていた同じツアーのおばさんが、大声を上げている。何かと聞くと、唐辛子のから揚げの大きな塊を知らずに食べたらしく、非常に辛かった様だ。
我々もそれが唐辛子のから揚げなどとは知らず、このおばさんが先に食べていなかったら、我々も同じ失敗をしただろう。
これと言って美味しいおかずもなく、また体調も思わしくない為か、あまり食欲も湧かず、そこそこで食事を切り上げ、出て来たお茶ばかりを飲んでいた。
ツアー客の人達も早々に食事を終え、思い思いに行動をしている。私もトイレに行き、その後店外に出た。
この門前町も温泉が出るのか、至る所に温泉マークが出ている。急な下り坂の途中に多くの店が軒を連ねて並んでいる。食堂だけでなく、土産物屋などもあるが、客はいない。今日が月曜日という事もあるのか、この門前町自体に人が少ない。
暫くすると全員が店の外に集合し、車が到着するのを待つ。
車が現れ、狭い路地の店の前で止まる。しかし、余りにも店側に着け過ぎ、車の中に入り難い。やっとの事、全員が車に乗り込む。
趙さんの説明では、これから海印寺の駐車場に移動するのだそうだ。ここからもう歩いて行くのかと思っていたが、まだかなり距離があるらしい。
車が走り出し、路地から抜け、通りに出る。てっきり上に向かうのだと思っていたら、上って来た道を下り始めた。海印寺の入口を過ぎて、この門前町に来ていたのである。
車が山道を少し下ると、左手の小高いところに建物が見えて来た。その下辺りで車が止まり、ここで全員降りる様に促される。ここから海印寺に歩くのである。 -
<八万大蔵経が納められた法寶宗刹~伽倻山海印寺~>
趙さん曰く、「食後の軽い運動です。」と言う。どれくらい歩くのかを聞くと、30分程だと言う。見えていた建物方向に道を上る。
途中にとある看板を発見する。その看板には“日本人専用シャトルバス乗り場”と書かれている。
わざわざ日本語で“日本人専用”と書かれている。ここからシャトルバスが出ているのである。その事を趙さんに言うが、無視された。我々はどうしても徒歩で上る様である。
丁度、見えていた建物の横に来たが、その建物には寄らず、更に上る。
前方右手に石段が、左手には上り道が見えている。どちらに行くのかと思っていたら、ここで後ろからシャトルバスがやって来た。我々を抜き去り、上り道の方に進む。
そのシャトルバスの後、我々も上り道を上がる。その道の脇でおばあさんが何かを座り込んで売っている。何を売っているのかと覗き込むと、干柿である。
美味しそうな干柿が日本と同じ様に縄に連なっている。趙さんも興味があったのか、何やら聞いている。多分幾らなのかを聞いているのであろう。
しかし、買う事なく、上り道を上がる。上がった所が大きな駐車場になっている。 -
先程上がって行ったシャトルバスはここには、止まっていないので、更に奥に上って行ったのだろうか?この広い駐車場の奥には大きな建物が建っている。
見ると、伽倻山海印寺宝物殿と書かれている。近代的な建物で、最近建てられたものなのであろう。
しかし、この建物には人の気配がない。
我々も、この建物の横を抜け、更に奥に進む。その建物の裏手はまだ工事中である。
この建物横で少し下りとなり、その先には橋が架かっている。
この海印寺に向かう途中、車から見えていた川の上流である。その橋から川を見ると本当に綺麗な清流である。
その橋を過ぎると、木立の中に店が見えてくる。ここが途中の休憩所になっているのであろうか?その店の前には、テーブルが並んでおり、数組の欧米人がそこで何かを食べている。
その売店風の店には、土産物やこの土地の特産品や名物のお菓子類などが売られている。
大々的に宣伝されていたものは、胡桃饅頭である。饅頭というよりは日本の屋台などで売られているベビーカステラみたいな形状のものである。興味をそそられた。しかし、行きでもあり、我慢する事にした。
我々はまだ歩き始めてから、然程経っていないので、ここで休む事なく、更に歩き続ける。
この辺りから道は少し急な坂にかかる。 -
その坂を上り切ると、少し広い場所に出て、ここに看板が立っている。
何と書いてあるのかは判らない。ここからも緩やかな上りで、道が曲がっているので、何処まで上り道が続いているのか判らない。
この辺りは日本で言う自然保護区の中で、遊歩道の様になっており、木々の説明や生息動物などの説明看板が至る所に見える。その看板に描かれているマンガの説明者が熊である。
趙さんに冗談で、「この辺りで一番遭遇する可能性がある動物が熊だから、この看板に描かれているのですか?」と言うと、真顔で、「そうです。」と言われ、ツアー客の一部からどよめきが起こる。
「熊に遭遇したら、どうすればよいのか?」と話し出す人もいた。
その緩やかな上り坂はかなりの間続いた。あまりに長い上り坂が続くので、ツアー客の中で最も高齢の方と思しき人が、「このツアーはかなり歩く事が多いね。」と趙さんに皮肉混じりに言っていた。
私も体調が良くないので、かなり辛くなって来た。それに天気が良く、日差しが更に体力を奪う。
やっと平坦なところに出て、その先にはまた売店がある。
しかし、その先はまた同じ様な緩やかな坂が続いている。この売店には達磨大師の絵などが多く並べられており、これが土産物で販売されている。
その緩やかな坂を上ると、段々左右の木々も鬱蒼とし始め、山の中に入って来た雰囲気が出て来た。しかし、見ると右手奥に車が通れる道がほぼ並行して走っている。 -
途中、大きな石碑などもあり、段々海印寺に近づいて来たみたいである。すると、前方に大きな地図看板が見えて来る。その前に行き、どの辺りなのかを確かめると、海印寺の境内はもう直ぐである。
もう直ぐ、入口の山門である。
ここから大きく左手に道が折れ、更に緩やかに上っている。すると前方に山門が見えて来た。 -
その山門前が広場になり、広場を挟み山門と反対側に世界遺産の記念碑がポツンと建っている。
しかし、この記念碑は今回の韓国旅行で見て来た世界遺産記念碑と少し違う。
思い出すと、今まで見て来た記念碑はハングル文字と漢字で書かれていたが、今回の記念碑はハングル文字だけである。その為に何と書いてあるのかが判らない。冨田君がそのハングル文字を読もうとしていた。
この記念碑をバックにとりあえず、記念撮影を行なう。 -
それから山門に向かう。山門には“伽倻山海印寺”の文字が見え、この門は一柱門である。この門も仏国寺の一柱門と同じく、扉の無い門である。ここからが海印寺の伽藍である。
ここで少し海印寺について説明を行なう。
この伽倻山海印寺は韓国三寶寺刹の一つである。この名刹は、新羅第40代哀荘王3年(802年)に順応と利貞の二人の僧によって創建された寺院である。
美しい渓流が流れる伽倻山南側の深山の中に位置し、『海印』とは“波の動きもない海に、万物の形象がそのまま映るように、煩悩が消えた心には万物の真理もそのまま現れる”という意味の華厳経の海印三昧から引用し、お釈迦様の正しい悟りの世界と、何の汚れもない清浄無垢な本心を表す意味である。
朝鮮時代(1392~1910年)に江華島から八万大蔵経を移した後、「法寶寺刹」とも呼ばれる。
この海印寺と「仏寶寺刹」である通度寺、そして「憎寶寺刹」の松広寺と共に韓国華厳宗の根本道場として知られ、このお寺には現在500人余りの憎侶が修行している。
海印寺が「法寶寺刹」と呼ばれる由縁は、お釈迦様の教えの全てを纏めた経典を保管しているからである。
八万大蔵経(韓国国宝第32号)と蔵経板殿(韓国国宝第52号)を始め、15点の宝物と200点余りの私宝など数多くの文化財と遺跡がある。その為に1995年12月、世界文化遺産に指定された。
境内には、三重石塔と石灯が創建当時のまま残されており、敷地内には90もの堂宇や石塔が点在している。伽藍の中心の建物は大寂光殿である。 -
この一柱門を潜り抜けると、また少し上り道が続き、その途中の右手に朽ちた大木が見えて来る。
趙さんがこの朽ちた大木の前で止まり、この大木が朽ちた逸話を話し始める。
その話はこうである。朝鮮王朝時代、何台目かの王の娘が重い病にかかり、王はその病気治癒の為にこの海印寺の僧侶を王宮に呼び、祈祷を行なう様にお願いしたが、僧侶は王宮に行く事を拒み、その代わりにこの木に繋いだ糸の先をこの病気の娘の指に結ぶ様に王に伝言する。そして僧侶達はこの木の前で病気治癒の祈祷を行なった。
それが効いたのか、娘の病気は治癒した。
しかし、その身代わりにこの木が枯れてしまったと言う話である。
その大木を過ぎるとまた門が現れる。この門が鳳凰門である。門の入口部分の上には、額が掛かり、『海印業林』文字がある。その下を潜り、門内に入ると、柵で仕切られた門内には四天王?の絵が描かれている。
その門を潜るとその先は工事を行なっている。この先には、解脱門があるが、その門は潜れない。 -
鳳凰門の左手に出て、工事を行なっている僧房沿いに境内を進む。その僧房の沿いの道の途中にレンガ造りの壁の様なものが建っている。これが何なのかをその前で趙さんが説明を始める。
これは、オンドルの煙突なのである。今、工事を行なっている僧房のオンドルの煙突である。
オンドルとは床暖房で、通常は台所の窯から出る温かい煙を使用した暖房システムである。
その横を過ぎ、僧房を廻り込み、更に奥の境内に進む。その途中にもオンドルの煙突が幾つか見えている。
境内の左手から、この伽藍の中心である大寂光殿前に建つ九光楼前の広場に出る。 -
度、この海印寺も仏誕祭の準備で艶やかである。大きな牙が6つある白象の人形もある。これは釈迦入胎の象徴である。
九光楼前の広場は、この仏誕祭の提灯で一杯である。その提灯を避ける様に境内の端を通り、一段高い所にある九光楼に上る。この九光楼の右端にある入口からこの楼内に入る。入ったところは部屋になっており、1段高いところに畳が敷かれている。
そこには釈迦の舎利が展示されていた。それを部屋に上がり、見る事が出来た。また、その奥に部屋は土産物屋である。また、部屋の通路脇に八万大蔵経の版木のレプリカも展示されていた。
その後、その楼内から出て、また一段高い場所まで険しい石段を上る。
そこも広場で九光楼前と同様に仏誕祭の準備で提灯棚が造られている。その脇を通り抜け、更にこの寺院伽藍の中心の大寂光殿にまたまた石段を上る。この大寂光殿がこのお寺の本堂である。 -
大寂光殿内は非常に広いが、丁度、読経の最中で中には入れない様である。その大寂光殿の外壁には、この本殿を取り巻く様に釈迦に一生を題材にした絵が描かれている。その絵を見ながら裏手に周り、その裏手中央奥の狭い石段を上がる。
この石段の奥に建つのが、蔵経板殿である。この蔵経板殿も韓国国宝第52号である。
13世紀に作られた世界文化遺産である高麗大蔵経板8万余枚を保管している宝物庫で、海印寺に現存する建築物の中で最も古い建物である。 -
蔵経板殿は、正面が15間にもなる規模の二軒の建物が南北に並んで配置されている。
蔵経板殿の南側の建物が修多羅蔵と、北側の建物が法宝殿と呼ばれ、東側と西側には小さい規模の板殿が位置している。建物は簡潔な方式で造られ、板殿として必要な機能だけ充足させた造りとなっている。
前・後面の窓の位置と大きさが互いに異なっているのも特徴である。これは建物の美しさと、室内の通風や防湿、適正温度維持、陳列装置などを非常に科学的に考えた造りとなっている。
蔵経板殿が伽倻山の海印寺に1488年に建設されてから、一度も火災や戦乱の被害を、全く被らなかった。この事は、保存価値のある八万大蔵経が、そのまま大事に保管されていた事になる。
蔵経板殿は世界唯一の大蔵経板保管用建物であり、海印寺の建築技法は朝鮮王朝初期の伝統的な木造建築様式を残している。残念な事に石段を上り切ったところにある門に、写真禁止の看板が見える。
この中は写真禁止なのである。残念である折角の世界遺産の建物も、八万大蔵経の版木の収まっている様子も撮る事が出来ない。
ここで納められている八万大蔵経について少し説明を加えると、海印寺が法宝寺刹と呼ばれるのは、この八万大蔵経が収蔵されているためである。
八万大蔵経は、蒙古の侵略に対して仏様の力を借りて、国難を克服する事を祈願する意味で、高麗23年(1236年)から16年間かけて完成したものである。大蔵経は仏教の聖典の総称で、仏陀一代の教えの全ての経典と注釈書を指す。総数8万1258枚という膨大な量の版木が保管されている。
版木の全ては、南海や巨済島など、島の地方から取った白樺の木を3年間海水に浸け、乾燥させ引き締めた状態にした後、文字を彫り、更に漆を上に塗った版で、仏教史上最高の経版である。八万大蔵経は、世界記録遺産に登録されており、また韓国国宝第32号でもある。
門を潜り、蔵経板殿の境内に入る。蔵経板殿の建物は塀で囲まれているのである。その塀と蔵経板殿の建物の間は約1mの隙間があり、その蔵経板殿には上下に格子の通気口用の窓がある。上が大きく、下が小さい窓である。反対側はその大きさが上下で逆転していると言う。
蔵経板殿の建物に入ると、そこには監視の為か、2人の寺関係者が立っている。 -
そして、通路のところの格子状の柱の隙間から版木が収蔵されている状態がかすかに見える。日も当たらない暗い蔵内は、版木でびっしりと埋め尽くされており、またひとつひとつが黒いせいか、良く見えない。
目が暗さに慣れてくると、長方形の版木の横の背の部分が並んでいるのが、確認出来た。
九光楼で見たレプリカよりも若干大きい感じがする。しかし、実物が見られないのは残念である。
その通路出口手前にガラスケースが置かれ、その前に人集りが出来ている。何かと思い覗き込むと、この八万大蔵経のひとつの版木で紙に印刷された本物の経文を販売しているのである。
一枚幾らなのかを聞くと、5,000WON(約450円)だと言う。土産物としては高くはない。また、記念品としても丁度良い。これを2枚購入する事にした。1枚は勿論自分用である。
そして中庭の様な場所に出る。蔵経板殿は丁度、“口”型の長方形に建物が建っており、今抜けて来た建物の正面に同じ造りの建物があり、その左右に小さな蔵殿が建っている。
この中庭部分で、ツアー客の夫婦が写真を撮ろうとすると、寺の監視員に注意をされる。
やはり、ここでは写真を撮ってはダメなのである。正面の蔵殿の入口奥には祭壇が組まれ、その前で僧侶が丁度、読経中である。こちらは蔵内を覗けない様だ。
我々は寺の監視員の誘導のより、左手の蔵殿の脇を抜け、この蔵経板殿から出る。
この出口で、みんな写真を撮ろうとしている。ここならは写真を撮ってもOKなのだろうか?
寺の監視員がこちらを見ているが、何も言わないのでOKなのだろう。我々もここで記念撮影を行う。 -
それから再び、境内に方向に戻り、大寂光殿の横に出て、その前の広場を抜ける。
この前の広場には立派な石塔が建っている。これが庭中三層石塔と言われる石塔で、この寺院の石塔の中で最も有名な石塔である。
その後、行きとは反対側の石段から九光楼前に出る。そしてその左手にある梵鐘閣の横を抜ける。
梵鐘閣には、仏具の4つの鳴物が揃えて置かれている。木魚、銅鑼、太鼓、鐘がひとつの屋根の下に集められている。それから行きでも見た6本牙の白象の人形の横を過ぎ、境内左手の道に出る。
丁度、ここには土産物店もあり、その前には自販機もある。先程から喉が渇いて仕方がない。
自販機で何か飲み物を買う事にした。ツアーのみんなは先に坂を下っている。
私だけが自販機前に取り残された。自販機で苺ジュースを700WON(約65円)で購入し、みんなの後を追いかける。
行きは一柱門から鳳凰門を抜けたが、帰りはそれらの門ではなく、左手の道を下る。
そして、一柱門前の広場まで下りて来た。ここで少し休憩を取る事になり、思い思いに写真などを撮る。
富田君に一柱門まで再び上り、その前で写真を撮ってほしいと言われ、その前まで上り、写真を撮る。
同じ様にこの門前や反対側の世界遺産の記念碑前で他のツアー客の人達も写真を撮っている。
休憩も終え、再び歩き始める。
帰りは行きと違い下りなので、比較的歩く速度もみんな速い。私は体調が悪いせいか、先程の苺ジュース1本では喉の渇きが潤せなく、喉が渇いて仕方がない。しかし、自販機も見つからず、当分我慢するしかない。
木立の中を歩き出すと、多少汗も引き、心地よい感じではあるが、さすがに体はかなり疲れている。途中に見かけた売店などの前を過ぎ、木立の中の最初の大きな売店前まで降りて来た。
ここで少し歩みを緩め、店に並ぶ土産物を見ながら進む。
石窟庵の駐車場のあばあちゃん達も売っていた松の葉粉も売っている。ここにはもう1種類少し色の薄い粉も置かれている。何の粉なのであろうか?行きに買いたかった胡桃饅頭もあきらめた。
その売店の前も過ぎ、渓流に架かる橋を渡り、新しい宝物殿の前まで戻って来た。ここから宝物殿前を通り、行きとは逆に石段を下る。
この石段前に自販機があったが、ゴミ箱もなく、また自販機にはお茶や水などのペットボトル類も売っていないので、ここで買うのを諦める。
石段前のここでもおばあちゃんが何かを売っている。何を売っているのか良く判らなかったが山菜類などを売っていた様だ。石段を下りるとその下にも物売りのおばあちゃん達がいた。
そのおばあちゃん達の横を抜け、大きな道まで戻って来た。ここで車にピックアップして貰うのであろうと、思っていたが、趙さんが電話をかけ、門前町の方向に上って行く。
道を5分程上り、趙さんが再び電話をかける。そしてこの中途半端な場所で待つ事になった。どうも下に下りなければならないのに反対側に来た様である。
趙さんもこの海印寺は良く知らないのではないだろうか?
更に5分程待ったところで、車が我々の前を過ぎて行った。何処か上の方でUターンするのであろう。
少しすると車が我々の前に戻って来た。やっと車に乗れる。
車の中が冷えている事を期待したが、残念な事に冷房などは利いていない。
暫く窓を開け、風で汗が引くのを待つしかない。これで海印寺の観光終了である。かなり歩いた。時刻は15時前である。
ここからまた長時間移動して、今晩の夕食場所の大田(テジョン)に向かうのである。 -
<韓国の学研都市~大田~での夕食>
もう山道を下る途中で疲れていたのかうとうとし、寝てしまった。次の目が覚めたのは、どの辺りまで来ているのか判らなかったが、高速道路を走っていた。
それからも、うとうとする事を繰り返し、しっかりと起きたのが、丁度高速を下りる時である。ここが大田である。高速出口に大きな競技場が見えて来る。これは2008年日韓ワールドカップサッカーの時に造られたサッカー場なのである。非常に立派な競技場である。ここで趙さんがここ大田について説明を始める。
大田は都市としては新しく、日本での筑波の学研都市と似ており、多くの韓国の教育機関が集中している都市である。その為に学生と研究者が多く生活をしていると言う。
また、問題も多い都市で、韓国でも教育は競争社会で、優秀な成績を収めると授業料などが免除される事があると言う。その競争に疲れ、精神を病んで自殺する人達があとを絶たないと言う。
日本でも競争は同じであるが、そこまでの事は、現在はあまり聞かない。
その様な話を聞いていると、車は大田の市街地に入って来た。夕方の通勤ラッシュ時なのか、道が渋滞している。
その渋滞に暫く巻き込まれていたが、車は渋滞する大通りから脇の路地道に入る。そしてある店の前で停車した。
ここが今日の夕食場所である。旅行日程表では今日の食事は“サンチュしゃぶしゃぶ”になっている。
車を降り、みんなで店の中に入る。まだ夕食には時間が早いのか、店には他の客はいない。
グループ毎にテーブルに着く。テーブルの中央に鍋がひとつ用意されている。
そしてテーブルには白菜キムチなど数種のミッバンチャンと味噌のつけタレの様なものが既に置かれている。
そして、テーブルにはペットボトルの水も準備されている。
見るとこの料理の日本語の説明書きが置かれている。 -
それによると、これから出て来る料理は、正式な名前は“サンチュサムシャブシャブ”と言い、日本のしゃぶしゃぶと韓国のサンチュサムと言う料理が結合した新しい料理なのだそうだ。
サンチュサムという料理は、サンチュでご飯やおかずを包んで食べる料理である。
鍋に入っているのは鰹だしで、味噌のつけタレと思っていたのは、味噌とピーナッツとマヨネーズで作ったソースなのである。
また、このレストランが“マンナ”という名前の韓食堂である事も書いてあった。
入口のハングル文字では店名が全然判らなかった。
趙さんが飲み物を聞いて廻る。私は置かれている水で充分と思ったが、ここでも烏龍茶を注文する。
出て来たのは小さな缶の烏龍茶である。韓国のレストランではこの小さな缶の烏龍茶が定番なのか、どこでもこれである。
その後、大きな皿が来る。その中央には半分凍り薄く切られた牛肉が盛り付けられ、その周りにはサンチュという野菜(日本名は包菜でレタスの一種)に包まれたご飯が盛り付けられている。その大きな皿が一人前なのである。
早速、鍋も煮立っているので牛肉をしゃぶしゃぶして、特製ソースを付け、サンチュに包まれたご飯にのせて一緒に食べる。特製ソースがなかなか美味しい。少し甘みがあり、牛肉と良く合う。
丁度、牛肉の数とサンチュに包まれたご飯がほぼ同数ある様だ。
しかし、私の皿には牛肉の方が1枚多かった。冨田君は同数である。本当は同数にされているのであろう。あっと言う間に食べ終わった。
すると店員が現れ、「この後、追加料金で麺がありますが、どうしますか?」と聞かれる。
私は体調も悪く、余り食欲もない。冨田君に判断を委ねる事にした。
その結果、我々は麺を食べない事にした。しかし、我々の後に同じ様に他のテーブルも店員が聞いて廻っているが、どこも麺を注文している。
我々だけが早々に食事を終える事になってしまった。後で、二人で食べたら良かったと後悔する。 -
時間もあるので、趙さんに断わり、先程車を降りた時に見つけたコンビニに行かせて貰う。
店を出て、ほぼ店の斜め前辺りにセブンーイレブンがある。そのコンビニに行く。
さすがにセブンーイレブンで、日本のコンビニと店の造りも置いてある品物も同じ様なものが並んでいる。その為に、どこにどの様な物があるのかも大体判る。
私が欲しかったのは、飲物であったので、店奥の冷蔵庫を物色する。すると面白いお茶を発見した。名前はなんと“十七茶”である。日本の十六茶のまがい物か?これを買う事にした。
このお茶は1,500WON(約135円)である。お茶を買い、店に戻る。
まだ他のテーブルは食事中である。麺の感想を聞くと、日本のそばの様でなかなか美味しいと言う。
食べてみれば良かったと改めて思う。
それから間もなくして、全員が食事を終え、飲物の代金などを支払い、店を出る。
車の前まで戻る途中で、ツアー客の人がコンビニへ行っても良いかを趙さんに聞いている。それを聞いて、趙さんがみんなに、「コンビニに行きたい人は行って下さい!」と言う。
私は先にコンビニに行ったので、そのまま車に乗り込む。車で待っていたが、10分以上車の中で待つ事になった。これなら同じ様にコンビニに行けば良かった。
もう辺りは暗くなりかけている。時刻は19時過ぎである。ここから今日の宿泊地である温陽(オニャン)に向かう。ここから1時間弱との事である。 -
<今日の宿泊地~温陽~の温泉施設利用>
車はまだ渋滞の収まらない市街地を抜け、再び高速道路に乗る。
ここでなぜか趙さんの話がキムチの話題になる。
韓国ではキムチには様々な種類があり、その材料などは地方により違う。また、その作り方も家庭毎に違うと言う。また、各家庭にはキムチ専用の冷蔵庫があると言う。
今は無くなってしまったらしいが、昔は各会社が“キムチボーナス”なるものが出ていたそうだ。
薄暮状態の中、高速道路を走る。暫く走ると眠くなり、少し寝てしまう。そして、誰かのトイレに行きたいとの大きな声で目が覚める。
丁度、サービスエリアが近い様である。そこから一番近いサービスエリアにトイレ休憩の為に入る。
私はトイレには行かず、売店を探す為に車を降りる。サービスエリア中央に売店があり、そこでのど飴とアイスクリームを買う。値段の合計は2,800WON(約255円)である。そのまま車に戻る。
全員が揃うのを待つが、一人の女性がなかなか戻って来ない。趙さんが心配して探しに行った。程なく、趙さんに連れられ、女性が戻って来たが、どうも車が判らず、迷子になっていた様だ。
時刻は既に20時を過ぎている。もう温陽に着いていなければならない時間である。
今日の宿泊ホテルには温泉施設があるが、入れる時間までに間に合うのであろうか?
冨田君とその様な話をして、まあ温泉地なので24時間入れる可能性もあるか?と楽観的に考える。
しかし、そこからまだ高速道路を30分程走り、やっと高速を下りた。ここから温陽までは近いのかと考えていたが、周りはすっかり暗くなり、周りに灯りも見えない。まだ、町らしき所ではない。その後、20分程走りやっと灯りが密集する所に着いた。
更に5分程で小さな路地に入り、その先見えて来た塀の中に入る。
ここが今日の宿泊ホテルである温陽グランドホテルであった。ホテル入口で車が止まり、趙さんが全ての荷物を忘れず下ろす様に言われる。
この今乗っている車はこれから釜山に帰ると言う。明日からは別の車に乗り換えるのである。
運転手に手伝って貰い、旅行カバンを下ろす。
その後、ホテルロビーで趙さんのチェックインを待つ。ここのチェックインにはパスポートは必要ない様である。チェックインが終了し、各々のグループにルームキーが渡される。
それとこのホテルの温泉施設利用券1枚も合わせ、渡される。旅行日程表には2回券と書かれていたが、結局入浴券1枚(1回券?)しか貰えない様である。時刻は既に21時前になっている。
趙さんに温泉施設の利用時間を聞くと、ホテルの人に聞いてくれ、22時までだと言う。
あと1時間程しかないではないか?折角、ゆっくりと温泉に浸かり、体調回復が行なえると思っていたが、その時間はない様である。
そして、明日の朝食時間は6時半からで、場所はこのフロント横のレストランである。全員集合して食事を取る様である。食事の集合時間が6時半となった。そして出発時間は8時である。
これだけ聞いてみんな各自部屋に向かう。我々も早々部屋に移動し、冨田君は部屋着に着替え、私はそのままの服で1階の温泉施設に急ぐ。
丁度、1階のフロント横にいた趙さんに温泉施設の場所まで連れて来て貰い、その受付で先程貰った入浴券を見せる。すると受付の女の子が何やら電話をかけている。
我々と同じ様に数人のツアー客も温泉施設やって来た。
その後、電話をかけていた女の子に、中に入る様に促され、中に入るが、その入口にいた男の人に止められる。
利用券を見せろと言っている様であったので、再び受付に戻るとまた女の子が電話をしている。
そして、再度中に入る様に言う。もう一度入ると、電話で受付の女の子から報告があったのか、今度は男の人が中に入る様に促す。風呂屋の番台みたいなところで、タオルとロッカーキーを渡され、その前の脱衣所で慌てて、服を脱ぎ、浴室に入る。浴室は結構広く、入口付近に小さな瓢箪型の浴槽がある。
これには余りに小さいので入れそうにない。かかり湯用の浴槽なのか?その奥には大人4人くらいが入れる源泉浴槽がある。そして一番奥に大きな浴槽がある。その脇にはサウナ室もある。
また、源泉浴槽と奥の浴槽脇の間の通路から外に出られ、そこに露天風呂がある。ここにはうたせ湯もある。
先程、脱衣所でこの温泉の説明書きがあったが、この温泉は弱酸性ラジウム泉で、泉温は58℃と非常に適温に近い。源泉のままでは熱いが、丁度加水する事なく、適温になる温度である。
奥の大きな浴槽で暖まり、その後半露天風呂でうたせ湯に打たれる。それから源泉浴槽で再度暖まり、体を洗う。
体を洗い終え、再度源泉浴槽に入ろうとすると、もうお湯を抜き始め、お湯が先程入った時の半分以下になっている。大きな浴槽を見ると、こちらもお湯がかなり減っているが入れない事もない。
しかし、入るとお腹辺りまでしか来ない。
結局、体が温まらないまま浴室を出る事になってしまう。
脱衣所で、少し時間を潰していたが、我々が最後で入口の番台にいる男性は、我々が早く帰らないかと言う様な顔をして見ている。その視線に負け、急ぎ服を着て、温泉施設を出る。
風邪気味で体調が悪いので、これでは湯冷めするのではないかと心配になる。それもあり、部屋に戻ると早々にベッドに潜り込む。
今日の部屋も昨日とほぼ同様の広さで、然程大きな部屋でない。ベッドも昨日と同様にダブルベッドとシングルベッドである。今日は私がシングルベッドを使用する。
冨田君と明日の起床時間を6時と決め、荷物の整理が済むと早々に私は寝る体制に入る。
それでも実際に就寝したのは、冨田君よりも遅くなり、12時を廻っていた。
体調が悪いので、明日が心配である。そう思いながら就寝した。
今回はここまで! 明日は水原からソウルへ!
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