2011/05/01 - 2011/05/05
311位(同エリア514件中)
パンダ番長さん
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- 旅行記55冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 12,514アクセス
- フォロワー2人
韓国旅行の3日目。温陽から水原を経由してソウルまでの旅程。
世界遺産の水原華城、昌徳宮などを観光。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
<3日目の朝と温陽グランドホテルでの朝食>
朝6時に冨田君が顔を洗いに行く音で目が覚める。
体調はどうかと思ったが、やはり少し熱っぽい、体がだるい感じである。
しかし、頭痛などはない。冨田君が洗面から戻るのを待ち、ベッドから出る。
そして私も顔を洗い、早々に身支度を行なう。
今日は、6時半に朝食の為集合である。時間まで椅子で体を休める。
窓の外を眺めると非常に広いホテルの駐車場が見える。そして、遠くには高層マンション群が見えている。
韓国には本当に高層マンションが多い。
少し早いが、6時20分過ぎに1階のレストランに向かう。1階のフロント前まで行くが、まだツアー客や趙さんは来ていない。レストランはもう始まっている様である。
それでロビーソファで暫く待つ事にした。
6時半を過ぎても、趙さんも来ないので我々だけでレストランに行く。入口受付でルームキーを見せると何も言われる事なく入れた。 -
ここもお決まりの西洋式バイキングである。先に食パンをトースターに入れて、皿にこれもお決まりの料理を取る。
そして焼けた食パンを取りに行く。
それらを持ち、適当なテーブルを置く。その後、飲物としてパインジュースを取り、席に着いて、冨田君が席に来るのを待つ。2人揃い、食事を始める。
料理は野菜サラダと中心にハム、チーズ、ソーセージ、ハッシュドポテト、スクランブルエッグなどを取って来た。
体調も良くないので、出来るだけ多く食べて体力をつけなければならない。食欲がない訳ではないので、詰め込む様に食べる。取って来た料理を食べ切り、更にフルーツを取りに行く。
それを食べ終え、最後に珈琲を入れて飲む。
なんだか食事を取ったので、少し元気が出て来た。我々が食べ始める頃には、同じツアー客の方々が続々現れた。
そして一番最後に趙さんがレストランに現れた。その頃には我々は食事をほぼ終え、珈琲を飲んでいた。
7時過ぎには、我々は先に部屋に戻る。部屋に戻り、今日の出発準備を行なう。
今日は、温陽から利川、水原を経由してソウルに移動する。その観光予定地である資料を入れ替え、必要ない物を全て旅行カバンに詰め込み、早々に準備は完了する。
部屋を出るまで、また椅子で休憩する。出来るだけ体力を温存する。そして、少し早いが7時45分頃に部屋を出て、1階フロントに行く。そしてチェックアウトを行い、またソファでみんなが集まるのを待つ。
私はこのホテルの外に出て、ホテルの写真を撮る。 -
写真を撮り終え、ソファに戻る。すると何組かのグループは既に集まっていた。その後、趙さんも現れ、みんなが揃うと予定よりも早く、ホテルを出て、今日の車に乗り込む。
車は昨日と同じ、コミューターで色は黄色とこげ茶色のツートンである。
我々も乗り込み、同じ様に最後尾に座る。ここで移動中は出来るだけ休養する事にした。しかし、昨日までの運転手は運転が荒く、寝るのも一苦労であったが、この運転手はどうであるか? -
<温陽から利川(イチョン)への道中>
車は昨晩ネオンで艶やかであった、温陽の温泉街を抜けて、郊外に向かう。
この温陽は趙さんの説明よると朝鮮王朝時代の歴代の王が保養や治療の為に訪れたと記録に残る韓国では有名な温泉地なのだそうだ。
あのハングル文字を発明した世宗大王もこの温陽に目の治療の為に王妃などと共に来た事が記録されている。
この温陽は、朝鮮王朝時代の王様の別荘地で、『温宮』とも呼ばれていた。
また、ここは韓国の“聖雄”である李舜臣将軍の故郷である。
ソウルの中心地、光化門交差点にはこの李舜臣将軍の銅像が立っている。世界の海戦史上に残る偉大な提督の一人である彼は、韓国人に最も尊敬される歴史上の人物なのだそうだ。
1592年に始まって7年間も続いた文禄・慶長の役(壬辰倭乱)は、「静かな朝の国」の朝鮮にとって絶体絶命の危機であった。この運命の岐路で国を救ったのが李舜臣将軍である。
彼は勇敢で知恵があり、国と民族を深く愛した人物として知られ、彼の名前の前に「聖雄」という修飾語が付く所以である。
その李舜臣将軍を模ったのか、温陽の街中を流れる川に架かる橋の欄干の街灯にも、将軍像の彫刻が施されている。
その後も車は高速に乗る事なく、一般道を走り続ける。
冨田君にその事を話すと地図を見て、利川までは、高速道路には乗らず、一般道で行く可能性があると言う。
移動時間は寝るつもりであったが、朝一番でもあり、寝る事なく車窓をぼんやり眺めていた。
景色は日本の郊外と変らない。しかし、良く見ると郊外の1軒屋は全て塀で囲まれている。
韓国の昔からの家は塀で囲まれている様である。
その内に前方に新しい高架の線路が見えて来る。日本の新幹線の高架線路に似ている。
これはもしかすると、韓国の新幹線であるKTXの線路ではないかと思い、その事を冨田君に言うとまた地図で確かめていた。そして、「そうかも知れない。」と地図を見せてくれる。
それを見ると確かに今向かっている方向に交差する様にKTXが通っている。
この一般道を1時間近く走り、安城と言う大きな都市に到着した。そこから高速道路に乗る。地図で見ると一般道を北東に走っていたのである。ここから東に高速道路を走り、途中、ジャンクションで北に進路を変える。この高速道路を30分程走る事になった。
高速道路沿いの景色を眺めていると、何やら小高い山などの中腹に、小さな古墳の様なこんもりとした盛り土が所々に見える。これはお墓?と思いつつ眺めていたが、決められた場所ではない様である。
一つだけあるものや幾つかが塊ってある場合がある。それが現れる度に気になって来た。これがお墓なら韓国は今も土葬なのかも知れない。
後で趙さんに確認するとやはりお墓だった。それと韓国はやはり土葬の習慣があり、今でも半分くらいは土葬が行なわれていると言う。しかし、韓国政府は土地などの不足を考え、火葬を推奨しているのだそうだ。
高速道路を30分程走り、利川南と言う出口を出る。ここからはもう目的地は近い様である。 -
<利川の窯元見学>
高速出口から一般道を進む。途中大きな陶器市場の様な場所を抜け、家が並ぶ路地に入ると今日最初の目的地である利川の窯元に到着した。
この利川は、韓国京畿道の東南部に位置し、ソウルから60km程離れた場所にある。
南漢江の支流が流れる地域で、水に恵まれているため昔からの米どころとして知られているそうだ。また、桃の産地としても有名なのだそうだ。
この利川市内に多数の窯元が集まっているので、陶窯地としても有名で、その数や規模は韓国一と言われている。
その多数ある窯元のひとつに来ている。ここは、漢青陶窯と言い、ここの陶芸家は金福漢と言う人である。
車がこの窯元の入口で止まり、みんなが降りる。そして、この窯元の店員に敷地内に案内される。
ここの店員は非常に日本語が上手である。趙さんよりも上手である。
この店員にまず、奥にある窯のところに案内される。そこには大きな登り窯がある。
五段に分かれた窯である。この窯は斜面に窯を形成し、下の窯から火を入れ、その対流ガスで徐々に上の窯の温度が上がり、その温度が一定になる窯である。歴史は古く、古墳時代からあるそうだ。
その窯から、その隣に建つ建屋に入る。ここが工房で、入ったところに中年男性が轆轤を回し、何かを製作中である。この轆轤を回している人は金福漢先生の息子さんだと言う。 -
店員さんの説明によると、この金先生は忘れさられて行く青磁の翡色を生み出す技術を受け継いだ最も有名な青磁作家なのだそうだ。日本でも数々の陶磁器展に出展している韓国有数の陶芸家との事。また、最近では2005年の愛・地球博―愛知万博の韓国館に出展されたそうである。
その奥では観光客が素焼きの陶器に絵入れを行なっている。
そして、建屋を出て、入口近くの建屋に移動する。ここは作品展示室兼売店である。様々な作品が展示・販売されている。
非常に芸術性の高い物や簡単な土産物まで様々である。写真を撮ろうとすると店員に止められた。ここでは作品を写真に撮ってはいけないのである。
作品の中にはその厚みが1mmと言う薄さの青磁があり、光が透けて見える。
また、透かし彫りの様に2重に彫刻された青磁が置かれている。これは凄い技術である。
どの様にこの作品を作るのかと思っていたら、店員が教えてくれた。
これは、粘土で全体の形状作成時に外と中の作品を作成し、それの外の物を2つに割り、中の物を入れ、2つに割った外の部分を引っ付けると言う。作品が上手く出来る可能性は低いそうだ。それ程難しい物なのである。 -
陶器には興味がないので、余り見学していても値札の桁の多さのみが気になっただけである。
しかし、旅行前にここで購入使用と考えていたお土産がある。それは豚の置物である。
仏国寺のところでも書いたが、韓国では豚は金運を呼ぶ動物なので、ここでもその豚の置物が作られている。その置物を探して買うつもりである。
丁度、この売店のレジ近くにその置物が多数置かれていた。大きな物から小さな物、また様々な表情の物など多種あるが、それなりの価格である。
また、日本人向けなのか蛙の置物も多い。日本の陶芸産地のお土産でよくこの蛙の置物を見る。
どれをお土産に購入するか、適当な物を探す。
丁度、3つで13,000WONと書かれた小さな豚の置物を選ぶ事にし、表情の違う物を3つ選ぶ。それを持ち、レジに行く。そこで値段を12,000WON(約1,090円)におまけして貰った。
その後、レジ横で振舞われたコーン茶を頂く。それから外に出て、中庭に無造作に置かれた青磁の作品を見て廻る。
中では他のツアー客の人達が高額品を購入しようとしているのか、価格交渉に盛り上がっている。
それも修まり、全員が外に出て来たところで車に戻る様に趙さんに促される。車に乗り込んだか、車が動かない。
見ると、真後ろに車が止まっている。その車が移動するのを暫く待つ事になった。
その後、先程の道を戻る。あらためて道沿いを見ると、陶器を販売している店が並び、大きな甕なども見える。色も茶色や黒色など様々である。
この利川は青磁だけではないのである。あらゆる陶器が製作されている街なのである。
その店々の横を抜け、再び高速道路に乗る。ここから次の目的地の水原(スウォン)に向かう。 -
<水原の街を囲む世界遺産の水原華城>
次の水原の華城は、今回の韓国旅行の世界遺産見学の中でも最も楽しみにしている場所である。
時刻は10時15分過ぎである。ここから水原までは約1時間かかる予定である。
当分の間、高速道路を走る事になる。やはり体調が良くなく、体がだるくなって来た。そこで水原までは寝る事にした。寝る体制に入ると直ぐに寝てしまう。
そして目が覚めたのは高速道路を下り、水原の街に向かう一般道であった。既に街の中に入っている。すると前方に楼閣が見えて来た。これも水原華城の一部である。
その楼閣を潜り、更に街中に入る。周りを見ると、ところどころに城壁が見えている。
この街中を少し走ると大きな楼閣の脇に到着した。この前で車を降りる。
ここがこの水原華城の北の門である長安門である。
この長安門の下で趙さんの入場手続きを待つ。その間にこの水原華城の世界遺産記念碑を探すも、今までの世界遺産の様に石碑が見つからない。 -
仕方なく、この水原華城の説明看板に世界遺産マークが付いていたので、それを写真に収める。
趙さんが戻り、この水原華城のパンフレットを手渡され、水原華城についての説明が始まる。
水原華城は李氏朝鮮王朝末期に造られたものである。
李氏朝鮮第22代国王・正祖が老論派の陰謀により非命に倒れた父(荘献世子)の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移し、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めた。これが華城である。
この華城建築の際には。当時の朝鮮城砦建築技術の粋を集め、そこに西洋技術も合わせ、造られた。
華城行宮という王様の別邸を中心に、全長5.7kmの万里の長城の様な城郭と、その要所要所に門、砲台、櫓、兵士の休憩所、軍事指揮所、訓練所などを東西南北に整然と組み込んだ素晴らしい建造物である。
華城は1997年に世界遺産に指定されてから修理復元も急ピッチで進み、気軽に見学出来る様に整備された。築城時には48あった建物の内、現在41が復元されていると言う。
そして趙さんが西の山の頂上を指差す。あの山が八達山で、あそこに見えているのが西将台で、この水原華城で最も高い所なのだと言う。案内パンフレットを見ながら、その場所を確認する。
西将台は山の頂上で、ここからかなりの距離がある。全てを見て廻るには、半日以上かかりそうである。今日の見学時間では到底全てを見て廻る事は出来ない。しかし、是非また来れれば、全部見て歩きたい。
趙さんの説明では、我々の観光は、この長安門から東の門である蒼竜門までである。
蒼竜門まで歩いて見学を行なうのである。 -
まずは目の前の長安門に上がる。城壁脇の石段を上るのであるが、この石段がまた、おかしな階段である。
ひとつの段の高さが異常に高いのだ。こんな高かったら、スムースに上がれない。
我々も大股で一段一段歩を進める感じで上る。復元の際に石の大きさを間違えたのではないかと思うくらいの高さである。当時の韓国人がそんなに大きかった訳でもなく、こんな階段では重い甲冑を着た兵士は上がるのに一苦労だったのではないか?
長安門の上がると、ここから続く城壁が良く判る。起伏の多い地形なので、そんなに遠くまでは見えない。
長安門から城外を見ると、城壁沿いに可愛らしい乗り物が現れる。
龍の頭の自動車に引かれた客車が走っている。先程貰ったパンフレットには華城列車と書かれている。 -
路線も書かれているが、これから向かう東将台前から西の西将台の麓までの間で運行されている。これに乗れれば、楽に観光が出来るのではないか?
長安門から北東敵台に移動する。ここからも非常に眺めが良い。その後、北東雉から北東砲楼に歩く。この辺りの城壁は万里の長城に模した造りになっている。
随所に鉄砲狭間が並んでいる。北東砲楼には入る事が出来ない。砲楼なので、中には大砲があるのか?
更に城壁を進む。ここで趙さんがこの城壁の旗について説明をしてくれる。 -
今の城壁の旗の色は、黒色でこれは北側の領域を現しているのだそうだ。東西南北で旗の色が変化するのである。黒色の旗はまだまだ続いているので、まだ北の領域なのである。
その先に大きな楼閣が見えて来る。これが華虹門である。 -
そしてその下を流れているのが、水原川である。この華虹門は水原華城唯一の水門である。
水原市の北側から流れ込んで来た水原川は、ここを通って城内に流れ込む。
この楼閣の名前が華虹門であるのは、この川の水量が増した時に、この水門では虹が発生した事から付けられたと言われている。今はその水量も少なく、この門の少し離れた所で、人工的に水をこの川の両側から噴水の様に噴出させ、人工的に虹を発生させる為に行なっているのか? -
ここで暫く休憩し、再び歩き始める。そして北暗門の前に来た。
この北暗門は非常時の抜け穴で、通常は使用しない門だそうだ。この城内に立て籠もった際に、城外から秘密裡に物資の搬入などを行なう為の門である。使用後は中から頑丈に鉤が掛けられ、また場合によっては石などで塞がれると言う。 -
この北暗門から城壁沿いに戻ったところに東北角楼の訪花随柳亭が、少し小高い所に建っている。
この楼閣は中に入れる様になっている。
訪花隋柳亭は水原城随一の景観を誇る場所で、元々は見張り台かつ兵士の休息所であった。
訪花隋柳亭は他の建物と一風違っていて、小高い丘の上に建っており、その下には龍池が造られている。
中に入ると、然程広くないが兵士が20人くらいは駐屯出来るスペースがある。
見張り台と言うだけあって、眺めが良いが今日も黄砂が酷く、視界が靄っているのが残念である。
亭内は風通しも良く、非常に心地よい。ここで暫く休憩した後、再び塀沿いに歩き出す。
ここから先程の北暗門までは下りであるが、そこから急な上り坂になっている。
上り切った城壁の旗の色が黒色から青色に変った。ここからは東の領域になる。
ここから再び下りとなり、東北舗楼の前を通り、東暗門に至る。 -
この辺りは城壁の外は現在整備工事を行っている。公園にでもなるのであろうか?
東暗門は先程の北暗門に比べ、規模が大きい。また構造も少し違っている。この門の城壁上から2方向から下りの階段があり、その下に小さな門が存在する。城壁内から見ると地下に門が造られている感じである。
この東暗門付近から城壁から離れ、東将台(練武台)の入口門に向かう。この東将台の塀沿いに歩き、来た方向とは反対側に廻る。その東将台の横の芝生地では多くの人が弓を弾いている。
その横を通り、東将台の入口門に到着する。この東将台は西の西将台の指令本部と一対になっている。
また、ここは韓国ドラマの『イ・サン』の撮影場所にも使用された場所である。『イ・サン』とは、李氏朝鮮の第22代国王である正祖ことである。
この東将台は兵士を訓練した所で、錬武台とも呼ばれている。そして、この横のなだらかな丘の芝生の広がった土地は、まさに訓練場そのものである。 -
現在は先程見てきた韓国式弓道の練習場になっている。この練習場は一般の人でも会員になれば、弓の練習をさせて貰えるそうだ。
再び、入口門から出て、弓の練習場前に戻る。弓を弾いている人を見ていると、100m程先の丘の中腹に置かれた的を目掛けて射ている。これは中々難しそうである。
趙さんに聞くと、殆どの人はこの韓国式弓道のプロだと言う。
その練習場の建物を廻り込み、その先にあるトイレ前に移動する。ここでトイレ休憩を行う。
行けなかったが、この東将台の先には、また城壁沿いに歩け、東北空心墩の楼閣が見えている。また、トイレの後側には、東の門である蒼竜門が見えている。その場所にも行かない様である。
何故なら、駐車場がこの東将台の前にあり、そこに車が止まっている可能性が高いからである。
案の定、トイレ休憩が終わり、向かった方向はその駐車場である。
駐車場で車を見つけ、乗り込む。時刻は12時過ぎである。ここから昼食場所に移動する。 -
<昼食の石焼ビビンバと絶賛チヂミ>
今日の昼食は旅行日程表では石焼ビビンバである。
駐車場から車は城壁を抜け、城外に出る。ここから昼食場所は近い様である。
昼食場所へ向かう途中の車内で、趙さんが今晩のオプショナルツアーについて説明を始める。そのオプショナルツアーは“NANTA”と言う劇である。韓国では非常に人気のある劇で、包丁やフライパンなどの調理器具を用いた演奏などを行うと言う。
確かに観光ガイドなどにもこのNANTAは載っていた。幾らなのかを聞くと、送迎付きで88,000WON(約8,000円)だと言う。冨田君と相談し、参加する事にした。
オプショナルツアーでは、冨田君は韓国式サウナの“チムジルバン”にも行きたいと言っていたが、ソウルは2泊出来るので、“チムジルバン”に行くのであれば2日目に行く事が出来る。
その様な話が終わると昼食場所に到着した様である。店の看板を見るが、ハングル文字で判らない。 -
内は然程広くはないが、ほぼ満席である。
テーブル席と座敷席があり、我々は座敷席の一番入口よりの席に案内される。
座敷席にグループ毎に対面で座る。既にミッバンチャンが4種類テーブルに用意されている。ミッバンチャンは白菜キムチ、茹でもやし、沢庵、薄い揚げ天の様な物である。
まず、飲物を聞かれる。テーブルにペットボトルの水が置かれていたので、私はここでは何も頼まなかった。
その後、メイン料理の石焼ビビンバが熱せられた石鍋に入って出て来た。これにお好みでコチュジャンを適量入れて、混ぜる。ジュージュー言うのが治まるまで混ぜた後、熱い内に食べ始める。
それを食べている途中で、店員が「チヂミを食べませんか?」と聞いて来る。
この店のもう一つの名物なのだそうだ。冨田君と相談し、2人で1枚お願いする事にした。
注文すると直ぐに皿に乗ったチヂミが出て来た。焼きたてである。少しイメージと違ったのは、薄いお好み焼状のチヂミの上に、小さな種類の違う野菜のチヂミが多数乗っていた為である。
出来立てなので非常に美味しい。店員がチヂミといっしょに持って来たタレを少し浸けて食べると更に美味しい。
これは“当り”である。今までの韓国料理の中で私にとっては一番口に合う料理である。
それらを食べ終わり、水を最後に貰い、食事を終える。それにしてもこのお店は繁盛している。次から次に団体客が入って来る。我々も食事を終え、早々に席を立ち、レジで飲物とチヂミ代の支払いを行なう。
冨田君にビール代とチヂミ代を含めた支払いを行なって貰い、出口付近で精算を行なう。チヂミ代は20,000WON(約1,800円)である。10,000WONを冨田君に渡す。
見ると出口手前で、先程食べたチヂミを焼いている。ここで焼いた物を出してくれたのである。
車に乗り込み、これからソウルに移動する。ここからソウルまでは1時間弱との事である。 -
<ソウルの街中にある公園~朝鮮王陵:宣陵と靖陵>
次の目的地はソウルにある朝鮮王陵である。
お腹が満腹になり、車に乗り込み、走り出すと何時の間にか、寝てしまっていた。今回の旅行は体調が悪いせいか、移動中に寝る事が非常に多くなっている。
目が覚めるともう既にソウル市内で、高層ビルが立ち並ぶ中を走っていた。もう少しで朝鮮王陵に到着する様だ。
車がビル群の中にある公園の様な場所に止まる。ここが朝鮮王陵の宣陵・靖陵である。
車から降り、この朝鮮王陵の宣陵・靖陵の入口に向かう。入口で趙さんの入場手続きを待つ。
入場手続きも済み、みんなで中に入る。入った所で趙さんが立ち止まり、みんなに相談を持ちかける。
旅行日程表では、ここで靖陵を見る事になっているが、趙さんのお勧めは宣陵の方で、こちらの陵墓の方が近くで見れると言う。みんながそちらで良いと言う事になり、ここでは靖陵ではなく、宣陵を見に行く事になった。入口から左手の方に向かう。直ぐに世界遺産記念碑が見える。 -
王陵内は奈良公園の様に大きな木々が生い茂っている。
暫く行くと、鳥居の様なものが見えて来る。これが紅箭門である。この紅箭門は本当に鳥居に似ている。事実、左右の柱の頂上に鳥の彫刻がある。中央には大極模様が描かれている。
ここからが神聖な領域を表す象徴の様な門である。
聞けば、この紅箭門はやはり日本の神社の鳥居の起源である可能性があるものだと言う。これが日本に伝わり、鳥居に変化したという説もあるそうだ。
そして、ここから石畳の道が続いている。これが参道である。
この先には小さな建物が見える。これが丁字閣という建物である。
その前に紅箭門を潜った直ぐ右手に四角の石畳が敷かれた場所がある。
この前で趙さんが説明を始める。ここはべウィと言い、この陵墓で祭祀が行われた際に、ここで王や一部の高官が拝礼を行なった場所であると言う。その他の臣下は門の外で拝礼を行なったそうである。 -
そして、前に見えている丁字閣に向かう。参道を通り、丁字閣に行くが、この参道を良く見ると、右側の少し低い部分と左側の少し高い部分に分かれている。そして少し左側が広い。
これは何か理由があるのではないか?
後で調べると、この参道の左側は霊魂の通り道なのだそうだ。
また、紅箭門と丁字閣までの間が、俗界と聖域が交わる場所になっている。
丁字閣は祭祀が行なわれた場所で、面白い事に参道からの上り口がなく、その正面右手に2つに分かれた階段があるのみである。この階段にも意味があり、上りは霊魂といっしょに上がり、下りは参拝者だけになる為だそうだ。
丁字閣の中を覗くと中央に机と椅子が、その右横にお供え物を置く台らしき物があるだけである。 -
また、この丁字閣の横にお供え物などを準備した守僕坊と、陵墓の碑が納められている碑閣が右手に建っている。
この丁字閣から公園内の道を進み、宣陵下まで来る。そして、この宣陵横を過ぎて更に奥に進み、途中から坂道を宣陵に戻る様に上り始める。
そして、上り切ると宣陵の横に出て来た。陵墓の3方向が塀に囲まれている。その塀の横に来た。ここからは柵が設けられており、これ以上は入れないのである。
ここで趙さんがこの宣陵の説明を行う。この宣陵は朝鮮王朝第9代王である成宗のお墓である。実際はその継妃である貞顕王后の陵墓を合わせた陵墓の事である。今はその成宗の陵墓に来ている。
その様な説明を聞き、陵墓を見ているとこの陵墓の管理を行なっている人が、この柵を開けて、中に入って良いと勧められる。
聞くと、1日に一度、陵墓の手入れの為に、柵を開け、その時は観光客も中に入れるそうだ。日により、手入れの時間はまちまちなので、その時間は定まっていないと言う。
非常にラッキーである。趙さんも中に入ったのは初めてだそうだ。
中に入り、陵墓の前に建つ石像などが身近で見学出来た。
陵墓に向かい、左手に武官の石像が、右手には文官の石像が2体ずつ立っている。また、その脇には小さな馬の石像が控えている。 -
その武官、文官の石像の奥には中央に石塔?(石灯篭)が立ち、陵墓の前には、祭壇の様な石のテーブルがある。これは魂遊石と言い、祭壇の様に見えるが、そうではなく、この下には石室に繋がる通路の入口があり、地下の密室を封印した門の役割をしている。この一番上のテーブル状の石を太鼓に似た鼓石と言う4個の石で支えている。
また、陵墓を囲む様に様々な動物の石像が周りに配されている。虎、象、羊などの像が見える。
さすがに中へは入れて貰ったが、誰も陵墓の前までは行く勇気がないのか、誰も行く人はいない。
この武官や文官の前などで各々記念撮影を行い、この場所を後にし、先程の坂を下り始める。
公園内は木陰が多く、また少し風もあり、非常に心地よい。
聞くと、この近くのOLなどの休息場所として非常に人気のスポットなのだそうだ。
大きな木々が多いが何の木か気になり、聞くが趙さんも良く判らないと言う。
しかし、少し公園内を歩くと、名札の付いた木があり、それを趙さんに読んで貰うと、白樺の木だと言う。日本で見る白樺の木々とは少し違うが、言われて見れば、葉などはそれに似ている。また、緯度的にも白樺があってもおかしくはない。
その後、ゆっくりと公園内を入口に移動する。入口手前でトイレ休憩を取り、殆どの人がトイレに行く。時間の都合上、靖陵には行けない。
なぜ、旅行日程表は靖陵になっていたのかと考えたが、あくまで想像であるが、これも韓国ドラマの影響なのではないか?
靖陵は、日本でも人気のあった韓国ドラマの『宮廷女官チャングムの誓い』に登場した第11代王中宗の陵墓なのである。日本人には、この中宗の方が、馴染みがある事から旅行日程表にはここを見学する事になっていたのであろう。
トイレ休憩も終え、先程の入口を出て、前の道路脇に止まる車に乗る。
乗る前に電話をしている趙さんの写真を撮ったら、撮られるのが嫌なのか、制止されたが、もう撮った後であった。
車に乗り込み、次の目的地に移動する。次は昌徳宮(チャンドックン)である。
時刻は14時45分頃である。 -
<朝鮮王朝の華麗な離宮:昌徳宮>
ここから昌徳宮までは30分以上かかる様である。
ここで趙さんから、これからの予定の説明が始まる。
これから昌徳宮から昌慶宮を見学し、免税店に立寄った後、南大門市場に行き、夕食となる。
その後、オプショナルツアーのNANTAに行く人はNANTAにそれ以外の人はホテルに行くのである。
また、明日の予定も言われたが、我々2人以外は明日が帰国日なのだそうだ。
4泊5日のツアーは我々だけである。その為に我々以外の明日の予定は発表されたが、我々は趙さんに後程と言う事になった。
ソウルの市内を走り、約40分で昌徳宮の駐車場に到着した。車を降り、左手に見えている門に向かう。
その途中で趙さんが入場手続きを行い、門の正面に廻る。
これが昌徳宮の正門である敦化門である。ここで少しこの昌徳宮の説明を行なう。 -
この昌徳宮は、芸術的な建物が多数残る、李氏朝鮮時代の政治の中心的な場所である。
14世紀後半から20世紀まで続いた李氏朝鮮時代、その華やかな時代を現在に伝える王宮の中でも、最も美しい景観を持ち、見る人を魅了する。
昌徳宮は1405年に、正宮である景福宮の離宮として建てられた宮殿である。
景福宮の東側に位置する事から隣にある昌慶宮と共に東殿と呼ばれていた。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)で全ての宮殿が焼失したが、1615年に第15代王光海君が再建し、景福宮が再建されるまでの約270年間、正宮としての役目も果たした。朝鮮の宮殿の中でも王が最も長く住んだ王宮である。
他の多くの王宮が戦争や火災、あるいは植民地時代の日本の支配によって本来の姿を多く失っているのに対し、昌徳宮は保存状態がよく李氏朝鮮時代の趣や生活様式を色濃く残している。
敦化門も壮大な門である。門の装飾の色使いがまた日本や中国などとも違い新鮮である。
この敦化門は昌徳宮の正門として1412年(太宗12年)に初めて建てられた。
現在の門は1609年(光海君元年)に再建され、現存している宮殿の正門としては最古のものである。李氏朝鮮時代には2階の望楼に鐘と太鼓があり、時間を知らせていたというが、今は残っていない。
その敦化門を潜る。入った正面は塀が見えているだけで、真直ぐ宮殿に続いていない。
少し歩くと、右手に橋が現れる。これが錦川橋である。
敦化門があるが、この錦川橋がこの王宮の入口である。この橋は、1411(太宗11年)に造られ、現在ソウルに残っている最古の石橋である。橋の手摺には動物の模様が彫られている。川中の南側にヘテ、北側に玄武が居て、橋を渡る人の邪気を払う役目をしている。当時、橋の下を流れていた川は、今は影も形もない。
この橋から道は右手に折れる。そして前方にまた門が見えて来る。これが進善門である。 -
左手塀の途中に門がある。この門が仁政門で、この奥に仁政殿がある。
仁政殿は王の即位式、臣下の朝礼、外国使臣の接見など、国の宮内外の重要な公式行事が行なわれた場所である。 -
仁政殿は昌徳宮の中では最も規模が大きく、その殿内部装飾も非常に凝っている。
また、仁政門から仁政殿に至る石畳には朝礼の際に各官僚がその爵位の順に並ぶ場所の表示がある。当時の臣下の朝礼の様子が偲ばれる。
殿内には玉座があり、その後には日月五山図がある。この絵は権力の象徴図なのだそうだ。
中は多くの電球?が天井からぶら下がっている。 -
その後、この仁政殿の右手塀にある出口から隣の建物の前に行く。ここには他の建物とは違い、青い屋根瓦の乗った建物がある。これが宣政殿である。
この宣政殿は、王が日常の国事を議論したり、学者や官僚が儒教の経典や歴史を勉強したり、儒生達を集めて試験をしたり、宴を行なったりした公式の執務所である。
この宣政殿内にも机とその後に日月五山図を描いた屏風が置かれている。
その後、その横にある煕政堂に行く。ここはもともと王の寝殿だったが、後に御前会議室として使われた。
1917年の大火災で焼失し、今の建物は1920年に景福宮の康寧殿を移して建てられた。その内部を覗くと、多くの机が並んでいる。その机がひとつひとつ違う。ここに置かれている家具は西洋式のものが多い。
また、この煕政堂は石の基壇の上に建てられている。
これはオンドルの為である。この基壇の部分にオンドル設備が隠れている。建物横にはそのオンドルの為の扉がある。それから奥の大造殿前に出る。
この大造殿は王と王妃の寝殿であり、王とその家族が生活した中宮殿でもある。
1917年、火災に遭い1920年に景福宮の交泰殿を移して建てられた。ここで最後の王である純宗が崩御したのだと言う。
ここでは、王妃が使用したベッドを見る事が出来ると言うので、その正面左手の部屋を覗きこむ。
すると龍の装飾が施された重厚なベッドが部屋の中央に置かれていた。 -
西洋式のベッドを想像していたので少し違った。
また、その左手にはこの王や王妃の食事を作った厨房(台所)がある。この厨房はスラッカンと呼ばれているそうだ。この厨房は西洋の建築様式で造られている。「スラ」は王の食事を高めて表現した言葉で、「スラッカン」とは王の食卓の事である。
当時の王は、朝食と夕食の他に3回の間食があり、シッケ(朝鮮半島伝統の発酵飲料)やお茶、果物類を食べていた。
スラッカンには12種のおかずが並べられ、食事の時は女官4人が付き添い手伝ったと言う。
彼女らは食事の前、王が食べる全ての料理を試食し、毒見をした。
王の食事には毒物に当ると色が変わる銀製の箸が使われたそうだ。
このスラッカンの中を覗くと近代的な西洋式の厨房で、石造りの流しや水道などがある。また、大きな竈も並んでいた。 -
その後、大造殿の裏手を通る。その裏手には階段上に花壇が造られ、大きな木々や花などが植えられている。
ここでツアーにハプニングが起こる。ツアー客のひとりがいない事が判明した。
そこで遅れているのであろうと言う事になり、ここで暫く全員待っていたが、現れない。
この昌徳宮で迷子になった様である。迷子になったのは、1番年寄りの老人である。夫婦で来られていたが、夫人だけがみんなに付いて歩いていた様である。趙さんと数人のツアー客の人達が探しに戻る。我々は更にここで待っていたが、趙さんが戻り、諦めて見学を続ける事になった。
放っておいて良いのかと思ったが、趙さんについて煕政堂の横を過ぎた頃にツアー客の人が迷子になっていた人を発見した。その迷子になっていた男性も無事に合流し、誠正閣の前に出る。
この誠正閣(または内医院と呼ばれる)は、世子(第一王子)が学者達と儒教の勉強をした場所である。
その後、更に奥にある建物に向かう。ここが楽善斎である。
この楽善斎は1847年に後宮の処所として建てられた。
王の死後、王の妾(めかけ)や女官などが残りの人生を送っていた場所である。
日本の梨本宮家から最後の皇太子である李垠に嫁いだ方子(まさこ)が、晩年を過ごした場所でもある。
まず、長楽門と言う門から中に入る。楽善斎の中心には、簡素な建物が建ち、先程まで見て来た建物とは少し雰囲気が違う。派手な装飾がなく、非常に質素な感じの造りである。
この中心的な建物から回廊が延び、その回廊上に部屋が並んでいるが、ひとつひとつの部屋が非常に小さい。
また、ここも石の基壇に建てられ、オンドル設備が設けられている。
変った物では、部屋の前の階段の先に、また小さな石段?がある。何の為に使用したのかと言うと、女性が馬に乗る時に使用した踏み台である。
この楽善斎一帯を見学した後、一旦その前辺りで休憩を取る。
この昌徳宮には、先程の大造殿の裏に広大な庭園があり、その中にも幾つかの建物が点在するが、そこは見学しない様である。
これから、この昌徳宮の東に位置する昌慶宮(チャンギョングン)に行く。 -
<もうひとつの離宮:昌慶宮>
楽善斎の東端の出口から昌徳宮を出る。そして昌慶宮の入口に向かう。
昌慶宮の裏門に当る含陽門が入口になっている。この前でまた趙さんの入場手続きを待つ。
そして、趙さんに続き、門を潜る。そして一段低い位置に並ぶ宮殿の建物に向かう。
昌慶宮は荘重な雰囲気と豊かな自然が見事な調和を成す宮殿である。
昌慶宮の歴史は退位した父の太宗が穏やかに後世を送る場所として、1418年に朝鮮王朝第4代王の世宗が建てた寿康宮に始まる。
その後、1484年に第9代王の成宗が、祖母の貞熹王后、生母の昭恵王后、養母の安順王后の3人が住む為の別宮として再建され、名前も現在の昌慶宮となる。1592年の 文禄・慶長の役(壬辰倭乱)ですべての建物が焼失、1616年に再建後も大小の火災に見舞われ、その都度復旧が重ねられた。
日本による植民地時代には動植物園が作られ、名称も昌慶苑に格下げされて、一般人にも公開されるようになるなど、宮内の建物の多くが破壊、変形されてしまう。
しかし1983年から3年間に渡る韓国政府の大規模な復元、改修工事を経て、昌慶宮と言う名前と供に、ようやく昔の姿を取り戻した。
趙さんも小さい頃にここを訪れ、ここが動物園であった頃の記憶があると言う。
その昌慶宮の裏門である含陽門を入り、まず最初に左手に現れる建物が通明殿である。 -
この通明殿は、王と王妃が暮らした内殿の中で最も大きく、宴会場所としても使用された建物である。文禄・慶長の役と1790年の火災で焼失したが、1834年に再建された。
その前を過ぎ、景春殿、歎慶殿の横を抜け、更に集福軒、迎春軒の前を通り、この昌慶宮の正殿である明政殿に向かう。
因みに景春殿は昌慶宮の内殿(王と王妃の生活の場)として1484年に創建された。歎慶殿は景春殿と共に、昌慶宮の内殿として使用された建物である。
明政殿の正面右手の塀途中からこの明政殿敷地内に入る。一面石畳が敷き詰められた明政殿前は昌徳宮の本殿である仁政殿前よりもかなり広い。
明政殿内を見に行くのかと思ったが、手前も基壇のところで修復作業を行なっている様で、そのまま、この昌慶宮の正門である弘化門に向かう。
この明政殿前にも明政殿に至る石畳には各官僚がその爵位の順に並ぶ場所の表示がある。
明政殿前にある明政殿の正門である明政門を潜る。この明政門は昌慶宮の中門に当る。
昌慶宮創建当時の明政門は文禄・慶長の役で焼失し、現在の建物は、その建築様式から明政殿と同時期に再建されたものと推定されている。
その門を抜けると前方に弘化門が見える。また、その手前に石橋が架かっている。
この石橋が玉川橋である。1483年(推定)に造成された。長さ9.9m、幅6.6mの石橋である。
北から南へと流れる川に架かり、正殿にはこの橋を渡らなければ入る事が出来なかった。
また、嘗て橋の下には風水地理説上、山川の精気をもたらしてくれるとされていた『明堂水』が流れていた。
その石橋を渡り、弘化門に至る。この弘化門は昌慶宮の正門で、1484年に建築された。
文禄・慶長の役(壬辰倭乱)で全焼し、1616年に再建後も修理と丹青(彩色を施すこと)が繰り返されて来た為、本来の美しさは影を潜めてしまったが、17世紀初めの木造建築物の研究資料として重要な価値を有している。
時間がないのか、この昌慶宮内では趙さんの説明が殆ど無いまま、この弘化門を潜った。昌慶宮内は通り抜けただけの感じである。 -
車が来るまで、この弘化門前で待つ事になる。その間に各自、記念撮影を行なう。
暫くすると我々の前に車が到着する。車に乗り込み、次の目的地に移動する。次は免税店だ。
<免税店での買物:東和免税店>
時刻は16時40分過ぎである。車はソウル市内を走り、20分くらいで免税店に到着する。
車を降り、店の入口に集合する。
ここで趙さんから集合時間とこの免税店で使用出来るクーポン券を渡される。免税店は東和免税店である。1階と地下1階に免税店がある。
私は免税店で買う様なものはないので、中を少し見学するだけのつもりである。
店内に入ると中は買物客で満員である。それも見れば殆どが日本人である。もしかすると全員が日本人かも知れない。店員も殆どが日本語で話して来る。
1階入口付近は化粧品類が並ぶ。その奥に民芸品などの小物を販売しているエリアがある。また、キムチや韓国のりなどの食べ物類が並ぶ。
我々は食べ物などのコーナーを見てから、民芸品などを見る。正直な所、ここの価格はブランド物以外の物は、安いと思わないので、ここで何かを購入するつもりはない。
しかし、見ている内に何かしらの物を購入したくなる。これもここへ立寄る旅行会社の作戦であろう。そこでお菓子など会社に持って行く物を購入する事にした。
チョコなどではキムチ味や韓国のり味など変った物もあるが、一般的な物を3点程購入する。
それをレジで精算する際に、ここに入る前に手渡されたクーポン券の提示が必要になる。
それを基に情報をインプットされた後、商品の精算となる。ここで合計30,000WON(約2,700円)分の土産を購入した。その後もこの1階で商品見学を行っていた。富田君も数点土産を購入した様で手提げ袋を持っている。
1階部分で見る物もなくなり、2人で地下1階のエリアに移動する事にした。
階段を使い、地下1階に移動する。階段は業務用階段なのか、着いた先は荷物の搬入などをおこなっている狭い廊下の所であった。そこから地下1階の店輔街に出る。
この地下の店舗街は、先程の1階の売場とは比べものにならない広さで、高級ブランド店が並んでいる。
我々がこの地下に来たのは、高級ブランド品目当てではなく、クーポン券についている粗品を貰いに来たのである。この地下街の店々を見ながら、粗品を貰えるサービスカウンターを探す。
地下街を歩き廻り、やっとの事、サービスカウンターを見つけ、粗品を貰う。粗品は韓国の女性アイドルグループ“少女時代”のブロマイドと化粧品サンプルである。
丁度、サービスカウンター脇にエスカレーターがあったので、それに乗り、1階に上がる。
先程見ていた1階の店内にはエスカレーターなど無かったので、どこに出るのかと思っていたが、1階に上がり、外に出ると隣のビルの入口である。隣のビルと地下で繋がっているのである。
まだ、集合時間には早いが、集合場所の入口前に移動する。
既にツアー客の何人かは手提げ袋を持ち、集合場所に集まっていた。
ツアーに福岡から参加された男性が、「孫に頼まれてKARAや少女時代などのブロマイドを買って来てほしいと言われとるんだが、無かったなぁ?」と呟いていた。
それを聞いて私が、先程サービスカウンターで貰った少女時代のブロマイドを見せる。
すると、「どこで手にいれたん!」と驚かれた。
最初に貰ったクーポン券で貰える事を教えるとその人がクーポン券を出したので、「これですよ!」とそのクーポン券の一部を指差す。
そして、「どこで交換できるの?」と聞かれ、その場所を教えるも、もう集合時間まで時間がない。
そこで「私のもので良ければ進呈しますよ!」と言い、それをその男性に渡す。
その後、趙さんが集合場所に現れ、先程の男性が相談をしている。そしてOKが出たのか、慌てて隣のビルに走って行った。
集合時間になり、殆どのツアー客が揃う。福岡から来た男性も少し遅れて戻って来た。
そして、私に手に入れたブロマイドを見せ、私の渡した物を返そうとするが、私は然程欲しくもないので、そのまま持ち帰って貰う様に言う。時刻は17時40分過ぎである。
これから、次の目的地である南大門市場に向かう。ここでも買い物が出来るであろう! -
<昔ながらの雰囲気を残す南大門市場>
東和免税店から南大門市場までは然程時間がかからず、到着する。
丁度、放火で焼け落ち、復元工事中の南大門前で車を降りる。
ここからは徒歩で移動するのだと考えていたら、交差点の先に南大門市場の大きなポールが立っていた。もうこの南大門の横から市場なのである。
横断歩道を渡り、路地に入ると、そこは買い物をする観光客や地元の人達で道も歩けないくらいに混雑している。
趙さんが「これから路地に入りますが、くれぐれも逸れない様にして下さい!」と念を押す。
確かにこの人では逸れたら最後で、迷子になりそうである。
道の真ん中に露天が出ているので、それが道を更に狭めている。これが混雑を招く原因にもなっている。路地道はほぼ右側通行の様で、まずは右側の店や真ん中の露天を見ながら、人を掻き分け進む。
この市場のメイン路地を上がる。店々の商品を立ち止まって見る事も出来ず、ひたすら趙さんを見失なわない様にただ付いて行くだけである。
その路地から右手に折れ、坂を上がる。この辺りも同じ様な路地の状態である。
右側を歩き、路地を上がる。そして、その路地の半ばで反転し、同じ路地の反対側を下る。
本当に立ち止まり、商品を見る事が出来ないので、値段も確認出来ない情況である。これではここに来た意味があるのか?
路地の店々には、生活雑貨、食品、衣類、土産物など様々な物が並ぶ店が軒を連ねている。
ゆっくり見て廻れれば、非常に楽しい場所である。その路地を下り、再び最初の路地に戻り、更に奥に進む。
その路地の突き当たりの三叉路を今度は、左手に曲がり、路地を下る。
この路地を抜けると、大通りに突き当たり、その大通り沿いに右手に歩き出す。そして、少し歩いたところで、趙さんがある店に入る。この店を目的に趙さんは黙々と歩いていたのである。ここで買い物をしても良い様である。
その店は様々な土産物を扱う店であった。
先程の東和免税店で見ていた韓国文化の一つである金属製の箸を買いたくて、その商品を探す。
丁度、手頃な価格の物があり、それを数種購入する事にした。東和免税店よりも安価に買えたかどうかは同じ商品が無かったので判らない。
しかし、この店には民芸品のお面などもあり、多種に渡る土産物がある。ここでツアー客各々が土産物を物色し、買い終わると再び、先程の路地を戻る。 -
そして、混雑する路地を抜け、この南大門市場の入口に戻った。
横断歩道を渡り、工事中の南大門横を歩き、車の待つ場所に行く。車は丁度、トタンで仕切られた工事現場の端に停車していた。車に乗り込み、今度は夕食場所を目指す。
今日の夕食は骨付きカルビの焼肉である。旅行日程表に書かれている夕食の中で最も期待していた食事である。
南大門前から夕食場所までは少し移動に時間がかかる様である。
しかし、体調が思わしくないので、食欲はあまりない。 -
<夕食の骨付きカルビ焼肉>
15分程で住宅街の一角にあるレストランに到着した。レストランの名前は韓一会館である。
店内に入ると、丁度夕食時なのか、この3日間で訪れた夕食場所では最も繁盛している。
既にテーブル席の半分くらいは客で埋まっている。我々もテーブル席が準備されていたが、それ以外に座敷席もあり、我々は座敷席に案内される。座敷席に案内されたのは我々を含め6名である。
広い畳の部屋の隅にテーブルが設置され、そこに並んで座る。
テーブルには2人に1つ焼肉のコンロが用意されている。 -
そして、まず店員が飲み物を聞きに来て、各自注文を行う。また烏龍茶を注文したら、小さな缶が出て来る事は判っていたが、他の飲み物を聞いたが、コーラくらいなので仕方なく烏龍茶を注文する。
飲み物と同時に大きさ皿に乗った骨付きカルビが登場する。少し想像していたものとは違い、端に付いた骨を中心に巻いた肉が乗っている。
暫くすると再び店員が席に来て、骨付きカルビを取り、巻かれていた肉を広げ、ハサミで肉を切りながら、コンロに乗せて行く。コンロは両端が焼けて、真ん中は火が届かない構造になっている様である。
コンロの両端に肉を置き、他の肉はハサミで切り分け、皿に置く。そしてご飯が出される。
日本と同じ様にタレに浸けて食べるのである。また、チシャもある。その他にはミッバンチャンとして根昆布、もやし、白菜キムチ、大根の漬物などがある。
焼けたものからタレやチシャに巻いて食べてみる。
期待が大きかったせいか、然程美味しい感じはしない。極普通の焼肉である。これなら大阪の鶴橋の焼肉の方が数段美味しい。
適当に肉を焼きながら食べていると、隣の同じツアーのおばさん達が入口で見た写真の話をしている。
聞き耳を立てて聞いているとこの店の入口付近にこの店に来店した有名人の写真が飾られていた様である。その中に最近関東にも進出した関西出身のアナウンサーの宮根誠司アナがいた様で、その話をしていた。
そして店員が来た時にその話を聞いている。
その店員はおばさん達の質問に、「宮根さんは常連ですよ!このソウルに来た時は必ず来られます。」と流暢な日本語で答えていた。
料理の骨付きカルビは1人2人前分あったが、それほど多くもなく、早々に冨田君と食べ終わる。
我々が食べ終わる少し前に、離れてしまった椅子席の同ツアーの人達から冷麺の差し入れがあり、それを少し頂いたが、これもやはり口に合わない。日本の冷麺の方が数段美味しい。冷麺の麺の色が、少し灰色がかっているのは、ドングリ粉を混ぜた麺なのかも知れない。
早々に食事を切り上げ、冨田君とこの後のオプショナルツアーのNANTAの話をしながら、他のツアー客が食事を終えるのを待つ事になった。
趙さんが我々の部屋に現れた事で食事が終了し、各自飲み物の代金の支払いを行う。
そして部屋を出て、店の入口に向かう。その途中で、おばさん達が話していた写真を発見する。その中に宮根誠司アナも見つけた。他にも日本人がいたのかも知れないが良く判らなかった。殆どが韓国のスターであろう。
そして、この店の入口前に集合し、今後の予定が趙さんより告げられる。時刻は19時30分前である。NANTAの開演時間は20時と聞いていたので、然程時間はない。
趙さんによれば、我々NANTAを見に行く組はこのまま、乗って来た車でNANTAの劇場まで行く様である。そして見に行かない人は別の車でホテルに向かうとの事であった。
趙さんは我々NANTAの案内に付いて来てくれる。別の車には趙さんの同僚が既に来て、その人がホテルまで案内する様だ。
我々は車に乗り込み、出発を待つ。趙さんが別の車にツアー客を乗せ終わり、我々の車に乗り込む。そして車が出発し、NANTAの劇場を目指す。我々が行くのは市庁本劇場である。 -
<パーフォーマンスが楽しい劇:NANTA>
ここからNANTAの劇場までは然程遠くないとの事である。
車はソウル市内を走り、10分程でNANTAの劇場前に到着した。劇場内のロビーに入ると既に多くの観客が訪れて、入場口に並んで待っている。
我々もこのロビーの劇場入口近くで趙さんの手続きを待つ。その間に私は冨田君に告げて、ロビー内にあるコンビニに行き、飲み物を買う事にした。
コンビニで飲み物を物色したが、結局、ミネラル水を購入する事にした。価格は600WON(約55円)である。
それを持ち、急いでみんなのいる所に戻る。戻ると私の水を見て、数人の人が同じ様にコンビニに行き始める。それと同時にチケットを購入した趙さんが戻って来た。
趙さんが数人いない事に気づき、「残りの人は?」と聞く。コンビニに行っている事を告げると、我々を先に劇場入口に案内し、並ぶ様に促す。もう開演まで然程時間もない為である。
しかし、まだ劇場入口には入場の為の列が出来ている。その列に我々も並ぶ。
コンビニに行っていた人達も殆ど戻って来たが、今度はトイレに行きたいという人が出て来た。
列を抜け、トイレに走る。我々は先に趙さんと共に劇場内に入る。趙さんがチケットを確認し、席まで誘導してくれる。我々の席は舞台に向かい、左手中断辺りである。
劇場は意外に大きく、中くらいのミュージカル劇場ほどの大きさの劇場である。
我々が席に着き、暫くすると舞台中央の上方からスクリーンが下りて来た。そして、そこに文字が映し出される。そこには、このNANTAを日本語などで説明したり、劇場内の観客に拍手や歓声の上げ方を練習させる内容であった。それが一通り終わり、スクリーンが上がる。
その後、劇場が暗くなり、NANTAの開演である。
写真が禁止なので、しっかり劇を記憶に留めなければならない。
NANTAは少人数で演じられると聞いていたが、最初に現れたのは4人である。そしてもう1人が加わり、5人で演じる様である。男性が4人で、女性が1人である。これが1チームの構成になっている様だ。
ストーリーは単純で、あるレストランの厨房を舞台にし、マネージャーの息子が見習いのコックとして入り、その地位を巡っての争いや結婚式の準備を行う厨房の様子などをコミカルな劇と調理器具と用いた音楽とで楽しませる喜劇である。
台詞はないが、表情とコミカルな動き、それに調理器具を用いたパーフォーマンスで楽しませてくれる。
特に包丁をリズミカルに叩く演技は、観客も巻き込んだパーフォーマンスである。
途中に本当に観客席から人を引っ張り上げて一緒に料理を作ったりするパーフォーマンスがあったり、その後韓国式の結婚式に巻き込んだりと、観客を飽きさせない。
1時間半の公演もあっと言う間に終了する。最初、趙さんに進められた時はどの様な劇なのかが判らず、参加もどちらでも良かったが、これは韓国に来た際にはお勧めの劇である。
このNANTAはソウル以外にも韓国内では公演を行っており、ソウルと済州島での公演が有名なのだそうだ。
また、このソウルの公演は9つのチームが毎日交代で行っており、毎日の公演日に、どのチームが公演を行うかはその日にならないと判らないそうである。
今日我々が見た公演はグリーンチームが行ったものである。
また、趙さんの情報によれば、別のチームには日本人の女性もいるそうだ。
他のツアー客の人達も全員が始めての観賞で、みんな満足気である。
再び、ロビーで集合した後、劇場前で記念撮影を行い、車に乗り込む。
ここから各自のホテルに向かう。まず我々の宿泊するソウルパレスホテルに向かう。 -
<今晩の宿泊先:ソウルパレスホテルとホテル周辺の散歩>
ソウルパレスホテルはソウルの江南(カンナム)地区にあるので、ここからだとソウル市内を横切る漢江(ハンガン)を渡る事になる。
車は夜のソウル市内を走り、暫くすると漢江に架かる大きな橋に差し掛かる。
さすがに大都会でこの時間でも片側4車線の道路も渋滞こそないが、車で一杯である。
漢江を渡り、少し走ると左手に大きなビルが見えて来る。セントラルシティの文字が見える。その先を右手に曲がると直ぐにソウルパレスホテルが見えて来る。
ソウルパレスホテルの前を過ぎ、Uターンをしてホテルに入る。車を降りる際に他の人達とこれで会うのが最後になるので、別れの挨拶する。
趙さんにパスポートを渡し、チェックイン手続きを行って貰う。チェックインが済み、明日の集合時間を確認し、趙さんと別れる。
我々の部屋は4階である。エレベーターで4階に上がり、部屋に入る。
さすがに高級ホテルである。今までで一番広く、また清潔感もある。ここではミネラル水も1人1本付いている。時刻は22時過ぎである。
ミネラル水の他にも飲物が欲しいと思い、冨田君を誘い、近くのコンビニにでも行こうとするが、冨田君は行かないと言うので、私1人でホテルを出て、ホテル周辺を散策する事にした。
部屋備え付けの地図では近くに何件かのコンビニがある。ホテルからどちらの方向に行くか迷ったが、とりあえずホテルを出て左手に行く。
22時を過ぎているのに歩道にも人が多い。暫く、ホテル沿いに歩道を歩く。
ホテルからここまで、路地は暗い路地ばかりであったが、少し賑やかな通りに来た。通りからその路地に入る。
この路地にはまだ開いている店が多い、カフェも多い。途中にスタバも見つけた。小さいがコンビニもあった。
その路地を少し奥まで行くが、それ以上店がなさそうなので、先程見つけたコンビニで飲物を購入する事にした。
コンビニに入り、飲物を物色する。果物ジュースなどを買い込み、2,800WON(約255円)を支払う。
コンビニを出て、来た道をホテルに戻る。
ホテルには30分程で戻る。部屋に戻り、買って来た飲物を部屋の冷蔵庫に入れる。
服を脱ぎ、ラフな格好で荷物の整理を行なう。そして先にユニットバスを使用させて貰う。
頭と顔だけを簡単に洗い、ユニットバスを出る。そして買って来た飲物を飲みながら、今日の日程のまとめを行なう。また、今日撮った写真などを確かめ、カメラの電池の充電を行なう。
まとめを終え、明日の準備を行い、暫く椅子で飲物を飲みながら寛ぐ。多少夜になると体調が戻る感じであるが、万全とまではいかない。依然不安定な体調状態である。
時刻は11時半を過ぎている。明日は、朝食が取れるのが6時半からである。
また、集合時間が8時であるので、少し朝はゆっくり出来る。場合によっては朝、ホテルの周りを散策しても良い。
冨田君に先程近くにスタバがあった事も話し、その辺りまで散策するのも良いかも知れないと提案した。まあ起きた時に体調次第である。
12時前にベッドに潜り込む。それから暫くして部屋の明かりを落とし、寝る体制に入る。
その内に寝てしまっていた。
今回はここまで! 明日は観光最終日。
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