2016/05/14 - 2016/05/14
3位(同エリア72件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 169,034アクセス
- フォロワー41人
2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう3年以上(書き始めは2年だった!)経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。
スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。
古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。
今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。
日程表 スペインの部
5月8日(日) 東京→マドリッド
5月9日(月) マドリッド
5月10日(火) マドリッド(セゴビア)
5月11日(水) マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木) マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金) マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土)★ マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日) ビルバオ
5月16日(月) ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火) ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水) ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木) オヴィエド
5月20日(金) オヴィエド→レオン
5月21日(土) レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル)
ブルゴスの世界遺産大聖堂の続きです。何せ教会と聞くと目がないもんで…まだまだかかりますよ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
北翼廊の付け根部分にある、この大聖堂でも最も古い年代に建てられた、バーリの聖ニコラス礼拝堂です。依頼主の聖職者Pedro Díaz de Villahozが1230年に亡くなっているので、その前に建造されたと言われています。
背後に見える土台部分が顔になっている3本の柱頭付き柱も古さを感じさせます。ロマネスク末期からゴシック初期へと移行する時代の産物だそうです。こんなものが残っているなんて! さすがぁ・・・ -
ここの小さな祭壇は前面にレリーフが施されたロマネスク様式の木製多色塗で、上下合わせて置かれていました。 1235年~60年の間に作られたと考えられている下の部分は長方形をしていて、マンドルラ(アーモンドの形をしていて、聖なるものの象徴)を中心に4人の福音記者たちのシンボル、そしてその周りに四角形が4つという構図。おそらく中央にはキリスト、四方には3人×4=12使徒が並んでいたのでしょうが、だいぶ欠落してしまっていますね。ある解説書には聖ペドロ(ペテロ)と聖ファン(ヨハネ)だけが識別可能と書いてありましたが、私にはどれが誰やら、さっぱり・・・
上の部分は五角形をしていて、1280年~1300年の間の作と推定されています。神殿のような造りが表されていて、元は12のすべてのニッチェに彫像が置かれていたのでしょうが、今は三体しか残っていません。受胎告知の天使だけ残っていると説明にありました(マリアは欠落)。
左側に見える墓は、依頼主のPedro Díaz de Villahozの棺です。今まで見てきたものと比べると、大変質素ですねえ。 -
束ね柱に刻まれたレリーフ、聖人像に目を奪われながらのアンブラトリー行脚です。鉄格子の開いている所から、クルセロ(身廊と翼廊が交差する部分)を見て行きましょう。
-
じゃ~ん! 主祭壇のお出ましです。あの赤いテープより先には行けないので、この辺りから見学するしかないようです。
大きいだけの祭壇はもう見慣れてきましたけれど、やはりこちらは迫力が違いますね。聖母マリアと聖体拝領に捧げられたこの祭壇は、縦に4段、横は大きく分けると3列。一つ一つ数えていくと7列あります。柱もドーリア式、イオニア式、コリント式、その全てが使われていて、そのすべてに細かい彫刻が施されています。 -
主祭壇は1562年から20年ほどかけて建造され、ロドリゴとマルティンのデ・ラ・アヤ兄弟とシモン・デ・ブエラスらの共同作業によって完成しました。彼らが参考にしたのは、ブルゴスからサンチャゴ・デ・コンポステーラのある西の方向に150kmほど行ったアストルガの町にある大聖堂の主祭壇です。主祭壇の造り手を決めるコンクールで優勝し、1558年からアストルガで制作を開始していたガスパール・ベセラは、その頃トレンドになりつつあったマニエリスムを大胆に取り入れ、彫刻と木の組み立ての専門家から成るワークチームを率いていました。彫刻と祭壇組み立てを完成させたのちに、金を含む多色塗が行われました。
-
一段目中央にあるレリーフで飾られた幕屋の素晴らしいこと! 二段目中央のブルゴスの守護聖人サンタ・マリア・ラ・マヨールは、前述の司教ルイス・デ・アクーニャが資金を出したもので、15世紀の銀細工の傑作と言われています。三段目、四段目中央の聖母被昇天と聖母戴冠はファン・デ・アンキエータの彫刻です。彼の作品にはマニエリスムの影響が色濃く出ていますね。
-
いつまでもぽかんと主祭壇を見ていても仕方がないので、振り返るとそこにあったのは、クワイア合唱隊席と・・・
-
こちらの、エル・シドという親しみを込めた敬称で知られた貴族ロドリゴ・ディアス・デ・ビバールとその妻ヒメナの墓です。エル・シドは11世紀の人で、カスティーリャ王サンチョ2世に仕えましたが、王が暗殺された後は王位を継承したアルフォンソ6世に嫌われ、カステーリャから追放の身となりました。しかしながら彼を慕う兵士とともにイスラム勢力と戦ってはスペインの領土を奪い返し、レコンキスタに貢献した人物として知られています。とはいえ、レコンキスタが完了したのは、彼の死後400年も後のこと、どうしてこんなに称えられるのかは分かりませんけれどね。
予想していた墓より随分と地味だったことにびっくり! 映画の影響と英雄の墓という思い込みで、もっと大掛かりなものを想像していたのですが、意外でした。これじゃあ、最近になってこしらえたみたいに見えませんか?
(調べてみたら、彼とその妻の墓がここに改葬されたのは1919年のことですって! やはり「最近」でしたねえ。) -
イチオシ
そして何と言っても「美しい」以外の言葉がフィットしないのが、こちらのシンボリオと呼ばれるドームです。素晴らしい!
1460年~70年にかけて、司教アクーニャの命によってクルセロにドームを建造したのは、お馴染みファン・デ・コローニャでしたが、彼の作り上げた豪華なドームは1539年のある日の明け方、突然崩壊してしまいます。嵐のせいだとか言われていますが、詳細は分かっていません。
幸い死傷者は出ませんでしたが、評議会は直ちに再建を決定。そしてファン・デ・ヴァリェホによって蘇ったのが現在のドームです。
8本の優美な尖塔が立っているドームは外からだけでなく、内から見ても素晴らしく、光の屈折によるプリズム効果は、幻想的な世界を醸し出していますね。 -
ヴァリェホが1539年の悲劇を再び起こさないために導入したのが、今見えている巨大な柱4本です。緻密な装飾が施された円柱を16世紀になってから建造したとは、想像がつきませんでした。さぞや大工事だったでしょうね。
クルセロから主祭壇方向を見ると、光の魔術がそこここにありますよ! -
イチオシ
主祭壇上方のステンドグラス こちらも幻想的でした。
-
さて、こちらは主祭壇と向かい合ったクワイア=合唱隊席です。ここも入場はかなわず、格子の隙間から覗いただけですが、完璧な調和の取れた空間でした。
プラテレスコ様式の内装は、1504年~10年にかけての彫刻家フェリッペ・ヴィガルニを始めとする、ブルゴーニュ人の石工らプロ集団の手によるものです。 -
全部で低層階には44、高層階には59の椅子があり、そのすべてに聖人達、受胎告知、キリストの幼年期から受難、復活、トマスの疑いまでの場面が刻まれています。また天蓋というのかしら? 座席の上の飾りにも旧約聖書の場面や聖人、預言者らが連続的に彫られていました。
強度が強く、狂いが少ないクルミの木を使用しているそうですよ。 -
最大限拡大してこの程度です。500年間、毎日磨かれてきたのではと思われる光沢がありますね。
-
座席の背もたれの部分は寄せ木細工になっているのかしら? 一つ一つ異なったストーリーを語りかけてくれます。
-
中央に置かれた棺の中には、ブルゴス大聖堂の創設者で最初の司教であるマウリシオの像が横臥していました。この像、木にエンボス加工された銅でコーティングされていて、渋い光を放っていましたよ。金ぴかよりも目に優しい!
-
礼拝堂巡礼に戻りましょう。お次は聖母マリアの生誕の礼拝堂です。キリストではなくて、母マリアの生誕ですよ。
パトロンはペルーとの貿易でしこたま儲けた夫を持っていたAna de Espinosaという女性。ルネサンスとマニエリスムが混合している様式で1580年から1585年の間に、建築家兼彫刻家マルティン・デ・ラ・アヤと石工マルティン・デ・ベリスが主となって作られました。
こちらの祭壇、見事な石と木の組み合わせでできています。周りの白い部分は凱旋門のように見える造り。中央の祭壇はクルミ材に多色塗が施されています。 -
凱旋門には4人の聖人、下段にペテロとパウロ、上段に聖アンナと聖カテリナが立っていますよ。中央祭壇は3段になっていて、下段には左から、マリアの神殿お披露目、マリアの生誕、マリアの両親ホアキムとアンナの再会が、中段にはマリアの訪問、東方三博士の礼拝、受胎告知と、マリアの生涯の物語が綴られていました。上段はキリストの受難と天使たち。
思いっきりごてごてしていますが、見事な彫刻に圧倒されます。 -
イチオシ
そして見上げるとこのオーヴァルな天井です。中央のブルー地の唐草模様、なんて美しんでしょう!
周りにはお定まりですが4人の福音記者達、そして4人の教会博士(サン・グレゴリオ、サン・アグスティン、サン・ヒエロニムス、サン・アンブローズ) そして、大天使ミカエルの姿もありましたよ! -
同じ礼拝堂内にあった合唱隊席の彫刻を手掛けたのもマルティン・デ・ラ・アヤ。線の美しさが際立っています。
左から数えて4番目が、有名な「受胎告知のマリア」像です。ちょっと遠すぎるなあ・・・ -
「受胎告知」の礼拝堂は、13世紀からある古い礼拝堂の一つで、六角形をしています。主祭壇より最初に目に留まったのがこちらのマグダラのマリアの祭壇。
苦悩を浮かべたマリアが、生きたまま棺の中に入り、まさに横たわろうとしている瞬間のように思えて、ドキッとしたのですが、単なる私の妄想かしら?
絵に関する解説は見つかりませんでしたが、元々どなたかの葬送用の記念碑だったものを祭壇に転用したという記事を発見。故人の墓の制作者がマグダラのマリアも道連れにしようという魂胆だったのですね きっと! -
本来の祭壇はこちら。これまた金ぴかですが、今まで見たことのない一風変わったスタイルですよ。1270年以来、単なる葬送礼拝堂だったところにマニエリスム様式の祭壇を作ったのは参事会会員ファン・マルティネス・デ・サン・キルセで、自分の墓所とすべく許可をとったんですって。
三段に分かれていて、てっぺんの塔には天の神のお姿が見えています!
下段には洗礼者聖ヨハネ、受胎告知、大アントニオス、中段には聖セバスチャン、エッケ・ホモ、聖ロック、上段に福音記者聖ヨハネ、ヒエロニムス、聖カタリナと、登場人物はあまり変わり映えせずですね。
多用されている縦のラインのせいか、けばけばしさをあまり感じませんでした。名前が読めないので現地語表記で行きましょう。彫刻家はJuan de Lizarazu 。多色塗と金メッキは専任でLázaro de Azcoitiaが担当しました。 -
目立たない場所にあったこちらの漆喰細工、中央の体を折り曲げた背中合わせの人物? 海のトリトン? がとてもユーモラス。聖水容器でしょうか?
-
北側最後の礼拝堂サン・グレゴリオ礼拝堂にやって参りました。かつてはサン・ファンに捧げていましたが、1576年にこの礼拝堂に特権を与えられた教皇グレゴリオ13世が現在の名前に変更したという逸話が残っています。要は自分の名前と同じに変更したかったんですね。
祭壇はバロック期のもので、中段中央に座っている頭でっかちな方がサン・グレゴリオでしょうか? この像だけ、他の像と不釣り合いな気がするのですが、何時もの気のせいかしら? いや 絶対にこの像だけ不格好でいけ好かないなあ・・・ -
この礼拝堂で貴重とされているものは他にあるんです。その一つ、1327年に亡くなった司教ゴンサロ・デ・イノホサの墓です。
作者は明らかになっていませんが、横臥像もさることながら石棺部分のレリーフに、執り行われた彼の葬送の儀式が具体的に綴られていて、故人を失った当時の人々の深い悲しみが伝わってくるようです。 -
もう一つの重鎮が、こちらの尖塔の形をした、同じく司教のロペ・デ・フォンテチャのアルコソリオ。彼は1351年に亡くなっています。写真が小さくてわかりづらいですが、下段にキリストの聖誕と東方三博士の礼拝、横臥像の奥には12使徒が並び、その上でキリストが聖母、聖ヨハネを従えて救済を説いています。三角部分には聖母戴冠の場面が!
なんて豪華なんでしょう! 14世紀に作られたものとは思えないほど緻密な造りで、保存状態が良いなと思ったら、最近大規模修繕を終えたばかりなのだそうです。 -
泣きたくなるほどひどい構図でごめんなさい。
グイド・レーニのオリジナルのコピーで、マテオ・セレソの作だと言われています「聖ペテロの磔」1646年。 -
ブルゴス大聖堂のハイライト コンデスタブレ=「元帥」礼拝堂にやって参りました。何度もリフォーム、増設を繰り返している大聖堂なので、少しずれていますが、内陣のほぼ真裏に当たる広い空間 つまり大聖堂の一等地です。
「元帥」という称号だけだと、どんな地位なのか想像するのが難しいですが、カスティーリャ王ファン1世によって任命された「元帥」は、王の不在時の最高責任者というMO.2の位でした。
元帥ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコは、レコンキスタが行われても最後まで粘っていたグラナダのイスラム勢力を追い出したことで有名です。私はてっきり、レコンキスタの完了で国民的英雄となり、元帥まで上り詰めたのかと思っていたのですが、そうではなく、元帥になってからグラナダに出陣したのだそう。
彼とその妻の墓があることで、通称「元帥」礼拝堂と呼ばれていますが、本当の名前は「聖母の清め」Purification of Virginというんだそうですよ。 -
床には☆形の模様が連続・・・
-
そして、ヴォールトも透かし彫りの☆型です。
ああ~ ぼけちゃっていますね。 -
イチオシ
アングルが悪いけれど、こちらの方が綺麗に透かし模様が写っていました。透かし模様の間から差し込む光がなんて美しいんでしょう。イスラム風に思えたので、これは間違いなくプラテレスコ様式だと思っていたのですが、フランボワイアン様式だと書いてある資料を見つけてガックシ!
この大聖堂で星型のヴォールト幾つ目だったっけ? -
礼拝堂の建設はファン・デ・コローニャの息子で、ディエゴとは兄弟のシモン・デ・コローニャによって、1482年に開始されました。ゴシックからルネサンスへの転換期に当たる頃の建築で、シモンの息子 フランシスコ・デ・コローニャによって1517年に隣接する聖具室ともども完成を迎えています。シモンは1511年頃に亡くなっていますから、彼にとっては生涯をかけた一大事業でした。あのヴォールトは誰にでもできる技ではないですよね。
-
まずはこちらのメインの祭壇からじっくりと見学。祭壇はディエゴ・デ・シロエとフェリッペ・ヴィガルニーの二人で、1523年~26年の制作。共同制作ゆえに、彼らのスタイルの違いを観察することができるそうです。
この礼拝堂の本当の名前、Purification of virginが前面に綴られた祭壇です。ルネサンス様式で、劇場のようなカーブのあるスタイルがまず目を引きます。そして下段の「幼子キリストの初めての神殿奉献」に出演中の「役者」たちがなんと生き生きとしていることか! -
今まさにヨセフとマリアは幼子をシメオンに手渡そうとしています。幼子は心なしか母と離れたくないそぶりを見せているように見えます。そしてシメオンの差し出した両手の迫力があること! 幼子を抱きとめるために力強く差し出された両手!
本物の劇を見ているかのような臨場感が伝わってきました。 -
少し離れてもう一度中央の祭壇を見上げます。
上段には中央の「エッケ・ホモ」を中心に、キリストの受難が綴られていました。ブラボーです。でも祭壇はこれだけでなく、あと二つありました。 -
メインの祭壇の左側にあったこちらの祭壇は、聖ペドロ(ピエトロ、ペテロ)に捧げられていました。これでは写真が小さすぎるのでもう少しそばに寄りましょう。
-
アングルが悪いですが、こちらはメインと同じディエゴ・デ・シロエとフェリッペ・ヴィガルニーの作で、ほぼ同様の様式でメインと同時進行で作られた祭壇です。1523年。
メイン祭壇と聖ペドロの祭壇は、スペインにおけるルネサンス文化における最も美しい作品と言われています。 -
イチオシ
この祭壇の横にあったのがこちらのトリプテックで、「美しい国の聖母子」と名付けられています。ハンス・メムリンクの作品と初めてここで出会いました。
-
そして、こちらがメインの祭壇に向かって右側にあった祭壇です。こちらも小さすぎてこれでは詳細が分かりませんね。
聖アンナの祭壇と呼ばれるこちらの祭壇はそのほとんどをヒル・デ・シロエが手掛け、息子のディエゴが完成させています。雰囲気が前二つとはガラッと異なりましたよ。まだこちらはゴシック様式です。大聖堂の中欧にそびえる尖塔を模した天蓋が素晴らしいです。 -
聖アンナ祭壇の左側部分です。三段の中程に美しい人がいて、見とれてしまいました。
-
イチオシ
水瓶を持っているように見えますが、この方一体どなたでしょう?
-
こちらが祭壇の正面です。ヒル・デ・シロエの像は、メインの「幼子キリストの神殿奉献」と比べると全般的に表情が硬いように思いますが、荘厳な雰囲気に満ち満ちています。
-
イチオシ
聖アンナの祭壇の右側にあったこちらの絵画、一目見てはっとしますよね。
クレジットにはレオナルド・ダ・ヴィンチとジョヴァン・ピエトロ・リゾッリ1515年~1520年と書かれていましたが、ダ・ヴィンチではなく、彼の工房というのが本当のところのようです。ジョヴァン・ピエトロ・リゾッリはジャンピエトリーノという通称で呼ばれることが多い画家で、別名「レオナルドのレパートリーの探究者」とも呼ばれています。
マグダラのマリアを描いた作品の中では変わっているかも。着衣のない彼女の姿を見るのも初めてでした。ものすごい筋肉にびっくり! -
長くなりましたが、この礼拝堂にはまだ重要な構成要素の紹介が残っていました。この礼拝堂の主役であるお二人です。
-
こちらがカスティーリャ王国の元帥ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコとその妻メンシア・デ・メンドーサの大理石製の横臥像(とその石棺)です。最高級であるカラッラ大理石で作られていますが、実は制作した人物が特定されていません。フェリッペ・ヴィガルニー説が有力ですが、断定はされていません。
石だけでなく、彫刻の完成度も素晴らしいとしか言いようがありませんが、元帥まで務めたひとにしては、あまりにも美しく若い気がしますね。これではロミオとジュリエットみたいですよ。 -
合唱隊席は寄せ木細工でした。
-
最後に、礼拝堂の格子扉を紹介。気が遠くなるような細密な彫りに驚かされます。銀細工師、建築家としての顔も持つクリストバルド・アンディーノの傑作とされています。1480年生まれと言いますから、ちょうどルネサンス期に活躍した芸術家ですね。
彼の作品はパレンシアの大聖堂でも見ることが出来ます。 -
内側から眺めた鉄格子の扉はうっとりするような眺めです。柱には受胎告知の天使とマリアの2人、そして格子戸の先には、これまた目を見張るような光景が待っていましたよ。
-
門扉の先のGirolaヒローラ(アンブラトリー)にあったのは、素晴らしいレリーフのある壁Trasaltarです。トラサルタールは辞書を引くと宗教用語で、「教会や大聖堂の 高い祭壇の後ろのスペース」と出てきます。ちょうど内陣の主祭壇の真後ろに当たります。
こちらは「キリストの昇天」の場面ですね。メインのレリーフもさることながら、周りの細かい装飾にため息しきり。
完成させたのはバロック期の彫刻家フランシスコ・アロンソ・デ・ロス・リオスですが、彼の契約には、1世紀以上も前にフェリペ・ヴィガルニーがやり残した仕事の完成も含まれていました。1680年~83年にかけてのことです。 -
フェリペ・ヴィガルニーは前の旅行記ではプレゼンテーション礼拝堂で石棺の彫刻家として、この旅行記では今訪れたばかりの元帥礼拝堂の祭壇共同制作者として、大活躍していましたが、彼とフランシスコ・アロンソ・デ・ロス・リオスが大聖堂に残した全部で5枚のレリーフは「大聖堂の宝石」とたたえられているんです。
フランス ブルゴーニュ生まれのフェリペがブルゴスを訪れたのは、彼自身のサンチャゴへの巡礼の道中、1498年のことでした。その際に大聖堂から依頼されたこれら「ゴルゴダへの道」における仕事の完璧さから腕を買われ、その後の彼の運命を変えました。彼は家族ともどもスペインに腰を落ち着け、トレド、パレンシア、サラマンカの大聖堂での仕事を次々とこなしていきます。3枚のレリーフを完成させたのは1503年のことです。
トラサルタールのレリーフと装飾はここでまとめて一挙公開と行きましょう。
写真2枚目のレリーフ ヴィガルニーの作品で「十字架昇架と降下」を見ると・・・あれれ??? ひびだらけじゃないですか? 画面下の方に漆喰を上から乱暴に塗り付けたような感じ。足が1本、腕が1本、乱暴に突き出ていて不気味。一体どうなっているのでしょう?
実は彼のために用意された石灰石が質の悪いものだったらしく、大聖堂内の湿気、そして石に含まれている塩分によって、500年経って石の崩壊が進行中なのだそうです。それを食い止める方法としては、石から塩分を取り除くしかなく、100万ユーロという気の遠くなるようなお金がかかるそうですが、すでにプロジェクトが立ち上がっています。
文化財を保全維持していくのには莫大なお金がかかるんですね。 -
3枚目は磔の場面。このレリーフでも、左下の人物(聖母と聖ヨハネを含む)の衣服部分が大きく損傷していますね。十字架の間に見える崖の上にそびえる沢山の塔が立ち並ぶ城、生き生きとした木々の様子など、切れ味鋭いタッチが随所に見られます。
-
イチオシ
フェリッペ・ヴィガルニーの最高傑作と個人的に思っているのはこちらの「坂道の十字架」。苦悩に満ちたキリストの顔が忘れられません。
-
そして最後は、ヴィガルニーの作品から遅れること100年、最初に紹介した「昇天」と同じ作者フランシスコ・アロンソ・デ・ロス・リオスの「果樹園」。これはゲッセマネのことでしょうか?
-
「元帥礼拝堂」の前にあった大きな柱に施されたフランボワイヤン様式の装飾です。
「聖誕」のレリーフの上方、炎が噴き出しているみたいですよ。 -
反対側の柱のレリーフは、ヴィガルニーの作品を見た後の目にはやや稚拙に映りました。
-
トラサルタールを過ぎると、再び大聖堂の主祭壇が姿を現しました。この辺りが一番の至近距離になるようです。
-
ヒローラは再び南側に移り、お次の訪問場所は大聖堂のメイン聖具室です。今見えている扉から入場することが出来ます。建造時期はもっと古いらしいのですが、1762年から1765年の間にロココ・バロック様式で大改造されました。
-
まず天井に目をやって、そのまま固まってしまいました。構図がひどいこともあるけれど、どうしたらこのような配色となるのか、理解に苦しみます。
おぞましい! デリカシーがない! などと言ったら怒られるだろうなあ。こういうのを、「隙間があるのを恐れる」装飾って呼ぶんだそうな。 -
角度を変えて、再度掲載。天で待ち構えていたキリストと全知全能の神が聖母の頭にそっと冠をかぶせる場面ですね。絞り出したクリームのような雲 少々気持ち悪く思ってしまいました。ごめんなさい。
カルメル会の修道僧だったホセ・サン・ファン・デ・ラ・クルスの制作です。 -
文句を言いつつ、反対側も見せちゃいます。
間違いなく今まで見た中で、一番賑やかで派手な「受胎告知」ですね。気持ち悪い雲はここにもありましたよ。文字の一部が隠れていますが、一番下に制作年1765年と書かれています。それから100年以上たって多色塗が行われたんだそうです。そのままにして置けばよかったものを! -
室内に置かれた家具はご覧の通りのロココ調。これは単一の色だからまだ落ち着いてみることが出来ますね。また絵画の展示スペースとして見れば、なかなかなのではないかなと思います。
飾ってある絵は素敵!だと思ったら、ルカ・ジョルダーノですって! スペインではルーカス・ホルダンと呼ばれていました。 -
よく見ると、絵画は3枚。間の2枚は鏡でした。
-
こちらの面は同じサイズの祭壇? 戸棚?が3つ並びます。この祭壇のすぐ上に、「聖母戴冠」が描かれた天井があるので、それが写らないよう配慮しました。
中央のニッチェには天使に囲まれた「無原罪の御宿り」聖母像がありました。
3つの祭壇の間に立っている聖人像が見慣れないお方なので調べてみましたよ。向かって右側は聖インダレティウス。アンダルシアにあるアルメニアという町出身の聖人で1世紀の方ですって。左側はブルゴス生まれ、クエンカで亡くなった12世紀の聖人クエンカの聖フリアンです。 -
3つ目の面にあったのは対になった額縁付きの家具。こちらは中央に絵画、両脇が鏡になっていました。
中央の聖人像は、先ほど彼の名のついた礼拝堂があったサアグンの聖ファン。ここでも同じアウグスティン会の僧服を着ていました。上の二人の聖人も似たような服をお召しですが、生まれた年代が全く異なるんですけれどねえ・・・ -
そして最後の面はこちら。中央高みのニッチェには、この大聖堂の創始者であるカスティーリャ王フェルナンド3世(在位1217年~1252年)の像がありました。
中央のアーチから自然と次の部屋へと導かれるよう設計されています。 -
中央に聖水盤が置かれた落ち着きのある部屋。聖具室の前室という位置づけでしょうか。ここからクラウストロ・アルト(高い回廊)へと出ることが出来ます。
-
ここからがクラウストロ・アルト(高い回廊)の始まりです。大聖堂が1260年に奉献されて以来、まず取り掛かったのは、それまでのロマネスク様式の回廊に代わる新しい回廊の建設でした。
13世紀に作られた「新しい」回廊は、シンプルな四分割リブヴォールトの天井、黒と白のストライプの石の床を持ち、南側と北側が長い長方形をしています。
ここでこの大聖堂のユニークな点三番目の発表ですよ。ブルゴス大聖堂は傾斜地に建っています。南側翼廊から大聖堂に入場した時には階段を上がりましたね。つまり、ここは・・・
そう、実は今いる回廊は2階部分なんです。この下にもう一つの回廊 クラウストロ・バホ(低い回廊)があるんです。二重構造の回廊は珍しいですよね。
元々2階部分は宗教的および礼拝的な奉仕活動に捧げられ、典礼行進、司教らの埋葬場所として使用されてきました。それとは対照的に、クラウストロ・バホ(低い回廊)は地面と同じ高さにあって、大聖堂自体の社会的、商業的、そして様々なサービスに捧げられてきたそうです。
ここまで来る観光客は少ないと見えて、人っ子一人いませんね。早速クラウストロをうろつきますよ。 -
少し進むと、楽しそうな語らいが聞こえてきそうな場面に遭遇しました。大聖堂の生みの親フェルナンド3世とその最初の妻、ドイツ生まれのベアトリス・デ・スアビアです。王がベアトリスに指輪を贈るシーンだそうです。
-
クラウストロの北西角には、サン・ヘロニモ(ヒエロニムス)に捧げる回廊礼拝堂がありました。角の部分にいらしたのは4人の王冠をかぶった王子様。こちらはフェルナンド3世の4人の息子達だそうです。
-
イチオシ
気品あるしぐさ、穏やかな表情が見て取れますね。彼らも静かに談笑中でした。
右から2人目は最初女性だと思ったのですが、王子様ですって・・・ -
こちらは1543年、ファン・デ・ヴァリェホによって建設されたサン・ヘロニモ(ヒエロニムス) またはメナ礼拝堂の中です。室内には、1553年に亡くなった参事会会員フランシスコ・デ・メナの棺がありました。
-
圧倒的な迫力で迫ってきたのは、ディエゴ・ギリェンによるマニエリスム調の豪華な祭壇で、縦5段、横5列の堂々とした造り。明らかに、大聖堂の主祭壇に影響を受けたものとなっています。
最上段には天の父なる神が厳しい顔をして下界を見降ろしています。中央には、繋がれたキリスト、ヒエロニムスとライオン、ピエタなどの彫刻を見ることが出来ました。 -
サン・ヘロニモ(ヒエロニムス)礼拝堂から先の西側壁面は全て、この大聖堂のために尽くした司教達の安息場所となっていました。
-
回廊にある彫像、レリーフ、石棺等は、2012年頃の写真を見ると「ぼろぼろ」ですが、その後2年半に及ぶ大規模修繕が行われ、多色塗の色がとても鮮やかでした。
探し出した記事によると、修復はまずは壁や彫刻の表面を覆っていた膨大な塵埃、石に大変有害なセメント・モルタルによる接合部、錆びた金属部分等を除去し、目地固めを行ってから、オリジナルの色の回復を試みたのだそうです。地道な作業ですね。
こちらは、1456年に亡くなったPedro Martínez de Ayllónの墓でした。棺を支えるライオン達がユーモラスと言ったら怒られるかしら? -
参事会会員のペドロ・マルティネス・ガデアの墓上にあったこのティンパヌムも鮮やかな色遣いで、修復したてのようです。考えてみたら13世紀の色がそのまま残るわけはないですよね。
-
1304年に亡くなったPedro Fernández de Sepúlveda の石棺には大きな紋章が4つ並んでいました。壁にはコズマーティのような二重円の模様が沢山描かれていて、全体的には幾何学模様に見えます。
-
二番目の曲がり角のところにあったのは、東方三博士の礼拝を場面を彫像にしたもの。あまりの素晴らしい出来栄えに声を上げてしまいましたよ。
-
聖母子と三博士・・・じゃなかった、一人多いですね。四人の博士達が立っている柱を下から首で支えている人達は一体どういう人達?
もしかして罰を受けているのでしょうか? 苦しそうな表情ではないのが救われます。 -
南側の壁面にも、南面同様聖職者たちの墓が続きます。
-
聖母子と天使たちに見守られて、安らかな眠りについている様子。
-
横臥像の上には「キリスト復活」の場面が! 司教の復活を期待してのことかしら?
上のほのぼのとした二人の聖人彫像と背後にかかれている街並みに親しみを感じました。 -
壁に残された縦じまの線は何を意味しているのでしょう?
-
アーチがより傾斜が急になっていますが、1枚上と似ている箇所が多いので、並べてみました。ニッチェの絵の3人の男性は笑みを浮かべているように見えます。
-
3つ目の角に立っていたのは色がついていない、やや粗削りな状態の方々でした。最初にあった4人の王子像と雰囲気は似ているし、中央の二人は王冠をかぶっているので、こちらもフェルナンド3世のご家族でしょうか?
この彫像群については詳しい解説が見つかりませんでした。 -
回廊の東側にあったコーパス・クリスティ礼拝堂は大規模修繕のため非公開となっていましたが、扉は美しく修復されていました。
ゴシック様式の扉のティンパヌムには、中央にビザンティン文化や東方教会ではよくみられる「ディーシス」・・・ビザンティン美術および後の正教会芸術において、伝統的なイコン。尊厳あるハリストス(キリストのギリシャ語読み)、もしくは全能者ハリストスの姿を言う・・・Wikipediaによる・・・が描かれていました。興味深いのは、キリスト(ハリストス)に向かって周りの人たちが皆跪いて、殆ど正座に近い格好をしていること。ハリストスの左右には聖母と聖ヨハネ、その下には、この礼拝堂のパトロンだった夫妻の姿が家族の紋章と共にありました。
礼拝堂は1373年頃に建てられたそうです。 -
修復の過程を説明しているパネルです。多分・・・
-
東側に来て、ようやく回廊の姿を見ることが出来ました。今いるのが2階部分「高い回廊」というのがこの写真でお判りですね。現在いる東側と対面する西側には6つ。北側と南側には7つのアーチがありました。
-
コーパス・クリスティ礼拝堂の隣にあるサンタカタリナ礼拝堂も、修復工事のため、クローズドとなっていました。この礼拝堂は14世紀前半にチャプタールームとして建てられ、18世紀に礼拝堂として新たに祭壇が設けられたという経緯があります。
こちらの扉のティンパヌムには、かなり精密な十字架降下の場面が描かれていますが、注目は中央扉の周りの沢山のライオンと白の紋章。こんなスタイルの扉はあまりよそで見かけたことがなく、現代アートにも通じるものを感じました。 -
羊を従えたキリスト像かしら? 平凡な彫像ですが、私には下で像を支えているのが天邪鬼に見えて仕方ありません。
-
とうとう回廊の終着点までやってきてしまいました。
サンタ・カタリナ礼拝堂の並びにあるサン・ファン・バウティスタ(洗礼者聖ヨハネ 15世紀建造)とサンティアゴ(14世紀建造)の礼拝堂は、16世紀初頭にファン・デ・ヴァリェホが2つの礼拝堂の間の壁を取り壊し、大聖堂で最も広い礼拝堂にリフォームされていました。ファン・デ・ヴァリェホ 覚えていらっしゃいますか? 大聖堂の中央ドームを再建した建築家ですよ。
中央に聖母子の彫像、両脇に何度も描き直されたらしいフレスコ画が残っているティンパヌムをしこたま眺めまわした後入ると、中は礼拝堂というよりは、美術館になっていました。 -
ここでは、自分好みの彫像、絵画のみを見て歩いたので、肝心の大聖堂のお宝を見逃している可能性がありますがご容赦を。
右側にある「受胎告知」。コレクターとしては、床のタイルの色が異なる2枚の絵を見て、これが本当に対になっているのか、首を傾げることしきり。 -
キリストの受難シリーズ9枚のうちの一部です。15世紀から16世紀にかけて活躍した画家アロンソ・デ・セダノとフランドル出身のマスターとの合作で、元は聖具室の大戸棚の扉部分の外側と内側でした。情景描写と色の使い方が大変美しく、一見の価値ある作品でした。
-
こちらは、聖ヘロニモ(ヒエロニムス)を描いたレリーフと
-
板絵。
樫の板に描かれた、「書斎のヒエロニムス」です。作者のヨース・ファン・クレーフェはアントワープ出身の画家で16世紀前半に活躍しました。 -
右側の絵「ペンテコスタ」は、やはりフランドル地方 ブリュッセル出身の画家ペドロ・デ・カンパーニャの1556年頃の作品。ルネサンス時代の画家で、主にイタリアとスペインで活動しました。
ブルゴス大聖堂では、建築も絵画も彫刻もフランドル、ドイツ、フランス、イタリアからやってきた人々の手に委ねられた部分が多いのに、今更のように驚かされますね。 -
受胎告知シリーズ。マリアはうっすらと笑みを浮かべています。
-
こちらも「受胎告知」。雲の上に乗っているはずのガブリエルの足の置き方が微妙…この姿勢、足を踏ん張らないとできません。今にも雲を突き破りそうでひやひや!
一体何を見ているやら・・・ -
これは小さいので見にくいかもしれません。下の絵です。
通常はマリアと大天使ガブリエルの二人が描かれていることが多いのですが、この絵の場合、ガブリエルの背後に、ひい、ふぅ、みぃ 大勢の天使達が行列を作っていますよ。
これガブリエルの御供なのかしら? もしかして皆一斉に神からの伝言を伝えている場面だとしたら、さぞかし煩いことでしょうねえ・・・ -
礼拝堂内には、壁伝いにいくつかの墓がありました。いくつか紹介。
一番手は1384年にリスボン包囲戦の際にペストで亡くなった、サンティアゴ騎士団長のペドロ・フェルナンデス・カベサ・デ・ヴァカの墓です。ごくごく一般的なゴシック様式で、プラテレスコ様式等の影響は感じられませんね。 -
二番手はペドロ・フェルナンデスの兄弟で司教だったファン・カベサ・デ・ヴァカの墓。彼は1413年に亡くなっています。
そして墓の手前にあるのが、大聖堂の至宝の一つ「15世紀の十字架」です。 -
お終いは、レリーフと多色塗が目立つ、二連の墓です。多色塗の「東方三博士の礼拝」、色が塗られていない「聖誕」のレリーフが非常に目立っていますね。この礼拝堂のパトロンだったLesmes de Astudilloとその妻の墓だそうですよ。
-
サンチャゴ(聖ヤコブ)の祭壇は1772年~3年にかけて、フェルナンド・ゴンサレス・デ・ララによって作られました。またしてもど派手な祭壇の登場です。
この祭壇で目立つのは、中央の「サンチャゴ・マタモロス」と呼ばれる聖ヤコブの騎馬像です。疾走する馬にまたがり、剣を振りかざし、ムーア人(イスラム教徒)を蹴散らすこの騎馬像は、キリストの使徒であるヤコブが剣により殉教したという伝説から、イスラム教徒と戦いを繰り広げたのちの世の人達が生み出したお話なのでしょうが、もっともポピュラーな聖ヤコブ像として、スペイン、南アメリカではよくみられるのだそうですよ。 -
この祭壇で一つ変わっていることと言えば、通常、一番高い場所から見降ろしている天の父なる神がサンチャゴのすぐ上にいらっしゃること。そしてその上の高みに聖母が立っていることです。
聖母の両脇にある、いびつな楕円形をした装飾が珍しい形態だったことも目を引きました。 -
まだまだ紹介したいものはありますが、そろそろお暇する時間です。「高い回廊」から「低い回廊」へどうやって行ったかの記憶はないのですが、飛び降りた記憶もないので、多分階段を下りたのでしょう。
大聖堂最期の訪問場所「低い回廊」に今向かっています。 -
13世紀に作られた「新しい回廊」の下部部分「低い回廊」は、中世の時代にはもっぱら埋葬場所として使用され、次々と建て増しされ、バロック様式の窓までついて、創建当時とはおよそ違った様相を呈していましたが、1899年から1911年の間に、ビセンテ・ランペレスによって、オリジナルに近い形に復元されました。
回廊の片隅から発見された16世紀のステンドグラスも復元されて、美しい光を放っていました。 -
漆喰をはがし、余計な窓を取り除くと、中から現れたのは後期ゴシック様式のリブヴォールト。「高い」回廊と比べるとやや天井が低いですが、創建当時の姿はこのようだったとされています。修復はその後も行われて、現在は美術館に転用。
清楚で余計な装飾がなくて、美術品を展示するのに理想的な雰囲気を醸し出していました。 -
王の彫像の背後にある鉄格子越しに、中庭を見ることが出来ました。
-
二階建てになっている回廊の左側に、シンボリオと呼ばれるドームが聳えています。本当に美しいドームですねえ。
-
こちらは東側。尖塔が立っている場所は内陣の真裏「元帥礼拝堂」です。
-
最後はこの不思議な写真で締めくくりましょう。回廊美術館は、古い美術品だけでなく、モダンアートも良く似合います。人間の「飛びたい」という欲求がメッセージとして伝わってきます。
♪ああ人は昔々鳥だったのかもしれないねこんなにもこんなにも空が恋しい ♪
古いですねえ・・・
でもこれ、一体なんだったのかしら? -
相変わらずの曇り空のブルゴス。一番気温が上がる時刻だというのに、まだ底冷えしていますよ。現在15時45分。大聖堂にもたっぷり2時間滞在してしまいました。17時発のビルバオ行きバスに乗るので、もういくらも時間がありません。
何時ものセリフですが、急がなくっちゃ! -
サンタマリ広場から見る大聖堂です。
これこれ!、ようやく真正面から大聖堂を見ることが叶いました。先ほどは確かに開いていた扉も今は閉まっていますね。
典型的なフレンチゴシックのファサードです、左右の塔の上にある透かし彫りの尖塔は15世紀にファン・デ・コローニャによって加えられました。ここだけドイツ風。
最下層には3つの扉が並んでいます。中央の扉は王家の扉、あるいは寛容の扉、残りの2つの扉はそれぞれ聖母被昇天、無原罪の扉と呼ばれています。13世紀から形状は変わっていませんが、保存状態が悪くなった17世紀に左右の扉、18世紀末には中央の扉がそれぞれ再建されています。石灰岩で作られていると聞きましたが、ピンクに見えるのはこれらの改修の名残でしょうか? -
第二層で目立つのはなんと言ってもバラ窓です。中央にはダヴィデ王のシンボル六芒星、ここは13世紀のオリジナルのまま。第三層中央に立つ8人の彫像はカスティーリャの最初の王たち、フェルナンド1世からフェルナンド8世までの8人です。
-
視線を左にずらしていくと、広場の横から大聖堂の北側壁沿いに上っていく階段が見えました。高低差のある場所に建っている大聖堂という言葉を見学中に何度も聞いたので、それを確かめにこの階段を歩いてみましょう。
-
ここで、ロバを連れた巡礼者を初めて見ましたよ。ドン・キホーテじゃああるまいし、乗るには貧弱そうなロバだし…と思ってみていたのですが、ななんと!
この巡礼者、日本人男性でした! ブルゴスはサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼道のメイン街道のいわば、宿場町なので、巡礼者と遭遇できるかなと思ってはいたのですが、いきなりロバ連れの日本人! -
さすがにロバと歩く姿は珍しいと見えて、ひっきりなしに声をかけられていて、きちんとお話しすることが出来ませんでしたが、旅の道中の安全を祈ります とだけお伝えしましたよ。
-
階段を上りきった場所にあったバーリの聖ニコラス教会。1408年にここにあったロマネスク様式の教会の上に建てられました。中にはシモンとフランシスコのデ・コローニャ父子が制作したスペインルネサンスの記念碑的な祭壇があるんですって。
-
中に入れそうな雰囲気全くありませんでしたけれど。扉を押してみればよかったかなぁ・・・
-
大聖堂の北側、階段を上ったところを通るフェルナン・ゴンザレス通りを歩いていくと
-
こちらのコロネリア(またの名を十二使徒)のファサードに到着します。そう、大聖堂内にあったあの黄金階段を上ったところにある扉です。今現在扉は使われていないので、扉前にはフェンスが築かれていました。この扉はエンリケのマスターを中心とする地元の石工たちにより、1250年~57年にかけて建造されました。
ティンパヌムには、聖母と聖ヨハネを従えたキリストの最後の審判の様子が描かれています。その下には、大天使聖ミカエルが何人かの悪魔と並んで秤で人間の「魂の重さ」(罪と美徳 どっちが重い?)を測っている場面がありましたよ。 左は祝福された者のみが進める天国ルート、右は罪の重さにより、悪魔達によって地獄へと落とされるルートですって! -
扉の両脇にはずらりと並んだ12人の使徒達。上下に彫像がないニッチェや不自然な形をしたニッチェなどが見られるのは、何度も改修が行われた証拠でしょうか?
1786年に行われた大改修の後、丘の上から降りてきて、この扉を通り、黄金階段を下って、大聖堂内を通り抜け、町の広場へと向かう者、あるいはその逆の利用を防止するため、この扉は閉じることになったそうです。ちょうどそのころ、サンチャゴへの巡礼者が増え、大聖堂が多くの人間を迎えるようになったということも一因だったようですよ。 -
コロネリアの扉を過ぎると、次に右手に見えてくるのは、元帥礼拝堂の優雅な尖塔群です。普通であれば高い位置にある窓がすぐ真横にあるのはなんだか不思議な気分。壁に取り付けられた様々な紋章を見て歩くのも楽しいです。
-
元帥礼拝堂と中央ドームを一緒に撮ろうと振り返った時、もう一つの扉を発見しましたよ! ペリェヘリア(ヘアドレッサー?)の扉という名前がついていました。この扉は1516年、ファン・デ・コローニャの孫、シモンの息子であるフランシスコ・デ・コローニャによって作られました。
実はこの扉こそ、丘の上に住む者たちの利便を考えて司教が作らせたという話があります。宗教的行事に関係ない者に黄金階段を行き来されるのが嫌だったんでしょうね。きっと。 -
こちらが扉の拡大図。
全体的にプラテレスコ様式で装飾されていて、低層部分には2つのレリーフ、洗礼者聖ヨハネと福音記者聖ヨハネのそれぞれの殉教場面がありました。その上の上層部分には左右にペテロとパブロが立ち、中央には音楽天使達が音楽を奏でる中、玉座の聖母子が司教を迎える場面が再現されていました。
一体どこがヘアードレッサーなの? 関係なさそう・・・やはりスペイン語のpellejeriaの訳が間違っていましたね。 -
せっかく階段を上ったのですが、大聖堂をぐるりと半周しただけで降りてきてしまいました。ここは広場というには何の表示もない、ただの大聖堂裏かしら・・・
-
反対側は元帥礼拝堂がこんな風に迫っていました。やはり大聖堂は畏敬の念をもって見上げるものですねえ。
-
元帥礼拝堂を背中になおも進んでいくと、ウエルト・デル・レイ広場に出ました。ウエルト・デル・レイとは王の庭という意味。庭なんぞどこにも見当たらない、殺風景な広場ですが、その昔カスティーリャ王国のフェルナンド1世はここに宮殿を構えていたそうです。
-
ウエルト・デル・レイ広場から南東におよそ100mほど進むと、今度は立派な広場に出ましたよ。マヨール広場です。かつては商人の小広場と呼ばれていて、毎週市場が開かれ、ブルゴスの商業の中心となっててました。
小広場とは思えないくらい広い三角形の空間です。拡張されてマヨール広場になったのかしら? -
こちらは、ブルゴスの市庁舎です。市庁舎が建っている場所には昔、町の城壁に設けられたカレタス門がありました。17世紀末に門を壊し、その上に市庁舎を建て始めたのです。ここが18世紀末に完成するまでの市庁舎は、そうそう、大聖堂に向かうときに通ったサンタマリア門の上にあったんでしたね。
建築家はゴンサレス・デ・ララで、ネオクラシカル様式を採用しています。今でも1階部分は城門の役割をはたしていて、この「門」をくぐると、アルランソン川沿いのパセオ・デ・ラ・アウディエンシアに出るんですよ。
市庁舎を見つめるカルロス3世の像は1774年に建てられました。 -
広場の床は赤レンガで覆われていますが、所々にこうした植栽がありました。広場を囲む建物は皆1階部分がポルティコになっているのが特徴的でしたよ。
-
マヨール広場から見た大聖堂です。この風景、中世からあまり変わっていないんだろうなあ・・・空が広い!
-
ついで私がやってきたのは、マヨール広場から東に100mほど行ったカサ・デル・コルドン。コルドン宮殿とも呼ばれています。
何を隠そう、この宮殿の主は先ほど大聖堂で訪れた元帥礼拝堂に眠る「元帥」、ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコとその妻メンシア・デ・メンドーサ、そして宮殿を建てたのはファン・デ・コローニャとその息子のシモンなんです! -
ファンとシモンが手掛けたこの宮殿にはその後オリジナルデザインを尊重しながらもいろいろな手が加えられてきました。
宮殿はペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコが「元帥」に任命された1473年の3年後より開始されました。写真の向かって右側が2つの塔を配したメインファサードになります。 -
ベラスコ家とメンドーサ家の紋章が組み合わされたコルドン宮殿の紋章が高々と掲げられていました。
-
こちらがメインファサードの中心です。上から垂れ下がっている紐のようなものは、「王がこの家で寝泊まりをした」という証だそうです。そしてこの紐、妻のメンシアが熱心な信者だったフランシスコ会のシンボル、3つの結び目のついた紐とも言われています。フランシスコ会の修道服にある結び目と一緒で、従順、清貧、貞節を表し、いつも心は聖フランチェスコ(フランシスコ)とともにあることを意味するのだそうです。その紐をスペイン語ではコルドンと呼んでいます。つまり、紐宮殿。それが、宮殿の名称となりました。
その下には、聖体の太陽とキリストを意味するIHSのモノグラム、ベラスコ家とメンドーサ家の紋章が仲良く並んでいました。 -
メイン扉の左横には、1497年4月23日、カトリック両王はこの宮殿で、二度目の航海新大陸アメリカの旅から帰ったクリストファー・コロンブスを迎えましたと書かれていました。右下にはコロンブスが乗った船のレリーフがありましたよ。
-
ファサードをもう一度反対側から・・・
-
この出窓が一番目立っていました。建物は幾度となく、手が入れられてきましたが、20世紀初頭には建物自体が老朽化し、崩壊寸前になっていました。1906年、建築家ヴィセンテ・ランペレスによって大規模修繕が行われ、ファサードと出窓、バルコニーはほぼオリジナル通りに復元されました。
-
通りを挟んだ反対側は、リベルタ広場。またの名を「商人の大広場」Plaza del Mercado Mayorと言います。そう、先ほど訪れたマヨール広場が「商人の小広場」でしたね。見た限りではこちらの方が面積が狭いので、名前が逆のような気がするんだけれどなぁ・・・
-
今度はファサードのある側から角を曲がって、サンタンデル通り沿いを見て歩きます。こちらの側は建物の面白みに欠けますね。
建物は1930年代以来、銀行として使われています。現在、Caja de Burgosの店舗になっていました。 -
ショーウインドウには、どこかで見たと思ったら、大聖堂の「高い」クラウストロにあったコーパス・クリスティ礼拝堂のメイン扉に彫られたキリスト像でした。
-
銀行は土曜日でお休みでしたが、入口から中を覗くと、コルドン宮殿建築の第二段階(1484年~94年)で作られたパティオが見えましたよ。ここも2階建てのクラウストロが周りを囲んでいて、アーチにはヴェラスコ家とメンドーサ家の紋章を中心とした装飾が施されていました。
-
こうやって、古いものを新しい方法で再活用していくことが文化財保存および維持にとって何よりも大切なんでしょうね。羨ましい限りです。
-
通りの反対側にあったMISAKOはかばん屋さん。日本人のデザイナーの店かと思ったのですが、そうではなく、mi saco スペイン語で私のカバン(バッグ)という意味 のcをkに変えただけで、日本人は関係ないんですって。
-
MANGO こちらはZARAに続くスペインブランドのお店ですが、私が撮りたかったのはお店ではなく、3階にある出窓。
なんて素敵なんでしょう! -
そのままサンタンデル通りを南下して、アルランソン川のほとりで見つけたこちらの宮殿はLa Casa de los Gigantillos ブルゴス名物の祭りに登場するギガンティーリョス=「巨大な人形たち」の館という意味で、人形たちが飾られた博物館、市役所、図書館として使われています。
-
こちらが伝統的なカスティーリャ風衣装に身を包んだ元祖ギガンティーリョスのお二人。時間がなくて探せなかったけれど、この二人の彫像もブルゴスのどこかに立っているはず。
-
そしてこれは是非とも見たかった・・・エル・シドの銅像です。1955年、ファン・ゴンザレス・ケラダによって制作された、勇壮な騎士の騎馬像です。
-
イチオシ
かっこよすぎですねえ…ため息しか出ない!
-
エル・シドの像を通り過ぎると、アルランソン川を渡る橋に出ます。旧市街に行くときに通ったサンタ・マリア橋より一つ上流のサン・パブロ橋です。
サン・パブロというのはかつてこのそばにあったドメニコ会の教会の名前ですが、橋の欄干に立つ人達が聖人ではなく、もっと古い時代の衣装を着ているなと、その時不思議に思ったのを覚えています。
帰ってから調べてみて、橋が20世紀半ばになってから橋を広げる工事で再建された際に、採用されたのが公募で優勝した「エル・シドに関連する人物たちの彫像」であることが分かりました。製作者はホアキン・ルカリーニ。全部で8つの彫刻で飾られています。
写真一番左端に立つのが、一寸小さくて見えにくいですが、エル・シドの息子ディゴ・ロドリゲスです。 -
そして、こちらがドーニャ・ヒメナ。エル・シドの妻です。
ディデゴ・ロドリゲスは彼らの子供の中で唯一の息子で有能な戦士でしたが、父親より早く、コンスエグラの戦いでイスラム教徒と戦って亡くなっています。 -
もう1枚だけ紹介。
この方はモリーナ公ベン・ガルボン。エル・シドの友人で、右手にカギを持っていました。見たときは聖人達だと考えていたので、てっきりキリストから天国のカギを預かったサン・ペドロ(ピエトロ)だと思い込んでしまいました。サン・ペドロ橋だし、ちげえねーと。
カギは中世には封臣[家臣]の忠誠の誓いを意味してのだそうですよ。それにしてもターバンにマント、イスラム風な衣装を着こんでいますね。 -
さあ、そろそろ戻らないと。アルランソン川沿いの緑豊かな並木道を通って、バスターミナルへと向かいます。
-
なんだか新市街は殺風景ですね。旧市街に戻りたくなっちゃった。
-
「戻っておいで~」と呼ばれているけれど、じっと我慢の子です。これも途中下車の辛いところ。素晴らしい大聖堂を見れたから良しとしなくっちゃ。
-
最後に時間的な余裕がなく、訪問できなかったブルゴス郷土博物館の写真をどうぞ。カサ・デ・ミランダとカサ・デ・イニェーゴ・アングロという隣接する2つの16世紀の宮殿が母体となっています。使われなくなった教会や修道院からの中世美術品が多数あると聞いています。
-
その斜め向かいにあったメルカド・スール。南市場です。とてもモダンなブルゴスの台所ですが、土曜日は午後3時までの営業のため、すでに閉店していました。
-
というわけで、長々と綴ったブルゴスの途中下車、1泊したかったなあというのが欲張りな私の本音です。ともあれ、途中下車大正解です。とても充実した時間を過ごせましたよ。
なんと寂しいブルゴスのバスターミナル。ここからまたアルサのバスに乗ってバスクのビルバオに向かいました。この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その12 ビルバオ(1)でね!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
junemayさんの関連旅行記
ブルゴス(スペイン) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
158