2016/05/14 - 2016/05/14
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2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう3年以上(書き始めは2年だった!)経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。
スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。
古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。
今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。
日程表 スペインの部
5月8日(日) 東京→マドリッド
5月9日(月) マドリッド
5月10日(火) マドリッド(セゴビア)
5月11日(水) マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木) マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金) マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土)★ マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日) ビルバオ
5月16日(月) ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火) ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水) ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木) オヴィエド
5月20日(金) オヴィエド→レオン
5月21日(土) レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル)
いつの旅でも、計画を立てるときに、こことここに行きたいから何日必要という基本的なプラニングが出来ない私。1週間あればなんとかなるでしょうってな具合にアバウトで日程を決めてしまうのです。先に日程ありきで後から具体的なプランが追っかけてくるので、当然日にちが足りなくなることもしばしば。それでも懲りない。次の旅の時もやはり同じことを繰り返す常習犯。ああ~マドリッド、まだ全然見れてないよ~1週間じゃ足りないよ~!!! ダメだこりゃ・・・
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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早朝1週間お世話になったIbisに別れを告げて空港へ。マドリッド市内の見学には移動時間がかかったバラハスでしたが、空港からのバス利用には大変便利。マドリッド市内の治安を考えると、ここで良かったのかなというのは単なる自己満足?
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ホテルの車で空港まで送迎付きなので、これまた便利でした。どこからバスが発着するのかわからなかったので、運転手さんにお任せ。で、降りた場所がターミナル4のこちら。っていうか、これはターミナルの天井ですね。正確には。
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いたいた! Alsaの懐かしいバス。朝早いせいか乗客の姿が見えないのが不安だけれど、どうやらここで良さそうです。
定刻より少々遅れて、ブルゴス経由ビルバオ行きのバスが入ってきました。運転手さんの首筋を見てびっくり! 彼の首には縦に大きく「サラ」と書かれた入れ墨があったんです。思わず聞いちゃいました。「サラってだあれ?」
彼の最愛のお嬢さんの名前なんですって。なぜ日本語? と尋ねたら、文字がエキゾチックだったからだそうです。そうかしらねえ・・・ひらがなならもっとエキゾチックな気がするけれど・・・余計なお世話ですがね。 -
7時15分発ビルバオ行き。マドリッドを出るとすぐにこんな風景。降りそうで降らないけれど、鉛色の空が続きます。
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風力発電地帯を横目に見ながら走ること2時間半。9時45分定刻にブルゴスのバスターミナル到着です。今日は夕方のバスでバスクのビルバオに向かいますが、6時間ほどの途中下車。荷物をバスターミナルに預けてブルゴスを彷徨います。
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おお~ 寒! ちょっぴり温かくなったマドリッドと比べて、ブルゴスは何と冷え込んでいるのでしょう!!!
出迎えてくれたのはこちらのお巡りさんの彫像。バスターミナル傍のヴェガ広場で交通整理に勤しんでいました。
カステーリャとバスクの中間地点にあるブルゴス(と言ってもここもカステーリャ、それも11世紀にはカスティーリャ・レオン王国の首都だった町です)は古くから交通の要衝地で、フランスピレネー麓サン・ジャン・ピエ・ド・ポルから始まるサンチャゴ・デ・コンポステーラへの主要ルート「フランス巡礼路」沿いの町でもあります。 -
ヴェガ広場を更に進むとすぐにアルランソン川沿いに出ます。川沿いにあるバス停からまずは7番のバスでサンタ・マリア・デ・ラス・ウェルガス王立修道院に向かいます。ここはスペイン通の友人Oさんの一押しなので、ろくすっぽ調べてこなかったのですが、まあ、なんとかなるでしょう。
写真はバス停から撮ったメルセ通りを挟んで建つラ・メルセ・ブルゴスと呼ばれている教会です。15世紀から16世紀にかけて建てられた後期ゴシック様式による石造りの建物です。こういう石造りの建物にはいつものことながら磁石のように吸い付けられます。王立修道院の帰りに寄ろうと思っていて、結局行きそびれてしまいました。途中下車の旅は忙しい! -
ブルゴスの市内バスはこちらの赤い車体。帰りはあのあたりで降りるのね。
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上の写真と同じ色のバスに乗って10分ほどで、サンタ・マリア・デ・ラス・ウェルガス王立修道院に到着です。
ここはカステリア王アルフォンソ8世とその妻レオノールが1187年に開いたシトー会女子修道院です。明らかに年代が異なる建造物の集合体は、鉛色の空のせいか、やけに重々しく、要塞のように堅牢で、よそ者の立ち入りを阻むような威圧感を持って迫ってきました。 -
今回の旅で王立修道院 いったい何個目でしょう?
最初のエル・エスコリアル王立修道院は、他にも様々な目的がありましたが、メインはアプルブルゴ朝(ハプスブルグ家)とボルボン朝(ブルボン家)のための王家の墓所、次のマドリッドにある二つの修道院デス・カルサス・レアレスとラ・エンカルナシオン。こちらは王家の女性たちのための生活の場としての修道院という色合いが濃かったように思います。
そしてこのサンタ・マリア・デ・ラス・ウェルガス王立修道院が4つ目。創健者アルフォンソ8世とその妃レオノールをはじめとするボルゴーニャ朝の王および王族の墓所(エル・エスコリアルよりこちらの方が450年も前)、そして王の戴冠式、騎士の叙任式を行う場として機能しました。修道院長は封建領主同様の土地、村を有し、税を免除され、強力な権力を与えられて、教皇の直接の部下と位置付けられていました。
となれば要塞のように見えたのも無理はなく、ここは防備を固めた城と行っても良いのかもしれません。 -
修道院は1185年に創建されてから、現在も変わらずシトー会によって運営されています。シトー会というのはベネディクト会から分かれた修道会で、厳格な規律を励行することで知られています。
11時半のガイド付きツアーの始まりはこちらの中庭から。
目の前には俗世の人間とは一切関わり合いを持たない修道女たちが今なおここで神に仕える生活を営んでいるということが、容易に想像できる空間が広がっていました。 -
イチオシ
この修道院もまた「スペイン語」オンリーのガイド付きツアーでないと入場できません。スペイン語は人の名前と年号以外わからないので、ガイドがついても意味ないんですが・・・せめて英語の解説書を作って持たせてくださればありがたいのですが、なんとかなりませんかねえ・・・
中は撮影禁止だというので、今のうちにとさっそくカメラを取り出しましたが、早くも石のオーラを感じてしまいました。ずっしり・・・重く感じます。
左側上部が三角形の建物が教会です。 -
左手の門をくぐり、先ほどバスから降りて歩いてきた道から見えたパティオ沿いに歩きます。一目散に歩くガイドと、ちんたら歩くツアーの面々。そのまたしんがりを務め、3歩歩んでは立ち止まっては写真を撮りまくる私。その差はずんずん開きます。
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途中から教会の柱廊の中に入りました。ここは騎士たちのクラウストロ(回廊)と呼ばれているそうです。こちらは回廊の門にあたるのかな?
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柱廊の中です。突き当りが教会の北側翼廊部分に当たります。
飾り気のないシンプルなリブヴォールトとは対照的に・・・ -
アーチに並ぶ2本柱の柱頭は一つ一つデザインが異なっていて、もっとじっくり見たいなと思った場所でした。
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アカンサスの葉というオーソドックスで一般的な装飾でありながら、姿、形は千差万別。
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何枚かの写真を1枚にまとめればよいのでしょうが、そういう小細工が出来ないので、延々と続きます。
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これ以上時間を食うと置いて行かれそうなので、どうしても撮影が雑になっちゃう。
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ようやく皆が集合した場所はやはり先ほど見えた塔の下あたりにある扉の前。そこから先は撮影禁止です。
もう1枚撮るだけだから、ちょっと待っててね! -
教会内に入ってすぐの場所だったかな? 古い墓石をいくつか発見。まだ駄目! と言われないので写真撮っています。
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墓石の上に立つ彫像は頭でっかち寸足らずの様相から中世のもの 多分この修道院+教会が建てられた12~13世紀と推察しますが、何せ解説が全くありません。
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上の写真を角度を変えてもう1枚。後でいろいろと調べてみたけれど、こちらの墓石に関する記事、解説は見つかりませんでした。
後刻入場した教会に安置された創建者のアルフォンソ8世とその妃レオノールの棺は一対のライオンの石像がその背中で支えていて、通常の石棺が横に二つ仲良く並んだ形をしていて、大変目を引く豪華な装飾が施されていました。
それとは全く逆に、装飾が一切ないむき出しの石棺もいくつかあって、そのあまりのギャップが印象に残りました。 -
今改めて修道院の歴史を読んでみると、19世紀のナポレオン軍進駐の際に、こっぴどく略奪、破壊行為が行われたようです。目ぼしいものはすべて持ち去られたと書かれていたので、あの石棺は装飾をはがされた後のなれの果てだったのかなと思うようになりました。
石に施された彫刻自体は大変見事ですが、外側に金属や貴石等の装飾のない、上の写真のような石棺は略奪を逃れたようです。単なる推測に過ぎませんが。
ナポレオンの軍隊が泥棒集団だったという事実はここスペインでも強く印象付けられることになりました。 -
ここは教会の中央扉。プエルタと呼ばれていました。ティンパヌム中央にある3つの塔のある「城」のエンブレムは、アルフォンソ8世とレオノールの棺の装飾にも使われていました。
訪問当時は全く知らなかったのですが、アルフォンソ8世の妻レオノール(英語名エレノア)はプランタジネット家出身で、イングランド王ヘンリー2世の娘で、ライオンハート(獅子心王)と呼ばれた勇猛なリチャード王、マグナカルタに署名したジョン王とは兄妹同士でした。彼女の棺にはプランタジネット家の紋章「三頭のライオン」の装飾があったとありましたが、気が付かなかったなあ・・・何せ下調べなしで行ったもんで・・・ -
見学順路は殆ど記憶にありませんが、王家の墓所と呼ばれるに相応しい、荘厳な雰囲気に満ちていました。沢山の棺を見た後、いくつかの礼拝堂を巡り、天井の高い、スペインで一番古いと言われるステンドグラスがあったチャプターハウスを通り抜けました。写真が撮れないと、ちんぷんかんぷんの説明を聞いている間がとても退屈
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ようやく写真が許可されたのは、こちらのクラウストリーリャスという回廊が最後の見学場所だと告げられた後のことです。
こちらの回廊は開設当初1187年から存在していました。この修道院でアルフォンソ8世が生きていた時代に作られたもので現存する唯一の場所だそうですよ。修道院創建前にここには小さな屋敷が建っていたそうですが、ここがその宮殿の一部だったのかもしれません。文書が残されていないので、想像するしかないようです。
回廊の各辺には薄いクリーム色の二本柱で形作られた12個のロマネスクアーチがありました。最初に通った教会脇の柱廊と比べて明るく開放的なイメージがありますね。 -
イチオシ
中庭には中央に噴水と、綺麗に刈り込まれたトリアピーが4本。
この修道院にはもう1つ、13世紀に入ってからサン:フェルナンドのクラウストロと呼ばれるやや大きめの回廊が作られました。そちらが完成すると、クラウストリーリャスはもっぱら修道女たちの活動と祈りの場となりました。 -
当時ここは瞑想には最適な場所だったのでしょうが、綺麗に修復されすぎちゃったのか、はたまたトリアピーのせいか、私的には落ち着かない気分。
歴史的な重みが希薄で、ガイドの話を聞いた後も1000年近く前に作られたものとは到底思えませんでした。チャーミングで魅力的な場所だけれど、回廊の内側と外側がマッチしていないような気がしましたよ。 -
気を取り直して、私のお目当て柱頭に集中します。やや長めの柱頭は、ロマネスクからゴシックへの移行期によくみられる形式。様々な植物の葉や実のモティーフを見ることが出来ました。
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微妙に一つずつデザインが異なります。
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ずらりと並んでいるのを見ると愛おしくなりますねえ。
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回廊を設計したのはロドリゴのマスターと呼ばれた人物で、ブルゴスのシトー会聖堂に残された文書に記載がありました。1203年に王は彼の仕事に満足して、規定以上の報酬を支払っています。
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回廊の各辺の中間地点には、こんな装飾もありましたよ。カステーリャを象徴するモチーフだそう。上にはロマネスクの町が広がっていますね。下はペアのドラゴンでしょうか?
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床には小石で用いたモザイクが広がっていました。オリジナルではないと思うけれど、世界の至る所で見られる装飾の一つで、これまた興味深いです。
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ようやく人影が消えたクラウストリーリャスです。天井は横木を渡したシンプルは平天井。
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壁には石棺の蓋、石碑、墓石など、どこの回廊でも見られるものが展示されていました。
多くの絵画を所蔵し、美術館のようだったマドリッドの王立修道院とは異なり、ここは安息の場所として機能してきたことが良く分かりました。少なくともナポレオン軍がやってくるまでは、ボルゴーニャ朝王家の人々は安らかな眠りを得ていたに違いありません。 -
あっという間に回廊から俗世間へと戻って参りました。どこから出てきたのか、全くもって記憶なし。
ここはツアーが最初出発した中庭で、教会の並びにあった建物に付属した小さな噴水です。水がいっぱいになる前に流れ出るよう、石盤に切込みが入れてあるのが心憎いです。 -
修道院の宿泊施設オスペデリア。建物を縁取るレースのような装飾が美しいですね。
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正面に見えるのは、アルフォンソ11世の塔。修道院を取り巻く城壁の一部となっていて、通用門として使われていました。
ちょいと待てよ。アルフォンソ8世でなくて11世? 同じボルゴーニャ家ですが年代的にも100年ほど後の人だし、どうして?と思い、調べてみましたが、塔の名の由来についての詳細は分からずじまいでした。(´・ω・`)
また、空が雲に覆われてしまいました。ここで、ツアーに参加していたベルギー在住のスペイン人女性から話しかけられて、おしゃべりしながらバス停へ。修道院の事分かりやすい英語で解説してくれた彼女のおかげでその時は色々理解できた部分もあったのですが、今となっては??? ごめんなさい・・・(´・ω・`) -
帰り道撮ったたった1枚の写真。バス停に戻る途中のラス・ウェルガスの町並みです。にわか仕立てのツアー仲間のおかげで戻りのバスの時間が分かって、あまり待たずに市街地に戻ることが出来ました。歩いても30分とはかからないので、その覚悟もしていたのですが、何せ途中下車のたびなので移動時間短縮はありがたい限り。
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柳の並木道のあるアルランソン川沿いに戻って参りましたよ。お昼過ぎたというのに、まだ冷え冷え!
ただいまの時刻13:15。意外とかかりましたね。3時間半の王立修道院訪問でした。残り3時間半あります。急がなくっちゃ!
さて、ブルゴスの旧市街は、今見えているサンタマリア橋を渡った向こう岸にあります。今日のお目当てはもちろん世界遺産にもなっているブルゴス大聖堂。巨大かつとてもユニークな建物として知られていますが、どのあたりがどうユニークなのか、その辺りを探りに行ってみましょう。もうその一部が顔をのぞかせていますがね。 -
早速、前の方向指示板に、巡礼路エル・カミーノ のシンボルマークと巡礼宿への矢印発見! 宿は旧市街にあるようです。
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美しく整備されたサンタマリア橋の上です。この写真だと橋には見えませんが、・・・
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実際には流れのやや急なアルランソン川に架けられた立派な橋ですよ。
都会とは思えない自然な川の流れが素敵ですね。手前の柳は伸び放題。中洲の並木はポプラかしら? -
橋の両側に何か所か出っ張りがあり、そこから町の入口サンタマリア門を撮った1枚。
今いる側は川の下流側なので欄干の出っ張りは四角形をしていますが、橋の反対側は上流側なので三角形をしていました。橋脚に三角形の出っ張りを設け、水の勢いを点で受け止めて二方向へと導き、自然に水の力を逃がす形状にしているんですね。
このサンタマリア橋これまで何度も洪水で流され、その度に架け直されてきましたが、現在のものは中世からの外観を損なわない歩行者専用の橋として2006年に完成したものです。 -
橋を渡り切った両側の岸沿いは、美しいプロムナードのある公園パセオ・デ・ラ・アウディエンシアになっていました。
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よく見ると、面白い刈込をされた木々がいっぱい!
もしかしてブルゴスはトリアピーが盛んなのかしら? -
さて、こちらがかつて12あった町に入るための門の一つサンタマリア門です。橋の方向とは微妙に位置がずれています。
現在の門は16世紀初頭に起こったコムネロスの反乱(セゴヴィアのたびでも触れましたね)に手を焼いた神聖ローマ帝国カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)が、彼を支持してくれたブルゴスにお礼の意味を込めて再建したものです。 -
門は、ブルゴスとカステーリャの著名人の彫像で飾られています。中段中央に陣取っているのは、他でもないカール5世その人。他にはブルゴスの生みの親ディエゴ・ポルセロス(下段中央)、これまたブルゴスの伝説的な英雄エル・シド(中段右側)等々。そして一番高い場所にある祠にはサンタマリアが幼子を抱いて静かに座っていらっしゃいました。
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門のファサードは1536年に工事を開始し、彫刻家オチョア・デ・アルテアガによる彫像が完成したのが1553年のことでした。
門の入口アーチ部分には、少々くたびれたフレスコ画がまだ判別できる程度に残っていました。 -
こちらが反対側。
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門を通り抜けるまでの間に丁寧な説明板があって、これが単なる門ではなく、18世紀末までは市庁舎を兼ねた建物であったことを知りました。おやまあ、びっくり!
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こちらが門内部への入口です。時間がなかったので後回しにして、ここも結局見れませんでしたが、現在展示会場、博物館になっていて、ブルゴス城にあったムデハル様式の石膏細工などが展示されています。有名なのは八角形をしたポリダの間で、彩色された天井の木組みが見事なのだそうです。
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いよいよ、姿を現しましたよ。お城かと思うほどどでかいブルゴスの大聖堂。ようやく1枚に納まったという感じ。
ファサードを撮った写真ばかり見てきたので、奥行きの広さに言葉を失います。左側の塔(本当は2本あります)のある方がファサードのある正面で、身廊と翼廊の中央交差部分にはいくつもの尖塔が突き出している六角形の美しいドームがありました。 -
イチオシ
ここからだと南翼廊のバラ窓が綺麗に見えていますね。その右下の壁で囲まれた部分はクラウストロでしょうか?
土曜日のせいか、人が多いですね。大聖堂への入口はどうやら南翼廊あたりと目星がついたので、ファサード見学は後回しにしてそちらを目指します。 -
翼廊手前にある建物がインフォメーションになっていました。左側の壁に4か国語で案内が描かれています。今日は入場は16時までですって。
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付属博物館込で7ユーロのチケットを購入して、入口は階段上の南翼廊にあるこちらの扉から。
大聖堂は1221年、国王フェルナンド3世とマウリシオ司教の手により、ロマネスクの古い聖堂の上にゴシック様式で着工しましたが、14世紀、15世紀、16世紀に大幅な改修を行い、燃え盛る炎のようなフランボワイヤン様式の装飾が加えられました。石材は主として近くの町の採石場から運ばれた石灰岩が使われています。 -
レイ・サン・フェルナンド広場を見降ろすこちらの扉は、1230年~40年の間に作られたスペインゴシック建築の最高峰です。この扉の建造には、同時期に作られたフランスはアミアンのノートルダム大聖堂(1220年~建築開始)建設に関わったBeau Diueと呼ばれるマスターが加わったと言われています。両者に類似点がいくつもあるのだそう。
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というわけで、突然、写真は2019年5月に飛びます。アミアンにあるノートルダム大聖堂を訪ねました。こちらはファサードにある扉の一つです。いかがでしょうか? 似ています? う~ん。
ゴシックの教会と言ったら皆こんな感じなので戸惑いますよね。 -
イチオシ
ブルゴスに戻りましょう。ティンパヌムには律法の書を示している万物の支配者キリストの周りを福音記者たち4人のシンボルが取り囲んでいます。その両側には福音記者たちの仕事ぶりがうかがえる、珍しい場面がありましたよ。一心不乱に聖書の執筆をつづけていますね。
その下には12人の使徒達。そして二つの扉を分けている彫像は大聖堂着工当時のブルゴスの司教マウリシオではないかと言われています。 -
いつまで扉の前でぐずぐずしているの! って言われそうなので中に入りますね。さあ、これからがいつものことですが長いですよ。なにせ礼拝堂が26もある大聖堂ですからね。覚悟はよろしい?
入口の左側は「訪問の礼拝堂」でした。15世紀の建造。
早速ゴシック様式のアルコソリオの墓が出迎えてくれました。古代ローマで多く用いられた壁の窪みを使った墓ですが、ゴシック様式の到来とともに13世紀以降再び多くみられるようになりました。勿論綺麗な縁取りレースのような装飾はローマ時代には見られなかったもの。石とは思えない繊細な造りです。 -
礼拝堂の名前の由来となった「訪問」の絵画は右側奥の1653年にそれまでのゴシック調と置き換えられたバロック調の祭壇下段中央にありました。
部屋の中央に置かれた石棺は、15世紀の大聖堂の司教だったアロンソ・デ・カルタヘナのもの。彼の棺にも同じく「訪問」のレリーフが見られます。彼は人文主義者で、歴史家、外交官、ルネサンス以前のキリスト教著述家としても有名です。
カルタヘナが招へいした建築家がドイツからやってきたファン・デ・コローニア(ドイツ風に直すと「ケルン出身のハンス」)。この大聖堂にフランボワイアン様式を取り入れた第一人者です。おそらくカルタヘナの石棺もコローニャの作ではないかと言われています。横臥像の彫刻は、これも恐らくですが、アントワープ出身のヒル・デ・シロエ。この人も15世紀の大聖堂大改造の立役者です。 -
角度を変えてみると、奥の部屋の左壁際にもアルコソリオの墓がありました。縁取りに曲線を多用したデザイン プラテレスコ様式かな?が用いられていますよ。
この礼拝堂には床にファン・デ・コローニアとその妻の墓もあると聞きましたが、見いだせずに終わりました。自らの墓もプロデュースしたのかしら? -
イチオシ
「訪問」の礼拝堂を出たところにあったのは、古いクラウストロ(回廊)に続く素晴しく立派な扉。13世紀末の建造で、フランスシャンパーニュ派に属していたファン・ペレスの作とされています。保存状態が良く、彫りも鮮明で美しいので、暫く見とれてしまいました。
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ティンパヌムにあるのはキリスト洗礼の場面とキリストの系譜・エッサイの木。その上の2つのアーチボルト部分にあるのは14人の預言者たちの姿だそうです。
エッサイの木って何だろう?と思い、調べたのですが、こちらのティンパヌムよりも分かりやすい祭壇が後程登場しますので、詳細はその時に。
扉の両側には、キリストの到来に関する彫像がたっています。右側は2人の預言者イザヤとダヴィデです。 -
左側は「受胎告知」。天使とマリアの距離がこんなに近いのは初めて見ましたよ!
マリアは驚いたしぐさをしていますが、顔にうっすらと微笑みを浮かべているみたいに見えます。 -
こちらは扉の上半分を撮ったもの。当時の司教ルイス・アクーニャの依頼を受けた彫刻家ヒル・デ・シロエの作で、15世紀終わり末に完成しています。
左側はキリストの「エルサレム入城」ですが、非常におどろおどろしい右側部分が難しかった。大勢の人間が魚のような化け物のような口からぞろぞろと這い出して来る場面。こんなシーン、聖書にあったっけ???
苦労した結果「リンボへの降下」というのがタイトルだということが判明。リンボが分からなかったので調べてみましたよ。
キリストは〈埋葬〉と〈復活〉の間に〈リンボ〉に降り,彼が福音をもたらす以前に生きた正しき人々を救い出して,天国に連れのぼる。なお,リンボとは〈縁〉を意味するラテン語のlimbusに由来し,地獄と天国との中間にある霊魂の住む場所をいう。出典 世界大百科事典 第2版
へぇ~ 初めて知りました。リンボ あな恐ろし! -
身廊と翼廊の中央交差部分が近づいてきました。これは南側翼廊から北側翼廊方向を写した1枚。まだドームの天井は見えませんが、プラテレスコ様式、コローニャが手掛けたフランボワイアン装飾が至る所に施されているのがわかります。白一色なので美しい浮彫模様が浮かび上がっていますね。
ドームの壁を拡大してみたら1550年という制作年が書かれているのを発見!
鉄格子の先、ドームの下は、ブルゴスの英雄エル・シドとその妻が葬られているのです。順路に従って後で詣でることにしましょう。
蛇足ですが、エル・シドと聞くとチャールトン・ヘストンの顔を思い出す私って古すぎかしら? 1962年公開の映画ですから、もちろん初公開時に見たわけではありませんよ。何回か目のリバイバルで見た記憶あり。 -
2つ目の礼拝堂はサン・エンリケ、あるいはエッケ・ホモ(この人を見よ)の礼拝堂と呼ばれています。実のところ、ここは1674年、当時の大司教エンリケ・ペラルタ・イ・カルデナスの依頼により、5つの礼拝堂が統合された、言って見れば寄せ集め所帯です。
今正面に見えているエッケ・ホモの祭壇はアントワープの職人によって1500年頃作られたもので、統合前からここに置かれ、多くの人々の信仰を集めてきました。 -
エッケ・ホモの祭壇の右横に、依頼主の大司教エンリケ・ペラルタ・イ・カルデナスの墓碑がありました。1670年から72年にかけてベルナベ・デ・アサによって作られました。
この墓碑に倣って礼拝堂内の壁とヴォールトが幾何学模様で統一されたことが良く分かりますね。 -
他にもいくつか祭壇がありましたよ。なにせ寄せ集めですからね。これはそのうちのサン・アンドレとマグダラのマリアの彫像のある祭壇(右側)です。
左側はどう見てもオルガンですね。古そうに見えますが18世紀のものだそうです。 -
手前の部屋の一方の壁はアルコソリオの墓が占めていました。装飾過多と言えばそれまでだけれど・・・モノトーンなので目には馴染みます。
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正面から写すと、統一感ある文様が光の中に浮かび上がりました。上方左側にはかつて窓があったのかしら? 配置は計算され尽くされているようです。
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南翼廊先端部にあるバラ窓とステンドグラスです。実際はもっと美しいのですが、致命的にカメラも腕も悪い・・・くす~ん!
全体的にモノトーンで、私好みの色調です。方立のある連窓も良いですね。 -
ググっと近づいてきた中央ドーム。どこまでがフランボワイヤンで、どこまでがプラテレスコなのか、よくわかりません。13世紀から16世紀まで装飾された順を追ってCG等で見られたらさぞかし面白いことでしょう。
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子供のキリストを抱いて川を渡るサン・クリストフォロ(スペイン語ではサン・クリストバル)の絵がありました。
元々クリストフォロという名前は「キリストを背負うもの」という意味だそうです。この聖人背が高くて力持ちで、純粋かつ素朴なので、人々にとても親しまれています。子供を見る優しいまなざしに癒されます。写真だとわかりませんが、実はこの絵高さ5mほどもある大きな絵でした。18世紀の作だそうですが、画家の名前は分かっていません。 -
内陣の外側をぐるっと囲む通路をスペイン語ではヒローラGirola(英語のAmblatoryと一緒かしら?)と呼んでいます。向かって左側は内陣、右側には礼拝堂が続いています。
スペインの大聖堂にはこの形式が多く、今回の旅で訪れたセゴビア、アヴィラ、マドリッドの大聖堂は皆このAmblatoryがありました。薄暗い通路を進みながら、きらびやかな鉄格子の隙間から祈りの場を覗き見、仰ぎ見ながら、厳かな雰囲気を味わっています。 -
鉄格子越しに内陣を覗くことが出来ます。
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3つ目の礼拝堂はサアグンの聖ファン San Juan de Sahagúnという、私には馴染みのない、15世紀スペインの聖人に捧げられていました。黄金色の輝く祭壇はロココ調で、1765年~70年にかけて作られたもの。
中央のアウグスティン会の僧服を身に着けた聖人の彫像は、新古典主義の彫刻家ファン・パスクアル・デ・メナの作。彼の作品はマドリッドのネプチューンの泉やレティロ公園内に多く残されています。 -
San Juan de Sahagún の祭壇の左隣にあったこちらのフレスコ画には何の注釈もありませんでしたが、・・・
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反対側の壁のフレスコ画の下に注釈発見!
「この柱とスタンドの間には、ロハス家の何人かの騎士の姿がありました。」
大体こんな意味かしら? 1765年以前ここはロハス家の礼拝堂だったそうです。「ありました」 というのは過去形だから、つまり、騎士の姿は現存しないということですな。それにしても、このフレスコ画の解説が欲しかったなあ・・・ -
上の礼拝堂を通りぬけると、2部屋続きの聖遺物の礼拝堂に入ります。写真のようなややどぎつい金ぴかの聖遺物収納棚が奥に一つ、手前両側には前に彫像の立つ棚が向かい合わせで置かれていました。
ここは1761年~63年の間に、カルメル会の建築家ホセ・デ・サンファン・デ・ラ・クルスによって設計されました。写真に見える多くの石膏像はフェルナンド・ゴンザレス・デ・ラーラの製作。 -
向かって左側の収納棚には、ピンクの衣を着た聖人像が! 男性でこの色は珍しいですねえ・・・
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向かって右側。こちらのマリア像? の空色のケープも目立ちますねえ・・・
これらロココ調の棚には大聖堂が収集した11世紀から21世紀までの聖遺物が納められています。 -
ヴォールトもド派手!
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大聖堂内をファサードに向かって西へ。5番目はファサードに一番近い、プレゼンテーション礼拝堂です。ここはとても広い空間で、今までの礼拝堂のざっと4,5倍の面積はありそう。1521年から24年にかけて聖堂参事会会員でパトロンのゴンサロ・ディアス・デ・レルマの命を受け、ファン・デ・マティエンソのマスターが墓所のための礼拝堂として建造しました。
まずはアラバスター製の石棺と背面の装飾が隙間なく施された背の高いレリーフがお出迎え。聖堂参事会会員であるサンチャゴ・デ・ビルバオの墓と葬送記念碑です。中央下に見えるピエタが目立っていますよ。ヒル・デ・シロエの作品。この人の作品、これからもまだたくさん出てきますからね。覚えておいてくださいね。 -
イチオシ
続いてこの星型をした八角形のヴォールトに注目です。透かし彫りと浮彫が施された、花弁のような柔らかさ、しなやかさを備えたヴォールトですねえ。
ファン・デ・マティエンソは大聖堂にある「元帥の礼拝堂」のヴォールトに強い影響を受け、この星型のヴォールトを設計したんですって。元帥の礼拝堂は後で行きますよ。 -
ヴォールトが示す通り、八角形の礼拝堂です。中央祭壇の周りは、ご覧のようなゴシック、ルネサンス時代の墓が取り巻いています。
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祭壇中央の絵画もこの礼拝堂の至宝の一つ イタリアの画家セバスティアーノ・デ・ピオンボの「聖家族」です。最初マリアと幼子にしか気づきませんでしたが、目立たない右手背後にヨセフの姿がありました。ヨセフの存在はイタリア絵画では目立たないのが常。スペインに来てからヨセフが存在感あってびっくりしたもの!
この絵は、1524年頃に礼拝堂のパトロン ゴンサロ・ディアス・デ・レルマ自身によってローマからもたらされたもので、イル・ピオンボの作品の中でも最も優れたものと考えられています。 -
またまた蛇足ですが、こちらはルーブル美術館にあるイル・ピオンポの作品「訪問」です(2019年5月)。光が入るので、変なアングルになってしまっているけれど、私のお気に入りの作品の1枚です。
イル・ピオンポっていうのは通称、あだ名ですが、なんと「鉛」という意味ですって。 -
中央祭壇の左側にあった聖母子像は、15世紀に作られた石像です。この写真ではわかりにくいのですが多色塗で、彩色には金がふんだんに使われていて、青、ローズ等の色もきれいに残っていました。
ニッチェの中の彫像と、壁一面の装飾が相乗効果をもたらしていますね。 -
そしてこの礼拝堂が誇る至宝の3番目が、中央に置かれたパトロン ゴンサロ・ディアス・デ・レルマ自身の石棺です。ブルゴーニュ出身のフェリペ・ヴィガルニーの作品。こちらもアラバスター製です。トンドに彫られた精巧な聖人像、土台部分の緻密な彫刻には目を見張りますね。
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頭の下の部分にはディアス・デ・レルマ家の大きな紋章が彫られていました。
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右手の黒い棺は、ゴンサロの兄弟アロンソの墓です。一つ一つ異なる繊細なレリーフが見事です。おそらくは故人の業績をたたえた碑文も掲げられていました。
左側のアルコソリオの中に横たわるキリスト像は、ヒルの息子ディエゴ・デ・シロエの工房の作品。 -
カウンターファサードにやって参りました。あらぁ~ サンタマリア扉が開いていますよ。ファサード側からも入場できたんですかね?
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視線を感じ見上げたら、バラ窓の下に、グローブ(地球)を携えたキリスト像発見! そして・・・もう一人いましたよ。右手ヴォールト近くにパパモスカスと呼ばれる人物が! 見えるかなあ 写真では右上隅辺りです。
おかしな顔をした人形で、時計仕掛けで動きます。毎時右腕を動かしてベルを鳴らし、口を開けるそうです。知らなかったので、気にも留めないで通り過ぎちゃいましたよ。この大聖堂にしかいない、ユニークなおっさんです。 -
ファサードから入ってくると、真っ先に目につくのがこちらのレトロクワイヤ(合唱隊席の裏側)でしょう。ずっしりとインパクトがあります。
17世紀のフランドルの画家ファン・ファン・デル・ハーメンによって描かれているのは隠者テーベの聖パウロスと聖アントニオス。馴染みのない聖人ですが、ヒエロニムスが書いたパウロス伝によると、パウロスはデキウス帝のキリスト教徒迫害から砂漠に逃れ、113歳のころ90歳のアントニオスの来訪を受けた他には誰とも会わず、生涯そこで過ごしたと伝えられています。
和やかな歓談風景に見えますが、生涯で唯一の客を迎えた場面だったのですね。 -
礼拝堂巡り後半は絢爛豪華な18世紀の建造、サンタ・テクラ礼拝堂から。・・・と思ったのですが、プライベートのミサ進行中でした。ガラス越しに撮ったので、反射光が写っていますね。
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1世紀の殉教者のサンタ・テクラとサンチャゴ(聖ヤコブ)に捧げられた礼拝堂には、目を見張るような多色漆喰細工でできたヴォールトがありました。トレドの象嵌細工ダマスキナードのような世界が広がっていますね。ここからだとその一部しか見えなかいのが実に残念。
祭壇はバロック様式の金ぴかで、これは見なくても良かったかな・・・ -
気を取り直して向かったのが聖アンナまたは無原罪の礼拝堂。14世紀に存在していた聖アンナと聖アントリンの二つの礼拝堂を合体し、1477年に司教ルイス・デ・アクーニャがファン・デ・コローニャとその息子シモンに無原罪の御宿りに捧げる礼拝堂の建造を依頼したのが始まりです。
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まずはシモン・デ・コローニャの手による司教ルイス・デ・アクーニャの親友で大助祭だったフェルナンド・ディアス・デ・フエンテペラオの墓碑です。1492年。ゴシック様式の中に華麗さとエレガントさを注入したこのスタイルの墓碑は、その後この大聖堂で作られた墓碑のモデルとなりました。
故人が横臥するそのすぐ上に彫られているのはキリスト生誕の場面。ここでは生と死が共存していました。 -
イチオシ
こちらが礼拝堂の主祭壇! 凄い迫力~!
フランドル絵画の影響を強く受けつつスペインのゴシック美術がその独自性を発揮するのは15世紀にイスパノ・フラメンコ様式が花開いてからと言われていますが、こちらが正にその代表作と言える祭壇でフランドルの彫刻家ヒル・デ・シロエの1486年から1492年にかけての作品です。
またお会いしましたね。エッサイの木。クラウストロに出る扉のところでお約束したこちらがキリストの系譜(エッサイの木)の祭壇です。 -
「エッサイの木」を辞典で調べると、「父であるノアからセムとヤペテの2本の幹が伸び,この2本が交差してつくる三つの輪によってキリスト教の過去,現在,未来が象徴される」 世界大百科事典 第2版より引用
と書かれていました。これに加えて、キリスト生誕までの家系図のような意味合いもあるようです。中央下部に横たわるノアからセムとヤペテの2本の幹が伸びているのが分かりますでしょうか? 中央で抱擁するのは、マリアの両親ヨアキムとアンナ。幹は複雑なルートを辿り、この二人と結びつきます。そして幹は再び上昇し、高い場所に座る聖母子のところで最高潮に達するというわけです。
この祭壇には他にも様々なキリスト一家に関連した物語の場面が散りばめられていました。 -
エッサイの木祭壇の前には、礼拝堂の建築を命じた司教ルイス・デ・アクーニャの石棺がありました。こちらは息子のほうディエゴ・デ・シロエの1519年の制作。ルネサンス様式の浮彫が大変美しいアラバスター製の棺なのですが、台座に関してはバチカン美術館にある教皇シクストス4世の墓のそれを模倣したものだそうです。
どこの大聖堂でもあるのでしょうが、ここでは司教自ら礼拝堂を建築し、そこに自分の墓を作るというパターンが多いですね。スペインの方が司教の権力・財力が強かったのかしら?
イタリアの場合には、そのほとんどが有力貴族所有の礼拝堂だったように記憶していますが、単なる思い込みかもしれません。 -
こちらは、礼拝堂内にもう一つあった聖アンナの祭壇です。こちらもディエゴ・デ・シロエの1522年の制作。中央、聖母子に寄り添っているのが聖アンナですね。
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堂内の壁にはフランドル製らしい16世紀初頭のタペストリーの展示もありました。「善と悪の戦い、そして罪と死を越えたキリストの勝利」という長ったらしい名前でしたよ。
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上のタペストリーの下には2枚の絵画。
これはどこかで見たことがある・・・と思った1枚には、アンドレア・デル・サルトの「聖家族」のコピーだと書かれていました。オリジナルの制作年は1528年~29年で、ローマのバルベリーニ美術館に所蔵されています。
マドリッドの聖イシドロ教会で見た、幸せそうな仲睦まじい「聖家族」とは大違い。三人の沈痛な面持ちがその後の運命を暗示しているように思えてならない、見ていると落ち込んでしまう絵でした。 -
かつてここが別々の礼拝堂だったということが良く分かる二つのアーチの真中に、奇妙なもの発見! 中央の天使は一体何者でしょう? 聖ロッコのように、片ひざのけがを見せるポーズが気になります。
どなたかご存知であればお教えください。 -
大聖堂の入口南側翼廊とは反対側に伸びる北側翼廊の突端に、突如として現れたのはこちらの黄金の階段です。
大聖堂の北側は高台になっていて、床面とは約8mの高低差があるため、北側の道に出るために必要な階段でした。最初に作った階段が老朽化したため、1519年、司教ファン・ロドリゲス・デ・フォンセカはディエゴ・デ・シロエに依頼。階段は1523年に完成しました。 -
ディエゴが手掛けた錬鉄製の階段は、建築、装飾の双方でブラマンテとミケランジェロに触発されたイタリアルネサンス様式で、手摺には幻想的な植物、天使や人間の頭、紋章などでデザインされています。
フランスの建築家シャルル・ガルニエは、この階段からヒントを得て、パリのオペラ座の大階段を設計したんですって。 -
階段に向かって左側のニッチェにあったのは、キリスト教の聖体の祝日(Corpus Christi)のプロセッション(行列)用の馬車でしょうか?
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イチオシ
この階段を上ったところにあるコロネリアの扉はもう200年も前から閉鎖されていて、階段も上ることはできません。
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イチオシ
こんな優雅な階段を上って教会の外に出るというのは、よその教会では味わえないこの大聖堂独自のものだっただけに残念ではありますが、2つ目のユニークなものに出会うことが出来たところで、長くなりましたのでちょっと休憩。
この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その11 ブルゴス(2)で!
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