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A 墓参りに藤岡まで渋滞の中マイカーで 5月3日連休中日<br />1.先祖の墓近くの親族との対話<br />2020オリンピック観戦チケット予約<br />私と同年代の夫婦と息子と同年代の夫婦と話したが、余り東京オリンピックに関心がないのに驚いた。<br />我が家では孫四人がサッカーに関心が高いため私の費用負担で11名全員で観戦できるように、東京近郊のサッカー予選を申し込んでいる。<br />そのような配慮は不要であったことに後から気が付いた。息子の内、2人はそれぞれ30万円以上申込み、1人は10万円以上申し込んでいる。私のような年金生活者との収入の違いが歴然と出てしまった。<br />2.NAVIの利用<br />車には、2012年発売のカロッツェリアのNAVIが搭載されている。データは2018年で更新がストップしている。今回はYAHOOのナビを試用してみた。<br />yahooナビはETC寄居で出ることを指示した。指示通り出口から出たが、カロッツェリアのNAVIとYAHOOのナビとも、右へ行くのか左に行くのかどの方向に行くのか、指示することができなかった。<br />3.PA寄居と星の王子さま<br />関越道は度々往復している。PA寄居はいまだ立ち寄ったことがなかった。PA寄居で驚いたことは、フランス語の表示にあふれていること。喫煙所でさえフランス語の表示である。<br />もうひとつ驚いたことは「星の王子さま」の挿絵が大量に展示してあったこと。<br />一番驚いたことは、フランスは1940年6月22日にドイツに降伏している。「星の王子さま」がアメリカの参戦(1941年12月8日)より、一年半もたった1943年4月6日ニューヨークで出版されていることである。<br />では、フランス人である作者、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはフランスがドイツに降伏後一体どこで何をしていたのであろうか。<br />「動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。亡命先のニューヨークから、自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)に着任する。」(以下のWIKIによる。)<br />サン=テグジュペリはどのようにして、フランス本土、リスボンからニューヨークに渡ったのであろうか。ヒントは映画『カサブランカ』にある。<br />ドイツの友好国であるスペインがフランス人をポルトガルのリスボンまで通過させたとは思えない。映画『カサブランカ』のように、フランス、マルセイユから船で、親ドイツのヴィシー政権の管理下に置かれたフランス領モロッコの都市カサブランカへ。<br />カサブランカから航空機でリスボンまで行ったのではないだろうか。<br />1942年11月8日より連合国軍によるモロッコとアルジェリアへの上陸作戦が開始され、1943年5月13日にドイツ軍の降伏により、連合国軍による北アフリカの占領が完了した。<br />サン=テグジュペリは連合国軍の支配下にあった北アフリカの自由フランス軍に復帰するために、北アフリカに行くことになる。<br />では、サン=テグジュペリはフランスが降伏後、速やかにフランスを離れて、ニューヨークに亡命し、「星の王子さま」を著していたことについて、何ら負い目、恥ずかしさは感じていなかったのであろうか。カサブランカに出てくるリスボンへ渡航したがっている人達は皆、ナチスドイツに追われている人達である。サン=テグジュペリはナチスドイツに追われていたわけではない。単に、ドイツ占領下のフランスから脱出したがっていただけではないだろうか。とても亡命する事情があったとは思えない。金があったからニューヨークに行けたのではないか。もしも、フランスを愛する気持ちがあれば、フランス国内に残り、抵抗運動に参加するないし、イギリスに渡り、イギリスで結成された自由フランス軍に参加する道もあったのではないか。<br />サン=テグジュペリが自由フランス軍に参加したのは、ようやく連合国軍の反攻が開始されてからである。<br />サン=テグジュペリは負い目を感じていたから、写真にある通り、「星の王子さま」の献辞をフランスで辛い思いをしている親友レオン・ヴェルトに捧げているのではないか。<br />アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA<br />カサブランカ (映画)<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BB)<br />4.藤岡往復ルート<br />5月3日<br />府中IC 中央道 圏央道 狭山PA 関越道 寄居PA ETC寄居 道のオアシス 藤岡市先祖墓 根岸物産 藤岡IC 長野道 関越道 PA寄居 圏央道 狭山PA 中央道 府中IC<br />ルート上の問題点<br />府中ICからいつもの通り、中央道経由関越道へ向かおうとした。ここ府中ICは係員がおらず、一時停止が必須のICである。ここのICでは一時停止せずに突っ切って、バーを破損させて逃げて行った車を見たことがある。今回は、係員がいないためか、<br />ETCカードを持たないためか、停止して動けない車のため渋滞が生じていた。<br />定期便トラック皆無<br />高速道を走る際は、一番左側の車線を、定期便大型トラックの後を100m以上開けて追従する。この方式が一番楽であり、安全な走行法であると思っている。但し、欠点は、緊張感が薄れ眠くなることである。ところが、5月3日にはこの大型トラックがほとんど走っておらず、追従する対象がなく困ってしまった。<br /><br />B 旅の背景<br />1.旅の契機<br />(1)平成最後の日4月30日に私の両親と妻の父親の墓参りを終了したこと。<br />(2)令和元年5月1日イタリアフランス旅行中の妻からメールとLINEで安全が確認できたこと。<br />妻は令和元年5月1日(メーデー)にボルドーからパリに移動し、パリでのブラックブロックを中心とする破壊活動の中に、突入した。<br />妻と息子はまともな夕食は食べられなかったが、どうにか身の安全が確保できたことが確認できたこと。<br />(3)DBR-M4008という名称の24時間最大7チャンネル連続録画が可能なレコーダーの設定が完了したこと。<br />(4)60年来の友人の安否の確認と、その手段としての花の送付したこと。<br />2.イタリアフランス旅行、息子と妻<br />3月に5月連休中に、息子からイタリア、フィレンツエから地中海沿岸マルセイユを経由して、<br />北上してボルドー経由パリへ行くこと誘われた。<br />誘いは拒否した。<br />理由は2つ。<br />a 行程中に関心のある都市がない。<br />唯一関心のあるのは、フランス艦隊の母港、トゥーロンである。<br />関心がある理由は、フランスがドイツに降伏したのち、「1942年11月27日に、ヴィシー政権下のフランス艦隊は、旗艦「ストラスブール」からの号令の元、<br />トゥーロン港において一斉に自沈した。これにより戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻、潜水艦16隻、水上機母艦1隻、小艦艇18隻が無力化し、枢軸側にわたるのを防いだ。<br />ドイツは一時の癇癪によって地中海西部を守護していた戦力を失ったのである。その中でドイツが手に入れられたのはドックで修理中の駆逐艦4隻で戦車隊により鹵獲された。」(以下のWIKIPEDIAからの引用)<br />これと同様のことを1943年8月29日デンマーク海軍が行っている。海軍の兵員にとって自ら長年愛した艦を自ら沈めるなど、どんなに悲しいことだったろう。<br />そのことを知っているのは、私の愛読書チャーチルの第二次大戦回顧録に記載があるからである。<br />フランス海軍<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%B5%B7%E8%BB%8D<br />ペダー スクラム<br />デンマーク海軍第二次世界大戦中と戦後を象徴する艦船 先代はドイツに引渡しを拒否して自沈 本艦はバルト海の防衛をドイツ海軍と共同<br />https://4travel.jp/overseas/area/europe/denmark/copenhagen/kankospot/10491099/tips/11413253/<br />b 資金繰り<br />2017年11月-12月12日間イタリアスイスフランスを旅行した。その際の総費用は26-27万円である。<br />ところが今回の総費用の予想は約50万円である。特に航空運賃だけで25万円もする。金の無駄遣いである。<br />息子は今度は妻を誘った。<br />妻は以前から、私と息子のヨーロッパ鉄道の旅の話を聞き、いつかは自分も鉄道の旅に行きたいと思っていた。<br />妻は息子の誘いに乗った。<br />3.DBR-M4008購入と我が家のレコーダー環境<br />a DBR-M4008購入のきっかけ<br />妻が旅行先を検討するにあたって、Panasonic製のレコーダーを使用して、訪問都市予定都市をキーワードとして5台のレコーダー11台のRECBOX中に保存してある5000番組ぐらいの中から抽出し、事前調査ができたことである。<br />現在のレコーダーの環境が有用であることが確認できた。<br />b 一部のレコーダーとRECBOXの故障<br />従前は、5台のレコーダーと11台のRECBOX(レコーダーと送受信可能。1000番組まで保存可能。テレビから番組再生可能)11台で構成されていた。レコーダー5台中1台が故障、RECBOX11台中1台が故障した。<br />故障したRECBOX1台中には洋画だけ約1000タイトルが保存してあったのでショックが大きかった。<br />C チャンネル録画、タイムシフト<br />妻はイタリア、フランス旅行から帰宅後、録画して無い番組でも過去一か月から一週間遡ってみることができる。これがチャンネル録画タイムシフト機能である。<br />DBR-M4008購入前は、(BS5チャンネル+NHK1チャンネル)一か月+地上波6チャンネル1週間を2台のレコーダーでカバーしていたが、BSのチャンネルをもう少し追加してカバーしたいと思い、DBR-M4008を購入した。<br />4.60年来の友人の安否の確認<br />60年来の友人は、肺がんである。どうしているかいつも気になっている。 メールの交換は、私の誕生日、彼女の誕生日とクリスマスに限られている。誕生日にメールしても、なかなか返事が来ない。<br />返事を催促する手段として、花をおくることとした。花は9日に届き、11日に返事が来た。友人は驚き、喜んでいた。

大渋滞の中の墓参り サン=テグジュペリの戦争中の生き方

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2019/05/03 - 2019/05/03

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kirstiNorge

kirstiNorgeさん

A 墓参りに藤岡まで渋滞の中マイカーで 5月3日連休中日
1.先祖の墓近くの親族との対話
2020オリンピック観戦チケット予約
私と同年代の夫婦と息子と同年代の夫婦と話したが、余り東京オリンピックに関心がないのに驚いた。
我が家では孫四人がサッカーに関心が高いため私の費用負担で11名全員で観戦できるように、東京近郊のサッカー予選を申し込んでいる。
そのような配慮は不要であったことに後から気が付いた。息子の内、2人はそれぞれ30万円以上申込み、1人は10万円以上申し込んでいる。私のような年金生活者との収入の違いが歴然と出てしまった。
2.NAVIの利用
車には、2012年発売のカロッツェリアのNAVIが搭載されている。データは2018年で更新がストップしている。今回はYAHOOのナビを試用してみた。
yahooナビはETC寄居で出ることを指示した。指示通り出口から出たが、カロッツェリアのNAVIとYAHOOのナビとも、右へ行くのか左に行くのかどの方向に行くのか、指示することができなかった。
3.PA寄居と星の王子さま
関越道は度々往復している。PA寄居はいまだ立ち寄ったことがなかった。PA寄居で驚いたことは、フランス語の表示にあふれていること。喫煙所でさえフランス語の表示である。
もうひとつ驚いたことは「星の王子さま」の挿絵が大量に展示してあったこと。
一番驚いたことは、フランスは1940年6月22日にドイツに降伏している。「星の王子さま」がアメリカの参戦(1941年12月8日)より、一年半もたった1943年4月6日ニューヨークで出版されていることである。
では、フランス人である作者、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはフランスがドイツに降伏後一体どこで何をしていたのであろうか。
「動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。亡命先のニューヨークから、自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願、再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)に着任する。」(以下のWIKIによる。)
サン=テグジュペリはどのようにして、フランス本土、リスボンからニューヨークに渡ったのであろうか。ヒントは映画『カサブランカ』にある。
ドイツの友好国であるスペインがフランス人をポルトガルのリスボンまで通過させたとは思えない。映画『カサブランカ』のように、フランス、マルセイユから船で、親ドイツのヴィシー政権の管理下に置かれたフランス領モロッコの都市カサブランカへ。
カサブランカから航空機でリスボンまで行ったのではないだろうか。
1942年11月8日より連合国軍によるモロッコとアルジェリアへの上陸作戦が開始され、1943年5月13日にドイツ軍の降伏により、連合国軍による北アフリカの占領が完了した。
サン=テグジュペリは連合国軍の支配下にあった北アフリカの自由フランス軍に復帰するために、北アフリカに行くことになる。
では、サン=テグジュペリはフランスが降伏後、速やかにフランスを離れて、ニューヨークに亡命し、「星の王子さま」を著していたことについて、何ら負い目、恥ずかしさは感じていなかったのであろうか。カサブランカに出てくるリスボンへ渡航したがっている人達は皆、ナチスドイツに追われている人達である。サン=テグジュペリはナチスドイツに追われていたわけではない。単に、ドイツ占領下のフランスから脱出したがっていただけではないだろうか。とても亡命する事情があったとは思えない。金があったからニューヨークに行けたのではないか。もしも、フランスを愛する気持ちがあれば、フランス国内に残り、抵抗運動に参加するないし、イギリスに渡り、イギリスで結成された自由フランス軍に参加する道もあったのではないか。
サン=テグジュペリが自由フランス軍に参加したのは、ようやく連合国軍の反攻が開始されてからである。
サン=テグジュペリは負い目を感じていたから、写真にある通り、「星の王子さま」の献辞をフランスで辛い思いをしている親友レオン・ヴェルトに捧げているのではないか。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA
カサブランカ (映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
4.藤岡往復ルート
5月3日
府中IC 中央道 圏央道 狭山PA 関越道 寄居PA ETC寄居 道のオアシス 藤岡市先祖墓 根岸物産 藤岡IC 長野道 関越道 PA寄居 圏央道 狭山PA 中央道 府中IC
ルート上の問題点
府中ICからいつもの通り、中央道経由関越道へ向かおうとした。ここ府中ICは係員がおらず、一時停止が必須のICである。ここのICでは一時停止せずに突っ切って、バーを破損させて逃げて行った車を見たことがある。今回は、係員がいないためか、
ETCカードを持たないためか、停止して動けない車のため渋滞が生じていた。
定期便トラック皆無
高速道を走る際は、一番左側の車線を、定期便大型トラックの後を100m以上開けて追従する。この方式が一番楽であり、安全な走行法であると思っている。但し、欠点は、緊張感が薄れ眠くなることである。ところが、5月3日にはこの大型トラックがほとんど走っておらず、追従する対象がなく困ってしまった。

B 旅の背景
1.旅の契機
(1)平成最後の日4月30日に私の両親と妻の父親の墓参りを終了したこと。
(2)令和元年5月1日イタリアフランス旅行中の妻からメールとLINEで安全が確認できたこと。
妻は令和元年5月1日(メーデー)にボルドーからパリに移動し、パリでのブラックブロックを中心とする破壊活動の中に、突入した。
妻と息子はまともな夕食は食べられなかったが、どうにか身の安全が確保できたことが確認できたこと。
(3)DBR-M4008という名称の24時間最大7チャンネル連続録画が可能なレコーダーの設定が完了したこと。
(4)60年来の友人の安否の確認と、その手段としての花の送付したこと。
2.イタリアフランス旅行、息子と妻
3月に5月連休中に、息子からイタリア、フィレンツエから地中海沿岸マルセイユを経由して、
北上してボルドー経由パリへ行くこと誘われた。
誘いは拒否した。
理由は2つ。
a 行程中に関心のある都市がない。
唯一関心のあるのは、フランス艦隊の母港、トゥーロンである。
関心がある理由は、フランスがドイツに降伏したのち、「1942年11月27日に、ヴィシー政権下のフランス艦隊は、旗艦「ストラスブール」からの号令の元、
トゥーロン港において一斉に自沈した。これにより戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻、潜水艦16隻、水上機母艦1隻、小艦艇18隻が無力化し、枢軸側にわたるのを防いだ。
ドイツは一時の癇癪によって地中海西部を守護していた戦力を失ったのである。その中でドイツが手に入れられたのはドックで修理中の駆逐艦4隻で戦車隊により鹵獲された。」(以下のWIKIPEDIAからの引用)
これと同様のことを1943年8月29日デンマーク海軍が行っている。海軍の兵員にとって自ら長年愛した艦を自ら沈めるなど、どんなに悲しいことだったろう。
そのことを知っているのは、私の愛読書チャーチルの第二次大戦回顧録に記載があるからである。
フランス海軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%B5%B7%E8%BB%8D
ペダー スクラム
デンマーク海軍第二次世界大戦中と戦後を象徴する艦船 先代はドイツに引渡しを拒否して自沈 本艦はバルト海の防衛をドイツ海軍と共同
https://4travel.jp/overseas/area/europe/denmark/copenhagen/kankospot/10491099/tips/11413253/
b 資金繰り
2017年11月-12月12日間イタリアスイスフランスを旅行した。その際の総費用は26-27万円である。
ところが今回の総費用の予想は約50万円である。特に航空運賃だけで25万円もする。金の無駄遣いである。
息子は今度は妻を誘った。
妻は以前から、私と息子のヨーロッパ鉄道の旅の話を聞き、いつかは自分も鉄道の旅に行きたいと思っていた。
妻は息子の誘いに乗った。
3.DBR-M4008購入と我が家のレコーダー環境
a DBR-M4008購入のきっかけ
妻が旅行先を検討するにあたって、Panasonic製のレコーダーを使用して、訪問都市予定都市をキーワードとして5台のレコーダー11台のRECBOX中に保存してある5000番組ぐらいの中から抽出し、事前調査ができたことである。
現在のレコーダーの環境が有用であることが確認できた。
b 一部のレコーダーとRECBOXの故障
従前は、5台のレコーダーと11台のRECBOX(レコーダーと送受信可能。1000番組まで保存可能。テレビから番組再生可能)11台で構成されていた。レコーダー5台中1台が故障、RECBOX11台中1台が故障した。
故障したRECBOX1台中には洋画だけ約1000タイトルが保存してあったのでショックが大きかった。
C チャンネル録画、タイムシフト
妻はイタリア、フランス旅行から帰宅後、録画して無い番組でも過去一か月から一週間遡ってみることができる。これがチャンネル録画タイムシフト機能である。
DBR-M4008購入前は、(BS5チャンネル+NHK1チャンネル)一か月+地上波6チャンネル1週間を2台のレコーダーでカバーしていたが、BSのチャンネルをもう少し追加してカバーしたいと思い、DBR-M4008を購入した。
4.60年来の友人の安否の確認
60年来の友人は、肺がんである。どうしているかいつも気になっている。 メールの交換は、私の誕生日、彼女の誕生日とクリスマスに限られている。誕生日にメールしても、なかなか返事が来ない。
返事を催促する手段として、花をおくることとした。花は9日に届き、11日に返事が来た。友人は驚き、喜んでいた。

同行者
一人旅
交通手段
自家用車
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