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「明王院」から「世良田東照宮」へ移動する途中で、「満徳寺」に寄ってサクラを見てきました。と言っても、ここはサクラの名所ではなく、日本で唯二つ(というか世界でたった二つ)の「縁切り寺」の一寺として知られています。女性から離縁できなかった江戸時代に、「縁切り寺」に駆け込むことが、女性にとって唯一の離縁の手段でした。(もうひとつの縁切り寺は、鎌倉市の「東慶寺」です。)<br />境内に植えられた桜は、ほぼ満開でした。比較的大きな木ですが、数は多くはありません。<br /><br />旅行記作成に際しては、現地の説明板、太田市と太田市観光協会のホームページ、その他関連ネット記事を参考にしました。

縁切り寺「満徳寺」のサクラ_2019_ほぼ満開、見頃です。(群馬県・太田市)

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2019/04/05 - 2019/04/05

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minaMicaze

minaMicazeさん

「明王院」から「世良田東照宮」へ移動する途中で、「満徳寺」に寄ってサクラを見てきました。と言っても、ここはサクラの名所ではなく、日本で唯二つ(というか世界でたった二つ)の「縁切り寺」の一寺として知られています。女性から離縁できなかった江戸時代に、「縁切り寺」に駆け込むことが、女性にとって唯一の離縁の手段でした。(もうひとつの縁切り寺は、鎌倉市の「東慶寺」です。)
境内に植えられた桜は、ほぼ満開でした。比較的大きな木ですが、数は多くはありません。

旅行記作成に際しては、現地の説明板、太田市と太田市観光協会のホームページ、その他関連ネット記事を参考にしました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 太田市の「明王院」から西へ約3km移動して、「満徳寺」にやってきました。<br />県道298号線沿いに駐車場があります。この辺り一帯は利根川の土手のすぐ北側で、かつて川筋が定まらなかった頃の河川敷と思われる、低くて平らなところです。

    太田市の「明王院」から西へ約3km移動して、「満徳寺」にやってきました。
    県道298号線沿いに駐車場があります。この辺り一帯は利根川の土手のすぐ北側で、かつて川筋が定まらなかった頃の河川敷と思われる、低くて平らなところです。

  • ここは桜の名所という訳ではありませんが、「明王院」から「世良田東照宮」へ行く途中なので寄ってみます。

    ここは桜の名所という訳ではありませんが、「明王院」から「世良田東照宮」へ行く途中なので寄ってみます。

  • 駐車場の端に立っている「徳川氏発祥の地 太田市 観光案内図」です。中央附近に描かれたピラミッドが「明王院」、その左下がここ「満徳寺」、その左上に「世良田東照宮」があります。

    駐車場の端に立っている「徳川氏発祥の地 太田市 観光案内図」です。中央附近に描かれたピラミッドが「明王院」、その左下がここ「満徳寺」、その左上に「世良田東照宮」があります。

  • 駐車場から舗装道を北へ歩くと、黒い格子の門があり、その向こうに社殿が見えます。入口は左にあり、ここからは入れません。「受付で入園券をおもとめください」と書かれています。

    駐車場から舗装道を北へ歩くと、黒い格子の門があり、その向こうに社殿が見えます。入口は左にあり、ここからは入れません。「受付で入園券をおもとめください」と書かれています。

  • でも、塀に沿って右へ歩きます。咲き始めた枝垂れ桜の向こうに社殿が見えます。

    でも、塀に沿って右へ歩きます。咲き始めた枝垂れ桜の向こうに社殿が見えます。

  • 塀越しに中を拝見しながら、塀に沿って歩きます。

    塀越しに中を拝見しながら、塀に沿って歩きます。

  • 東南の角で北へ曲がると、ここにも格子の門があります。社殿の向こうにサクラが見えます。

    東南の角で北へ曲がると、ここにも格子の門があります。社殿の向こうにサクラが見えます。

  • 塀に沿って更に北へ歩くと、立派な門があります。門の横に「縣指定史跡 時宗徳川 満徳寺」と刻まれた標柱が立っているので、この門が正門(山門)だと思います。(案内図によると、ここが「駆け込み門」です。)

    塀に沿って更に北へ歩くと、立派な門があります。門の横に「縣指定史跡 時宗徳川 満徳寺」と刻まれた標柱が立っているので、この門が正門(山門)だと思います。(案内図によると、ここが「駆け込み門」です。)

  • 「駆け込み門」の横にある説明板です。この旅行記の説明のほとんどは、この説明板からの引用です。

    「駆け込み門」の横にある説明板です。この旅行記の説明のほとんどは、この説明板からの引用です。

  • 門の横に立てられた説明板によると、このお寺は、日本に二寺ある(あった)縁切り寺の一寺です。(別の一寺は、鎌倉の東慶寺です。こちらの方が有名ですね。)<br /><br />写真は、塀越しに見た社殿です。(案内図によると、「満徳寺旧本堂」です。)

    門の横に立てられた説明板によると、このお寺は、日本に二寺ある(あった)縁切り寺の一寺です。(別の一寺は、鎌倉の東慶寺です。こちらの方が有名ですね。)

    写真は、塀越しに見た社殿です。(案内図によると、「満徳寺旧本堂」です。)

  • 中に入るために、歩いてきた道を塀に沿って戻り、西側の受付に向かいます。写真中央の小さな小屋が、受付です。

    中に入るために、歩いてきた道を塀に沿って戻り、西側の受付に向かいます。写真中央の小さな小屋が、受付です。

  • 左側に、園内の案内図があります。この図、園内は分かり易いので、観光協会のホームページに載せてほしいですね。欲を言えば、図の左側にある駐車場も描きいれてくれると更に分かり易くなりますね。

    左側に、園内の案内図があります。この図、園内は分かり易いので、観光協会のホームページに載せてほしいですね。欲を言えば、図の左側にある駐車場も描きいれてくれると更に分かり易くなりますね。

  • 案内図の隣に立っているのは「尾島かるた」の「ま」です。現在の地名は、太田市徳川町ですが、かつては尾島町でした。<br />これを見ると、ここは跡地で、本堂や駆込門は復元したものなのですね。

    案内図の隣に立っているのは「尾島かるた」の「ま」です。現在の地名は、太田市徳川町ですが、かつては尾島町でした。
    これを見ると、ここは跡地で、本堂や駆込門は復元したものなのですね。

  • 受付へ寄ってください、とのことなので、受付に行ってみます。入園料は200円、と表示されています。

    受付へ寄ってください、とのことなので、受付に行ってみます。入園料は200円、と表示されています。

  • 受付です。入園券は、資料館の中で発売(販売ですよね!)しているそうです。

    受付です。入園券は、資料館の中で発売(販売ですよね!)しているそうです。

  • なので、資料館へ行ってみたのですが、資料館へ入らないのであれば、入園料は不要とのことでした。<br />満徳寺資料館のホームページによると、平成2年(1990)着工、鉄筋コンクリート造り、日本瓦葺、平屋建、延床面積約432㎡、平成3年(1991)完成、平成4年(1992)に開館しました。満徳寺は、文化6年(1809)に隣家からの出火によって本堂をはじめ境内残らず類焼し、持ち出された本尊や開山上人座像、歴代将軍の位脾、御朱印状などが資料館に展示されています。

    なので、資料館へ行ってみたのですが、資料館へ入らないのであれば、入園料は不要とのことでした。
    満徳寺資料館のホームページによると、平成2年(1990)着工、鉄筋コンクリート造り、日本瓦葺、平屋建、延床面積約432㎡、平成3年(1991)完成、平成4年(1992)に開館しました。満徳寺は、文化6年(1809)に隣家からの出火によって本堂をはじめ境内残らず類焼し、持ち出された本尊や開山上人座像、歴代将軍の位脾、御朱印状などが資料館に展示されています。

  • 資料館には入らずに、満徳寺の境内に入ります。

    資料館には入らずに、満徳寺の境内に入ります。

  • 入口にある枝垂れ桜は、満開を過ぎているようです。

    入口にある枝垂れ桜は、満開を過ぎているようです。

  • 江戸時代、他家へ嫁した女性は、実家に戻ったとしても、夫方の離縁状がなければ再婚できないという規則がありました。

    江戸時代、他家へ嫁した女性は、実家に戻ったとしても、夫方の離縁状がなければ再婚できないという規則がありました。

  • 男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫から妻を救済するという縁切りの特権が認められた避難所は、世界に二つしか存在しませんでした。それが日本の二つの縁切寺、太田市の「満徳寺」と鎌倉市の「東慶寺」です。

    男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫から妻を救済するという縁切りの特権が認められた避難所は、世界に二つしか存在しませんでした。それが日本の二つの縁切寺、太田市の「満徳寺」と鎌倉市の「東慶寺」です。

  • 縁切寺とは、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいいます。縁切寺は寺院のもつ避難所機能の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと思われます。

    縁切寺とは、離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいいます。縁切寺は寺院のもつ避難所機能の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと思われます。

  • ここは跡地なので、このような、かつての建屋の場所と間取りを表す説明板が設置されています。

    ここは跡地なので、このような、かつての建屋の場所と間取りを表す説明板が設置されています。

  • 江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけでした。

    江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけでした。

  • 本堂の奥に、満開のサクラが見えます。

    本堂の奥に、満開のサクラが見えます。

  • 本堂の東側、「中門」の向こうに「駆け込み門」が見えます。

    本堂の東側、「中門」の向こうに「駆け込み門」が見えます。

  • 先ほど外から見た「駆け込み門」を内側から見ています。今は閉ざされているので、駆け込みはできません。

    先ほど外から見た「駆け込み門」を内側から見ています。今は閉ざされているので、駆け込みはできません。

  • 「駆け込み門」から見た「中門」と、その向こうの「本堂」です。

    「駆け込み門」から見た「中門」と、その向こうの「本堂」です。

  • 参道の北側、竹垣の向こう(上野写真の右側)に行ってみます。

    参道の北側、竹垣の向こう(上野写真の右側)に行ってみます。

  • 竹垣の中は「歴代住職の墓地」でした。

    竹垣の中は「歴代住職の墓地」でした。

  • 墓地から見た本堂方向です。左は「中門」です。

    墓地から見た本堂方向です。左は「中門」です。

  • 江戸時代、この地域は、徳川氏発祥の地として、幕府から、租税課役の免除、あるいは守護使不入の地として、特別の取り扱いを受けていました。

    江戸時代、この地域は、徳川氏発祥の地として、幕府から、租税課役の免除、あるいは守護使不入の地として、特別の取り扱いを受けていました。

  • 鎌倉時代、徳川氏の初代・徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立しました。義季の娘が出家して浄念尼(じょうねんに)と称し最初の住職(開山)になりました。(したがって、尼寺です。)

    鎌倉時代、徳川氏の初代・徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立しました。義季の娘が出家して浄念尼(じょうねんに)と称し最初の住職(開山)になりました。(したがって、尼寺です。)

  • 本堂の裏手(北側)の、塀の外側に行ってみます。<br /><br />二世住職は義季の孫の浄院尼(じょういんに)、三世は念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世は慈円比丘尼(じえんびくに)と、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になったと伝えられています。

    本堂の裏手(北側)の、塀の外側に行ってみます。

    二世住職は義季の孫の浄院尼(じょういんに)、三世は念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世は慈円比丘尼(じえんびくに)と、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になったと伝えられています。

  • 代々の住職が新田一族から出た、という所縁により、徳川家康が寺領百石を寄進し、当時衰微していた寺を復興させました。

    イチオシ

    代々の住職が新田一族から出た、という所縁により、徳川家康が寺領百石を寄進し、当時衰微していた寺を復興させました。

  • 世界にたった二つ、「東慶寺」と「満徳寺」が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘・千姫がかかわっています。

    世界にたった二つ、「東慶寺」と「満徳寺」が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘・千姫がかかわっています。

  • 鎌倉の「東慶寺」は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘・天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可されました。

    鎌倉の「東慶寺」は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘・天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可されました。

  • 家康は、大阪城を落としたのち、豊臣秀頼の妻・千姫(徳川秀忠の娘)を、ここ太田市の「満徳寺」に入寺させて豊臣家との縁を切りました。豊臣との縁を切ったうえで、千姫を本多忠刻へ嫁がせました。

    家康は、大阪城を落としたのち、豊臣秀頼の妻・千姫(徳川秀忠の娘)を、ここ太田市の「満徳寺」に入寺させて豊臣家との縁を切りました。豊臣との縁を切ったうえで、千姫を本多忠刻へ嫁がせました。

  • ところが、「満徳寺」に入寺したのは、実は、千姫の身代わりで侍女の刑部の局で、名を俊澄と改めて住職になったと言われています。

    ところが、「満徳寺」に入寺したのは、実は、千姫の身代わりで侍女の刑部の局で、名を俊澄と改めて住職になったと言われています。

  • 以来、徳川幕府から優遇され、寛永12年(1635)、3代将軍家光の時に寺を再建し、以後、将軍家の位牌所として、修繕費等は全て幕府が賄うことになりました。

    以来、徳川幕府から優遇され、寛永12年(1635)、3代将軍家光の時に寺を再建し、以後、将軍家の位牌所として、修繕費等は全て幕府が賄うことになりました。

  • このように、徳川幕府の後ろ盾により寺法は権威を持ち、縁切り寺としての機能を強く発揮できました。

    このように、徳川幕府の後ろ盾により寺法は権威を持ち、縁切り寺としての機能を強く発揮できました。

  • 離婚目的で駆け込んだ女性は、入寺後、足掛け3年経てば離縁状を入手できました。

    イチオシ

    離婚目的で駆け込んだ女性は、入寺後、足掛け3年経てば離縁状を入手できました。

  • 明治維新後、徳川幕府の崩壊により、「満徳寺」は明治5年(1872)に廃寺となり、寺領、寺域の大部分は民有地になりました。しかし、由緒ある寺の消滅を惜しむ地元有志の力で、明治27年(1894)に再興し、今日に及んでいます。<br /><br />次は「世良田東照宮」へ行きます。<br /><br />( つづく )

    イチオシ

    明治維新後、徳川幕府の崩壊により、「満徳寺」は明治5年(1872)に廃寺となり、寺領、寺域の大部分は民有地になりました。しかし、由緒ある寺の消滅を惜しむ地元有志の力で、明治27年(1894)に再興し、今日に及んでいます。

    次は「世良田東照宮」へ行きます。

    ( つづく )

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