2019/01/30 - 2019/02/01
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montsaintmichelさん
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山陽・山陰紀行のフィナーレを飾るのは鳥取県の洋風建築の白眉「仁風閣」です。
鳥取藩は因幡・伯耆の2国32万5千石を領した大藩として知られ、歴代藩主 池田家の居城となったのが久松山(海抜263m)に築かれた鳥取城でした。鳥取市は久松山を扇の要として発展した都市であり、その久松山、旧鳥取城内の扇御殿跡に建つ瀟洒な洋風建築が「仁風閣」です。フランス型ルネッサンス様式の白亜の洋館は、中国地方屈指の明治建築として名高く、重文に指定されています。
1907(明治40)年に往時の皇太子殿下 嘉仁親王(大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として建てられた迎賓館で、以降は池田家の別邸として使用されました。鳥取池田家の14代当主 池田仲博侯爵が、宮内省匠頭 片山東熊(かたやまとうくま)博士に設計を依頼した宮廷建築です。
現在、仁風閣周辺は久松公園として整備され、春は桜、秋は紅葉の名所として多くの観光客が訪れます。白亜の洋館と緑豊かな大自然とのコントラストは1幅の絵画を見るようであり、市民の憩いの場となっています。明治時代にタイムスリップしたかのような気分が満喫できるスペースです。
また、2012年に大ヒットした映画『るろうに剣心』や1989年公開の映画『舞姫 Die Tanzerin』のロケ地としても知られています。尚、日本100名城「鳥取城」のスタンプもここにあります。
仁風閣を紹介されているHPです。
http://www.tbz.or.jp/jinpuukaku/guide/info/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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久松山(きゅうしょうざん)車窓
鳥取市街地の北に位置し、鳥取市を象徴する山として市民に親しまれている標高263mの山です。この麓に目指す「仁風閣」が聳えます。
室町時代後期に築城された鳥取城は、急峻な地形による防御性の高さや山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評されました。
戦国時代には羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台ともなり、人肉まで喰らう悲惨な籠城戦を戦いました。『信長公記』には、「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されています。吉川経家はこの凄惨たる状況に、自刃と引き換えに開城しました。
江戸時代には鳥取藩32万5千石を領する池田氏の居城となりましたが、天守は1692年に落雷で焼失しています。焼失後は御三階櫓が天守の代用となったそうです。 -
内濠
石垣には太い切り株が数本見られます。
逞しく、石垣に根を張ったようですが、護岸のためにやむなく伐採されたのでしょう。
右側の白い建物が鳥取県立博物館です。 -
内濠
土橋からは、野図積の古い石垣が見られます。
鳥取城跡は、1957(昭和32) 年に史跡指定を受け、その2年後から石垣などの保存修理を進めてきました。内濠の先に見える「擬宝珠橋」もその一環として2018年10月に復元されたものです。1621(元和7)年に池田光政が鳥取城の「大手登城路」に創建し、登城や参勤交代に使われた他、行事の際、橋上に若殿が床几に座って行列を見物するなどしたそうです。
全長約36m、幅約6mのアーチ状の木造橋で、国指定史跡となっている城郭の復元橋では国内最長です。橋脚や床に岩手県南部産クリ材、欄干などに静岡県天竜産檜材を用い、事業費約5億5千万円を投入しています。
橋の奥に建つのが鳥取県警本部、その右が鳥取県庁です。 -
岡野貞一の歌碑
北ノ御門跡の手前に、童謡『ふるさと』の作曲者 岡野貞一の歌碑が立っています。
この近所には、彼が通った久松小学校があります。祖父母が武士の家系に生まれ、高等小学校時代に鳥取教会で賛美歌やオルガンと出会い、やがて音楽の道を志すようになりました。
『ふるさと』の他、『もみじ』や『春の小川』、『おぼろ月夜』など誰もが口ずさめる唱歌で知られている一方、明治35年から42年間、東京 本郷中央教会のオルガニストを勤められ、日曜日の朝夕に礼拝を捧げられた敬虔の念が深い方でもあります。 -
鳥取城(久松山城)北ノ御門跡
久松山は高さはさほどないものの山容が急峻なことから、室町時代後期の守護大名 但馬 山名氏(山名祐豊)がこの地に鳥取城を築きました。鳥取城は、防御性の高さから、織田信長さえも「堅牢な名城」と讃えたと伝えられています。
北ノ御門は、元々は大手門だったそうですが、池田長吉の大改修により搦手門となったと伝わります。 -
仁風閣(重文)
1907年、池田仲博侯爵が往時の皇太子殿下 嘉仁親王(大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てたものです。山陰は明治天皇の巡幸が無かったために皇太子の来訪を切望していた地域でもあり、行啓に備えて万全を期していたことが窺えます。
フレンチ型ルネッサンス様式を基調とした木造瓦葺2建ての白亜の洋館は、その外観の優雅さが日本庭園によく映え、19世紀のヨーロッパの風景を切り取ったかのような凛とした佇まいが品格を湛えます。行啓の際、皇太子に随行した元帥海軍大将 東郷平八郎が「仁風閣」と名付けています。 -
アプローチ
外観は、如何にも白亜の殿堂といった印象があり、繊細で美しい姿です。門から望むと、建物の真正面に老松が植えられており、玄関付近を眼隠する趣向となっています。こうした所に、家主や客人が気兼ねなく出入りできるようにとの心遣いが感じられます。また、入口には車寄せが設けられ、馬車や車が通る道には白い玉砂利を敷き詰め、丁寧に整備されています。
天候は回復したように見えますが、ほんの少しの間だけ青空が顔を覗かせてくれました。山陰地方特有の冬季の鈍色の空を背景に白亜の館は似合いませんから、ラッキーでした。 -
門扉のスクロールしたアイアンアートや塗装色が柔らかなタッチを湛えています。
仁風閣の立つ久松公園は、鳥取城址に造営された公園であり、春先には400本以上もの桜が咲き乱れ、「さくらの名所100選」にも選ばれていています。 -
設計は宮内省の内匠頭 片山東熊博士が担当したと伝わります。辰野金吾と同期生です。また、工部大学校(東大工学部建築学科の前身)で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵が施工を監督し、地元の工匠 浜田吉蔵が施工ました。
片山東熊は「鹿鳴館」の設計者として知られる英国人建築家ジョサイア・コンドルの薫陶を受け、宮内省入省後は皇室関連施設の設計に数多く携わり、明治洋風建築の傑作と称される赤坂離宮(旧東宮御所、現在の迎賓館)をはじめ、奈良国立博物館や京都国立博物館など錚々たる建造物を手がけ、往時すでに宮廷建築の第一人者と称されていました。 -
建物の西側には、螺旋階段用のゴシック様式を代表する八角尖塔を配し、こちらの屋根は勾配がきついためか緑青色に輝く銅板葺として趣を違えています。
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車寄せ
仁風閣を建造した14代当主 池田仲博侯爵は、「最後の将軍」徳川慶喜の5男として1877(明治10)年に生まれ、仁風閣の落成時は29歳でした。
1890(明治23)年、従兄に当たる因幡国鳥取藩13代当主 池田輝知侯爵が嗣子のないまま他界し、12歳で次女 亨子(みちこ)の婿養子として池田家と侯爵位を相続・襲爵しました。この時、鳥取藩初代藩主 池田光仲の1字を名に加えて「仲博」に改名しました。
21歳で陸軍士官学校(10期)を卒業し、歩兵少尉に任官。1902(明治35)年からは貴族院議員も務めました。仁風閣の落成から2年後には予備役に編入し、1946(昭和21)年、華族制度・貴族院の廃止に伴い失爵・失職しています。その2年後、70歳で逝去されています。 -
織田家重臣のひとりで清須会議にも名を連ねた戦国武将「池田恒興」は、池田家の先祖と説明されています。
恒興は、織田信長没後の「小牧長久手の戦い」では信長の実質的な後継者「羽柴秀吉」に味方して徳川軍と戦うも、長男 元助と共に討死しました。その後、池田家の家督は秀吉の命で2男 輝政が継ぎ、姫路城を築ました。やがて関ヶ原の合戦で手柄を立てた恒興の3男 池田長吉が因幡国6万石の鳥取城の城主に任じられました。
大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、姫路城主 池田光政(輝政の孫)は転封を命じられて鳥取城主になりました。その15年後、岡山城主 池田忠雄が亡くなり、家督を3歳だった長男 光仲が継ぎました。同時に幕府は、従兄弟である光政と国を入れ替えさせました。以降、光仲を藩祖とする鳥取池田家は12代に亘って鳥取城を居城とし、国内で12番目となる32万5千石を誇る大藩として栄えました。
光仲の祖母は徳川家康の2女 督姫、つまり家康の曾孫に当たり、外様大名にも関わらず大藩を治めることができた理由のようです。 -
セグメンタルペディメント
鳥取城は明治維新直後の取り壊しを免れ、陸軍施設として再利用されました。しかし、治安の安定と共にその役目を終え、1879(明治12)年に大半の建物が解体され、城跡の一部は学校用地などに転用されました。その他のエリアは、旧藩主 鳥取池田家が住民の要望を受けて久松公園として整備し、1943(昭和18)年の鳥取地震後、復興に向けて立ち上がる市民を勇気付けるために鳥取市に寄贈されました。 -
ファサードにセグメンタルペディメントと呼ばれる半円形をした櫛形破風の棟飾りを設えることで、単調になりがちな外壁面にアクセントを与えています。櫛形破風には、六芒星とその中心に池田家の家紋「揚羽蝶」をあしらっています。
余談ですが、六芒星は、イスラエルでは「ダビデの星」と呼ばれますが、日本では籠目紋と呼び、魔除けだそうです。六角形に編まれた籠の目にこの形が現れるのが由来ですが、古来、魔性のものは見つめられるのを嫌うとされ、「目」の沢山ある籠を家の前などに伏せて置く風習がありました。それが簡略化され、籠目紋の札を玄関に貼るようになったそうです。 -
山陰地方の邸宅として随一とも称される仁風閣ですが、皇太子の御座所となったのは僅かに数日、その後に池田家別邸として使われた期間も短く、もっぱら市の公会堂や県の迎賓館などに使用されてきました。また、1943(昭和18)年の鳥取地震で屋上の煙突が折損して落下したため、一部をスレート屋根に葺替え、その後は1972(昭和47)年まで県立科学博物館に利用されました。県から市が譲渡された後、1973(昭和48)年に重文の指定を受けて復元修理後に一般公開されるようになりました。
仁風閣は長い間その価値に気付かれずに痛んだまま放置されていたようですが、こうした格調高く本格的な洋風建築は珍しく、西日本の明治洋館の白眉と称されるのも頷けます。 -
内部に螺旋階段が架けられた特徴的なゴシック風の八角尖塔が、建物全体にアクセントと安定感を持たせる効果を発揮しています。鎧戸もよく似合っています。
尖塔の下には赤い除雪機が置かれています。例年ならば冬季はフル稼働だそうですが、今年は積雪が少なく、出番も少なかったそうです。エルニーニョ現象による暖冬傾向により、2月は全国的に高温で降雪量が少なく、特に西日本の日本海側の降雪量は「平年比1%」で1961年の統計開始以来、最少を記録しました。気象庁の発表では、鳥取市では7cm(例年197cm)だったようです。
そのお陰でタイムスケジュール通りに観光地を回ることができました。 -
寄棟造の屋根は瓦葺とし、ルネッサンス様式に見られる王冠型の棟飾りや煉瓦造の褐色の煙突を6基配し、白いドーマ窓風の換気窓を両側に設置しています。
実は、ここまでの道程は決して平坦ではなかったそうです。経年による老朽化に加え、鳥取地震の被害により荒廃が進むなど手入れが行き届かない時代もあり、「銭食い虫だから、解体して市民会館に建て替えよう」との声も上がったそうです。そんな折、屋根裏から2枚の棟札が発見され、創建年月日や建築に携わった工匠 浜田芳造以下24名が判明したことが奏功して保護運動が活発になりました。重文指定後、約2億円を投資して3年に亘る復元修理を行い、往時の姿を甦らせました。 -
建物の背面には池のある宝隆院庭園があり、背面から望む瀟洒なバルコニー(サンルーム)は、表のファサードよりも2階の窓の桟が繊細さを助長し、より美しさを際立たせます。また、三角破風を戴いた中央部を張り出させ、外観に抑揚を付与しています。
バルコニーに佇めば、お庭からこうした記念撮影もできます。華やかだった往時の情景が、波打つ板ガラスに映り込むような気がします。 -
JR西日本のCMでは、伊藤蘭さんがこの飛び石を渡られているのが印象的です。
白壁は凹凸が目立たない横羽目板張り、建物の背面の1階は吹きっ放し、2階はサンルームにしたバルコニーを備えています。西面には、八角尖塔を突出させ、意図的にシンメトリーを崩す大胆さも見所です。延べ床面積は1046平方m(317坪)あり、美しさの中にも風格を兼ね備えた明治の残照です。 -
これほど凝った建造物であるにも関わらず、日露戦争勃発で着工が延期となっていたのを1906(明治39)年9月に急遽着工し、僅か8ヶ月という驚異的なスピードで落成させています。
また、市役所の年間予算が5万円の時代に、建設費は4万4千円と記録されており、スピードだけでなく予算も驚異的なスケールだったことが判ります。鳥取藩池田家の財力、そして行啓への思いの深さが推し量れるエピソードです。
更には、仁風館が完成した年に山陰本線が鳥取まで延長されています。こうしたことから、皇太子行啓はこの地にとって一大イベントであったことが窺えます。鳥取藩の威信と矜持を背負った「仁風閣」が鳥取の文明開化の礎になったのは間違いなく、「鳥取の鹿鳴館」と称しても過言ではないのでは!? -
それでは内部へ入りましょう。
皇太子ご到着の当日、鳥取県下で初めて電灯が灯され、室内のシャンデリアと夜空を彩るイルミネーションを華々しく灯したと伝えます。それ故、鳥取の文明開化を華麗に演出した記念碑的な建造物とも称せます。因みに、明治15年に東京銀座に初めてアーク灯が灯されてから25年後のことでした。
また、仁風閣に電灯を灯すために水力発電所を造営したことや電話を開通させたことなど、仁風閣がもたらしたインフラへの功績は枚挙に暇がありません。 -
エントランスホール
館内にはクラシックなアール・ヌーヴォーを彷彿とさせるシャンデリアが幾つも取り付けられています。流麗なシルエットは、往時の人たちを魅了して止まなかったことでしょう。これらのシャンデリアは、鳥取県下において初めて使われたもので、もちろん舶来品でした。現在もエジソン電球とタングステン電球(1灯のみ)を用いて往時の情景を再現しています。その光彩は淡くやわらかで、ランプ・シェードもすっきりした可憐な造形です。 -
エントランスホール
玄関先を振り返ると、目にやさしい緑一色の風景が一幅の絵画のように広がります。
内側からこうして眺めた時には、老松が主役になります。 -
随員控室
手吹き板ガラスを嵌めた窓の先には、池泉回遊式日本庭園「宝隆院庭園」が一望できます。こちらのソファーや書斎机は、池田仲博が東京の屋敷で使用していたものを持ち込んでいます。また、カーテンやカーテンボックスの設えには唸らせるものがあります。かつて、ここに東郷元帥が座っていたのかと思うと感慨深いものがあります。1階の見所はこの随員控室と2種類の階段、展示品になります。
1階は主に展示室となっており、復元修理時の資料や明治~大正時代の市民生活資料の他、鳥取藩池田氏所縁のお宝が展示されています。尚、陳列ケース内は撮影禁止のため、画像はありません。 -
御道具置場
1階は、3.9mの天井高を持ち、随行者たちが使用したゾーンです。
2階は同じく4.3mの皇太子殿下専用ゾーンとして造られ、調度品や部材などもそれに相応しいものが吟味されています。 -
県官出張所
正面側は、ガラス窓とペンキ塗りの鎧戸がセットになっています。
1階には事務室、随員控室、御道具置場、御服、応接室、薬局、御風呂場など、2階には、謁見所、御食堂、御座所、御寝室、御厠、御物置、陳列所、侍従室、内舎人、供進所の各部屋があります。
明治天皇巡幸の際にはほとんどが玉座1室で構成されていたのに対し、皇太子巡啓では用途毎に部屋を分け、複数の部屋で構成されている点が大きく異なります。 -
御服所
皇太子殿下の衣服などを調進した部屋です。
どの部屋の家具や調度品も、多くは往時の状態で残されており、どれも造りが丁寧で手の込んだ仕上です。
クロスや天井等の内装は後世に張り替えられたものですが、創建当初の状態を参考に忠実に再現されています。 -
螺旋階段
八角尖塔に架けられた宙に浮かぶ「螺旋階段」の構造と職人技の妙には、息を呑ませる迫力があります。
高さ4m程ある螺旋階段には支柱や心柱が1本も無く、曲線形に削り出した欅の板を6枚重ねて踏板を支える脇板「簓桁(ささらげた)」の曲線美はまさにアートです。
文献によると、工匠 浜田芳造が提灯の骨組みからヒントを得て構想し、施工は伊藤金蔵が担ったとあります。 -
螺旋階段
八角形の壁に沿って螺旋に組まれた構造は、全国的にも珍しいものだそうです。
今でこそその優美さと巧みの技で脚光を浴びる螺旋階段ですが、往時は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂の間を使用人が昇降するために用いた裏動線であり、普段使いの階段だったそうです。物珍しさや手の込んだ造り、造形美から主賓のための主階段よりも目立っているのがご愛嬌です。
映画『るろうに剣心』のバトルシーンで螺旋階段がセットで組まれていましたが、この螺旋階段をイメージしてセットが造られたようです。
仁風閣での場面での台詞です。「人間とは弱いものだ。口では理想を語りたがるが、結局は3つのものの前では獣と同じ、自分のため金のため、そして快楽のため」。原作アニメを書かれた和月伸宏氏もこの言葉を地で行くようなことになってしまいとても残念です。 -
螺旋階段
親柱の装飾彫刻も手が込んでいます。また、手摺や手摺子にも味わい深い趣があります。
強靭な生命力の象徴である「アカンサス(あざみ)文様」を代表とする親柱の彫刻の意匠は、地元の彫刻家 長谷川熊蔵が手掛けました。 -
螺旋階段
外周のプロフィールは八角形ですが、内周の簓桁は円形になっています。
1974(昭和49)年の大修理の時でさえ解体されることはなく、110年以上前の姿を今に留めています。これを観るために遠方から来られる技術者も多々おられるようですが、解体したら最後、元通りに組み立てられる保証はないそうです。
勿論、現在は立入禁止になっています。 -
螺旋階段
下から見上げるとこんな感じです。
尖塔は、建物本体とのバランスと敷地の制約からスリムなプロポーションが求められました。それ故、通常の階段では納まり切らず、螺旋階段という発想を生んだのでしょう。設計者としては木造螺旋階段といった前例のない造形にチャレンジできた訳であり、ハラハラ、ドキドキしながら大工の作業を寡黙に見つめている設計者の息遣いが伝わってくるようです。
まさしく芭蕉の「兵どもが夢の跡」という表現がピッタリです。良い仕事をしています! -
廻縁
建物の随所にロココ調のスク ロール文様(イオニア式柱頭などに飾られた巻軸ないしは渦巻型の文様)を配しており、これも仁風閣のユニークなポイントです。
スクロール文様は、古代ギリシアの柱頭に見られたり、カトリック最高位の司教の権力を象徴する司教杖の先端部分にも施されています。パルメットやアカンサス、コキール(貝)やロカイユを繋ぐ古典的な装飾デザインとして発展したものです。 -
階段
家主や客人が使用する階段も重厚感があり、中央部分にのみ落ち着いた色彩の絨毯が敷かれています。また、手摺には繊細な装飾が施され、こちらもとても手が込んだ造りです。 -
階段
親柱を立てている一段目のエッジは、丸くして張り出させています。
こちらにもロココ様式を象徴する「アカンサス文様」が彫られています。 -
階段
こちらの階段にも支柱がありません。
また、途中階段の踊り場には明り取りが設けられ、足元を明るくする工夫がなされています。上方には大窓もあるのですが、外観の美しさに配慮して2階の部屋の並びと窓の高さを合わせているため、階段の足元が暗くならないよう小窓を開けたものです。 -
階段
踊り場の親柱も同じ意匠で統一されています。 -
階段
2階への階段を上がると、正面の白壁に大きな額が掲げられています。 -
2F 額「仁風閣」
これは元帥海軍大将 東郷平八郎の揮毫した額です。
また、「仁風閣」という命名そのものも東郷によります。
「仁」は五常(仁、義、礼、智、信)の「仁(思いやりや優しい心)」、「風」は久松山を扇の要に見立てたことから連想されたことに因みます。 -
2F ロビー
天井が一段と高く、御寝室の前には結界の役割を果たすドリス式オーダー(円柱)が添えられています。
2階の各部屋は皇太子が宿泊された当時の名称で呼ばれ、「御寝室」、「御座所」、「謁見所」、「バルコニー」の4ヶ所は見逃せません。
室内の構造・装飾には技術の粋が尽くされ、各部屋のマントルピース(暖炉飾り)やカーテンボックスには和洋折衷の彫刻細工など、職人さんの匠の技が随所に見られます。 -
2F 御寝室
皇太子の寝室となった部屋で、上品な落ち着いた色彩でコーディネートされています。どうやら、ぐっすり眠るには畳が1番ということで、急遽畳敷きに変更したようです。
14畳間に敷かれた畳は、棟札から畳職 西谷文六が制作したものと判明しています。棟札に名を連ねていることから、畳ひとつにも神経を行き届かせていたことが窺えます。 -
2F 御寝室
往時は壁のクロスも舶来品でした。洋館にも関わらず畳を敷いた和洋折衷様式ですが、そこに堂々と暖炉を配するのも明治時代の洋館ならではの醍醐味があります。 -
2F 御寝室
マントルピースの黒大理石には色鮮やかな英国ヴィクトリアン・タイルが貼られています。
暖炉の脇の柱や鏡枠にはスクロール(巻軸模様)文様が配されています。 -
2F 御寝室
木製の中心飾りと行灯風の八角形をした照明器具にも和のテイストが漂います。往時は輸入品しかなかった時代ですから、苦労して探し出したものなのでしょう。
落ち着いて寝られるようにとの配慮だったのでは…。 -
2F 御座所
皇太子が居室として使用した部屋です。
シックな雰囲気が漂いますが、仁風閣の中で最も豪奢な造りとなっており、細部に亘り装飾がなされ、その意匠も凝ったものです。絨毯やカーテン、椅子、カウチソファー(寝椅子)、シャンデリアなど、全てが気品に満ちており、格別な空間であるのが見て取れます。 -
2F 御座所
家具は往時のものが置かれ、どれも美しく精巧なものです。一見、洋風家具に見えますが、座椅子やカウチソファーは、ヴィクトリアン調ですが、金糸が光り、黒漆塗りに菊花の金蒔絵を施すばど見事に和を融合させています。
座椅子は、玉座の肘掛け椅子や肘掛けの無いもの、背もたれの張り地がないものと全てデザインを違えています。また、カウチソファーがあるだけでゴージャスな感じがします。 -
2F 御座所
木製のカーテンボックスの彫刻デザインも見逃せません。
カーテンボックスは、往時のままだそうです。 -
2F 御座所
鏡枠にも菊花彫刻が施され、カーテンボックスの可憐な花柄彫刻と調和させています。また、天井には5灯のシャンデリアがアール・ヌーヴォー風の華麗な曲線美を魅せています。 -
2F 御座所
黒漆塗りに菊花の金蒔絵が施された「玉座の椅子」です。
ヴィクトリア女王治世の高級家具に見られるような優雅なデザインです。手の握り部やS字曲線に連なる流麗な脚先にも、スクロール文様を配しています。また、床と接する部位が「猫脚」のようなカブリオールレッグになっています。これは、フランスのロココ調(ルイ15世様式)と英国ヴィクトリアン調との融合です。 -
2F 御座所
仁風閣の特徴のひとつが、暖炉の多さです。
修復工事で壁が剥がされたことで判明したのは、当初は15ヶ所に暖炉の設置が計画されていたことです。海外からの資材調達のリードタイムと建築期限厳守との兼ね合いから、断腸の思いで暖炉の数が減らされたものと推測されています。
工期が短かったため、8ヶ所に絞って設置したようです。 -
2F 御座所
シャンデリア同様、マントルピースの意匠も各部屋で違えています。
ここのマントルピースには装飾が彫まれたイタリア産の黒大理石を用い、高級感を醸しています。
屋根に煉瓦造の煙突が立てられているのは、こうした暖炉があるためです。 -
2F 御座所
マントルピースとは、暖炉の炉の上部・側面を囲むように壁面に設けられた飾枠を指します。左右に添えられたグリーンの英国ヴィクトリアン・タイルには、右に王子像、左に王女像が配してあります。燃え盛る暖炉の炎を挟んで男女が寡黙に見つめ合うという、とてもロマンチックな情景です。
秋山英治著『仁風閣物語 歴史とその周辺』によると、男女一対の肖像レリーフの裏面には「FLAXMAN」の刻印が刻まれていたそうです。ジョン・フラックスマンは、世界的に著名な陶芸家であり、英国彫刻史上最大の彫刻家であると共に、英国の新古典主義の代表的芸術家のひとりです。
因みに、塑像制作は、鳥取大学 和田綾子女史が発表した『美しき土塊-仁風閣のフラクスマン・タイル再考』によると、カナダ生まれで米国に移住したアーティスト「Isaac Broome (アイザック・ブルーム :1835~1922年)」と判明したそうです。制作はフラクスマン・タイル工房によるそうです。
こうしたフラクスマン・タイルは希少品ですので、もう少しアピールされてもいいかもしれません。 -
2F 御座所
この部屋だけは5灯のエレガントなシャンデリアになっています。決して豪華とは言えませんが、シックながら華麗なシャンデリアです。この5灯のシャンデリアのみ、建築当初からの物だそうです。
行灯生活だった城下にあって、煌々と灯りの付いた白亜の殿堂に人々は吃驚仰天したことでしょう。宮殿が燃えていると錯覚した人も多かったのでは? -
2F 謁見所
2階中央にある謁見所は皇太子と客人との謁見の場所として利用された大広間です。1階の随員控室同様に中央が出窓になっており、その先にはバルコニー(サンルーム)があります。
余談ですが、現在、謁見所は1時間900円というリーズナブルな料金で一般貸出されています。冷暖房設備がないため、ベストシーズンは限られているようですが…。主に結婚式の披露宴などに使われているようです。 -
2F 謁見所
往時は、赤い絨毯が敷かれていたと記録にあります。座椅子の張り地を赤色にしているのは、それになぞらえたのかもしれません。
それとは対照的に、マントルピースを白大理石にしているのは女性的です。そうした目で見ると、クロスやカーテンも女性好みの柄に思えます。ここで和やかな謁見が行なわれていたと想像するのは難くありません。
演台には、ファサードのセグメンタルペディメントに掲げられていたのと同じ六芒星と揚羽蝶の意匠が大きく彫られています。 -
2F 謁見所
ここは3灯のシャンデリアです。
3灯のシャンデリアは、昭和時代初期に撮影された宴会風景に写っていたものを基に復元されています。 -
2F 御食堂
皇太子の御宿舎として使用された時の食堂の様子を再現しています。
かつてはこの建物の南側に調理場があり、渡り廊下・螺旋階段を経て隣室の供進所に運ばれ、殿下が席に着かれたのを見計らって食事がサービスされました。
展示されている座椅子は、殿下が食事の際に実際に使用したものだそうです。 -
2F 御食堂
ここにもカウチソファーが置かれており、その先端部はスクロールになっています。
色々と気遣われているのですね! -
2F 御食堂
ピンク色の可愛らしい座椅子です。
インテリア全般はロココ調のソフトで、フェミニンな印象を与えます。 -
2F 御食堂
カーテンボックスの彫刻も一見の価値ありです。 -
2F バルコニー
白壁に白い絨毯、白い窓枠でコーディネートされた清楚な美しさが際立つバルコニー(サンルーム)です。何ともお洒落で、明るい空間を演出しています。
ここは映画『るろうに剣心』のロケが行われた場所です。この建物は、悪徳商人 武田観柳役の香川照之さんの屋敷として使用されました。また、印象的だったクライマックスのバトルシーンは、このバルコニーから見下ろせる「宝隆院庭園」で撮影されており、映画のシーンを思い出された方もおられるかも知れません。 -
2F バルコニー
仁風閣の特徴は、造形の美しさだけではなく、その耐震性にもあります。1943(昭和18)年の鳥取地震でもガラスが割れることはなかったそうです。
今でも手吹きで制作された往時のギヤマン・ガラスを一部で見ることができます。外の景色が波打って見えるので、直ぐに判ります。 -
2F バルコニー
背後には、鳥取城二の丸の御三階櫓の石垣が迫ってきます。このバルコニーは雰囲気が良いので結婚式の前撮りにも重宝されています。
バルコニーはとても繊細な印象を与えますが、実は竣工当時は1階と同様に吹き放ちだったそうです。しかし、この地は冬になると雪が積もるため寒さもこたえ、一冬超した後にサンルームに改装されています。全面にガラス窓が設けられ、悪天候時や冬季にもサンルームとして快適に利用することができるようになっています。 -
2F バルコニー 宝隆院庭園
池泉回遊式日本庭園「宝隆院庭園」が一望でき、天気の良い日には大山も見られるそうです。右端にあるのが鳥取県庁です。
映画『るろうに剣心』の他、1989年公開の『舞姫 Die Tanzerin』のロケ地としても知られています。
「宝隆院庭園」は、久松山を背景とする山裾の台地にある大名庭の系列に属する池庭で、1863(文久3)年に第12代鳥取藩主 池田慶徳が若くして未亡人となった先代 慶栄の夫人、宝隆院を慰めるために扇御殿と共に造営したものです。 -
2F 螺旋階段
2階から見下ろした様子です。
中段でガラス窓が明かり取りの役割を果たしています。 -
2F 螺旋階段
完成時の設計者や施工者たちの笑顔を思い浮かべると、清々しい気持ちになります。
幾何学的にも興味が尽きない造形ですが、如何せんツアー旅行ですので時間に余裕がありません。
後ろ髪を引かれつつその場を立ち去ります。 -
2F 廊下
ランプ・シェードは、すずらんの花をあしらったデザインです。絵柄も可憐です。
今は貴重なタングステン電球の光がやさしいです。 -
2F 御物置
元々は物置き場だったはずですが、現在は会議室のようにテーブルと椅子が配されています。しかも物置にしておくにはもったいないほどの気品を湛えた美しいクロスとカーテンです。
仁風閣は結婚式などにも利用されていますので、そうした際に控室として使われているのかもしれません。 -
2F 御物置
御物置にも暖炉があるというのは、どういった理由なのでしょうか?
別の目的でも使われていたのかもしれません。
謎めいた部屋です。 -
2F 御物置
マントルピースの木枠の意匠も凝ったものです。 -
2F 御物置
鏡枠の手の込んだ彫刻です。
鏡枠全般に共通するスクロール文様を意識した意匠です。 -
2F 御物置
ふと見上げると、こんな所にもロココ調のS字を描くスク ロール文様が凝らされています。 -
2F 御厠
御寝室の左隣には御厠があります。 -
2F 御厠
ビロード張りの木製の腰掛便器がポツンと置かれています。
便器には引き出しが付けられ、そこに砂を入れて使用したそうです。担当者が便を確認することで、健康管理を行っていたそうです。 -
宝隆院庭園
仁風閣背後の芝生を結界にして「洋」と「和」が切り替わる仕掛けです。
江戸時代に定形化した池泉回遊式庭園の典型的な構成をしており、池や中島周辺の配置や石組には京風の洗練された手法が見て取れます。久松山を背景に自然林を活かした渓流の岩組や滝口が織りなす景観が愉しめます。鶴を象った鶴池には豪壮な亀島を浮かべ、地形の変化に富む幽玄な造りは江戸時代末期の造園の味をよく残しています。 -
庭園の端からショートカットして久松山へ登ることができます。
この階段は二の丸にある御三階櫓へナビゲートしてくれるのですが、その手前に仁風閣を俯瞰できる絶好の場所があります。 -
鳥取城址 二の丸跡
仁風閣の正面側から鳥取城址の石垣群を見るとこんな感じです。
上段が二の丸跡石垣になります。左端に突き出した石垣が、天守の焼失後に天守代わりだった御三階櫓跡のものです。
以下の写真を撮影したのは、櫓跡の石垣の下です。もう5分も登れば、復元された天球丸の「巻石垣」が見られます。ツアーでは集合時間(=出発時刻)の5分前までにバスに着席するのが鉄則です。これを守らない方がいると、その後の観光時間に影響し、他のツアーメンバーに迷惑をかけることになります。集団行動ですので、モラルを守ってストレスフリーの旅行にしていただければと思います。
因みに、巻石垣は、石垣の崩落を防ぐ目的で江戸時代終盤に築き足されたものです。復元されたものですが、角を持たない球面状の石垣は全国唯一のものです。
詳しくは次のサイトを参照してください。
https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1336361942196/files/PDF.pdf -
たいして登ってもいないのですが、鳥取市街が一望できます。
仁風閣の設計者は片山東熊とするのが定説ですが、屋根裏から発見された棟札には彼の名前が記されておらず、彼の後輩に当たる鳥取出身の橋本平蔵(実際の工事監督)に助言する程度の係わりだったのではないかとの見方もあります。東熊はこの時期、旧赤坂離宮にかかりきりで、手が回らなかったというのがその根拠ですが、真偽のほどは不明です。
個人的には、セグメンタルペディメントの棟飾りは片山東熊の特徴を示しており、設計者として棟札に名がなかったのは意外でした。「オール鳥取」で成し遂げたとの功績を讃えようと、意図的に記名を辞退したとも考えられるのですが・・・。
因みに、棟札に東熊の名がなかったのに設計者とされている理由は不詳です。 -
寄棟造の屋根は、とても複雑な構造になっています。
瓦に煉瓦煙突と、屋根の造りはまさに和と洋の共演です。 -
こうして俯瞰すると、単なる寄棟造ではない複雑な屋根構造の難しさと、煉瓦造の煙突や丸い通気口などの細かな表情を窺い知ることができます。
屋根の上にもアイアンワークのスクロール文様が沢山見つけられます。 -
仁風閣の華麗なる姿をもう一度目に焼き付け、鳥取の地を後にしました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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