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後編は、有楽苑のクライマックスとも言える「如庵」と「元庵」のレポをお届けします。<br />如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が1618(元和4)年に京都 建仁寺塔頭 正伝院に建てた茶室です。数寄屋造の古典とされ、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。また、京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。<br />元庵は、有楽斎が大阪の天満屋敷内に構えた茶室を古図に基づいて忠実に復元したもので、この茶室もかつては「天満の如庵」と呼ばれていました。<br />いずれも優劣付け難い茶の湯の金字塔であり、利休の「侘び茶」に対抗するような斬新な有楽斎イズムが自由奔放に展開されています。<br />HPです。<br />http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/<br />園内マップです。<br />http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/guide/<br />

秋思秋愁 尾張犬山逍遥④有楽苑(後編)

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2018/12/01 - 2018/12/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

後編は、有楽苑のクライマックスとも言える「如庵」と「元庵」のレポをお届けします。
如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が1618(元和4)年に京都 建仁寺塔頭 正伝院に建てた茶室です。数寄屋造の古典とされ、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。また、京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。
元庵は、有楽斎が大阪の天満屋敷内に構えた茶室を古図に基づいて忠実に復元したもので、この茶室もかつては「天満の如庵」と呼ばれていました。
いずれも優劣付け難い茶の湯の金字塔であり、利休の「侘び茶」に対抗するような斬新な有楽斎イズムが自由奔放に展開されています。
HPです。
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/
園内マップです。
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/guide/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 苑内マップです。<br />後編は、弘庵を出て旧正伝院書院の南庭に入る所からスタートします。

    苑内マップです。
    後編は、弘庵を出て旧正伝院書院の南庭に入る所からスタートします。

  • 有楽苑 旧正伝院書院 萱門(かやもん)<br />この茅葺の門が書院南庭への出入口になります。<br />ここへの順路は、マップを参照してもらうと判り易いのですが、岩栖門から書院北面に入り、書院西面にある含翠門を一旦出て、この萱門を潜って再び書院南庭に入ります。

    有楽苑 旧正伝院書院 萱門(かやもん)
    この茅葺の門が書院南庭への出入口になります。
    ここへの順路は、マップを参照してもらうと判り易いのですが、岩栖門から書院北面に入り、書院西面にある含翠門を一旦出て、この萱門を潜って再び書院南庭に入ります。

  • 有楽苑 旧正伝院書院 萱門<br />印象的なのは、頭でっかちで少し傾きかけ、ハラハラさせられることです。<br />ぶ厚い萱葺に妻入りの屋根を華奢な6本の柱で必死に支えながら、与えられた役目を懸命に果たしている姿がけなげで目に染み入ります。<br />

    有楽苑 旧正伝院書院 萱門
    印象的なのは、頭でっかちで少し傾きかけ、ハラハラさせられることです。
    ぶ厚い萱葺に妻入りの屋根を華奢な6本の柱で必死に支えながら、与えられた役目を懸命に果たしている姿がけなげで目に染み入ります。

  • 有楽苑 旧正伝院書院 萱門<br />屋根の上には、茅でできた鰹木のようなものを5本載せています。<br />左右方向には、簪のように細竹を何本も通しています。<br />オリジナルを尊重した移築と聞いていますので、後世の追補ではないと思います。

    有楽苑 旧正伝院書院 萱門
    屋根の上には、茅でできた鰹木のようなものを5本載せています。
    左右方向には、簪のように細竹を何本も通しています。
    オリジナルを尊重した移築と聞いていますので、後世の追補ではないと思います。

  • 有楽苑 旧正伝院書院 萱門<br />こうして引いて見ると「侘び寂び」を湛えた門構えです。<br />書院の佇まいにすっかり溶け込んでいますが、元々書院に付随していた門ではありません。これも三井コレクションのひとつでした。<br />元々は何処にあった萱門なのか、興味は尽きません。

    有楽苑 旧正伝院書院 萱門
    こうして引いて見ると「侘び寂び」を湛えた門構えです。
    書院の佇まいにすっかり溶け込んでいますが、元々書院に付随していた門ではありません。これも三井コレクションのひとつでした。
    元々は何処にあった萱門なのか、興味は尽きません。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />このように書院の右端に茶室「如庵」が繋がっています。<br />ここも紅葉が盛りです。

    有楽苑 旧正伝院書院
    このように書院の右端に茶室「如庵」が繋がっています。
    ここも紅葉が盛りです。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />書院は1618(元和4)年に如庵に隣接して建てられた有楽斎の隠居所とされ、屋根はほんの僅かに「むくり」を付けた銅板葺で、入母屋造の温和な外観を呈し、南側の主室は茶座敷に相応しい構えをしています。

    有楽苑 旧正伝院書院
    書院は1618(元和4)年に如庵に隣接して建てられた有楽斎の隠居所とされ、屋根はほんの僅かに「むくり」を付けた銅板葺で、入母屋造の温和な外観を呈し、南側の主室は茶座敷に相応しい構えをしています。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />書院手前には蹲踞が置かれています。

    有楽苑 旧正伝院書院
    書院手前には蹲踞が置かれています。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />西面から元庵の露地が見通せます。<br />南面に7畳と6畳、その北側に6畳間が直列に3部屋並び、外部に広い縁側を回らした構成です。7畳の「上の間」には炉も切られ、ここで茶事が行われていたことが窺えます。<br />ここで有楽斎は茶の湯の世界にどっぷりと浸かり、穏やかな晩年を過ごしたと伝わります。

    有楽苑 旧正伝院書院
    西面から元庵の露地が見通せます。
    南面に7畳と6畳、その北側に6畳間が直列に3部屋並び、外部に広い縁側を回らした構成です。7畳の「上の間」には炉も切られ、ここで茶事が行われていたことが窺えます。
    ここで有楽斎は茶の湯の世界にどっぷりと浸かり、穏やかな晩年を過ごしたと伝わります。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />狭い茶室は、小人数の客人をもてなす空間です。そのため、もてなしの段取りを行う配膳場所が必要であり、広い部屋でもてなすことも不可欠のため、通常、茶室は母屋になる建物に寄り添います。<br />如庵もそうした構成に倣っており、茶室に隣接して書院建築の母屋があります。

    有楽苑 旧正伝院書院
    狭い茶室は、小人数の客人をもてなす空間です。そのため、もてなしの段取りを行う配膳場所が必要であり、広い部屋でもてなすことも不可欠のため、通常、茶室は母屋になる建物に寄り添います。
    如庵もそうした構成に倣っており、茶室に隣接して書院建築の母屋があります。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />書院は簡素な造りであり、内部の床構えも茶室風の造りを基本としており、右側に見られる7畳の主室「上の間」と6畳間が4室という設えです。室境の欄間も極めて簡素な意匠の格子を付けただけのものです。<br />また、書院には、長谷川等伯をはじめ狩野山雪、安信、常信、鶴沢、探山などの障壁画が残されており、美術史上貴重な資料となっています。

    有楽苑 旧正伝院書院
    書院は簡素な造りであり、内部の床構えも茶室風の造りを基本としており、右側に見られる7畳の主室「上の間」と6畳間が4室という設えです。室境の欄間も極めて簡素な意匠の格子を付けただけのものです。
    また、書院には、長谷川等伯をはじめ狩野山雪、安信、常信、鶴沢、探山などの障壁画が残されており、美術史上貴重な資料となっています。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />建物は、三方に縁を回らし、南面に細長い沓脱石を据え、主室の前に簡素な手摺を添え、室と縁側の境には腰高障子と舞良戸を立てています。

    有楽苑 旧正伝院書院
    建物は、三方に縁を回らし、南面に細長い沓脱石を据え、主室の前に簡素な手摺を添え、室と縁側の境には腰高障子と舞良戸を立てています。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />縁側の木組みと風雪に磨かれた板張りなど、簡素な中にも日本文化が息づいています。直交する床板の仕上げ造作にも巧みの業が光ります。<br />旧正伝院の建物は売却されて四散していたのですが、有楽苑に移築された際、元のように如庵を書院の縁側に直結させ、『都林泉名勝図会』の図に基づいて南側縁に手摺が復元されています。

    有楽苑 旧正伝院書院
    縁側の木組みと風雪に磨かれた板張りなど、簡素な中にも日本文化が息づいています。直交する床板の仕上げ造作にも巧みの業が光ります。
    旧正伝院の建物は売却されて四散していたのですが、有楽苑に移築された際、元のように如庵を書院の縁側に直結させ、『都林泉名勝図会』の図に基づいて南側縁に手摺が復元されています。

  • 有楽苑 旧正伝院書院<br />簾越しの紅葉にも趣があります。<br />書院南庭から飛び石を渡り、書院東側にある如庵の露地へと導かれます。<br />

    有楽苑 旧正伝院書院
    簾越しの紅葉にも趣があります。
    書院南庭から飛び石を渡り、書院東側にある如庵の露地へと導かれます。

  • 有楽苑 旧正伝院書院と如庵<br />書院の南東角に繋がるように茶室「如庵」が建てられています。<br />この縁側はそのまま如庵内部の廊下に入り込む構造になっており、書院と茶室との行交いが無理なく行える巧みな配慮がなされています。

    有楽苑 旧正伝院書院と如庵
    書院の南東角に繋がるように茶室「如庵」が建てられています。
    この縁側はそのまま如庵内部の廊下に入り込む構造になっており、書院と茶室との行交いが無理なく行える巧みな配慮がなされています。

  • 有楽苑 如庵<br />柿葺屋根に映える深紅の紅葉です。

    有楽苑 如庵
    柿葺屋根に映える深紅の紅葉です。

  • 有楽苑 如庵<br />如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が1618(元和4)年に京都 建仁寺塔頭 正伝院が再興された時に建てた茶室です。<br />数寄屋造の古典とされ、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。<br />また、京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。

    有楽苑 如庵
    如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が1618(元和4)年に京都 建仁寺塔頭 正伝院が再興された時に建てた茶室です。
    数寄屋造の古典とされ、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。
    また、京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。

  • 有楽苑 如庵<br />「如庵」は「じょあん」と読みますが、一説には有楽斎のクリスチャン・ネーム「Johan」に由来すると伝わります。有楽斎は秀吉に仕えた時代にキリシタンの信者になったと思われます。<br />有楽斎が茶の湯を学んだ千利休は、武門出身で茶人である武野紹鴎の下で学びましたが、先輩の今井宗久などの影響を受けて新しい思想のキリスト教も学んだとされます。それ故、禅とキリスト教、東西の宗教観の一体感を見出した利休により「茶の湯」が「茶の道」に進化したと言われています。つまり、彫った仏像に魂が入れられたようなものです。<br />例えば、茶室の「躙口」はまさしく聖書のマタイ伝にある「狭き門」の教えと同じ意味を持ちます。区別差別なく武士といえども帯刀を許さず、丸腰で頭を下げて茶室に出入りするための狭き門です。

    有楽苑 如庵
    「如庵」は「じょあん」と読みますが、一説には有楽斎のクリスチャン・ネーム「Johan」に由来すると伝わります。有楽斎は秀吉に仕えた時代にキリシタンの信者になったと思われます。
    有楽斎が茶の湯を学んだ千利休は、武門出身で茶人である武野紹鴎の下で学びましたが、先輩の今井宗久などの影響を受けて新しい思想のキリスト教も学んだとされます。それ故、禅とキリスト教、東西の宗教観の一体感を見出した利休により「茶の湯」が「茶の道」に進化したと言われています。つまり、彫った仏像に魂が入れられたようなものです。
    例えば、茶室の「躙口」はまさしく聖書のマタイ伝にある「狭き門」の教えと同じ意味を持ちます。区別差別なく武士といえども帯刀を許さず、丸腰で頭を下げて茶室に出入りするための狭き門です。

  • 有楽苑 如庵<br />茶の道の巨匠 千利休が一目置いた茶人、それが有楽斎でした。 一杯の茶を共にするため、亭主は客人を如何にもてなすかに心を砕きます。茶室に誘う飛び石のしっとりとした地肌は、丁寧に磨き上げられたように艶やかです。露地の木々の葉、一枚一枚を磨き上げることもあるそうです。 <br />屋根は、薄い板を幾重にも重ね、精緻な美しさを魅せる柿葺です。華美な装飾を一切排除し、山中に佇む草庵の如く侘び寂びの風情を醸すために素材を吟味し尽くし、気が遠くなるほどの手間暇を掛けたことが一目で判ります。<br />茶室は、小間と呼ばれる密室です。「広くはないが、さりとて狭苦しくもない」。これが有楽斎の茶室の設えに対するポリシーです。

    有楽苑 如庵
    茶の道の巨匠 千利休が一目置いた茶人、それが有楽斎でした。 一杯の茶を共にするため、亭主は客人を如何にもてなすかに心を砕きます。茶室に誘う飛び石のしっとりとした地肌は、丁寧に磨き上げられたように艶やかです。露地の木々の葉、一枚一枚を磨き上げることもあるそうです。
    屋根は、薄い板を幾重にも重ね、精緻な美しさを魅せる柿葺です。華美な装飾を一切排除し、山中に佇む草庵の如く侘び寂びの風情を醸すために素材を吟味し尽くし、気が遠くなるほどの手間暇を掛けたことが一目で判ります。
    茶室は、小間と呼ばれる密室です。「広くはないが、さりとて狭苦しくもない」。これが有楽斎の茶室の設えに対するポリシーです。

  • 有楽苑 如庵<br />有楽斎は通説では利休門下と言われていますが、己の好みで建てた如庵は利休作の侘びた草庵茶室とは趣を異にします。<br />屋根は柿葺の格調高い一重の片入母屋造屋根の妻を正面に向けた数奇屋造をしており、妻には大悔(たいかい)筆の「如庵」の扁額を掲げています。この扁額は、旧正伝院如庵のものではなく、大阪天満屋敷にあった如庵の額です。

    有楽苑 如庵
    有楽斎は通説では利休門下と言われていますが、己の好みで建てた如庵は利休作の侘びた草庵茶室とは趣を異にします。
    屋根は柿葺の格調高い一重の片入母屋造屋根の妻を正面に向けた数奇屋造をしており、妻には大悔(たいかい)筆の「如庵」の扁額を掲げています。この扁額は、旧正伝院如庵のものではなく、大阪天満屋敷にあった如庵の額です。

  • 有楽苑 如庵<br />玄関の土間には、関守石が載せられた沓脱石と躙口石、その他に2つの飛び石が色を違えて配されています。躙口石は黒光りした加茂川産の加茂石、沓抜石は錆御影石、手前の2番石は黄に赤味のかかった色鮮かな水成岩、手前の飛び石は灰色を呈しています。

    有楽苑 如庵
    玄関の土間には、関守石が載せられた沓脱石と躙口石、その他に2つの飛び石が色を違えて配されています。躙口石は黒光りした加茂川産の加茂石、沓抜石は錆御影石、手前の2番石は黄に赤味のかかった色鮮かな水成岩、手前の飛び石は灰色を呈しています。

  • 有楽苑 如庵<br />外観の特徴は、左端に袖壁を盛って土間庇を設え、この土間に誘い込むようなオープンスペースを構えていることです。そしてこの土間の袖壁に対峙させるように躙口を切り、躙口を茶室正面からは見せない構造です。<br />土間庇の正面にある障子の奥は控えの間で「扈従(こしょう)の間」もしくは「鞘(さや)の間」と呼ばれ、廊下を通じて書院に繋がります。<br />扈従の間には、置刀掛けも備えられていたそうです。武士が茶室に刀を持ち込むのはご法度であり、ここに刀を置き、躙口から頭を下げて茶室に入りました。これは、茶室では身分の分け隔てなく、全ての人間が平等であるという千利休の世界観を象徴したものです。

    有楽苑 如庵
    外観の特徴は、左端に袖壁を盛って土間庇を設え、この土間に誘い込むようなオープンスペースを構えていることです。そしてこの土間の袖壁に対峙させるように躙口を切り、躙口を茶室正面からは見せない構造です。
    土間庇の正面にある障子の奥は控えの間で「扈従(こしょう)の間」もしくは「鞘(さや)の間」と呼ばれ、廊下を通じて書院に繋がります。
    扈従の間には、置刀掛けも備えられていたそうです。武士が茶室に刀を持ち込むのはご法度であり、ここに刀を置き、躙口から頭を下げて茶室に入りました。これは、茶室では身分の分け隔てなく、全ての人間が平等であるという千利休の世界観を象徴したものです。

  • 有楽苑 如庵<br />袖壁には上下に少し歪んだ下地円窓が配され、柔らいだ表情をこの素朴な土間空間に注いでいます。この円の形は有楽斎がフリーハンドで描いたものと伝えられ、真円にはない深い味わいがあります。<br />この下地円窓は、茶室の表情のアクセントになるだけでなく、仄暗い土間への採光の役割も果たしています。

    有楽苑 如庵
    袖壁には上下に少し歪んだ下地円窓が配され、柔らいだ表情をこの素朴な土間空間に注いでいます。この円の形は有楽斎がフリーハンドで描いたものと伝えられ、真円にはない深い味わいがあります。
    この下地円窓は、茶室の表情のアクセントになるだけでなく、仄暗い土間への採光の役割も果たしています。

  • 有楽苑 如庵<br />土間の上方には「国宝指定書」が掲げられています。<br />如庵は、普段は非公開ですが、毎年4月・11月に一般に公開、もしくは月一回の特別見学会(ハガキ申し込み)があります。<br />また、お正月は元旦から初釜を開催しているようです。

    有楽苑 如庵
    土間の上方には「国宝指定書」が掲げられています。
    如庵は、普段は非公開ですが、毎年4月・11月に一般に公開、もしくは月一回の特別見学会(ハガキ申し込み)があります。
    また、お正月は元旦から初釜を開催しているようです。

  • 有楽苑 如庵<br />書院の縁側には如庵の模型が置かれており、これを見れば小間の見所が一目瞭然です。

    有楽苑 如庵
    書院の縁側には如庵の模型が置かれており、これを見れば小間の見所が一目瞭然です。

  • 有楽苑 如庵<br />室内は70cm四方程の連子窓から隈なく覗けますが、自然光だけが採光要素となるため昼間でも仄暗く感じられます。往時は行燈の灯りもあったようですが…。<br />ブログには室内の写真撮影はNGと書かれているものが多いのですが、居合わせたツアーガイドさんに確認した所、フラッシュを用いないことを条件に許可していただけました。ガイドさんの裁量によるものかは不明ですが、写真撮影禁止の貼紙もありませんでした。撮影を希望される場合は、係員やガイドさんに確認されることをお勧めします。

    有楽苑 如庵
    室内は70cm四方程の連子窓から隈なく覗けますが、自然光だけが採光要素となるため昼間でも仄暗く感じられます。往時は行燈の灯りもあったようですが…。
    ブログには室内の写真撮影はNGと書かれているものが多いのですが、居合わせたツアーガイドさんに確認した所、フラッシュを用いないことを条件に許可していただけました。ガイドさんの裁量によるものかは不明ですが、写真撮影禁止の貼紙もありませんでした。撮影を希望される場合は、係員やガイドさんに確認されることをお勧めします。

  • 有楽苑 如庵<br />躙口の上にある連子窓から室内を覗くと、一般的な茶室とは趣が異なる点に気付きます。それは躙口と床の間の位置関係です。通常、躙口から室内を見た時、正面に床が見えるように躙口を配置するのが約束事です。しかし如庵の躙口の正面には、中柱の両脇に2つ並べられた「有楽窓」と呼ばれるユニークな連子窓があり、床の間はフレームアウトしています。

    有楽苑 如庵
    躙口の上にある連子窓から室内を覗くと、一般的な茶室とは趣が異なる点に気付きます。それは躙口と床の間の位置関係です。通常、躙口から室内を見た時、正面に床が見えるように躙口を配置するのが約束事です。しかし如庵の躙口の正面には、中柱の両脇に2つ並べられた「有楽窓」と呼ばれるユニークな連子窓があり、床の間はフレームアウトしています。

  • 有楽窓<br />特筆すべき点は、点前座横の洞庫の上に細い紫竹と白竹を詰打ちにした連子窓を2連並べた「有楽窓」です。風炉先にある板壁の右上・左下に段違いに有楽窓を配しています。<br />光が竹の合間を通り過ぎる際に横方向に分散される現象を取り入れた採光窓で、細い隙間から虹のように発色する現象を取り入れた俗称「虹窓」と呼ばれるものです。竹同士の隙間から漏れる微かな光が障子に映り、柔かな採光により微妙な陰影を室内に取り込みます。障子が少し開かれているので、直接の採光の赴も味わうことができました。<br />この「有楽窓」は、かつて正伝院内にあった頃、隣地が墓地だったために直接目に入らないように目隠しするために詰め討ちしたとも伝わります。採光の計算だけでなく、実用性も兼ねていたとは頭が下がります。

    有楽窓
    特筆すべき点は、点前座横の洞庫の上に細い紫竹と白竹を詰打ちにした連子窓を2連並べた「有楽窓」です。風炉先にある板壁の右上・左下に段違いに有楽窓を配しています。
    光が竹の合間を通り過ぎる際に横方向に分散される現象を取り入れた採光窓で、細い隙間から虹のように発色する現象を取り入れた俗称「虹窓」と呼ばれるものです。竹同士の隙間から漏れる微かな光が障子に映り、柔かな採光により微妙な陰影を室内に取り込みます。障子が少し開かれているので、直接の採光の赴も味わうことができました。
    この「有楽窓」は、かつて正伝院内にあった頃、隣地が墓地だったために直接目に入らないように目隠しするために詰め討ちしたとも伝わります。採光の計算だけでなく、実用性も兼ねていたとは頭が下がります。

  • 如有楽苑 如庵<br />如庵の造りは、客をもてなす「茶室」、準備や片付けを行う「水屋の間」、それと書院と如庵を繋ぐ「扈従の間」からなります。水屋の間は3畳、茶室は2畳半台目向切り(丸畳二畳+半畳一畳+台目畳一畳)の間取りです。<br />躙口の左側には台目床(通常より幅がやや狭い床)が設けられ、床脇と点前座との間には三角形のウロコ板を嵌め込み、そこに斜めの壁を設けているところから「筋違いの囲」や「袴腰(えりこし)の数寄屋」と呼ばれるデザインです。<br />これは、茶道口から客座への給仕の際に動ける範囲を広く取り、給仕をスムーズに行えるようにするための工夫です。また、三角形の地板で奥行を錯覚させて部屋を広く見せるためのアイデアでもあります。<br />太い床柱は、杣なぐりで力強さを感じさせます。床框は黒塗で武家風のあしらいです。<br />左奥にある勝手口(主人の入口)の前にある台目畳が手前座(主人が座る位置)であり、炉もここに設けられています。炉先は、向切の出隅に中柱を立てて結界を思わせる火灯形にくり抜いて薄板を嵌め、その先に半畳間を置いて客座の空間を広く明るくしています。<br />このように中柱を座敷の空間構成における床に対する中心的な要素としたのは類を見ません。

    如有楽苑 如庵
    如庵の造りは、客をもてなす「茶室」、準備や片付けを行う「水屋の間」、それと書院と如庵を繋ぐ「扈従の間」からなります。水屋の間は3畳、茶室は2畳半台目向切り(丸畳二畳+半畳一畳+台目畳一畳)の間取りです。
    躙口の左側には台目床(通常より幅がやや狭い床)が設けられ、床脇と点前座との間には三角形のウロコ板を嵌め込み、そこに斜めの壁を設けているところから「筋違いの囲」や「袴腰(えりこし)の数寄屋」と呼ばれるデザインです。
    これは、茶道口から客座への給仕の際に動ける範囲を広く取り、給仕をスムーズに行えるようにするための工夫です。また、三角形の地板で奥行を錯覚させて部屋を広く見せるためのアイデアでもあります。
    太い床柱は、杣なぐりで力強さを感じさせます。床框は黒塗で武家風のあしらいです。
    左奥にある勝手口(主人の入口)の前にある台目畳が手前座(主人が座る位置)であり、炉もここに設けられています。炉先は、向切の出隅に中柱を立てて結界を思わせる火灯形にくり抜いて薄板を嵌め、その先に半畳間を置いて客座の空間を広く明るくしています。
    このように中柱を座敷の空間構成における床に対する中心的な要素としたのは類を見ません。

  • 有楽苑 如庵<br />高い腰貼りには寛永時代の暦が貼られ、その独特の文様が室内のアクセントとなり、利休の目指した侘びとは異質のモダンデザイナーとしての有楽斎の真骨頂が窺えます。「暦貼りの席」とも呼ばれ、これらの独創的な世界観は後世に多大な影響を与え、後年尾形光琳がこの如庵に倣って自分の敷地に「遼廊亭」を造り、現在は京都 仁和寺に移されています。また、数寄屋造に及ぼす桂離宮の存在同様、時代を超えた刺激を茶室建築に与え続けています。<br />一方、暦貼りの文字に囲まれた胡乱な空間は、仄暗さも手伝い狂気の沙汰にも映ります。この一種不気味な感覚は、実際に茶室に入らないと体感できないのかも知れしれません。<br />因みに、古い暦は湊紙でできています。湊紙とは和泉国湊村に産したことからこの名前があり、楮に染料を加えて漉いたやや粗く強い腰紙です。<br />利休時代から「侘び寂び」のデザインから茶室と共に土壁を剥き出しする設えが始められましたが、土壁を嫌って紙を貼るのは書院造に由来します。「延書式」などに見られる神の依代を模し、正伝院屋敷の中に神の宿る茶室を求道したとも思われます。<br />因みに、この台目畳みには炉が切られておらず、代わりに竹を組んだ印が置かれています。季節柄、風炉の時期とは思えませんが、季節により畳を置き換えているのかは不詳です。

    有楽苑 如庵
    高い腰貼りには寛永時代の暦が貼られ、その独特の文様が室内のアクセントとなり、利休の目指した侘びとは異質のモダンデザイナーとしての有楽斎の真骨頂が窺えます。「暦貼りの席」とも呼ばれ、これらの独創的な世界観は後世に多大な影響を与え、後年尾形光琳がこの如庵に倣って自分の敷地に「遼廊亭」を造り、現在は京都 仁和寺に移されています。また、数寄屋造に及ぼす桂離宮の存在同様、時代を超えた刺激を茶室建築に与え続けています。
    一方、暦貼りの文字に囲まれた胡乱な空間は、仄暗さも手伝い狂気の沙汰にも映ります。この一種不気味な感覚は、実際に茶室に入らないと体感できないのかも知れしれません。
    因みに、古い暦は湊紙でできています。湊紙とは和泉国湊村に産したことからこの名前があり、楮に染料を加えて漉いたやや粗く強い腰紙です。
    利休時代から「侘び寂び」のデザインから茶室と共に土壁を剥き出しする設えが始められましたが、土壁を嫌って紙を貼るのは書院造に由来します。「延書式」などに見られる神の依代を模し、正伝院屋敷の中に神の宿る茶室を求道したとも思われます。
    因みに、この台目畳みには炉が切られておらず、代わりに竹を組んだ印が置かれています。季節柄、風炉の時期とは思えませんが、季節により畳を置き換えているのかは不詳です。

  • 有楽苑 如庵<br />如庵の窓は、全部で五ヶ所あり、南側には連子窓と下地窓が開いていますが、直射日光を嫌うためこれらには通常、簾が掛けられています。東側に設けられた2連の有楽窓は窓全面を竹で覆っており、採光は微々たるものです。躙口の上部にも連子窓が設けられていますが、これもまた土間庇の袖壁に遮られて潤沢な光量は得られません。従って、茶室内に充分な採光をもたらすのは、屋根に開かれた「突き上げ窓」だけになります。<br />つまり、壁に設けられた五ヶ所の窓は、採光のためではなく、光の演出を愉しむために設けられています。これが、如庵が「採光を計算し尽くした茶室の傑作」とされる理由です。<br />一方、堀口捨己氏がオリジナルの如庵とは方位を違えて移築したという説もあり、時代を超えて受け継がれていく建造物の悲哀と建築家の矜持のぶつかり合いが如実に感じられるところです。<br />この仄暗い空間で有楽斎と客人が束の間の一時を過ごしたのかと思うと、なんとも不思議な気持ちになります。

    有楽苑 如庵
    如庵の窓は、全部で五ヶ所あり、南側には連子窓と下地窓が開いていますが、直射日光を嫌うためこれらには通常、簾が掛けられています。東側に設けられた2連の有楽窓は窓全面を竹で覆っており、採光は微々たるものです。躙口の上部にも連子窓が設けられていますが、これもまた土間庇の袖壁に遮られて潤沢な光量は得られません。従って、茶室内に充分な採光をもたらすのは、屋根に開かれた「突き上げ窓」だけになります。
    つまり、壁に設けられた五ヶ所の窓は、採光のためではなく、光の演出を愉しむために設けられています。これが、如庵が「採光を計算し尽くした茶室の傑作」とされる理由です。
    一方、堀口捨己氏がオリジナルの如庵とは方位を違えて移築したという説もあり、時代を超えて受け継がれていく建造物の悲哀と建築家の矜持のぶつかり合いが如実に感じられるところです。
    この仄暗い空間で有楽斎と客人が束の間の一時を過ごしたのかと思うと、なんとも不思議な気持ちになります。

  • 有楽苑 如庵<br />天井は床側が紫竹の竿縁天井で、竹の繋ぎは藤蔓で巻かれています。前面の庇部には化粧屋根の中央に突上げ窓が開けられています。

    有楽苑 如庵
    天井は床側が紫竹の竿縁天井で、竹の繋ぎは藤蔓で巻かれています。前面の庇部には化粧屋根の中央に突上げ窓が開けられています。

  • 有楽苑 如庵<br />横浜の三渓園にある三畳台目の小間茶室「春草廬(重文)」も有楽斎の作品と伝えられています。 春草廬は、茶室内に9つの窓があることから、かつて「九窓亭」と呼ばれていました。<br />この「如庵」にも明り取りの窓が多数あり、同じコンセプトのものであることが窺えます。

    有楽苑 如庵
    横浜の三渓園にある三畳台目の小間茶室「春草廬(重文)」も有楽斎の作品と伝えられています。 春草廬は、茶室内に9つの窓があることから、かつて「九窓亭」と呼ばれていました。
    この「如庵」にも明り取りの窓が多数あり、同じコンセプトのものであることが窺えます。

  • 有楽苑 如庵<br />正面にある素朴な連子窓です。<br />有楽苑のHPには、2019年3月1日(金)より有楽苑の公開を一時休止するとの情報がアップされています。再公開の開始は、2021年秋頃の予定だそうです。それまで待てない方は、急いで訪問を計画なさってください。

    有楽苑 如庵
    正面にある素朴な連子窓です。
    有楽苑のHPには、2019年3月1日(金)より有楽苑の公開を一時休止するとの情報がアップされています。再公開の開始は、2021年秋頃の予定だそうです。それまで待てない方は、急いで訪問を計画なさってください。

  • 有楽苑 如庵 井筒 佐女牛井(さめがい)<br />有楽斎好みと伝わる井筒 佐女牛井です。<br />元々あった井戸とは異なりますが、有楽斎が茶道の師事を仰いだ村田珠光が堀った京都 醒ヶ井にある佐女牛井と形が似ていることからこのように名付けられています。<br />井筒には「元和元年9月2日 有楽」と刻まれています。この時期は大坂夏の陣が終わった頃です。以後、有楽斎は権力者から離れ、茶の道に没頭しました。井筒に日付を刻んで「以後、茶の道一筋」の決意表明をしたのでしょうか?<br />また、有楽斎は、水に対する感受性が強く、数多くの井戸の名水を掘っています。天満屋敷には花井・菊井・梅井の3つの井戸があったほどです。<br />因みに、「如庵の室」、「釜山海」、「左女ケ井」、「有楽竹」の4つをもって「如庵四景」とされます。

    有楽苑 如庵 井筒 佐女牛井(さめがい)
    有楽斎好みと伝わる井筒 佐女牛井です。
    元々あった井戸とは異なりますが、有楽斎が茶道の師事を仰いだ村田珠光が堀った京都 醒ヶ井にある佐女牛井と形が似ていることからこのように名付けられています。
    井筒には「元和元年9月2日 有楽」と刻まれています。この時期は大坂夏の陣が終わった頃です。以後、有楽斎は権力者から離れ、茶の道に没頭しました。井筒に日付を刻んで「以後、茶の道一筋」の決意表明をしたのでしょうか?
    また、有楽斎は、水に対する感受性が強く、数多くの井戸の名水を掘っています。天満屋敷には花井・菊井・梅井の3つの井戸があったほどです。
    因みに、「如庵の室」、「釜山海」、「左女ケ井」、「有楽竹」の4つをもって「如庵四景」とされます。

  • 有楽苑 如庵 蹲踞<br />茶室に付随する庭園を「露地」と言いますが、そこに設置された蹲踞(手水鉢)は「釜山海」の銘が陰刻され、波に洗われてできた水穴の石をそのまま蹲踞に用いた類を見ないものです。<br /><br />

    有楽苑 如庵 蹲踞
    茶室に付随する庭園を「露地」と言いますが、そこに設置された蹲踞(手水鉢)は「釜山海」の銘が陰刻され、波に洗われてできた水穴の石をそのまま蹲踞に用いた類を見ないものです。

  • 有楽苑 如庵 蹲踞<br />伝承によると、文禄の役(1592~93年)の際に加藤清正が釜山沖から切り出して持ち帰り、秀吉に献じられたものを有楽が拝領したものと伝わります。茶室と露地の雰囲気が相俟って端正な雰囲気に満ちています。<br />政宗の時の臥龍梅といい、皆外国に行ったら手土産を献上するのが常だったようです。

    有楽苑 如庵 蹲踞
    伝承によると、文禄の役(1592~93年)の際に加藤清正が釜山沖から切り出して持ち帰り、秀吉に献じられたものを有楽が拝領したものと伝わります。茶室と露地の雰囲気が相俟って端正な雰囲気に満ちています。
    政宗の時の臥龍梅といい、皆外国に行ったら手土産を献上するのが常だったようです。

  • 有楽苑 如庵 蹲踞 関守石<br />苑内に随所には、このように「関守石」が置かれています。この先「立入禁止」を表します。「立入禁止」などの不粋な立札ではなく、「関守石」で表しているのは茶人の心を反映したものです。<br />海外からの客人も含め、見学者が「立入禁止」を理解できているか疑問な所もありますが、客人の気持を慮るのが茶席の心配りと理解しました。

    有楽苑 如庵 蹲踞 関守石
    苑内に随所には、このように「関守石」が置かれています。この先「立入禁止」を表します。「立入禁止」などの不粋な立札ではなく、「関守石」で表しているのは茶人の心を反映したものです。
    海外からの客人も含め、見学者が「立入禁止」を理解できているか疑問な所もありますが、客人の気持を慮るのが茶席の心配りと理解しました。

  • 有楽苑 如庵 蹲踞 前石<br />有楽斎にとって重要なのは蹲踞の前石です。この石の上面右方には「天正七年四月」と刻まれており、これは有楽斎が信長から特命を受けた年月です。同年五月に安土城天守が落成し、信長は天下平定後の体制に「茶」を神事に取り入れようとしていました。そして、重臣であることの証として知行の代わりに「名物茶入れ」を与えるなどの方策を採りました。<br />信長は現人神のように振る舞っていたと伝わりますが、信長天下の象徴なる安土城天守が落成する直前、自分を神として崇める作法としての「茶礼」を有楽斎や今井宗久に命じました。ここに刻まれた「天正七年」は、有楽斎の茶人としての起源を示す証と言えるものなのです。

    有楽苑 如庵 蹲踞 前石
    有楽斎にとって重要なのは蹲踞の前石です。この石の上面右方には「天正七年四月」と刻まれており、これは有楽斎が信長から特命を受けた年月です。同年五月に安土城天守が落成し、信長は天下平定後の体制に「茶」を神事に取り入れようとしていました。そして、重臣であることの証として知行の代わりに「名物茶入れ」を与えるなどの方策を採りました。
    信長は現人神のように振る舞っていたと伝わりますが、信長天下の象徴なる安土城天守が落成する直前、自分を神として崇める作法としての「茶礼」を有楽斎や今井宗久に命じました。ここに刻まれた「天正七年」は、有楽斎の茶人としての起源を示す証と言えるものなのです。

  • 有楽苑 旧正伝院書院 藤原藤房(万里小路藤房)旧蔵石燈篭<br />藤原藤房は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した人物です。<br />江戸時代の儒学者 安東省菴により、平重盛や楠木正成と共に日本三忠臣のひとりに数えられています。<br />如庵の路地庭には2つ石燈龍がありますが、建仁寺にあった如庵には石燈籠はなかったそうです。それは、有楽斎は燈籠が嫌いだったからです。今日では石燈籠は茶室の露地に不可欠なものと考えられていますが、茶の湯の黎明期は、石燈籠に違和感を感じる茶人も少なからずいたようです。

    有楽苑 旧正伝院書院 藤原藤房(万里小路藤房)旧蔵石燈篭
    藤原藤房は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿で、後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した人物です。
    江戸時代の儒学者 安東省菴により、平重盛や楠木正成と共に日本三忠臣のひとりに数えられています。
    如庵の路地庭には2つ石燈龍がありますが、建仁寺にあった如庵には石燈籠はなかったそうです。それは、有楽斎は燈籠が嫌いだったからです。今日では石燈籠は茶室の露地に不可欠なものと考えられていますが、茶の湯の黎明期は、石燈籠に違和感を感じる茶人も少なからずいたようです。

  • 有楽苑 茶花園<br />書院エリアを抜けて暫く歩くと、築山と流れ石組を巡る小径沿いに四季折々の花々の風情が愉しめる茶花園に着きます。<br />鬱蒼と茂る木々の緑に紅葉が彩りを添え、周囲の喧騒を忘れさせてくれる一幕を挿入しているところがなんとも風流です。<br />

    有楽苑 茶花園
    書院エリアを抜けて暫く歩くと、築山と流れ石組を巡る小径沿いに四季折々の花々の風情が愉しめる茶花園に着きます。
    鬱蒼と茂る木々の緑に紅葉が彩りを添え、周囲の喧騒を忘れさせてくれる一幕を挿入しているところがなんとも風流です。

  • 有楽苑 茶花園<br />水辺の造りにも拘りが見られます。<br />小さな池に架けられた石橋は、真ん中にある船形の石の形に合わせて挟み込んだような造形です。<br />名もない石橋ですが、趣を湛えています。

    有楽苑 茶花園
    水辺の造りにも拘りが見られます。
    小さな池に架けられた石橋は、真ん中にある船形の石の形に合わせて挟み込んだような造形です。
    名もない石橋ですが、趣を湛えています。

  • 有楽苑 茶花園<br />池の水面に映る紅葉です。<br />ここでは、ゆったりと流れる時間が豊かな気持にさせてくれます。

    有楽苑 茶花園
    池の水面に映る紅葉です。
    ここでは、ゆったりと流れる時間が豊かな気持にさせてくれます。

  • 有楽苑 茶花園<br />紅葉の借景には竹林が似合います。

    有楽苑 茶花園
    紅葉の借景には竹林が似合います。

  • 有楽苑 茶花園<br />苔の上に積もる散紅葉も光と影の交差によってドラマチックに映ります。

    有楽苑 茶花園
    苔の上に積もる散紅葉も光と影の交差によってドラマチックに映ります。

  • 有楽苑 茶花園<br />竹林には飛び石や延段がリズミカルに続き、ワクワクした気分にさせます。

    有楽苑 茶花園
    竹林には飛び石や延段がリズミカルに続き、ワクワクした気分にさせます。

  • 有楽苑 茶花園<br />竹林を透かした紅葉も見応えがあります。

    有楽苑 茶花園
    竹林を透かした紅葉も見応えがあります。

  • 有楽苑 元庵<br />有楽斎が大阪の天満屋敷内に構えた茶室を古図に基づいて新築復元したもので、この茶室もかつては「天満の如庵」と呼ばれていました。<br />復元には、茶室研究で有名な建築家 堀口捨己氏と中村昌生氏が尽力されました。<br />門扉も割竹を竹筒に巻いた味わいのあるものです。

    有楽苑 元庵
    有楽斎が大阪の天満屋敷内に構えた茶室を古図に基づいて新築復元したもので、この茶室もかつては「天満の如庵」と呼ばれていました。
    復元には、茶室研究で有名な建築家 堀口捨己氏と中村昌生氏が尽力されました。
    門扉も割竹を竹筒に巻いた味わいのあるものです。

  • 有楽苑 元庵<br />中門の正面に見えるのは書院です。<br />元庵の露地は、苔が見事です。<br />また、当方のような初心者にも理解し易い教科書的な露地と言えます。露地には待合いも設けられ、門~待合い~蹲踞~躙口へと流れる茶事作法が明瞭です。

    有楽苑 元庵
    中門の正面に見えるのは書院です。
    元庵の露地は、苔が見事です。
    また、当方のような初心者にも理解し易い教科書的な露地と言えます。露地には待合いも設けられ、門~待合い~蹲踞~躙口へと流れる茶事作法が明瞭です。

  • 有楽苑 元庵<br />切妻屋根、銅板葺で、妻側の軒下に2段の銅板葺による低い庇が取り付けられています。右側の庇の下に小間への躙口が開けられ、その奥にまっすぐ伸びる3畳台目の小間が設けられています。<br />このように小間の躙口が中央に開けられているのは珍しく、後年の武家茶人である片桐石州や小堀遠州の作品に見られる手法です。その躙口の上には連子窓が開き、その横手の右側の壁にも同じ高さで連子窓が2連続くのも、石州が建てた奈良大和小泉の慈光院の茶室を彷彿とさせます。

    有楽苑 元庵
    切妻屋根、銅板葺で、妻側の軒下に2段の銅板葺による低い庇が取り付けられています。右側の庇の下に小間への躙口が開けられ、その奥にまっすぐ伸びる3畳台目の小間が設けられています。
    このように小間の躙口が中央に開けられているのは珍しく、後年の武家茶人である片桐石州や小堀遠州の作品に見られる手法です。その躙口の上には連子窓が開き、その横手の右側の壁にも同じ高さで連子窓が2連続くのも、石州が建てた奈良大和小泉の慈光院の茶室を彷彿とさせます。

  • 有楽苑 元庵<br />「元庵」の名は表千家13代 即中斎宗匠により命名されており、即中斎揮毫「元庵」の扁額が揚げられています。扁額の彫刻は、往時の名鉄の会長だった土川元夫氏が自ら手掛けられたそうです。「元庵」という席名は、土川氏の名前の一文字に因みます。しかもそれは、有楽斎のミドルネームを使った「如庵」の先例に倣っているようにも思えます。<br />また、昭和時代末期に建築した大人数の茶会用の建物「弘庵」の命名も、建築時の名鉄の会長 竹田弘太郎氏の名前に因みます。茶人は由来を大切にするゆえ…。

    有楽苑 元庵
    「元庵」の名は表千家13代 即中斎宗匠により命名されており、即中斎揮毫「元庵」の扁額が揚げられています。扁額の彫刻は、往時の名鉄の会長だった土川元夫氏が自ら手掛けられたそうです。「元庵」という席名は、土川氏の名前の一文字に因みます。しかもそれは、有楽斎のミドルネームを使った「如庵」の先例に倣っているようにも思えます。
    また、昭和時代末期に建築した大人数の茶会用の建物「弘庵」の命名も、建築時の名鉄の会長 竹田弘太郎氏の名前に因みます。茶人は由来を大切にするゆえ…。

  • 有楽苑 元庵<br />門の左手に佇む待合いです。こちらも竹林を借景にした鄙びた感じがGOODです。<br />茶事では、招かれた客は座敷の寄付き(控えの間)で身支度を整えて他の客が集まるのを待ちます。客が揃うと、茶室の露地にある待合いで待機します。そして合図により中へ進み亭主の出迎えを受けます。客は蹲踞で手を清め口をすすぎ、躙口から茶席へと入ります。茶事では初入りと後入りに分かれているため、その中間で中立ちといって一度茶席の外へ出ます。そして庭にある待合いで待機し、休憩します。その後、合図で後入りへと続きます。<br />これが茶事の流れですが、茶事における待合いの役割とは、客が亭主の迎え付けや、中立ちの時の再び席入りの合図を待つための待合場所です。

    有楽苑 元庵
    門の左手に佇む待合いです。こちらも竹林を借景にした鄙びた感じがGOODです。
    茶事では、招かれた客は座敷の寄付き(控えの間)で身支度を整えて他の客が集まるのを待ちます。客が揃うと、茶室の露地にある待合いで待機します。そして合図により中へ進み亭主の出迎えを受けます。客は蹲踞で手を清め口をすすぎ、躙口から茶席へと入ります。茶事では初入りと後入りに分かれているため、その中間で中立ちといって一度茶席の外へ出ます。そして庭にある待合いで待機し、休憩します。その後、合図で後入りへと続きます。
    これが茶事の流れですが、茶事における待合いの役割とは、客が亭主の迎え付けや、中立ちの時の再び席入りの合図を待つための待合場所です。

  • 有楽苑 元庵<br />待合いから躙口へと誘う延段と飛び石です。

    有楽苑 元庵
    待合いから躙口へと誘う延段と飛び石です。

  • 有楽苑 元庵<br />躙口の手前には、苔生した蹲踞が置かれています。

    有楽苑 元庵
    躙口の手前には、苔生した蹲踞が置かれています。

  • 有楽苑 元庵<br />躙口が茶室正面中央寄りに開いていること、客座中央部の鞘の間との境に大きく火灯口が開かれていること、中柱が竹であること、前座には風炉先に洞庫に設けられていること、壁に下地窓が開けられていること等、利休の茶室とは異なる意匠が随所に見られます。 <br />千利休が好まなかった竹の中柱を堂々と設えるなど、有楽斎の云うところ、まさに「習いにこだわらず」を実践しています。

    有楽苑 元庵
    躙口が茶室正面中央寄りに開いていること、客座中央部の鞘の間との境に大きく火灯口が開かれていること、中柱が竹であること、前座には風炉先に洞庫に設けられていること、壁に下地窓が開けられていること等、利休の茶室とは異なる意匠が随所に見られます。
    千利休が好まなかった竹の中柱を堂々と設えるなど、有楽斎の云うところ、まさに「習いにこだわらず」を実践しています。

  • 有楽苑 元庵<br />本来、茶室は客人をもてなすためのものですが、内部は3畳と台目畳を直列に敷き、更に台目畳の奥に床を配した奥深な3畳台目の茶室となっています。つまり、茶室の主人の方が格上という異色の構成です。この造りを「亭主床」と言います。亭主床は、有楽斎が初めて天満屋敷の茶室で試みたと伝わります。<br />客座の2連の連子窓が設けられ、点前座には竹の中柱が立ち、やはり竹の壁留で支えた袖壁に下地窓が開き、直線的な竹や下地窓の格子などの幾何学的な構成は、横浜三渓園内に移築された春草蘆とも共通しています。洞庫が風炉先にあるのも異色です。<br />奥にある床の間の壁には、くっきりと十字架が浮き上がり、キリシタンだった有楽斎が偲ばれます。これは壁の下地の柱により変色したものと推定されていますが、意図してこうした構造にしたのかどうかは不明だそうです。

    有楽苑 元庵
    本来、茶室は客人をもてなすためのものですが、内部は3畳と台目畳を直列に敷き、更に台目畳の奥に床を配した奥深な3畳台目の茶室となっています。つまり、茶室の主人の方が格上という異色の構成です。この造りを「亭主床」と言います。亭主床は、有楽斎が初めて天満屋敷の茶室で試みたと伝わります。
    客座の2連の連子窓が設けられ、点前座には竹の中柱が立ち、やはり竹の壁留で支えた袖壁に下地窓が開き、直線的な竹や下地窓の格子などの幾何学的な構成は、横浜三渓園内に移築された春草蘆とも共通しています。洞庫が風炉先にあるのも異色です。
    奥にある床の間の壁には、くっきりと十字架が浮き上がり、キリシタンだった有楽斎が偲ばれます。これは壁の下地の柱により変色したものと推定されていますが、意図してこうした構造にしたのかどうかは不明だそうです。

  • 有楽苑 元庵<br />ユニークな点だらけの茶室ですが、その最たるものは、隣の鞘の間との間に大きな火灯口が開けられ、太鼓襖で結ばれていることです。これが忠実な復元ならば、往時はかなりモダンな設えだったと言えます。本来は給仕口として小さな襖が入る構成ですが、1畳半分の大きな火灯口が入ることで、ここを開放すると鞘の間までを一室とする広間型の茶室となります。<br />鞘の間は相伴席としても使われたものと思われますが、間取りが直列の3畳半台目という小間の特異な平面構成も、この鞘の間の4畳を合わせると正方形に近い7畳半台目となり、用途によって広さが変更できる実用的な茶室を目指したとも考えられます。<br />求道的で静謐な意匠が多い利休とは異なり、様々な手法を次々と生み出して茶室空間の可能性を無限に拡げていった、実験的で斬新な意匠の多い有楽斎ならではの茶室です。

    有楽苑 元庵
    ユニークな点だらけの茶室ですが、その最たるものは、隣の鞘の間との間に大きな火灯口が開けられ、太鼓襖で結ばれていることです。これが忠実な復元ならば、往時はかなりモダンな設えだったと言えます。本来は給仕口として小さな襖が入る構成ですが、1畳半分の大きな火灯口が入ることで、ここを開放すると鞘の間までを一室とする広間型の茶室となります。
    鞘の間は相伴席としても使われたものと思われますが、間取りが直列の3畳半台目という小間の特異な平面構成も、この鞘の間の4畳を合わせると正方形に近い7畳半台目となり、用途によって広さが変更できる実用的な茶室を目指したとも考えられます。
    求道的で静謐な意匠が多い利休とは異なり、様々な手法を次々と生み出して茶室空間の可能性を無限に拡げていった、実験的で斬新な意匠の多い有楽斎ならではの茶室です。

  • 有楽苑 元庵<br />庇の下には濡縁が走ります。<br />

    有楽苑 元庵
    庇の下には濡縁が走ります。

  • 有楽苑 元庵<br />3畳台目の小間の隣に4畳の鞘の間を置き、その先に6畳の間が続きます。

    有楽苑 元庵
    3畳台目の小間の隣に4畳の鞘の間を置き、その先に6畳の間が続きます。

  • 有楽苑 元庵<br />6畳の間にも炉が切られ、ここでも茶がたしなめるようです。

    有楽苑 元庵
    6畳の間にも炉が切られ、ここでも茶がたしなめるようです。

  • 有楽苑 元庵<br />背丈のあるドウダンツツジ(満天星)です。<br />これだけ背丈があれば、仰ぎ見ると「満天星」に見えるかもしれません。

    有楽苑 元庵
    背丈のあるドウダンツツジ(満天星)です。
    これだけ背丈があれば、仰ぎ見ると「満天星」に見えるかもしれません。

  • 有楽苑 元庵<br />元庵の露地から書院を眺めます。

    有楽苑 元庵
    元庵の露地から書院を眺めます。

  • 有楽苑 元庵<br />書院の佇まいです。

    有楽苑 元庵
    書院の佇まいです。

  • 有楽苑 元庵<br />赴き深い延段に導かれて玄関の裏側へと進みます。

    有楽苑 元庵
    赴き深い延段に導かれて玄関の裏側へと進みます。

  • 有楽苑 元庵<br />向こう側に見えるのが、有楽苑に入苑して最初に潜った中門と玄関です。

    有楽苑 元庵
    向こう側に見えるのが、有楽苑に入苑して最初に潜った中門と玄関です。

  • 有楽苑 元庵<br />取次の間の先には、藤村庸軒旧蔵の石燈籠が佇みます。<br />床紅葉も愉しめます。<br />

    有楽苑 元庵
    取次の間の先には、藤村庸軒旧蔵の石燈籠が佇みます。
    床紅葉も愉しめます。

  • 有楽苑 <br />八重白玉椿が一輪、楚々と咲いています。<br />余談ですが、潜伏キリシタンが守り伝えてきた「マリア十五玄義図」には、白椿を手にした聖母マリアが描かれています。原図には聖母マリアの象徴の白バラが描かれていたのですが、往時の日本にはバラがなく、椿に見立てたものと伝わります。<br />また、キリシタンが移住した五島列島の外海地方には、日本人伝道士バスチャンによる「聖なる木、バスチャンの椿」という伝説が残されています。<br />禁教の時代、日本人伝道士バスチャンが樫山で布教していた時、赤岳の麓にあった椿の木に指先で十字を記した。すると、その十字の形が幹の表面に残ったという。以来、キリシタンたちはその木を「霊樹」として崇め、赤岳をキリシタンの聖地とした。<br />そんなある日、バスチャンの椿を役人が伐採するという噂が流れ、信者たちは、役人に切られるよりは自分たちで切った方が良いと考え、夜中に涙ながらに切り倒した。大きな幹は海に沈め、残りの木片は持ち帰って家々に分けた。キリシタンたちはその木片を宝物とし、死者を葬る時にも使用した。<br /><br />この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥⑤寂光院(エピローグ)でお届けいたします。

    有楽苑
    八重白玉椿が一輪、楚々と咲いています。
    余談ですが、潜伏キリシタンが守り伝えてきた「マリア十五玄義図」には、白椿を手にした聖母マリアが描かれています。原図には聖母マリアの象徴の白バラが描かれていたのですが、往時の日本にはバラがなく、椿に見立てたものと伝わります。
    また、キリシタンが移住した五島列島の外海地方には、日本人伝道士バスチャンによる「聖なる木、バスチャンの椿」という伝説が残されています。
    禁教の時代、日本人伝道士バスチャンが樫山で布教していた時、赤岳の麓にあった椿の木に指先で十字を記した。すると、その十字の形が幹の表面に残ったという。以来、キリシタンたちはその木を「霊樹」として崇め、赤岳をキリシタンの聖地とした。
    そんなある日、バスチャンの椿を役人が伐採するという噂が流れ、信者たちは、役人に切られるよりは自分たちで切った方が良いと考え、夜中に涙ながらに切り倒した。大きな幹は海に沈め、残りの木片は持ち帰って家々に分けた。キリシタンたちはその木片を宝物とし、死者を葬る時にも使用した。

    この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥⑤寂光院(エピローグ)でお届けいたします。

  • おまけ1<br />メリークリスマス!<br />今年は、大阪調理製菓専門学校 ecole UMEDAと大丸百貨店梅田店のコラボ企画のXmasケーキでクリスマスをお祝いしました。プロのパティシエを目指す専門学校生たちがオリジナリティーを発揮したXmasケーキ『聖夜』です。デコレーションには「星降る聖なる夜」が表現されています。カールさせたチョコレートは「飼い葉桶」、金箔の星をトッピングしたマカロンは「東方三賢者」をなぞらえているのでしょうか?<br />大丸百貨店の関西4店舗(心斎橋、梅田、神戸、京都)で予約販売していますが、毎年人気No.1を獲得しており、例年Getし難いケーキのひとつです。<br />販売価格は世間一般より断然安く、しかもビジュアル&テイスト&滑らかさ共にパティシエが提供するものと比べても遜色ありません。材料費が限られているだろうことを勘案すると、コストパフォーマンスではプロを凌駕していると思います。

    おまけ1
    メリークリスマス!
    今年は、大阪調理製菓専門学校 ecole UMEDAと大丸百貨店梅田店のコラボ企画のXmasケーキでクリスマスをお祝いしました。プロのパティシエを目指す専門学校生たちがオリジナリティーを発揮したXmasケーキ『聖夜』です。デコレーションには「星降る聖なる夜」が表現されています。カールさせたチョコレートは「飼い葉桶」、金箔の星をトッピングしたマカロンは「東方三賢者」をなぞらえているのでしょうか?
    大丸百貨店の関西4店舗(心斎橋、梅田、神戸、京都)で予約販売していますが、毎年人気No.1を獲得しており、例年Getし難いケーキのひとつです。
    販売価格は世間一般より断然安く、しかもビジュアル&テイスト&滑らかさ共にパティシエが提供するものと比べても遜色ありません。材料費が限られているだろうことを勘案すると、コストパフォーマンスではプロを凌駕していると思います。

  • おまけ2<br />こうした学生さんとのコラボ企画があると、ついつい応援したくなるのが人情というものです。一方、親心の我々の気持ちとは裏腹に、プロが提供するケーキと並んで販売される以上、学生だからと言った甘えは許されず、緊張感は今までの人生の中でMAX.だったのではないでしょうか?<br />しかし、こうした体験はお金では買うことができません。PRICE LESSの体験を花道に、パティシエとして胸を張って羽ばたいていく姿が目に浮かぶようです。<br />「実戦に勝る勉強の場はない」とは言い古された言葉ですが、これに勝る言葉もないように思えます。学んだ成果を発揮できる場や新しいことにチャレンジする登竜門として、こうしたコラボ企画がいつまでも継続されることを願ってやみません。<br />ごちそうさまでした。美味しく、笑顔でいただきました!

    おまけ2
    こうした学生さんとのコラボ企画があると、ついつい応援したくなるのが人情というものです。一方、親心の我々の気持ちとは裏腹に、プロが提供するケーキと並んで販売される以上、学生だからと言った甘えは許されず、緊張感は今までの人生の中でMAX.だったのではないでしょうか?
    しかし、こうした体験はお金では買うことができません。PRICE LESSの体験を花道に、パティシエとして胸を張って羽ばたいていく姿が目に浮かぶようです。
    「実戦に勝る勉強の場はない」とは言い古された言葉ですが、これに勝る言葉もないように思えます。学んだ成果を発揮できる場や新しいことにチャレンジする登竜門として、こうしたコラボ企画がいつまでも継続されることを願ってやみません。
    ごちそうさまでした。美味しく、笑顔でいただきました!

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