2018/12/01 - 2018/12/01
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montsaintmichelさん
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犬山城下町は、犬山城の築城に伴い、元々そこにあった町を整備して造営されました。本町通は城山の麓から南に650m伸び、現在は60店舗以上が軒を連ね、多くの若者たちで賑わっています。犬山は戦火に遭わず、総構えと呼ばれる城郭構造がそのまま残され、城下町の風情を湛えています。
町の中央部に町人町を置き、それを取り囲むように侍町を配置した他、城下町の外周を木戸や堀、土塁等で取り囲む総構えの城下町として守りを固めていました。
現在も江戸時代と変わらない町割りが残されており、江戸~昭和時代までの歴史的建造物が軒を連ね、タイムスリップ気分が存分に愉しめます。
散策マップです。
https://inuyama.gr.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/02/map.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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針綱神社
犬山城の鉄門を潜って大手道を下ると直ぐ、左手に銅版屋根を戴いた古式ゆかしい神社が見えてきます。
針綱神社は尾張五社のひとつに数えられ、主祭神は尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)です。白山大明神と称えられた濃尾の総鎮守とされ、創建年は不明ですが、927年の延喜式に「正一位針綱明神」と記されていることから少なくとも1000年以上はこの地に鎮座していることになります。また、犬山城の守護神でもあるため、犬山城の南の入口「大手口」を守っています。
元々は犬山城の天守付近に鎮座していましたが、戦国時代に織田信康が築城のために白山平に移し、江戸時代に入って当時城主だった小笠原吉次が城下の名栗町に移すなど幾度か移動を繰り返し、1882(明治15)年に現在地に移転しています。また、長い間、白山妙理権現や白山針綱大神宮などと呼ばれていました。
御利益は、安産・八方除・厄除・交通安全・子授けです。
因みに、尾張五社は、熱田神宮、尾張大国霊神社(国府宮)、千代保稲荷神社、津島神社、針綱神社です。 -
針綱神社
インスタ映えで有名になった、鈴なりの「さくらみくじ」です。
主祭神の尾治針名根連命は、尾張氏の祖先神とされ、尾張国一宮の真清田神社の祭神である天火明命の14世孫に当たり、父神は尾綱根命(尻調根命)とされます。針綱神社の社名はこの2人の名前から採ったとも考えられますが、由来は不詳です。
大荒田命は邇波(丹羽)県君の祖で、娘の玉姫命は建稲種命(熱田神宮の祭神)の妻となり、その夫婦の子が尾綱根命です。つまり尾張氏と邇波氏が融合した神様を主祭神としており、ここに針綱神社の性格及び両氏との繋がりが窺えます。 -
針綱神社
本殿の西側にはご神馬が祀られ、「子供の守り神」、「子育てのご神馬様」と古くから親しまれています。
針綱神社の創建年は不明とされますが、尾張氏が勢力を増して尾張国の北端部まで進出して邇波氏と融合した後の時代と推測すれば、5~6世紀と推定されます。 -
針綱神社
犬山観光ポスターで見かけた石垣と紅葉の構図です。
こちらの神社の境内からズームアップで撮っていたのですね! -
針綱神社
囲いの中にあるのは、御神砂(おすな)です。一般的には、土地の四隅と中央に撒いて、清める場合等に用います。この神社で「御神砂守」を授与されているのかもしれません。楓が芽を出しています。
余談ですが、島根県出雲市にある日御碕神社の「御神砂守」は、強力な厄除け効果があると言われており、「東日本大震災の時もこのお守りを持っていた人が助かった」、「体の悪いところが治ってきた」などのご利益が報告されているそうです。このお守りは、一度授かったら一生持ち続けることができるそうですが、神社の裏メニュだそうです。御守授与所の表には出ておらず、神職の方に声を掛けて出していただく必要があります。 -
針綱神社
神社から見た白山平です。白山平で有名なのは写真の「成田山名古屋別院大聖寺」ですが、成田さんの裏山「白山平山」の山頂には東之宮古墳もあります。そこの発掘調査では、中国からもたらされた三角縁神獣鏡と言う鏡が発見されています。卑弥呼が魏国から銅鏡百枚を与えられたと言うのはこれより数十年前のことになります。
尾張国丹羽郡は本宮山山麓から平野部に勢力を伸ばした邇波氏の本拠地で、東之宮古墳の被葬者も邇波氏の首長と考えられています。邇波氏は、在地豪族と饒速日(ニギハヤヒ)が大和入りした段階で出雲族と共に尾張に向かった多氏系の一族が融合し、この辺りの水田地帯の開発に尽力したと推定されています。 -
針綱神社
国指定無形民俗文化財の犬山祭は針綱神社の祭礼です。ですから、犬山祭の際に人形からくりを奉納する場所でもあります。
犬山祭は、1635(寛永12)年に馬の塔と茶摘みの練り物を出したことに始まり、1649(慶安2)年頃から山車や練り物を出すようになったそうです。犬山城主 成瀬正虎が祭礼を上覧した際、惣町村が祭礼に参加していないことに「産土神(うぶすなかみ)を尊ばない者は、城主を城主と思わぬのではないか」と不機嫌になったため、城下の全ての町村が祭礼に参加するようになったと伝わります。 -
針綱神社
犬山市は名古屋市の衛星都市になって久しく、名古屋市郊外に相応しい都市です。動物の「犬」が付く全国的に珍しい市ですが、何故「犬山」の名になったのかは諸説あります。横山住雄著『犬山の歴史散歩』には、次の3つの説があったと記されています。
1.犬を用いて狩をするのに最適な土地であったから。
2.平安時代の史料『和名抄』に「丹羽郡小野郷」があり、この小野に山が多かったことから、小野山(おのやま)と呼ばれていた。その後、おのやま→おぬやま→いぬやまと転化した。
3.楽田の大縣神社の祭神 大荒田命は犬山にある針綱神社の祭神の一柱 玉姫命の父に当たり、また大縣神社から戌亥(いぬい)の方角に当たることから、いぬい→いぬ山と呼ばれるようになった。 -
針綱神社
3つのうち信憑性が高いのは、「戌亥」説です。ポイントは、犬山城の麓にある安産の神様として知られている針綱神社です。実はこの針綱神社にまつわる神社が2社あります。まず、小牧市にある田縣神社です。ここは「男根」を祀ることで知られる神社で、五穀豊穣と安産の神様です。もうひとつは犬山市にある大縣神社です。社伝によると垂仁天皇の御世に本宮山から現在地に移転したとされます。尾張の二宮として一宮市の真清田神社に次ぐ格の神社ですが、ここは「女陰」を祀る神様として知られる神社です。どうやら、田縣神社と大縣神社は東西に並ぶ一対の神様と言えます。合体すれば安産の神様になります。 -
針綱神社
一方、大縣神社の境内には「玉姫命(たまひめのみこと)」が祀られており、その玉姫命は犬山城の鎮守社 針綱神社にも祀られています。玉姫命の父君は大縣神社に祀られていたとされ、姫は大縣神社から針綱神社に移されたと考えられています。
そうなると大縣神社から見て針綱神社がどの方角にあるかが鍵になります。実は、およそ「戌亥」の方角にあり(正確には「北北西」)ます。このことから「犬山」の名の謎は解けます。つまり、「戌亥」が「犬」に転訛し、そこから「犬山」という地名が起ったというのが自然な発想です。
犬は元々安産祈願の神様でもあり、針綱神社が安産の神様となったという訳です。その証左として、1537(天文6)年に織田信康が自ら手彫りした狛犬一対を奉納して安産祈願をしています。以来、戌の日に安産祈願をする風習が広まったと伝わります。「戌の日に腹帯を巻く」という風習がこの犬山発祥だとすれば、犬山の功績は多大なものと言えます。 -
針綱神社
犬山市一帯を統治した犬山は、尾張藩領犬山や成瀬隼人正給地などと呼ばれました。かつてこの地を統治した小笠原吉次をはじめ平岩親吉や成瀬正成等は、全て徳川家康直属の配下で功績のあった人物であり大名になる資格を有しましたが、結局、大名にはなれませんでした。ですから犬山領主となった成瀬氏は「いつかは独立して大名になる」と言う密かな野望を胸に独立の機会を窺っていました。 -
針綱神社
明治元年に晴れて犬山藩が誕生したのですが、藩としての歴史は明治4年の廃藩置県までの僅かな間に限られました。なんとも短い独立でしたが、初代 成瀬正成以降念願の独立を果たせたのですから少しは報われたように思えます。
しかし、犬山県誕生により犬山城は県庁として機能しましたが、旧知藩事の成瀬正肥は犬山を離れることとなり、県政は重臣達が大参事などに就任して取り仕切りました。その犬山県も明治4年11月に名古屋県に吸収併合されて完全に廃されました。 -
針綱神社
「松の丸」跡にある神橋(太鼓橋)です。
左右に添橋を配し、白っぽい御影石の優美な太鼓橋です。一方、飾り石は全体の白さとは対照的にやや茶褐色をしているのがアクセントになっています。
この太鼓橋は、大正時代に社格を上げるために造られたものだそうです。擬宝珠が付けられた神橋は、勅使や将軍など身分ある人しか渡れなかった橋とされます。
神橋の造営は、岡崎市の石工に拠るものと伝わります。 -
本町通り 本町車山蔵
犬山祭の際に繰り出す「車山(やま)」の格納庫で、13町内に各々車山蔵がありますが、往時の木造のまま残されているのは本町と新町の2町内に限られます。
この車山蔵は、1909(明治42)年に建立されたものです。背丈は一般的な2階建と同等ですが、内部は吹き抜けであり、3層の車山の2層目までを収納出来るスペースがあります。
切妻、桟瓦葺、妻入、塗屋造、白漆喰仕上げ、外壁正面両側には袖壁が設けて伝統的な車山蔵を世襲した建物とされ、棟梁は犬山藩の御用大工の系統を受け継だ市橋清次郎が手がけています。小屋組みは和風ながら、筋違やボルト締めなどに洋風建築技術が窺えます。
車山蔵を世襲する数少ない建物のひとつとして貴重な存在でり、国登録有形文化財に指定されています。 -
本町通り 山田五平餅店
犬山城下町を代表する名物「五平餅」の店舗です。ここの五平餅は、300年の歴史を持ち、どちらかと言えばしっかり目に潰したうるち米を串に付けた3連団子型です。薄皮付落花生の風味をアクセントにし、甘じょっぱい味噌ダレの付け焼きが香ばしさを誘います。「初代犬山串キング」に選ばれています。
築125年の建物は旧山田家住宅で、国の登録有形文化財に指定されています。
左側にある建物は、店舗によって復元された火の見櫓です。1732(亨保17)年に築かれ本町通りを見守ってきた櫓でしたが、1891年の濃尾地震によって倒壊後、120年の時を経て蘇りました。火の見櫓の下は、ポップコーンや城下町パフェを販売する店舗となっています。 -
本町通り
商人や職人の同業者をお城の近くに住まわせ、町の発展を促したとされ、鍛冶屋町や魚屋町などの町名にその名残が見られます。
「鍛冶屋町」は、天正から慶長年間の頃(1573~1615年)に職人街として発達しました。刀鍛冶や農鍛冶が30数軒あり、そこから「鍛冶屋町」の名が起こったと伝わります。また、「魚屋町」は、江戸時代に木曽川を筏で下って犬山城下に着いた人々が魚の商いを始めたのが町名の由来とされます。 -
三光稲荷神社
城下町の活況ぶりは、数字が物語っています。土日祝日の1日の平均歩行者数は2017年に4500人(5年で2.5倍)に増えています。しかし想像すらできませんが、15年前はシャッター街のように人通りも疎らで、訪れる観光客も中高年者ばかりの忘れ去られた観光地の典型だったそうです。
犬山城の来場者は2017年に年間57万人超を記録し、史上最低だった2003年に比べ3倍に増えています。 かつては「猫も歩いていない」と揶揄された観光地をV字回復させた独自の街づくり手法が注目されています。
人気に火をつけたのが「インスタ女子」です。確かに若い女性の姿が目立ちます。インスタ映えする「ハート絵馬」や「着物」、「串グルメ」が彼女らを吸い寄せています。
前報で紹介した三光稲荷神社は、多くの参拝客を集めていますが、数年前までは地元の人にも知られていない神社でした。神社を維持するには定期的な補修が不可欠で、参拝者や氏子がいないと神社の存続も危うくなります。そうした現状を打開しようと宮司さんが考案したのが、ピンクのハート形の絵馬でした。発想のヒントは、以前、宮司さんが勤めていた別の神社で巫女のアルバイトをしていた女子高生の一言でした。「何故、おみくじは白色なんですか?ピンクとかなら結んだ時に綺麗なのに・・・」が忘れられなかったそうです。「ハート絵馬」の奉納により、観光情報メディア「スナップレイス」による2017年「SNS映えスポットランキング」では「Cool!(おしゃれ・フォトジェニック)部門」で全国3位を獲得しました。こうして、神社は全国から訪ねて来る若い女性たちで溢れるようになりました。 -
本町通り
一方、時を同じくして昭和横丁の「茶処くらや」がカラフルで可愛らしい「恋小町だんご」を考案し、若者や女性たちを集客しました。
しかし、V字回復に当たっては、地道な活動も見逃せません。その中心となったのが犬山市観光協会でした。現代の町割りが江戸時代に描かれた城下絵図とほぼ一致するという価値にフォーカスし、閑散としていた本町通りの復活に奔走しました。名古屋鉄道と観光タイアップキャンペーンをスタートさせ、五平餅や田楽などご当地の串料理をアピールする「串グルメ」やお笑い芸人が車夫を務める「お笑い人力車」など、ユニークなコラボ企画を次々に打ち出し、徐々に観光客と取り戻していったのです。
そして現在、築城500周年(2037年)に向けた観光ビジョンを温めているというのは吃驚ポンです。 -
城下町
木曽川沿いの町に歩を進めてみました。
舞殿にしては小振りですが、「波に乗る珠」がデザインされた珍しい飾り瓦です。
初めは犬山城の意匠と同じく「桃」の瓦かと思いましたが、波が「蛸の足」にも見えます。 -
城下町
犬山と言えば桃太郎伝説が有名であり、てっきりドンブラコと流れてきた「大桃」をデザインしたものと思ってしまいましたが、よく観ると「桃」でも「如意宝珠」でもなく、勿論「蛸」でもありません。
木曽川沿いの町ですから、屋根瓦に「水を呼ぶ力」あるいは「水を支配する力」を誇示した意匠ではないかと推察しますが、何故、「珠」なのかは不詳です。
こうした意匠は、愛知県を含め広範囲に見られるそうです。 -
犬山頭首工ライン大橋
犬山城の廻縁から俯瞰した橋です。
通称「ライン大橋」と呼ばれますが、それはこの周辺では木曽川を別名「日本ライン」と呼ぶためです。
1968(昭和43)年に木曽川に架けられた延長420mある橋で、愛知県犬山市と岐阜県各務原市小伊木町を結んでいます。また、濃尾用水の取水用の可動堰でもあります。それ故、一般的な橋とは異なり、四角い建物が定間隔に配され、その中には水門を開け閉めする巻き上げ機が収まっています。
木曽川沿いで農業を営むには、安定した水源の確保が死活問題でした。江戸時代には農業用水路が設けられていたそうですが、それが木曽川で発生した氾濫を遠く離れた場所へも影響を及ぼすというデメリットも併せ持つため、用水を廃止したのです。そこで、農林省が周辺にある農業用水(木津用水、宮田用水、羽島用水など)に使う水を木曽川から安定して取水できるように設けた施設です。 -
犬山城
ボランティアガイドさんに訊ねた所、「ライン大橋」は犬山城を見上げる絶景ポイントとのことでした。その言葉に偽りはありません!
美濃加茂から犬山にかけての、いわゆる「日本ライン」のフィナーレを飾る景観です。犬山の町の立地条件を端的に語る情景とも言えます。
「日本ライン」とは、チャート層と砂岩層でできた奇岩怪石が織りなす木曽川の景観の名称で、ヨーロッパのライン川の景観に似ているとして、1914(大正3)年に地理学者 志賀重昂が命名したものです。 -
犬山城
織田信長、羽柴秀吉、徳川家康はいずれも総司令官として犬山城を攻略しました(秀吉軍の現地指揮官は池田恒興、家康軍の現地軍は関ヶ原合戦時の東軍)が、唯一秀吉だけが美濃側から木曽川を渡河して攻めて落城させています。
1584(天正12)年、羽柴秀吉は12万人の兵を従え、徳川家康・織田信雄連合軍と小牧・長久手周辺で激突しました。その時、恒興は美濃国鵜沼で舟を集めて渡河し、北側から犬山城を急襲しました。犬山城は背に断崖を有し、大河木曽川が流れていることから「後堅固の城」と呼ばれる強固な守りを誇っていました。しかし、池田軍は城山西谷側に上陸し、本丸への最短距離を攻め、僅か一日で落城させました。恒興は信長時代に犬山城主を務めていたことがあり、土地観もあり、船主たちの支援も受けることができたと言われています。こうした経験から、成瀬氏入城後、天守の裏に千貫櫓を築くなど木曽川沿いの防備を強化しています。 -
犬山城
こちらから見ると1階の左下に「石落し」がはっきり見られます。 -
犬山城
格子窓を設えた入母屋破風も優美な装いです。 -
新犬山橋(ツインブリッジ)
現在は鉄道用と車道用の2本の橋が並列に木曽川に架けられていますが、かつては現在の名鉄犬山線の通る橋梁しかなく、これを鉄道と自動車と歩行者が併用していました。橋の幅は必要最小限しかなく、上り下りの電車と車がほとんど距離を置かずに併走していました。
名鉄が犬山線を鵜沼まで延長する計画を提案し、名鉄・愛知県・岐阜県・国が協議した結果、名鉄が橋梁建設費の1/3を負担することで建設が認められ、1925(大正14)年に開通しました。
旧犬山橋は下路曲弦ワーレントラスと呼ばれる構造をしており、鉄骨を組んだアーチが3連に並ぶ姿が優美です。また、トラス端部を太い垂直材にしているのも特徴です。スパンが75mと比較的長いため、端部に加わる圧縮応力が高いための配慮と思われます。
因みに、ワーレントラスとは、斜材の向きが1本おきに前・後と交互になっているタイプのものです。また、石積み調の橋脚も美しいです。 -
新犬山橋(ツインブリッジ)
2000年にすぐ下流側に道路専用のツインブリッジが開通し、全国でも珍しい鉄道と道路の併用橋としての役目を終えた旧犬山橋は、現在は鉄道専用橋として使用されています。旧犬山橋は、大正モダンの面影を残す貴重な近代土木遺産であり、国宝 犬山城と共に「犬山の日常風景」として地元の人々に愛されています。
近年のトラス橋にはない機能美を感じさせる橋梁です。 -
木曽川
ツインブリッジとお別れして、寂光寺へ歩を進めます。
こちらもチャート層でできた小山です。
荒々しい容貌が優美なツインブリッジと対照的で、お互いを引き立てるよいアクセントになっています。 -
山もみじが美しいオレンジ色に紅葉しています。
右手にある小高い山の頂上周辺が「善光寺公園」となっています。 -
県道185号を東へ進むと、岩山が木曽川へ迫り出しており、その岩山を削って道路を通しています。
ふと道標を見ると、「落石注意」とあります。見上れば崖の中腹に巨大な岩があり、今にも転がり落ちてきそうな雰囲気ではありませんか!?
「注意せよ!」と言われても、この関所の先へ進むには神頼みしかありありません。事前に神社に参拝しておいてよかったと思う瞬間です。 -
氷室
県道185号栗栖大山線の氷室交差点の所にある公園の紅葉です。この上に犬山国際ユースホステルがあります。
「氷室」は冬作った天然の氷を夏まで蓄えておく倉庫または穴のことです。この辺りに氷室があったと思われます。北側に木曽川が流れ、東西を小山に囲まれているため、ほとんど陽が射さず、天然の冷蔵庫にはもってこいの場所です。
上流の可児市土田公園の中には、天然の氷を作っていたと伝わる浅い長方形の池が並んでいます。そこで作った氷を、ここで貯蔵していたのかも知れません。 -
氷室
この辺りにはかつてあばら屋があり、それは「大正の広重」と呼ばれた絵師 吉田初三郎の画室「蘇江画室」だったそうです。吉田初三郎は、大正~昭和時代にかけて活躍した画家で、観光名所を鳥が俯瞰するように描かれた「鳥瞰図」と呼ばれる絵を、生涯で3000作以上手掛けました。有名なのが『日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵』(昭和3年作)です。因みに、「蘇江」は木曽川の別名だそうです。
氷室交差点を右に折れ、犬山国際ユースホステル方向へ少し登ってみました。
川沿いの黄紅葉のグラデーションが奇麗です。 -
正面の小山の左端に桃太郎神社が鎮まります。
吉田初三郎の現存する業績のひとつです。地元の支持者ら共に「日本一桃太郎会」を設立し、桃太郎伝説がこの地ゆかりのものであることを全国にアピールし、昭和5年に自ら政府に掛け合って創立したのが桃太郎神社でした。 -
木曽川
「日本ライン」に憩うカモたち。 -
各地に伝わる桃太郎伝説には吉備津彦命が関与していますが、犬山の桃太郎伝説にはその陰が見られません。吉備津彦命を抜きにした「犬山の桃太郎伝説」は、日本昔話によく似ており興味深いものがあります。昔々、天照大神の親神様「伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉の国で悪魔に追われて難儀をしていたところ、比良坂という所で沢山の桃の実を見つけ、その桃を採って悪魔に投げ付けたところ、桃の持つ威力によって難を逃れました。伊弉諾尊は、命を救ったこの桃に大神実命(おおかむづみのみこと)という名を付け、これ以後、人々が苦しむようなことがあれば助けてやって欲しいと頼みました。後に鬼が出没して村人たちが困っていると、桃が桃太郎に生まれ変わり、鬼を退治して幸せな村にしたと伝えます。
例えば犬山に「犬」の文字が付けられているように、犬山市栗栖周辺には「猿洞」や「雉ヶ棚」、「桃山」などがあり、桃太郎が子供の頃に暮らしたと伝わる場所には「犬」「猿」「雉」の名が残っています。猿洞と雉ヶ棚は山中にあり現在の地図では確認できませんが、老夫婦が過ごしたとされる場所は「古屋敷」と地名が残り、目の前を流れる木曽川の上流には「大桃」という場所もあります。お婆さんの目の前に流れて来た桃は、大桃の地からやって来たと伝わります。
因みに、桃太郎神社の祭神は大神実命です。 -
「犬山の桃太郎伝説」を解く鍵となるのが、桃太郎神社の近くにある、先ほど紹介した「氷室」という地名です。氷室は古代における貯氷庫ですが、これを管理していたのが水取部であり、鴨県主も水取部だったとされます。律令制以前の加茂郡には朝廷の直轄地(県)が置かれ、そこを鴨県主が治めていたとされ、邇波派遣伝承を持つ彦坐王(ひこいますのみこ=日子坐王)はその祖先とされます。また、犬山市の近くにある美濃加茂市に鎮座する縣主神社の祭神は、その彦坐王です。縣主神社が彦坐王を祭神に祀られているのは彦坐王の子が美濃国造だったからと考えられ、『日本書紀』は美濃国造神骨(かむほね)、『古事記』では神大根王(かむおおねのみこ)と記しています。秦河勝と吉備津彦命の伝説が合体して各地で桃太郎伝説が流布された時、彦坐王の邇波派遣部隊は吉備津彦命と同様の使命を負っていたことから、桃太郎伝説を知った犬山の地元民がこちらにも同じような伝説があると名乗りを上げたのかもしれません。
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粋なライダーです。近くに寄るだけでエンジンの小気味よい振動が伝播してきます。ハーレーダビッドソンに乗られている方々はマナーもしっかりされており、ライダーの鑑と言えます。
警察庁によると、交通事故死者数は減少傾向ですが、中高年のバイク事故死だけが増加しているそうです。若い頃のバイク愛好者が中高年になって運転を再会するリターンライダーの増加が一因だそうで、特に40~59歳の層のバイク事故死者数は10年前に比べて倍増しているようです。昔と比べて運動神経や判断力が低下しており、体力と技量に見合ったバイク選びと安全運転を心がけて欲しいと警告しています。安全運転をお願いいたします。 -
犬山城
有楽苑と寂光寺をスキップし、犬山城下町の延長として犬山城の夕景を紹介いたします。
陽はまだ高いのですが、仲間が待つホテルのチェックイン時間に合わせるにはぎりぎりのタイミングでした。
小舟が浮かんだこの情景は、ツインブリッジの下から撮っています。 -
犬山城
ツインブリッジの上から撮っています。右端が「伊木山」です。「夕暮れ富士」の別名を持つだけのことはあります。
丁度、「ヤコブのはしご」が現れました。雲間から差し込む光が光線のように見える現象です。光と影の画家 レンブラントの作品になぞらえて「レンブラント光線」とも呼ばれます。
「ヤコブのはしご」は、気象現象としては「薄明光線」と呼ばれ、太陽の光が埃や水のような物質を含んだ空気を通過する時に発生します。 -
犬山城
ノスタルジックな暮れなずむ「日本ライン」の情景です。
「暮れなず~む♪」と言えば、年代的に海援隊のヒット曲『贈る言葉』が浮かびます。この冒頭の言葉は、堀口大学の訳詞から引用したものとされています。
若かりし頃に興味を持って調べたことがありますが、『堀口大學全集 2-4』にあるヴェルレーヌの詩集『土星の子の歌』の中の「センチメンタルな散歩」の中にでてきます。 -
犬山城
マジックアワーの時にはどんな表情を魅せるのだろうかと妄想しながら、仲間が待つホテルへ向かいます。
この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥③有楽苑(前編)でお届けします。
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