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有楽苑(うらくえん)は、犬山城の近隣にある名鉄犬山ホテル内にあり、織田信長の実弟 織田有楽斎(うらくさい)が建立した日本の茶道文化史上の金字塔とされる茶室「如庵(じょあん)」をはじめ、有楽斎の京都時代の隠匿所だった「旧正伝院書院」、大阪で住んでいた天満屋敷を古図を基に復元した「元庵」、新しく建てられた「弘庵」などの茶室のテーマパークであり、茶室を囲む日本庭園は静かな佇まいを魅せています。<br />有楽斎は、茶の湯の創世期に尾張国が生んだ大茶匠です。また、「如庵」は昭和11年と26年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。京都 大山崎の妙喜庵の「待庵」、大徳寺 龍光院内の「密庵」(拝観不可)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。 信長の実弟に生まれた有楽斎の波瀾に富んだ生涯を写すが如く、茶室「如庵」は各地を流転しましたが、昭和47年に犬山城下に移築され、「有楽苑」と名付けられ、安住の地を与えられました。 <br />ゆっくりと苑内を散策しつつ、波乱万丈の戦国の世から天下泰平な江戸時代へ、武将から茶人へと生きた有楽斎の生涯に思いを馳せるのも一興かもしれません。有楽斎の人物像にのめり込み、レポが遅くなってしまいました。<br />前編では、弘庵までをレポいたします。<br />HPです。<br />http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/<br />園内マップです。<br />http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/guide/

秋思秋愁 尾張犬山逍遥③有楽苑(前編)

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2018/12/01 - 2018/12/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

有楽苑(うらくえん)は、犬山城の近隣にある名鉄犬山ホテル内にあり、織田信長の実弟 織田有楽斎(うらくさい)が建立した日本の茶道文化史上の金字塔とされる茶室「如庵(じょあん)」をはじめ、有楽斎の京都時代の隠匿所だった「旧正伝院書院」、大阪で住んでいた天満屋敷を古図を基に復元した「元庵」、新しく建てられた「弘庵」などの茶室のテーマパークであり、茶室を囲む日本庭園は静かな佇まいを魅せています。
有楽斎は、茶の湯の創世期に尾張国が生んだ大茶匠です。また、「如庵」は昭和11年と26年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。京都 大山崎の妙喜庵の「待庵」、大徳寺 龍光院内の「密庵」(拝観不可)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。 信長の実弟に生まれた有楽斎の波瀾に富んだ生涯を写すが如く、茶室「如庵」は各地を流転しましたが、昭和47年に犬山城下に移築され、「有楽苑」と名付けられ、安住の地を与えられました。
ゆっくりと苑内を散策しつつ、波乱万丈の戦国の世から天下泰平な江戸時代へ、武将から茶人へと生きた有楽斎の生涯に思いを馳せるのも一興かもしれません。有楽斎の人物像にのめり込み、レポが遅くなってしまいました。
前編では、弘庵までをレポいたします。
HPです。
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/
園内マップです。
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/guide/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 犬山城の山麓から徒歩5分程の名鉄犬山ホテル敷地内にある「日本庭園 有楽苑」に向かいます。名鉄「犬山遊園」駅からなら、犬山城への途中にあります。<br />有楽苑は、信長の実弟 織田有楽斎が京都 建仁寺に建てた茶室「如庵」や有楽斎の隠居所だった「旧正伝院書院」などを移築した庭園です。

    犬山城の山麓から徒歩5分程の名鉄犬山ホテル敷地内にある「日本庭園 有楽苑」に向かいます。名鉄「犬山遊園」駅からなら、犬山城への途中にあります。
    有楽苑は、信長の実弟 織田有楽斎が京都 建仁寺に建てた茶室「如庵」や有楽斎の隠居所だった「旧正伝院書院」などを移築した庭園です。

  • 徳源寺唐門<br />この唐門は、このように苑外からも自由に見ることができ、勅使門を思わせる風格と配置です。<br />三井家の大磯別邸から如庵と共にこの有楽苑に移築された唐門で、木目をうまく活かした造りになっているのが特徴です。<br />元々は、織田信雄(信長の次男)の五男 織田高長が奈良大和宇陀岩室にあった徳源寺に建立した唐門です。徳源寺は織田家の菩提寺でしたが現在は廃寺となっており、この門が唯一現存する遺構です。長頼が亡き父 信雄の菩提のために数棟の建物を建立し、長泉山徳源寺と号しました。現在は、織田松山藩主4代の五輪塔が侘しく佇むだけです。

    徳源寺唐門
    この唐門は、このように苑外からも自由に見ることができ、勅使門を思わせる風格と配置です。
    三井家の大磯別邸から如庵と共にこの有楽苑に移築された唐門で、木目をうまく活かした造りになっているのが特徴です。
    元々は、織田信雄(信長の次男)の五男 織田高長が奈良大和宇陀岩室にあった徳源寺に建立した唐門です。徳源寺は織田家の菩提寺でしたが現在は廃寺となっており、この門が唯一現存する遺構です。長頼が亡き父 信雄の菩提のために数棟の建物を建立し、長泉山徳源寺と号しました。現在は、織田松山藩主4代の五輪塔が侘しく佇むだけです。

  • 名鉄犬山ホテル<br />1965年、かつて名古屋鉄道グループの「犬山遊園」があった跡地に建てられたホテルです。往時「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれていた名古屋観光ホテルと合弁でスタートし、政財界のフォーラムなどに用いられるなど名古屋の奥座敷に相応しい格式も併せ持つホテルです。しかし、第三者からは高級ホテルとして扱われることは少なく、WEBの高級ホテルセレクションにも選ばれていません。<br />現ホテルは2019年8月末で営業を終了し、インターコンチネンタルホテルズグループと提携して中部圏初のインディゴブランド「ホテル・インディゴ 犬山 有楽苑」として2021年度後半のリブランド・オープンを目指すようです。

    名鉄犬山ホテル
    1965年、かつて名古屋鉄道グループの「犬山遊園」があった跡地に建てられたホテルです。往時「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれていた名古屋観光ホテルと合弁でスタートし、政財界のフォーラムなどに用いられるなど名古屋の奥座敷に相応しい格式も併せ持つホテルです。しかし、第三者からは高級ホテルとして扱われることは少なく、WEBの高級ホテルセレクションにも選ばれていません。
    現ホテルは2019年8月末で営業を終了し、インターコンチネンタルホテルズグループと提携して中部圏初のインディゴブランド「ホテル・インディゴ 犬山 有楽苑」として2021年度後半のリブランド・オープンを目指すようです。

  • 名鉄犬山ホテル<br />犬山城が望めます。

    名鉄犬山ホテル
    犬山城が望めます。

  • 有楽苑 入口<br />有楽苑には、国宝 茶室「如庵」、重文「旧正伝院書院」、古図により復元された「元庵」、新しく建てられた「弘庵」などがあり、静かな佇まいを魅せています。<br />犬山城を含め、国宝がひとつの町に2つあるのは珍しいことです<br />如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が京都 建仁寺に建てた茶室で、数寄屋造の古典と称され、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。<br />織田有楽斎は信長の実弟として1547(天文16)年に生まれました。波瀾に富んだ人生を送った有楽斎の生涯を写すが如く、茶室「如庵」は各地を流転しましたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地に移築されて「有楽苑」と名付けられ、安住の地を得て現在に引き繋がれています。<br />日本庭園に囲まれた茶室や書院が、有楽斎イズムの不思議な世界に誘います。

    有楽苑 入口
    有楽苑には、国宝 茶室「如庵」、重文「旧正伝院書院」、古図により復元された「元庵」、新しく建てられた「弘庵」などがあり、静かな佇まいを魅せています。
    犬山城を含め、国宝がひとつの町に2つあるのは珍しいことです
    如庵は、茶の湯の創世期に尾張が生んだ大茶匠 織田有楽斎が京都 建仁寺に建てた茶室で、数寄屋造の古典と称され、昭和11年に国宝の指定を受けた茶道文化史上貴重な遺構です。京都山崎妙喜庵内の「待庵」(千利休作)、大徳寺龍光院内の「密庵」(小堀遠州作)と共に、現存する国宝茶席3名席のひとつです。
    織田有楽斎は信長の実弟として1547(天文16)年に生まれました。波瀾に富んだ人生を送った有楽斎の生涯を写すが如く、茶室「如庵」は各地を流転しましたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地に移築されて「有楽苑」と名付けられ、安住の地を得て現在に引き繋がれています。
    日本庭園に囲まれた茶室や書院が、有楽斎イズムの不思議な世界に誘います。

  • 有楽苑 苑内マップ<br />有楽斎が京都での隠棲中に建仁寺塔頭寺院 正伝院内に建てた茶室が如庵です。<br />如庵は1951(昭和26)年に文化財保護法に基づいて国宝に指定されました。「如庵」は「じょあん」と読みますが、一説には有楽斎を名乗った頃にキリシタンとなり、そのクリスチャン・ネーム「Johan」に由来すると伝わります。<br />如庵は1618(元和4)年に正伝院が再興された時に建造されたものですが、正伝院は1873(明治6)年に永源院と合弁して廃寺となり、書院と如庵は祇園町に払い下げられて祇園女紅場(芸妓を対象とする教育施設)の宴席となりました。更に1908(明治41)年、書院や露地の一部と共に東京麻布今井町の三井本邸へ移築されました。1937(昭和12)年には、太平洋戦争の戦火を免れるために神奈川県大磯の三井別邸城山荘に移され、1972(昭和47)年に名古屋鉄道によって現在地に移築されました。「有楽苑」という名はその時に付けられたものですから、日本庭園も如庵の移築に当たって整備されたものと思われます。<br />如庵の安住の地が有楽斎の生まれ故郷の尾張だというのは、何かしら因縁めいたものを感じさせます。

    有楽苑 苑内マップ
    有楽斎が京都での隠棲中に建仁寺塔頭寺院 正伝院内に建てた茶室が如庵です。
    如庵は1951(昭和26)年に文化財保護法に基づいて国宝に指定されました。「如庵」は「じょあん」と読みますが、一説には有楽斎を名乗った頃にキリシタンとなり、そのクリスチャン・ネーム「Johan」に由来すると伝わります。
    如庵は1618(元和4)年に正伝院が再興された時に建造されたものですが、正伝院は1873(明治6)年に永源院と合弁して廃寺となり、書院と如庵は祇園町に払い下げられて祇園女紅場(芸妓を対象とする教育施設)の宴席となりました。更に1908(明治41)年、書院や露地の一部と共に東京麻布今井町の三井本邸へ移築されました。1937(昭和12)年には、太平洋戦争の戦火を免れるために神奈川県大磯の三井別邸城山荘に移され、1972(昭和47)年に名古屋鉄道によって現在地に移築されました。「有楽苑」という名はその時に付けられたものですから、日本庭園も如庵の移築に当たって整備されたものと思われます。
    如庵の安住の地が有楽斎の生まれ故郷の尾張だというのは、何かしら因縁めいたものを感じさせます。

  • 有楽苑 <br />訪問日は12月1日でしたが、紅葉が見頃でした。<br />有楽苑の回廊式に造営された全体の配置計画、旧正伝院を偲ばせる作庭、有楽斎の大阪在住時代に天満屋敷にあった茶室を『起こし絵図』から復元した元庵の建設は、全て茶室研究で有名な建築家 堀口捨己(ほりぐちすてみ)氏が手掛けられています。

    有楽苑
    訪問日は12月1日でしたが、紅葉が見頃でした。
    有楽苑の回廊式に造営された全体の配置計画、旧正伝院を偲ばせる作庭、有楽斎の大阪在住時代に天満屋敷にあった茶室を『起こし絵図』から復元した元庵の建設は、全て茶室研究で有名な建築家 堀口捨己(ほりぐちすてみ)氏が手掛けられています。

  • 有楽苑 <br />有楽苑には「如庵」の他、「旧正伝院書院」や「元庵」、「弘庵」といった建物が佇みます。旧正伝院書院は如庵と隣接していた建物で、重文です。元庵は有楽斎が天満屋敷に構えた茶室を古図に基づいて復元したものであり、弘庵は苑内で催される茶会のために昭和時代の末期に新築されたものです。<br />それらは普段は内部非公開ですが、月に一度、有料で如庵の内部見学会が開催されています。内部の造作までじっくりと見学したい方は、内部見学会に参加することをお勧めします。<br />端正に整えられた苑内には、京都の岩栖院の唐門だったという「岩栖門」をはじめ、織田家の菩提寺である徳源寺の唐門なども移築され、風情ある景観を創生しています。

    有楽苑
    有楽苑には「如庵」の他、「旧正伝院書院」や「元庵」、「弘庵」といった建物が佇みます。旧正伝院書院は如庵と隣接していた建物で、重文です。元庵は有楽斎が天満屋敷に構えた茶室を古図に基づいて復元したものであり、弘庵は苑内で催される茶会のために昭和時代の末期に新築されたものです。
    それらは普段は内部非公開ですが、月に一度、有料で如庵の内部見学会が開催されています。内部の造作までじっくりと見学したい方は、内部見学会に参加することをお勧めします。
    端正に整えられた苑内には、京都の岩栖院の唐門だったという「岩栖門」をはじめ、織田家の菩提寺である徳源寺の唐門なども移築され、風情ある景観を創生しています。

  • 有楽苑<br />日本庭園だけとってみても、鳥や虫の声、木々が風に揺れる音など、自然が奏でる音色に包まれる癒しの空間そのものです。手入れが行き届いた庭園は、どこを切り取っても絵になります。<br />また、これ程紅葉が美しい庭園とは思ってもみませんでした。

    有楽苑
    日本庭園だけとってみても、鳥や虫の声、木々が風に揺れる音など、自然が奏でる音色に包まれる癒しの空間そのものです。手入れが行き届いた庭園は、どこを切り取っても絵になります。
    また、これ程紅葉が美しい庭園とは思ってもみませんでした。

  • 有楽苑<br />竹林の緑と紅葉の深紅のコントラストが目に鮮やかです。<br />建仁寺では如庵との境には「有楽竹」と呼ばれる竹林があったそうです。往時の見取り図には「薮の下」と表記されており、元々は建仁寺の敷地ではなく、有楽斎が自分の好みで買い入れたものだそうです。有楽斎は竹をことのほか好み、「如庵」や「元庵(天満の如庵)」では中柱にも竹を使用しています。<br />有楽斎が茶室の庭に竹を多用しているのは、竹が発する音を殊更好んだからです。竹の葉が擦れ合う「サラサラ」という音、竹の幹がぶつかり合う時に奏でる「コンコン」という響きが寂寥感を醸し、茶を喫するのに相応しい音だと考えていたようです。<br />有楽斎がお手本とした利休が説いた、「竹柱は素人が立てるべきものではない。竹は見ていっこうに時代色が出てくるものではない」(『細川三斎茶道御伝授之覚』)という意見とは間逆であるのも興味深いところです。<br />これぞ、「守・破・離」の精神の典型と言えます。

    有楽苑
    竹林の緑と紅葉の深紅のコントラストが目に鮮やかです。
    建仁寺では如庵との境には「有楽竹」と呼ばれる竹林があったそうです。往時の見取り図には「薮の下」と表記されており、元々は建仁寺の敷地ではなく、有楽斎が自分の好みで買い入れたものだそうです。有楽斎は竹をことのほか好み、「如庵」や「元庵(天満の如庵)」では中柱にも竹を使用しています。
    有楽斎が茶室の庭に竹を多用しているのは、竹が発する音を殊更好んだからです。竹の葉が擦れ合う「サラサラ」という音、竹の幹がぶつかり合う時に奏でる「コンコン」という響きが寂寥感を醸し、茶を喫するのに相応しい音だと考えていたようです。
    有楽斎がお手本とした利休が説いた、「竹柱は素人が立てるべきものではない。竹は見ていっこうに時代色が出てくるものではない」(『細川三斎茶道御伝授之覚』)という意見とは間逆であるのも興味深いところです。
    これぞ、「守・破・離」の精神の典型と言えます。

  • 有楽苑 元庵 中門<br />初めに潜る門が茶室「元庵」の中門です。<br />元庵の玄関へと誘う飛び石は、乱形の中に斜に敷かれた方形を混ぜる凝りようです。<br />何とも小粋な造作ですが、こうした所にももてなしの精神が宿ります。

    有楽苑 元庵 中門
    初めに潜る門が茶室「元庵」の中門です。
    元庵の玄関へと誘う飛び石は、乱形の中に斜に敷かれた方形を混ぜる凝りようです。
    何とも小粋な造作ですが、こうした所にももてなしの精神が宿ります。

  • 有楽苑 元庵 玄関<br />玄関敷台には大きな沓脱石が配されています。

    有楽苑 元庵 玄関
    玄関敷台には大きな沓脱石が配されています。

  • 有楽苑 元庵 玄関<br />玄関の正面にある取次の間の障子が開放され、その先に広がるのは元庵の露地(前庭)です。まさに障子という額縁で切り取られた一幅の絵のように演出効果満点です。<br />また、全体像が見えないようにアイストップなどで巧みに先を隠したり、動きに応じて風景を切り替えて飽きさせない仕掛けは、桂離宮のコンセプトにも繋がります。

    有楽苑 元庵 玄関
    玄関の正面にある取次の間の障子が開放され、その先に広がるのは元庵の露地(前庭)です。まさに障子という額縁で切り取られた一幅の絵のように演出効果満点です。
    また、全体像が見えないようにアイストップなどで巧みに先を隠したり、動きに応じて風景を切り替えて飽きさせない仕掛けは、桂離宮のコンセプトにも繋がります。

  • 有楽苑 元庵<br />茶室「元庵」のバックヤードになります。<br />元庵の裏側から見る佇まいは、数寄屋の雰囲気を湛えています。<br /><br />

    有楽苑 元庵
    茶室「元庵」のバックヤードになります。
    元庵の裏側から見る佇まいは、数寄屋の雰囲気を湛えています。

  • 有楽苑 元庵 中門<br />玄関敷台前から中門を振り返った様子です。<br />手前には藤村庸軒旧蔵の石燈籠が佇みます。庸軒は、千利休の孫に当たる千宗旦の直弟子であり、千宗旦四天王のひとりに数えられた人物です。表千家の流れを汲む「庸軒流茶道」の開祖であり、漢詩人としても知られ、荻野道興が編集した『庸軒詩集』が刊行されています。

    有楽苑 元庵 中門
    玄関敷台前から中門を振り返った様子です。
    手前には藤村庸軒旧蔵の石燈籠が佇みます。庸軒は、千利休の孫に当たる千宗旦の直弟子であり、千宗旦四天王のひとりに数えられた人物です。表千家の流れを汲む「庸軒流茶道」の開祖であり、漢詩人としても知られ、荻野道興が編集した『庸軒詩集』が刊行されています。

  • 有楽苑 元庵 亀甲竹<br />中門の右手に植えられた亀甲竹は、孟宗竹の仲間ですが、地上部が亀甲に似ており、品格の漂う奇妙な竹です。とてもインパクトがあります。<br />類似の竹に布袋竹(ほていちく)という床柱に使われる竹がありますが、確かTVドラマの「水戸黄門さま」の杖はこの亀甲竹でした。

    有楽苑 元庵 亀甲竹
    中門の右手に植えられた亀甲竹は、孟宗竹の仲間ですが、地上部が亀甲に似ており、品格の漂う奇妙な竹です。とてもインパクトがあります。
    類似の竹に布袋竹(ほていちく)という床柱に使われる竹がありますが、確かTVドラマの「水戸黄門さま」の杖はこの亀甲竹でした。

  • 有楽苑 元庵<br />元庵は、このように背丈のある竹林に三方を囲まれた静謐な茶室です。

    有楽苑 元庵
    元庵は、このように背丈のある竹林に三方を囲まれた静謐な茶室です。

  • 有楽苑 書院 岩栖門(いわすもん)<br />有楽苑にある門の中では、徳源寺唐門の次に大きく格式の高いものです。<br />文明年間に室町時代前期の守護大名 細川満元が建立した武家屋敷の代表作とされる京都新町の細川邸宅(岩栖院)にあった唐門です。この門も如庵と共に三井家の大磯別邸「城山荘」から有楽苑に移されたものです。<br />この後、幾度も異なった門を潜るため、迷路に迷い込んだような奥が測り知れない錯覚に陥ります。「中心」と表現するのではなく「奥」と言う、日本庭園のコンセプトが如実に具現化されています。

    有楽苑 書院 岩栖門(いわすもん)
    有楽苑にある門の中では、徳源寺唐門の次に大きく格式の高いものです。
    文明年間に室町時代前期の守護大名 細川満元が建立した武家屋敷の代表作とされる京都新町の細川邸宅(岩栖院)にあった唐門です。この門も如庵と共に三井家の大磯別邸「城山荘」から有楽苑に移されたものです。
    この後、幾度も異なった門を潜るため、迷路に迷い込んだような奥が測り知れない錯覚に陥ります。「中心」と表現するのではなく「奥」と言う、日本庭園のコンセプトが如実に具現化されています。

  • 有楽苑 書院 岩栖門<br />如庵は、1618(元和4)年の創建から明治維新に至るまでの200年以上の間、正伝院所有の茶室でしたが、その後は転々と移築が繰り返される数奇な運命を辿りました。<br />1873(明治6)年、京都府は窮民産業所を設立するため、正伝院の地を府に引き渡すことを命じました。それに伴い、如庵とその付属施設は売却の対象となりました。一時期は京都市祇園町の有志らが所有者となり、「有楽館」と名付けて保存公開されていましたが、やがて維持運営が困難となり、1908(明治41)年に再び全館売却を余儀なくされ、その際、複数の資産家が購入の意向を示し、その中に三井総領家(北家)もありました。

    有楽苑 書院 岩栖門
    如庵は、1618(元和4)年の創建から明治維新に至るまでの200年以上の間、正伝院所有の茶室でしたが、その後は転々と移築が繰り返される数奇な運命を辿りました。
    1873(明治6)年、京都府は窮民産業所を設立するため、正伝院の地を府に引き渡すことを命じました。それに伴い、如庵とその付属施設は売却の対象となりました。一時期は京都市祇園町の有志らが所有者となり、「有楽館」と名付けて保存公開されていましたが、やがて維持運営が困難となり、1908(明治41)年に再び全館売却を余儀なくされ、その際、複数の資産家が購入の意向を示し、その中に三井総領家(北家)もありました。

  • 有楽苑 書院 岩栖門<br />北家10代当主 三井高棟は、美術品の収集など文化事業に力を入れると共に、表千家11代の千宗左(碌々斎)に師事していました。そうした縁から、「有楽館」の諸施設のうち主要となる「如庵」、「書院」、「露地」を三井北家が買い取り、東京今井町の三井本邸に移築しました。<br />しかし、三井本邸に移築しても如庵での茶会は20年間行われませんでした。高棟は三井家の総領として全事業を統括する立場にあり、茶事風流等を控えていたからです。<br />如庵で優雅な茶会が催されるようになったのは、高棟の古希が過ぎた1928(昭和3)年以降であり、同年4月にはじめてお披露目が行われ、連日招待された親近者で賑わったと伝えます。

    有楽苑 書院 岩栖門
    北家10代当主 三井高棟は、美術品の収集など文化事業に力を入れると共に、表千家11代の千宗左(碌々斎)に師事していました。そうした縁から、「有楽館」の諸施設のうち主要となる「如庵」、「書院」、「露地」を三井北家が買い取り、東京今井町の三井本邸に移築しました。
    しかし、三井本邸に移築しても如庵での茶会は20年間行われませんでした。高棟は三井家の総領として全事業を統括する立場にあり、茶事風流等を控えていたからです。
    如庵で優雅な茶会が催されるようになったのは、高棟の古希が過ぎた1928(昭和3)年以降であり、同年4月にはじめてお披露目が行われ、連日招待された親近者で賑わったと伝えます。

  • 有楽苑 書院 岩栖門<br />門の左右には、化粧砂利と敷竹を用いた庭園を配しています。<br /><br />如庵と露地、書院は、その由緒はもとより、優れた建築造作や歴史的な価値という点で評価する声が日毎に高まり、1936(昭和11)年、文部省は如庵と露地を国宝に指定しました。それを機に、高棟は如庵とその施設を神奈川県大磯の別荘「城山荘」に移築しました。<br />多趣味で文化・芸術に造詣の深い高棟は隠居後に城山荘に居を移して書や絵画、茶の湯に没頭する日々を過ごしましたが、移築には、東京の密集地では震災や火災などで消失する危険性があり、それを避けるとの深慮もありました。事実、太平洋戦争末期の東京大空襲において、三井邸は灰燼に帰しています。もし城山荘への疎開がなかったならば、現在の如庵の姿はありませんでした。まさに高棟の先見の明が如庵を救ったと言えます。

    有楽苑 書院 岩栖門
    門の左右には、化粧砂利と敷竹を用いた庭園を配しています。

    如庵と露地、書院は、その由緒はもとより、優れた建築造作や歴史的な価値という点で評価する声が日毎に高まり、1936(昭和11)年、文部省は如庵と露地を国宝に指定しました。それを機に、高棟は如庵とその施設を神奈川県大磯の別荘「城山荘」に移築しました。
    多趣味で文化・芸術に造詣の深い高棟は隠居後に城山荘に居を移して書や絵画、茶の湯に没頭する日々を過ごしましたが、移築には、東京の密集地では震災や火災などで消失する危険性があり、それを避けるとの深慮もありました。事実、太平洋戦争末期の東京大空襲において、三井邸は灰燼に帰しています。もし城山荘への疎開がなかったならば、現在の如庵の姿はありませんでした。まさに高棟の先見の明が如庵を救ったと言えます。

  • 有楽苑 書院 北面<br />1944(昭和19)年には、如庵と露地に続き、この付属書院も国宝に指定されました。しかし、その後の見直しに伴い、重文に格下げになっています。<br />時は流れ、敗戦や財閥解体などの煽りを受け、大磯の城山荘は1970(昭和45)年に三井家の所有から離れました。同時に城山荘内の如庵や書院も所有者が代わり、名古屋鉄道の管理の下、愛知県の犬山市に移築されました。<br />この時に解体移築工事を担当した工務店は、1977(昭和52)年に竣工した三井物産の京都嵐山寮の建設を請け負いました。同工務店が詳細な図面や記録を残していたことから、三井物産は寮と共に如庵を精密に再現した茶室「長好庵」を庭の一隅に建築しています。庵号は、有楽斎の孫で大茶人となった三五郎長好に因んだもので、三井家が如庵を伝承保持していた歴史的事実をここに留めています。<br />尚、現在は、三井本館内の三井記念美術館にも如庵の内部が再現され、常設展示されています。

    有楽苑 書院 北面
    1944(昭和19)年には、如庵と露地に続き、この付属書院も国宝に指定されました。しかし、その後の見直しに伴い、重文に格下げになっています。
    時は流れ、敗戦や財閥解体などの煽りを受け、大磯の城山荘は1970(昭和45)年に三井家の所有から離れました。同時に城山荘内の如庵や書院も所有者が代わり、名古屋鉄道の管理の下、愛知県の犬山市に移築されました。
    この時に解体移築工事を担当した工務店は、1977(昭和52)年に竣工した三井物産の京都嵐山寮の建設を請け負いました。同工務店が詳細な図面や記録を残していたことから、三井物産は寮と共に如庵を精密に再現した茶室「長好庵」を庭の一隅に建築しています。庵号は、有楽斎の孫で大茶人となった三五郎長好に因んだもので、三井家が如庵を伝承保持していた歴史的事実をここに留めています。
    尚、現在は、三井本館内の三井記念美術館にも如庵の内部が再現され、常設展示されています。

  • 有楽苑 書院 北面<br />玄関の意匠にしても、全体のプロポーションにしても、バランスの妙に感心させられます。

    有楽苑 書院 北面
    玄関の意匠にしても、全体のプロポーションにしても、バランスの妙に感心させられます。

  • 有楽苑 元庵 <br />書院裏手から元庵の露地を覗いた様子です。

    有楽苑 元庵
    書院裏手から元庵の露地を覗いた様子です。

  • 有楽苑 書院 玄関<br />玄関の軒先にはかすかな「むくり」を入れており、端正な直線の中にアクセントとして加えた緩い曲線が何ともお洒落です。このむくりは、軒先の垂木が裳階(もこし)のように屋根の垂木と構造的に切り離してあるために実現できるラインですが、とても小粋な意匠です。

    有楽苑 書院 玄関
    玄関の軒先にはかすかな「むくり」を入れており、端正な直線の中にアクセントとして加えた緩い曲線が何ともお洒落です。このむくりは、軒先の垂木が裳階(もこし)のように屋根の垂木と構造的に切り離してあるために実現できるラインですが、とても小粋な意匠です。

  • 有楽苑 書院 玄関<br />玄関の正面にある壁には小窓が切られ、その先にあるのは書院の露地(前庭)です。

    有楽苑 書院 玄関
    玄関の正面にある壁には小窓が切られ、その先にあるのは書院の露地(前庭)です。

  • 有楽苑 書院 玄関<br />障子が解放され、部屋を通して元庵の露地が見通せます。<br /><br />戦前には国宝に指定された茶室が10棟以上ありましたが、戦後そのほとんどが重文に格落ちし、僅か3棟のみが国宝として再認定されました。<br />それが千利休の「待庵」、小堀遠州の「密庵」、織田有楽斎の「如庵」です。この3茶人のうち、利休や遠州に比べて有楽斎が注目される機会は限られていたのですが、近年、井上靖著『本覚坊遺文』や映画『千利休』で桃山時代の茶人が取り上げられたのを契機に、茶人としての有楽斎が語られはじめたと言えます。

    有楽苑 書院 玄関
    障子が解放され、部屋を通して元庵の露地が見通せます。

    戦前には国宝に指定された茶室が10棟以上ありましたが、戦後そのほとんどが重文に格落ちし、僅か3棟のみが国宝として再認定されました。
    それが千利休の「待庵」、小堀遠州の「密庵」、織田有楽斎の「如庵」です。この3茶人のうち、利休や遠州に比べて有楽斎が注目される機会は限られていたのですが、近年、井上靖著『本覚坊遺文』や映画『千利休』で桃山時代の茶人が取り上げられたのを契機に、茶人としての有楽斎が語られはじめたと言えます。

  • 有楽苑 書院 西面<br />含翠門(がんすいもん)側から見た書院です。<br /><br />通説に従えば、織田長益は千利休の弟子となり、利休門下七哲のひとりに数えられています。後に出家して有楽斎と号し、茶の点前や茶具、茶席、茶庭の制作などに独特の感性を発揮。最晩年には「有楽流」という新たな茶法の流派を生み、その時に建仁寺に創建した茶室が「如庵」であり、隠居所が如庵の付属書院とされます。<br />有楽斎没後は、次男 頼長、4男 長政、5男 尚長らが流派を受け継ぎ、尾張徳川家にも伝えられました。<br />因みに、東京都千代田区有楽町の町名は、江戸幕府が開かれた際、有楽斎が土地を拝領し屋敷を構えた「有楽ヶ原」の地名に由来するとの説もあります。

    有楽苑 書院 西面
    含翠門(がんすいもん)側から見た書院です。

    通説に従えば、織田長益は千利休の弟子となり、利休門下七哲のひとりに数えられています。後に出家して有楽斎と号し、茶の点前や茶具、茶席、茶庭の制作などに独特の感性を発揮。最晩年には「有楽流」という新たな茶法の流派を生み、その時に建仁寺に創建した茶室が「如庵」であり、隠居所が如庵の付属書院とされます。
    有楽斎没後は、次男 頼長、4男 長政、5男 尚長らが流派を受け継ぎ、尾張徳川家にも伝えられました。
    因みに、東京都千代田区有楽町の町名は、江戸幕府が開かれた際、有楽斎が土地を拝領し屋敷を構えた「有楽ヶ原」の地名に由来するとの説もあります。

  • 有楽苑 書院 西面<br />明かり取りの障子の間からも元庵の露地が見通せる、粋なあしらいです。<br /><br />有楽斎の生涯をダイジェストで紹介いたします。<br />織田長益、後の有楽斎は1547(天文16)年に織田信秀の11男に生まれ、信長の実弟であり、豊臣秀吉の側室 淀殿の叔父にも当たります。織田家に生まれた長益は、戦国武将のひとりとして時代の潮流に翻弄された生涯を送りました。本能寺の変の際、長益は甥の織田信忠(信長の長男)と共に京都 二条御所にありましたが、信忠に自害を勧め、自らは信忠の子を預かって辛くも脱出し、近江安土から岐阜城へと逃れました。<br />その後は甥 織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは信雄方の武将として徳川家に仕えましたが、戦いの終結後は豊臣秀吉に仕えました。剃髪して有楽斎と名乗ったのはこの頃とされます。秀吉没後は徳川に与し、関ヶ原の合戦では東軍につきました。その後は家康の指示で大坂城に入城し、豊臣秀頼や淀殿に仕えました。

    有楽苑 書院 西面
    明かり取りの障子の間からも元庵の露地が見通せる、粋なあしらいです。

    有楽斎の生涯をダイジェストで紹介いたします。
    織田長益、後の有楽斎は1547(天文16)年に織田信秀の11男に生まれ、信長の実弟であり、豊臣秀吉の側室 淀殿の叔父にも当たります。織田家に生まれた長益は、戦国武将のひとりとして時代の潮流に翻弄された生涯を送りました。本能寺の変の際、長益は甥の織田信忠(信長の長男)と共に京都 二条御所にありましたが、信忠に自害を勧め、自らは信忠の子を預かって辛くも脱出し、近江安土から岐阜城へと逃れました。
    その後は甥 織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは信雄方の武将として徳川家に仕えましたが、戦いの終結後は豊臣秀吉に仕えました。剃髪して有楽斎と名乗ったのはこの頃とされます。秀吉没後は徳川に与し、関ヶ原の合戦では東軍につきました。その後は家康の指示で大坂城に入城し、豊臣秀頼や淀殿に仕えました。

  • 有楽苑 書院 西面<br />仄暗がり越しに見通す景色」が一幅の絵を思わせ、唸らせます。<br /><br />大坂冬の陣では秀頼側の中心的な存在として一旦は和睦を成立させましたが、大坂夏の陣を前に「城内の誰も自分の指示に従わず、城内に留まるのは無意味」と家康の許可を得て城を出て京都に隠棲し、茶人として余生を送りました。こうした経緯から徳川家の隠密として働いていたという説もあります。それ故、戦国武将というよりも有楽斎という茶人としてその名を知られる人物です。<br />有楽斎は、1622(元和7)年に正伝院において波乱に富んだ75年の生涯を閉じています。苛酷な戦国の世の転変を生き抜きながら、平穏な晩年を過せたことは唯一の救いです。貴公子風な人柄と豊かな文化的教養や芸術的天分に恵まれ、その生涯は「風流の心」に貫かれていました。

    有楽苑 書院 西面
    仄暗がり越しに見通す景色」が一幅の絵を思わせ、唸らせます。

    大坂冬の陣では秀頼側の中心的な存在として一旦は和睦を成立させましたが、大坂夏の陣を前に「城内の誰も自分の指示に従わず、城内に留まるのは無意味」と家康の許可を得て城を出て京都に隠棲し、茶人として余生を送りました。こうした経緯から徳川家の隠密として働いていたという説もあります。それ故、戦国武将というよりも有楽斎という茶人としてその名を知られる人物です。
    有楽斎は、1622(元和7)年に正伝院において波乱に富んだ75年の生涯を閉じています。苛酷な戦国の世の転変を生き抜きながら、平穏な晩年を過せたことは唯一の救いです。貴公子風な人柄と豊かな文化的教養や芸術的天分に恵まれ、その生涯は「風流の心」に貫かれていました。

  • 有楽苑 書院<br />含翠門(がんすいもん)から続く石畳風の延段のうねった細い苑路は、秋の風情を湛えています。<br /><br />有楽斎を利休門下七哲のひとりと語る書物がほとんどですが、実は弟子と認められるほどの確証は勿論、伝承すらほとんどないそうです。有楽斎は武家の儀礼や建築に強い関心を持ち、秀吉の前田邸御成りでは室町将軍家御成りを基にした儀礼考証と指導を担当した実力者でもありした。従って、利休の師匠 武野紹鴎(たけの じょうおう)の茶に惹かれていた以外、どこまで利休の「侘び茶」に共鳴していたのか不明との説もあります。<br />「利休弟子説」の出所は、秀吉が茶の湯を習得した際、大名衆への秘奥「台子」の相伝をそれまで利休に任せていたのを自分がやると言い出し、大名衆が秀吉の指導を受けた時のエピソードにあります。この時、有楽斎も伝授を願い出ましたが、秀吉は「そちは年来数寄の巧者であるから利休から受けるが良い」と利休にお鉢を回したと有楽流の茶伝書『貞要集』が伝えています。有楽流の伝書ですから自画自賛と言うか、有楽斎を利休の弟子として箔を付けたい人たちからすれば、これが利休の弟子だった根拠になるようです。秀吉の立場から察すれば、年来数寄の巧者に授けるおこがましさやかつての主筋に対する遠慮もあったと考えるのが素直かもしれません。

    有楽苑 書院
    含翠門(がんすいもん)から続く石畳風の延段のうねった細い苑路は、秋の風情を湛えています。

    有楽斎を利休門下七哲のひとりと語る書物がほとんどですが、実は弟子と認められるほどの確証は勿論、伝承すらほとんどないそうです。有楽斎は武家の儀礼や建築に強い関心を持ち、秀吉の前田邸御成りでは室町将軍家御成りを基にした儀礼考証と指導を担当した実力者でもありした。従って、利休の師匠 武野紹鴎(たけの じょうおう)の茶に惹かれていた以外、どこまで利休の「侘び茶」に共鳴していたのか不明との説もあります。
    「利休弟子説」の出所は、秀吉が茶の湯を習得した際、大名衆への秘奥「台子」の相伝をそれまで利休に任せていたのを自分がやると言い出し、大名衆が秀吉の指導を受けた時のエピソードにあります。この時、有楽斎も伝授を願い出ましたが、秀吉は「そちは年来数寄の巧者であるから利休から受けるが良い」と利休にお鉢を回したと有楽流の茶伝書『貞要集』が伝えています。有楽流の伝書ですから自画自賛と言うか、有楽斎を利休の弟子として箔を付けたい人たちからすれば、これが利休の弟子だった根拠になるようです。秀吉の立場から察すれば、年来数寄の巧者に授けるおこがましさやかつての主筋に対する遠慮もあったと考えるのが素直かもしれません。

  • 有楽苑 書院 含翠門<br />屋根の内側にかすかな「むくり」が見られます。この門の由来は不詳ですが、書院のコンセプトの「むくり」に繋がります。そこまで考慮してこの門を移築したのでしょうか?<br /><br />有楽斎の茶室への拘りは、古田織部などに先んじて茶室に相伴席を設えたり、官休庵に先立ち極侘びの2畳遣り違いの席を考案したり、また横浜 三渓園にある春草蘆3畳台目のような多窓茶室の斬新な設計もしており、往時としては極めて前衛的なデザイナーと言えます。そして、晩年には、「狭い茶室は客を苦しめるに似たり」として2畳半台目向切りの寛ろぎのある如庵へと行き着きました。

    有楽苑 書院 含翠門
    屋根の内側にかすかな「むくり」が見られます。この門の由来は不詳ですが、書院のコンセプトの「むくり」に繋がります。そこまで考慮してこの門を移築したのでしょうか?

    有楽斎の茶室への拘りは、古田織部などに先んじて茶室に相伴席を設えたり、官休庵に先立ち極侘びの2畳遣り違いの席を考案したり、また横浜 三渓園にある春草蘆3畳台目のような多窓茶室の斬新な設計もしており、往時としては極めて前衛的なデザイナーと言えます。そして、晩年には、「狭い茶室は客を苦しめるに似たり」として2畳半台目向切りの寛ろぎのある如庵へと行き着きました。

  • 有楽苑 書院 含翠門<br />表側にはむくりは見られません。<br />「含翠」とは文字通り翠(みどり)を含むという意味ですが、 茶室や書院を取り巻く風景を巡れば納得できます。<br /><br />有楽斎の来歴に利休の名が添えられるのは稀であり、むしろ紹鴎や村田珠光を慕っていたとされます。その証左として、晩年、紹鴎の子息が後見人指定を受けた姉婿で茶人の今井宗久から遺産横領に遭った折、救済の手を差し伸べています。また、珠光佐女牛井を修復したり、紹鴎の供養塔を正伝院内に建てたりしています。<br />こうした経緯から、利休よりも、利休の師匠だった紹鴎や珠光への思い入れが強かったものと思われます。そう考えると、利休を師と仰ぐ必要も無く、独自の「有楽流」を創設した流れが説明できます。

    有楽苑 書院 含翠門
    表側にはむくりは見られません。
    「含翠」とは文字通り翠(みどり)を含むという意味ですが、 茶室や書院を取り巻く風景を巡れば納得できます。

    有楽斎の来歴に利休の名が添えられるのは稀であり、むしろ紹鴎や村田珠光を慕っていたとされます。その証左として、晩年、紹鴎の子息が後見人指定を受けた姉婿で茶人の今井宗久から遺産横領に遭った折、救済の手を差し伸べています。また、珠光佐女牛井を修復したり、紹鴎の供養塔を正伝院内に建てたりしています。
    こうした経緯から、利休よりも、利休の師匠だった紹鴎や珠光への思い入れが強かったものと思われます。そう考えると、利休を師と仰ぐ必要も無く、独自の「有楽流」を創設した流れが説明できます。

  • 有楽苑 書院 含翠門<br />古色蒼然とした「含翠」の扁額と裏面のむくりのズームアップです。梁の表面には手斧で仕上げたような、芸術的な鱗模様が浮き出ています。<br /><br />利休の息子 少庵は有楽斎と気が合い、再三天満屋敷に招かれていたようですが、孫 宗旦は反りが合わなかったのか「有楽公茶湯面白からず」と評しています。<br />しかし有楽斎は、「自己の作意機転にてならひのなきを台子の極意とする」という利休の教えの良い所は積極的に取り込んでおり、天性の発想力を茶室に展開した造形の天才と言えます。如庵は最晩年の作であり、最も熟達した茶境を偲ばせる遺構と言えます。如庵が現存することで、有楽斎の茶は茶道史上に一層の輝きを放っています。

    有楽苑 書院 含翠門
    古色蒼然とした「含翠」の扁額と裏面のむくりのズームアップです。梁の表面には手斧で仕上げたような、芸術的な鱗模様が浮き出ています。

    利休の息子 少庵は有楽斎と気が合い、再三天満屋敷に招かれていたようですが、孫 宗旦は反りが合わなかったのか「有楽公茶湯面白からず」と評しています。
    しかし有楽斎は、「自己の作意機転にてならひのなきを台子の極意とする」という利休の教えの良い所は積極的に取り込んでおり、天性の発想力を茶室に展開した造形の天才と言えます。如庵は最晩年の作であり、最も熟達した茶境を偲ばせる遺構と言えます。如庵が現存することで、有楽斎の茶は茶道史上に一層の輝きを放っています。

  • 有楽苑 書院 含翠門<br />有楽斎は、織田家に仕え、信長の死後は秀吉に仕えました。信長に倣って茶の文化を好んだ秀吉から石高をもらい、秀吉のお伽衆を務めました。お伽衆とは、往時の大名の話相手や相談相手、読み書きの手伝いなどした教養人を言います。こうしたことから、文化に造詣が深い教養のある人物だったと窺えます。

    有楽苑 書院 含翠門
    有楽斎は、織田家に仕え、信長の死後は秀吉に仕えました。信長に倣って茶の文化を好んだ秀吉から石高をもらい、秀吉のお伽衆を務めました。お伽衆とは、往時の大名の話相手や相談相手、読み書きの手伝いなどした教養人を言います。こうしたことから、文化に造詣が深い教養のある人物だったと窺えます。

  • 有楽苑 徳源寺唐門<br />「織田有楽斎」誕生の秘話を紹介しましょう。<br />本能寺から奇跡の脱出を果たした織田源五長益は、甥 織田信雄に仕えました。しかし、天正18年に東海への移封を拒絶した信雄は豊臣秀吉の逆鱗に触れて改易され、長益も失領しました。<br />この時、世をすねたのか長益は「織田無楽斎」と名乗って出家しました。小田原征伐からの帰陣の途上、そんな無楽斎とばったり出会った秀吉はこう言いました。「源五殿。ワシのお伽衆として召抱えるゆえ、貴殿は今は楽有る人なり。無楽を止めて楽しく有る人になられよ」。<br />こうして「無楽斎」改め「有楽斎」に対し、摂津国嶋下郡味舌2000石を与えたといいます。

    有楽苑 徳源寺唐門
    「織田有楽斎」誕生の秘話を紹介しましょう。
    本能寺から奇跡の脱出を果たした織田源五長益は、甥 織田信雄に仕えました。しかし、天正18年に東海への移封を拒絶した信雄は豊臣秀吉の逆鱗に触れて改易され、長益も失領しました。
    この時、世をすねたのか長益は「織田無楽斎」と名乗って出家しました。小田原征伐からの帰陣の途上、そんな無楽斎とばったり出会った秀吉はこう言いました。「源五殿。ワシのお伽衆として召抱えるゆえ、貴殿は今は楽有る人なり。無楽を止めて楽しく有る人になられよ」。
    こうして「無楽斎」改め「有楽斎」に対し、摂津国嶋下郡味舌2000石を与えたといいます。

  • 有楽苑 徳源寺唐門<br />織田流煎茶道は有楽斎を茶祖とし、抹茶は「有楽流」、煎茶は「織田流」として現家元で16代を数えます。茶風は、武野紹鴎の「書院の茶」と千利休の「草庵の茶」の中道をいく「大名茶」を特徴としています。<br />織田流煎茶道は、その「大名茶」の流れを汲み、格調の高さと優美さを特徴としますが、抹茶の影響も多分に受けており、煎茶各流派の中でもユニークな位置付けです。<br />江戸時代から有楽の茶は「客をもてなす道理を本意となす」という明快な茶道観を持ち、織田流には3つの口伝が伝えられています。<br />「口伝」<br />一、相手に窮屈な思いをさせぬこと<br />一、相手に恥を掛かせないこと<br />一、相手に満足感を与えること<br />この口伝は、お茶の世界に留まらず、日常の作法やビジネスマナーとしても参考になる教えだと思います。

    有楽苑 徳源寺唐門
    織田流煎茶道は有楽斎を茶祖とし、抹茶は「有楽流」、煎茶は「織田流」として現家元で16代を数えます。茶風は、武野紹鴎の「書院の茶」と千利休の「草庵の茶」の中道をいく「大名茶」を特徴としています。
    織田流煎茶道は、その「大名茶」の流れを汲み、格調の高さと優美さを特徴としますが、抹茶の影響も多分に受けており、煎茶各流派の中でもユニークな位置付けです。
    江戸時代から有楽の茶は「客をもてなす道理を本意となす」という明快な茶道観を持ち、織田流には3つの口伝が伝えられています。
    「口伝」
    一、相手に窮屈な思いをさせぬこと
    一、相手に恥を掛かせないこと
    一、相手に満足感を与えること
    この口伝は、お茶の世界に留まらず、日常の作法やビジネスマナーとしても参考になる教えだと思います。

  • 有楽苑 観心寺旧蔵十三重層塔<br />枯山水庭園内にある、端整な形をした十三重層塔です。<br />

    有楽苑 観心寺旧蔵十三重層塔
    枯山水庭園内にある、端整な形をした十三重層塔です。

  • 有楽苑 弘庵エリア<br />弘庵へ誘う趣のある延段です。<br />苑内では如庵を中心に据え、旧正伝院書院と元庵を取り囲む日本庭園が造営されていますが、もう一つの茶室「弘庵」は小路を隔てて独立させています。

    有楽苑 弘庵エリア
    弘庵へ誘う趣のある延段です。
    苑内では如庵を中心に据え、旧正伝院書院と元庵を取り囲む日本庭園が造営されていますが、もう一つの茶室「弘庵」は小路を隔てて独立させています。

  • 有楽苑 弘庵エリア<br />延段の先は2手に分かれ、右側の飛び石へ進めば「嘯月台」へ行き着きます。<br />嘯月台は紅葉の真っ盛りです。

    有楽苑 弘庵エリア
    延段の先は2手に分かれ、右側の飛び石へ進めば「嘯月台」へ行き着きます。
    嘯月台は紅葉の真っ盛りです。

  • 有楽苑 弘庵エリア<br />左側へ折れると、鄙びた手水鉢を経て弘庵へ辿りつきます。

    有楽苑 弘庵エリア
    左側へ折れると、鄙びた手水鉢を経て弘庵へ辿りつきます。

  • 有楽苑 弘庵エリア 嘯月台<br />古図によると、有楽が隠棲した正伝院には如庵の露地の他に仏殿の前に大きな庭があり、この庭は池を中心に「貝多墳(ばいたふん)」と名付けられた石の層塔が立ち、付近には「無熱橋」という石橋が架かり、それに向かって唐破風を持つ「嘯月台」という建物があったようです。<br />京都一乗寺の詩仙堂には「嘯月楼」がありますが、正伝院にあった頃は月見をするための場所だったと思われます。ここ犬山の地では月とお城が一緒に愉しめる趣向となっています。<br />有楽苑では旧正伝院の庭を部分的に復元しており、「貝多墳」の代わりに観心寺旧蔵の「十三重層塔」を据え、「無熱橋」として「長方形の切石」を置き、月や庭を眺める石組の台を「嘯月台」と称しています。

    有楽苑 弘庵エリア 嘯月台
    古図によると、有楽が隠棲した正伝院には如庵の露地の他に仏殿の前に大きな庭があり、この庭は池を中心に「貝多墳(ばいたふん)」と名付けられた石の層塔が立ち、付近には「無熱橋」という石橋が架かり、それに向かって唐破風を持つ「嘯月台」という建物があったようです。
    京都一乗寺の詩仙堂には「嘯月楼」がありますが、正伝院にあった頃は月見をするための場所だったと思われます。ここ犬山の地では月とお城が一緒に愉しめる趣向となっています。
    有楽苑では旧正伝院の庭を部分的に復元しており、「貝多墳」の代わりに観心寺旧蔵の「十三重層塔」を据え、「無熱橋」として「長方形の切石」を置き、月や庭を眺める石組の台を「嘯月台」と称しています。

  • 有楽苑 弘庵エリア 嘯月台<br />切れ込みの深い細葉の枝垂れ楓が朱色に染まっています。<br />繊細な葉の重なりは、高貴な雰囲気を湛えています。<br />

    有楽苑 弘庵エリア 嘯月台
    切れ込みの深い細葉の枝垂れ楓が朱色に染まっています。
    繊細な葉の重なりは、高貴な雰囲気を湛えています。

  • 有楽苑 弘庵エリア 嘯月台<br />枝ぶりも見事です。<br /><br />

    有楽苑 弘庵エリア 嘯月台
    枝ぶりも見事です。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />蹲踞には水琴窟と呼ばれる仕掛けが施され、竹筒に耳をかざさずとも反響する水音が琴のように風雅な音色を奏でます。こうした水琴窟は江戸時代に屋敷の庭園に多く用いられたもので、武家屋敷にもよく残されています。<br /><br />茶人として芸術的な才能を発揮した織田有楽斎ですが、武将 織田源五長益としての前半生は記録に乏しく、その履歴は不祥です。歴史の表舞台に登場したのが、本能寺の変です。<br />「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて われは安土へ逃げるは源五…」と京童から揶揄されました。二条御所で明智光秀軍と戦う信忠に切腹を勧めておきながら、自分だけ脱出したことが評判を貶めました。

    有楽苑 弘庵エリア
    蹲踞には水琴窟と呼ばれる仕掛けが施され、竹筒に耳をかざさずとも反響する水音が琴のように風雅な音色を奏でます。こうした水琴窟は江戸時代に屋敷の庭園に多く用いられたもので、武家屋敷にもよく残されています。

    茶人として芸術的な才能を発揮した織田有楽斎ですが、武将 織田源五長益としての前半生は記録に乏しく、その履歴は不祥です。歴史の表舞台に登場したのが、本能寺の変です。
    「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて われは安土へ逃げるは源五…」と京童から揶揄されました。二条御所で明智光秀軍と戦う信忠に切腹を勧めておきながら、自分だけ脱出したことが評判を貶めました。

  • 有楽苑 弘庵<br />1986(昭和61)年に完成したまだ新しい茶室で、有楽苑内で四季折々に催される茶会のために建立された茶席です。<br /><br />その後、織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは秀吉と家康の講和を仲介し、滝川一益や佐々成政などの降伏にも関わりました。こうしたことから、織田のブランド力という「虎の衣」だけでなく、交渉事に長けた人物だったと思われます。<br />しかし、信雄が小田原征伐後に国替えを拒否して改易されると、長益は出家して有楽斎と号し、秀吉の御伽衆となりました。この頃から親族に当たる淀殿の補佐も務めるようになり、機転の利く人物だったことが窺えます。

    有楽苑 弘庵
    1986(昭和61)年に完成したまだ新しい茶室で、有楽苑内で四季折々に催される茶会のために建立された茶席です。

    その後、織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは秀吉と家康の講和を仲介し、滝川一益や佐々成政などの降伏にも関わりました。こうしたことから、織田のブランド力という「虎の衣」だけでなく、交渉事に長けた人物だったと思われます。
    しかし、信雄が小田原征伐後に国替えを拒否して改易されると、長益は出家して有楽斎と号し、秀吉の御伽衆となりました。この頃から親族に当たる淀殿の補佐も務めるようになり、機転の利く人物だったことが窺えます。

  • 有楽苑 弘庵 <br />弘庵を設計されたのは、2018年11月に亡くなられた茶室・数寄屋建築研究の第一人者だった中村昌生氏です。享年91歳でした。<br /><br />関ヶ原の合戦では東軍に属し、庶長子 長孝と共に総勢450兵を率いて参戦しました。長益は石田三成の重臣 蒲生頼郷を打ち取り、長孝は大谷吉継の与力の戸田勝成を槍で仕留めました。西軍の名将2名を打ち取った際、その手勢は800兵だったとされますので大活躍です。<br />その槍を家康に見せた際、その手元から落ちて家康が左手の指を怪我をしたそうです。これが、徳川家に祟りると伝わる伊勢桑名の妖刀「村正」でした。

    有楽苑 弘庵
    弘庵を設計されたのは、2018年11月に亡くなられた茶室・数寄屋建築研究の第一人者だった中村昌生氏です。享年91歳でした。

    関ヶ原の合戦では東軍に属し、庶長子 長孝と共に総勢450兵を率いて参戦しました。長益は石田三成の重臣 蒲生頼郷を打ち取り、長孝は大谷吉継の与力の戸田勝成を槍で仕留めました。西軍の名将2名を打ち取った際、その手勢は800兵だったとされますので大活躍です。
    その槍を家康に見せた際、その手元から落ちて家康が左手の指を怪我をしたそうです。これが、徳川家に祟りると伝わる伊勢桑名の妖刀「村正」でした。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />主室は15畳余あり、1間半の床に1間の地袋、付書院を備えています。また、寄付として8畳の広間があります。<br /><br />関ヶ原の合戦の戦功により奈良の柳本・戒重など3万2千石を領し、これを契機に豊臣家に仕えながらも徳川家と懇意になって行きました。各地の大名は徳川家を盟主として臣従しましたが、長益は信長の弟ということもあり家康から警戒されていたようです。

    有楽苑 弘庵エリア
    主室は15畳余あり、1間半の床に1間の地袋、付書院を備えています。また、寄付として8畳の広間があります。

    関ヶ原の合戦の戦功により奈良の柳本・戒重など3万2千石を領し、これを契機に豊臣家に仕えながらも徳川家と懇意になって行きました。各地の大名は徳川家を盟主として臣従しましたが、長益は信長の弟ということもあり家康から警戒されていたようです。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />露地には、控え目でバランスのいい枝振りのハクサンボクが植えられています。<br /><br />そんな時に勃発したのが大坂冬の陣です。長益は厳しい立場に追い込まれます。家康の意向や姪の淀殿とその息子の秀頼への親族としての立場で揺らぎます。冬の陣においては、長益は穏健派の筆頭として戦争回避のための和睦に尽力し、一時的には成功しました。しかし、その後の徳川方の執拗な策略で和睦は長続きしませんでした。

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    露地には、控え目でバランスのいい枝振りのハクサンボクが植えられています。

    そんな時に勃発したのが大坂冬の陣です。長益は厳しい立場に追い込まれます。家康の意向や姪の淀殿とその息子の秀頼への親族としての立場で揺らぎます。冬の陣においては、長益は穏健派の筆頭として戦争回避のための和睦に尽力し、一時的には成功しました。しかし、その後の徳川方の執拗な策略で和睦は長続きしませんでした。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />大坂夏の陣が迫る中、大坂城内では徳川家との徹底抗戦の声が支配的になり、穏健策を唱える長益は半ばスパイとして警戒されるようになりました。また、強硬派の先鋒である嫡子 頼長は問題児で、仮病で出陣しなかったり、自分を司令官にしろと迫ったりし、こうした頼長の奇行が長益の立場を更に悪くしました。肩身の狭さや自身の力が及ばず開戦の気運が高まったことから、長益は家康に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と大坂城を出ました。隠棲後は茶道三昧の日々を送り、権勢とは無縁だったようです。

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    大坂夏の陣が迫る中、大坂城内では徳川家との徹底抗戦の声が支配的になり、穏健策を唱える長益は半ばスパイとして警戒されるようになりました。また、強硬派の先鋒である嫡子 頼長は問題児で、仮病で出陣しなかったり、自分を司令官にしろと迫ったりし、こうした頼長の奇行が長益の立場を更に悪くしました。肩身の狭さや自身の力が及ばず開戦の気運が高まったことから、長益は家康に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と大坂城を出ました。隠棲後は茶道三昧の日々を送り、権勢とは無縁だったようです。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />長益は、秀頼が一大名として徳川幕府と共存共栄することを願っていたと思われますが、どんなに尽力してもそれがままならない世の中に絶望したのかもしれません。戦国時代ゆえ、そのような甘い考え方では、何時首を欠かれるか知れたものではない緊迫した世の中だったのです。それ故、天下を取った家康ですら、秀吉の痕跡を抹消するのに腐心したほどです。<br />武将の子に生まれた宿命として生涯戦いに明け暮れることを不条理に思った時、ふと傍らに目をやると千利休たちのような風流人が武士の世界とはかけ離れた趣味の世界に沈潜している…。こうして、柵のない茶人として平穏な余生を送る決意をしたのではないかと思います。

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    長益は、秀頼が一大名として徳川幕府と共存共栄することを願っていたと思われますが、どんなに尽力してもそれがままならない世の中に絶望したのかもしれません。戦国時代ゆえ、そのような甘い考え方では、何時首を欠かれるか知れたものではない緊迫した世の中だったのです。それ故、天下を取った家康ですら、秀吉の痕跡を抹消するのに腐心したほどです。
    武将の子に生まれた宿命として生涯戦いに明け暮れることを不条理に思った時、ふと傍らに目をやると千利休たちのような風流人が武士の世界とはかけ離れた趣味の世界に沈潜している…。こうして、柵のない茶人として平穏な余生を送る決意をしたのではないかと思います。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />こうした長益の生き様は、同じ時代を生きた上田宗箇(重安)の生涯と重なるものを感じます。宗箇は、名古屋城二之丸 北御庭を作庭した人物です。彼は、秀吉に仕えた時代から一番槍の勇猛な武将として知られ、大坂夏の陣では塙団右衛門を倒す功名を挙げましたが、晩年に千利休の高弟 古田織部と親交を深めて作庭にトラバーユした異色の庭師です。また、上田宗箇流の流祖として茶心もあります。<br />戦国時代に命懸けで戦い、その挙句、敵対していた人物にも仕えなければならなかった武将の不条理がトラバーユの源泉と思われます。「生は束の間」という戦国武将の無常観から茶の道に沈潜しました。<br />秀吉に仕えていた2人の接点は歴史書にはありませんが、産まれの遅い宗箇が有楽斎の生き様に感化されたのかもしれません。

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    こうした長益の生き様は、同じ時代を生きた上田宗箇(重安)の生涯と重なるものを感じます。宗箇は、名古屋城二之丸 北御庭を作庭した人物です。彼は、秀吉に仕えた時代から一番槍の勇猛な武将として知られ、大坂夏の陣では塙団右衛門を倒す功名を挙げましたが、晩年に千利休の高弟 古田織部と親交を深めて作庭にトラバーユした異色の庭師です。また、上田宗箇流の流祖として茶心もあります。
    戦国時代に命懸けで戦い、その挙句、敵対していた人物にも仕えなければならなかった武将の不条理がトラバーユの源泉と思われます。「生は束の間」という戦国武将の無常観から茶の道に沈潜しました。
    秀吉に仕えていた2人の接点は歴史書にはありませんが、産まれの遅い宗箇が有楽斎の生き様に感化されたのかもしれません。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />こうした石燈籠や門、石碑などは、如庵を移築する際、三井家が所有していたコレクションを名古屋鉄道が合わせて購入したものであり、いずれも歴史的に貴重な遺品ばかりです。<br /><br />息抜きに「村正妖刀伝説」を紹介いたします。<br />初代「村正」は室町時代中期の伊勢桑名千子村の刀匠と伝わります。<br />最初の犠牲者は、家康の祖父 松平清康でした。清康は勘違により家臣に斬殺されましたが、その時の刀が村正でした。<br />2度目は家康の父 広忠。やはり家臣に太股を刺されました。命に別状はなかったものの、調べるとこれも村正でした。<br />3度目は家康の長男 信康。信長の命令で切腹した折、介錯をした刀が村正でした。<br />4度目には家康に祟りました。関ヶ原の合戦後、織田長益の庶長子 長孝の槍を家康が検分していた際、誤って取り落とした槍の穂先が家康の左手の指を傷付けました。この時、家康は顔色を変え、「これは村正ではないのか?」と尋ねたところ、長孝が「いかにも、村正でございます」と答えると、家康は「村正はわしの家に祟る」と言ったと伝わります。

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    こうした石燈籠や門、石碑などは、如庵を移築する際、三井家が所有していたコレクションを名古屋鉄道が合わせて購入したものであり、いずれも歴史的に貴重な遺品ばかりです。

    息抜きに「村正妖刀伝説」を紹介いたします。
    初代「村正」は室町時代中期の伊勢桑名千子村の刀匠と伝わります。
    最初の犠牲者は、家康の祖父 松平清康でした。清康は勘違により家臣に斬殺されましたが、その時の刀が村正でした。
    2度目は家康の父 広忠。やはり家臣に太股を刺されました。命に別状はなかったものの、調べるとこれも村正でした。
    3度目は家康の長男 信康。信長の命令で切腹した折、介錯をした刀が村正でした。
    4度目には家康に祟りました。関ヶ原の合戦後、織田長益の庶長子 長孝の槍を家康が検分していた際、誤って取り落とした槍の穂先が家康の左手の指を傷付けました。この時、家康は顔色を変え、「これは村正ではないのか?」と尋ねたところ、長孝が「いかにも、村正でございます」と答えると、家康は「村正はわしの家に祟る」と言ったと伝わります。

  • 有楽苑 弘庵エリア <br />弘庵の背後に佇む白壁の築地塀も雰囲気を醸す小道具です。<br /><br />徳川家の家臣や大名は、名刀「村正」を所持する場合は忖度して「村」の銘を消したそうです。<br />一説には、「村正」を所持すること自体が謀反を表わし、徳川に敵対するものは自ら進んで「村正」を所持したと言われ、大坂の陣では真田信繁が「村正」を投げ付けたとも、幕府転覆計画を企てた由井正雪も「村正」を使用していたとも伝わります。

    有楽苑 弘庵エリア
    弘庵の背後に佇む白壁の築地塀も雰囲気を醸す小道具です。

    徳川家の家臣や大名は、名刀「村正」を所持する場合は忖度して「村」の銘を消したそうです。
    一説には、「村正」を所持すること自体が謀反を表わし、徳川に敵対するものは自ら進んで「村正」を所持したと言われ、大坂の陣では真田信繁が「村正」を投げ付けたとも、幕府転覆計画を企てた由井正雪も「村正」を使用していたとも伝わります。

  • 有楽苑 書院エリア 萱門(かやもん)<br />竹林の向うに透けて見えるのは、如庵が併設された旧正伝院書院エリアへの入口となる萱門です。<br /><br />この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥③有楽苑(後編)でお届けいたします。

    有楽苑 書院エリア 萱門(かやもん)
    竹林の向うに透けて見えるのは、如庵が併設された旧正伝院書院エリアへの入口となる萱門です。

    この続きは、秋思秋愁 尾張犬山逍遥③有楽苑(後編)でお届けいたします。

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