2018/10/13 - 2018/10/31
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Weiwojingさん
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初めて中央アジアへ出掛けてみた。中央アジアと言っても、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタン(通常、キルギスと呼称している)、トルメ二スタン、タジキスタンの5か国があるが、今回はキルギスタンとウズベキスタンを訪ねた。
もともとシルクロードを連想させる中央アジアの国々には漠然としたロマンや興味を持っていたが、こんなにも早く実現するとは思ってもみなかった。これまで中国の新疆ウイグル自治区には10年程前に行ったことはあり、シルクロードの中国側を訪ねたことになる。しかし、かってのソ連邦の国々であったこれらの5か国は全く未知のところであった。
これまでこれらの国々の情報を得ることは難しかったが、数年前からキルギス出身の留学生と知り合うようになり、彼らから色々な情報を得ることが出来た。何とか準備が出来たので、今年中に思いきってキルギスとウズベキスタンへ行くことにした。早めに航空券に入手できたが、キルギスへは直行便がないために行きはモスクワ経由、帰りはドバイ経由となった。
先ずは、キルギス篇を見ていただきたい。キルギス旅行のメインの目的の一つは、第二次世界大戦後ソ連に抑留された日本人部隊がこの国に連れてこられて労働に駆り出され、苦役を強いられた足跡を辿りたいと思ったからである。
そのきっかけは10年以上も前になるが、朝日新聞東京版にキルギスで終戦後ソ連に抑留された日本人兵士が建築や土木作業に駆り出されて大変な目に遭いながらも一人も死者を出さずに数年後に全員帰国したという内容の記事を読んだことがあった。その60年後に元抑留者の一人が現地を訪ね、かつて世話になったり、助けてくれた人々に会いたいと願ったが、その頃の生存者はごくわずかで、子や孫の時代になっていた。直接の関係者はほとんどいなかったが、多くの人々は祖父母や両親から聞いていてよく知っていた。お世話になったお礼に記念館を作ろうということで、彼は尽力され、見事に完成にこぎつけた。
今回の旅行でその記念館や関係施設を訪ね、当時の様子を記録した写真や資料を見ることが出来、それらを初めて目にして大いに興味を覚えた。詳しくは本篇内で見ていただきたい。
もちろんキルギス旅行ではこれ以外にも様々な地を訪ねたので、こちらのことも書き記した。世界遺産に登録されている遺跡や自然の美しさも大いに体験出来た。
- 旅行の満足度
- 5.0
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先ずは成田第1ターミナルからアイロフロート・ロシア航空263便でモスクワへ飛んだ。ここで5時間弱の待ち合わせがあり、再び同じアイロフロート1882便でキルギスの首都ビシュケクへ向った。
ここはモスクワ空港Dターミナルで、到着したのはまだ明るい時間帯であったが、出発する頃にはもうすっかり暗くなっていた。 -
モスクワ空港はかなり大きい。今回はDターミナルの利用で、待ち時間が5時間程あったが、勝手知った所ではないので、待合室でしばし待っことにした。
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空港内にはあちこちに自動販売機が置かれている。売られているものは日本とあまり変わらないが、こちらでは現金と共にカードも利用出来るようで、多くの人がカードで支払いをしていた。
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5時間近くの乗り換え時間があり、待っのはそんなに苦痛でないが、多少お腹がすいてきた。そこで何かを食べたいと思い、カフェに入った。ロシアと言えば、真っ先にボルシチが頭に浮かび、注文してみた。
ロシアのお金のルーブルの持ち合わせはなかったので、ドルで支払った。支払い額は9.5ドルであったが、おつりをくれなかったので、要求するとルーブルで渡された。 -
モスクワからビシュケクのマナス空港に到着し、迎えに来てくれたガイドと共にすぐビシュケク市内のホテルへ直行した。ここが予約していたシャーパレスホテル (Shah Palace Hotel )で、合計3泊した。 ただ最初は次の日から地方へ出かけるためにまずは1泊しただけである。後で2泊した。
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ホテルの部屋はこのような感じで、シングルルームである。簡素であるが、必要なものは一応揃っていた。
ホテルには朝8時に着いたので前もってアーリーチェックインで予約を入れておいた。しばらく休憩した後、ガイドの出迎えを受け、ビシュケク市内を見て回った。 -
最初に訪れたのは、オペラバレエ劇場で、終戦後日本人抑留者が建築の一部に携わったと言われているが、ガイドの話だとそれはよくわからないそうだ。隣国ウズベキスタンのタシケントにナボイ・オペラ・バレエ劇場があり、ここは実際に日本人抑留者が建設に携わったこが明らかで、この地に大きな功績を残している。
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この時期は何も公演予定がないようで、静かで、ひっそりしていた。
日本人抑留者が建設の一部であってもそれに携わり、このような立派な劇場を作ったということは、今ここで日本人として大いに誇りを感じ、70年以上も前の彼らの大業を身をもって感じることが出来た。こうした事実はやがて歴史に闇に消えてしまい、誰の記憶にも残らなくなってしまうかもしれない。 -
壁面にこのような浮き彫りとキルギス語 (それともロシア語)による説明がある。
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内部を見たいと思ったが、入り口の所だけしか入れず、劇場内部は見ることが出来なかった。
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次に、訪れたところは 「アラ・トー広場」で、広場の中央にマナス王像が立ち、背後に国立歴史博物館がある。ここはいわばキルギス共和国・ビシュケクの中核地である。
この国立歴史博物館を見学したいと思ったが、残念ながら現在改修中ということで見学できなかった。 -
馬に跨り、剣を手にした「マナス王像」の姿は勇ましく、キルギス人が1000年も前から語り継いできた英雄叙事詩のヒーローである。その像はキルギスのシンボルである。
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ロシア正教会(Saint Voskresenk Cathedral) を見学した。キルギスはイスラム国であるが、長年ロシアの支配下にあったために各地にロシア正教会の教会がある。宗教以外にもロシアの影響は随所に感じられる。
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教会の内部に入った。ガイドはイスラム教徒というので、中に入らず外で待っていた。
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ロシア系の人々の姿が多いようである。ロシア正教会と言えば、日本では東京お茶の水にある「ニコライ堂」がよく知られているが、東欧や中央アジアの国々ではキリスト教の占める割合はほとんどがロシア正教会である。他にはカトリック教会の姿を見かけることもある。
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ここはキルギス総合大学の本館ともいうべき建物で、なかなか堂々としている。宿泊していたホテルの近くにあったのでこの前を何度も行き来した。
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本館前に建つ銅像は誰なのか分からないが、恐らくこの大学の創設に関わった人物ではないだろうか。
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ガイドが日本車の進出を示す一例だと、あるトヨタのショ―ルームへ案内してくれた。本当に大きな規模で、地元の金持ちたが次々と訪れていた。日本人スタッフはいなかったが、現地スタッフが何人が働いていて、中にはガイドの知人もいた。しばらくお茶をご馳走になりながら、話を聞いた。
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キルギスは意外にも日本とのつながりは深い。日本側から見ると、この国のことは正直あまり知られていない。しかし、数年前に安倍首相夫妻が訪問するなど、友好的な国の一つのようである。その一例を示す「日本センター」を訪ねた。
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入口に「キルギス日本センター」の設立を示す記念碑がある。
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内部を案内していただいた。ビルの2階フロアを全部使った施設で、かなり広い。
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ふと見ると、「明恵文庫寄贈本」と書かれたプレートがあった。スタッフの人に聞くと、これは安倍首相夫人の明恵氏が寄贈された日本語教材とのことであった。
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日本でキルギスの作家が日本語に翻訳されている小説があるとは全然知らなかったが、かなり多く翻訳されているようである。作家は チンギス・アイトマートフ(1929~2008)という名前で、この国では国民的作家であるそうだ。センターには4冊の日本語翻訳が置かれている。
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日本文化センターというだけあって、日本に関する書籍・雑誌はもちろんのこと留学資料、映像資料などかなり揃っているが、ただ最新のものが少ないような気がした。
日本語を学ぶ人たちの姿を多く見かけたが、皆熱心に本を読んだり、職員と話をしていた。ここから多くの方々が育っていくことを希望したい。 -
二日目は首都ビシュケクを離れて、地方への旅行に出かけた。今回の旅行はキルギスでソ連によつてキルギスに抑留された日本人兵士たちの足跡を辿ることであるが、6日間の予定で各地を訪ねる旅を現地の旅行者に組んでもらった。ガイドと運転手をお願いした。
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小さな橋を通ったが、車を止めてガイドがこの橋は2010年日本の援助できたと教えてくれた。
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この橋が日本の援助で造られたことを示す記念碑があるのを教えてもらったが、書かれている文字がキルギス語なので皆目分からない。
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遠方に白い頂を抱いた山々が見える。この時期キルギスは初冬を思わせる気候で、どんよりした空模様であった。
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この施設は「ハワイ」という名前であるが、この時期ほとんど観光客の姿は見えず、施設も機能していない。最初ここにあるバーベキュー場で昼食をとガイドが考えていたようだが、別なところへ移動した。
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ガイドのエレック氏が戯れに牛と押し比べをしている。
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白鳥が何羽も泳いでいる。我々が池の側に立っていると、近くにまで寄って来た。
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ビシュケクから3時間くらい移動してきたが、だんだん高地に上ってきたようで、このような風景があたり一面に広がってきた。
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ビシュケクからバルチクを結ぶ鉄道が走っているが、この鉄道建設に日本人抑留者が駆り出されたそうだ。日本人以外にもドイツ人も加っていたが、数十キロに及ぶ鉄道を全部彼らが完成させたというわけではなく、その一部を担ったようである。
この鉄道は夏季の7月と8月のみ運行していて、所要時間は5時間程だそうである。何時は乗ってみたいと思う。 -
線路付近のあちこちに綿のようなものが見られるが、ガイドに聞くと、野生の綿である。60年前も同じように咲いていたのではないだろうか。風に吹かれて舞っていた。時は変わってもこのような現風景は変わらないだろう。
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途中でラクダが移動している隊列に遭遇した。実物はこれまでに何度も見たことはあるが、このようなシルクロードの原点で見かけたのにはいささか感動した。
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かなり立派なガソリンスタンドがあった。ここでトイレ休憩ということで、しばらく休憩した。昔のシルクロード時代なら、隊商宿やキャラバンサライがあったところなのだろうが、今ではこのようなところが拠点になっているのが興味深い。
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やがて大きな湖のあるところに出た。ここはイシク・クル湖という世界第二の透明度を持つ湖である。ソ連時代には外国人は立ち入り禁止の場所で、長いこと知られざる湖であった。
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湖から少し離れた丘の上にこの日宿泊する予定の「ベルタム・ユルタ・キャンプ」がり、キルギス伝統のユンタ (モンゴルではパオという名前で知られている)がいくつも並んでいる。
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大きなユンタが建っている。これらはみんな組み立て式の、移動可能のパオである。
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ここが小生の泊まったユンタである。
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中に入ると、かなり広さがあり、中央天井部分に明り取りがある。
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天井の明り取り部分の交互に組み合わされた装飾はキルギスの国旗のデザインと同じである。
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ベッドが5台置かれているので、5人部屋ということか。しかし、小生以外に宿泊者はいなかった。シャワーとトイレは外にあり、少々不便であった。
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壁には大きな遊び道具がつり下げられている。どんな風に使うのかはわからない。
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敷地内にはコスモスが寂しげに咲いていた。ここでは日本の11月末を思わせる天気であったが、この時期まで咲いている花々はあまりなかった。
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このキャンプ場で働いている若い女性は英語は分からないが、カメラを向けると、写真に納まってくれた。笑顔がかわいい。
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このキャンプ場の経営者で、なかなかしっかり女性のようである。英語は話せない。
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キャンプ場には大きなブランコがあり、宿泊者たちがブランコで遊んでいる。
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夜になると、食事の後キルギスの民族音楽を紹介していただいた。宿泊客は10人ほどいただろうか。小生を含めてそのうち5人が日本人であった。このようなところで日本人の方々に会うとは驚いた。
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この二人がキルギス民族音楽を演奏してくれた。もちろんお金を支払って来てもらった。
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翌日、赤い岩がごつごつ聳えるキルギスの「グランドキャニオン」と言われるスカスカへ立ち寄った。スカスカというのはロシア語で、「おとぎ話」という意味である。
昨日キャンプ地でお会いした2人づれの日本人女性の一人とガイドが岩の上の方へ歩いているのが見える。小生はそこまでとても行くことは出来ないので、途中で断念した。 -
切り立った岩山の上に立つキルギス人ドライバー。彼の得意のポーズか?
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赤茶けた奇岩が広がり、これまで見てきた緑に覆われたキルギスの風景とは全く異なる。
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広大な大地を一気に駆け抜けた。対向車も人の姿もなく、どのくらいの速度で走ったのは分からないが、数時間ただ走りに走った。
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さらに移動を続けた。
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移動中丘の上にソ連時代の戦闘機が置かれている。そう言えば、キルギスではあちこちにソ連時代の遺物のような銅像や記念碑などをよく見る機会があった。
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タムガ村にやって来た。ここには大二次世界大戦後、終戦にもかかわらず、シベリアに送られた日本人抑留者120人余りがここ村に連れてこられた。強制労働に駆り出すためであった。
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この村は寒村とも言えそうなところで、家も商店も少なく、寂しそうな村である。時折歩いている人の姿をわずかに見かける位である。
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そんな小さい村にゲストハウスを示す看板があった。我々が泊まる予定のゲストハウスとは違うところである。
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小さくてかわいらしい家がいくつもあった。
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こちらもきれいに造られていて、特に道路に面したフェンスの飾りの意匠がよい。
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突然道路一杯にたくさんの牛が現れた。放牧地から戻って来たのだろう。
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群れの最後に馬に跨った牛飼いがやって来た。自分の家に連れて帰るのだろうか。ガイドの話によると、自分の家に連れて帰るのではなく、依頼されて村の外の放牧地に連れて行き、夕方になると依頼主の所に戻ところだと説明してくれた。
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村の中には小さな雑貨店(ミニスーパー)が何軒かあり、中を見させてもらうと、必要な日常品は揃っているようだ。表の看板がいかにも派手で、中の様子とは正に対照的であった。
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ソ連時代の列車を利用したバラック風の建物があった。中はちょっとして商店になっている。
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村の通りで所在なげに屯している3人の男性がいた。あくびをしたり、くたびれているような様子で、もしかしたらお酒をたくさん飲んだ後なのかもしれない。
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ゲストハウスから歩いて数分のところにある目的のサナトリウムへ向かった。ここには125名のシベリア抑留者達が連れてこられて、建設や作業に従事させられた場所である。
園内は相当広く、大きな公園のようである。たくさんのシラカバや北海道で見かけるようなポプラの木々が生い茂っている。 -
この時期たくさんの木々が紅葉し、大変美しい。
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黄色く色づいた木も多い。
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いろいろな建物や病院などがあり、探している施設がどこにあるか分からなかったが、ガイドが人に聞いたり、案内図を見たりしながら歩いた。この建物は総合受付のようなところで、園内にはホテル (夏季のみ)もあり、その受付があるようである。
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やっと資料室のある建物に辿り着いた。
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資料室の入口。管理人の女性がカギを開けてくれた。
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資料室の内部。そんなには大きくないが、日本人抑留者に関するものとソ連時代のこのサナトリュウムのことが紹介されている。
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宇宙飛行士であったガガーリンがこのサナトリュウムに滞在していた時の写真が紹介されている。
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この方が療養所の建設ためにソ連軍によってシベリアからタムガ村に連れてこられた125人の一人で、日本に帰国した後、2008年に60 年振りにこの村を訪れた。名前は宮野泰(みやの・やすし)さんといい、新潟出身であった。
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兵隊仲間と撮った写真があるが、左側が宮野さんである。
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宮野氏 (左側)は日本に帰国後、大学に入った。
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大学を出てから、教師をされた。
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宮野氏に関する記録が展示されているが、ロシア語のために理解できなかった。ガイドが日本語に訳してくれたので、宮野氏がたどった歩みや真情をよく理解できた。聴いていて、彼の辛苦を思ううと自然に涙が出てきた。
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60年振りにタンガ村を訪れた宮野さん(右側)。彼は2回この村を訪ねている。
* 後日入手した宮野 泰氏の『タムガ村の600日』(新潟日報事業社刊、2008年発行)で、氏の2年間の抑留生活とその後60年ぶりに訪ねた時の詳しい記録を読むことが出来る。 -
ある大学で講演をされた時の宮野氏(正面左側の黒い背広姿の人物)。
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時折日本人のグループが訪れるようである。
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日本から訪れた方々がプレゼントされたものがいろいろ展示されている。
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日本人抑留者たちがサナトリュウムから湖につながる通路や階段を建設した。これは展示されている写真であるが、実際にこの後案内していただいた。
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資料室のある建物を出て、抑留者たちが労働に駆り出されて場所を見て回った。まず、療養所からイシク・クル湖へつながる道や階段(写真右側の道)へ案内された。
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もう一つはこの建物で、ここが終戦直後日本人抑留者たちが建てた療養所であった。この地は元々サナトリウムで、こうした施設が必要であったのだろう。
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周りをしばらく歩いて見た。周りには桜の木が何本が植えられているが、どれもまだ大きくなっていない。
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決して大きな建物ではないが、しっかりとした造りで、昔のままだそうだ。
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ゲストハウス(タマラゲストハウス)に戻ってきた。宿泊する部屋は簡素ながら清潔で、光が差し、明るい雰囲気で気持ちよかった。
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翌朝目を覚まして外を見ると、辺り一面真っ白な雪に覆われているのに気が付いた。まだ10月後半だと言うのに、もう雪が降るり始めるとは驚いた。
洗面所の水道が止まっていた。宿の皆さんがどこからか水を調達して、洗面所までバケツ2杯分も運んでくれた。 -
ゲストハウスの庭にはたくさんのリンゴと西洋ナシの木が植えられているが、昨日見た時はどちらもたくさん実を付けていたのに、もう雪で覆われ、全然見えない。
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雪のために水道が止まってしまったにもかかわらず、心尽くしの朝食を用意していただいた。
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タマラさんは庭で収穫した果物をジャムにして常に使えるように保存している。これは彼女の自慢の品々のようであった。
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宿泊したゲストハウスのオーナーのタマラ夫人で、彼女はこの村での日本人抑留者たちのことをよく知っていて、今回ここに泊まったのは彼女から話を聞くためであった。
年齢は現在67・8歳位で、もちろん直接抑留日本人に接したわけではない。彼女の祖父母や両親、村の人達から聞いたことである。今では彼女から話を聞こうと、多くの日本人が訪ねてきている。彼女は語り部のような存在である。 -
タマラ夫人は英語が堪能で、このような村では珍しい存在であるが、昔アメリカ関係の施設で長年働いていたことがあったからだそうだ。
彼女はキルギス語で話しをしてくれた。それをガイドのエレメック氏が日本に訳した。彼女の話は感動的であった。時折目に涙を見せながら話す姿は、小生にも涙失くして聞くことは出来なかった。 -
彼女は日本から贈られた新聞を4種類見せてくれた。これは朝日新聞東京版であるが、小生はこの記事を読んだ覚えがある。そのためにキリギスでの抑留者のことを知ったのであったから。
キルギスの地でこうした日本の新聞を見るとは正に驚きである。何らかの形で日本とつながっているのを感じた。 -
こちらは毎日新聞東京版である。他には読売新聞と東京新聞を見せてくれた。
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さらに一枚の写真を見せてくれた。宮野泰さんが60年振りにタムガ村を訪れた時の村人との交歓の様子である。左から2人目の眼鏡をかけた人物が宮野氏である。
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貴重な話を聞くことが出来たタムガ村を後にして、次の訪問地カラ・コルへ向かった。
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今回の旅行のガイド (右側) とドライバー (左側)。ガイドは42歳そしてドライバーは35歳で、2人とも大変真面目で、なかなか気が付くキルギス人たちである。
キルギスの旅はまだ続く。しばらくお付き合いください。 -
帰国後このような本があることを知り、購入し、読んでみた。関心のある方は、アマゾンで探してみてください。小生もアマゾンで見つけた。
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この旅行記へのコメント (5)
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- 哈桑湖さん 2019/01/02 11:23:49
- 私のときのガイドさんも、この方でした。
- Tamegaiさま
私のときのガイドさんも、この方でした。
この方は帯広畜産にもいたことがあり、日本語はペラペラでした。
キルギスにも抑留日本人が、建設労働に従事していたんですね。
昨夏訪れた、カザフスタンのバルハシ市の冶金文化宮殿も日本人捕虜が作ったようです。あと大アルマトィ湖への道も抑留日本人が労働に駆り出されたようです。
タシケントのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の内部、素晴らしいですね。一度実物を見てみたいです。
中央アジアでは中国人は、あまり好かれていなくて、ホテルのフロントで、初めは「ニイハオ」と不機嫌に声をかけられますが、露語で「私は日本からきました」と言うと、態度を変えてニコッとします。対日感情がとてもいいです。
中央アジアで抑留された日本人たちの勤勉さが、今でも語り継がれてることもあるようですね。
- Weiwojingさん からの返信 2019/01/02 11:53:33
- Re: 私のときのガイドさんも、この方でした。
- 哈桑湖様
謹賀新年。キルギス旅行記を見ていただき、またご投票もいただき、ありがとうございます。キルギスで旅行ガイドをしていただいたエレメックさんとはご存知でしたか。同じくガイドをしていただいたのですね。いつのことでしたか。
彼はとても日本語が上手で感心しました。北海道の帯広畜産で勉強されたと私も聞いています。2020年のオリンピックには通訳として東京に来るそうです。再会したいと考えています。
タシケントのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場は日本人抑留者が建設に携わりましたが、オペラの公演を見た際に内部を見て回りました。素晴らしい造りです。
確かにウズベキスタンでは日本人は好感をもって見られていますね。あちこちで声を掛けられました。それも日本語で。また行きたいと思っています。
これからも見ていただけると嬉しいです。私も見させていただきます。これを機会にフォ―ロ―させていただきます。
ありがとうございます。
Tamegai
- 哈桑湖さん からの返信 2019/01/02 15:53:12
- RE: Re: 私のときのガイドさんも、この方でした。
- Tamegaiさま
2015年です。
初めてイシククル湖を見たのですが、そのときのガイドさんです。
いつかキルギスのソンキョル湖に行こうと思いますが、可能ならガイドさんはエレメックさんに頼みたいと思っています。
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- 旅遊de美食散歩さん 2018/11/04 17:34:18
- ウズベキスタンが楽しみ!
- 大変興味深く旅行記を拝見させていただきました。語り部のおばさんのお話、私もきいてみたいです。
実は今とてもウズベキスタンに興味があり、行ってみたい国のうちの一つなので、ウズベキスタン編旅行記、楽しみにしています!!
- Weiwojingさん からの返信 2018/11/04 22:01:58
- Re: ウズベキスタンが楽しみ!
- 旅遊de道楽様
メッセージをありがとうございます。キルギスは地味で、観光材料は少ないですが、なかなか興味のある国です。
日本との関わりはそう多くありませんが、第2次世界大戦後の日本人抑留者の歴史をある時偶然知り、興味を覚えてきました。そのため今回キルギスを訪ねてみました。
ウズベキスタンは初めて旅行をして大変興味を覚えました。旅遊de道楽様はどのようなところに興味をお持ちですか。まだなかなかウズベキスタン旅行記まで進みませんが、期待してお待ちください。
ありがとうございました。
Tamegai
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