2018/08/22 - 2018/08/23
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yjkim7さん
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<金永集 地域未來研究院 院長の日本 九州 探訪>
③「地方自治と平和を探して長崎、下関に行く」
原爆の都市 長崎...平和の都市に変貌
長崎ちゃんぽんと国際文化観光都市としても有名
朝鮮の労働者の島に閉じ込められて強制労働の歴史
下関市民活動センターのまちづくり '注目'
「来年5・18記念式にUN代表招待推進したら... "
南道日報は、地方分権の時代、地域の発展の方法を見つけるためにギムヨウンジプ地域の未来研究院長の九州地方紀行を3回連載している。 1回は「地域の発展モデルを探して福岡、武雄、由布院に行く」、2回は「自動車産業活性化のため北九州自動車工業都市に行く」、3回は「地方自治と平和を探して長崎、下関に行く」などである。
過去二回の紀行記を複数の人が関心を持って読んでくれて、助けになったと言う。二回の紀行記を日本の訪問都市に翻訳してお渡し君は、市の関係者から感謝のメッセージを受けたことも楽しいことだった。
先日、光州広域市長に釜山市が自治体レベルでの海外外交を強化している事例を挙げながら、光州広域市が、中国の深セン市と西安市、ロシアウラジオストック、日本の九州市、ベトナムのハノイ市などの主要都市との交流を結ぶことを希望するという件のメッセージを送信したことがある。グローバル時代に自治体の海外交流は新しい力の源泉であり、能力だからだ。南北の門が開かれるようになれば、自治体の南北交流活性化はまた、最大の課題である。このような仕事をする私たち自治体の専門家の確保やシステムの構築が必要である。
このようなことを非常によくやっている都市が九州地方で長崎ましょう。日本の辺境長崎が国際的な交流をよくする?そうだ。長崎は今、平和のための国際的なネットワークで中心をなす平和都市だ。今長崎では見る番だ。
博多から急いで長崎に向かうJRの列車に乗った。 2時間ほどかかって長崎駅に到着して観光通り近くの宿泊施設に泊まった。すごく疲れていた近くにあるチャイナタウンは、ドアを閉じる前に一度見て回るに行った訪問者が多くない平日なのでそうなのか、午後8時頃だったのに、ほとんどのドアを閉めた。
韓国で長崎がおなじみのことの一つは、長崎ちゃんぽんからである。長崎ちゃんぽんは1899年に中国から渡ってきた陳平順という人が開発した料理で濃いスープに肉、魚介類、野菜などをたっぷり入れてコシ麺技術が結合した中日合作料理とすることができる。
夜の散歩を兼ねて日本の鎖国時代、200年の間に唯一の西洋との交流を可能にした出島をした車輪回り長崎が、日本では港湾都市であり、国際的な関門の役割をしたユニークな都市であることを感じた。出島は、西洋のキリスト教布教を防ぐ目的で、市内に散在して住んでいたポルトガル人を一ヶ所に集め作っ隔離させた人工島であった。
文明というのは本当に妙なものである。鎖国をしており、カトリック弾圧に殉地なったりしたが、長崎は貿易港として西洋文物を受け入れる都市となり、繁栄した。これにより、水産業のほか、造船、製鋼、電気、機械工業が発達した。三菱重工業は、今日まで維持されている。そして長崎は、国際文化観光都市に指定されたので、いくら閉鎖するとしても文明の波を防ぐことはできないだろう。
そして長崎工業の発達は、最終的に最も近い朝鮮植民地の労働者を強制的に徴用して強制労働をさせた都市、特に最近上映された「軍艦島」という映画のように朝鮮人労働者が島に閉じ込められて強制労働と凄惨な死んだ悪い汚名の歴史を残した長崎に残っていることもある。残念ながら三菱重工業は強制徴用朝鮮人被害者賠償をまだしていないまま、裁判中である。
翌朝早く起きて、長崎市内を運行する路面電車に乗って、平和公園を訪問した。事実長崎に来た目的は、まさにこの平和公園と原爆資料館を訪問するためだった。
平和公園内にある原爆殉教者奉安比追悼の黙祷をする時々訪ねてきた訪問客の参拝もつながる。彫刻家北村セイボが1955年に製作した壮大な平和記念像は、右手は原爆の恐ろしさを、左手は平和を願う姿を祈願する形状に建てられていた。
特に公園で私の目は、ひもは公園の隣の小さな平和の川壁面に展示された小・中・高の生徒の平和を願う大型映像だった。平和公園は原爆被爆廃墟かであり、その河川は当時、原爆で死んだ多くの死体でいっぱい満たされた河川で、そこに平和を念願する図を描いたところであった。
原爆で倒壊した浦上教会を過ぎ階段を上って長崎原爆資料館を観覧した。 1945年8月9日11時02分長崎に投下された原爆とその被害の露出したすべてのものが写真と遺物と解説で展示された。そして原爆の被害実態と被害者、以降の処理プロセスは、現在、世界の核危機の要因は、将来に対して総合的に示す資料館であった。
その平和公園を訪問して帰ってきて、私は「平和」というタイトルの詩を残した。
「これは地獄だった」/長崎原爆一歩で/ 7万4千人が死亡し/ 7万5千人が負傷した/一度に/ 15万人の市民が罪があるのか/神もどうしようない/大聖堂の首離れマリア/彼ら死にけが理由は何か(中略)キノコ再雲/廃墟に覆われた都市/死体でいっぱいの距離と河川/そしてまた、放射線嵐熱被害に/生涯の痛みを背負った被爆者/あっという間に消え世界/人が持っている物質も精神も/すべてを奪ってしまった災害/再びあっする世界が/今再び続いている(中略)
資料館は、被爆50周年記念事業の一環として、96年4月に設立され、長崎市民はもちろん、世界中の人の訪問者が訪れている必須コースとなった。
長崎市は、これらの悲劇的な歴史の中で「平和は長崎から」を掲げて長崎を平和都市にしようと長い間努力していた。すでに長崎市などが主導する「世界平和市長会議」は、1982年に開始以来、現在163カ国7千650都市が参加している。
私が訪問する少し前に、8月9日長崎平和公園では、被爆73周年長崎の犠牲者慰霊平和記念式典が開かれ、国連事務総長が初めて参加し、「長崎平和宣言」と「平和のためのアピール」が発表された。この宣言は、日本の平和のための努力はもちろん、板門店宣言など、韓半島の非核と平和の進展が北東アジアの平和のために非常に重要であることを強調した。
平和都市に向けた長崎の努力を見ながら、私たち光州市も世界的な民主人権都市ネットワークをさらに拡大し、5・18記念館、史跡、資料館などをより体系的に運営する必要性を感じた。特に「青少年の平和ボランティア育成」と「青少年平和フォーラム」などで、次の世代の平和人材を育成する長崎のように、私たちも、次の世代の若者たちが民主、人権を守っていくことができようにする対策準備も必要としないだろうか。来年5・18記念式に民主人権平和のためにUN代表が参加する案も一度推進すればいいんじゃないかという気がした。
いつのまにか平和の都市長崎を後にして私の紀行の最後のポイントである下関で列車は走っていた。美しい温泉街ベトブと大分県を経て、列車は再び北九州を経て下関に到着した。
台風が過ぎ去った都市の空は青く晴れ日差しは熱かった。私が最後に訪問したのは、下関市役所の市民活動センターであった。下関は九州地域ではなく、本州(本州)山口県の人口26万人程度の中小都市である。それでもこの都市が有名なのは陸海の交通の中心地であるうえ、日本の大陸侵略の門戸の役割をしたからである。
市民活動センターでは、非営利の市民団体やボランティア活動などの活性化と行政、市民団体が連携したまちづくり事業をよく進行してサポートするために、2007年5月に開設された。この空間は、登録した市民団体の会議、講座などのイベント空間を提供する一方、市民団体の情報を交換し、提供する。無料ではなく、少なくとも料として使用可能である。特に初期段階の市民団体の活動を支援して市民と交流できる場を提供する役割をしている。私たちに見ると、NGOセンターとの役割が似市直接対応し、人口比スペースや管理人員もはるかに多いという点である。
特に下関は「健康下関」を掲げ、2011年から地域分権推進連絡会議を置いて地域づくりに住民の参加と協働を得、下関地方分権の推進方向」を策定した。これは行政の権限をより小さな行政単位に移転する分権と住民の自主的な参加と自治による分権両方の方向で進めて地域づくりに成果を示している。
特に私たちの街ではない下関だけの特色として、2002年から「市民活動保険」制度があり、民間非営利の市民団体の活動家たちが活動上の事故や災害から適切な補償を受けられるようにするために、このような制度は、私たちの社会でも積極的に検討してみる価値がある。
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