2018/09/02 - 2018/09/02
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しんちゃんさん
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何でこんなところに??
天保の改革で有名な水野忠邦のお墓を発見しました。
通りがかりの結城市郊外でコンビニを探していたら「天保の改革の水野忠邦のお墓」を発見!
なんでこんな田畑の中にあるの?
見学するしかない!
歴史が好きな方でも、わざわざ「水野忠邦の墓」で検索・見学する方は少ないと思う。
お墓の説明文で興味が引いたのは「徳川家康の母はこの水野家から岡崎城主松平広忠に嫁いだ」と言う事であった。
田畑以外、な~んも無いです!
そんな場所に「ドでかいお墓群」
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
Google map です。
コピーして目的地と市町村を追加しました。
茨城県結城市南部です。
コンビニを検索していたら「天保の改革の水野忠邦のお墓」
数キロの距離なので見学する事にした。
それが・・・道路が分かりずらい -
茨城県道124号新宿新田総和線(いばらきけんどう124ごう しんじゅくしんでんそうわせん)及び茨城県道23号筑西三和線(いばらきけんどう23ごう ちくせいさんわせん)より目的地へ向かいます。
小道、路地、農道?
説明困難。途中に道標がありますが…
ナビに従って下さい。
ナビは非常に助かる。 -
県道124号からは断念、Uタ~ンして県道23号線を東側から再挑戦しました。
やっと辿り着いた「天保の改革の水野忠邦の墓」 -
「天保の改革の水野忠邦の墓」入り口
昨夜の雨の水溜り。 -
「天保の改革の水野忠邦の墓」
入り口の反対側に
「家系碑」?? -
「天保の改革の水野忠邦の墓」
入り口の反対側に
「家系碑」 -
駐車場_無料
だ~れも居ません。
お墓を独占!
説明版1 -
説明版1_コピーしました。
【水野家は、代々三河国(愛知県)に住み、知多半島北部一帯に勢力を持っていました。刈谷(かりや)城主水野忠政の娘於大は、岡崎城主松平広忠に嫁ぎましたが、この於大が生んだ竹千代が後の徳川家康です。
山川水野家初代忠元の父は、水野忠政の子、忠守である。忠元は、元和(げんな)元(1615)年、大坂夏の陣の功により、二代将軍徳川秀忠から結城本郷1万石、下総山川領1万石、下野(しもつけ)鹿沼領(栃木県鹿沼市)1万石の合計三万石(後に三万五千石に加増)と山川城を与えられ、大名として取り立てられました。
忠元やその子孫にとっては、山川の地こそ水野家発祥の地であり、忠元から始まる系統を山川水野家と称しています。[元禄13(1700)年に、結城藩主となり結城城に入った水野勝長の系統を結城水野家と称します]
・・・続く・・・ -
・・・続きです・・・
元和六(1620)年、忠元が亡くなると、2代忠善(ただよし)は、この地に山川水野家の菩提寺として護竜山万松寺(ばんしょうじ)を建立し、父を葬りました。そのため、寛永十二(1635)年、忠善が駿河国田中城(静岡県藤枝市)へ国替えとなり、山川の地を離れた後も、十一代忠邦までの当主は、万松寺に葬られてきました。
なお、万松寺は、江戸時代末期の安政二(1855)年、火災により焼失し、その後再建されず、明治5年、廃寺となりました。
現在、市内大木にある東光寺に安置されている釈迦如来三尊像(市指定文化財)と前机は、万松寺に安置されていたものであり、往時の万松寺の栄華をしのぶことができます。
なお、十一代忠邦は、文政四(1821)年、初代忠元を「豊烈霊神(ほうれつれいしん)」として祀った豊烈神社を浜松城内に創建しました。その後、水野家の国替えに伴い、その地に同神社が建立され、明治八(1875)年から万松寺境内に建立されていましたが、大正二(1913)年、山形市内に遷座し、今日に至っています】 -
説明版2
-
説明版_コピーです。
【県指定史跡
水野忠邦の墓
昭和33年3月1日指定
水野忠邦(1794~1851年)は、天保(てんぽう)12(1841)年、十一代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の死後、老中首座(ろうじゅうしゅざ)となり江戸時代の三大改革の一つ、「天保の改革」を主導した人物として知られています。
主な改革として、それまで商品の流通を独占していた株仲間を解散させ、自由競争による物価の引き下げを図り、また、上知令(あげちれい)により、江戸、大阪の十里四方を幕府直轄領(ばくふいちょっかつりょう)にしようとしました。
さらに、ぜいたく品や華美(かび)な衣服を禁じる倹約令(けんやくれい)をだして、生活や風俗を厳しく統制しました。
しかし、改革の目的が、幕府の財政難の解消と権力の強化であったため、民衆や大名の反発を招き、わずか二年余りで失敗しました。
忠邦は、唐津藩主(佐賀県)・浜松藩主(静岡県)でしたが、文化十二(1815)年と天保十三(1842)年に、菩提寺(ぼだいじ)である万松寺(ばんしょうじ)を訪れています。
また、墓の側面には、忠邦の辞世(じせい)の和歌が刻まれています。
「くみてこそ むかしもしのべ ゆく川の かえらぬ水に うかぶ月かげ」
平成22年3月
結城市教育委員会】 -
初代 水野忠元の墓
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初代 水野忠元の墓
右側灯篭 -
初代 水野忠元の墓
左側灯篭 -
初代 水野忠元の墓
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初代 水野忠元の墓
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二代 水野忠善の墓
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二代 水野忠善の墓
右側灯篭 -
二代 水野忠善の墓
左側側灯篭 -
二代 水野忠善の墓
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二代 水野忠善の墓
石碑はこれだけ丸かった -
三代 水野忠春(みずの ただはる)の墓
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三代 水野忠春の墓
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三代 水野忠春の墓
「元禄五年壬甲」と読み取れる。
元禄五年は西暦1692年。 -
三代 水野忠春の墓から南側のお墓を眺める。
このお墓が一番北側にある。
この列は手前から、三・二・初代・四・五・六代と続く -
三代 水野忠春の墓
左側灯篭 -
四代 水野忠盈(みずの ただみつ)の墓
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四代 水野忠盈の墓
右側灯篭 -
四代 水野忠盈の墓
左側灯篭 -
四代 水野忠盈の墓
石の引き戸は地震で破損された模様 -
四代 水野忠盈の墓
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五代 水野忠之(みずのただゆき )の墓
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五代 水野忠之の墓
右側灯篭 -
左側灯篭
-
五代 水野忠之の墓
石碑
下記はWikipediaよりです。
水野忠之は【元禄14年(1701年)3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。ー中略ー 享保2年(1717年)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた。】 -
五代 水野忠之の墓
「享保十六**歳」 -
六代 水野忠輝(みずの ただてる)の墓
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六代 水野忠輝の墓
右側灯篭 -
六代 水野忠輝の墓
左側灯篭 -
六代 水野忠輝の墓
石碑 -
六代 水野忠輝の墓
「元文二年丁巳七月二日」
西暦1737年 -
六代 水野忠輝の墓より西側を眺める
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七代 水野忠辰(みずの ただとき)の墓
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七代 水野忠辰の墓
右側灯篭 -
七代 水野忠辰の墓
左側灯篭 -
七代 水野忠辰の墓
石碑 -
七代 水野忠辰の墓
「寶(宝)暦2年壬申」 -
八代 水野忠任(みずの ただとう)の墓
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八代 水野忠任の墓
右側灯篭 -
八代 水野忠任の墓
左側側灯篭 -
八代 水野忠任の墓
石戸の下側の家紋…沢瀉紋(おもだかもん)らしい
【沢瀉紋(おもだかもん)とは、植物のオモダカ科の多年草であるオモダカを図案化した、日本の家紋の種類である。オモダカの表記については「澤瀉」のほかに「面高」とも表記される。葉の形状が、矢の鏃の形に似ていることから「勝軍草」(かちいくさぐさ)の別名もある。】 Wikipediaより -
八代 水野忠任の墓
-
八代 水野忠任の墓
「文化八年辛未」
(西暦1811年) -
九代 水野忠鼎(みずの ただかね)の墓
【江戸時代中期から後期にかけての大名。肥前国唐津藩2代藩主。忠元系水野家9代。水野忠邦の祖父である。 】Wikipediaより -
九代 水野忠鼎の墓
右側灯篭 -
九代 水野忠鼎の墓
左側灯篭 -
九代 水野忠鼎の墓
ちょっと変わった石碑です。
亀趺(きふ)と言うそうです。
【亀の形をした、碑の台石。】goo国語辞書より -
九代 水野忠鼎の墓
亀趺(きふ)拡大
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***寄り道して下さい。***
台湾の台南市にも沢山ありました。
一級古蹟「赤嵌樓」ツーカンロウ
「https://4travel.jp/travelogue/10126494」 -
九代 水野忠鼎の墓
「故唐津候龜(亀)遊斎水野翁之墓」 -
「九代 水野忠鼎の墓」の裏側に破損した墓の石が積み重ねられていた。
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十代 水野忠光(みずの ただあきら / ただあき)の墓
【1771-1814 江戸時代後期の大名。
明和8年8月20日生まれ。水野忠鼎(ただかね)の子。文化2年肥前唐津(からつ)藩(佐賀県)藩主水野家3代となる。文化11年4月4日死去。44歳】デジタル版 日本人名大辞典+Plusより -
十代 水野忠光の墓
右側の灯篭 -
十代 水野忠光の墓
左側の灯篭 -
十代 水野忠光の墓
「徳照院殿叡嶽宗俊大居士」
やはり年代が新しいと読みやすい。 -
十代 水野忠光の墓
「文化十一年甲成」
西暦1814年 -
「三月三十日」
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十一代 水野忠邦(みずの ただくに)(水野越前守忠邦)の墓
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十一代 水野忠邦の墓
“越前守”は朝廷の官位の名残りで領地の名とは関係ないそうです。
教えてgooより
参考URL
「https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8033595.html」
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十一代 水野忠邦の墓
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十一代 水野忠邦の墓
「濱松城主従四位下侍従越前守源朝臣之墓」 -
十一代 水野忠邦の墓
右側に辞世(じせい)の和歌 -
十一代 水野忠邦の墓
結論:何故こんなところにお墓が…説明版の通り
【2代忠善(ただよし)は、この地に山川水野家の菩提寺として護竜山万松寺(ばんしょうじ)を建立し、父(忠元)を葬りました。そのため、寛永十二(1635)年、忠善が駿河国田中城(静岡県藤枝市)へ国替えとなり、山川の地を離れた後も、十一代忠邦までの当主は、万松寺に葬られてきました。】
ネットで色々検索すると奥が深い。詳しくは歴史家・研究家に任せて現状の写真だけとしました。 -
お墓の中の石塔_お墓の南端
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東隣の他の家のお墓群
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トイレ
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北西の石塔群
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お墓の東側_遠くに雲をかぶった筑波山(標高877m)が見えた。
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石塔の近くに咲いていた花
----水野忠邦の墓見学記 完---- -
石塔の近くに咲いていた花
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