マドリード旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう2年以上経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。<br /><br />スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。<br /><br />古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El  Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。<br /><br />今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。<br /><br /><br />日程表 スペインの部<br />5月8日(日)  東京→マドリッド<br />5月9日(月)★ マドリッド<br />5月10日(火)  マドリッド(セゴビア)<br />5月11日(水)  マドリッド(アヴィラ)<br />5月12日(木)  マドリッド(エル・エスコリアル)<br />5月13日(金)  マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)<br />5月14日(土)  マドリッド→ブルゴス→ビルバオ<br />5月15日(日)  ビルバオ<br />5月16日(月)  ビルバオ(サン・セバスチャン)<br />5月17日(火)  ビルバオ(ヴィトリア)<br />5月18日(水)  ビルバオ→オヴィエド<br />5月19日(木)  オヴィエド<br />5月20日(金)  オヴィエド→レオン<br />5月21日(土)  レオン<br />5月22日(日)    レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ<br />5月23日(月)  サンチャゴ・デ・コンポステーラ<br />5月24日(火)    サンチャゴ・デ・コンポステーラ<br />5月25日(水)  サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル ポルト)<br /><br />いつものロシア経由のフライトで、マドリッド22時30分着。マドリッド市内の治安の悪さをウントコサ聞いていた私は、無料送迎バスがあってマドリッド国際空港から目と鼻の先のバラハスの町に宿をとり、結局そこに6連泊しました。マドリッド中心部までは地下鉄を乗り継いで40分程かかりましたが、バラハスはごくごく普通の大都市近郊の町だったので、身の危険やストレスを感じることなく平和に過ごすことができ、結果的にはとても良かったと思っています。

な~んちゃって、コンポステーラへの道 その1マドリッド(1)

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2016/05/08 - 2016/05/09

178位(同エリア2653件中)

1

102

junemay

junemayさん

2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう2年以上経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。

スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。

古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。

今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。


日程表 スペインの部
5月8日(日)  東京→マドリッド
5月9日(月)★ マドリッド
5月10日(火)  マドリッド(セゴビア)
5月11日(水)  マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木)  マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金)  マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土)  マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日)  ビルバオ
5月16日(月)  ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火)  ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水)  ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木)  オヴィエド
5月20日(金)  オヴィエド→レオン
5月21日(土)  レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月)  サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水)  サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル ポルト)

いつものロシア経由のフライトで、マドリッド22時30分着。マドリッド市内の治安の悪さをウントコサ聞いていた私は、無料送迎バスがあってマドリッド国際空港から目と鼻の先のバラハスの町に宿をとり、結局そこに6連泊しました。マドリッド中心部までは地下鉄を乗り継いで40分程かかりましたが、バラハスはごくごく普通の大都市近郊の町だったので、身の危険やストレスを感じることなく平和に過ごすことができ、結果的にはとても良かったと思っています。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 定番となりつつあるアエロフロートでの欧州行き。早いし、安いし、言うことなし。成田12時ちょうど発で、モスクワ到着は現地時間16:10。時差ー6時間なので、10時間10分のフライトです。

    定番となりつつあるアエロフロートでの欧州行き。早いし、安いし、言うことなし。成田12時ちょうど発で、モスクワ到着は現地時間16:10。時差ー6時間なので、10時間10分のフライトです。

  • 1回目の機内食。<br /><br />初っ端から、撮る人のがさつさが伝わってきそうな1枚ですねえ・・・

    1回目の機内食。

    初っ端から、撮る人のがさつさが伝わってきそうな1枚ですねえ・・・

  • 2回目の機内食。<br /><br />ここまでは、なんといっても日本製造の機内食なので、安心して食べられます。

    2回目の機内食。

    ここまでは、なんといっても日本製造の機内食なので、安心して食べられます。

  • モスクワ シェレメチェヴォ空港では、ロシアの携帯通信会社「メガフォン」社の広告が溢れていました。なかなか面白い合成写真のシリーズでしたよ。

    モスクワ シェレメチェヴォ空港では、ロシアの携帯通信会社「メガフォン」社の広告が溢れていました。なかなか面白い合成写真のシリーズでしたよ。

  • 羽の生えたカンガルーは初めて見たわ~!!! と一瞬思ったのですが、よく見ると、鷲とカンガルーを張り合わせただけのよう・・・

    羽の生えたカンガルーは初めて見たわ~!!! と一瞬思ったのですが、よく見ると、鷲とカンガルーを張り合わせただけのよう・・・

  • こちらもインパクトあるでしょう? 鹿の角からいつの間にか芽が出て、葉が生い茂る様・・・

    こちらもインパクトあるでしょう? 鹿の角からいつの間にか芽が出て、葉が生い茂る様・・・

  • これはミーアキャットだっけ? 皆ポーズ作って人の集合写真みたいですねえ。写真の中にも撮影している人の影が写っていて、それをまた撮る人がいるのよね・・・<br /><br />と、広い空港内、メガフォン社の「芸術的」な広告のおかげで楽しいトランスファーとなりました。さあ、いつものラウンジで一休み。

    これはミーアキャットだっけ? 皆ポーズ作って人の集合写真みたいですねえ。写真の中にも撮影している人の影が写っていて、それをまた撮る人がいるのよね・・・

    と、広い空港内、メガフォン社の「芸術的」な広告のおかげで楽しいトランスファーとなりました。さあ、いつものラウンジで一休み。

  • シェレメチェヴォのラウンジは、規模が大きく、飲み物も食べ物も豊富です。

    シェレメチェヴォのラウンジは、規模が大きく、飲み物も食べ物も豊富です。

  • といっても、機内食1&2で満腹ゆえ、見るだけに留めておきましょう。冷たいディッシュだけでなく、ボルシチやチキン、ビーフ、ポテトや野菜の付け合わせ、ライスまで用意がありました。

    といっても、機内食1&2で満腹ゆえ、見るだけに留めておきましょう。冷たいディッシュだけでなく、ボルシチやチキン、ビーフ、ポテトや野菜の付け合わせ、ライスまで用意がありました。

  • マドリッド行きの飛行機に乗ったら、またしても機内食3。ラウンジで食べなくて正解です。<br /><br />スペインまでのフライト時間は5時間15分。昨年のローマより1時間20分も余計にかかりました。

    マドリッド行きの飛行機に乗ったら、またしても機内食3。ラウンジで食べなくて正解です。

    スペインまでのフライト時間は5時間15分。昨年のローマより1時間20分も余計にかかりました。

  • 定刻22時30分に無事マドリッド国際空港に到着しましたが、パスポートコントロールやら荷物待ち、ATMでのキャッシング等々、なんだかんだでロビーに出てきたのは23時過ぎ。送迎のあるホテルで良かった。<br /><br />シンプル イズ ベスト。寝心地良いベッドとWiFi。他には何もないイビスには23時40分にチェックインしています。この殺風景な部屋にこれから6連泊。

    定刻22時30分に無事マドリッド国際空港に到着しましたが、パスポートコントロールやら荷物待ち、ATMでのキャッシング等々、なんだかんだでロビーに出てきたのは23時過ぎ。送迎のあるホテルで良かった。

    シンプル イズ ベスト。寝心地良いベッドとWiFi。他には何もないイビスには23時40分にチェックインしています。この殺風景な部屋にこれから6連泊。

  • せめて、電気ケトルとカップ位は欲しいよねと思いましたが、事前にないのが分かっていたので持参しました。殆ど外をうろついていますので、快適に寝られるのが一番。

    せめて、電気ケトルとカップ位は欲しいよねと思いましたが、事前にないのが分かっていたので持参しました。殆ど外をうろついていますので、快適に寝られるのが一番。

  • まあ、かろうじてその日のうちに着いて、ほっと致しました。日本時間は翌朝の6時45分過ぎ。24時間以上はベッドに寝ていない計算。毎度のことながら、どうしてこんなに遠いんだろうと思います。<br /><br />取りあえずシャワーを浴びて、おやすみなさい!

    まあ、かろうじてその日のうちに着いて、ほっと致しました。日本時間は翌朝の6時45分過ぎ。24時間以上はベッドに寝ていない計算。毎度のことながら、どうしてこんなに遠いんだろうと思います。

    取りあえずシャワーを浴びて、おやすみなさい!

  • と、ここからは、翌朝5月9日月曜日です。地下鉄8号線バラハスの駅まで徒歩8分位。

    と、ここからは、翌朝5月9日月曜日です。地下鉄8号線バラハスの駅まで徒歩8分位。

  • このバラハス駅は面白いことに、空港ターミナル1.2.3駅と空港ターミナル4駅に挟まれています。市内から空港に向かうと、最初にターミナル1.2.3駅に止まりますが、この駅と終点のターミナル4駅で降りると、空港追加料金3ユーロがとられます。しかし、その間のバラハスで降りる時には追加料金は不要なんです。<br /><br />今回は10回分の回数券metorbusを購入。どんなに乗り換えても1回1.22ユーロって安~い!

    このバラハス駅は面白いことに、空港ターミナル1.2.3駅と空港ターミナル4駅に挟まれています。市内から空港に向かうと、最初にターミナル1.2.3駅に止まりますが、この駅と終点のターミナル4駅で降りると、空港追加料金3ユーロがとられます。しかし、その間のバラハスで降りる時には追加料金は不要なんです。

    今回は10回分の回数券metorbusを購入。どんなに乗り換えても1回1.22ユーロって安~い!

  • 東京の地下鉄路線図に負けない位複雑怪奇なマドリッドの路線図を穴のあくほど眺めて、二度の乗換駅と乗る方向の終着駅を暗記して、降り立ったのは悪名高きアトーチャ駅。マドリッドでかつて首絞め強盗に遭ったことのある友人Oさんが、口を酸っぱくして言ってくれたおかげで、まるで現地人のようにスムーズな乗り換えが出来ましたよ。

    東京の地下鉄路線図に負けない位複雑怪奇なマドリッドの路線図を穴のあくほど眺めて、二度の乗換駅と乗る方向の終着駅を暗記して、降り立ったのは悪名高きアトーチャ駅。マドリッドでかつて首絞め強盗に遭ったことのある友人Oさんが、口を酸っぱくして言ってくれたおかげで、まるで現地人のようにスムーズな乗り換えが出来ましたよ。

  • 今日は美術館三昧で、なんと三館廻る予定。まずはこちらのソフィア王妃芸術センターにやって参りました。1992年にオープンしたスペイン近代現代美術館で、かつてのスペイン現代アート美術館やプラド美術館に所蔵されていた近現代コレクションがこちらに移されて展示されています。<br /><br />初日ですからね。長旅の疲れもあって、たっぷり睡眠をとったので、もうすでに朝の10時40分過ぎ。曇天で時折雨の降る、季節が1か月逆戻りしたようなうすら寒いマドリッドだったのを覚えています。

    今日は美術館三昧で、なんと三館廻る予定。まずはこちらのソフィア王妃芸術センターにやって参りました。1992年にオープンしたスペイン近代現代美術館で、かつてのスペイン現代アート美術館やプラド美術館に所蔵されていた近現代コレクションがこちらに移されて展示されています。

    初日ですからね。長旅の疲れもあって、たっぷり睡眠をとったので、もうすでに朝の10時40分過ぎ。曇天で時折雨の降る、季節が1か月逆戻りしたようなうすら寒いマドリッドだったのを覚えています。

  • ソフィア王妃芸術センターは、18世紀にイタリアの名高い建築家フランチェスコ・サバティーニとスペインの建築家ホセ・デ・エルモシーリャが設計したサン・カルロス病院を改装した通称サバティーニ館(左側の建物)とその背後にフランスの建築家ジャン・ヌーヴェルが2005年に建てた新館に分かれていますが、今日はメインのサバティーニ館だけ見学。じっくり見ると、丸1日かかってしまいます。

    ソフィア王妃芸術センターは、18世紀にイタリアの名高い建築家フランチェスコ・サバティーニとスペインの建築家ホセ・デ・エルモシーリャが設計したサン・カルロス病院を改装した通称サバティーニ館(左側の建物)とその背後にフランスの建築家ジャン・ヌーヴェルが2005年に建てた新館に分かれていますが、今日はメインのサバティーニ館だけ見学。じっくり見ると、丸1日かかってしまいます。

  • ソフィア王妃芸術センターの前に広がる広場はJuan Goytisolo広場。ゴイティソーロはバルセロナ出身の小説家でフランコ体制下の1955年にフランスへ亡命。その後モロッコに住んでいましたが、昨年(2017年)に亡くなっています。戦後のスペイン文学の第一人者でした。<br /><br />珍しいことに私が訪問した2016年には、この広場には名前がありませんでした。市議会が全会一致で広場に彼の名前を付けたのは、なんと2018年の6月のことですって。ついこの間じゃない。

    ソフィア王妃芸術センターの前に広がる広場はJuan Goytisolo広場。ゴイティソーロはバルセロナ出身の小説家でフランコ体制下の1955年にフランスへ亡命。その後モロッコに住んでいましたが、昨年(2017年)に亡くなっています。戦後のスペイン文学の第一人者でした。

    珍しいことに私が訪問した2016年には、この広場には名前がありませんでした。市議会が全会一致で広場に彼の名前を付けたのは、なんと2018年の6月のことですって。ついこの間じゃない。

  • 広場の入口に建つ白い建物は、ホテルメディオディア。このホテルだったら、ソフィア王妃芸術センターまで2分。プラド美術館まで9分。悪くなかったなあ・・・なんて、後の祭り的な想像を膨らませます。右奥にちらっと顔を出しているのがアトーチャ駅。本当に駅前です。<br /><br />でも、駅前といっても巨大な駅ですから、慣れないうちはここまで来るのも大変。きょろきょろすることなく、まっしぐらに歩いて来れた自分を褒めてあげましょう。グーグルストリートヴューのイメージトレーニングを積んだ甲斐がありました。よしよしヾ(・ω・`)

    広場の入口に建つ白い建物は、ホテルメディオディア。このホテルだったら、ソフィア王妃芸術センターまで2分。プラド美術館まで9分。悪くなかったなあ・・・なんて、後の祭り的な想像を膨らませます。右奥にちらっと顔を出しているのがアトーチャ駅。本当に駅前です。

    でも、駅前といっても巨大な駅ですから、慣れないうちはここまで来るのも大変。きょろきょろすることなく、まっしぐらに歩いて来れた自分を褒めてあげましょう。グーグルストリートヴューのイメージトレーニングを積んだ甲斐がありました。よしよしヾ(・ω・`)

  • 3枚上の写真にある建物から出っ張った半透明部分が2箇所あり、そこに1992年の改装時に付け加えられたガラス張りのエレベータがあります。エレベータで4階へ上がり、丁度開かれていた企画展「戦後スペインの芸術とパワー 1939年-1953年」を見てから、常設展示のある2階へと下りました。

    3枚上の写真にある建物から出っ張った半透明部分が2箇所あり、そこに1992年の改装時に付け加えられたガラス張りのエレベータがあります。エレベータで4階へ上がり、丁度開かれていた企画展「戦後スペインの芸術とパワー 1939年-1953年」を見てから、常設展示のある2階へと下りました。

  • これが結果的には大失敗。企画展に時間をかけすぎ、常設展を見終わった時には午後2時を大きく回っていました。今日は月曜日。二番手のテッセン・ボルネミッサ美術館は午後4時で終了なんです。<br /><br />まあ、ソフィア王妃に、テッセン・ボルネミッサ、そして夜間開放のプラドの三連荘という無謀な計画そのものが間違いだったと言われれば、その通り! なんですが・・・

    これが結果的には大失敗。企画展に時間をかけすぎ、常設展を見終わった時には午後2時を大きく回っていました。今日は月曜日。二番手のテッセン・ボルネミッサ美術館は午後4時で終了なんです。

    まあ、ソフィア王妃に、テッセン・ボルネミッサ、そして夜間開放のプラドの三連荘という無謀な計画そのものが間違いだったと言われれば、その通り! なんですが・・・

  • 後で押せ押せになることが分かっていたら、こんなに優雅に写真なんぞ撮っていなかったんですがね。<br /><br />「ソフィア王妃」は対面の建物より高い位置に建っているためか、ガラス張りのエレベータからマドリッド市内が少し見渡せました。右側の緑のエリアが王立動物園。その先にプラド美術館があります。

    後で押せ押せになることが分かっていたら、こんなに優雅に写真なんぞ撮っていなかったんですがね。

    「ソフィア王妃」は対面の建物より高い位置に建っているためか、ガラス張りのエレベータからマドリッド市内が少し見渡せました。右側の緑のエリアが王立動物園。その先にプラド美術館があります。

  • この美術館の目玉はパブロ・ピカソの「ゲルニカ」ですが、これを含む一部の作品については残念ながら撮影禁止だったので、写真はありません。でも、この日の日記を読み返すと、やはり「ゲルニカ」がとても良かったと書いてありました。2015年に鳴門の大塚国際美術館で複製を見ましたが、この目で「本物」を見れて幸せでした。<br /><br />展示はたくさんあり過ぎて、全部はとても紹介できませんので、いつものように、私のお気に入りを選んで、作家別に並べてみました。<br />まずはピカソの作品から参りましょう。<br /><br />Seated woman resting on elbows 1939年。同じポーズの女性で異なった色彩の絵が他に3枚ありますが、こちらが最後に描き上げた1枚。

    この美術館の目玉はパブロ・ピカソの「ゲルニカ」ですが、これを含む一部の作品については残念ながら撮影禁止だったので、写真はありません。でも、この日の日記を読み返すと、やはり「ゲルニカ」がとても良かったと書いてありました。2015年に鳴門の大塚国際美術館で複製を見ましたが、この目で「本物」を見れて幸せでした。

    展示はたくさんあり過ぎて、全部はとても紹介できませんので、いつものように、私のお気に入りを選んで、作家別に並べてみました。
    まずはピカソの作品から参りましょう。

    Seated woman resting on elbows 1939年。同じポーズの女性で異なった色彩の絵が他に3枚ありますが、こちらが最後に描き上げた1枚。

  • Man with ram 1943年。ナチ支配下のパリでピカソが作った、羊を抱えた男の彫像です。「よき羊飼い」かしら?

    Man with ram 1943年。ナチ支配下のパリでピカソが作った、羊を抱えた男の彫像です。「よき羊飼い」かしら?

  • ピカソ3枚目は Bust of a smiling woman 1901年。この作品は2階の常設展示の中にありました。1901年は青の時代(1901年から1904年)の始まりの年であるのと共に、ピカソが初めてパリで個展を開いた年でもあります。そして、パリではロートレックがこの年「ムーランルージュ」を描いたんですね。<br /><br />こちらのモデルはモンマルトルの娼婦でしょうか? ロートレック同様、20歳のピカソは、パリのナイトライフに好奇心を掻き立てられたようです。

    イチオシ

    ピカソ3枚目は Bust of a smiling woman 1901年。この作品は2階の常設展示の中にありました。1901年は青の時代(1901年から1904年)の始まりの年であるのと共に、ピカソが初めてパリで個展を開いた年でもあります。そして、パリではロートレックがこの年「ムーランルージュ」を描いたんですね。

    こちらのモデルはモンマルトルの娼婦でしょうか? ロートレック同様、20歳のピカソは、パリのナイトライフに好奇心を掻き立てられたようです。

  • 上と同じく1901年に描かれた Woman in Blue。バルセロナとパリを行ったり来たりしていたピカソがマドリッドに短期滞在をしたときに描かれたもので、「国立美術展」に出品したものの、入賞を逃した作品です。展覧会が終了してもピカソが絵の返却受け取りに来なかったために完全に忘れ去られ、数十年経って発見されて国家財産になったという経緯があるそうですよ。<br /><br />マドリッドと言うよりパリの雰囲気ですねえ。

    上と同じく1901年に描かれた Woman in Blue。バルセロナとパリを行ったり来たりしていたピカソがマドリッドに短期滞在をしたときに描かれたもので、「国立美術展」に出品したものの、入賞を逃した作品です。展覧会が終了してもピカソが絵の返却受け取りに来なかったために完全に忘れ去られ、数十年経って発見されて国家財産になったという経緯があるそうですよ。

    マドリッドと言うよりパリの雰囲気ですねえ。

  • Figure 1928年。Figureと名付けられた作品はたくさんあり、こちらの絵とパターンが逆の「三つの目」「三本の線」シリーズも見たことがあります。<br /><br />この絵をじっと見ていると、なんと!三つの顔が浮かんできますよ。キュビズムは、彼とジョルジュ・ブラックが産み出したものでしたね。

    Figure 1928年。Figureと名付けられた作品はたくさんあり、こちらの絵とパターンが逆の「三つの目」「三本の線」シリーズも見たことがあります。

    この絵をじっと見ていると、なんと!三つの顔が浮かんできますよ。キュビズムは、彼とジョルジュ・ブラックが産み出したものでしたね。

  • Figures by the Sea I 1932年。 上の1枚が描かれた翌年の1929年、ピカソは地中海の砂浜に複数の巨大なモニュメントを建てるプロジェクトを企画しました。こちらはその3年後に描かれたその彫像のモデルの1枚です。<br /><br />

    Figures by the Sea I 1932年。 上の1枚が描かれた翌年の1929年、ピカソは地中海の砂浜に複数の巨大なモニュメントを建てるプロジェクトを企画しました。こちらはその3年後に描かれたその彫像のモデルの1枚です。

  • 一瞬ブラックかな? と思いましたが、ピカソでした。キュビズムの初期にこの二人が描いた絵はとても似通っていたそうです。<br />Woman&#39;s head(Fernande) 1909年から1910年。<br />

    一瞬ブラックかな? と思いましたが、ピカソでした。キュビズムの初期にこの二人が描いた絵はとても似通っていたそうです。
    Woman's head(Fernande) 1909年から1910年。

  • で、こちらがその彫刻版かしら? 彫刻の方が三次元なのでピカソの意図が分かりやすい???<br />Woman&#39;s head(Fernande) 1909年。

    で、こちらがその彫刻版かしら? 彫刻の方が三次元なのでピカソの意図が分かりやすい???
    Woman's head(Fernande) 1909年。

  • ピカソ最後は Fruit bowl 1910年。彼のキュビズム絵画のテーマの一つである静物画です。<br /><br />キュビズムは、事物を幾何学的な細かい断面に分解して、多角的にモザイクのように重ね合わせていく手法が大きな特徴と言われますが、この絵を見ていると、その制作過程が浮かび上がってくるように思えます。

    ピカソ最後は Fruit bowl 1910年。彼のキュビズム絵画のテーマの一つである静物画です。

    キュビズムは、事物を幾何学的な細かい断面に分解して、多角的にモザイクのように重ね合わせていく手法が大きな特徴と言われますが、この絵を見ていると、その制作過程が浮かび上がってくるように思えます。

  • 次はカタルーニャ人でバルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家そして版画家のジョアン・ミロです。<br /><br />初めは、見た順番に並べようと思ったのですが、ミロの画風があまりにも変わっていくので、やはり時系列が良いかなと思い、入れ替えました。こんなことばかりしているから、ちっとも進みません。<br /><br />House with palm tree 1918年。<br />彼の後年の作品を知る人からは、同じ画家の作品とは思えないという声が聞かれると思います。ミロ独自の細密画(Detailist)時代の1枚に挙げられる作品だと思います。<br />

    次はカタルーニャ人でバルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家そして版画家のジョアン・ミロです。

    初めは、見た順番に並べようと思ったのですが、ミロの画風があまりにも変わっていくので、やはり時系列が良いかなと思い、入れ替えました。こんなことばかりしているから、ちっとも進みません。

    House with palm tree 1918年。
    彼の後年の作品を知る人からは、同じ画家の作品とは思えないという声が聞かれると思います。ミロ独自の細密画(Detailist)時代の1枚に挙げられる作品だと思います。

  • Pastoral 1923年から24年。パストラルとは羊飼い、田舎 と言う意味だと思っています。<br /><br />ミロがそれまで描いてきた絵の世界が、劇的な変化を遂げたのがこの1923年から24年の頃だそうです。確かに1917年の「ヴィンセント・ヌビオラの肖像」はキュビズムの影響、上の「ヤシの木のある家」については「細密画(Detailist)」を強く感じます。<br /><br />1924年はアンドレ・ブルトンが「シュルリアリスム宣言」を行った年で、シュルリアリスムの影響を感じますが、まだスタートラインに立った段階で、新しい言語を学び始めた子供のような、フレッシュな印象を受けます。

    Pastoral 1923年から24年。パストラルとは羊飼い、田舎 と言う意味だと思っています。

    ミロがそれまで描いてきた絵の世界が、劇的な変化を遂げたのがこの1923年から24年の頃だそうです。確かに1917年の「ヴィンセント・ヌビオラの肖像」はキュビズムの影響、上の「ヤシの木のある家」については「細密画(Detailist)」を強く感じます。

    1924年はアンドレ・ブルトンが「シュルリアリスム宣言」を行った年で、シュルリアリスムの影響を感じますが、まだスタートラインに立った段階で、新しい言語を学び始めた子供のような、フレッシュな印象を受けます。

  • Painting(Head of a smoker) 1925年。<br /><br />ミロのこの時期の絵には殆どタイトルがついていないのですが、この作品にはPainting以外に「スモーカーの頭」と言うありがたいヒントがついていました。この1925年に、ミロは同名のタイトルの絵を何枚か描いています。<br /><br />右下の放射状の点線が何なのか、私の乏しい想像力では浮かんできませんでした。ミロ特有の象徴的な言語だという説もあります。

    Painting(Head of a smoker) 1925年。

    ミロのこの時期の絵には殆どタイトルがついていないのですが、この作品にはPainting以外に「スモーカーの頭」と言うありがたいヒントがついていました。この1925年に、ミロは同名のタイトルの絵を何枚か描いています。

    右下の放射状の点線が何なのか、私の乏しい想像力では浮かんできませんでした。ミロ特有の象徴的な言語だという説もあります。

  • Painting 1925年。<br /><br />強烈な赤の使い方が好きです。とさかのようにも見えますね。赤と黄色のストライプを見るとカタルーニャの旗を思い出してしまいます。

    Painting 1925年。

    強烈な赤の使い方が好きです。とさかのようにも見えますね。赤と黄色のストライプを見るとカタルーニャの旗を思い出してしまいます。

  • Painting(Man with a pipe) 1925年。<br />パイプをくゆらせる人もスモーカーに含まれそうですね。この絵にも描かれている放射状の線はパイプの煙なのでしょうか?

    Painting(Man with a pipe) 1925年。
    パイプをくゆらせる人もスモーカーに含まれそうですね。この絵にも描かれている放射状の線はパイプの煙なのでしょうか?

  • Painting(Head and Spider)1925年。この絵の副題は「頭と蜘蛛」。<br /><br />ミロ自身の言葉によると、1925年は「詩の印象を含む飢餓に起因する幻覚によって」作風に大きな変化が生じた年だったそうです。23年~24年にかけての方が激変だったと思うのは素人の考え?<br /><br />左側の完璧な放射状の線と●は蜘蛛の巣と蜘蛛でしょうね。

    Painting(Head and Spider)1925年。この絵の副題は「頭と蜘蛛」。

    ミロ自身の言葉によると、1925年は「詩の印象を含む飢餓に起因する幻覚によって」作風に大きな変化が生じた年だったそうです。23年~24年にかけての方が激変だったと思うのは素人の考え?

    左側の完璧な放射状の線と●は蜘蛛の巣と蜘蛛でしょうね。

  • Painting 1927年。殆どの絵のタイトルがPainting。違いないけれど・・・<br /><br />この絵 何に見えますか? 木の上にとまった雄鶏 と言ったら怒られるかな? 当方その程度の鑑賞眼です。

    Painting 1927年。殆どの絵のタイトルがPainting。違いないけれど・・・

    この絵 何に見えますか? 木の上にとまった雄鶏 と言ったら怒られるかな? 当方その程度の鑑賞眼です。

  • ミロはパリでシュルリアリスムの洗礼を受けましたが、彼の画風は、他のシュルレアリスト達とは一線を画しています。この芸術家に一つのレッテルを貼る事は到底出来ませんね。私の陳腐な言葉で表現するなら、豊かな色彩ととっつきやすさが最大の特徴です。 <br /><br />The Smile of the Flamboyant wings 1953年。<br /><br />題名を無理やり訳すと、「華やかな翼(複数形)のほほえみ」。上から順番に並べてみると、なるほど、ミロの成熟期だとうなづける作品です。

    イチオシ

    ミロはパリでシュルリアリスムの洗礼を受けましたが、彼の画風は、他のシュルレアリスト達とは一線を画しています。この芸術家に一つのレッテルを貼る事は到底出来ませんね。私の陳腐な言葉で表現するなら、豊かな色彩ととっつきやすさが最大の特徴です。 

    The Smile of the Flamboyant wings 1953年。

    題名を無理やり訳すと、「華やかな翼(複数形)のほほえみ」。上から順番に並べてみると、なるほど、ミロの成熟期だとうなづける作品です。

  • 三番手は私の大好物のサルバドール・ダリです。彼が生まれ故郷のフィゲレスからマドリッドの美術学校に入学した後の作品ですが、彼のフィゲレスの自宅のバルコニーからマーケットの屋台を観察して描いたのではと言われています。<br /><br />ソフィア王妃芸術センターのHPには、「この絵はウルグアイの画家ラファエル・バラダスが1920年代半ばにダリエスク様式に及ぼした影響の良い一例」と書かれていましたが、モンテヴィデオにおけるモダニズムの存在そのものを知らなかった私にとっては驚きでした。メキシコのモダニズムがシュルレアリスムに多大なる影響を与えたということについては、何かで読んだ記憶がありますが、ラテンアメリカの美術に関して全く無知であることを思い知らされました。<br /><br />Gypsy from Figueres  1923年。

    三番手は私の大好物のサルバドール・ダリです。彼が生まれ故郷のフィゲレスからマドリッドの美術学校に入学した後の作品ですが、彼のフィゲレスの自宅のバルコニーからマーケットの屋台を観察して描いたのではと言われています。

    ソフィア王妃芸術センターのHPには、「この絵はウルグアイの画家ラファエル・バラダスが1920年代半ばにダリエスク様式に及ぼした影響の良い一例」と書かれていましたが、モンテヴィデオにおけるモダニズムの存在そのものを知らなかった私にとっては驚きでした。メキシコのモダニズムがシュルレアリスムに多大なる影響を与えたということについては、何かで読んだ記憶がありますが、ラテンアメリカの美術に関して全く無知であることを思い知らされました。

    Gypsy from Figueres  1923年。

  • Portrait of Luis Bunuel 1924年<br />後に世界的な名監督となったルイス・ブニュエルとはマドリッドの美術学校で共に学んだ間柄。<br /><br />一般的な肖像画と決定的に異なるところは背景のとても不思議な風景。力強い線で描かれたブニュエルを引き立ててくれています。

    Portrait of Luis Bunuel 1924年
    後に世界的な名監督となったルイス・ブニュエルとはマドリッドの美術学校で共に学んだ間柄。

    一般的な肖像画と決定的に異なるところは背景のとても不思議な風景。力強い線で描かれたブニュエルを引き立ててくれています。

  • Girl at the window 1925年。<br />窓の外にはダリが良く訪れたカダケスの別荘から見える風景が見えています。モデルはダリの妹アナ・マリア。<br /><br />この作品は1925年にマドリッドで行われたダリの初めての個展で他の22点の作品と共に出品された1点です。個展は大成功の裡に終わり、彼の才能が広く知れ渡るきっかけとなりました。

    イチオシ

    Girl at the window 1925年。
    窓の外にはダリが良く訪れたカダケスの別荘から見える風景が見えています。モデルはダリの妹アナ・マリア。

    この作品は1925年にマドリッドで行われたダリの初めての個展で他の22点の作品と共に出品された1点です。個展は大成功の裡に終わり、彼の才能が広く知れ渡るきっかけとなりました。

  • Girl from the back 1925年。<br />上の作品と同じモデルだと思うので、これもダリの妹アナ・マリアですね。良く焼けた小麦色の肌が目に焼き付きます。遠くに見える丘のてっぺん辺りの色と同じ色をしていますね。<br /><br />バルコニーらしき場所に座った彼女の目の前に広がる景色がまた格別。そこだけキュービズムで描かれたような長方形の建物が興味深いです。

    Girl from the back 1925年。
    上の作品と同じモデルだと思うので、これもダリの妹アナ・マリアですね。良く焼けた小麦色の肌が目に焼き付きます。遠くに見える丘のてっぺん辺りの色と同じ色をしていますね。

    バルコニーらしき場所に座った彼女の目の前に広がる景色がまた格別。そこだけキュービズムで描かれたような長方形の建物が興味深いです。

  • Portrait of his sister(Ana Maria) 1925年。<br /><br />ようやく顔が分かる1枚が登場。今度は横顔のアナ・マリアです。ダリのミューズ ガラが1929年にその座を奪うまで、アナ・マリアはダリの唯一のモデルだったそうです。二人は仲が良く、特に母親が亡くなった後、アナ・マリアは一家の母代わりも務めていたようです。<br /><br />彼の父親の肖像画はフィゲレスのダリ美術館等で見ましたが、今回妹の肖像画をまとめて見られて良かった!<br />

    Portrait of his sister(Ana Maria) 1925年。

    ようやく顔が分かる1枚が登場。今度は横顔のアナ・マリアです。ダリのミューズ ガラが1929年にその座を奪うまで、アナ・マリアはダリの唯一のモデルだったそうです。二人は仲が良く、特に母親が亡くなった後、アナ・マリアは一家の母代わりも務めていたようです。

    彼の父親の肖像画はフィゲレスのダリ美術館等で見ましたが、今回妹の肖像画をまとめて見られて良かった!

  • Pierrot playing the guitar(Cubist painting) 1925年。<br /><br />ギターを弾く薄っぺらな紙きれのようなピエロの背後に、リアリティのある黒いもう一人のピエロが潜んでいますね。シュルリアリスム以前のキュビズムで描かれている所が、かえって私には新鮮でした。<br />

    Pierrot playing the guitar(Cubist painting) 1925年。

    ギターを弾く薄っぺらな紙きれのようなピエロの背後に、リアリティのある黒いもう一人のピエロが潜んでいますね。シュルリアリスム以前のキュビズムで描かれている所が、かえって私には新鮮でした。

  • Still life 1926年<br /><br />ダリは美術学校時代、後の映画監督ルイス・ブニュエル、詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ等と親しい友人でした。特にロルカとは親しさを越えた関係があったようです。このテーブルに置かれたギター、転がっている石膏像、そして魚のように見えるオブジェ数点はロルカの存在を明らかにしています。<br /><br />私が特に気に入ったのは背後の月明かりに照らされた水面。海の香りが漂ってくるようです。

    Still life 1926年

    ダリは美術学校時代、後の映画監督ルイス・ブニュエル、詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカ等と親しい友人でした。特にロルカとは親しさを越えた関係があったようです。このテーブルに置かれたギター、転がっている石膏像、そして魚のように見えるオブジェ数点はロルカの存在を明らかにしています。

    私が特に気に入ったのは背後の月明かりに照らされた水面。海の香りが漂ってくるようです。

  • Two figures 1926年<br />1926年にダリは初めてパリに行き、ロルカを通じて知り合いになったハエン出身の画家マヌエル・アンヘレス・オルティスによりピカソを紹介されます。ダリはこの時何枚かの絵をピカソに見せています。<br /><br />この絵はピカソのキュビズムの影響を強く受けた作品と言われています。<br /><br />

    Two figures 1926年
    1926年にダリは初めてパリに行き、ロルカを通じて知り合いになったハエン出身の画家マヌエル・アンヘレス・オルティスによりピカソを紹介されます。ダリはこの時何枚かの絵をピカソに見せています。

    この絵はピカソのキュビズムの影響を強く受けた作品と言われています。

  • Sterile efforts 1927年~28年。<br />無駄な努力 と訳して良いのかしら? グラナダ出身の詩人ロルカとの関係は、ロルカがニューヨークへと旅立った1929年まで続いたそうです。ロルカは「サルバドール・ダリ」へ捧げる詩を作り、ダリはホモセクシュアルの象徴?である「聖セバスティアーノ」が中央に浮かぶこの絵をロルカに捧げました。ダリが亡くなった1989年、この絵は彼自身のコレクションの中にあったそうですよ。

    Sterile efforts 1927年~28年。
    無駄な努力 と訳して良いのかしら? グラナダ出身の詩人ロルカとの関係は、ロルカがニューヨークへと旅立った1929年まで続いたそうです。ロルカは「サルバドール・ダリ」へ捧げる詩を作り、ダリはホモセクシュアルの象徴?である「聖セバスティアーノ」が中央に浮かぶこの絵をロルカに捧げました。ダリが亡くなった1989年、この絵は彼自身のコレクションの中にあったそうですよ。

  • Memory of the child-woman 1929年。<br />もう、タイトルさえ訳せないと思って調べたら、日本語訳は「子ども、女への壮大な記念碑」ですって。<br /><br />「腐敗」の魅力にとりつかれたダリとしては初期の作品に当たります。この夏、カダケスの別荘にいたダリの元へ、ルネ・マグリット夫妻、ルイス・ブニュエルなどと共にポール・エリュアール夫妻が訪れます。そのポール・エリュアール婦人だったのが、ダリの後の妻となった、ご存知ガラですね。<br />

    Memory of the child-woman 1929年。
    もう、タイトルさえ訳せないと思って調べたら、日本語訳は「子ども、女への壮大な記念碑」ですって。

    「腐敗」の魅力にとりつかれたダリとしては初期の作品に当たります。この夏、カダケスの別荘にいたダリの元へ、ルネ・マグリット夫妻、ルイス・ブニュエルなどと共にポール・エリュアール夫妻が訪れます。そのポール・エリュアール婦人だったのが、ダリの後の妻となった、ご存知ガラですね。

  • Face of the great masturbator 1929年 日本語タイトル「大自慰者」!<br /><br />ダリが生涯よく使ったモティーフがここにはすでに出現していますね。アリの集団・・・性的不安。卵・・・繁殖力を表すのだそう。もう黙ってじっくり見るしかありません。

    Face of the great masturbator 1929年 日本語タイトル「大自慰者」!

    ダリが生涯よく使ったモティーフがここにはすでに出現していますね。アリの集団・・・性的不安。卵・・・繁殖力を表すのだそう。もう黙ってじっくり見るしかありません。

  • Systematic cycle, the Lobster 1935年。<br /><br />血の滴る? ような新鮮なロブスターに度肝を抜かれます。凄い写実力!!! 額縁もダリの作品の一部のように見えます。

    Systematic cycle, the Lobster 1935年。

    血の滴る? ような新鮮なロブスターに度肝を抜かれます。凄い写実力!!! 額縁もダリの作品の一部のように見えます。

  • The endless enigma 1938年。「永遠の謎」あるいは「終わりなき謎」と言うタイトルの通り、この絵の中では6つの異なったテーマが扱われているそうです。コートダジュールにある、ココ・シャネルの別荘で描かれたもので、この年に描かれた彼の作品の中でも最も謎めいた、複雑なものと言われています。<br /><br />まだまだたくさんの作品がありましたが、この辺りでお開きにしましょうね。前述したように、常設展を見終わって、ふと時計を見たら14時過ぎ。さあ大変! 急がなくっちゃ! とソフィア王妃芸術センターを飛び出します。<br /><br />マドリッド初日から何故か時間に追われる私・・・

    The endless enigma 1938年。「永遠の謎」あるいは「終わりなき謎」と言うタイトルの通り、この絵の中では6つの異なったテーマが扱われているそうです。コートダジュールにある、ココ・シャネルの別荘で描かれたもので、この年に描かれた彼の作品の中でも最も謎めいた、複雑なものと言われています。

    まだまだたくさんの作品がありましたが、この辺りでお開きにしましょうね。前述したように、常設展を見終わって、ふと時計を見たら14時過ぎ。さあ大変! 急がなくっちゃ! とソフィア王妃芸術センターを飛び出します。

    マドリッド初日から何故か時間に追われる私・・・

  • ソフィア王妃芸術センターの中庭があまりにも美しかったので、ちょっとだけお邪魔しました。雨上がりの緑が大層美しい・・・<br /><br />前述の通り、この美術館の前身はサバティーニの設計によるサン・カルロス病院でした。彼はこの素晴らしい庭も設計しています。<br /><br />で、庭には黒いオブジェがありましたよ。ジョアン・ミロの1966年の作品、Moon birdです。地上と天体の繋がりとして表現されたミロの「鳥」の世界がここでは三次元で表現されています。<br /><br />

    ソフィア王妃芸術センターの中庭があまりにも美しかったので、ちょっとだけお邪魔しました。雨上がりの緑が大層美しい・・・

    前述の通り、この美術館の前身はサバティーニの設計によるサン・カルロス病院でした。彼はこの素晴らしい庭も設計しています。

    で、庭には黒いオブジェがありましたよ。ジョアン・ミロの1966年の作品、Moon birdです。地上と天体の繋がりとして表現されたミロの「鳥」の世界がここでは三次元で表現されています。

  • 彫刻は全部で3点あったようですが、私が気付いたのは2点のみ。こちらは、バスク州サン・セバスチャン出身の彫刻家エドゥアルド・チリダ作のToki Egin。バスク語でMake roomという意味だそうです。 その奥に下の方だけ見えている彫刻が実は3点目で、アレクサンダー・カルダーのCarmen。この時は全く気づいていませんでした。<br /><br />さあ、急げ急げ! ソフィア王妃芸術センターからプラド通りを通って、ティッセン・ボルネミッサ美術館までは歩いても15分程度。途中、プラド美術館を横目に見ながら、これまた緑豊かなプラド通りの中央分離帯を兼ねた公園の中を歩いて行けます。<br /><br />

    彫刻は全部で3点あったようですが、私が気付いたのは2点のみ。こちらは、バスク州サン・セバスチャン出身の彫刻家エドゥアルド・チリダ作のToki Egin。バスク語でMake roomという意味だそうです。 その奥に下の方だけ見えている彫刻が実は3点目で、アレクサンダー・カルダーのCarmen。この時は全く気づいていませんでした。

    さあ、急げ急げ! ソフィア王妃芸術センターからプラド通りを通って、ティッセン・ボルネミッサ美術館までは歩いても15分程度。途中、プラド美術館を横目に見ながら、これまた緑豊かなプラド通りの中央分離帯を兼ねた公園の中を歩いて行けます。

  • ティッセン・ボルネミッサ美術館です。プラドが古典美術、ソフィア王妃が現代美術に特化しているのに対し、ティッセン・ボルネミッサは13世紀~20世紀までの幅広い年代をカバーしています。<br /><br />ドイツの財閥ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵とその息子2代の膨大なコレクションは、1993年にスペイン政府に売却され、プラド美術館の分館だったこちらの瀟洒な建物に所蔵されました。<br /><br />わき目もふらずに走って入場したので、この写真は後刻撮ったものです。

    ティッセン・ボルネミッサ美術館です。プラドが古典美術、ソフィア王妃が現代美術に特化しているのに対し、ティッセン・ボルネミッサは13世紀~20世紀までの幅広い年代をカバーしています。

    ドイツの財閥ハインリッヒ・ティッセン・ボルネミッサ男爵とその息子2代の膨大なコレクションは、1993年にスペイン政府に売却され、プラド美術館の分館だったこちらの瀟洒な建物に所蔵されました。

    わき目もふらずに走って入場したので、この写真は後刻撮ったものです。

  • 建物は3階建てで、元ビリャエルモサ公爵のお屋敷ビリャエルモサ宮殿。現在の外観は煉瓦と花崗岩のファサードが特徴的で、1805年にネオクラシカル様式に改修されたものです。

    建物は3階建てで、元ビリャエルモサ公爵のお屋敷ビリャエルモサ宮殿。現在の外観は煉瓦と花崗岩のファサードが特徴的で、1805年にネオクラシカル様式に改修されたものです。

  • スペイン国王陛下夫妻の絵画が1階ロビーを飾っていました。1992年とありましたから、ティッセン・ボルネミッサ男爵のコレクションが初めてここに運び込まれた年に描かれたものです。

    スペイン国王陛下夫妻の絵画が1階ロビーを飾っていました。1992年とありましたから、ティッセン・ボルネミッサ男爵のコレクションが初めてここに運び込まれた年に描かれたものです。

  • 天井がガラス張りで明るい1階ロビーです。月曜日は本来休館日なのですが、マスターカードの「厚意」により? 12時から16時までの間無料公開されるのです。これがどういうシステムなのかは良く分かりませんが、月曜日に当たったら美術館を諦めなければならない旅行者にとって、大変ありがたいことです。この日に限ってマスターカードが美術館の運営をするのかしら?<br /><br />時はすでに14時45分。もう閉館まで、1時間15分しかありません。と言うわけで、ランチも食べずに突っ走ります。全部は無理なことわかっているので、せめてそのエッセンスだけでも味わいたい・・・相変わらず欲張りだねえ・・・

    天井がガラス張りで明るい1階ロビーです。月曜日は本来休館日なのですが、マスターカードの「厚意」により? 12時から16時までの間無料公開されるのです。これがどういうシステムなのかは良く分かりませんが、月曜日に当たったら美術館を諦めなければならない旅行者にとって、大変ありがたいことです。この日に限ってマスターカードが美術館の運営をするのかしら?

    時はすでに14時45分。もう閉館まで、1時間15分しかありません。と言うわけで、ランチも食べずに突っ走ります。全部は無理なことわかっているので、せめてそのエッセンスだけでも味わいたい・・・相変わらず欲張りだねえ・・・

  • どのフロアだったか覚えていませんが、最初に入ったのはオランダ絵画の部屋です。またまた、だらだらとお気に入りが続きまっせ。町歩きは一切ありません。堪忍!<br />Young man in a feathered cap 1640年<br /><br />「あっ、レンブラント見っけ!」と思いながら近づいて行ったら、違いました。フェルディナント・ボル。17世紀のオランダの画家で、20歳でレンブラントの工房で学び始め、最も優秀な弟子の一人となりました。どおりで間違えたのも無理なかったみたい・・・独立して、自らがマスターとなってからの画風は次第にレンブラントを離れ、フランドル海外の影響を受けて、より柔らかく、よりエレガントになったと言われています。

    どのフロアだったか覚えていませんが、最初に入ったのはオランダ絵画の部屋です。またまた、だらだらとお気に入りが続きまっせ。町歩きは一切ありません。堪忍!
    Young man in a feathered cap 1640年

    「あっ、レンブラント見っけ!」と思いながら近づいて行ったら、違いました。フェルディナント・ボル。17世紀のオランダの画家で、20歳でレンブラントの工房で学び始め、最も優秀な弟子の一人となりました。どおりで間違えたのも無理なかったみたい・・・独立して、自らがマスターとなってからの画風は次第にレンブラントを離れ、フランドル海外の影響を受けて、より柔らかく、よりエレガントになったと言われています。

  • 今度こそレンブラント! と思ったらまたまた違いましたよ。<br /><br />ホーファールト・フリンクのPortrait of a  man 。1647年。彼もまたレンブラントの工房で修行した画家の一人。そのため、若い頃に描いた作品にはレンブラント作との見極めが難しいものも含まれていたそうです。<br />

    今度こそレンブラント! と思ったらまたまた違いましたよ。

    ホーファールト・フリンクのPortrait of a man 。1647年。彼もまたレンブラントの工房で修行した画家の一人。そのため、若い頃に描いた作品にはレンブラント作との見極めが難しいものも含まれていたそうです。

  • で、三度目の正直で、ようやくレンブラントと再会です。<br />何枚もあるSelf-Portraitの内の1枚です。1643年。<br /><br />人の肖像画を描いて初めて報酬がもらえるこの時代の画家にとって、自画像はお金目当てであるわけはなく、純粋に自らの絵の技量を高めるために描いたと思われます。レンブラントは1606年生まれですから、37歳の頃の肖像です。

    で、三度目の正直で、ようやくレンブラントと再会です。
    何枚もあるSelf-Portraitの内の1枚です。1643年。

    人の肖像画を描いて初めて報酬がもらえるこの時代の画家にとって、自画像はお金目当てであるわけはなく、純粋に自らの絵の技量を高めるために描いたと思われます。レンブラントは1606年生まれですから、37歳の頃の肖像です。

  • ルーベンス2点。1枚目はPortrait of a Young Woman with a Rosary 1609年~10年です。女性が誰なのかはわかっていません。1609年、イタリア滞在から故郷アントワープに戻ってきたルーベンスには2つの重要なイベントが待ち構えていました。<br /><br />一つは政府高官で有力者、学者でもあるジャン・ブランドの娘イサベラとの結婚。そしてもう一つはネーデルランド総督アルベルト大公とイザベラ皇女の宮廷画家に迎えられたことです。イザベラ皇女との信頼関係は深く、後にルーベンスは外交官としての役割も果たすことになります。

    ルーベンス2点。1枚目はPortrait of a Young Woman with a Rosary 1609年~10年です。女性が誰なのかはわかっていません。1609年、イタリア滞在から故郷アントワープに戻ってきたルーベンスには2つの重要なイベントが待ち構えていました。

    一つは政府高官で有力者、学者でもあるジャン・ブランドの娘イサベラとの結婚。そしてもう一つはネーデルランド総督アルベルト大公とイザベラ皇女の宮廷画家に迎えられたことです。イザベラ皇女との信頼関係は深く、後にルーベンスは外交官としての役割も果たすことになります。

  • 2枚目はVenus with Cupid and Mirror 1606年~1611年。<br /><br />8年に及ぶイタリア滞在で最も影響を受けたと言われるティッツィアーノの「ヴィーナスとキューピッド」(現在は喪失)のコピーと言われています。神話に登場する鏡を覗くビーナスは沢山の画家が手掛けていますね。神話に出てくるという理由以外では裸婦を描くことができなかった時代でした。<br /><br />やっぱりイタリア絵画って良いなあ と思わずため息をついてしまいました。ルーベンスですけれどね。

    2枚目はVenus with Cupid and Mirror 1606年~1611年。

    8年に及ぶイタリア滞在で最も影響を受けたと言われるティッツィアーノの「ヴィーナスとキューピッド」(現在は喪失)のコピーと言われています。神話に登場する鏡を覗くビーナスは沢山の画家が手掛けていますね。神話に出てくるという理由以外では裸婦を描くことができなかった時代でした。

    やっぱりイタリア絵画って良いなあ と思わずため息をついてしまいました。ルーベンスですけれどね。

  • ヤン・ブリューゲル「父」のChrist in the storm on the sea of Galalee 1596年。<br /><br />ヤンは彼が子供の頃に亡くなったペーター・ブリューゲルの次男で、同名の息子ヤン・ブリューゲルの父、そしてペーターの長男ペーター・ブリューゲルの弟になります。ヤヤコシイ。<br /><br />新約聖書に出てくる、キリストがガラリヤ湖の嵐を鎮めるエピソードが描かれているということですが、よく見ると、嵐の中で唯一寝ている男性がキリストではないかしら? パウロらしき人物が今まさにキリストを起こそうとしているように見えます。

    ヤン・ブリューゲル「父」のChrist in the storm on the sea of Galalee 1596年。

    ヤンは彼が子供の頃に亡くなったペーター・ブリューゲルの次男で、同名の息子ヤン・ブリューゲルの父、そしてペーターの長男ペーター・ブリューゲルの弟になります。ヤヤコシイ。

    新約聖書に出てくる、キリストがガラリヤ湖の嵐を鎮めるエピソードが描かれているということですが、よく見ると、嵐の中で唯一寝ている男性がキリストではないかしら? パウロらしき人物が今まさにキリストを起こそうとしているように見えます。

  • A winter landscape with a village, skaters on a frozen river, and hunters in the foreground. <br /><br />フラマン派の風景画家ヤコブ・グリマーについては、あまり日本では知られていないようですが、平凡な村の冬の情景がとても生き生きと描かれていて、じっと見入ってしまいました。凍った川でスケートを楽しむ人々、犬を連れて狩りをする人々、そして三角形の屋根に雪が積もった村の建物が背景に広がっています。鉛色の雲が空を覆っていますが、冬の情景ですが陰気ではなく、よく見ると、しりもちをついて転んでいる人がいたりして、思わずくすっと笑いたくなるおおらかさが見られます。<br /><br />グリマーは1525年生まれ、1590年に亡くなっていますが、絵の制作年については殆どわかっていません。

    A winter landscape with a village, skaters on a frozen river, and hunters in the foreground. 

    フラマン派の風景画家ヤコブ・グリマーについては、あまり日本では知られていないようですが、平凡な村の冬の情景がとても生き生きと描かれていて、じっと見入ってしまいました。凍った川でスケートを楽しむ人々、犬を連れて狩りをする人々、そして三角形の屋根に雪が積もった村の建物が背景に広がっています。鉛色の雲が空を覆っていますが、冬の情景ですが陰気ではなく、よく見ると、しりもちをついて転んでいる人がいたりして、思わずくすっと笑いたくなるおおらかさが見られます。

    グリマーは1525年生まれ、1590年に亡くなっていますが、絵の制作年については殆どわかっていません。

  • ジャン・オノレ・フラゴナールの Portrait of a Young Lady 1770年~72年。<br />フラゴナールはフランスロココ期(18世紀)の画家ですが、フランドルの巨匠レンブラントやルーベンスの影響を強く受けています。<br />これは、彼の絶頂期ともいえる時期に描かれた作品で、かすかに首を傾げた女性のポーズがとても印象的です。

    ジャン・オノレ・フラゴナールの Portrait of a Young Lady 1770年~72年。
    フラゴナールはフランスロココ期(18世紀)の画家ですが、フランドルの巨匠レンブラントやルーベンスの影響を強く受けています。
    これは、彼の絶頂期ともいえる時期に描かれた作品で、かすかに首を傾げた女性のポーズがとても印象的です。

  • ジュセッペ・マリア・クレスピ通称スパニョーロ(スペイン人)は ボローニャ派に属するイタリア後期バロック期の画家です。スペイン人のような タイトな衣装を身に付けていたことからスパニョーロと呼ばれていました。<br /><br />とても小さな作品ですが、左がInterior with a Family of Peasants、右がPeasants with Donkeys ともに1709年頃の作品です。二つの絵とも、オリジナルは長方形のキャンバスに描かれたものを誰かが楕円形の額の中に入れたとされています。何故でしょう?

    ジュセッペ・マリア・クレスピ通称スパニョーロ(スペイン人)は ボローニャ派に属するイタリア後期バロック期の画家です。スペイン人のような タイトな衣装を身に付けていたことからスパニョーロと呼ばれていました。

    とても小さな作品ですが、左がInterior with a Family of Peasants、右がPeasants with Donkeys ともに1709年頃の作品です。二つの絵とも、オリジナルは長方形のキャンバスに描かれたものを誰かが楕円形の額の中に入れたとされています。何故でしょう?

  • 19世紀のアメリカに飛びます。湿地の夕焼けを描いたのは、マーティン・ジョンソン・ヘイド。マーシュと呼ばれる湿地や海の風景、熱帯の鳥や花々などの静物画を得意としています。The Marshes at Rhode Island 1866年。<br /><br />手付かずではなく、人間の手が明らかに入った自然です。行ったことすらないのに何故か懐かしささえ感じます。

    19世紀のアメリカに飛びます。湿地の夕焼けを描いたのは、マーティン・ジョンソン・ヘイド。マーシュと呼ばれる湿地や海の風景、熱帯の鳥や花々などの静物画を得意としています。The Marshes at Rhode Island 1866年。

    手付かずではなく、人間の手が明らかに入った自然です。行ったことすらないのに何故か懐かしささえ感じます。

  • もう1枚ヘイドの作品を紹介しましょう。あまりにも写真の撮り方がひどいので散々迷ったのですが、こちらにも目を奪われました。 Sunrise in Nicaragua 1869年の作品です。<br /><br />強烈な熱帯の太陽が木々の根っこから枝先まで光の洗礼を浴びせかけた瞬間を捉えています。

    もう1枚ヘイドの作品を紹介しましょう。あまりにも写真の撮り方がひどいので散々迷ったのですが、こちらにも目を奪われました。 Sunrise in Nicaragua 1869年の作品です。

    強烈な熱帯の太陽が木々の根っこから枝先まで光の洗礼を浴びせかけた瞬間を捉えています。

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロは18世紀末に生まれたフランスの画家ですが、一瞬20世紀の画家かと勘違いするほど、モダンで近代的な感覚の持ち主。彼の絵が印象派、ポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムの画家達に多大な影響を与えたと言われているのも、なるほどとうなづけます。<br /><br />Diana bathing 1869年~70年。狩猟、貞節と月の女神であるダイアナの水浴び とありますが、どう見ても生身の人間の女性ですよ。

    イチオシ

    ジャン=バティスト・カミーユ・コロは18世紀末に生まれたフランスの画家ですが、一瞬20世紀の画家かと勘違いするほど、モダンで近代的な感覚の持ち主。彼の絵が印象派、ポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムの画家達に多大な影響を与えたと言われているのも、なるほどとうなづけます。

    Diana bathing 1869年~70年。狩猟、貞節と月の女神であるダイアナの水浴び とありますが、どう見ても生身の人間の女性ですよ。

  • Watermill at Gennep 1834年。<br /><br />ヴァン・ゴッホは1883年~5年にかけて、オランダ南東部に位置するヌエネンの町に滞在していました。ゴッホはこの水車の絵を1834年の11月、まだ雪が降らない時期に3枚描いていて、そのスケッチ及び彩色の様子を弟のテオ宛手紙で知らせています。

    Watermill at Gennep 1834年。

    ヴァン・ゴッホは1883年~5年にかけて、オランダ南東部に位置するヌエネンの町に滞在していました。ゴッホはこの水車の絵を1834年の11月、まだ雪が降らない時期に3枚描いていて、そのスケッチ及び彩色の様子を弟のテオ宛手紙で知らせています。

  • 続いてカナレット2点です。こちらは、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に離接するスクォーラ・グランデ・ディ・サン・マルコを描いた1765年の作品。晩年に近い作品です。

    続いてカナレット2点です。こちらは、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に離接するスクォーラ・グランデ・ディ・サン・マルコを描いた1765年の作品。晩年に近い作品です。

  • 2017年11月にヴェネツィアを訪れた際に写したスクォーラ・グランデ・ディ・サン・マルコ。大層優美な建物です。200年以上前と殆ど変わっていないのに驚かされます。カナレットは意識的に右側半分を省きましたね。

    2017年11月にヴェネツィアを訪れた際に写したスクォーラ・グランデ・ディ・サン・マルコ。大層優美な建物です。200年以上前と殆ど変わっていないのに驚かされます。カナレットは意識的に右側半分を省きましたね。

  • こちらは御馴染サン・マルコ広場。広場の手前にある現在コッレール博物館となっている建物の2階から描いたものと思われます。View of piazza san marco 1723年。カナレット26歳の時の作品です。左側の建物の3階に洗濯物と思しきものが干してあるのがご愛敬。流石に今はないでしょうね。

    こちらは御馴染サン・マルコ広場。広場の手前にある現在コッレール博物館となっている建物の2階から描いたものと思われます。View of piazza san marco 1723年。カナレット26歳の時の作品です。左側の建物の3階に洗濯物と思しきものが干してあるのがご愛敬。流石に今はないでしょうね。

  • 踊り子を描かせたら天下一品のエドガ-・ドガの Racehorses in a Landscape。1894年。正式な衣装を身に着けた騎手の一団が、夕日に照らされた丘陵地帯の魅力的な風景の中で、クロスカントリーレースの準備をしています。まるでイギリスの風景のように見えますね。

    踊り子を描かせたら天下一品のエドガ-・ドガの Racehorses in a Landscape。1894年。正式な衣装を身に着けた騎手の一団が、夕日に照らされた丘陵地帯の魅力的な風景の中で、クロスカントリーレースの準備をしています。まるでイギリスの風景のように見えますね。

  • 17世紀フィレンツェの画家カルロ・ドルチの The Infant Christ with a Floral Wreath 1663年。<br /><br />余りにもあどけなく可愛らしい幼いキリストですが、彼の持っている花輪は、後に彼の身に降りかかる茨の冠を連想させる不吉な暗示として描かれているそうです。

    17世紀フィレンツェの画家カルロ・ドルチの The Infant Christ with a Floral Wreath 1663年。

    余りにもあどけなく可愛らしい幼いキリストですが、彼の持っている花輪は、後に彼の身に降りかかる茨の冠を連想させる不吉な暗示として描かれているそうです。

  • Chirst and the samaritan woman 1640年~41年。<br />ボローニャ派のグエルチーノ(やぶにらみという意味)の作品。新約聖書「ヨハネによる福音書」に出てくるキリストとサマリア人の女性の対話を題材にしています。このサマリア人は5人も男がいる身持ちの悪い女なんですって。<br /><br />グエルチーノがローマから故郷のチェントに戻っていたころの作品で、くっきりとした筆遣いでとても分かりやすい絵に仕上がっています。

    Chirst and the samaritan woman 1640年~41年。
    ボローニャ派のグエルチーノ(やぶにらみという意味)の作品。新約聖書「ヨハネによる福音書」に出てくるキリストとサマリア人の女性の対話を題材にしています。このサマリア人は5人も男がいる身持ちの悪い女なんですって。

    グエルチーノがローマから故郷のチェントに戻っていたころの作品で、くっきりとした筆遣いでとても分かりやすい絵に仕上がっています。

  • ここはスペインなのに…と思っていましたが、ようやくスペイン人画家の登場です。ムリーリョのMadonna and child with saint Rose of Viterbo。 1670年頃。<br /><br />ヴィテルボの聖ローザは13世紀のイタリアヴィテルボ出身で、幼いころから様々な奇跡を行い、8歳の時に神の法悦を受け、わずか18歳で亡くなったフランシスコ会の聖女です。ムリーリョは人生の大部分を故郷セビリアで過ごし、多くの修道院や教会を飾る絵を制作していました。ムリーリョの特徴であるソフトで繊細な画法が良く見て取れる1枚です。

    ここはスペインなのに…と思っていましたが、ようやくスペイン人画家の登場です。ムリーリョのMadonna and child with saint Rose of Viterbo。 1670年頃。

    ヴィテルボの聖ローザは13世紀のイタリアヴィテルボ出身で、幼いころから様々な奇跡を行い、8歳の時に神の法悦を受け、わずか18歳で亡くなったフランシスコ会の聖女です。ムリーリョは人生の大部分を故郷セビリアで過ごし、多くの修道院や教会を飾る絵を制作していました。ムリーリョの特徴であるソフトで繊細な画法が良く見て取れる1枚です。

  • Santa Casilda 私の大好きなスペイン17世紀前半の画家スルバランの登場。一目見て虜になった作品です。1630年~35年頃。<br /><br />そもそも聖カシルダを知らないので調べてみました。このエキゾティックな衣装、顔つき からもわかる通り、カシルダはブルゴスに生まれたアラブ人の王女で、父の意に背いてイスラム教を捨てキリスト教へ改宗。ある日父の囚人であったキリスト教徒達に与えるために隠し持っていた食料が見つけられそうになりますが、それがたちまちバラの花に変わるという奇跡を起こします。そして1087年に殉教と言う道をたどった聖女であることが分かりました。なるほど、両手にアトリビュートであるバラとパンのかけらを携えていますね。<br /><br /><br />この絵はペルーにある修道院のために24人の女性殉教者を描いたうちの1枚でした。スルバランは他にも聖カシルダらしき人物を描いており、そのうちの1枚は(ポルトガルのイザベラ王女?)という?つきでプラド美術館に所蔵されています。ほぼ同じ構図ですが、個人的にはこちらの方が好みです。

    イチオシ

    Santa Casilda 私の大好きなスペイン17世紀前半の画家スルバランの登場。一目見て虜になった作品です。1630年~35年頃。

    そもそも聖カシルダを知らないので調べてみました。このエキゾティックな衣装、顔つき からもわかる通り、カシルダはブルゴスに生まれたアラブ人の王女で、父の意に背いてイスラム教を捨てキリスト教へ改宗。ある日父の囚人であったキリスト教徒達に与えるために隠し持っていた食料が見つけられそうになりますが、それがたちまちバラの花に変わるという奇跡を起こします。そして1087年に殉教と言う道をたどった聖女であることが分かりました。なるほど、両手にアトリビュートであるバラとパンのかけらを携えていますね。


    この絵はペルーにある修道院のために24人の女性殉教者を描いたうちの1枚でした。スルバランは他にも聖カシルダらしき人物を描いており、そのうちの1枚は(ポルトガルのイザベラ王女?)という?つきでプラド美術館に所蔵されています。ほぼ同じ構図ですが、個人的にはこちらの方が好みです。

  • 懺悔するヒエロニムスを描いたのはスペイン人画家フセーペ・デ・リベラ。1634年。その頃スペイン領だったナポリに長く住んでいて、主にイタリアで活躍したバロック期の画家です。写実に優れ、光と影のコントラストの強い画風は、カラバッジョの影響を強く受けていると言われています。これも好きな1枚。

    懺悔するヒエロニムスを描いたのはスペイン人画家フセーペ・デ・リベラ。1634年。その頃スペイン領だったナポリに長く住んでいて、主にイタリアで活躍したバロック期の画家です。写実に優れ、光と影のコントラストの強い画風は、カラバッジョの影響を強く受けていると言われています。これも好きな1枚。

  • で見つけちゃいました。カラヴァッジョ。訪れた甲斐がありました。Saint Catherine of Alexandria 1597年。<br /><br />この作品はカラバッジョの最初のパトロン フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿によって依頼されたものです。モデルはカラヴァッジョが当時恋こがれていた娼婦のフィリデ・メランドロニ。彼女はこの時期のカラヴァッジョの絵に多数描かれています。カラヴァッジョがローマで人を殺めたのは、他でもないこのフィリデがカラヴァッジョより先に付き合っていた相手だったんですよ。

    イチオシ

    で見つけちゃいました。カラヴァッジョ。訪れた甲斐がありました。Saint Catherine of Alexandria 1597年。

    この作品はカラバッジョの最初のパトロン フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿によって依頼されたものです。モデルはカラヴァッジョが当時恋こがれていた娼婦のフィリデ・メランドロニ。彼女はこの時期のカラヴァッジョの絵に多数描かれています。カラヴァッジョがローマで人を殺めたのは、他でもないこのフィリデがカラヴァッジョより先に付き合っていた相手だったんですよ。

  • イタリアはローマで活躍したトマゾ・サリーニのYoung peasant with flank。光の具合、構図、背景等々、カラヴァッジョの影響を強く受けているのは一目見て分かりますね。1610年頃。

    イタリアはローマで活躍したトマゾ・サリーニのYoung peasant with flank。光の具合、構図、背景等々、カラヴァッジョの影響を強く受けているのは一目見て分かりますね。1610年頃。

  • マニエリズムとティッツィアーノとティントレットの影響が色濃く見られるエル・グレコの「受胎告知」です。1567年~77年。エル・グレコがクレタ島からヴェネツィアに渡った1567年から10年間滞在したイタリア時代の作品(26~36歳頃)と言われています。1577年にはマドリッドにいたことが記録にあるそうです。<br /><br />1枚下の「受胎告知」との対比を楽しみました。

    マニエリズムとティッツィアーノとティントレットの影響が色濃く見られるエル・グレコの「受胎告知」です。1567年~77年。エル・グレコがクレタ島からヴェネツィアに渡った1567年から10年間滞在したイタリア時代の作品(26~36歳頃)と言われています。1577年にはマドリッドにいたことが記録にあるそうです。

    1枚下の「受胎告知」との対比を楽しみました。

  • どうやっても光が入り込んでしまって、上手く撮れなかったのが残念!こちらは1596年~1600年頃。上の絵から四半世紀を経て描かれた「受胎告知」です。オリジナルはプラド美術館にあるので、こちらはそのレプリカですね。<br /><br />ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院にあった祭壇衝立を構成する1枚です。衝立はナポレオン戦争で破壊され、全部で6枚の作品は現在マドリッドとブカレストに別れてあります。2015年に訪れた大塚国際美術館で、推定復元された衝立を見ましたが、この絵は祭壇中央を飾っていました。

    どうやっても光が入り込んでしまって、上手く撮れなかったのが残念!こちらは1596年~1600年頃。上の絵から四半世紀を経て描かれた「受胎告知」です。オリジナルはプラド美術館にあるので、こちらはそのレプリカですね。

    ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院にあった祭壇衝立を構成する1枚です。衝立はナポレオン戦争で破壊され、全部で6枚の作品は現在マドリッドとブカレストに別れてあります。2015年に訪れた大塚国際美術館で、推定復元された衝立を見ましたが、この絵は祭壇中央を飾っていました。

  • 1607年から1613年、エル・グレコ晩年の作「無原罪の御宿り」です。彼はすでに2枚「無原罪の御宿り」を描いていて、本品が3枚目。前の2作と比べて、聖母の周りの天使達、ケルビム達(旧約聖書の超人的存在)の存在が強調されていて、より幻想的な仕上がりを見せています。

    1607年から1613年、エル・グレコ晩年の作「無原罪の御宿り」です。彼はすでに2枚「無原罪の御宿り」を描いていて、本品が3枚目。前の2作と比べて、聖母の周りの天使達、ケルビム達(旧約聖書の超人的存在)の存在が強調されていて、より幻想的な仕上がりを見せています。

  • もう1枚。これも光が入って、ひどい写真になってしまいました。Christ with the cross。1602年~07年の作品です。<br /><br />宙を見つめるキリストの目が実に印象的です。

    もう1枚。これも光が入って、ひどい写真になってしまいました。Christ with the cross。1602年~07年の作品です。

    宙を見つめるキリストの目が実に印象的です。

  • ティントレット2枚。こちらはAnnunciation to the wife of Manoah 1555年~58年。マノアというのは士師記に出てくる英雄サムソンの父。「受胎告知」同様、あなたの妻に子供が生まれる云々のお告げがあり、サムソンが生まれてくるという寸法。ちょっと頼りなさそうだけれど、右側にいるのが天使です。キリスト以前から神のお告げは一般人に対してもあったということが初めて分かりました。<br /><br />絵自体はそれほど面白味はありませんねえ。

    ティントレット2枚。こちらはAnnunciation to the wife of Manoah 1555年~58年。マノアというのは士師記に出てくる英雄サムソンの父。「受胎告知」同様、あなたの妻に子供が生まれる云々のお告げがあり、サムソンが生まれてくるという寸法。ちょっと頼りなさそうだけれど、右側にいるのが天使です。キリスト以前から神のお告げは一般人に対してもあったということが初めて分かりました。

    絵自体はそれほど面白味はありませんねえ。

  • ティントレット2作目。上の1枚と構図がとてもよく似ています。旧約聖書創世記から「ユダとタマルの出会い」。こちらも1555年~58年。この二人の関係はとても複雑。息子2人の嫁と舅の関係なのですが、なんとこの後、タマルはユダの双子の子供を産んでしまうのです。<br /><br />ティントレットは意図的にこの2枚を非常に似通った構成に仕上げたようです。2枚並べてみて、現地では気が付かなかった類似点が浮かび上がってきました。

    ティントレット2作目。上の1枚と構図がとてもよく似ています。旧約聖書創世記から「ユダとタマルの出会い」。こちらも1555年~58年。この二人の関係はとても複雑。息子2人の嫁と舅の関係なのですが、なんとこの後、タマルはユダの双子の子供を産んでしまうのです。

    ティントレットは意図的にこの2枚を非常に似通った構成に仕上げたようです。2枚並べてみて、現地では気が付かなかった類似点が浮かび上がってきました。

  • 15から6世紀にかけてのフランドルの画家で、主にアントワープで活躍したヤン・デ・ベアについては、全く知識がありません。一風変わった「受胎告知」だったのでご紹介。1520年頃。<br /><br />天使ガブリエルがやってきた時に、マリアは御裁縫をしていたのではと思われる少々乱れた室内の様子が興味深いです。左側にいる白い動物は猫でしょうか? 子羊のような頭をしていますが、しっぽはやはり猫のよう・・・

    15から6世紀にかけてのフランドルの画家で、主にアントワープで活躍したヤン・デ・ベアについては、全く知識がありません。一風変わった「受胎告知」だったのでご紹介。1520年頃。

    天使ガブリエルがやってきた時に、マリアは御裁縫をしていたのではと思われる少々乱れた室内の様子が興味深いです。左側にいる白い動物は猫でしょうか? 子羊のような頭をしていますが、しっぽはやはり猫のよう・・・

  • Hercules at the court of Omphale  ハンス・クラナッハ作 1537年<br /><br />ギリシャ神話によれば、ヘラクレスは権力闘争の中でエウリュトスの子イーピトスを殺し、その結果3年間奴隷として身を売られます。彼を買ったのがリュディアの女王だったオンファーレ。この絵はオンファーレの宮殿にいた時のヘラクレスを描いたものです。3人の女性に囲まれ、流石のヘラクレスも骨抜きにされてしまっているように思われます。女性の服を着せられ、糸紬をしている場面ですって!<br /><br />ハンス・クラナッハは著名なルーカス・クラナッハの長男ですが、24歳で亡くなっています。彼の作品だと判明しているのはわずか2作品しかないそうですよ。<br /><br />オンファーレについては、父が彼女を描いた作品も有名ですね。

    Hercules at the court of Omphale  ハンス・クラナッハ作 1537年

    ギリシャ神話によれば、ヘラクレスは権力闘争の中でエウリュトスの子イーピトスを殺し、その結果3年間奴隷として身を売られます。彼を買ったのがリュディアの女王だったオンファーレ。この絵はオンファーレの宮殿にいた時のヘラクレスを描いたものです。3人の女性に囲まれ、流石のヘラクレスも骨抜きにされてしまっているように思われます。女性の服を着せられ、糸紬をしている場面ですって!

    ハンス・クラナッハは著名なルーカス・クラナッハの長男ですが、24歳で亡くなっています。彼の作品だと判明しているのはわずか2作品しかないそうですよ。

    オンファーレについては、父が彼女を描いた作品も有名ですね。

  • で、こちらがハンスの父親 ルーカス・クラナッハ(父)の作品 Reclining nymph。1530年~34年。<br /><br />左上の碑文にはこう書かれています。「私は神聖な噴水の妖精。私が休んでいる間は、睡眠を妨げないでください」クラナッハは横たわる水の妖精を何点も描いていて、最も有名なものは「泉のニンフ」と題した作品。リバプールのウォーカー美術館にあります。

    で、こちらがハンスの父親 ルーカス・クラナッハ(父)の作品 Reclining nymph。1530年~34年。

    左上の碑文にはこう書かれています。「私は神聖な噴水の妖精。私が休んでいる間は、睡眠を妨げないでください」クラナッハは横たわる水の妖精を何点も描いていて、最も有名なものは「泉のニンフ」と題した作品。リバプールのウォーカー美術館にあります。

  • ミヒャエル・ヴォルゲムートはニュルンベルクで15~16世紀にかけて活躍した、画家兼木版画家で、アルブレヒト・ドューラーの師でした。<br /><br />Portrait of Levinus Memminger  1485年。<br /><br />メンミンガー氏の背景にはニュールンベルグのローレンツ教会にある聖カテリナ礼拝堂の祭壇が描きこまれています。

    ミヒャエル・ヴォルゲムートはニュルンベルクで15~16世紀にかけて活躍した、画家兼木版画家で、アルブレヒト・ドューラーの師でした。

    Portrait of Levinus Memminger 1485年。

    メンミンガー氏の背景にはニュールンベルグのローレンツ教会にある聖カテリナ礼拝堂の祭壇が描きこまれています。

  • そしてヴォルゲムートの素晴らしい弟子であるアルブレヒト・デューラーのJesus among the Doctors 1506年。<br /><br />大変ポピュラーな絵の題材で、画家の名前が「アルベルト・ドゥレーロ」とイタリア式で書かれていたので調べてみたら、デューラー二度目のイタリア訪問中、ヴェネツィアで描かれた作品とのことでした。6人もの博士たちの顔はともかく、詳細に描きこまれた手の迫力にびっくり!<br /><br />中央の少年キリストの手と殆ど絡み合うばかりの横顔の博士の手は何を暗示しているのでしょう? 左手前の博士が持っている本の中に挟まった栞に、制作年とデューラーのサインがありますよ。

    イチオシ

    そしてヴォルゲムートの素晴らしい弟子であるアルブレヒト・デューラーのJesus among the Doctors 1506年。

    大変ポピュラーな絵の題材で、画家の名前が「アルベルト・ドゥレーロ」とイタリア式で書かれていたので調べてみたら、デューラー二度目のイタリア訪問中、ヴェネツィアで描かれた作品とのことでした。6人もの博士たちの顔はともかく、詳細に描きこまれた手の迫力にびっくり!

    中央の少年キリストの手と殆ど絡み合うばかりの横顔の博士の手は何を暗示しているのでしょう? 左手前の博士が持っている本の中に挟まった栞に、制作年とデューラーのサインがありますよ。

  • ドメニコ・ベッカフミのMadonna and child with St. John and St. Jerome 1523年~24年。トスカーナを中心に活躍したマニエリズム期の画家で、ヴァザーリの書にも登場します。<br /><br />マドンナの青と緑の衣装が大変目を惹きますね。彼の代表作はシエナにあって、シエナ大聖堂のモザイクの床も彼に依頼されたことを知りました。シエナにはどうしてもまた行かなくっちゃ。

    ドメニコ・ベッカフミのMadonna and child with St. John and St. Jerome 1523年~24年。トスカーナを中心に活躍したマニエリズム期の画家で、ヴァザーリの書にも登場します。

    マドンナの青と緑の衣装が大変目を惹きますね。彼の代表作はシエナにあって、シエナ大聖堂のモザイクの床も彼に依頼されたことを知りました。シエナにはどうしてもまた行かなくっちゃ。

  • ヴェネツィア派第一世代の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニの Nunc dimittis。このタイトルのラテン語は「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」・・・と言っても全く分かりませんが、著名なキリスト教聖歌の終課で歌われるシメオンの賛歌だそうです。幼子キリストの初めての神殿参りで、シメオンに抱かれる場面はよくみられますが、この絵には近くに神殿はなさそうです。しかし、幼子を手で受け止めている右側の男性は間違いなく抱神者シメオンでしょう。1505年~10年。<br /><br />デューラーが上記のJesus among the Doctorsを描いた時、ベッリーニはすでに70代に入っていましたが、その絶大な影響力はいささかも衰えておらず、デューラーは彼を「絵画芸術の最高峰」と評しました。<br /><br />人物の描写はもちろんですが、背後の風景描写があまりにも美しくて、思わず涙が出そうになりました。<br /><br /><br />

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    ヴェネツィア派第一世代の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニの Nunc dimittis。このタイトルのラテン語は「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」・・・と言っても全く分かりませんが、著名なキリスト教聖歌の終課で歌われるシメオンの賛歌だそうです。幼子キリストの初めての神殿参りで、シメオンに抱かれる場面はよくみられますが、この絵には近くに神殿はなさそうです。しかし、幼子を手で受け止めている右側の男性は間違いなく抱神者シメオンでしょう。1505年~10年。

    デューラーが上記のJesus among the Doctorsを描いた時、ベッリーニはすでに70代に入っていましたが、その絶大な影響力はいささかも衰えておらず、デューラーは彼を「絵画芸術の最高峰」と評しました。

    人物の描写はもちろんですが、背後の風景描写があまりにも美しくて、思わず涙が出そうになりました。


  • ジョヴァンニ・ベッリーニの兄ジェンティーレの「受胎告知」です。1465年。受胎告知は好きなテーマなので、どの作品を見ても楽しめるのですが、この絵でも二人の立ち位置について画家がどのように思いを巡らせ設定したのかを考えながら鑑賞しました。無人の狭い通りで跪くガブリエル、ポルティコでブックスタンドに本を広げて読書していたらしいマリア、まるで劇場のセットのように見えますね。 

    ジョヴァンニ・ベッリーニの兄ジェンティーレの「受胎告知」です。1465年。受胎告知は好きなテーマなので、どの作品を見ても楽しめるのですが、この絵でも二人の立ち位置について画家がどのように思いを巡らせ設定したのかを考えながら鑑賞しました。無人の狭い通りで跪くガブリエル、ポルティコでブックスタンドに本を広げて読書していたらしいマリア、まるで劇場のセットのように見えますね。 

  • フィレンツェ出身のアンドレア デッラ・ロッビアの作品がありました。描かれているのは、古代キリスト教の神学者で哲学者でもある聖アウグスティヌス。珍しく髭のないアウグスティヌスです。1490年頃。<br /><br />このトンド(円形画または円形の浮彫)は元々は4つで1セットになって教会を飾っていた装飾品で、そのうち二つはベルリンのボーデ美術館所蔵、残り一つは行方不明だそうです。どのトンドにもラテン教父、教会博士の姿があり、ベルリンにある二つには聖グレゴリー大王とミラノの守護聖人聖アンブローズが、失われた一つにはヒエロニムス(聖ジェローム)が描かれているそうですよ。

    フィレンツェ出身のアンドレア デッラ・ロッビアの作品がありました。描かれているのは、古代キリスト教の神学者で哲学者でもある聖アウグスティヌス。珍しく髭のないアウグスティヌスです。1490年頃。

    このトンド(円形画または円形の浮彫)は元々は4つで1セットになって教会を飾っていた装飾品で、そのうち二つはベルリンのボーデ美術館所蔵、残り一つは行方不明だそうです。どのトンドにもラテン教父、教会博士の姿があり、ベルリンにある二つには聖グレゴリー大王とミラノの守護聖人聖アンブローズが、失われた一つにはヒエロニムス(聖ジェローム)が描かれているそうですよ。

  • まだ1フロア分しか見ていないのに、もう時間切れ。ムムム・・・出口に押しやろうとする守衛さんを出し抜いて、大急ぎで残りの部屋を駆け回ります。<br /><br />見逃した部分も多かったけれど、ティッセン・ボルネミッサ美術館での最後を飾ったここから4枚の「肖像画シリーズ」息を呑むような美しさの連続でした。本当にうっとりです。<br /><br />まずはピエロ・デッラ・フランチェスカのPortrait of a child。1483年頃。子供の名前については、ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの息子グイドバルド(1472年生まれ)だという説があります。ピエロには有名なフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻を描いた横向きの肖像画がありますからね。<br /><br />この絵についてはいろいろなうわさがついて回り、最初はラファエロ・サンテイの父親ジョヴァンニが6歳のラファエロを描いたという説が有力でしたが、絵の修復作業により、そうではないことが明らかになり、1964年になってようやくピエロの作だという結論に達したのだそうです。

    イチオシ

    まだ1フロア分しか見ていないのに、もう時間切れ。ムムム・・・出口に押しやろうとする守衛さんを出し抜いて、大急ぎで残りの部屋を駆け回ります。

    見逃した部分も多かったけれど、ティッセン・ボルネミッサ美術館での最後を飾ったここから4枚の「肖像画シリーズ」息を呑むような美しさの連続でした。本当にうっとりです。

    まずはピエロ・デッラ・フランチェスカのPortrait of a child。1483年頃。子供の名前については、ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの息子グイドバルド(1472年生まれ)だという説があります。ピエロには有名なフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻を描いた横向きの肖像画がありますからね。

    この絵についてはいろいろなうわさがついて回り、最初はラファエロ・サンテイの父親ジョヴァンニが6歳のラファエロを描いたという説が有力でしたが、絵の修復作業により、そうではないことが明らかになり、1964年になってようやくピエロの作だという結論に達したのだそうです。

  • Portraito of an infanta 少年に続いては、とこか東洋風に見える少女の肖像画。アラゴン王国のカタリナ(イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃)の少女時代と言う説が有力ですが、確定していません。描いたのはフアン・デ・フランデス。スペインで活躍しましたが、フランドル地方出身の画家です。<br /><br />自分の運命を知っているかのような、物憂げな少女の思いが伝わってくるように思えます。枯れた?バラを掴む親指と人差し指も何かを象徴しているかのようです。

    Portraito of an infanta 少年に続いては、とこか東洋風に見える少女の肖像画。アラゴン王国のカタリナ(イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃)の少女時代と言う説が有力ですが、確定していません。描いたのはフアン・デ・フランデス。スペインで活躍しましたが、フランドル地方出身の画家です。

    自分の運命を知っているかのような、物憂げな少女の思いが伝わってくるように思えます。枯れた?バラを掴む親指と人差し指も何かを象徴しているかのようです。

  • アラゴン王国カタリーナと結婚したのは、こちらイングランド王ヘンリー8世です。世継ぎの男の子が出来ないために、カトリックをやめて英国国教会を作り、なんと6度も結婚したということでも知られていますね。ようやく生まれて9歳で即位したエドワード6世は15歳で亡くなり、結局後を継いだのは、アラゴンのカタリーナとの娘メアリー1世ということになります。皮肉ですねえ。<br /><br />強烈なパーソナリティが伝わってくるこの肖像画を描いたのはハンス・ホルバイン(父)。アウグスブルグ出身のドイツ人ですが、イギリスで活躍しました。 1534年~36年。

    アラゴン王国カタリーナと結婚したのは、こちらイングランド王ヘンリー8世です。世継ぎの男の子が出来ないために、カトリックをやめて英国国教会を作り、なんと6度も結婚したということでも知られていますね。ようやく生まれて9歳で即位したエドワード6世は15歳で亡くなり、結局後を継いだのは、アラゴンのカタリーナとの娘メアリー1世ということになります。皮肉ですねえ。

    強烈なパーソナリティが伝わってくるこの肖像画を描いたのはハンス・ホルバイン(父)。アウグスブルグ出身のドイツ人ですが、イギリスで活躍しました。 1534年~36年。

  • ティッセン・ボルネミッサ最後の作品はPortrait of Giovanna Tornabuoni 1488年。言わずと知れたドメニコ・ギルランダイオの傑作です。カラヴァッジョとギルランダイオに会いたくてここに来たと言っても過言ではありません。時刻は閉館5分前。何とか間に合った! フィナーレに相応しい大作で、うっとりするほどいられなかったのが返す返すも残念です。<br /><br />前述したとおり、美術館は1フロア部分のみ何とか見終わったところで、閉館と相成りました。だらだらと好きな作品を並べて参りましたが、この辺で一服。ランチがまだでした。お腹が空いたので何か食べましょう。<br />この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その2マドリッド(2)で。

    イチオシ

    ティッセン・ボルネミッサ最後の作品はPortrait of Giovanna Tornabuoni 1488年。言わずと知れたドメニコ・ギルランダイオの傑作です。カラヴァッジョとギルランダイオに会いたくてここに来たと言っても過言ではありません。時刻は閉館5分前。何とか間に合った! フィナーレに相応しい大作で、うっとりするほどいられなかったのが返す返すも残念です。

    前述したとおり、美術館は1フロア部分のみ何とか見終わったところで、閉館と相成りました。だらだらと好きな作品を並べて参りましたが、この辺で一服。ランチがまだでした。お腹が空いたので何か食べましょう。
    この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その2マドリッド(2)で。

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この旅行記へのコメント (1)

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  • マリアンヌさん 2020/06/25 12:54:45
    素晴らしい絵画の数々
    junemayさん こんにちわ。

    ご無沙汰しています。すっかり4トラ休眠状態で今更ながらお邪魔しています。
    スペインはツアーで2度しか行ったことがなく、プラド美術館で有名な絵画に連れていかれただけです。(当時ゲルニカはまだプラドにありました)

    それにしてもソフィア王妃芸術センターってすごい絵画がてんこ盛りなんですね。
    駆け足で拝見させていただきましたが…
    ダリのGirl at the windowは、目を惹きますね。爛熟期とは違った意味で天才さを感じます。
    そしてカラヴァッジョがあるんですね!知らなかった。
    カラヴァッジョがローマで人を殺めた原因となったフィリデがモデルなんですね。
    彼のその後の逃亡人生を決めた出来事でしたよね。
    スクォーラ・グランデ・ディ・サン・マルコの建築として美しい造形は、観光客のみならず画家の興味もひいたんですね。
    ピエロ・デッラ・フランチェスカのPortrait of a childなんていうのもあるのには、びっくりぽんです。
    最後のギルランダイオのPortrait of Giovannaも最高でした。

    続編も楽しませていただきます。

    マリアンヌ

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