2016/05/09 - 2016/05/09
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junemayさん
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2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう2年以上経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。
スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。
古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。
今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。
日程表 スペインの部
5月8日(日) 東京→マドリッド
5月9日(月)★ マドリッド
5月10日(火) マドリッド(セゴビア)
5月11日(水) マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木) マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金) マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土) マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日) ビルバオ
5月16日(月) ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火) ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水) ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木) オヴィエド
5月20日(金) オヴィエド→レオン
5月21日(土) レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル ポルト)
マドリッド着いた翌日からいきなり美術館のはしごで、気が付けばもう午後4時過ぎ。あの~、お昼まだなんですけれど・・・さすがにお腹が空きました。この2時間後に3つ目の美術館、それも天下のプラド美術館の夜間公開があるんですけれど・・・ちょっと無理でしょうかねえ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ティッセン・ボルネミッサの係員の手慣れた誘導により、16時ぴったりには外に追い出されていました。「もう少しだけ見たい。後1分だけ! お願い!」なんてほざいても無駄です。相手はプロですもの。ここはおとなしく出口に向かうしかありませんでした。
前の旅行記にも書きましたが、1時間20分ではティッセン・ボルネミッサの3つのフロアの1つを見るのがやっと。マドリッドはまた来る機会があるだろうと信じていますからそう心配はしていません。 -
取りあえず少し休みましょう・・・と言うことで、近くにあったカフェに移動。朝8時ころに食べて以来の遅いランチとなりました。
トッピングが豊富で日本とはイマイチ雰囲気が異なるサラダバーがある、若い人に人気にありそうなカフェでしたよ。 -
時間がないのでそう長い事休んではいられないと、ようやく楽しみにしていたマドリッドの町歩きに繰り出します。ウキウキ。
この町観光客には本当に悪評高く、首絞め強盗、すり、かっぱらい、なんでもござれなものですから、これまで二度訪れていますが、殆ど町中を歩いたことがないんです。
この顔でどう歩いてみても、観光客以外には見えそうもないでしょうから、せめて隙のない旅人風を演じることにしましょう。朝の地下鉄での緊張感を思い出し、気を引き締めながら町歩き開始。ティッセン・ボルネミッサのあるコルテス広場からスタートです。
早速見つけちゃいましたよ。スペインの文豪と言ったらこの人。ドン・キホーテでおなじみのミゲール・デ・セルバンテス (1547年-1616)の銅像です。 -
セルバンテスの銅像のある広場の真ん前にあったこちらの立派な建物 congreso de los diputados は、スペイン下院(代議員)議事堂です。スペインの議会は上院と下院からなっています。人口に比例して議席が配分される下院は、均等配分の上院に対し、憲法でその優位性が定められているのだそうですよ。
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ネオクラシカル様式で建てられたこの議事堂は、1843年~50年にかけて建造されました。ファサードのレリーフと対のライオン像は、彫刻家ポンシアーノ・ポンツァーノ( 1813年-1877年)の作品。
レリーフに登場しているのは、「正義」と「平和」の寓意像に挟まれた「スペイン」の寓意像。他にも科学、農業、美術、航海、産業、商業等の寓意像が周りを囲んでいます。 -
下院議事堂の前の広場を南下する道のどこかで、シリアで出土した2世紀中期のモザイクを発見。一体どこだったんでしょう? モザイク・マニアとしては立ち止まらないわけにはいきません。
そばに解説が書いてありました。ケルビム(智天使)の姿は、「夏」を擬人化したもの。「夏」は片方の手に先の曲がったナイフを握り、もう片方には、沢山の房の付いた葡萄が入ったバスケットを持っています。な~るほど! -
続いてサン・アグスティン通りの真ん中に現れたこの方はどなたでしょう?
この謎解きはなかなか難しかったですよ。像の前の碑文からONCEという組織が創立75周年記念に立てた銅像だということまでは分かったのですが、ここからが大変でした。(・・? -
よく見ると、この人サングラスをかけ、ステッキを持ち、沢山の小さな紙片を両肩からぶら下げています。どこかで見たことあるような・・・そう、宝くじ!
ONSEはスペイン視覚障害者協会で、この近くにその本部がありました。そしてこの方は、盲目の宝くじ売りのおじさんでした。とってもダンディ! こういう観光名所とは言えない、知る人ぞ知るモニュメント大好物です。 -
宝くじ売りのおじさんがいたサン・アグステイン通りを下っていくと、ロペ・デ・ヴェガ通りに突き当たります。ロペ・デ・ヴェガ(1562年-1635年)はセルバンテスと同時期に活躍した劇作家。スペインではセルバンテスと同じくらい有名人です。
突き当たった前の建物はトリニタリアス・デスカルザス修道院。こんな傾斜地に建っています。有名なデスカルザス・レアレス修道院と名前が似ていますが違いますよ。デスカルザスというのは、「靴を履いていない」の意味。イタリアでもありましたね。ディスカルチェアという言葉 そして跣足カルメル会という団体。確か裸足というのはスカルツォでした。
この修道院、実はセルバンテスが亡くなって1616年に葬られた修道院なのです。ところが1673年に建物を改築した際に、墓をどこかに移したためにその後行方不明になってしまいました。法医学者が再び墓のありかを突き止めたのはなんと2015年のことですって! 340年余りも行方知らずだったわけですね。びっくり! -
では修道院に沿って、このロペ・デ・ヴェガ通りを歩いてみましょう。ちょっと日が差し始めていて、雨に濡れた坂道がちょうど良い具合に光っています。
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壁には、セルバンテスの記念碑がありました。これも下院議事堂のレリーフ、ライオン像と同じく、ポンツァーノの作品。
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イチオシ
緩やかな坂道を上って行くと、ロペ・ヴェガ通りが突き当り手前に、しゃれたタイル画張りの薬屋(ファルマシア) LEÓNがありました。旅行前にグーグルマップで見つけ、行くのを楽しみにしていました。
タイル画には、店の名前であるライオン (LEÓN)、そして中世の薬局らしき図柄が描かれていました。現在でも現役の調剤薬局です。タイル画の下の石には落書きの痕が多数あり、心が痛みました。 -
イチオシ
ここが入口。入って行く勇気はなかった・・・
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ロペ・デ・ヴェガ通りと書かれた絵入りのタイルも素敵。マドリッドでは下町でこのタイルの道路表示を多く見かけました。
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レオン通り側からもう1枚。あまり治安のよい場所ではないと聞いていましたが、そんなに心配するような雰囲気でもありませんでした。
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レオン通りを南下し、突き当りを右に折れるとアトーチャ通りとなります。タイルの道路表示 ここでは城のような建物が描かれています。
アトーチャ通りに面したこちらの建物は16世紀に創建のサン・セバスチャン教会。スペイン内戦の時に銃撃戦で破壊され、戦後何度かに分けて再建されました。左側に八角形のドーム、右側に様式が明らかにドームと異なる塔があり、中に入りたかったのですが・・・ご覧の通り、閉まっていました(くすん!) -
そのままアトーチャ通りを西に向かって歩くこと5分。マヨール広場への抜け道の入口付近にあったプロヴィンシア広場にある「オルフェウスの噴水」です。
オルフェウスはギリシャ神話に出てくる吟遊詩人で、父アポロンからもらったとされる竪琴の名手でした。彫像のオルフェウスも竪琴を演奏中です。オリジナルは現在考古学博物館にあり、今あるのは1998年に作られたレプリカです。 -
広場の対面に建っている立派な建物は 1636年に建てられたサンタクルス宮殿。元々は裁判所に付属した牢獄でした。牢獄が移転して裁判所となり、宮殿と呼ばれるようになったのは18世紀の中頃。そして現在は外務省本部となっています。
スペインらしい、美しい建物ですね。夜はライトアップでより美しくなるそうですよ。 -
さて、プロヴィンシア広場の狭い道を斜めに進んでいくと、マヨール広場に到着です。
左手前にパトカーが止まっていますね。いるだけで頼もしいわ! -
一部工事中ですが、広~いマヨール広場に到着です。Wikipediaによると、「129m×94mの長方形の形をしており、広場に面して237箇所のバルコニーを持つ3階建ての建築物に取り囲まれている 」広場ですが、日本式に言えば4階建て、いや、屋根裏を入れると5階建ての建物にすっぽりと囲まれた雰囲気。
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最初に広場が作られたのは15世紀の事ですが、現在見る建物は度重なる大規模火災の後、1790年に再建を委託された建築家フアン・デ・ビリャヌエバの設計によるものです。
左にあるランプがいかにもスペイン風で、美しいですねえ。 -
広場の中央を飾るのは、1617年に広場の建設が始まった時の王 フェリペ3世像。制作したのはフランドル生まれの彫刻家ジャンボローニャ。フィレンツェで亡くなっているので、これまでイタリア人だと思っていましたが、17世紀にヨーロッパをまたにかけた人だったんですね。
この彫像は1616年に完成していましたが、広場に移されたのは1848年の事だそうです。 -
工事用の足場で見にくいのですが、広場の周りを取り囲む建物のうち、かつて魚市場があった場所に建てられたカサ・デ・パナデリア(パン屋)の一部 とんがりコーンの塔に挟まれた部分の壁には、フレスコ画が描かれていました。
かつてこの壁には一面フレスコ画が描かれていましたが、経年劣化により消失。1880年当時の写真とそのフレスコを水彩で描いた厚紙が市役所に保管されていたため、1914年から再装飾は開始されています。最近では1988年に新たな装飾のために大規模なコンテストが催され、カルロス・フランコが優勝。このプロジェクト1994年に完成しています。 -
この辺りがメインでしょうか? 結構大胆なデザイン。オリジナルとは異なった神話を元にした世界が広がっています。中央にプラザ・マヨールの文字も刻まれていますね。
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この尖がった塔は、フランドル風なんですって。北側にあるこの建物がカサ・デ・パナデリア(パン屋)。そして南側にある同じような塔が2本並んでいる建物は、かつて肉屋が軒を連ねていたため、カサ・デ・カルニセリア(屠場)と呼ばれています。
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広場にある9つの出入り口のうち、サン・ミゲル市場へとつながる出口を目指します。雲が多いけれど、僅かに青空が出て来たわ!
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白一色の衣装に身を包んだ女性大道芸人。赤いバラが彩を添えています。
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さあ、市場と言うより、お洒落なマドリッドのグルメタウンと言う雰囲気のサン・ミゲル市場にやって参りましたよ。
建物が気になりますね。1913年から16年にかけて作られた鋳鉄製の建物で、変化にとんだ装飾が全面に見られます。バルセロナで見たような記憶があるけれど、マドリッドでは他には残っていないという貴重な建築様式だそうです。
中に33のお店が入っていて、朝の10時から夜の10時までオープン。木曜日、金曜日、土曜日は午前2時まで営業しています。 -
思った通り、中は市場と言うよりBar(バール)が集まったようなこじゃれた雰囲気。壁には何本もの生ハムがこれ見よがしに「飾られて」いたり・・・
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何種類ものオリーブが、市場には似つかわしくないピッカピカのショーウインドウの中で光り輝いていたりしました。
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しかしこのオリーブたち、本当に彩り豊か。大きさも千差万別で、美味しそう。空腹で行ったら、ショーウインドウの前から動けなくなります。
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お寿司コーナーもありましたよ。こんな真っ赤な松竹梅のボトル、日本では見たことがないんですが・・・
お寿司もスペイン人好みのサーモン、マグロ、エビ、アンギーラ=ウナギが並びます。いくらは「サーモンの卵」。ちげーねーけど・・・ -
ちょっと珍しかったのは、左側フジツボ。調理済みって書いてありますよ・・・
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美しく装飾された魚やイカたちを見て、一応市場気分を味わいました。夕食前に軽くひっかけるならもってこいの場所ですね。
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サン・ミゲル市場から更に南下して、プエルタ・セラダ広場にやってきました。日本語に直すと「閉じた門の広場」。かつてマドリッドに入る城門があった場所の一つですが、いつも「閉じて」いたら入れないじゃない・・・なんて突っ込みを入れながら周りをきょろきょろ。どうも昔から治安が悪く、夜間は閉められていたことから名づけられたのだそう。普通城門って夜閉めるんじゃなかったの?
1738年に建てられた石の十字架と、その背後の店の壁に描かれているのはブドウの木のトロンプイユですって。だまし絵にはなっていませんけれどね。1983年のアルベルト・コラソンの作品。 -
ここから少し東方向に歩くと、サン・イシドロ教会があるはずと、場所を確かめに歩きます。
あった! マドリッドの守護聖人サン・イシドロを祭る教会で、1664年創建。現在のアルムデナ大聖堂が完成する1993年までは、マドリッド大聖堂でもありました。 -
時刻は午後5時47分。じゃ~ん! やっぱりね。教会は閉まっていました。また出直しましょう。
ファサード中央にあるニッチェに注目!
聖イシドロ(1070年-1130年)はマドリッド郊外の貧しい農村の生まれで、数々の奇跡を起こし、農業の保護者と呼ばれています。隣にいるのは彼の妻サンタ・マリア・デ・ラ・カベサ 「頭の聖マリア」です。 -
道路の向かい側からだと教会が大きすぎてごく一部の写真しか撮れませんでした。
聖イシドロ教会は、1936年のスペイン内戦時に焼失。その際ヴェンチュラ・ロドリゲス作の祭壇画、ルカ・ジョルダーノ作の絵画など、多くの芸術作品が灰燼に帰しました。戦後20年以上掛けて修復が行われ、ロドリゲスの祭壇画の忠実なレプリカも作られたとのこと。会える日を楽しみに待つことにしましょう。 -
イチオシ
再びプエルタ・デ・セラダ広場に戻り、今度はアルムデナ大聖堂方面を目指します。途中にあったのが、こちらのバシリカ・デ・サン・ミゲル。サン・ミゲル市場と言うのは、このバシリカから名づけられたのかしら?
えっ ここってイタリアだっけ? と思わず声に出してしまいました。こじんまりしていますが、確かにイタリア風のバロックのファサードですよ。真っ直ぐな所がどこにもありません。 -
調べてみたらやはりここはイタリア人建築家サンチャゴ・ボナヴィアによって建造された教会でした。アルカラ・デ・エナーレスで殉教した2人の聖人フストとポストールに捧げられた教会が火事で焼失した跡に、1739年~45年にかけて建造されています。
ファサードのニッチェには奉仕、信仰 、希望と幸福の寓意像、そして中央の入口の上には、2人の聖人フストとパストールが描かれた浅レリーフがありました。
扉が開いていますよ。「おいでよ!」と教会に手招きされてしまいました。もちろん! 参りますわよ! スペインで初の教会訪問です。 -
何故か全体像がわかるまともな写真を1枚も撮っていません。興奮してたのかしら?
これは身廊真ん中のドームとそれを支えるような交差するアーチのある天井を写したものです。ドームとドームを挟みながらダイナミックに交差するアーチはここで初めて見たように思います。
ドームのフレスコは、バルトロメオ・ルスカの1745年の作品です。この人もイタリアから出稼ぎにきた人です。
身廊は一廊式で、左右に礼拝堂が3つずつ並ぶだけの、それほど大きくない空間でした。しかし、見事な曲線が続いていますね。 -
最近の物らしいステンドグラスまでカーブを描いています。
しかしながら、礼拝堂の祭壇のある場所に何故かステンドグラス??? 少々違和感を覚えてしまいます。 -
ホセマリア・エスクリバーの彫像です。エスクリバーはスペイン北部バルバストロ出身の聖人で、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。カトリック教会の組織の1つ オプス・デイOpus Dei属人区の創立者とありましたが、何のことかさっぱり・・・この教会は1960年からそのオプス・デイによって運営されています。
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主祭壇には、この教会が捧げているサン・ミゲルの昇天が描かれた巨大な祭壇画がありました。アレハンドロ・フエラントの1897年の作品です。
地味だけれど、味わい深い1枚。 -
ヴォールト(というよりは、ペンデンティブと言うべきか?)のフレスコには18世紀中盤の画家アレハンドロ・ゴンザレス・ベラスケスとその兄弟によって、二人の聖人フスコとポストールと4つの美徳、4人の福音記者たち、預言者たち、天使たち等が描かれていました。
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主祭壇と天井以外は、比較的年代の新しいものばかりだったようですが、キリストの磔像前のマリア様がこの教会で一番人気。
彼女は定期的にその豪華な衣装をお召変えするようですよ。
確かバルセロナやローマでもこの類拝見しました。りかちゃん人形みたいっ(失礼!)てその時思いました。フィリピンにも着せ替えマリア様のいらっしゃる教会がたくさんあるようです。 -
礼拝堂の位置に4枚あったステンドグラスをもう1枚だけ紹介。ステンドグラスが祭壇画のように配置されているために、明かりが灯っていないと、何が描いてあるか見当がつかないのです。
と言うわけで、残り2枚は省略です。 -
うむ・・・
短い滞在でしたが、このファサード以上の感激は得られませんでしたね。
屋上に十字架を護っているプット達発見! 可愛い! -
バシリカ前の小さな広場に怪しい人影。市立イヴァン・デ・ヴァルガス図書館のモニュメントらしいのですが、解説がありません。
一体何をしているのだ、君は? -
時刻はそろそろ午後6時。プラド美術館の夜間公開の時間です。ここですぐに戻れば、10分以内でプラドまで行けたのですが、一旦町歩きを始めると、意思とは関係なく足が勝手に動いてしまいます。もうちょっと歩きたいんですって。
素敵なルネサンス風ファサードのついたこちらのお屋敷カサ・デ・シスネロスはバシリカ・デ・サン・ミゲルから数十m先にありました。その美しいファサードはなぜか撮らぬまま。こちらの石と煉瓦が共存する壁がお気に召したようです。 -
壁には複数の著名人がこの家で生まれたり、住んだり、亡くなったりしたとか書かれた金のプレートが取り付けてありました。
煉瓦と石のコラボ 素敵でしょう?! -
カサ・デ・シスネロスは1537年にシスネロス枢機卿の甥ベニート・ヒメネス・デ・シスネロスの要請で建てられた屋敷で、ルネサンス期にスペインで花開いたプレタレスク様式を採用しています。ゴシックにムデハル様式、ロンゴバルド様式、初期のルネサンス様式などを折衷した装飾なのだそう。それなのに写真1枚も撮らないとはねえ(汗)・・・
お屋敷を通り過ぎると直ぐにこの風景。16世紀のお屋敷には広大な地下駐車場が備わっていました。 -
プエルタセラダ広場から続くサン・フスト、途中で名前が変わってサクラメント通りの終点付近に、またまた美しいファサードを持つ教会を発見しましたよ。通りの名前にもなっているサクラメント教会です。
元々は女子修道院だったところで創建は1615年。花崗岩製のファサードは1744年頃、 ペドロ・デ・リベラの設計です。こちらもバロックですが、先ほどのサン・ミゲル教会とは雰囲気がまるで異なりますね。
最上階の窓には鐘が見えます。あれ~? 鐘楼がないのかしら? -
イチオシ
マヨール通りから眺めると、後ろに尖塔付きのドームがあることが分かりました。陸軍の聖堂として軍に買収されてから、大変細やかな修復を受けた結果、マドリッドでも一二を争う、創建当時の面影を残した美しい教会が蘇ったそうです。いつか開いている時間にお邪魔したい教会でした。
ところで教会の前にある黒いモニュメントは何でしょう? -
1906年5月31日はマドリッドで、国王アルフォンソ13世に対する爆弾テロが起きた日。モニュメントは、この事件で犠牲になった人々へのものでした。花崗岩、青銅、石で作られています。
国王アルフォンソ13世はスコットランド人の妻との結婚式の後に王宮へ帰る途中に襲撃を受けたとあります。王宮から数百mしか離れていないこの辺りでテロが起こったのでしょうね。 -
マヨール通りを挟んで向かい側には、壁画が描かれた瀟洒な建物があります。ユーロの旗と共にイタリア国旗が掲げられていました。
マドリッドイタリア文化研究所。アブランテス宮殿と呼ばれるこの建物は1633年~35年にかけて建築家フアン・マサによって建てられました。1842年にアブランテス侯爵がここを購入したことから、今でもアブランテス宮殿と呼ばれています。その後イタリア政府に売却され、大々的な修復が行われて2つの塔が解体された後、最上階に壁画が施され、イタリア文化研究所の本部となりました。
大変地味で目立たない壁画ですが、2階部分の明るいクリーム色の壁との対比が素晴らしい。流石イタリアンデザインと感服してしまいました。 -
マヨール通りがバイレン通りと交差する辺りで、大きな聖堂が見えてきます。アルムデナ大聖堂です。この大聖堂なんと建築に110年もかかっています。サグラダ・ファミリアだけじゃなかったんです。
「アルムデナの聖母」に捧げる大聖堂を作る構想はトレドからマドリッドに首都が移った1561年頃からあったようですが、スペインはその当時海外に盛んに進出し、40もの植民地を抱え、膨大なコストがかかっていたこと等から、首都の大聖堂建築が遅れた と言う話がまことしやかに伝わっています。本当かいな? -
そして、ようやく着工に踏み切ったのが1879年のこと。それから114年後の1993年にようやく完成にこぎつけました。大聖堂が教皇ヨハネ・パウロ2世により奉献されたのは、スペイン王フェリペ6世がレティシア・オルティス・ロカソラノ妃と結婚式を挙げた2004年5月22日の事です。
時間が気になります。いくらなんでも、もうそろそろ行かなくっちゃね。今日は場所を確認するだけにとどめましょう。 -
とは言っても、すぐお隣にある白と灰色で統一されたスペイン王宮も気になりますよね。アルムデナ大聖堂が建っているのは、1083年、カスティーリャ王アルフォンソ6世がイスラム勢力からマドリッドを奪い返した時に、古いモスクのあった場所なのだそうですよ。王宮と大聖堂との絶妙な位置関係を感じます。
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イチオシ
こちらは、王宮に面した側のアルムデナ大聖堂。もしかして、こちらが正面ファサードなの? 途轍もなく立派! と思い調べてみたら、果たしてその通りでした。
先ほど見た2枚上の写真のファサードはバイレン(通り)のファサードと呼ばれています。近寄りがたい威圧感を持って迫るこちらのファサードより庶民的です。 -
こちらは、鋳鉄の塀越しに撮ったマドリッド王宮とその広い前庭 アルメリア広場です。ちょうど6時で閉館だったのか、最後の観光客が出口へと急ぐ姿が見られました。
王宮の広さは135,000㎡、部屋の数は3418で、ヨーロッパでも最大の規模を誇ります。にもかかわらず、スペイン王家の人々はここには住んでおらず、専ら儀式用に使われているのだそう。なんと勿体ない! -
イチオシ
現在の王宮は、1734年に16世紀に建てられた古いアルカサルが全焼し、フェリペ4世が新しい宮殿の建設を命じたことによります。宮殿は1738年から1755年にかけて、主ににイタリア人建築家フィリッポ・ユヴァーラ、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンチェッティらの手によって、かの「ベルニーニ」が描いたパリのルーブル美術館の下絵にヒントを得て建築されました。つまり、17世紀のイタリアで全盛を誇っていたベルニーニの再現を目指したわけです。
シチリア出身のフランチェスコ・サバティーニは1760年にカルロス3世に呼ばれ、宮殿の改築に精力を傾けました。今回の旅で王宮見学は予定にいれていませんでしたが、サバティーニ設計の70段の階段、庭園、ティエポロの絵画などは見たかったなあ。
そうそう、カルロス3世はファルネーゼ家出身の母を持ち、シチリアやナポリの王を兼ねていたこともあるスペインブルボン朝の王。彼が母親から相続した膨大なるファルネーゼコレクションはナポリの国立考古学博物館でうんと楽しませてくれました。イタリアの君主を経験し、審美眼のある王の宮殿を見なかったのはいささか片手落ちだったかもしれません。
初日の町歩きのプランは王宮までだったので、とりあえずは目的達成。そろそろ次の目的地に参るとしましょう。 -
王宮から一番近い地下鉄の駅に急ぎます。レバント庭園を突っ切っておよそ5分でオペラ駅に到着です。
これは途中のラマレス広場で見かけた十字架。注目したのはその台座の紋章に書かれたディエゴ・ヴェラスケス 1559年-1660年 という記述です。
今回旅行記を書くに当たって調べてみたら興味深い記述を発見。歴史家がいうのには、遺体は行方不明ですが、この広場のどこかに高い確率でディエゴ・ヴェラスケスが埋葬されたはずなんですって。ここにはかつて画家が信者だった教会が存在したのだそうです。他のサイトにも「ヴェラスケスの埋葬地」と書かれていましたので、間違いないと思います。
十字架はヴェラスケスの墓標代わりだったんですね。 -
地下鉄オペラ駅到着です。広場前には駅名の元となったテアトロ・レアル 王立劇場が堂々とした風格ある佇まいを見せていました。
時にはシンプルに「エル・レアル」と呼ばれるこのオペラ劇場は、1850年に建築家アントニオ・ロペス・アグアドにより建てられました。地下鉄工事でダメージを受けた後、政府の財政難で一時閉鎖されていましたが、1966年にスペイン国立管弦楽団とRTVE交響楽団の主たるコンサート会場として再開。
90年代に入ると、本来の姿を取り戻すべく改装を行い、97年には見事本来のオペラハウスとして復活を果たしています。 -
テアトロ・レアルはイサベル2世の治世下(在位1833年-1868年)にオープンしたので劇場前には「イサベル2世」の銅像が置かれていました。
この女王かなり気まぐれで、政治的には失敗の連続。悪評も多く、1868年にはついにクーデターが起き、フランスに亡命。その後返り咲くことはありませんでした。 -
さっ オペラの駅からたった2駅ですが、2号線バンコ・デ・エスパーニャまで地下鉄に乗ります。朝の極度の緊張はもうこの頃にはほぐれていたみたいで、写真を撮る余裕を見せています。
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地下鉄バンコ・デ・エスパーニャを出てアルカラ通りを歩くと、プラド通りとの角に、大変目立つ建物が見えてきます。
パラシオ・デ・コムニカシオネス。2007年までスペインの郵便・電信協会の本部だった建物で、この名前の方が通りが良いのですが、現在は市のカルチャーセンターになっています。名前も2011年以降はパラシオ・デ・シベレスに変更。内部には旅行者も利用できる休憩室やカフェテリアもあるそうですよ。自由に使えるPCやトイレもあるそうですから、マドリッドに行く際にはここを利用しない手はありません。 -
純白のベールをまとった貴婦人のようなこの宮殿は、建築家アントニオ・パラシオスとホアキン・オタメンディが手掛けたもので、1917年に完成しました。マドリッドにおけるモルデニスモ(モダニズム)建築の代表作で、ファサードにはスペイン独特のネオプラタレスク様式とバロック様式が採用されています。
時間があれば間近でじっくり眺めたかった建物です。特に緩い弧を描くファサードとピナクルズが並んだ3つの塔が魅力的。
2015年以降、ヨーロッパでは毎日のように難民問題が取りざたされてきましたが、この宮殿のファサードにはひときわ大きな文字で「難民歓迎」と書かれていたのが印象に残っています。 -
再びプラド通りの中央緑地帯を歩いて、プラド美術館に向かいました。広い道路の間とは思えない、緑豊かなパセオです。
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プラド美術館に到着しましたが、長い行列が出来ていたのにはびっくり!
でも考えてみれば当然ですよね。昼間一般の入場で15ユーロするものが無料となれば、必死で行列しますよ。皆開場の1時間以上前から並んでいたのではないかしら?
こちとら18時からの開場であるにもかかわらず、到着したのは18時半過ぎ。そんな不心得者がすんなり入場できるわけがありません。 -
ここから後の写真は行列から撮れる範囲を写したものです。アングルがいまいちですが、行列からはみ出すわけにもいかないのであしからず。
行列の最後尾はプラド通りに沿った場所でしたが、ぐるりと時計回りに進みます。今見えている塔のある建物はホテル・リッツ・マドリッド。プラド通いにこれ以上便利なホテルはないでしょうね。 -
美術館の北側の扉は「ゴヤの扉」と呼ばれています。この人がいるからでしょうね。
本名フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746年-1828年 スペインの名前はセカンドネームがある上に、父方の姓の後には母方の姓を続けるので長い!)の銅像が立っていました。オーバーを着て帽子を左手に持ったゴヤの像を制作したのはスペインの彫刻家マリアーノ・ベンリエールです。1902年。
他にも東を除く各扉前で、スペインを代表する画家たちの像を仰ぎ見ることが出来たそうですが、私は見ていません。西ヴェラスケス、南ムリーリョですって。 -
ゴヤの扉下のオフィスで、入場券をもらうようです。
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はい。無事にチケットをゲット! 図案はマルガリータ王女でした。
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ぐるっと回って行列は今度は東側へ。鮮やかな赤い壁が特徴のこちらの建物はレアル・アカデミア・エスパニョーラ=スペイン王立アカデミー。スペイン語の標準を規定している組織(ウィキペディア)です。
スペイン語を母語とする人口は中国語、英語、ヒンディー語に続いて4番目で、スペイン語をある程度は話す、スペイン語を学習している人口を入れると、世界で2番目に多く話されている言語だそうですよ。 -
ようやく入口が見えてきました。並び始めてここまで12分。意外と早かったわ。
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スペイン王立アカデミーの隣に建つ教会はサン ヘロニモ エル レアル教会。こちらもレアル(王立)がついていますよ。16世紀初頭に建てられた教会で、以前はヒエロニムス修道会として使われていました。
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王家は通常大聖堂でセレモニーを行いますが、マドリッドの場合、アルムデナ大聖堂が完成したのが1993年であること、その代わりの役目を果たしてきたサン・イシドロ聖堂では守護聖人は農民、庶民のイシドロであって、王族の守護者ではないこと 等々の理由で、この教会が一手に王家の重要行事を引き受けて来たようです。
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この教会もまた、ピナクルズが特徴的。イサベリン(Isabeline)様式 もしくはイサベリン・ゴシック様式と呼ばれる建築技法で、カトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の治世下で花開きました。イサベリンはイサベル1世の名前から採ったんですね。
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と周りをキョロキョロしているうちに、入場できてしまいました。こちらの入口はヘロニモスの扉です。納得でしょう?! 時刻は18時45分。1時間余りしかありませんが、マドリッド滞在中に訪れるチャンスはまだありそうなので無理はしません。
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なんて言ってましたが、このフラ・アンジェリコのポスターを見て大興奮。鼻息荒い!
館内は全面撮影禁止でしたので写真はありません。
この日の日記を見ると、”1階部分を大急ぎで廻っただけで終了の時間となった。素晴らしかったのはアドブレヒト・デューラーの「アダムとイブ」。フラ・アンジェリコは綺麗過ぎた。”とありました。 -
初日からハイペースでした。全てが終わった午後8時過ぎのプラド通り。ここからまた約1時間の「通勤」で宿に戻ります。
プラド美術館から地下鉄バンコ・デ・エスパーニャまでの通り沿いにあったオベリスクは、1808年5月2日のスペイン民衆の蜂起で亡くなったすべての人々への祈念碑でした。スペインの直接統治をもくろむナポレオンが送ったフランス軍に対して、一斉に蜂起したマドリッドの人々の抵抗の様子は、ゴヤの絵で知りました。数百人もの人々が銃殺されています。 -
イチオシ
この日最後の1枚。なんと午後8時を過ぎてこの青空! そして青空に映えるパラシオ・コムニカシオネスが神々しく見えました。ブラボー!
明日は数十年ぶりのセゴビアに向かいます。この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その3セゴヴィア(1)で。
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