2015/04/19 - 2015/04/19
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高野山開創1200年記念大法会
~1200年、祈りの光景~
平成27年4月2日から5月21日の50日間には高野山真言宗の寺院と
その檀信徒、他の宗派や寺院、あるいは僧侶や一般の別を問わず、
日本全国から弘法大師を慕う人々が高野山を訪れて毎日、法会が
行われます。
http://www.koyasan.or.jp/k1200/
http://www.nankaikoya.jp/event/koyasan1200/index.html
- 交通手段
- 自家用車
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英霊殿
第二次世界大戦の戦死者を供養するために建立 -
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奥之院 茶所(頌徳殿)
大正4年(1915年)、高野山開創1100年の記念事業として建立された、高野山で数少ない大正時代の建築物です。和歌山市の寺院が発起人となり、たくさんの方々のご寄付によって造営されました。
桁行十間、梁行五間の平屋造りで、創建当初は檜皮葺(ひわだぶき)屋根であったそうです。現在は茶所として、参拝の方々の休憩所として開放しており、セルフサービスでお茶を召し上がることができます。 -
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織田信長の供養塔
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豊臣家の墓所。
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芭蕉の句碑
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明智光秀の墓所。
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石田光成の墓所
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薩摩島津家の墓所
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伊達正宗の墓所
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上杉謙信廟
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奥之院一の橋
ここからが奥之院です。
私は駐車場の関係で逆側から参拝してしまいました。 -
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別格本山 清浄心院
当院は天長年間(八二四~三四)に高祖弘法大師により草創され、初め喜多坊と称されますが、 後に勅命により現院号である清浄心院に改めたと伝えられています。なお所在地一帯は、当院の名にちなみ清浄心院谷と呼ばれています。
<cf>http://shojoshinin.jp/ より -
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准胝堂(じゅんていどう)
准胝堂の名前の由来は、御本尊の「准胝観音」に由来しています。
准胝観音は、空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造ったと伝えられ、
もともとは食堂に安置されていました。
平安時代中期の天禄4年(973年)頃、准胝観音を本尊とするお堂がこの場所に建てられ、准胝堂となりました。
現在の准胝堂は明治16年(1883年)の再建です。
<cf>高野山名所図会http://www.sightsinfo.com/koyasan/index.html -
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孔雀堂
正治元年(1199年)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就されました。
その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。
昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。
本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
孔雀堂と言う堂舎の名前の由来は「孔雀明王」に由来します。 -
西塔(重要文化財)
お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。
お大師さま入定後の仁和2年(886年)に完成に至ったものです。
西塔では、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。 -
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御社(重要文化財)
お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。
社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられています。
丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。
現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。 -
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大塔
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。
多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。 -
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御影堂
もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。
桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。
このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。 -
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金堂
高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。
平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。
現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。
梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。
内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。
本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。 -
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中門
金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。
先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天像・多聞天像・広目天像・増長天像の四天王がまつられています。
なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。 -
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蓮池
勧学院の前に位置するこの池は蓮池と呼ばれます。
昭和の頃までは美しい蓮が咲き誇っていました。この池には小さな祠がまつられています。
明和年間のこと、干ばつが度々起こり、民衆は苦しみました。そこで明和8年(1771年)、瑞相院慈光(ずいそういんじこう)というお方が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです。平成8年(1996年)には祠とともに橋が修復され、毎年10月17日には縁日としてお勤めが行われています。 -
不動堂(国宝)
建久8年(1197年)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王というお方が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。
もともと一心院谷(現在の金輪塔<きんりんとう>所在地付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。
現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。
当初は阿弥陀堂であったと推定されていますが、後に不動明王を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)が奉安されました。この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められています。 -
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大会堂(だいえどう)
1175年(安元元年)に、鳥羽法皇の皇女(娘)「五辻斎院(いつつじのさいいん)」の発願で、父親である鳥羽天皇をお祀りするために造営されたお堂です。
この大会堂は、創建年当初は現在の苅萱堂のあたりにかつて存在した「高野山・東別所」に建っていました。
しかし西行が長日不断の談義所(学堂)として東別所から、この壇上伽藍へ移すことを五辻斎院へ提案した所、この案が受け入れられ現在の場所へ移してこられました。
移設の際、名前をあらため「蓮華定院(れんげじょういん)」と呼称されています。
しかし、残念なことに現在、見ることのできる大会堂の姿は、1848年(嘉永元年/江戸時代後期)に再建された時の姿になります。 -
愛染堂
建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。
本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。 -
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西行桜
僧侶へ転身した後の1149年(久安4年)、西行はこの高野山へ足を踏み入れています。
後に高野山で暮らすことになった時に桜の木を手植えしたと云われており、つまりそのときの桜こそが西行桜になります。 -
三昧堂
もとは平安時代中期の延長7年(929年)、高野山の座主・済高(さいこう)が、「理趣三昧」という儀式のために建てたお堂です。
当初は総持院にありましたが、平安時代末期にこの場所に移築されました。この移築にも、隣の蓮華乗院(大会堂)の奉行だった西行が関わったと伝えられています。 現在の建物は、江戸時代後期、文化13年(1816年)の再建です。 -
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金剛峯寺
壇場伽藍の東北方にある。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である青巌寺と興山寺 (廃寺)を合併し、金剛峯寺と改称した。
青巌寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立した。
金剛峯寺の主殿は江戸末期文久3年(1863年)に再建された、東西 54 m 南北 63 m の書院造建築である。
「金剛峯寺」の寺号は空海が名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ2015年4月2日~5月21日に16年ぶりに開帳された。
<cf>Wikiより
http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/ -
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正門
金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。 -
蟠龍庭
新別殿と同じく、弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造園されました。2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。
この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています。 -
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大玄関
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大師協会本部
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大門
車で逆方向から来たので最後に大門です。 -
大門(重要文化財)
高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。
山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。
五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。
左右には金剛力士像(仁王さま)が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。
また、大門の横手には弁天岳登山口があり、山頂には弘法大師が勧請された嶽弁才天がまつられています。
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