
2008/01/14 - 2008/01/14
140位(同エリア273件中)
滝山氏照さん
久留里城(くるりじょう、千葉県君津市久留里)は房総半島の中央部を流れる小櫃(おびつ)川を眼下に望む丘陵地にあって、古来から上総国の行政・経済の中心地とする交通の要地で、当地の覇権を巡り諸有力豪族が争いを重繰り返し、とりわけ戦国期に安房に本拠を置く里見義堯(さとみ・よしたか、1507?~1574)が小田原北条氏の支援を得て一族内紛に決着をつけ、西上総一帯に勢力を有しながらも長期内訌に明け暮れていた真里谷(まりやつ)武田氏の滅亡を機に上総国掌握並びに下総進出の足掛かりとして本拠を新しく構えた山城です。
その後上総国南部をほぼ手中に収め下総を狙う里見氏は江戸湾の対岸で相模国を領有化し更に江戸湾を介して房総へ侵攻をめざす小田原北条氏と対峙することになり、上総国西部から中央部を舞台にして合戦が展開されます。
天文7年(1538)、義堯は下総国南部から上総国北部を領していた小弓御所の足利義明(あしかが・よしあき、不詳~1538)に与して下総・国府台にて小田原北条軍と戦い敗れ義明親子は討死、義堯は安房に逃げ帰ります。
里見氏の全盛期は義堯と嫡男義弘(よしひろ、1530~1578)の時代で、義堯は上杉謙信と同盟して小田原北条氏と対決、永禄4年(1561)の謙信による小田原攻めには義堯は義弘に軍をつけて謙信の援軍として小田原に派遣させます。
永禄7年(1564)の第二次国府台合戦では上総北部と下総一部を支配下に置いた義弘は氏綱(うじつな)の息子氏康(うじやす)との戦いに臨みましたが第一次同様小田原北条氏の勝利となり、義弘は上総の久留里に退くことになります。
その後も小田原北条氏と敵対し続け、義弘の実弟である義頼(よしより、1543~1587)の代の頃には圧迫を受けた里見氏は上総南部と安房に領有するだけとなります。
義頼を相続した義康(よしやす、1573~1603)の代になると、豊臣秀吉のいわゆる小田原征伐に従いますが秀吉より小田原参陣が遅れたことの咎を受け、上総を没収され安房一国(9万2千石)に閉じ込められます。
旧領上総国には関東入府となった徳川家康所領となり久留里城には大須賀氏が3万石で配され、慶長7年(1602)には土屋氏が2万石で入封、延宝7年(1679)に改易となりますが、寛保2年(1742)黒田氏が3万石で入城し以降直養の時明治維新を迎えるまで九代の支配が続きます。
一方、安房国に閉じ込められた外様大名里見氏には最悪の事態が起こります。すなわち、関ヶ原合戦で勝利した戦功により里見氏は鹿島2万8千石が加算されますが、慶長19年(1614)家康時代からの譜代重臣で二代将軍秀忠の信頼厚い小田原藩主大久保忠隣(おおくぼ・ただちか、1553~1628)の失脚事件が発生します。
十代当主忠義(ただよし、1594~1622)の正室が忠隣息子忠常(ただつね、1580~1611)の娘であることから当事件に連座して幕府より改易を命じられ安房9万2千石は没収、鹿島2万8千石は伯耆国倉吉に替地として移され、元和8年(1622)忠義は同地で29歳の若さで失意のうちにその生涯を終え、170年と十代にわたる房総の雄は理由なきとりつぶし策によって幕を閉じます。
久留里城跡天守台近くに建てられた説明板には詳細にわたって記載されています。
「 上総 久留里城
久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。戦国期の十六世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義尭(よしたか)は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄七年(1564)、下総の国府台(こうのだい)の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条方の手に落ちています。しかし、二年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼(よしより)は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれてます。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城は大須賀忠政(ただまさ)が3万石、慶長七年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直(としなお)に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直(よりなお)の時、お家騒動が起こり、延宝七年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。
約60年後の寛保二年(1742)、黒田直純(なおずみ)が3万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、三年の歳月をかけ城を再興しています。
黒田氏の治政は、初代直純から約130年間続き、九代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治五年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
平成十三年六月
君津市立久留里城址資料館 」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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久留里線車輛
JR久留里線に乗車して久留里駅に向かいます。当該線は内房線木更津から上総亀山をディ-ゼル車輛で走る単線でまさしくロ-カル線の醍醐味を充分に味わえます。 -
特急車両「さざなみ」
久留里線ホ-ムの向かい側には千葉行特急「さざなみ」が停車中です。 -
JR久留里駅改札口
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JR久留里駅
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久留里城
この模擬天守閣は昭和50年に再建された3層4階の造りとなっています。 -
市街展望
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本丸・天守台跡説明板
「 本 丸・天 守 台 跡
この土壇は、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて、黒田直純が城を再築した際築いたと思われる天守の跡です。
礎石群は、昭和52年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認されました。
礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は二間(3.6メートル)X 二間の正方形、外側は三間(5.4メートル)X 五間半(9.9メートル)の長方形を呈し絵図とほぼ一致しています。
これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二層二階であったと推定され、近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似していたように思われます。
礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っています。また、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)が見られますが、これらは土台石として用いられたと考えられます。
天守台の構造は、上面に厚さ10センチ程度の粘土を敷き詰め、その下に径2~4センチの石を10センチ程並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定されます。
また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると思われます。
昭和54年7月
久留里城址資料館 」 -
天守台跡
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久留里城
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市街展望
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久留里城・曲輪跡
二の丸跡には「久留里城址資料館」が建てられていますが、訪問時には改装中で入館不能でした。 -
久留里城跡・説明板
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久留里市街風景
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久留里市街風景
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久留里市街風景
市街道路には久留里城を意識して描いた横断幕が掲げられ、城下町の一端が垣間見えます。 -
久留里城下マップ
真勝寺(黒田氏九代である黒田直養の墓所)、新井白石居宅跡、円覚寺(城主土屋忠直の墓所)等訪問先が多数ありますが時間の都合で見学できませんでした。 -
久留里の井戸説明板
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