2018/04/05 - 2018/04/05
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belleduneさん
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馬籠宿から中山道を妻籠宿まで歩いて来ました。外国人にもかなり知られているので、多くの観光客が宿場に見受けられました。江戸と京都を結ぶ中山道は、木曽路を通るので、木曽街道とも呼ばれていたそうです。中山道六十九次の中で42番目の妻籠宿は伊那街道とこうさする交通の要衝でした。馬籠宿から歩いてくるとその規模も大きいものでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
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馬籠宿辺りの長閑な風景です。
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観光客が多くて写真があまり撮れません。
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清水屋資料館
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藤村記念館前に木曽の五木が植えられています。
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左からサワラ、ネズコ、アスヒ、コウヤマキ、ヒノキです。
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昔は生活用水として必需なものだったのでしょう。
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高札場
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ニーチェの詩から
「心を起こそうと思はば まず身を起こせ」と島崎藤村が訳しています。 -
今日は雲があって、恵那山が見えません。
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ここは、道路を渡って歩きます。
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水車塚
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梨子ノ木坂からは熊の出没があるそうで、黄色のマークのところにある鐘を鳴らして行きます。
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シラキかな?
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木肌はスベスネしています。
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十辺舎一九の狂歌碑
渋皮の むけし女は 見えねども 栗のこはめし ここの名物
と書かれています。 -
紅白の梅の蕾です。
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この辺りでは、坂道の荷揚げに牛を使っていたそうで、その牛を供養する碑がありました。
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馬籠峠
白雲や 青葉若菜の三十里 子規 -
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立場茶屋
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立場茶屋の内部
「一石栃」は妻籠宿と馬籠宿の中間にあり、旅人にとって休息の場所となっていました。当時は7軒ほどの家があったそうですが、現在ではこの牧野家住宅だけになっています。江戸時代後期の建物で、当初は間口が10間半もある大きなものでしたが、現在南側がなくなり、8間になっています。 -
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一石栃の白木改番跡
白木改番所は、基礎から搬出される木材を取り締まるために設けられました。檜の小枝に至るまで許可の示す刻印があるか調べるほどの厳重さだったそうです。尾張藩にとって、基礎の森林資源は貴重なものでした。番所は当初下り谷にありましたが、蛇抜けのよりここに移転されました。 -
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サワラの大木枝が腕のように伸びているので、神居木と呼び、天狗が腰を掛けたと言われています。この木を切ったりすると祟りが起こると言われ、杣人(そまびと)はこの木の下を通ったりすることも嫌がったそうです。この写真のように両側に枝が出たものを両神居と言います。
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奥にも老木が見えます。
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対岸に見えるサワラの大木は合体木だそうです。1716年頃、木の伐採を行い、切り株の横に幼木を2本植えたところ、1863年頃から幼木は成長しながら1本の木になっていったという。現在もガッ大木となって成長しているそうです。
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男滝は、吉川英治の「宮本武蔵」の舞台となった滝だそうです。滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっているという。
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少し離れたところにある女滝。
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元の道へ戻り、一路妻籠宿へ。
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倉科祖霊社
天正14年(1568)松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が従者30人余りと共に地元の土豪たちによって、全滅となりました。その霊を祀ったものだそうです。 -
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牛頭観音
石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため、黒牛が使われていました。その黒牛の供養塔です。 -
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下り坂の一里塚
一里塚は、慶長9年(1604)から慶長17年(1612)にかけて、1里毎に築造されていました。一里塚の基準は、五間四方(約9m)で高さ一丈(約3m)。街道の両側に対に造られ、旅人に安堵と利便さを感じさせました。江戸から数えて、七十九里目の塚だという。 -
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庚申塚
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いよいよ妻籠宿も間近です。
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この辺りは、大妻籠です。この茶色のタンクに入っているのは水で、防火用です。
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宿が並んでいます。
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欄川には大きな石が削られて面白い石が沢山ありました。
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しかし、現在は区画整理などで、個人宅の庭の中にあるので、木々で道路からは見えませんでした。
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この辺りでは、東京より開花が遅いため、一気に色んな花が咲いていました。
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妻籠宿の街並み
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昔はこの縁台に商品を並べて売ったりしていたそうですが、現在はここに座って食べたり、休んだりしています。
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上嵯峨屋は、18世紀中期の木賃宿だと解体復原工事で判明しました。
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宿の横にある厩です。
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宿の前には木製の防火用水が備えられています。
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延命地蔵
文化10年(1813)光徳寺住職・中外和尚が地蔵尊像が浮かび上がっている岩を欄川(あららぎ川)から運んできて、安置したものだそうです。 -
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下嵯峨屋
この建物は当初長屋だったものの1戸分を昭和43年に解体復原工事を施したものだそうです。妻籠宿の庶民住居を代表する「片土間に並列二間取形式」が残っています。 -
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宿・松代屋
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丸田屋さんの屋根上には、風で屋根が飛ばないように石が載せてありました。
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現在観光案内所
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横の電話ボックスが面白いですね。
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島崎氏が任命され、明治まで本陣、庄屋を兼ねていました。島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子になっています。平成7年に復原されています。
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前庭がある珍しい建物です。
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人馬会所(問屋場)
宿場には公用の旅人に人馬と提供する人馬会所がありました。本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交代で勤めていたそうです。人馬会所には、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割り振りをしていました。この道路は広く、宿場内で最も賑やかなところだったという。 -
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脇本陣 奥谷 明治10年に建てられた建物。明治13年に明治天皇が御小休所になったそうです。島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふさんの嫁ぎ先でもあります。
南木曽町博物館 -
林家住宅
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放火の宇陀つがあります。
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この水車小屋は時々新しく修理されていますが、昔の景色として留めてあります。
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この先に熊谷家住宅があります。
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高札場(現在の官報掲示板)
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妻籠宿はやはり混んでいますね。宿を取ってゆっくり一晩過ごすと朝晩に静かな風景が見れると思います。
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