2018/03/15 - 2018/03/15
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belleduneさん
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松島湾巡りを終えて、鹽竈神社へやって来ました。鹽竈神社は、武甕槌命、経津主神が東北を平定した際に、この両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩方法を教えたことに始まるという。鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竈、塩釜、塩竈、塩竃)神社の総本社だということです。元は、ここに鹽竈神社だけが鎮座していたのですが、明治時代に、志波彦神社が遷座したため、現在の正式名は、志波彦神社・鹽竈神社という1つの法人です。鹽竈神社境内にある「塩竈桜」は、国の天然記念物に指定されているので、もうすぐ満開を迎えることでしょう。志波彦神社は、式内社(名神大社)、鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。毎年7月の海の日に開催される塩釜みなと祭りでは、ここ鹽竈神社が祭りの出発地で、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が市内を練り歩き、御座船の他、100隻程の船と共に松島湾を巡行します。広島・厳島神社の管弦祭、神奈川・真鶴の貴船神社の貴船祭と共に、日本三大船祭の一つになっています。江戸時代、仙台藩で実施された松島湾内遊覧のための御用船が元になっていると言われています。
- 旅行の満足度
- 4.5
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志波彦神社は、冠川河畔に降りたとされる志波彦神を祀る神社で、農耕守護、殖産、国土開発の神と伝えられています。中世までの詳細は不明だそうですが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所に位置していました。志波彦神の由来は、塩土老翁神のことで、栗原郡の志波姫神社と同体だということですが、諸説あり、明確ではないそうです。中世以降は、衰退して行き、岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀されました。明治期になり、国幣中社に列せられたのを機に、大きな社殿を造営することとなり、八坂神社の境内では狭いということから、鹽竈神社境内に遷宮することとなりました。
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その後、昭和9年(1934)~昭和13年(1938)に国費で志波彦神社の社殿が新築されています。
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ここから見る当時の塩釜港辺りの景色が描かれています。松島丘陵が囲む松島湾の入り組んだ入江の一つ、千賀ノ浦(現・塩釜港)辺りの景色が描かれています。
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流造りの志波彦神社では、3月29日に例祭が行われます。志波彦神社は南東方向(塩釜港方向)を向いています。
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今から鹽竈神社へ向かいます。仙台藩伊達家の崇敬は特に厚く、江戸時代以降から明治期まで歴代藩主は「大神主」として祭事を司ると共に、社領、太刀、神馬などを寄進しています。江戸時代宝永期以降は、20年に一度の式年遷宮が現在も行われています。
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駐車場からのこの参道は表参道ではなく、石段もそれほど長くありません。
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仙台石が使われている石段は、ノミ切り加工が施されていて、木目ではなく、石目というものだそうです。敷石にも薄く切ったものが使われていて、色が綺麗でした。
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手水舎
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この唐門を始め、左右宮拝殿と別宮拝殿は、元禄期に大工棟梁・松原助兵衛重成によるものだそうです。
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通常、唐門は、唐破風を持つ門のことですが、この神社の唐門は、切妻造の四脚門で、唐破風がないため、重要文化財指定名称には単に門とされています。
門と左右に接続する回廊と共に銅板葺、朱塗りとなっています。 -
銅鐡合製燈籠
文化6年(1809)、伊達9代藩主周宗公が蝦夷地敬語の飢饉の凱旋後、奉賽として寄進したもの。仙台の早井義幹、大出治具、田中清道、田茂山の及川庄七たが制作に加わったとされています。 -
この左右宮拝殿奥にある左宮本殿、右宮本殿共に三間社流造で、書く本殿手前に切妻造妻入りの左宮幣殿、右宮幣殿が建っており、この手前に接するように左右宮回廊が東西に伸びています。左右宮回廊は、中央部を切妻造妻入、左右を切妻造平入となっています。回廊両端から出た瑞垣は、量本殿を中心とする聖域を画しています。回廊の手間には、この入母屋造の拝殿が建っています。本殿、幣殿、回廊、瑞垣は全て檜皮葺で、部材は素朴仕上げとなっており、各所に取り付けた装飾花なもの以外は簡素な意匠となっていますが、この拝殿は銅板葺で、朱塗りとなっています。
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左右宮拝殿は、正面7間、奥行き4間。
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境内にあるモチノキ科の多羅葉。この葉は、炙ると熱で組織が短時間に黒くなり、黒い円のような模様が浮かび上がります。これを円紋または死環と言って、寺社で吉凶を占う時に使われました。葉の裏面を傷つけると、その部分だけが黒く変色し、長期残るため、字を書いておくことができます。このことから「ジカキシバ」、「エカキシバ」とも呼ばれています。戦国時代鬼この葉の裏に文字を書いて、情報のやりとりをしたと言われています。これが「葉書」の語源になったとも言われていますが、はっきりとは分かっていません。
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文治の燈籠
元禄2年5月9日朝、芭蕉がここに詣でてこの灯篭を見たそうです。扉の碑文に「文治3年7月10日和泉三郎忠衡敬白 ....神前に古き宝燈あり。...五百年来の俤、今日の前に浮かびてそぞろ珍し。彼は遊義忠孝の士なり。...」と奥の細道に綴りました。 -
別宮は、本殿、幣殿、回廊、瑞垣、拝殿からなっており、別宮本殿と拝殿は左右宮の本殿、幣殿と同規模、同意匠となっています。この拝殿は、正面5間、奥行3間と左右宮拝殿より少し小さいものとなっています。仕上げも左右宮と同じとなっています。
別宮は、航海安全を背負うという意味から、仙台湾を背に北西に向いています。空中写真を見るとその位置がよく分かります。 -
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左右拝殿と同じく、屋根の銅板葺の流れが素晴らしい曲線となっています。
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こちらの表参道には228段の石段があります。
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かなり急な石段です。これが本来の表参道です。一番下に見える鳥居は、寛文3年(1663)建立の明神鳥居で、花崗岩で造られています。
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七曲り坂は、鹽竈神社参道(表坂、七曲坂、裏坂)の中で、最も古く、その形式は信者の創建と同じ奈良時代頃と思われます。古代、中世には国府・多賀城から香津(国府津)へ至る東海道を鳥居原で江尻へ下り、入りへとなっていた秡川(はらい)を船で渡り、ここへ来る道筋だったそうです。この坂下の四方石辺りは、海面を埋め立てて造られてもので、神社創設以来の神官・阿部家が江戸h楚姫まで約千年間、屋敷を構えて、参道口を守っていたと伝えらえています。
享保16年(1731)から近年まで祭礼時の神輿の帰り道となっていたという。
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