2018/02/25 - 2018/02/25
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chiaki-kさん
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2018年2月24日、ひょんなことで名古屋へ出かけましたが、最近4トラによく登場する長久手市のトヨタ博物館を見学してきましたので、chiaki-k流にリポートしてみたいと思います。第2章では第2次世界大戦の後から現代まで、その時代のターニングポイントとなった”くるま”を中心に、お届けします。なお、間違った記載もあったり、筆者の思い入れが強すぎる部分もあるかと思いますが、その辺は、ご笑覧いただければ幸いです。なお、一部の文章等はトヨタ博物館のHP&Wikipediaを参照させていただきました。
第2次世界大戦中、世界の自動車産業は戦車や軍用トラックなどの生産に追われた。フォードは戦車やジープだけでなく、航空機の生産をも請負い、お得意の大量生産システムにより通常一日で1機製造がやっとの時代に、なんと1時間に1機の割合でB24爆撃機を製造し、連合軍の勝利に貢献する。戦争中、攻撃を受けなかったアメリカ本土を除き、自動車製造工場は爆撃の標的となりドイツや日本、そしてイギリスの自動車工場はほぼ壊滅状態となった。
1945年にWW2が終わり、軍需用から民生用への切り替えに手間がかかったとは言え、十数年後にはアメリカの自動車産業は第2の黄金時代を迎えるが、他の国は焼け跡からの再出発を余儀なくされた。
表紙の写真は1966年にトヨタから発売されたニューモデル、カローラ KE10のフロント部分のUP。1969年から1975年まで我が家にもあった1台(但し KE11)だが、クロームメッキ部分の輝きがまるで新車のようで、思わず49年前を思い出してしまった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車
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タッカー’48(1948年・アメリカ)
第2次世界大戦後、BIG3の生産復興の遅れを見て、アメリカでは数多くの新興メーカーが参入を試みた。中でも有名なのがこのタッカー。モダンなボディにヘリコプター用の水冷水平対向6気筒エンジンをリアに搭載し、4輪独立懸架や前席には衝突時の安全を守るためダッシュボードに緩衝パッドを設けるなど、安全対策を含む先進的な技術と斬新なデザインで前評判と期待を高めたが、開発資金難や訴訟問題などでアメリカンドリームは果たせず、51台が生産されただけで会社は倒産した。 -
1988年の映画「タッカー」(ジョージ・ルーカス製作総指揮、F・コッポラ監督)では、詐欺の疑いでBIG3の罠にはめられたタッカーが裁判所の陪審員席に向かって「もし大企業が斬新な発想を持った個人を潰したなら、進歩の道を閉ざしたばかりか自由という理念を破壊することになる! こういう理不尽を許せば、いつか我々は世界のナンバーワンから落ち、敗戦国から工業製品を買うことになる」という演説の場面が描かれているが、この映画が製作された頃、まさにその通りの事態にアメリカは陥っていた。なお、映画製作当時、世界に47台しか存在しなかったタッカーが、ここに1台あるのは実に貴重である。
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スチュードベーカー コマンダー(1949年・アメリカ)
スチュードベーカーはWW2以前からあるメーカーだが、著名な工業デザイナー・ レイモンド・ローウィのデザインした乗用車を長年にわたって製造し、圧倒的な人気を集め、大きく業績を伸ばした。しかし、1966年にはBIG3との競争に破れ、自動車生産からは撤退していた。 -
キャデラック シリーズ 60スペシャル(1948年・アメリカ)
戦後初の本格的なモデルとして開発されたこのキャデラックは、自動車業界初の曲面ガラスや、双胴の戦闘機の尾翼をモチーフとしたテールフィンなど、先進的なデザインが大きな反響を呼ぶとともに、その後の世界の自動車デザインに大きな影響を与えた。 -
フォード カスタム4ドアセダン(1949年・アメリカ:写真はWikipediaより)
戦後初のフォード社のニューモデルとして登場。斬新なデザインで当時大きな話題となる。また、戦後の日本へもいち早く持ち込まれ、当時日本に駐留していた進駐軍の家族が颯爽と乗る姿に、多くの日本人は驚きと羨望の眼差しを送った。 -
シボレー コルベッ ト (1953年・アメリカ)
第2次世界大戦後アメリカでブームとなった、MG、ジャガー、ポルシェなどのヨーロッパ製スポーツカーに対抗するため、GMが投入したアメリカ最初の量産スポーツカー。新設計の6気筒エンジンを搭載した2シーターボディはFRP(繊維強化プラスティック)が使われている。スタイルは本格的なロードスターになっているが動力性能はスポーツカーとしては不十分で雰囲気を楽しむクルマだった。 -
フォード サンダーバード(1955年・アメリカ)
「シボレー・コルベット」に対抗して、フォードはサンダーバードを開発する。サンダーバードはスポーツカーではなく、パーソナルカーという位置付けで、同じ二人乗りながらV8エンジンも選べるスポーティで高級なパーソナルカーとして販売し、コルベットに比べて乗用車的な快適さを備えており人気を博した。屋根は着脱式のハードトップで、オープンカーとしてもクーペとしても楽しめた。 -
キャデラック エルドラド ビアリッツ(1959年・アメリカ)
世界を代表する高級車ブランドとして知られるキャデラックの中でも、この車は1950年代のアメリカを象徴する車として有名。クロームメッキを多用したバンパー一体グリル、巨大なテールフィン、ジェット機の噴射口をモチーフとしたテールライトなど大胆なデザインと、パワーステアリング、パワーウィンドウ、パワーシート、電動コンバーチブルトップなど当時の最新技術を数多く取り入れていた。 -
1948年型キャデラックに初めて採用されたテールフィンは、1959年にその頂点を極めると、次第に小さくなり60年代半ばには姿を消した。6396cm3・水冷V型8気筒OHV・345hpというアメ車の定番ユニットを積み、まさに「恐竜の時代」に相応しい車だった。
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フォード ファルコン(1960年・アメリカ)
初年度に43万台以上を販売するフォードのヒット作。当初のボディ・バリエーションはセダンとワゴンのみだったが、63年からクーペとコンバーチブルが追加された。「ポニーカー」ブームの火付け役となり、米国自動車史に残るベストセラー車となったマスタングは、このファルコンをベースに開発された。 -
フォード マスタング(1964年・アメリカ)
開発開始当時副社長であったリー・アイアコッカの指導下で、第二次世界大戦以降に出生したいわゆるベビーブーマー世代向けの中型車として開発がスタートした。1964年に登場した初代マスタングは、低価格ながら、スポーティーな外観と充分な性能、フルチョイスシステムと呼ばれる多彩なオプション群と巧みな広告戦略によって、ターゲットだったベビーブーマー以外の心も掴み、1960年代中盤の好景気と相まって、フォード・モデルT以来といわれる同社の大ヒットとなった。マスタングの大ヒットを受けて、GMからはシボレー・カマロ、ポンティアック・ファイヤーバードが、クライスラーからは、ダッジ・チャレンジャーなどが後を追った。
次に戦後のヨーロッパを見てみよう。 -
MG ミジェット タイプ TC (1947・イギリス)
WW2後、ヨーロッパに駐留したアメリカ兵が欧州製スポーツカーの軽快さに魅せられ、その後アメリカでスポーツカーブームが起きる。このタイプTCは戦前型であるTBのコックピットを拡大して居住性を向上させたモデルで、後継のTD、TFを含め生産車の多くが輸出され、アメリカのみならず世界中にスポーツカーの楽しさを伝えた。 -
ジャガー XK120 (1951年・イギリス:写真はWikipediaより)
ライバル車に比べて半額程度の低価格でセンセーションを巻き起こし、ジャガーの国際的名声を確立したスポーツカー。1948年から1954年までに12000台ほど生産され、そのほとんどがアメリカに輸出された。 -
シトロエン 2CV タイプA(1953年・フランス)
1948年パリサロンで発表されるも、当時はあまりにも奇妙なスタイルに嘲笑を浴び「醜いアヒルの子」あるいは「ブリキの缶詰」と揶揄された。しかし「荒れた農道を走行しても籠の中の卵が割れることなく走れる快適な乗り心地」など、あらゆる面で合理的な設計が市場のニーズで合致しフランスのみならず世界中で親しまれた。1948年から1990年までの42年間、大きなモデルチェンジなしに約387万台生産された世界屈指のロングセラー車の1台である。 -
フォルクスワーゲン タイプ1(1951年・ドイツ)
WW2後、ドイツ全土は連合軍の占領下に置かれた。国策で造られたKdF工場はソ連軍に接収され、解体されようとしていたが、その重要性に気づいたイギリスがソ連と交渉し、イギリス軍の管理下に置くことに成功する。(これが無かったら、今のVWは存在しなかった)工場所在地の「KdF市」というナチスじみた地名も、近くにある城の名前に因んでヴォルフスブルクと改名された。フォルクスワーゲンにとっての幸運は、理解あるイギリス軍少佐のアイヴァン・ハースト(Ivan Hirst、1916年-2000年)が工場管理者となったことである。ハーストはKdF車の将来性と、ドイツ人労働者の高い資質を見抜き、リーダーシップを取って、戦禍によって廃墟同然となった工場を復興させた。
その結果、1945年中にはフォルクスワーゲン社が改組され、KdFも「フォルクスワーゲン・タイプ1」に車名を変更して生産を再開したのである。1949年からアメリカへ輸出されると、優れた商品性と安価な価格、そして整ったサービスおよび部品供給体制に支えられ、“ビートル(かぶと虫)”の愛称で、特にホワイトカラー層を中心に人気を博し、アメリカ輸入車のベスト・セラーとなり、ドイツの復興に寄与した。なお、2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては世界量産記録となっている。
(Wikipedia:一部参照) -
メッサーシュミット KR200(1955年・ドイツ)
WW2の敗戦国ドイツでは自動車生産は遅れていたが、やっとこの頃になって復活の兆候が見えてきた。ドイツの軍用機メーカーのメッサーシュミット社が生産したマイクロカー。 飛行機のコックピットのような軽量ボディに小型2サイクルエンジンを載せ、前後二人乗り(タンデムシート)である。バックギアを省略し、エンジンを逆回転させてバックした。第二次世界大戦後の一時期、ヨーロッパの数ヶ国でこのような超小型車が復興期の庶民の足として活躍した。 -
BMW イセッタ(1959年・ドイツ)
WW2後、BMWの経営が困窮した時期に、イタリアのイソ社からライセンスを取得して生産したマイクロカーがイセッタである。前開きのドアを持つ愛らしい外観が最大の特徴。イセッタは一時期ドイツ復興期の庶民の足として親しまれ、BMWに明るい話題をもたらした。 -
ポルシェ 356 クーペ(1951年・ドイツ)
ポルシェ社を創業したフェルディナント・ポルシェ博士の息子、フェリー・ポルシェが設計した、高性能・実用的な小型スポーツカー。フォルクスワーゲンと同じ駆動方式(RR)がとられ、コストダウンの観点や部品調達の容易さから、エンジン、サスペンションなどの部品もフォルクスワーゲンの物をベースとしている。RRの駆動方式は、1964年に登場したポルシェ911に受け継がれている。 -
モーリス ミニ マイナー(1959年・イギリス)
BMCの技術者、アレック・イシゴニスによって“Smaller outside, Bigger inside”と言う基本コンセプトのもと、設計された。横置きエンジン、前輪駆動、2ボックススタイル、ラバーコーンサスペンションなどは当時としては画期的な成り立ちで登場した。これらは現在の小型車では定番となっている。発売以降長い間世界中の人々に愛され、特にジョン・クーパー との共同開発による「ミニクーパー」は優れたハンドリングなどによりモンテカルロラリーで総合優勝するなど大活躍をした。
排気量と横幅を除けば日本の軽自動車とオーバーラップする部分があり、のちのホンダN360など、日本の軽自動車作りにも大きな影響をもたらした。 -
メルセデスベンツ 300SL クーペ(1955年・ドイツ)
1954年ニューヨークショーでデビューしたスポーツクーペ。世界初のガソリン直噴エンジン搭載車として知られている。特有のガルウィングドアはレーシングカーをベースとした鋼管スペースフレーム構造だったことから、通常の車のドア下半分にフレームが来てしまい開口部の敷居が高くなってしまったこと、そして車高が低かったことから乗降性確保のためにやむなく採用されたと言われている。
日本では石原裕次郎さんの愛車だったので有名。さて、日本はどうだったろうか。 -
フライングフェザー(1955年・日本)
敗戦後、日本では航空機の製造は禁止され、自動車産業も戦争に協力したことでGHQからは冷たい扱いを受け、工場も爆撃で破壊され、自動車作りなど夢のような時代が続く。世の中がやっと落ち着いた頃からボツボツと新しい自動車が現れたが、このフライングフェザーもその1台。「最も経済的なクルマを」という設計者、富谷龍一氏の思想を具体化して住江製作所が1954年に発表。きわめて合理的なスタイリングや必要最少限のメカニズムを持ち、機能的なトランスポーターとして、野心作ではあったが、残念ながら1955年に200台足らずつくられたのみに終わった。おそらく、徹底した合理主義が、当時の人々にはまだ理解されなかったのであろう。 -
フジキャビン 5A型(1955年・日本)
フライングフェザーと同じ設計者(富谷龍一氏)により、富士自動車(当時、日産自動車系のエンジンメーカー)は当時としては画期的なFRPのフルモノコック構造の3輪キャビンスクーターを送り出した。空冷単気筒2サイクルエンジンを備えたボディは、わずか130kgで最高速度は時速60km。限られたスペースを生かした室内や空力的なボディデザインなど革命的な試みではあったが、FRPの製作技術がこれに伴わず、わずか85台製作されただけであった。 -
実走行のビデオにはモクモクと2ストロークスモークを上げながら走るフジキャビンが映っていた。
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日野 ルノー PA62型(1962年・日本)
現在はトラックやバスなど大型車の生産で知られる日野自動車が、フランスのルノー公団と技術提携を行ない1953年からルノー4CVの生産を開始。愛矯のあるスタイルやRR駆動の優れた操縦性、コンパクトなサイズからタクシーにも多く採用された。さらにこの国産化によって得た技術は独自の設計でコンテッサ900(1961年発表)や1300(1964年発表)を生み出す結果となり、わが国のモータリゼーションに大きな役割を果たした。 -
日産 オースチン A50型(1959年・日本)
日産自動車も英国のオースチン社と技術提携し、1953年4月からA40サマーセットの国内生産をはじめ、1955年に新型のA50ケンブリッジに切り替えられた。当時の国産自動車では比較にならないほど快適な乗り心地と優れた走行性を備え、人気も高かったが、なにより提携で得た海外の先進技術を自社のものとして、その後、次々と新しいモデルを送り出したことは高く評価できる。 -
トヨペット クラウン RS型(1955年・日本)
海外と技術提携が盛んに行なわれるなかで、トヨタは純国産方式を押し通し、1955年トヨペットクラウンRS型を発表。当初から自家用車として設計されたRS型は、あらゆる意味において国産車のモータリゼーションの出発点であった。そしてわが国の自動車業界へも大きな自信を与えたのである。 -
トヨダAA譲りの観音開きドアを採用。安全性に若干問題はあるが、ホテルのドアマンには歓迎されたという。
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トヨタ ランドクルーザー FJ-25L型 (1957・日本)
戦時中に製作した、陸軍四式小型貨物車をルーツに持つ「トヨタ・ジープ」と呼ばれた4輪駆動車だが、直6・3.4Lという強力なエンジンを搭載し、本家のウィリス・ジープを上回る性能を持っていた。しかし「ジープ」という名称が米国ウィリス・オーバーランド社(当時)の商標権に抵触するため、ランドクルーザーと改名された。 英国ローバー社の「ランドローバー」に対抗し、ROVER(海賊、海賊船)を駆逐するという意気込みを込め、「巡洋艦」になぞらえた命名であった。その頑丈さと、高性能によりトヨタ車の海外進出の名刺代わりの車に成長していったのは有名な話である。 -
ここで、場内アナウンスがあり、第1駐車場に設けた特設コースで「懐かしの昭和トラックの走行披露」が行われる模様。再入場が出来ることを確認して一旦外へ出るが、玄関前にはこんな懐かしいトヨタ・ボンネットバスが鎮座していた。今の若者にはトトロのネコバスに見えるんだろうね。
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バタバタという音と伴に会場へ向かって走ってきたのは懐かしのマツダ三輪トラック。
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マツダ三輪トラックCTA型(1953・日本)
1157cc・V型空冷2気筒・24psというスペックで、ハンドルはバイクと同じバーハンドル。2トン積みで、一応スターターも付いていた。 -
トヨエース(1959・日本)
次ぎのトラックは3輪トラックの時代を終わらせたトヨエース・トラック。995cc・水冷直列4気筒・25psというスペックで、当時、トヨタと言うとトヨエースと言われ、クラウンやコロナが霞んでしまうほど知名度があった。 -
トヨペット・コロナライン・ピックアップ(1962・日本)
ライトバンである商用車コロナラインの後部をトラックに改装した車で、当時のカタログには「1台で数台分の働きをする最も実用的な商店の急行便」とあった。確かに、日本ではいきなり乗用車では無く、商用車から普及していった経過がある。そういえば、クラウンにもマスターラインと呼ばれるライトバンとピックアップがあった。スペックは 1198cc・水冷直列4気筒・41ps。 -
各車の紹介の後、実走行に移る。マツダは一発ではエンジンが始動せず、何度かセルを回してやっと起動する。なにせ65才という高齢車だからね。
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アポロと呼ばれた方向指示器もちゃんと点灯した。
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運転姿勢はバイクそのもの。女性にはかなり抵抗がありそう。麦わら帽子はご愛嬌か。
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時折バーンというアフターファイアーの音を響かせながら特設コースを2周する。
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この日はNHK名古屋さんの取材があり、私もギャラリーの一人として映ってしまったようだ。しかし、3月28日にNHK・BSプレミアムで放送された「真夜中のスーパーカー」という番組をチェックした限り、残念ながら当日撮影したシーンは登場しなかった。
ドラマの内容はナゴヤ自動車勤務の美人カーデザイナーと、ナゴヤ自動車博物館に展示されているナゴヤ2000GT(トヨタ2000GT)との空想物語だが、先発の日産やホンダを超える本格的なスポーツカーを、ヤマハとの共同開発により驚くほど短時間で作り上げた過程が描かれており、中々興味深いものだった。 -
次ぎはトヨエースの番。あ、ドアが前開きだ。
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この車もアポロなのね。オーバーフェンダーも勇ましいね。
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走りにはとくにドラマチックなものはありません。
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そしてトヨペット・コロナライン・ピックアップは、ごく普通に走っています。このあと、会場が寒くなってきたので再び本館3Fへ再入場。
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ダイハツ ミゼット DKA型(1959年・日本)
コロナラインで述べた通り、戦後しばらく自動車が公共的な乗り物であったわが国で、本来の大衆化は商業車から始まったといってもよい。そして、それを決定づけたのが1957年に発売された軽3輪車ミゼットといえるだろう。安価かつ扱いやすく、しかも軽免許で乗れることから爆発的なブームを巻き起こし、3輪車の代名詞にまでなった。そう言えば映画「三丁目の夕日」にも登場したが、249cm3・空冷単気筒2サイクル・10psのエンジンを目一杯回して、東京の街をバタバタ走り回っていたシーンを思い出す。 -
スバル 360 K111型(1958年・日本)
1955年、通産省の「国民車構想」が発表される。要件は以下の通りで、これに近い車には国がその製造と販売を支援するというものであった。
1.4名が搭乗した状態で時速100 kmが出せる(ただし、定員のうち2名は、子供でもよい)
2.時速60 kmで走行した場合、1リッターのガソリンで30 kmは走れる
3.月産3,000台(構造が複雑ではなく、生産しやすいこと)
4.工場原価15万円/販売価格25万円以下
5.排気量350 - 500 cc
6.走行距離が10万 km以上となっても、大きな修理を必要としないこと
7.1958年(昭和33年)秋には生産開始できること
この計画に、国内各自動車メーカーは「実現不可能」と消極的な反応が多かったが、当時、自動車市場への新規参入を狙った富士重工(スバル)は、航空機製造で培った経験を取り入れ、1958年3月に「スバル・360」として発表、5月から発売した。 -
スバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と見ていた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち日本に軽乗用車市場を確立した。モノコック構造のボディと、トーションバーによるサスペンションは軽自動車とは思えない広い室内スペースを持ち、快適な乗り心地を実現していた。ただし、富士重工の首脳陣および百瀬晋六をチーフとするの開発スタッフの念頭にあったものは通産省の「国民車構想」では無く、シトロエン・2CVであったと言う。
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スズライト SL型(1957年・日本)
スズキ自動車から発売されたスズライトは、軽自動車のパイオニアの1台である。小型乗用車と変わらない装備を持ち、これを開発するに当たって参考としたドイツの小型車ロイトが、2ストロークエンジンと前輪駆動方式であったことと、我が国の量産車として初めてFF方式を採用した。 -
こんなプレートが置かれていた。
この「国民車構想」に基づく我が国独自の軽自動車(一部は小型自動車)は他に三菱自動車からは三菱500(1961)、マツダからはR360クーペ(1961)、ダイハツからはフェロー(1966)、スズキからはスズライトの後継車としてスズキ・フロンテ(1967)、そして後発ではあるがホンダ技研からはN360(1969)という傑作が次々と発売された。 -
パブリカ UP10型(1961年・日本)
こういった動きに対してトヨタはパブリカUP10を発表する。当初パブリカの設計陣が目指したのはFF車のシトロエン・2CVだったが、主査に任命され長谷川龍雄が、FF車の量産が出来るようになるには時間的に困難と判断し、平凡なFR車となった。それでも2CVに近い697cc・空冷水平対向2気筒エンジンやトーションバーを使ったダブル・ウィッシュボーンサスなど先端を行く技術をふんだんに使ったのだが、空冷エンジン故の騒音や暖房能力などにハンデキャップを抱えることになった。
発売時のパブリカは、純粋な走行性能や実用性こそ当時の日本において特記に値する高水準であったが、その装備類は極めて質素なものであった。機能性とコストダウンを重んじて徹底した簡素化を図った結果、外装にはメッキ部品がほとんどなく、ラジオ、ヒーターなどの快適装備はもちろん、燃料計やサイドミラーすら装備されていないという(サイドミラーの省略は、当時は合法であった)、無いもの尽くしであった。
そのあまりの質素さゆえに、発売当初から大衆層には支持されず、販売台数は低迷した。当時は自家用車を購入することは大衆の「夢」のひとつであり、ゆえに自動車には単なる実用性以上に、装飾などによる「高級感の演出」が時代は求めていたのである。パブリカの発売に対抗して軽自動車各車がデラックス化を推し進めた結果、購買層は軽自動車へと流れていってしまった。
(Wikipedia:参照) -
1963年に我が家へやってきた最初の車は、かなり走り込んだ中古のUP10だった。元々は水色でラインオフされていた車だったが、何故かエンジ色にオールペンされており、あまりいい色では無かったので後でホワイトに塗り直した。オプションであったラジオやヒーターは最初から付いていたが、音は悪く、空冷エンジンのためヒーターの効きは弱く、2気筒エンジン独特のバタバタというエンジン音が特徴のなんともみすぼらしい(当時の感覚)車であった。それでも、ドライブや買い物に活躍し、大学1年の夏休みに友人と岩手県平泉まで行ったことがあるが、帰路、日光いろは坂を登る際、パワーの無さのため、後に数十台の車を従えてしまった。
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ダットサン サニー B10型(1966年・日本)
1966年に発売されたこの1L車は、3速コラムシフトのトランスミッション、2ドアセダンのボディ、グレードはデラックスとスタンダードの2種類(価格は46万円と41万円)とシンプルな商品構成で、車名も一般から募集するなど話題を集めた。しかし、7ヶ月後にトヨタ力ローラが発売されると、「SC戦争」と呼ばれる熾烈な競争に突入することとなる。 -
トヨタ カローラ KE10型(1966年・日本)
トヨタ・カローラはエントリーモデルのパブリカと、コロナの中間の車種として企画された。パブリカの失敗を体験した長谷川龍雄主査は、大衆ユーザーの嗜好に応じた「デラックス感」のある内外装に、ちょっぴりスポーティ性を加味し、高速巡航性能を備える「80点主義+α」の小型大衆車の開発を目論んだ。当初1000cc車として計画されたが、開発後期に至って日産自動車が1000ccの競合モデル(のちの初代サニー)を開発中である情報が伝わり、「販売の神様」と呼ばれた当時のトヨタ自動車販売社長・神谷正太郎の強い要請で、排気量を急遽1100cc級に拡大するスペック向上を図った。短期間での変更であったため、決死の努力を東郷平八郎のZ旗になぞえ、エンジン名『27E』を『27E-Z』に変更している。
神谷の目論みは大当たりし、発売月に5835台という登録数を記録し、7ヶ月先に発売されたサニーの3355台を上回った。1983年には生産台数は1000万台を超え、その後フォード・モデルTやVWビートルの記録も抜き去り、2013年7月、カローラの累計販売台数が4000万台に達した。単一車種では販売台数世界一の”くるま”となった。なお、国内販売台数でも1969年から2002年にホンダ・フィットに首位を明け渡すまで、34年間首位を守り通した。
(Wikipedia:一部参照) -
こうして2台を並べてみると、サニーはフォード。モデルT、カローラは、さしずめGMシボレーといったところだろうか。
なお、2台の寸法だがサニーは全長3820mm、全福1445mm、全高1345mm、重量645kgで、カローラは全長3845mm、全福1485mm、全高1380mm、重量710kgであるが、今、家にあるスズキ・セルボの全長3395mm、全幅1475mm、全高1545mm、重量870kgと比較すると全長こそ400mm長いが、全幅は同じ位で、全高はセルボの方が大きい。つまり、全長の400mmはトランク部分なので、今の軽自動車は60年代の大衆車と同じ室内寸法を持っているのが解る。 -
ダットサン ブルーバード 411型(1965年・日本)
順番は逆であるが、「SC戦争」の次ぎは「BC戦争」を。
1963年に登場した2代目ブルーバード。「走るベストセラーに優美なデザイン」がキャッチフレーズで、日産初のモノコック・ボディ、ピニンファリーナによる美しいヨーロピアンデザインが特徴だった。しかし、特徴であった尻下がりのシルエットが市場では不評で、ライバルであったコロナに販売台数で初めてリードを許すこととなった。 -
トヨペット コロナ RT40型(1964年・日本)
1964年9月にフルモデルチェンジしたコロナRT40型は、「アローライン」と呼ばれた傾斜したフロントノーズのデザインが特徴であった。開通して間もない名神高速道路にて、発表早々に「10万キロ連続高速走行公開テスト」を実施し、高速性能と耐久性をアピールして先代との違いを際立たせたことから人気が急上昇。ブルーバードとの熾烈な販売競争、いわゆる「BC戦争」において、1965年1月に初めてブルーバードを追い抜き、国内販売台数第1位を達成した。その後しばらく抜きつ抜かれつの状況が続いたが、1969年末頃からは第1位の座をカローラに譲るまで磐石なものにした。 -
ホンダ S500 AS280型(1964年・日本)
2輪メーカーとして名を馳せていたホンダが4輪分野へ進出、名刺代わりに本格的なライトウェイトスポーツであるS500を送り込んだ。デビューは1963年、諸般の事情により市販されなかったS360の生産型である。531ccの超小型4気筒ツインカムには4基のCVキャブを装着して44hp/8000rpmの出力から最高速度は130km/h。小型車としては驚異的なパフォーマンスと軽快な2座オープンボディから若者の憧れを一身に集めることになった。その後、このモデルはS600(通称エスロク)、S800(通称エスハチ)へと発展、本田技研工業の4輪車部門の基礎を築き上げた。 -
ダットサン フェアレディ SP310型(1963年・日本)
この車は、1962年わが国で初めて本格的なスポーツカーとして開発された。スマートなボディに1500cc直列4気筒OHVエンジンを搭載しブルーバード312型と同じシャシーを使用、リアには横向きの変則的なシートを持つオープン3シーターである。1963年に開催された第1回日本グランプリに出場、ポルシェ、トライアンフTR4など外国製スポーツカーを相手に見事クラス優勝した。その後、フェアレディは1600(SP311型)、2000(SR311型:通称エスアール)へと発展、モータースポーツで活躍したが1969年に後続車フェアレディZにバトンタッチする。 -
トヨタ スポーツ800 UP15型(1965年・日本)
通称ヨタハチ。1962年のモーターショーで発表されたパブリカスポーツを基に、1965年4月に登場。空気力学を重視した機能的なスタイルをそのままに、パブリ力のコンポーネンツを用いてコストダウンを考えた大衆のためのスポーツカーであった。デタッチャブルトップの開放感と、わずか790ccの空冷水平対向2気筒から得られる、155km/hの最高速度はドライブの楽しさを一般的なものにしたのである。 -
トヨタ 2000GT MF10型(1968年・日本)
オイルショックや排出ガス規制などに縛られなかった60年代には、魅力的なスポーツカーが多く誕生する。わが国においてもかつてない高性能なグランツーリスモ、トヨタ2000GT(1965年)が登場する。ロングノーズの均整がとれたスタイリングやバックボーンフレーム構造、6気筒ツインカムなどデザイナーやエンジニアが思う存分に腕をふるった結果は、谷田部のテストで3つの世界記録と13の国際新記録を樹立。世界水準の高性能車をつくり上げたのである。 -
いすゞ ベレット 1600GT PR90型(1966年・日本)
1963年に発売されたいすゞベレットは、多様化するニーズに対応するため、シート、ミッション、ハンドブレーキの組合せが自由に選択できるシステムを採用。さらに翌年4月、国産車で初めて車名に"GT"(グランツーリスモ)が冠せられたベレット1600GT(通称ベレジー)を発売した。このベレット1600GTは、SUツインキャブレターを装着し高出力、すばやい加速性などの高性能車として注目され、モータースポーツにおいても活躍した。 -
ニッサン プリンス スカイライン "2000GT-B" S54型(1967年・日本)
1960年代、高まりを見せたモータースポーツ熱を背景にプリンス自動車がスカイラインGT(通称スカジー)を開発。1965年に発売された2000GT-Bは、これまでのGTをベースに量産、市販化したもので、伸ばしたエンジンルームにグロリアスーパー6の6気筒エンジンを押し込め、3連式のキャブレターでチューンされたエンジンとスポーティなステアリング・ホイール、メーター類などの装備を持つスポーツセダンとして人気を博した。GT-Bの名称は、同年9月廉価版のGT-Aの登場により改められたもの。なお、1966年の日産自動車との合併から1968年まで、スカイラインの車名にプリンス名を残した。 -
ダットサン ブルーバード P510型(1967年・日本)
これは壁に貼ってあった写真であるが、(通称ミニタンク)と呼ばれたP510は、1970年に開催された第18回東アフリカサファリラリーで総合優勝するなど世界のラリーシーンで大活躍し、日本車の優秀さを世界に知らしめた。
こうして、戦後の焼け跡から使えそうな部品を拾い集めてスクーターを造っていた日本が、アメリカを追い越し、世界一の自動車生産国になっていったのだが、この後に待ち構えていたのは排気ガス問題、オイルショック、そして貿易摩擦だった。 -
左上からニッサン シルビア CSP311型(1966年・日本)、日野コンテッサPD300(1967日本)、トヨタ セリカ TA22型(1970年・日本)、三菱 コルト ギャランGTO-MR型(1971年・日本)
自動車の普及に伴い排気ガスによる大気汚染が大きな社会問題として浮上し、1968年には大気汚染防止法が成立した。1970年にはアメリカでさらに厳しい基準を定めたマスキー法が制定、欧米の自動車メーカーは達成が不可能だとして一斉に拒否反応を示したため1974年に廃案となったが、各自動車メーカーは自動車開発において排気ガス対策を余儀なくされた。ここで世界をリードする技術を示したのが、日本車で、1972年にホンダは規制に適合するCVCCエンジンを発表して世界に衝撃を与えた。 -
左上からアルファロメオ GT1300ジュニア(1968年・イタリア)、ルノー 5(サンク)(1979年・フランス)、フォルクスワーゲン ゴルフ(1979年・ドイツ)、フィアット ヌォーヴァ500L(1972年・イタリア)
さらに1973年には第四次中東戦争に端を発するオイルショックが起こり、ガソリン価格が急騰し、自動車の低燃費化が求められた。軍事上の目的で自国の原油資源を封印し、中東の原油にたよっていたアメリカではガスイーターと呼ばれた大型のアメリカ車が売れなくなってしまった。肥大化したアメリカ車に比べて圧倒的に燃費のいい日本の小型車はアメリカ市場で人気を博し、順調に販売を伸ばし、ついにはトヨタがGMを抜いて生産台数世界一になってしまった。 -
こうしてアメリカの道路は輸入した日本車で溢れ、失業したアメリカの自動車労働者達が路上で日本車を破壊するようになり、日米自動車(貿易)摩擦が勃発する。アメリカは自動車貿易に関して3つの要求を提示してきた。第1はアメリカ車を日本に輸出する際の規制を緩和するように求めた。第2は輸入制限の撤廃である。第3の要求が、もっとも重要な課題で、日本がアメリカに投資することを求めたのである。つまり日本車をアメリカで生産し、雇用を創出することが目的だった。
見方によってはなんとも理不尽な要求なのだが、スーパー301条(不公正貿易と見なされた物品に高額の関税を掛ける法律)の適用をちらつかせながら、要求を迫るアメリカに対し、生産量の1/2を北米輸出にたよっていた日本のメーカーは苦境に立たされた。そして通産省とメーカーの間で「自主規制」という名で輸出の制限を行うこと、そして現地に工場を建設することが話し合いでまとまった。その結果、80年代から90年代にかけてホンダはオハイオ州に、トヨタはカリフォルニア州に、日産はテネシー州に自動車工場を建設、現地生産を開始することになった。 -
日米貿易摩擦は一応決着し、絶頂期を迎えた日本車だったが、思わぬ障壁が立ちふさがった。バブル経済の崩壊である。
1991年の新車販売は7年ぶりに前年を下回り、日本経済全体が長い不況を経験することになる。バブル期に企画された新型車が登場するものの売り上げは伸びなかった。また、この頃から、ユーザーの自動車に求めるものが多様化し、これまでは国内販売のほとんどがセダンタイプの自動車であったのに対して、軽自動車を代表とする小型実用車や、ホンダ・オデッセイやトヨタ・エスティマといった実用性の高いミニバンが販売の中心を占めるようになっていった。 -
右からトヨタ プリウス(1997年・日本)、ホンダ インサイト(初代)(2004年・日本)、三菱アイミーブ (2011・日本)
今年で内燃機関を使用した自動車が発明されてから132年となる。しかし石油を筆頭にした化石燃料はいつか尽きる。余力がある内に石油にたよらない自動車を開発するのは自動車メーカーの使命であるが、それを最初にやったのがトヨタで、他社が後に続いた。
1.プリウス
「20世紀に間に合いました」をキャッチフレーズに登場したプリウスは、動力源としてガソリンエンジンと電気モーターを備え、それぞれの駆動力を状況に応じて最適に組み合わせるハイブリットシステムを採用した世界初の量産車だった。既存のガソリン車と同等の走行性能を保ち、約2倍の低燃費とCO2半減などを実現、215万円(21世紀にゴー!)という価格は赤字覚悟の値段だったが、その後、ハイブリッド車はトヨタの屋台骨を支える”くるま”に成長していった。
2.インサイト
1999年にデビューした、ホンダ初のハイブリットカー。アイドリングストップ機能を備えたリーンバーンVTECエンジンに薄型DCブラスレスモーターによる電動アシストを組み合わせたハイブリッドシステムを搭載。新骨格アルミボディにより実現した軽自動車並みの車重とCD値0.25の空力特性もあり、発売当時、世界最高の低燃費35km/lを誇った。ホンダ車は、その後ハイブリッドを中心とするラインナップとなり、トヨタ・日産に次ぐ、我が国3番目のメーカーに成長した。
3.アイミーブ
軽自動車、三菱・アイの車体にガソリンエンジンに代えて永久磁石式交流同期モーターとリチウムイオンバッテリーなどを搭載した短距離向けの電気自動車として、2009年に他社に先駆け量産・販売が開始された。ロングホイールベースを生かし、座席床下にバッテリーを、ラゲージルーム下にモーターを配置することで、低重心化による安定した走行性能と、広い居住空間の確保をした。満充電状態の走行可能距離は、一般的な市街地での40-60km/hで空調無しの場合約120km、エアコン使用時で100kmで(公表値)、充電は三相交流200高速充電の他、家庭用の単相100vまたは200vにも対応していた。しかし、国の補助金を足しても320.9万円(当初)という価格と、限られた充電設備、30分以上かかる充電時間などが嫌われ、ハイブリッド車ほどの普及はしていない。なお、アイミーブは2010年よりフランスのプジョー・シトロエングループにOEM車で提供されている。 -
トヨタFCV-R (2011・日本)
トヨタ博物館本館に最後に飾ってあったのがトヨタFCV-R。
2014年発売されたトヨタMIRAIのコンセプトモデルとして、2011年に発表された。水素の化学反応を用いて発電しモーターを駆動するため、走行中に排出ガスやCO2を排出しないことで、次世代のパワートレーンとして注目されている。専用ボディに小型化された70Mpsの高圧水素タンクや高効率の燃料電池スタックを床下に配置することで、実用的な居住空間と荷室スペースを確保しながら、約700km以上(JC08モード、社内測定値)の航続距離を確保している。
最近、フランスやイギリスなどヨーロッパ各国がクルマの電動化を唱え始めたことが話題となっている。フランスの環境大臣が2040年にガソリンエンジン、ディーゼルエンジンを搭載したクルマの販売を終了させるというプランを発表し、世界を驚かせた。それに呼応するかのように同月、イギリス政府もまったく同様のコミットメントを打ち出した。人口の少ない国ではもっと過激なプランもある。例えば、ノルウェーでは2025年までに販売車両のすべてを純EVもしくは充電可能なPHEVにするとし、オランダもそれに似た政策を推進している。
本当に出来るのか疑問は尽きないが、限りある化石燃料を後世に残すことと、地球温暖化を防ぐ為の無公害化を目指す考えは基本的に賛成である。今まで多くの試練を乗り越えてきた世界の自動車メーカーには、これまた大きな試練がやってくるのだが、人類の叡智と勇気を結集して、この大波を乗り越えてもらいたいと提言して、このへんでキーを休めたいと思います。
最後は尻切れトンボのようになってしまいましたが、これで「トヨタ博物館で時代のターニングポイントとなった”くるま”達と遭遇:第2章 WW2から現在まで」は終了といたします。旅行記とはとても言えない、マニアックなブログを最後までご覧頂き、ありがとうございました。
2018年3月2日 chiaki-k 記す。
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この旅行記へのコメント (7)
-
- ひでじいさんさん 2022/09/01 18:28:15
- 初めまして
- 私も数年前に行きました。トヨタ車以外の国内外の車をよく集めたものです。そのまま持って帰りたい車が何台もありました。
歴代の車種を時代ごとに展示してあればなお最高、車種&歴代で展示してほしいと思いました。そしたら、施設は10倍の広さになりそうですが。
いずれにしろ楽しい展示館ですね。
- chiaki-kさん からの返信 2022/09/02 08:36:44
- RE: 初めまして
- ・
ひでじいさん、初めまして。
私の古い旅行記に”いいね”をありがとうございます。
> 歴代の車種を時代ごとに展示してあればなお最高・・
そうですね、カローラだけで一つの展示館が出来ますから
レクサス、ランクル、クラウン、コロナ(マーク?)、
ヤリス(スターレット・ヴィッツ)、ハイエース、
アルファード、ノア(ヴォクシー)、シエンタ、ハイラックス
など10館は出来てしまいますね。(*´∀`*)
chiaki-k
- ひでじいさんさん からの返信 2022/09/02 12:54:05
- RE: RE: 初めまして 続き−1
- 私は55年間トヨタ車には乗ったことが有りません。でも欲しかった車は初期のスプリンター、S-800、MR2、2000GT、ですがお金が無く買えませんでした。
これらが展示されてたので一応満足。
S-800のような車をつくってくれないかなあ。
冥土の土産にこれに乗って行きたいです。(笑)
> ・
> ひでじいさん、初めまして。
> 私の古い旅行記に”いいね”をありがとうございます。
>
> > 歴代の車種を時代ごとに展示してあればなお最高・・
>
> そうですね、カローラだけで一つの展示館が出来ますから
> レクサス、ランクル、クラウン、コロナ(マーク?)、
> ヤリス(スターレット・ヴィッツ)、ハイエース、
> アルファード、ノア(ヴォクシー)、シエンタ、ハイラックス
> など10館は出来てしまいますね。(*´∀`*)
>
> chiaki-k
>
-
- duc teruさん 2018/03/15 13:47:26
- ご訪問ご投票ありがとうございました
- お礼に参上いたしました、少年のころワクワクしながら眺めた頃を思い出しながら拝見しました、素晴らしい写真とコメントですね!
愚老のなんの中身のない愚作凡作ですが、年寄りの空元気と思召してお付き合いいただければ、うれしいです。
duc teru
- chiaki-kさん からの返信 2018/03/15 21:32:58
- はじめまして
- ・
duc teruさん、はじめまして。トヨタ博物館旅行記(なのか?)
に”いいね”をありがとうございました。
>少年のころワクワクしながら眺めた頃を思い出しながら拝見
しました、素晴らしい写真とコメントですね!
お褒めのことばを頂き、ありがとうございます。
旅行記(なのか?)を作った甲斐があります。
トヨタ博物館に居たのは3時間ほどですが、私もピカピカに
磨かれた旧車を眺めながら、ワクワクしていました。
ところで、duc teruさんのUPされたカルチェラタン滞在記、
拝見させていただきました。パリ、それも左岸地区に32日間
滞在されたなんて、うらやましいですね。
ちなみに私は2012年4月、オペラ地区のホテルに6日間滞在
しましたが、毎日が夢のようでした。
https://4travel.jp/travelogue/10664488
*パリ左岸地区・・・憧れです。次回はモンパルナス
のカフェでカフェ飯を食ってみたいです。
*シャブリが10ユーロ・・・日本でまともに買えば
4000円位しますね。私も飲んべえなので毎晩スーパー
で買った安いワインを飲んでいましたが、これが
結構おいしかったりしました。
*そしてチーズ・・・私はワインとチーズとパンが
あれば1週間は生きて行ける自信があります。
*1ユーロ=100円・・・WEB初公開ですが5月にオランダ・
ベルギーへ行く予定です。もし、そうなったら嬉しい
ですね。でも、日本の輸出企業は大打撃でしょうが・・・
> 愚老のなんの中身のない愚作凡作ですが・・・
とんでもありません、今の私にはとてもパリ32日滞在
は無理ですが、一瞬でも夢を見させていただき、感謝です。
では、また。
chiaki-k
-
- bingoさん 2018/03/04 20:26:52
- 昭和のロマンいっぱいですね。
- chiaki-kさん
こんばんは。
やはり大東亜戦争が、日本の工業力を押し上げたのでしょうか?
本格的に自動車の開発、生産を始めてたったの20年程で、かなり信頼性の高い商品が生産されています。もちろん欧米の技術的パクリもありましたが、敗戦後のどん底からの復興は、自動車産業抜きでは語れないモノを感じます。当時の技術者の苦労が偲ばれる博物館ですね。
個人的に大衆車でのお気に入りは、空冷パブリカ(UP10)ですね。
僕らは「ブタの蚊取り線香」と呼んでいました。笑
bingo
- chiaki-kさん からの返信 2018/03/05 07:42:44
- オヤジは「陸王」のようだと言ってました
- ・
bingoさん、おはようございます。いつもありがとうございます。
> やはり大東亜戦争が、日本の工業力を押し上げたのでしょうか?
植民地を持たない国が、これからどうやって生きていくのか考える
良いきっかけになったと思っています。
>たったの20年程で、かなり信頼性の高い商品が生産されています。
バック・トゥ・ザ・フューチャーというSF映画に日本製のビデオが
登場しましたが、1960年代の過去の人には「あ、日本製か、安物
だからすぐ壊れる」、それが1990年代の未来の人には「日本製が
一番良いんだ」に変わるシーンがありましたね。
*余談ですが「日本」が「中国」に置き換わらないことを祈ります
>当時の技術者の苦労が偲ばれる博物館ですね。
今、労働時間の問題が国会やマスコミでさかんに取り上げられて
いますが、当時の労働者には超過勤務、日曜出勤などあたり前の
時代だったと思います。その働き過ぎた結果が貿易摩擦だったとは
切ないですね。
> 個人的に大衆車でのお気に入りは、空冷パブリカ(UP10)ですね。
記事中でもありましたが、1963年に我が家に来た初めてのマイカー
がUP10の中古車だったんです。今考えれば、最先端の技術を見えない
ところにつぎ込んだ画期的なくるまでしたが、残念ながら、当時は
くるまを見る目がなかったんですね。
http://chiaki-k.justhpbs.jp/carhistory.htm
パブリカの失敗は、その後のトヨタのくるま作りに大影響を及ぼし
見えるところへ金とアイデアをつぎ込み、見えないところは後回し
あるいは省略となってしまいましたね。もちろん今はそんなことは
無いと思いますが・・・
> 僕らは「ブタの蚊取り線香」と呼んでいました。笑
初耳です。フロント部分を見た感じなのかな?
2008年に亡くなったオヤジに言わせると「陸王」(昔あった2気筒
のバイク)のようだと言ってましたよ。
では、また。
chiaki-k
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