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明けましておめでとうございます。<br /><br />2018年最初の旅行記が、昨年の続きというだけでなく、約2年前のもので・・・節目なさすぎですが・・・今年も、新旧織り交ぜて旅行記を作っていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します!

中尊寺と毛越寺だけじゃないよ~!つわものどもが夢の跡・・・平泉の魅力② ★無量光院跡、高館義経堂、達谷窟毘沙門堂・・・など★

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2016/03/09 - 2016/03/09

28位(同エリア927件中)

4

113

こあひる

こあひるさん

明けましておめでとうございます。

2018年最初の旅行記が、昨年の続きというだけでなく、約2年前のもので・・・節目なさすぎですが・・・今年も、新旧織り交ぜて旅行記を作っていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します!

旅行の満足度
5.0
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 徒歩
  • 伽羅御所跡と柳之御所跡を見て・・・時刻は14時。<br /><br />現世の仏国土を造り上げようとした奥州藤原氏を偲ぶスポットは、徒歩圏内にまだあります。<br /><br />先ほど平泉駅から歩いてきた県道110号線に戻り、さらに北上します。

    伽羅御所跡と柳之御所跡を見て・・・時刻は14時。

    現世の仏国土を造り上げようとした奥州藤原氏を偲ぶスポットは、徒歩圏内にまだあります。

    先ほど平泉駅から歩いてきた県道110号線に戻り、さらに北上します。

  • すぐ左手に見えてくるのが「無量光院跡」。この遺跡も、世界文化遺産「平泉~仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群~」の構成要素です。<br /><br />無量光院は、平安時代末に三代・藤原秀衡(ひでひら)が建立しました。宇治の平等院鳳凰堂を模した阿弥陀堂と、その周囲を取り巻く池を中心に、伽藍が構成されていました。<br /><br />現在は、もちろん建物など残っていませんが、調査の結果、阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が、鳳凰堂より大きいことがわかり、平等院を超えようとする意欲が感じられます。

    すぐ左手に見えてくるのが「無量光院跡」。この遺跡も、世界文化遺産「平泉~仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群~」の構成要素です。

    無量光院は、平安時代末に三代・藤原秀衡(ひでひら)が建立しました。宇治の平等院鳳凰堂を模した阿弥陀堂と、その周囲を取り巻く池を中心に、伽藍が構成されていました。

    現在は、もちろん建物など残っていませんが、調査の結果、阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が、鳳凰堂より大きいことがわかり、平等院を超えようとする意欲が感じられます。

  • 2012年から行われている復元整備工事のため、このときは奥の方まで立ち入ることはできませんでした。

    2012年から行われている復元整備工事のため、このときは奥の方まで立ち入ることはできませんでした。

  • 2016年3月に訪れた時にはこんな状態で、道路側から見ることしかできませんでした。<br /><br />以前は、中島跡あたりまで入って行くことができたみたいですが・・・この時には、池ばかりに目がいき、無量光院があった場所すらよくわからずに帰ってきてしまったので、また出直してみたいと思います。

    2016年3月に訪れた時にはこんな状態で、道路側から見ることしかできませんでした。

    以前は、中島跡あたりまで入って行くことができたみたいですが・・・この時には、池ばかりに目がいき、無量光院があった場所すらよくわからずに帰ってきてしまったので、また出直してみたいと思います。

  • 現在は、池の跡を含め、周りは水田になっていますが、このような伽藍だったようです(島は3つあった・・・ということなのですが、この図だと、2つしかないので、正確なことは不明です)。境内は、三方が土塁に囲まれていました。<br /><br />他の図では、本堂のあるところが中島で、その東側の小さな島(この図では中島)が東島と描かれていました。<br /><br />平等院と大きく違う点は、池に中島があって、そこに建物があることです。

    現在は、池の跡を含め、周りは水田になっていますが、このような伽藍だったようです(島は3つあった・・・ということなのですが、この図だと、2つしかないので、正確なことは不明です)。境内は、三方が土塁に囲まれていました。

    他の図では、本堂のあるところが中島で、その東側の小さな島(この図では中島)が東島と描かれていました。

    平等院と大きく違う点は、池に中島があって、そこに建物があることです。

  • 本堂の前面(東側)の島にまで建物があったんですねぇ・・・想像するだけでなかなか壮麗な伽藍です~。

    本堂の前面(東側)の島にまで建物があったんですねぇ・・・想像するだけでなかなか壮麗な伽藍です~。

  • 建物の中心線は、背後の・・・西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作と言われています。

    建物の中心線は、背後の・・・西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作と言われています。

  • 説明看板にあったこの写真だと、寺院跡がよくわかります。<br /><br />まわりが水田化して、陸続きになってしまっているので、どこからが島でどこからが池だったのか・・・よくわからないです。

    説明看板にあったこの写真だと、寺院跡がよくわかります。

    まわりが水田化して、陸続きになってしまっているので、どこからが島でどこからが池だったのか・・・よくわからないです。

  • 土塁なのかな~と思われる盛り上がりはよくわかります。<br /><br />復元整備が完成したら、もっとわかりやすくなると思うので楽しみです。

    土塁なのかな~と思われる盛り上がりはよくわかります。

    復元整備が完成したら、もっとわかりやすくなると思うので楽しみです。

  • この半年後・・・9月3日の16時過ぎに訪れた無量光院跡です。<br /><br />毎年GWに水張りをするようですが、2016年は、世界遺産登録5周年のために、11月まで水張りをしていたので、中尊寺からの帰りに寄ってみました。

    この半年後・・・9月3日の16時過ぎに訪れた無量光院跡です。

    毎年GWに水張りをするようですが、2016年は、世界遺産登録5周年のために、11月まで水張りをしていたので、中尊寺からの帰りに寄ってみました。

  • 復元整備工事や芝生養生のためもあって、やはり奥までは入れませんでしたが、美しい光景です。

    復元整備工事や芝生養生のためもあって、やはり奥までは入れませんでしたが、美しい光景です。

  • 3月とは打って変わって、夏の緑とピンクの野花とが、明るい雰囲気を醸し出していました。

    3月とは打って変わって、夏の緑とピンクの野花とが、明るい雰囲気を醸し出していました。

  • 2017年11月の河北新報の記事によると・・・<br /><br />「無量光院の復元整備事業では、12月にも大池の拡張工事に着手する。20年以上続く浄土庭園の復元は、2020年度の事業完了に向けて、総仕上げの段階に入る。<br /><br />池は、計画の7割まで整備が進んでおり、今後の工事で約1000平方メートル分を広げ、土手と歩道を整備し、来春の大型連休には池を水で満たす予定だ。<br /> <br />池に浮かぶ中島、東小島、北小島の復元を既に終えており、来年度以降に北小島を介して、中島と陸地を結ぶ橋の架設を検討する。<br /><br />無量光院の東門があったとされる池の東側では、民有地の買い上げで町と所有者が合意し、建物の解体が始まった。町は東門の手掛かりを求めて発掘調査を行った後、19年度にも駐車場と休憩施設を整備する。<br /><br />町文化遺産センターは「まずは池などの庭園空間を整備し、史跡の価値を高めたい」と往時の浄土庭園再現に意気込む。」

    2017年11月の河北新報の記事によると・・・

    「無量光院の復元整備事業では、12月にも大池の拡張工事に着手する。20年以上続く浄土庭園の復元は、2020年度の事業完了に向けて、総仕上げの段階に入る。

    池は、計画の7割まで整備が進んでおり、今後の工事で約1000平方メートル分を広げ、土手と歩道を整備し、来春の大型連休には池を水で満たす予定だ。
     
    池に浮かぶ中島、東小島、北小島の復元を既に終えており、来年度以降に北小島を介して、中島と陸地を結ぶ橋の架設を検討する。

    無量光院の東門があったとされる池の東側では、民有地の買い上げで町と所有者が合意し、建物の解体が始まった。町は東門の手掛かりを求めて発掘調査を行った後、19年度にも駐車場と休憩施設を整備する。

    町文化遺産センターは「まずは池などの庭園空間を整備し、史跡の価値を高めたい」と往時の浄土庭園再現に意気込む。」

  • 夕日の沈む時刻まではいられなかったので、西方浄土・・・夕焼けのイメージでレタッチしてみました。<br /><br />数年後、復元整備が終わるのがとても楽しみです。

    夕日の沈む時刻まではいられなかったので、西方浄土・・・夕焼けのイメージでレタッチしてみました。

    数年後、復元整備が終わるのがとても楽しみです。

  • さて・・・県道をさらに北上します。

    さて・・・県道をさらに北上します。

  • 200mほど歩いたら・・・また横道へ入ります。

    200mほど歩いたら・・・また横道へ入ります。

  • 畑の中にある蔵が気になって・・・。

    畑の中にある蔵が気になって・・・。

  • 前方に階段が見えてきました。今、目指しているスポットは「高館(たかだち)義経堂」です。

    前方に階段が見えてきました。今、目指しているスポットは「高館(たかだち)義経堂」です。

  • ここまで来たら、登るしかありません。

    ここまで来たら、登るしかありません。

  • 登り終わった・・・と思ったら・・・まだ階段があったのね・・・。<br /><br />ここで拝観料を払います。

    登り終わった・・・と思ったら・・・まだ階段があったのね・・・。

    ここで拝観料を払います。

  • 更に階段を上ると・・・北上川が目の前に広がるなかなかの絶景。<br /><br />

    更に階段を上ると・・・北上川が目の前に広がるなかなかの絶景。

  • ここ高館(たかだち)は、源義経最後の地として伝えられてきました。<br /><br />藤原秀衡(三代)は、兄・源頼朝に追われ逃げてきた義経を平泉に匿います。しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代・泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲いました。文治5年(1189)4月30日、義経は、ここで妻子を道連れに自刃しました。時に義経31歳でした。<br /><br />天和3年(1683)、伊達綱村が義経を偲んで建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られています。

    ここ高館(たかだち)は、源義経最後の地として伝えられてきました。

    藤原秀衡(三代)は、兄・源頼朝に追われ逃げてきた義経を平泉に匿います。しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代・泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲いました。文治5年(1189)4月30日、義経は、ここで妻子を道連れに自刃しました。時に義経31歳でした。

    天和3年(1683)、伊達綱村が義経を偲んで建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られています。

  • まずは義経堂へ・・・。

    まずは義経堂へ・・・。

  • この寂寥とした色彩が、ここの風情に似合っています。

    この寂寥とした色彩が、ここの風情に似合っています。

  • あら・・・また階段が・・・。

    あら・・・また階段が・・・。

  • 伊達綱村が建てた義経堂がありました。

    伊達綱村が建てた義経堂がありました。

  • 義経像は、ガラスの反射で上手く写せません。

    義経像は、ガラスの反射で上手く写せません。

  • 昭和に建てられた新しめの義経公供養塔。

    昭和に建てられた新しめの義経公供養塔。

  • 小さな資料館がありました。

    小さな資料館がありました。

  • 作者・時代不詳の仁王像。

    作者・時代不詳の仁王像。

  • 寄せ木造りで彩色の跡が見られます。

    寄せ木造りで彩色の跡が見られます。

  • この素朴でヘタウマな感じがなんとも・・・。

    この素朴でヘタウマな感じがなんとも・・・。

  • 義経堂落慶のときに納められた棟札。<br /><br />その他、源氏や奥州藤原氏の系図や、義経関係の人々の説明などの展示がありました。

    義経堂落慶のときに納められた棟札。

    その他、源氏や奥州藤原氏の系図や、義経関係の人々の説明などの展示がありました。

  • 芭蕉句碑。<br /><br />元禄2年、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」は、このあたりの風情を見て・・・と言われているそうです。

    芭蕉句碑。

    元禄2年、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」は、このあたりの風情を見て・・・と言われているそうです。

  • 義経堂にもご朱印があるんですね~。

    義経堂にもご朱印があるんですね~。

  • 中尊寺へ至る道との分かれめにあるのが「卯の花清水」。やや・・・寂れた感じですが・・・。<br />

    中尊寺へ至る道との分かれめにあるのが「卯の花清水」。やや・・・寂れた感じですが・・・。

  • いにしえより、ここには湧き水があって、卯の花清水と命名されていました。しかし現在では水は枯れ、水道を使用して再現しています。

    いにしえより、ここには湧き水があって、卯の花清水と命名されていました。しかし現在では水は枯れ、水道を使用して再現しています。

  • 元禄2年、芭蕉と一緒に平泉を訪ねた門人・曽良の句碑があります。<br /><br />「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」<br /><br />文治5年4月、主君・義経とその妻子の最後を見届けた後、死力を尽くして奮闘し、火災の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣・兼房。<br /><br />古来より湧き出る霊水のそばに、白く咲き誇る卯の花を見て、老臣・兼房奮戦の面影を偲んで詠んだ句だそうです。

    元禄2年、芭蕉と一緒に平泉を訪ねた門人・曽良の句碑があります。

    「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」

    文治5年4月、主君・義経とその妻子の最後を見届けた後、死力を尽くして奮闘し、火災の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣・兼房。

    古来より湧き出る霊水のそばに、白く咲き誇る卯の花を見て、老臣・兼房奮戦の面影を偲んで詠んだ句だそうです。

  • 目の前を走る東北本線。中尊寺へは、この線路を渡ります。

    目の前を走る東北本線。中尊寺へは、この線路を渡ります。

  • 線路脇の、こんな石柵が懐かしい(子供の頃に見たのとは形が違うけれど)。

    線路脇の、こんな石柵が懐かしい(子供の頃に見たのとは形が違うけれど)。

  • 「平泉文化史館」にやってきました・・・が、12月~3月は休館でした・・・(事前にきちんとチェックしませんでしたので)。

    「平泉文化史館」にやってきました・・・が、12月~3月は休館でした・・・(事前にきちんとチェックしませんでしたので)。

  • 平泉は、奥州藤原氏が都を築くよりも前から文化がありました。征夷大将軍・坂上田村麻呂が北東北を統治した時代から、豪族・安倍氏の時代・・・そして安倍氏を滅ぼした藤原氏・・・。<br /><br />徒歩ではムリですが、周ってみたいと思う遺跡はまだたくさんあるんです。車を使わないわが家には、なかなか行き着けない場所なのですが・・・。<br /><br />例えば、「長者ヶ原廃寺跡」。藤原氏に先立つ安倍氏時代の寺院跡。中尊寺のある関山丘陵の北にあり、一辺約100mの築地塀の方形内に、2棟の建物跡が残っています。

    平泉は、奥州藤原氏が都を築くよりも前から文化がありました。征夷大将軍・坂上田村麻呂が北東北を統治した時代から、豪族・安倍氏の時代・・・そして安倍氏を滅ぼした藤原氏・・・。

    徒歩ではムリですが、周ってみたいと思う遺跡はまだたくさんあるんです。車を使わないわが家には、なかなか行き着けない場所なのですが・・・。

    例えば、「長者ヶ原廃寺跡」。藤原氏に先立つ安倍氏時代の寺院跡。中尊寺のある関山丘陵の北にあり、一辺約100mの築地塀の方形内に、2棟の建物跡が残っています。

  • こちらはさらに遠いですが・・・「白鳥舘遺跡」。<br /><br />北上川西岸の半島状に突き出た丘陵にある、北上川舟運の監視拠点だったところ。平安中期の豪族・安倍頼時の八男、白鳥八郎則任(のりとう)の居所跡と伝えられています。本丸、二の丸、三の丸の跡がほぼ原形に近い姿で見られるそうです。

    こちらはさらに遠いですが・・・「白鳥舘遺跡」。

    北上川西岸の半島状に突き出た丘陵にある、北上川舟運の監視拠点だったところ。平安中期の豪族・安倍頼時の八男、白鳥八郎則任(のりとう)の居所跡と伝えられています。本丸、二の丸、三の丸の跡がほぼ原形に近い姿で見られるそうです。

  • ここはさらに・・・遠いですが、一番行ってみたいな~と思っているスポット・・・「骨寺(ほねてら)村荘園遺跡」。<br /><br />中尊寺経蔵別当大長寿院の荘園だったところです。屋敷と水田がひとまとまりになった中世の村の姿のまま・・・鎌倉時代荘園絵図の景観を保ったまま・・・なんだそうです。

    ここはさらに・・・遠いですが、一番行ってみたいな~と思っているスポット・・・「骨寺(ほねてら)村荘園遺跡」。

    中尊寺経蔵別当大長寿院の荘園だったところです。屋敷と水田がひとまとまりになった中世の村の姿のまま・・・鎌倉時代荘園絵図の景観を保ったまま・・・なんだそうです。

  • この日は中尊寺には寄りませんでしたので、駅方向へ引き返します。来たのとは別の道を通って、毛越寺方向へ戻ります。<br /><br />途中にある「平泉文化遺産センター」までやってきました。<br /><br />平泉文化遺産センターに隣接して、「花立廃寺跡(特別史跡 毛越寺境内附鎮守社跡飛地)」があります。<br /><br />これ以上奥へ行かなかったので気づかなかったのですが、右手の奥の方に、4間X7間(17.4mX31.0m)の堂跡があったようです。<br /><br />かつて、左右に翼廊がつく建物があったようで、寺院、総社跡、館跡など色々推定されていますが、藤原氏時代(12世紀)、各地から勧請された神社の総社とする説が有力だそうです。<br /><br />現在も、当時の礎石27個が残っているそうですが、遺跡の保存のため、その上に盛り土をし、新しく石を据えて、その位置を示しています。<br /><br />翼廊がどこまで伸びていたのかは、発掘調査でも確認できなかったそうです。

    この日は中尊寺には寄りませんでしたので、駅方向へ引き返します。来たのとは別の道を通って、毛越寺方向へ戻ります。

    途中にある「平泉文化遺産センター」までやってきました。

    平泉文化遺産センターに隣接して、「花立廃寺跡(特別史跡 毛越寺境内附鎮守社跡飛地)」があります。

    これ以上奥へ行かなかったので気づかなかったのですが、右手の奥の方に、4間X7間(17.4mX31.0m)の堂跡があったようです。

    かつて、左右に翼廊がつく建物があったようで、寺院、総社跡、館跡など色々推定されていますが、藤原氏時代(12世紀)、各地から勧請された神社の総社とする説が有力だそうです。

    現在も、当時の礎石27個が残っているそうですが、遺跡の保存のため、その上に盛り土をし、新しく石を据えて、その位置を示しています。

    翼廊がどこまで伸びていたのかは、発掘調査でも確認できなかったそうです。

  • 平泉文化遺産センターも見学しましたが、先ほど見た柳之御所遺跡の資料館でのインパクトが強かったので、こちらはあまり印象に残りませんでした。内部撮影も禁止でしたので・・・(テンションが下がります)。<br /><br />平泉文化遺産センターの向かいには、「熊野三社」があります。初代・藤原清衡が建立した、平泉の鎮守社のひとつのようです。<br /><br />この神社は、古くには、平泉文化遺産センターの地にあったと言われています。

    平泉文化遺産センターも見学しましたが、先ほど見た柳之御所遺跡の資料館でのインパクトが強かったので、こちらはあまり印象に残りませんでした。内部撮影も禁止でしたので・・・(テンションが下がります)。

    平泉文化遺産センターの向かいには、「熊野三社」があります。初代・藤原清衡が建立した、平泉の鎮守社のひとつのようです。

    この神社は、古くには、平泉文化遺産センターの地にあったと言われています。

    熊野三社 寺・神社・教会

  • 社殿は、平成22年に建て替えられたばかりで、新しくとってもキレイです。

    社殿は、平成22年に建て替えられたばかりで、新しくとってもキレイです。

  • この神社の境内では、花立古窯跡と呼ばれる、奥州藤原氏時代の窯跡が発見されています。ここは、毛越寺と中尊寺のほぼ中間にあたります。<br /><br />平成19年、社殿の建築に伴う切土工事の際に、奥州藤原氏時代の陶器を焼いた窯跡(1号窯)が発見されました。<br /><br />削平によって、窯本体の大部分は失われましたが、残った焼成室の床面近くから、椀や壺甕などが出土しました。製作技法の特徴や窯の構造から、12世紀前半の中世瓷器(しき)系陶器窯と推定されています。瓷器(しき)系の陶器窯としては国内最北、東北最古の窯跡と考えられており、藤原氏が平泉で陶器を生産したことを示す貴重な遺構となっています。<br /><br />翌20年には、1号窯の東約10mに隣接する南斜面で、2号窯、3号窯の跡が確認できました。北側の2号窯と南側の3号窯の一部が重なり、新旧の時期差があるそうです。<br /><br />2号窯は、崩れた土で覆われていて、平面が長方形の焼成室底面は強い火を受けて硬くなり、その上から少量の炭化物が出土しました。<br /><br />3号窯は、部分的な検出のため、詳細は不明ですが、2つの窯跡の形状が、1号窯とは異なる点から、炭窯の可能性があります。

    この神社の境内では、花立古窯跡と呼ばれる、奥州藤原氏時代の窯跡が発見されています。ここは、毛越寺と中尊寺のほぼ中間にあたります。

    平成19年、社殿の建築に伴う切土工事の際に、奥州藤原氏時代の陶器を焼いた窯跡(1号窯)が発見されました。

    削平によって、窯本体の大部分は失われましたが、残った焼成室の床面近くから、椀や壺甕などが出土しました。製作技法の特徴や窯の構造から、12世紀前半の中世瓷器(しき)系陶器窯と推定されています。瓷器(しき)系の陶器窯としては国内最北、東北最古の窯跡と考えられており、藤原氏が平泉で陶器を生産したことを示す貴重な遺構となっています。

    翌20年には、1号窯の東約10mに隣接する南斜面で、2号窯、3号窯の跡が確認できました。北側の2号窯と南側の3号窯の一部が重なり、新旧の時期差があるそうです。

    2号窯は、崩れた土で覆われていて、平面が長方形の焼成室底面は強い火を受けて硬くなり、その上から少量の炭化物が出土しました。

    3号窯は、部分的な検出のため、詳細は不明ですが、2つの窯跡の形状が、1号窯とは異なる点から、炭窯の可能性があります。

  • 2号窯と3号窯は、現状のまま保存されていますが、保護のため、このようになっていて、窯内部などの様子はまったくわかりませんでした。

    2号窯と3号窯は、現状のまま保存されていますが、保護のため、このようになっていて、窯内部などの様子はまったくわかりませんでした。

  • 花立廃寺跡や花立古窯跡のそばにある「花立溜池」(眺めが良かったので撮っただけで、説明板などなかったので、後から知りました)。<br /><br />ここは、近世以降の溜め池と考えられてきましたが、12世紀にまで遡る、滝や築山をもった庭園で、花立廃寺と一体となった、浄土庭園だった・・・という説もあります。

    花立廃寺跡や花立古窯跡のそばにある「花立溜池」(眺めが良かったので撮っただけで、説明板などなかったので、後から知りました)。

    ここは、近世以降の溜め池と考えられてきましたが、12世紀にまで遡る、滝や築山をもった庭園で、花立廃寺と一体となった、浄土庭園だった・・・という説もあります。

  • 平泉文化遺産センター駐車場の下から、道路下を横断している花立隊道があるそうです。<br /><br />平安時代には関係ないですが、文久3年(1863)花道隊道が崩欠し、下流への用水不足が困窮する事態となりました。そこで柏原新十郎と千葉半右衛門の両氏が、私財を投じて、44間(約140m)の改修を行ったそうです。現在は、用水管が埋設された水路となっているそうです。<br /><br />ありがちですが、どこなのかいまいちよくわかりませんでした。

    平泉文化遺産センター駐車場の下から、道路下を横断している花立隊道があるそうです。

    平安時代には関係ないですが、文久3年(1863)花道隊道が崩欠し、下流への用水不足が困窮する事態となりました。そこで柏原新十郎と千葉半右衛門の両氏が、私財を投じて、44間(約140m)の改修を行ったそうです。現在は、用水管が埋設された水路となっているそうです。

    ありがちですが、どこなのかいまいちよくわかりませんでした。

  • 行きはゆるやかな上り坂・・・帰りは下り坂で楽。<br /><br />

    行きはゆるやかな上り坂・・・帰りは下り坂で楽。

  • 道路脇の用水路は、摩耗や浸食、冷害などで劣化しにくいように、コンクリート表面をウレタン樹脂で覆って、水路の寿命が伸びるように補修されています。

    道路脇の用水路は、摩耗や浸食、冷害などで劣化しにくいように、コンクリート表面をウレタン樹脂で覆って、水路の寿命が伸びるように補修されています。

  • 周りは、静かな住宅街と田んぼが広がり、のどかな感じです。

    周りは、静かな住宅街と田んぼが広がり、のどかな感じです。

  • 観自在王院跡の横を通って・・・駅まで続く県道へ出ました。観自在王院跡は、以前に見たので、この日は寄りません。<br />

    観自在王院跡の横を通って・・・駅まで続く県道へ出ました。観自在王院跡は、以前に見たので、この日は寄りません。

  • この通りをまっすぐ進めば、平泉駅です。さすがに世界遺産の街・・・道路や歩道はとてもキレイに整備されています。

    この通りをまっすぐ進めば、平泉駅です。さすがに世界遺産の街・・・道路や歩道はとてもキレイに整備されています。

  • 17時少し前・・・駅に着きました。

    17時少し前・・・駅に着きました。

  • 一ノ関までの東北本線は、1時間に1本なので・・・列車が入って来たのは17時半頃・・・もう暗くなってしまいました。

    一ノ関までの東北本線は、1時間に1本なので・・・列車が入って来たのは17時半頃・・・もう暗くなってしまいました。

  • 乗り継ぎ時間があるので、つい、連れ合いにと思って、お土産を買ってしまいました。

    乗り継ぎ時間があるので、つい、連れ合いにと思って、お土産を買ってしまいました。

  • 平泉関連遺構の中で、気になりつつも、奥州藤原氏遺構と方向が違うため、なかなか行く機会がなかった「達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂」。<br /><br />半年後の9月3日に訪れることができました。<br /><br />平泉駅から路線バスで15分くらい。厳美渓へ行く路線バスの途中駅となります。

    平泉関連遺構の中で、気になりつつも、奥州藤原氏遺構と方向が違うため、なかなか行く機会がなかった「達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂」。

    半年後の9月3日に訪れることができました。

    平泉駅から路線バスで15分くらい。厳美渓へ行く路線バスの途中駅となります。

  • 奥州藤原氏初代・清衡が、平泉に居を構える以前に、すでにいくつかの寺院が平泉とその周辺に建立されていました。その一つが西光寺(せいこうじ)です。<br /><br />平安時代初期、この地には、蝦夷の頭・悪路王(アテルイ)らが要塞を構えていましたが、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、これを征伐します。<br /><br />延暦20年(801)、戦勝は毘沙門天のご加護と感じた田村麻呂が、お礼として建立したのが毘沙門堂の始まりと伝えられます。その翌年には、別当寺の達谷西光寺が創建されました。<br /><br />鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、田谷窟という名の記載があり、1189年、源頼朝が、奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉へ帰還の折、ここに立ち寄り、その由来を尋ねたとされ、別当寺の達谷西光寺の寺領を安堵したことが記されているそうです。<br /><br />まず一之鳥居をくぐります。達谷村の3人の石工によって、達谷石を用いて江戸時代に建立されたものだそうです。

    奥州藤原氏初代・清衡が、平泉に居を構える以前に、すでにいくつかの寺院が平泉とその周辺に建立されていました。その一つが西光寺(せいこうじ)です。

    平安時代初期、この地には、蝦夷の頭・悪路王(アテルイ)らが要塞を構えていましたが、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、これを征伐します。

    延暦20年(801)、戦勝は毘沙門天のご加護と感じた田村麻呂が、お礼として建立したのが毘沙門堂の始まりと伝えられます。その翌年には、別当寺の達谷西光寺が創建されました。

    鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、田谷窟という名の記載があり、1189年、源頼朝が、奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉へ帰還の折、ここに立ち寄り、その由来を尋ねたとされ、別当寺の達谷西光寺の寺領を安堵したことが記されているそうです。

    まず一之鳥居をくぐります。達谷村の3人の石工によって、達谷石を用いて江戸時代に建立されたものだそうです。

  • 入口から3つの鳥居があります。<br /><br />一之鳥居をくぐると、どっしりと豪快な二之鳥居。面白い形の鳥居ですね~。<br /><br />

    入口から3つの鳥居があります。

    一之鳥居をくぐると、どっしりと豪快な二之鳥居。面白い形の鳥居ですね~。

  • 三之鳥居。3つの鳥居は古くから参道にありました。<br /><br />二之鳥居は昭和30年に・・・三之鳥居は明治初期に失われましたが、平成10年に再建されました。<br /><br />二之鳥居、三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えています。<br /><br />三之鳥居まで来ると、その向こうに、達谷窟(たっこくのいわや)が見えてきます。

    三之鳥居。3つの鳥居は古くから参道にありました。

    二之鳥居は昭和30年に・・・三之鳥居は明治初期に失われましたが、平成10年に再建されました。

    二之鳥居、三之鳥居ともに、他には見られない特殊な形式を今に伝えています。

    三之鳥居まで来ると、その向こうに、達谷窟(たっこくのいわや)が見えてきます。

  • 平泉中心部の南西約6km、太田川北岸にある東西長約150m、最大標高差約35mの断崖に掘られた洞窟が達谷窟(たっこくのいわや)です。<br /><br />窟の前面には、懸崖造りの毘沙門堂が・・・。<br />

    平泉中心部の南西約6km、太田川北岸にある東西長約150m、最大標高差約35mの断崖に掘られた洞窟が達谷窟(たっこくのいわや)です。

    窟の前面には、懸崖造りの毘沙門堂が・・・。

  • 毘沙門堂の正面には、中島のある池(蝦蟆(がま)ヶ池)があります。<br /><br />発掘調査の結果、平泉最盛期(12世紀)にはすでに、毘沙門堂の前面に池が存在していたことが確認されています。また、石組みの護岸が、現在より毘沙門堂に近い場所で見つかり、かつてはもっと広い池だったことがわかっています。

    毘沙門堂の正面には、中島のある池(蝦蟆(がま)ヶ池)があります。

    発掘調査の結果、平泉最盛期(12世紀)にはすでに、毘沙門堂の前面に池が存在していたことが確認されています。また、石組みの護岸が、現在より毘沙門堂に近い場所で見つかり、かつてはもっと広い池だったことがわかっています。

  • 801年、蝦夷を平定した坂上田村麻呂は、京の清水寺の舞台造りを模して、9間4面の精舎を建て、108体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として、窟毘沙門堂と名付けました。<br /><br />翌年に、別当寺として達谷西光寺を創建し、東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めました。

    801年、蝦夷を平定した坂上田村麻呂は、京の清水寺の舞台造りを模して、9間4面の精舎を建て、108体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として、窟毘沙門堂と名付けました。

    翌年に、別当寺として達谷西光寺を創建し、東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めました。

  • 懸造りの足元。<br /><br />毘沙門堂は、これまで何度も火災で焼失する憂き目に遭ってきて、現在のお堂は5代目で、1961年に再建されたもの。<br /><br />4代目のお堂は、伊達政宗が1615年に建て直して以来、300年以上守られていましたが、昭和21年(1946)に、隣家の火災が原因で焼け落ちてしまったそうです。<br /><br />お堂下のこの空間は、聖域なので入ってはいけないんだそう・・・。

    懸造りの足元。

    毘沙門堂は、これまで何度も火災で焼失する憂き目に遭ってきて、現在のお堂は5代目で、1961年に再建されたもの。

    4代目のお堂は、伊達政宗が1615年に建て直して以来、300年以上守られていましたが、昭和21年(1946)に、隣家の火災が原因で焼け落ちてしまったそうです。

    お堂下のこの空間は、聖域なので入ってはいけないんだそう・・・。

  • 外から見ると、毘沙門堂が、崖に食い込んでいるようにも見えますが、洞窟の前に、お堂が建てられている・・・といった感じです。<br /><br />内部は撮影禁止でしたが、内陣は完璧に洞窟内になっていて、ひんやりとしています。<br /><br />窟内である内陣には入ることはできませんが、仕切りの外と中では、全然温度が違うでしょう?と説明されましたが・・・鈍感なわが家ふたりには、よくわからなかったです(苦笑)。<br /><br />内陣の奥には、慈覚大師の作と伝わる本尊・吉祥天などが、伊達家寄進の厨子に納められています(秘仏)。<br /><br />秘仏の他に、20体余りの・・・バラバラなスタイルの毘沙門天像がずら~っと横に並んでいましたが・・・暗く遠目からなので、細かいところまでよく見えませんでした。

    外から見ると、毘沙門堂が、崖に食い込んでいるようにも見えますが、洞窟の前に、お堂が建てられている・・・といった感じです。

    内部は撮影禁止でしたが、内陣は完璧に洞窟内になっていて、ひんやりとしています。

    窟内である内陣には入ることはできませんが、仕切りの外と中では、全然温度が違うでしょう?と説明されましたが・・・鈍感なわが家ふたりには、よくわからなかったです(苦笑)。

    内陣の奥には、慈覚大師の作と伝わる本尊・吉祥天などが、伊達家寄進の厨子に納められています(秘仏)。

    秘仏の他に、20体余りの・・・バラバラなスタイルの毘沙門天像がずら~っと横に並んでいましたが・・・暗く遠目からなので、細かいところまでよく見えませんでした。

  • 上ったのとは反対側の口から出ます。<br /><br />初代の毘沙門堂は、現在の約1.3倍の大きさがあったと言われています。

    上ったのとは反対側の口から出ます。

    初代の毘沙門堂は、現在の約1.3倍の大きさがあったと言われています。

  • 遠目で眺めると、毘沙門堂が、崖の窪みに上手いことハマっているな~と思います。<br /><br />

    遠目で眺めると、毘沙門堂が、崖の窪みに上手いことハマっているな~と思います。

  • 毘沙門堂の、向かって左側・・・高さ33mの岩壁には、高さ16・5m、顔の長さ3・6m、肩幅9・9mの「岩面大仏」が刻まれています。<br /><br />平安後期、源義家が、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するため、馬上から弓で彫ったと伝えられ、北限の磨崖仏として知られています。<br /><br />明治29年、地震によって胸から下が崩落し、現在も摩滅が進んでいるそうです。

    毘沙門堂の、向かって左側・・・高さ33mの岩壁には、高さ16・5m、顔の長さ3・6m、肩幅9・9mの「岩面大仏」が刻まれています。

    平安後期、源義家が、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するため、馬上から弓で彫ったと伝えられ、北限の磨崖仏として知られています。

    明治29年、地震によって胸から下が崩落し、現在も摩滅が進んでいるそうです。

  • アップで・・・。

    アップで・・・。

  • お馬さん。

    お馬さん。

  • 蝦蟆ヶ池の中島にある弁天堂へ、石橋を渡ります。カップルで参拝しちゃいけないそうですよ~(嫉妬深い女神さまだから・・・だそう)。わが家はふたりで通っちゃいましたが、確か参拝はしなかったと思うので、なんとかOKかな~(笑)。<br /><br />このお堂も、昭和21年(1946)の火災で焼失した後、平成25年に再々建されたもの。<br /><br />蝦蟆ヶ池の旧護岸からは、平安末期のかわらけが大量に発掘されているそうです。

    蝦蟆ヶ池の中島にある弁天堂へ、石橋を渡ります。カップルで参拝しちゃいけないそうですよ~(嫉妬深い女神さまだから・・・だそう)。わが家はふたりで通っちゃいましたが、確か参拝はしなかったと思うので、なんとかOKかな~(笑)。

    このお堂も、昭和21年(1946)の火災で焼失した後、平成25年に再々建されたもの。

    蝦蟆ヶ池の旧護岸からは、平安末期のかわらけが大量に発掘されているそうです。

  • お堂の中の弁天さまと15童子。

    お堂の中の弁天さまと15童子。

  • 蝦蟆ヶ池は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から弁天さまの御使いであるとされています。

    蝦蟆ヶ池は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から弁天さまの御使いであるとされています。

  • 中島から橋を渡って対岸へ。

    中島から橋を渡って対岸へ。

  • 対岸からは、弁天堂と毘沙門堂とが見えます。

    対岸からは、弁天堂と毘沙門堂とが見えます。

  • 三之鳥居の脇にある大きな杉は、奉行坊杉と呼ばれています。<br /><br />達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を、別当奉行と言います。奉行の指図により、各坊の僧がこの杉のもとに参集したので、奉行坊杉と呼ばれています。<br /><br />昭和21年、隣家から出火し、西風にあおられた炎は、毘沙門堂と弁天堂に燃え移りましたが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂、鐘楼等の諸堂が類焼を免れたのは、古来、しばしば雷が落ち、神宿木である大杉に、火之神不動尊が降りたためであると言われました。

    三之鳥居の脇にある大きな杉は、奉行坊杉と呼ばれています。

    達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を、別当奉行と言います。奉行の指図により、各坊の僧がこの杉のもとに参集したので、奉行坊杉と呼ばれています。

    昭和21年、隣家から出火し、西風にあおられた炎は、毘沙門堂と弁天堂に燃え移りましたが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂、鐘楼等の諸堂が類焼を免れたのは、古来、しばしば雷が落ち、神宿木である大杉に、火之神不動尊が降りたためであると言われました。

  • 奉行坊杉のあたりから、境内奥へと続く道があります。道沿いに歩くと、「姫待(ひめまち)不動堂」があります。<br /><br />蝦夷らは、京からさらってきた姫を、窟の上流の「籠姫(かごひめ)」に閉じ込め、「桜野」でしばしば花見を楽しみました。逃げようとする姫を待ち伏せした瀧を、人々は「姫待瀧」と呼び、再び逃げ出さぬよう、姫の黒髪を見せしめに切り、その髪をかけた石を「かつら石」と呼びました。<br /><br />姫待不動尊は、智証大師が、達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、二代・藤原基衡が再建しました。しかし、年月を経て、堂宇の腐朽が著しいため、寛政元年(1789)、この地に移されました。<br /><br />姫待瀧やかつら石は、平泉駅から達谷窟に来る県道沿いにあります。

    奉行坊杉のあたりから、境内奥へと続く道があります。道沿いに歩くと、「姫待(ひめまち)不動堂」があります。

    蝦夷らは、京からさらってきた姫を、窟の上流の「籠姫(かごひめ)」に閉じ込め、「桜野」でしばしば花見を楽しみました。逃げようとする姫を待ち伏せした瀧を、人々は「姫待瀧」と呼び、再び逃げ出さぬよう、姫の黒髪を見せしめに切り、その髪をかけた石を「かつら石」と呼びました。

    姫待不動尊は、智証大師が、達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、二代・藤原基衡が再建しました。しかし、年月を経て、堂宇の腐朽が著しいため、寛政元年(1789)、この地に移されました。

    姫待瀧やかつら石は、平泉駅から達谷窟に来る県道沿いにあります。

  • 風情のある茅葺き屋根。

    風情のある茅葺き屋根。

  • 不動尊。桂の一木彫りで、平安後期の作だそうです。

    不動尊。桂の一木彫りで、平安後期の作だそうです。

  • 姫待不動堂の脇には、鐘楼があります。

    姫待不動堂の脇には、鐘楼があります。

  • 姫待不動堂の横を通ってさらに奥へ・・・。

    姫待不動堂の横を通ってさらに奥へ・・・。

  • 金堂が見えてきました。

    金堂が見えてきました。

  • 古くは講堂とも呼ばれ、延暦21年(802)に、達谷川対岸の谷地田に建てられましたが、延徳2年(1490)の大火で焼失しました。<br /><br />江戸時代には、現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていましたが、明治初年に廃仏毀釈で破棄されました。<br /><br />こちらの金堂は、昔ながらの工法で造られ、平成8年に完成したものです。

    古くは講堂とも呼ばれ、延暦21年(802)に、達谷川対岸の谷地田に建てられましたが、延徳2年(1490)の大火で焼失しました。

    江戸時代には、現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていましたが、明治初年に廃仏毀釈で破棄されました。

    こちらの金堂は、昔ながらの工法で造られ、平成8年に完成したものです。

  • ご本尊は薬師如来。新しく金ぴかだったので、おそらく平成8年、金堂とともに安置されたものだと思います。

    ご本尊は薬師如来。新しく金ぴかだったので、おそらく平成8年、金堂とともに安置されたものだと思います。

  • 門の向こうの茅葺き屋根の建物が、別当達谷西光寺本坊のようです。別当は、毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もないお寺です。

    門の向こうの茅葺き屋根の建物が、別当達谷西光寺本坊のようです。別当は、毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もないお寺です。

  • 金堂のそばには、白山池。

    金堂のそばには、白山池。

  • 明治維新で修験道が廃止される前には、多くの山伏がいたそうです。

    明治維新で修験道が廃止される前には、多くの山伏がいたそうです。

  • 3つの鳥居から出たあたりに、昔の農家のような「御供所」があります。

    3つの鳥居から出たあたりに、昔の農家のような「御供所」があります。

  • 上がることはできませんが、土間あたりから内部の見学をすることはできます。

    上がることはできませんが、土間あたりから内部の見学をすることはできます。

  • 毘沙門堂で販売している(売り切れの時もあり)牛玉宝印は最強のお札なんだそう。

    毘沙門堂で販売している(売り切れの時もあり)牛玉宝印は最強のお札なんだそう。

  • すごく煙くて、見学中に燻されてしまいそうでした。

    すごく煙くて、見学中に燻されてしまいそうでした。

  • 御供所の後方に薬医門があります。こちらからも、別当達谷西光寺本坊に入れるようですが、一般の人が通ることはできないようです。

    御供所の後方に薬医門があります。こちらからも、別当達谷西光寺本坊に入れるようですが、一般の人が通ることはできないようです。

  • 御供所は、道路より少し高い位置にあります。<br /><br />

    御供所は、道路より少し高い位置にあります。

  • 御供所のすぐ前がバス停。9月なら、確か1時間に1本くらい便がありました(冬季はほとんど無しみたいです)。

    御供所のすぐ前がバス停。9月なら、確か1時間に1本くらい便がありました(冬季はほとんど無しみたいです)。

  • バスがくるまで少し時間があるので・・・道路を渡ると・・・川と、のどかな田園風景。

    バスがくるまで少し時間があるので・・・道路を渡ると・・・川と、のどかな田園風景。

  • バスがやってきました~。まもなく正午。この日は、わが家にしては出足が早かったのです。<br /><br />このあと、中尊寺へ行きます。

    バスがやってきました~。まもなく正午。この日は、わが家にしては出足が早かったのです。

    このあと、中尊寺へ行きます。

  • 中尊寺・・・まず目指したのは、境内にあるかんざん亭。<br /><br />私は一人で来た時に食べたことがあるのですが、連れ合いと一緒に来た時には売り切れだった自然薯そば・・・今日こそ・・・と連れ合いが強く望んだので、やってきました。<br /><br />自然薯・・・箸でつかんでも、塊のまま・・・どっしりしていて形が変わりません。そばつゆに入れても、崩れません。

    中尊寺・・・まず目指したのは、境内にあるかんざん亭。

    私は一人で来た時に食べたことがあるのですが、連れ合いと一緒に来た時には売り切れだった自然薯そば・・・今日こそ・・・と連れ合いが強く望んだので、やってきました。

    自然薯・・・箸でつかんでも、塊のまま・・・どっしりしていて形が変わりません。そばつゆに入れても、崩れません。

  • この日の目的は・・・秘佛・一字金倫佛頂尊(2016年6月29日~11月6日御開帳)です。<br /><br />一字の真言「ボロン」で表される最勝・最尊の仏さまで、奥州藤原氏・三代秀衡(ひでひら)公の念持仏と伝えられます。<br /><br />ほんのり白みがかって見えるお姿は、とても上品な感じです。<br /><br />前から見るとわかりませんが、横からみると、後ろ半分がスッパリ切れたような形状になっています。<br /><br />この仏さまには、11月6日御開帳最終日に、たまたま紅葉を見に行き、再びお会いすることができました。

    この日の目的は・・・秘佛・一字金倫佛頂尊(2016年6月29日~11月6日御開帳)です。

    一字の真言「ボロン」で表される最勝・最尊の仏さまで、奥州藤原氏・三代秀衡(ひでひら)公の念持仏と伝えられます。

    ほんのり白みがかって見えるお姿は、とても上品な感じです。

    前から見るとわかりませんが、横からみると、後ろ半分がスッパリ切れたような形状になっています。

    この仏さまには、11月6日御開帳最終日に、たまたま紅葉を見に行き、再びお会いすることができました。

  • 讃衡蔵(宝物館)では、天台寺(岩手県二戸市)の「桂泉観音」(11世紀)の出開帳にも出会いました。<br /><br />中尊寺境内の写真も撮りましたが、中尊寺についての旅行記はすでに作ったことがあるので省きます。<br /><br />平泉に・・・争いのない平和な仏国土を造ろうとした奥州藤原氏・・・しかし、その願いも理想も・・・結局は争いによって、何と儚く消えてしまったのか・・・と胸が痛くなります。そして、それ以前にも、現れては消えて行った人々の営みや文化も・・・。人々の願いも想いもよそに・・・無情にも流れ去っていく時間だけが永遠のもの・・・。<br /><br />永遠なるものの・・・無常の中・・・それでも営みのなんらかの痕跡が残って、それを今のわたしたちが見たり感じたりすることができる不思議さ・・・。<br /><br />平泉・・・とても魅力的な・・・いにしえの古都・・・ぜひ、色々な痕跡を感じながら、ゆっくり歩いてみてくださいね。

    讃衡蔵(宝物館)では、天台寺(岩手県二戸市)の「桂泉観音」(11世紀)の出開帳にも出会いました。

    中尊寺境内の写真も撮りましたが、中尊寺についての旅行記はすでに作ったことがあるので省きます。

    平泉に・・・争いのない平和な仏国土を造ろうとした奥州藤原氏・・・しかし、その願いも理想も・・・結局は争いによって、何と儚く消えてしまったのか・・・と胸が痛くなります。そして、それ以前にも、現れては消えて行った人々の営みや文化も・・・。人々の願いも想いもよそに・・・無情にも流れ去っていく時間だけが永遠のもの・・・。

    永遠なるものの・・・無常の中・・・それでも営みのなんらかの痕跡が残って、それを今のわたしたちが見たり感じたりすることができる不思議さ・・・。

    平泉・・・とても魅力的な・・・いにしえの古都・・・ぜひ、色々な痕跡を感じながら、ゆっくり歩いてみてくださいね。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • ElliEさん 2018/01/17 16:42:23
    達谷窟
    こあひるさん、お久しぶりです。

    達谷窟は以前から気になってたんですが、バスでいけるんですね。
    厳美渓の途中だそうですが、両方合わせて一日でいけるかなぁ??
    できれば行ってみたい。

    でも、その周辺にも色々と見どころがあるんですね。
    粗削りな感じの仁王像もいいですね。ほんとヘタウマ。って感じで味がある。
    弁天堂の童子は、こけしみたいな愛らしさ。
    大きくて有名なお寺ばかり行かず、こういう素朴なお寺さんもおもしろいなあって思いました。

    ElliE

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2018/01/19 13:11:30
    RE: 達谷窟
    ElliEさん、こんにちは!

    達谷窟は、厳美渓方面行きの路線バスで行けますよ〜。でも冬は、バス便がほぼないので気をつけてくださいね!

    達谷窟は、境内がさほど広くないので、すぐに見終わっちゃいますから、さらに厳美渓まで足を延ばすことは充分可能だと思いますよ〜。

    平泉・・・徒歩で周れる範囲内だけでも、色々見どころスポットがあって、奥が深いです。奥州藤原氏に興味があれば、柳之御所跡とその資料館がお薦めです。

    こあひる
  • aoitomoさん 2018/01/08 12:32:52
    明けましておめでとうございます。
    こあひるさん こんにちは~

    明けましておめでとうございます。

    「無量光院跡」
    想像図もあると取っ付きやすいです。
    極楽浄土をイメージした浄土庭園作りと建築物の配置。
    浄土庭園再現が待ち遠しいですね。
    出来上がったら一大観光地となりそうです。

    『浄土庭園再現に意気込む』
    やりたくなるでしょう。
    西方浄土の夕焼けのイメージさすがです。
    さらに本堂など建築物も入れて再現したくなります。(笑)
    というか、こんなイメージ図をホームページなどで見れるようにしてほしいですね。

    『芭蕉句碑』
    この地で何が起きたのか、そんなことも理解していないと、こんな区は詠めないですね。
    芭蕉の賢さをつくづく感じてしまいます。

    『達谷窟』
    ルックスだけでも訪れたくなります。
    フォトジェニックです。
    ここも、手前の池なども含めて極楽浄土をイメージしたのかもしれませんね。

    『岩面大仏』
    弓でここまで彫れるのかと、気にはなるものの北限の磨崖仏として貴重なんでしょうね。
    ここも胸から下を再現してほしいものです。
    顔も滑り落ちそうで心配です。

    『牛玉宝印』
    毘沙門堂で販売している牛玉宝印。
    和歌山の熊野三山でもそれぞれの牛玉宝印が販売されています。
    こちらはゲットしました。
    信仰心は希薄なもののこんなのは手に入れたくなります。

    牛玉宝印に誓いを書きます。
    熊野三山ではその誓いを破ると大変なことが起こるということで最強のお札になってます。

    知る人が少ない歴史も、ひとつずつが地図を埋めるように組み合わさると、面白くなってきますね。
    そんなことを感じました。

    本年もよろしくお願いします。

    aoitomo

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2018/01/10 09:26:55
    RE: 明けましておめでとうございます。
    aoitomoさん、こんちは!

    本年もどうぞお付き合いくださいね〜〜!よろしくお願い致します!

    浄土庭園復元は、毛越寺や観自在王院跡でもすでになされていますが、陸地と中島をつなぐ橋の復元はないので、無量光院跡の整備が終わったら、またひとつ見どころが増えるので、楽しみです。

    どの庭園にでもいいので、かつてあった本堂が復元されたら・・・豪華だろうな〜なんて思いますが・・・。でも新しく建てても、空しい箱物に過ぎず・・・多額のお金をかけての価値があるのか微妙ですかね〜。日本の多くのお城は復元したものですが、それなりの観光地にはなっていますけれど・・・。やっぱり、復元CGなんかあたりが適当なのかな〜。

    芭蕉の句は、奥州藤原氏と源氏との関係を知ると、しみじみ胸を打ちますねぇ・・・。鎌倉時代に隆盛した源氏ですが、奥州藤原氏側から見ると、ちょっと卑怯よねぇ・・・といった気持ちになります。まぁ、そういう時代だから仕方なかったのでしょうが・・・。無常という観念は、自分にとっても、足元が浮いたような怖ろしい虚しい気持ちになります。

    達谷窟・・・キレイに塗りなおした朱色のせいか、もうちょっと神秘的なイメージを持っていたのですが、意外に明るい雰囲気だな〜って思いました(←霊感とかないので)。

    こちらは、坂上田村麻呂や蝦夷がらみなのですが、奥州藤原氏や伊達氏も保護して守ってきた強力パワースポットらしいです。

    岩面大仏は、勇ましい伝説とともに、これ以上風化しないでほしいですよね〜。風雨や雪にさらされ続けているものを保護していくのは難しいとは思いますが・・・。

    牛玉宝印・・・熊野のは有名ですよね〜。わが家が達谷窟を訪れた時には、牛玉宝印は売り切れていました。強力な神さまパワーは、強力なだけに、おざなりにすると逆に怖ろしいたたり(といっていいのでしょうか・・・?)が起こるので、無信心で失礼極まりないわが家は、お札なんかを安易にゲットするのも考え物です・・・(苦笑)。

    仙台に来てから、色々旅するたびに、東北の歴史に否が応でも触れざるをえないですが、戦国時代よりも、平安時代前後あたりの歴史が、わたしにとっては面白いです〜。

    こあひる

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