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古都・平泉は、奥州藤原氏が浄土思想に基づき、ほぼ100年にわたって築いた仏国土。<br /><br />そして平泉といったら・・・中尊寺(金色堂)や毛越寺が有名。<br /><br />2011年、平泉は世界文化遺産に登録されたが、資産名称は「平泉~仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群~」であり、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5資産で構成される。<br /><br />しかしながら・・・5資産はあくまでも、世界遺産登録のために絞ったもので、仏国土としての資産は、他にいくつもある。<br /><br />出足が遅く、ひとところに長居してしまうため・・・中尊寺、毛越寺以外のスポットには、なかなか行くことができなかった。<br /><br />今回は何度目かの平泉・・・有名メインどころには行かず、世界文化遺産に追加登録されていない・・・仏国土の構成資産をいくつか訪れてみた。

中尊寺と毛越寺だけじゃないよ~!つわものどもが夢の跡・・・平泉の魅力① ★奥州藤原氏の生活の場・伽羅御所(きゃらのごしょ)跡と、政治の場・柳之御所(やなぎのごしょ)跡★

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2016/03/09 - 2016/03/09

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8

127

こあひる

こあひるさん

古都・平泉は、奥州藤原氏が浄土思想に基づき、ほぼ100年にわたって築いた仏国土。

そして平泉といったら・・・中尊寺(金色堂)や毛越寺が有名。

2011年、平泉は世界文化遺産に登録されたが、資産名称は「平泉~仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群~」であり、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5資産で構成される。

しかしながら・・・5資産はあくまでも、世界遺産登録のために絞ったもので、仏国土としての資産は、他にいくつもある。

出足が遅く、ひとところに長居してしまうため・・・中尊寺、毛越寺以外のスポットには、なかなか行くことができなかった。

今回は何度目かの平泉・・・有名メインどころには行かず、世界文化遺産に追加登録されていない・・・仏国土の構成資産をいくつか訪れてみた。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
新幹線
旅行の手配内容
個別手配
  • 仙台から平泉に・・・ひとりでやってきました。<br /><br />これまで季節を変えて何度か、中尊寺と毛越寺・・・そして毛越寺のお隣にある観自在王院跡を訪れたことはあります。<br /><br />他にも、奥州藤原氏に関わる遺跡がいくつもあるのは知っていましたが、ある程度点在しているので、なかなかそちらまで足を延ばす余裕はありませんでした。<br /><br />平日の今日、やっと・・・他の遺跡を見よう!とひとりでやってきました。<br /><br />とはいえ・・・相変わらず出足が遅く・・・平泉に着いた時には、まもなく正午になるところ。いつもだと、駅前から巡回バスるんるんで、毛越寺や中尊寺へ直行してしまいますが、今日は徒歩です(ちなみに中尊寺までは1・5kmほどです)。<br /><br />駅から歩き始めた矢先・・・今川焼が目についた・・・ひとつ買って、かじりながら先に進みます。

    仙台から平泉に・・・ひとりでやってきました。

    これまで季節を変えて何度か、中尊寺と毛越寺・・・そして毛越寺のお隣にある観自在王院跡を訪れたことはあります。

    他にも、奥州藤原氏に関わる遺跡がいくつもあるのは知っていましたが、ある程度点在しているので、なかなかそちらまで足を延ばす余裕はありませんでした。

    平日の今日、やっと・・・他の遺跡を見よう!とひとりでやってきました。

    とはいえ・・・相変わらず出足が遅く・・・平泉に着いた時には、まもなく正午になるところ。いつもだと、駅前から巡回バスるんるんで、毛越寺や中尊寺へ直行してしまいますが、今日は徒歩です(ちなみに中尊寺までは1・5kmほどです)。

    駅から歩き始めた矢先・・・今川焼が目についた・・・ひとつ買って、かじりながら先に進みます。

  • 中尊寺まで続く道は・・・かつてはお店が軒を並べていたんだろうな~ぁ・・・と思わせる・・・ちょっと寂れ感のある、地方でよく見かける街並み。<br /><br />

    中尊寺まで続く道は・・・かつてはお店が軒を並べていたんだろうな~ぁ・・・と思わせる・・・ちょっと寂れ感のある、地方でよく見かける街並み。

  • ところで・・・仏国土・平泉を築いた奥州藤原氏についてちょっと・・・。<br /><br />平安時代の後半、前九年合戦・後三年合戦と、度重なる争乱が、東北地方で起こりました。<br /><br />その混乱を生き抜き、地獄を見た奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよひら)は、戦乱のない世を築こうと決意、仏教に帰依しました。<br /><br />そして、11世紀末から12世紀初め、仏国土を造るべく平泉に拠点を築きました。<br /><br />初代・清衡が中尊寺、二代・基衡(もとひら)が毛越寺、基衡の妻が観自在王院、三代・秀衡(ひでひら)が無量光院を造営しました。<br /><br />こうして四代・泰衡(やすひら)まで100年間にわたり、平泉に栄華をもたらしました。<br />(写真は柳之御所資料館にて)

    ところで・・・仏国土・平泉を築いた奥州藤原氏についてちょっと・・・。

    平安時代の後半、前九年合戦・後三年合戦と、度重なる争乱が、東北地方で起こりました。

    その混乱を生き抜き、地獄を見た奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよひら)は、戦乱のない世を築こうと決意、仏教に帰依しました。

    そして、11世紀末から12世紀初め、仏国土を造るべく平泉に拠点を築きました。

    初代・清衡が中尊寺、二代・基衡(もとひら)が毛越寺、基衡の妻が観自在王院、三代・秀衡(ひでひら)が無量光院を造営しました。

    こうして四代・泰衡(やすひら)まで100年間にわたり、平泉に栄華をもたらしました。
    (写真は柳之御所資料館にて)

  • 最盛期の平泉には、毛越寺から東西に延びる大路を中心に、縦横に通りがありました。<br /><br />発掘調査によって、池を持つ邸宅や、高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が建ち並ぶ通りもあったことがわかっています。<br /><br />人々が行き交い、様々な物資が運び込まれる様子は、まさに北の都と呼ぶにふさわしい風情だったことでしょう。<br />(写真は柳之御所跡で撮ったものなので、現在地=柳之御所跡です)

    最盛期の平泉には、毛越寺から東西に延びる大路を中心に、縦横に通りがありました。

    発掘調査によって、池を持つ邸宅や、高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が建ち並ぶ通りもあったことがわかっています。

    人々が行き交い、様々な物資が運び込まれる様子は、まさに北の都と呼ぶにふさわしい風情だったことでしょう。
    (写真は柳之御所跡で撮ったものなので、現在地=柳之御所跡です)

  • 通りを300mほど進んだころ・・・横道に「伽羅御所(きゃらのごしょ)跡入口」という案内表示があるので、指し示す方向へ・・・。<br />

    通りを300mほど進んだころ・・・横道に「伽羅御所(きゃらのごしょ)跡入口」という案内表示があるので、指し示す方向へ・・・。

  • 横道に入り、進んで行っても、伽羅御所跡がどこなのか・・・よくわかりません。<br />

    横道に入り、進んで行っても、伽羅御所跡がどこなのか・・・よくわかりません。

  • 住宅街の垣根に掲げられた説明板によると・・・<br /><br />この付近は「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)にみえる「伽羅御所」跡です。<br /><br />無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号していました。藤原秀衡(ひでひら、奥州藤原氏の三代目)の住居で、その後、泰衡(やすひら、四代目)が跡を継ぎ、居所としました。<br /><br />藤原秀衡は、北方の王者と言われ、兄・頼朝に追われた源義経を温かく迎え入れます。しかし、秀衡の亡き後、鎌倉の圧力に耐えかねた四代・泰衡は、父の遺命に背いて義経を討ってしまいます。しかし、鎌倉の本心は、義経追討を口実にして、平泉の存在そのものだったのです。<br /><br />文治5年8月(1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍で、平泉を攻めました。<br /><br />住む人もいなくなった平泉・・・その後、野火などによって、栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せてしまいました。その後、800年の歳月を経て、今はわずかに、内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみとなってしまいました。<br /><br />元禄2年(1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)、奥の細道を旅した松尾芭蕉は、「秀衡が跡は田野になりて」と嘆き、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句を詠みました。

    住宅街の垣根に掲げられた説明板によると・・・

    この付近は「吾妻鏡」(鎌倉時代の歴史書)にみえる「伽羅御所」跡です。

    無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号していました。藤原秀衡(ひでひら、奥州藤原氏の三代目)の住居で、その後、泰衡(やすひら、四代目)が跡を継ぎ、居所としました。

    藤原秀衡は、北方の王者と言われ、兄・頼朝に追われた源義経を温かく迎え入れます。しかし、秀衡の亡き後、鎌倉の圧力に耐えかねた四代・泰衡は、父の遺命に背いて義経を討ってしまいます。しかし、鎌倉の本心は、義経追討を口実にして、平泉の存在そのものだったのです。

    文治5年8月(1189年)、頼朝は28万4千騎という大軍で、平泉を攻めました。

    住む人もいなくなった平泉・・・その後、野火などによって、栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せてしまいました。その後、800年の歳月を経て、今はわずかに、内濠の跡や、土塁の一角をとどめるのみとなってしまいました。

    元禄2年(1689年、平泉の滅亡から500年にあたる)、奥の細道を旅した松尾芭蕉は、「秀衡が跡は田野になりて」と嘆き、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句を詠みました。

  • このあたり一帯が伽羅御所の跡なんでしょうか・・・今では、田畑や住宅が建ち並び、ここがそうだとはっきりと特定する表示はないので、よくわかりませんでした。

    このあたり一帯が伽羅御所の跡なんでしょうか・・・今では、田畑や住宅が建ち並び、ここがそうだとはっきりと特定する表示はないので、よくわかりませんでした。

  • まぁ、平安時代の遺構が何か残っているわけではないようなので・・・このあたりに住居があったんだな・・・ということで・・・。

    まぁ、平安時代の遺構が何か残っているわけではないようなので・・・このあたりに住居があったんだな・・・ということで・・・。

  • もとの道路へ戻りま~す。

    もとの道路へ戻りま~す。

  • 道路に戻って100mほど進むと、横道に「柳之御所(やなぎのごしょ)跡入口」という表示があります。<br /><br />柳之御所遺跡は、北上川のほとりの台地に造られた、平安時代末(12世紀)の居館跡です。柳之御所という名前は、後世になって使われた名称で、現在の遺跡名は、地名(字柳御所)からきています。<br /><br />1988年から始まった発掘調査によって、堀跡に囲まれた区域から、園池跡やたくさんの掘立柱建物跡が見つかったほか、儀式の際に使われた土器(かわらけ)や国産陶器、中国の陶磁器など、奥州藤原氏の権力を示す遺物が数多く出土しました。<br /><br />それにより、鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」の中で、奥州藤原氏が政治を行った場所「平泉館(ひらいずみのたち)」だと考えられています。<br /><br />こうした遺跡の重要性から史跡に指定され、保護が図られています。

    道路に戻って100mほど進むと、横道に「柳之御所(やなぎのごしょ)跡入口」という表示があります。

    柳之御所遺跡は、北上川のほとりの台地に造られた、平安時代末(12世紀)の居館跡です。柳之御所という名前は、後世になって使われた名称で、現在の遺跡名は、地名(字柳御所)からきています。

    1988年から始まった発掘調査によって、堀跡に囲まれた区域から、園池跡やたくさんの掘立柱建物跡が見つかったほか、儀式の際に使われた土器(かわらけ)や国産陶器、中国の陶磁器など、奥州藤原氏の権力を示す遺物が数多く出土しました。

    それにより、鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」の中で、奥州藤原氏が政治を行った場所「平泉館(ひらいずみのたち)」だと考えられています。

    こうした遺跡の重要性から史跡に指定され、保護が図られています。

  • 奥州藤原氏が築いた仏都・・・。その中で、ここは古来から、藤原清衡と基衡の居館跡と伝えられてきた場所なんだそうです。<br /><br />当初、遺跡の一部には、北上川の堤防と平泉バイパスの建設が予定されていましたが、発掘調査の結果、平成5年(1993)、建設省(現・国土交通省)は、そのルートを変更し、遺跡が保存されることが決定しました。平成9年には、国の史跡に指定されています。<br /><br />写真は、平泉復元絵図(柳之御所資料館にて)。

    奥州藤原氏が築いた仏都・・・。その中で、ここは古来から、藤原清衡と基衡の居館跡と伝えられてきた場所なんだそうです。

    当初、遺跡の一部には、北上川の堤防と平泉バイパスの建設が予定されていましたが、発掘調査の結果、平成5年(1993)、建設省(現・国土交通省)は、そのルートを変更し、遺跡が保存されることが決定しました。平成9年には、国の史跡に指定されています。

    写真は、平泉復元絵図(柳之御所資料館にて)。

  • 横道に逸れてから・・・さらに200mほど歩かなければなりません。<br /><br />その途中には、(たぶん江戸時代くらいの)石碑や墓碑がいくつかありました。平安時代には関係ないと思います・・・。

    横道に逸れてから・・・さらに200mほど歩かなければなりません。

    その途中には、(たぶん江戸時代くらいの)石碑や墓碑がいくつかありました。平安時代には関係ないと思います・・・。

  • 現在、柳之御所跡は史跡公園として整備されています。入園無料です。<br /><br />柳乃御所とは、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書「吾妻鏡」に記載される「平泉館(ひらいずみのたち)」と比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられています。<br /><br />ほぼ中央に位置する堀を境にして、外側の堀外部地区と、堀に囲まれた内側の堀内部地区に分けられています。南西側の堀外の低地は、猫間が淵と呼ばれています。<br />現在、堀内部地区を中心に発掘調査や整備事業が進められています。<br /><br />継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されています。<br /><br />わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す、保存状態の良好な遺跡として、平泉文化遺産の中でも、特に重要なものです。

    現在、柳之御所跡は史跡公園として整備されています。入園無料です。

    柳乃御所とは、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書「吾妻鏡」に記載される「平泉館(ひらいずみのたち)」と比定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられています。

    ほぼ中央に位置する堀を境にして、外側の堀外部地区と、堀に囲まれた内側の堀内部地区に分けられています。南西側の堀外の低地は、猫間が淵と呼ばれています。
    現在、堀内部地区を中心に発掘調査や整備事業が進められています。

    継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されています。

    わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す、保存状態の良好な遺跡として、平泉文化遺産の中でも、特に重要なものです。

    柳之御所遺跡 名所・史跡

  • 兵(つわもの)どもが 夢のあと・・・このような遺跡を見るなら、快晴よりも、どんより空が似合うと思って(雨が降ってきては困りますが)、今日、平泉にきました。<br /><br />園内に整備された道は、実際に遺跡の道路があったところを復元した道と、見学者が園内を歩くためだけに造られた道とがあります。

    兵(つわもの)どもが 夢のあと・・・このような遺跡を見るなら、快晴よりも、どんより空が似合うと思って(雨が降ってきては困りますが)、今日、平泉にきました。

    園内に整備された道は、実際に遺跡の道路があったところを復元した道と、見学者が園内を歩くためだけに造られた道とがあります。

  • 遺跡まわりの土塁は、道路や車が見えるのを遮るとともに、遺跡保護のために整備されたものらしいです。往時、堀はありましたが、土塁はなかったようです。

    遺跡まわりの土塁は、道路や車が見えるのを遮るとともに、遺跡保護のために整備されたものらしいです。往時、堀はありましたが、土塁はなかったようです。

  • 入口から歩いてくると・・・まずは付属建物の跡があります。<br /><br />発掘によって明らかになった柱の位置と太さを示し、建物内部と外側の広がりを区別して表しています。<br /><br />実際に出土した柱材の多くが栗材だったため、柱は栗材を用いて表示されています。<br /><br />付属建物は、中心建物に比べると柱の太さや間隔が小さいことから、小規模な建物だったことがわかります。<br /><br />園内の復元や整備は、主要な建物が池を中心に配置された、藤原秀衡(三代目)の時期・・・1160年ころを想定しています。

    入口から歩いてくると・・・まずは付属建物の跡があります。

    発掘によって明らかになった柱の位置と太さを示し、建物内部と外側の広がりを区別して表しています。

    実際に出土した柱材の多くが栗材だったため、柱は栗材を用いて表示されています。

    付属建物は、中心建物に比べると柱の太さや間隔が小さいことから、小規模な建物だったことがわかります。

    園内の復元や整備は、主要な建物が池を中心に配置された、藤原秀衡(三代目)の時期・・・1160年ころを想定しています。

  • 遺跡の中の建物跡などに、それぞれ、図や写真入りの説明板が設置されているので、理解しやすいです。<br /><br />堀内部地区の全体図と、今いる付属建物のある位置です。

    遺跡の中の建物跡などに、それぞれ、図や写真入りの説明板が設置されているので、理解しやすいです。

    堀内部地区の全体図と、今いる付属建物のある位置です。

  • 付属建物は、中心建物を補助する役割を持つと考えられる建物です。<br /><br />儀式の際に、食事の準備をする厨や、同行した家来たちが詰めていた建物などにあたると想定されています。

    付属建物は、中心建物を補助する役割を持つと考えられる建物です。

    儀式の際に、食事の準備をする厨や、同行した家来たちが詰めていた建物などにあたると想定されています。

  • 厩(うまや)。まだ整備途中のようです(2016年3月現在)。<br /><br />中心建物に付属する建物のひとつ。柱を地面に直接建てる掘立柱建物ですが、中心建物に比べて、柱の並び方に統一性がなく、また建物の構造からも、馬を繋げておく厩と考えられています。

    厩(うまや)。まだ整備途中のようです(2016年3月現在)。

    中心建物に付属する建物のひとつ。柱を地面に直接建てる掘立柱建物ですが、中心建物に比べて、柱の並び方に統一性がなく、また建物の構造からも、馬を繋げておく厩と考えられています。

  • こんな感じだろう・・・という画です。

    こんな感じだろう・・・という画です。

  • このように、今はだだっ広い敷地ですが、かつては、建物や塀などが立ち並んでいたのでしょうね。

    このように、今はだだっ広い敷地ですが、かつては、建物や塀などが立ち並んでいたのでしょうね。

  • 廊下状の建物。<br /><br />一間幅の間隔をもった列が続くことから、建物どうしをつなぐ廊下に似た建物があったと考えられています。廊下によってつながれていた寝殿造り風の建物があったのかもしれません。<br /><br />この建物や、後に出てくる倉庫風の建物および大型の建物は、復元対象時期の中心建物と異なる時期に造られたと考えられるため、表現方法を変えて、白っぽい石で囲って表しています。

    廊下状の建物。

    一間幅の間隔をもった列が続くことから、建物どうしをつなぐ廊下に似た建物があったと考えられています。廊下によってつながれていた寝殿造り風の建物があったのかもしれません。

    この建物や、後に出てくる倉庫風の建物および大型の建物は、復元対象時期の中心建物と異なる時期に造られたと考えられるため、表現方法を変えて、白っぽい石で囲って表しています。

  • 廊下状の建物があった位置と、このような建物だっただろう・・・という画。

    廊下状の建物があった位置と、このような建物だっただろう・・・という画。

  • 園池。<br /><br />金鶏(きんけい)山を向こうに、中心建物や庭に面した池が見つかりました。南北に長く、比較的浅いものでした。<br /><br />園内の植栽については、発掘調査の際、当時の土に含まれる花粉の調査も行われました。その結果と、現在の平泉周辺の植生環境から、当時の環境・植生景観を検討し、植栽する樹木を決定しました。

    園池。

    金鶏(きんけい)山を向こうに、中心建物や庭に面した池が見つかりました。南北に長く、比較的浅いものでした。

    園内の植栽については、発掘調査の際、当時の土に含まれる花粉の調査も行われました。その結果と、現在の平泉周辺の植生環境から、当時の環境・植生景観を検討し、植栽する樹木を決定しました。

  • 池は、少なくともふたつの時期に分けられます。<br /><br />1期の池には、金鶏山の方向に向かって、池を渡る橋がかかっていたことがわかっています。2期の池の下にあるため、部分的に遺構を確認しただけで、全体の姿はよくわかっていません。<br /><br />古い池の上に造られた2期の池は、中島をもつ池に造り変えられました。2期の池には、観賞用の石が置かれ、前面に玉石が敷かれていたと想定されています。

    池は、少なくともふたつの時期に分けられます。

    1期の池には、金鶏山の方向に向かって、池を渡る橋がかかっていたことがわかっています。2期の池の下にあるため、部分的に遺構を確認しただけで、全体の姿はよくわかっていません。

    古い池の上に造られた2期の池は、中島をもつ池に造り変えられました。2期の池には、観賞用の石が置かれ、前面に玉石が敷かれていたと想定されています。

  • 1期と2期の池の移り変わりです。<br /><br />池の導水路は見つかっておらず、湧き水や雨水などを利用したと考えられています。<br />

    1期と2期の池の移り変わりです。

    池の導水路は見つかっておらず、湧き水や雨水などを利用したと考えられています。

  • 復元した2期の池は、発掘された池に盛土をして保護したうえで、発掘成果をもとに、忠実に再現したものです。<br /><br />鑑賞用の石(景石)については、忠実に再現することができないことから、あえて表現しないことになりました。

    復元した2期の池は、発掘された池に盛土をして保護したうえで、発掘成果をもとに、忠実に再現したものです。

    鑑賞用の石(景石)については、忠実に再現することができないことから、あえて表現しないことになりました。

  • 中心建物。<br /><br />遺跡内のこの周辺には、大型の建物が集中しています。これらの建物は規模が大きいことや、池や広場に面していることから、平泉館の中心的な施設と考えられます。<br /><br />東と西にきれいに並んでいます。

    中心建物。

    遺跡内のこの周辺には、大型の建物が集中しています。これらの建物は規模が大きいことや、池や広場に面していることから、平泉館の中心的な施設と考えられます。

    東と西にきれいに並んでいます。

  • カメラでは1枚に収めきれないですが、東と西の2つの中心建物と、建物に面した西庭や池や広場との位置関係です。<br /><br />中心建物と塀を隔てて、点々で表されているのは、いくつかの付属建物です。<br />(写真は資料館にて)

    カメラでは1枚に収めきれないですが、東と西の2つの中心建物と、建物に面した西庭や池や広場との位置関係です。

    中心建物と塀を隔てて、点々で表されているのは、いくつかの付属建物です。
    (写真は資料館にて)

  • 中心建物まわりを、立体的に描いたCG図。こちらの池は、1期の池になっていますね。<br />(写真は資料館にて)

    中心建物まわりを、立体的に描いたCG図。こちらの池は、1期の池になっていますね。
    (写真は資料館にて)

  • 広場から見た中心建物。<br /><br />建物の周囲には、警備の武士たちや伴の者たちが控えていました。広場は、屋外での儀式や馬見せなどの場所として、広く使われていたと考えられています。<br />(写真と文は資料館にて)

    広場から見た中心建物。

    建物の周囲には、警備の武士たちや伴の者たちが控えていました。広場は、屋外での儀式や馬見せなどの場所として、広く使われていたと考えられています。
    (写真と文は資料館にて)

  • 西の建物の復元イメージです。<br /><br />こちらの建物は、東西約11m、南北約14mの大きさで、広い庇をもち、特に格式の高い建物と推定されます。<br /><br />西側に庭があり、南側には池が臨めます。

    西の建物の復元イメージです。

    こちらの建物は、東西約11m、南北約14mの大きさで、広い庇をもち、特に格式の高い建物と推定されます。

    西側に庭があり、南側には池が臨めます。

  • 西の建物の外観。<br /><br />最も格が高く、身分の高い人々をもてなすために造られた建物。池や庭を眺めるために、建具は蔀度(しとみど)が使われ、縁には高欄をめぐらす、貴族風の優雅な建物であったと考えられています。<br />(写真と文は資料館にて)

    西の建物の外観。

    最も格が高く、身分の高い人々をもてなすために造られた建物。池や庭を眺めるために、建具は蔀度(しとみど)が使われ、縁には高欄をめぐらす、貴族風の優雅な建物であったと考えられています。
    (写真と文は資料館にて)

  • 西の建物の内部空間。<br /><br />床を一段高くした母屋の四周に庇を巡らす構成でした。母屋は、客人を迎えるための空間で、内部に壁はなく、間仕切りには、御簾や屏風などが使われたと考えられます。<br />(写真と文は資料館にて)

    西の建物の内部空間。

    床を一段高くした母屋の四周に庇を巡らす構成でした。母屋は、客人を迎えるための空間で、内部に壁はなく、間仕切りには、御簾や屏風などが使われたと考えられます。
    (写真と文は資料館にて)

  • 西庭。<br /><br />庭は、儀式の場所として使われていました。奥州の名馬や特産品などが披露されることもあったでしょう。主な品々は、砂金、アザラシの皮、鷲の羽、絹などの反物でした。<br />(写真と文は資料館にて)

    西庭。

    庭は、儀式の場所として使われていました。奥州の名馬や特産品などが披露されることもあったでしょう。主な品々は、砂金、アザラシの皮、鷲の羽、絹などの反物でした。
    (写真と文は資料館にて)

  • 東の建物の復元イメージです。<br /><br />こちらの建物は、南北の長さが25mもある長大な建物跡です。<br /><br />この2棟の建物と池、広場などを含めた一帯が、儀式に使用された空間と考えられています。

    東の建物の復元イメージです。

    こちらの建物は、南北の長さが25mもある長大な建物跡です。

    この2棟の建物と池、広場などを含めた一帯が、儀式に使用された空間と考えられています。

  • 東の建物の外観。<br /><br />大勢の家来たちとの対面を行うために使われた建物です。西の建物とは異なり、土壁仕上げに、扉は板戸が使われるなど、武家風な重厚なつくりであったと考えられます。<br />(写真と文は資料館にて)

    東の建物の外観。

    大勢の家来たちとの対面を行うために使われた建物です。西の建物とは異なり、土壁仕上げに、扉は板戸が使われるなど、武家風な重厚なつくりであったと考えられます。
    (写真と文は資料館にて)

  • 東の建物の内部空間。<br /><br />幅11m、長さ25mの細長い空間には、中央に、藤原氏の党首が座り、奥州各地から集まった家来たちとの対面の儀式などが行われたと推定されます。<br />(写真と文は資料館にて)

    東の建物の内部空間。

    幅11m、長さ25mの細長い空間には、中央に、藤原氏の党首が座り、奥州各地から集まった家来たちとの対面の儀式などが行われたと推定されます。
    (写真と文は資料館にて)

  • 中心建物の北西側に、塀を隔てて、いくつかの付属建物跡があります。白っぽい線は、塀があったところを表していると思います。

    中心建物の北西側に、塀を隔てて、いくつかの付属建物跡があります。白っぽい線は、塀があったところを表していると思います。

  • 平成21年(2009)までに、64基の井戸跡が見つかっています。方形と円形の2種類に分かれます。中には、深さが5mを超えるものもありました。<br /><br />復元されているこの井戸は、方形であるため、井戸枠があるものとして復元されています。井戸の地上部分は残っていなかったことから、絵画資料を参考に復元されました。

    平成21年(2009)までに、64基の井戸跡が見つかっています。方形と円形の2種類に分かれます。中には、深さが5mを超えるものもありました。

    復元されているこの井戸は、方形であるため、井戸枠があるものとして復元されています。井戸の地上部分は残っていなかったことから、絵画資料を参考に復元されました。

  • 方形の井戸は井戸枠をもち、円形の井戸の内部は素掘りであったと考えられています。

    方形の井戸は井戸枠をもち、円形の井戸の内部は素掘りであったと考えられています。

  • 井戸跡からは、木製品のほかに、陶磁器や印章など、貴重な遺物も出土しています。

    井戸跡からは、木製品のほかに、陶磁器や印章など、貴重な遺物も出土しています。

  • 倉庫風の建物。<br /><br />柱の配置から、高床構造と推定できる建物で、倉庫の跡と考えられます。同様の建物は、観自在王院跡の南側でも見つかっており、「吾妻鏡」に記載される「高屋」と想定されます。

    倉庫風の建物。

    柱の配置から、高床構造と推定できる建物で、倉庫の跡と考えられます。同様の建物は、観自在王院跡の南側でも見つかっており、「吾妻鏡」に記載される「高屋」と想定されます。

  • 倉庫風建物の柱跡に人が立っている写真です。柱の穴の径が1mもあります。

    倉庫風建物の柱跡に人が立っている写真です。柱の穴の径が1mもあります。

  • こんな感じだったんだろう・・・って画です。<br /><br />源頼朝に攻められ、平泉館(柳之御所)は炎上・・・焼け残った倉庫から、鎌倉方によって多くの宝物が持ち去られました。<br />

    こんな感じだったんだろう・・・って画です。

    源頼朝に攻められ、平泉館(柳之御所)は炎上・・・焼け残った倉庫から、鎌倉方によって多くの宝物が持ち去られました。

  • 廃棄穴(井戸)。<br /><br />井戸として使用しなくなった後に、不要となったものを捨てた穴です。これらの穴からは、たくさんの種類の遺物が多量に出土し、当時の様子を知る手がかりになっています。<br /><br />この井戸跡は、深さが約3・5mあり、建物の部材がまとめて廃棄されていました。

    廃棄穴(井戸)。

    井戸として使用しなくなった後に、不要となったものを捨てた穴です。これらの穴からは、たくさんの種類の遺物が多量に出土し、当時の様子を知る手がかりになっています。

    この井戸跡は、深さが約3・5mあり、建物の部材がまとめて廃棄されていました。

  • こんな感じで出土されたようです。

    こんな感じで出土されたようです。

  • この色の道は、実際の道の遺跡が発見されたところです。

    この色の道は、実際の道の遺跡が発見されたところです。

  • 無量光院への道。<br /><br />無量光院は、藤原秀衡(三代目)によって、12世紀末に建立された寺院で、低地である猫間が淵遺跡をはさんで、柳之御所遺跡の西側に接しています。<br /><br />現在でも、無量光院跡の方向から、柳之御所遺跡に向かって、道路上の高まりが確認できます。<br /><br />また、この高まりにつながる低地からは、発掘調査によって、橋状の施設が見つかっています。<br /><br />これらのことから、当時は、平泉館と無量光院とを結ぶ道路があったと考えられています。<br /><br />政治の拠点である平泉館と寺院である無量光院が、密接に関係しながら機能していたことが明らかになっています。<br /><br />どこがその道だったのか・・・印がないのではっきりはわからないですが、このあたりから向こうへ・・・って感じでしょうか。<br /><br />次の写真・・・発掘中の様子を見ると、この写真の中央よりも右側にある、木々が何本か固まっているちょっと小高い草むらのようなところの前あたり・・・でしょうか。

    無量光院への道。

    無量光院は、藤原秀衡(三代目)によって、12世紀末に建立された寺院で、低地である猫間が淵遺跡をはさんで、柳之御所遺跡の西側に接しています。

    現在でも、無量光院跡の方向から、柳之御所遺跡に向かって、道路上の高まりが確認できます。

    また、この高まりにつながる低地からは、発掘調査によって、橋状の施設が見つかっています。

    これらのことから、当時は、平泉館と無量光院とを結ぶ道路があったと考えられています。

    政治の拠点である平泉館と寺院である無量光院が、密接に関係しながら機能していたことが明らかになっています。

    どこがその道だったのか・・・印がないのではっきりはわからないですが、このあたりから向こうへ・・・って感じでしょうか。

    次の写真・・・発掘中の様子を見ると、この写真の中央よりも右側にある、木々が何本か固まっているちょっと小高い草むらのようなところの前あたり・・・でしょうか。

  • 猫間が淵で発掘された、道路跡と考えられる張り出しと、橋状の施設。

    猫間が淵で発掘された、道路跡と考えられる張り出しと、橋状の施設。

  • 柳之御所遺跡が黄色い部分で、赤丸が現在地。2つ上の写真は、現在地から、水色の猫間が淵の方を眺めた画です。

    柳之御所遺跡が黄色い部分で、赤丸が現在地。2つ上の写真は、現在地から、水色の猫間が淵の方を眺めた画です。

  • 平泉館と猫間が淵の境目に沿って、現在は道路が通っていますが、ここは堀だったと思われます。<br /><br />道路(堀)の向こうは、猫間が淵と呼ばれるだけあって、堀内部地区に比べて、かなり低地になっています。

    平泉館と猫間が淵の境目に沿って、現在は道路が通っていますが、ここは堀だったと思われます。

    道路(堀)の向こうは、猫間が淵と呼ばれるだけあって、堀内部地区に比べて、かなり低地になっています。

  • 中心建物から離れると、道路が復元されているだけで、だだっ広いです。

    中心建物から離れると、道路が復元されているだけで、だだっ広いです。

  • 堀内部地区の北西端には、汚物廃棄穴群。<br /><br />この周囲には、糞尿などを捨てたと考えられる汚物廃棄穴が40基ほど集中して見つかっています。中心建物付近の汚物廃棄穴にいったん捨てられた汚物を、ここへ運び入れ、最終的に廃棄した穴と想定されます。

    堀内部地区の北西端には、汚物廃棄穴群。

    この周囲には、糞尿などを捨てたと考えられる汚物廃棄穴が40基ほど集中して見つかっています。中心建物付近の汚物廃棄穴にいったん捨てられた汚物を、ここへ運び入れ、最終的に廃棄した穴と想定されます。

  • ウリ科種子、寄生虫卵、ちゅう木(トイレットペーパーの用途として使われた木片)が見つかった穴を、汚物廃棄穴としています。<br /><br />これらは、人の糞尿やごみを捨てる穴であったと考えられています。汚物廃棄穴には、一次的に糞尿を溜めておく穴と、一次的な穴から移された汚物を埋める穴の2種類があったと考えられています。

    ウリ科種子、寄生虫卵、ちゅう木(トイレットペーパーの用途として使われた木片)が見つかった穴を、汚物廃棄穴としています。

    これらは、人の糞尿やごみを捨てる穴であったと考えられています。汚物廃棄穴には、一次的に糞尿を溜めておく穴と、一次的な穴から移された汚物を埋める穴の2種類があったと考えられています。

  • いったん、中心建物の近くに廃棄しておき、たまったら(?)、遠くにあるこちらの穴に運び廃棄したようです。

    いったん、中心建物の近くに廃棄しておき、たまったら(?)、遠くにあるこちらの穴に運び廃棄したようです。

  • こちらは資料館の写真。

    こちらは資料館の写真。

  • 大型の建物。<br /><br />東西が20m、南北が18mもある大型の建物です。平泉で見つかっている当時の建物の中で、最も広い面積を持ちます。建物の内側にも柱の列がある、総柱の構造を持つ建物と考えられます。

    大型の建物。

    東西が20m、南北が18mもある大型の建物です。平泉で見つかっている当時の建物の中で、最も広い面積を持ちます。建物の内側にも柱の列がある、総柱の構造を持つ建物と考えられます。

  • 堀内部地区の・・・北の外れにあります。

    堀内部地区の・・・北の外れにあります。

  • 発掘調査時の写真・・・確かに、かなり大きな建物だったようです。

    発掘調査時の写真・・・確かに、かなり大きな建物だったようです。

  • 大型の建物のそばにも、付属建物跡があります。

    大型の建物のそばにも、付属建物跡があります。

  • 大型の建物のあたりから、中心建物跡あたりを見た画です。

    大型の建物のあたりから、中心建物跡あたりを見た画です。

  • 中心建物である西の建物に隣接して、竪穴建物跡があります。<br /><br />東西7m、南北8mの竪穴の床面に柱を立てている構造で、北側と東側には張り出しがあります。<br />

    中心建物である西の建物に隣接して、竪穴建物跡があります。

    東西7m、南北8mの竪穴の床面に柱を立てている構造で、北側と東側には張り出しがあります。

  • 竪穴建物発掘時の様子。

    竪穴建物発掘時の様子。

  • 竪穴建物跡からは、かわらけが大量に重なって出土していることや、中心建物に近いことから、儀式の道具を納めていた倉庫とも想定される建物です。<br /><br />儀式に使われたかわらけは、10トン以上も出土したそうです。

    竪穴建物跡からは、かわらけが大量に重なって出土していることや、中心建物に近いことから、儀式の道具を納めていた倉庫とも想定される建物です。

    儀式に使われたかわらけは、10トン以上も出土したそうです。

  • 塀。<br /><br />柳之御所遺跡には、建物や園池などの空間を区画する塀がいくつかあります。四方を区画するものは見つかっていません。<br /><br />板塀が多いですが、中には角材をすき間なく並べた塀もあり、いくつかの種類があることがわかっています。<br /><br />中心建物を囲む(きっちり四方を囲んでいません)ラインが塀の跡です。

    塀。

    柳之御所遺跡には、建物や園池などの空間を区画する塀がいくつかあります。四方を区画するものは見つかっていません。

    板塀が多いですが、中には角材をすき間なく並べた塀もあり、いくつかの種類があることがわかっています。

    中心建物を囲む(きっちり四方を囲んでいません)ラインが塀の跡です。

  • 発掘された塀の跡。

    発掘された塀の跡。

  • こんな感じだったろう・・・という画です。

    こんな感じだったろう・・・という画です。

  • 道路跡。<br /><br />平行した2本の溝あとを、道路の側溝と考えました。道路の幅は、10~12mほどで、遺跡の南側では、全長50mにわたり見つかっています。<br /><br />またこの道路は、遺跡の周辺で発掘されている道路の延長上にあり、堀の上にかかる橋によって、つながっていた可能性があります。

    道路跡。

    平行した2本の溝あとを、道路の側溝と考えました。道路の幅は、10~12mほどで、遺跡の南側では、全長50mにわたり見つかっています。

    またこの道路は、遺跡の周辺で発掘されている道路の延長上にあり、堀の上にかかる橋によって、つながっていた可能性があります。

  • 発掘時の道路。

    発掘時の道路。

  • 道路の側溝の様子。<br /><br />復元された道路も、両脇に側溝をつけてあります。往時の路面は土でしたが、復元された道路は、歩きやすいように舗装されています。

    道路の側溝の様子。

    復元された道路も、両脇に側溝をつけてあります。往時の路面は土でしたが、復元された道路は、歩きやすいように舗装されています。

  • 資料館にあった道路位置図です。<br /><br />赤い丸で塗りつぶされた道路が、上の写真の北側の道路と南側の道路の位置だと思われます。<br /><br />堀に掛けられた橋を渡ると、外の道路に繋がっていたと考えられています。

    資料館にあった道路位置図です。

    赤い丸で塗りつぶされた道路が、上の写真の北側の道路と南側の道路の位置だと思われます。

    堀に掛けられた橋を渡ると、外の道路に繋がっていたと考えられています。

  • 道路を渡って、資料館へ行ってみようと来ました。このあたりもまだ堀で囲まれています。写真で、堀の向こう・・・堀の外に、資料館はあります。<br /><br />往時、堀には橋が架けられていました。この地点を含めて、現在までに3ヵ所が確認されています。<br /><br />このほかにも、無量光院へと結ぶ地点など、橋の存在が予想される場所もあります。<br /><br />堀からは、橋の部材と考えられる角材が出土しています。<br /><br />う~~ん・・・堀はわかるんですが、橋の正確な位置は明確にわかりませんでした。

    道路を渡って、資料館へ行ってみようと来ました。このあたりもまだ堀で囲まれています。写真で、堀の向こう・・・堀の外に、資料館はあります。

    往時、堀には橋が架けられていました。この地点を含めて、現在までに3ヵ所が確認されています。

    このほかにも、無量光院へと結ぶ地点など、橋の存在が予想される場所もあります。

    堀からは、橋の部材と考えられる角材が出土しています。

    う~~ん・・・堀はわかるんですが、橋の正確な位置は明確にわかりませんでした。

  • 発掘時の橋の跡。

    発掘時の橋の跡。

  • 今いるのは、この地図の現在地・・・堀内部地区の堀の際です。<br /><br />現在地の少し上あたりを、現在は道路が横切っていますので、道路を渡ってきました。<br /><br />平泉館(柳之御所)から出た・・・と思っていたけれど、堀内部地区は、道路を渡った先・・・このあたりまで含まれています。

    今いるのは、この地図の現在地・・・堀内部地区の堀の際です。

    現在地の少し上あたりを、現在は道路が横切っていますので、道路を渡ってきました。

    平泉館(柳之御所)から出た・・・と思っていたけれど、堀内部地区は、道路を渡った先・・・このあたりまで含まれています。

  • 堀。<br /><br />大規模な堀がめぐった姿は、柳之御所遺跡の大きな特徴です。堀は、外部と政治・行政上の拠点とを区画する役割を果たしていました。<br /><br />内と外の平行する2本の、水のない空堀が見つかっています。土塁などは確認されていません。2本の堀は、時期が異なり、併存していたわけではありません。<br /><br />遺跡の南側では、内側の堀が新しく、三代・秀衡の頃は、この内側の堀に囲まれていたと考え、一部を復元しました。堀は、延長500mもあり、全体像の解明はこれからです。<br /><br />内側の堀は、最大で幅14m、深さ4mもあります。堀には橋が架けられ、遺跡の外の道とつながっていました。

    堀。

    大規模な堀がめぐった姿は、柳之御所遺跡の大きな特徴です。堀は、外部と政治・行政上の拠点とを区画する役割を果たしていました。

    内と外の平行する2本の、水のない空堀が見つかっています。土塁などは確認されていません。2本の堀は、時期が異なり、併存していたわけではありません。

    遺跡の南側では、内側の堀が新しく、三代・秀衡の頃は、この内側の堀に囲まれていたと考え、一部を復元しました。堀は、延長500mもあり、全体像の解明はこれからです。

    内側の堀は、最大で幅14m、深さ4mもあります。堀には橋が架けられ、遺跡の外の道とつながっていました。

  • 発掘時の内側の堀跡。<br /><br />発掘した堀に盛土をし、保護したうえで、調査で確認された形に合わせて復元されています。ひとつ前の写真のように、復元した堀の表面は、土が崩れるのを防ぐために芝が張られていますが、往時は、土のままであったと考えられています。

    発掘時の内側の堀跡。

    発掘した堀に盛土をし、保護したうえで、調査で確認された形に合わせて復元されています。ひとつ前の写真のように、復元した堀の表面は、土が崩れるのを防ぐために芝が張られていますが、往時は、土のままであったと考えられています。

  • 発掘時、外側の堀の跡と内側の堀の跡(東方向から)。人が立っていると、その大きさがわかります。

    発掘時、外側の堀の跡と内側の堀の跡(東方向から)。人が立っていると、その大きさがわかります。

  • 堀の東側は、北上川によって削られているか、もしくは北上川に通じていたと予想されています。<br />(資料館にて)<br />

    堀の東側は、北上川によって削られているか、もしくは北上川に通じていたと予想されています。
    (資料館にて)

  • 伽羅御所(きゃらのごしょ)跡への道。<br /><br />柳之御所遺跡(平泉館)の南側には、低地である猫間が淵遺跡をはさんで、伽羅御所跡(最初に訪れた場所です)が接しています。吾妻鏡の中で、藤原秀衡の日常の居所として記述されている「加羅御所」の推定地です。<br /><br />2つの遺跡は、堀や低地によって区画されていますが、この場所に、堀をまたぐ橋の跡が見つかっています。秀衡の時代には、政治の場である平泉館(柳之御所)と、生活の場である加羅御所とを、橋や道路で結んでいたと考えられます。

    伽羅御所(きゃらのごしょ)跡への道。

    柳之御所遺跡(平泉館)の南側には、低地である猫間が淵遺跡をはさんで、伽羅御所跡(最初に訪れた場所です)が接しています。吾妻鏡の中で、藤原秀衡の日常の居所として記述されている「加羅御所」の推定地です。

    2つの遺跡は、堀や低地によって区画されていますが、この場所に、堀をまたぐ橋の跡が見つかっています。秀衡の時代には、政治の場である平泉館(柳之御所)と、生活の場である加羅御所とを、橋や道路で結んでいたと考えられます。

  • ちゃんとした位置は分からなかったけれど、柳之御所と伽羅御所とを結ぶ橋の跡が発掘されています。

    ちゃんとした位置は分からなかったけれど、柳之御所と伽羅御所とを結ぶ橋の跡が発掘されています。

  • 先ほど訪れた伽羅御所跡と、現在地の柳之御所遺跡との位置関係は、こんな感じです。水色のラインが堀の跡、黄色のラインは、伽羅御所へつながる道路の跡です。

    先ほど訪れた伽羅御所跡と、現在地の柳之御所遺跡との位置関係は、こんな感じです。水色のラインが堀の跡、黄色のラインは、伽羅御所へつながる道路の跡です。

  • 堀を超えて、柳之御所資料館を見学に来ました。こちらも無料です。<br /><br />見学してきた柳之御所(平泉館)跡にあった説明板に加えて、どういう目的でどういうふうに復元されたのか・・・など、さらに詳しい説明展示があったり、多くの出土品の展示があったり・・・より理解を深めることができます。<br /><br />館内は撮影もOKでした。

    堀を超えて、柳之御所資料館を見学に来ました。こちらも無料です。

    見学してきた柳之御所(平泉館)跡にあった説明板に加えて、どういう目的でどういうふうに復元されたのか・・・など、さらに詳しい説明展示があったり、多くの出土品の展示があったり・・・より理解を深めることができます。

    館内は撮影もOKでした。

    柳之御所資料館 美術館・博物館

  • 発掘調査図を見ると、緑色で示された主な建物跡が数多く見られます。現在の園内は、やけにがら~んと広大な感じがしましたが、実際には、もっと多くの建物跡が発掘されているようです。<br /><br />100年の間に、4~5の時期に分けて変遷したと考えられているようで、今整備されているのは、主要建物が池を中心に配置され、遺跡の特徴を最もよく表している時期(三代・秀衡の頃)を想定しているようです。

    発掘調査図を見ると、緑色で示された主な建物跡が数多く見られます。現在の園内は、やけにがら~んと広大な感じがしましたが、実際には、もっと多くの建物跡が発掘されているようです。

    100年の間に、4~5の時期に分けて変遷したと考えられているようで、今整備されているのは、主要建物が池を中心に配置され、遺跡の特徴を最もよく表している時期(三代・秀衡の頃)を想定しているようです。

  • 平泉は、日本の古代都城と同じように、外周を囲む城壁を持たず、四方を北上川などの河川および丘陵に囲まれ、風光明媚で水の豊かな自然の地形・環境と融合して造営されました。<br /><br />そこには、寺院および庭園と居館とが一体化して、仏教に基づく理想世界を表現しようとした独特のまとまりが示されています。

    平泉は、日本の古代都城と同じように、外周を囲む城壁を持たず、四方を北上川などの河川および丘陵に囲まれ、風光明媚で水の豊かな自然の地形・環境と融合して造営されました。

    そこには、寺院および庭園と居館とが一体化して、仏教に基づく理想世界を表現しようとした独特のまとまりが示されています。

  • 柳之御所遺跡から最も多く出土するものはかわらけで、出土総重量は10トンを超えています。<br /><br />かわらけは、1回だけ使われる使い捨ての食器と言われ、主に宴会で利用されました。当時、政治には、宴会や儀式は欠くことのできないものでした。多量のかわらけや折敷(次の写真)が出土してることから、ここで多くの儀式が行われ、この遺跡が東北地方の政治の中心だったことがわかります。<br /><br />かわらけには、ろくろを使用して作ったものと、手づくねのものと2種類があります。手づくねかわらけは、京都文化の影響を受けて、基衡(二代)の頃には、平泉でも製作されるようになりました。<br /><br />また、かわらけの中には、灯りを点すのに使用したため、内面に油煙が付着したものや、漆の容器として使用したものも見られます。

    柳之御所遺跡から最も多く出土するものはかわらけで、出土総重量は10トンを超えています。

    かわらけは、1回だけ使われる使い捨ての食器と言われ、主に宴会で利用されました。当時、政治には、宴会や儀式は欠くことのできないものでした。多量のかわらけや折敷(次の写真)が出土してることから、ここで多くの儀式が行われ、この遺跡が東北地方の政治の中心だったことがわかります。

    かわらけには、ろくろを使用して作ったものと、手づくねのものと2種類があります。手づくねかわらけは、京都文化の影響を受けて、基衡(二代)の頃には、平泉でも製作されるようになりました。

    また、かわらけの中には、灯りを点すのに使用したため、内面に油煙が付着したものや、漆の容器として使用したものも見られます。

  • 折敷(おしき)。<br /><br />宴会でかわらけを使う時には、薄い板で作った折敷の上に並べていました。出土した折敷には、底に楕円の釘穴が確認できるものもあり、木製の脚をつけたこともあるようです。<br /><br />折敷は、長さ30cm、幅20cm程度の大きさのもので、杉板が多く用いられています。柳之御所遺跡からは、150点を超える折敷が出土していて、これらを用いた宴会の様子をうかがうことができます。

    折敷(おしき)。

    宴会でかわらけを使う時には、薄い板で作った折敷の上に並べていました。出土した折敷には、底に楕円の釘穴が確認できるものもあり、木製の脚をつけたこともあるようです。

    折敷は、長さ30cm、幅20cm程度の大きさのもので、杉板が多く用いられています。柳之御所遺跡からは、150点を超える折敷が出土していて、これらを用いた宴会の様子をうかがうことができます。

  • 平成11年に出土された銅印です。<br /><br />深さ約3mの井戸状遺構の埋土上半から出土し、下方から銅印、それより40cmほど上位から、白磁四耳壺が見つかりました。遺構は12世紀後半のもので、国産陶器やかわらけ、下駄などの木製品が多量に廃棄されていました。

    平成11年に出土された銅印です。

    深さ約3mの井戸状遺構の埋土上半から出土し、下方から銅印、それより40cmほど上位から、白磁四耳壺が見つかりました。遺構は12世紀後半のもので、国産陶器やかわらけ、下駄などの木製品が多量に廃棄されていました。

  • 銅印には、陽刻・楷書体で「磐前村印」の4文字が見え、「いわさきむらいん」あるいは「いわがさきむらいん」と読むことができます。なお、鈕裾部には、印の方向を示す「上」の字が刻まれています。<br /><br />柳之御所遺跡は、平泉藤原氏の政庁であった可能性が指摘されています。村の印としては初めての例になる銅印は、「磐前村」がどこに所在したのかという問題はありますが、藤原氏の政治や支配の実態と仕組みを考える上で重要です。

    銅印には、陽刻・楷書体で「磐前村印」の4文字が見え、「いわさきむらいん」あるいは「いわがさきむらいん」と読むことができます。なお、鈕裾部には、印の方向を示す「上」の字が刻まれています。

    柳之御所遺跡は、平泉藤原氏の政庁であった可能性が指摘されています。村の印としては初めての例になる銅印は、「磐前村」がどこに所在したのかという問題はありますが、藤原氏の政治や支配の実態と仕組みを考える上で重要です。

  • 銅印とともに出土された白磁四耳壺(はくじしじこ)。

    銅印とともに出土された白磁四耳壺(はくじしじこ)。

  • この松双鶴鏡は、2羽の鶴が飛んでいる周りに、松が配されています。また、周囲には蝶も飛んでいます。<br /><br />直径11・5cm、重量が264g。この文様の表現は、京都などで見られるものとはやや異なるものだそうです。<br /><br />平泉では、志羅山遺跡で、鏡の鋳型が見つかっていることもあり、平泉で生産された可能性も指摘されています。<br /><br />この鏡は、柳之御所遺跡の井戸跡の底面近くから出土したもので、井戸が廃される時に、何らかの儀式に用いたと考えられます。<br /><br />この鏡のほかに、八稜鏡と呼ばれる、端部に8つの稜がつくものが出土しています。

    この松双鶴鏡は、2羽の鶴が飛んでいる周りに、松が配されています。また、周囲には蝶も飛んでいます。

    直径11・5cm、重量が264g。この文様の表現は、京都などで見られるものとはやや異なるものだそうです。

    平泉では、志羅山遺跡で、鏡の鋳型が見つかっていることもあり、平泉で生産された可能性も指摘されています。

    この鏡は、柳之御所遺跡の井戸跡の底面近くから出土したもので、井戸が廃される時に、何らかの儀式に用いたと考えられます。

    この鏡のほかに、八稜鏡と呼ばれる、端部に8つの稜がつくものが出土しています。

  • この火舎(かしゃ)香炉は、深さ1・41mの土坑から、花瓶(けびょう)とともに出土しました。<br /><br />火舎香炉には、人の顔の形を表した脚が3脚つき、上部に吊り手が2個あります。<br /><br />花瓶は、本体に唐草文、蓮弁文、脚に蓮弁文があります。どちらも大型のものです。<br /><br />これらは、実用品というよりも、仏具のひとつと考えられています。

    この火舎(かしゃ)香炉は、深さ1・41mの土坑から、花瓶(けびょう)とともに出土しました。

    火舎香炉には、人の顔の形を表した脚が3脚つき、上部に吊り手が2個あります。

    花瓶は、本体に唐草文、蓮弁文、脚に蓮弁文があります。どちらも大型のものです。

    これらは、実用品というよりも、仏具のひとつと考えられています。

  • 脚部に彫られた顔・・・わかりますでしょうか・・・?

    脚部に彫られた顔・・・わかりますでしょうか・・・?

  • 12世紀ころから、東海地方を中心に、日本各地で陶器が生産されます。現在の愛知県の渥美や常滑が代表的な生産地で、それらは柳之御所遺跡からも多量に出土しています。これらの製品により、太平洋岸の交易の様子をうかがうことができます。<br /><br />また、平泉町内でも、12世紀前半に陶器の生産が行われており、奥州藤原氏は、陶器の生産にも大きな関心を持っていたことが考えられます。

    12世紀ころから、東海地方を中心に、日本各地で陶器が生産されます。現在の愛知県の渥美や常滑が代表的な生産地で、それらは柳之御所遺跡からも多量に出土しています。これらの製品により、太平洋岸の交易の様子をうかがうことができます。

    また、平泉町内でも、12世紀前半に陶器の生産が行われており、奥州藤原氏は、陶器の生産にも大きな関心を持っていたことが考えられます。

  • 日本各地で生産された陶磁器の他に、中国をはじめとする海外で生産された陶磁器も多くみられます。<br /><br />これにより、奥州藤原氏が、遠方との交易を可能にする経済力や政治力を持っていたことがわかります。また、高価な調度品でもあったこれらの陶磁器を使用した、奥州藤原氏の豊かな生活ぶりを想像することができます。

    日本各地で生産された陶磁器の他に、中国をはじめとする海外で生産された陶磁器も多くみられます。

    これにより、奥州藤原氏が、遠方との交易を可能にする経済力や政治力を持っていたことがわかります。また、高価な調度品でもあったこれらの陶磁器を使用した、奥州藤原氏の豊かな生活ぶりを想像することができます。

  • 12世紀の文献には、当時の人々の服装や持ち物が記述されていますが、遺物として残っている例は多くありません。<br /><br />しかし、柳之御所遺跡では、烏帽子、櫛、扇の骨、下駄、暖をとるための温石(おんじゃく)などが出土しています。特に烏帽子に関しては、遺跡から出土することは非常に珍しく貴重な資料です。

    12世紀の文献には、当時の人々の服装や持ち物が記述されていますが、遺物として残っている例は多くありません。

    しかし、柳之御所遺跡では、烏帽子、櫛、扇の骨、下駄、暖をとるための温石(おんじゃく)などが出土しています。特に烏帽子に関しては、遺跡から出土することは非常に珍しく貴重な資料です。

  • 横櫛。

    横櫛。

  • 銅銭。

    銅銭。

  • 温石とは、板状の石を加熱して布などに包み、暖房や医療に利用したものです。

    温石とは、板状の石を加熱して布などに包み、暖房や医療に利用したものです。

  • 扇骨。

    扇骨。

  • 柄(つか)木。

    柄(つか)木。

  • 差歯式下駄。<br /><br />差し歯式は、別材の歯を組み合わせたもの。

    差歯式下駄。

    差し歯式は、別材の歯を組み合わせたもの。

  • 曲げ物。

    曲げ物。

  • 遺跡から見つかる文字資料は、土器などの焼き物や木製品に書かれたものがほとんどですが、わずかながら紙に書かれたものも見ることができます。<br /><br />また、呪符や木簡のように、最初から目的を持って書かれているものもありますが、練習用や遊び半分に書かれることも少なくありません。<br /><br />これらの多くは、当時の記録には記されていない、日常の暮らしを知ることのできる、大変貴重な資料となっています。

    遺跡から見つかる文字資料は、土器などの焼き物や木製品に書かれたものがほとんどですが、わずかながら紙に書かれたものも見ることができます。

    また、呪符や木簡のように、最初から目的を持って書かれているものもありますが、練習用や遊び半分に書かれることも少なくありません。

    これらの多くは、当時の記録には記されていない、日常の暮らしを知ることのできる、大変貴重な資料となっています。

  • また、さきほど出てきた折敷(おしき)は、その大きさが文字や絵を描くのに適しており、和歌や習字(字の練習)、メモといったものや、なかには人名と読み取れるものもあります。絵では、建物や動物、草木を描いたものが見られます。<br /><br />

    また、さきほど出てきた折敷(おしき)は、その大きさが文字や絵を描くのに適しており、和歌や習字(字の練習)、メモといったものや、なかには人名と読み取れるものもあります。絵では、建物や動物、草木を描いたものが見られます。

  • かわらけなどには、文字や絵が墨で描かれたものがあり、それを墨書土器と呼んでいます。<br /><br />書かれた内容は多岐にわたり、字や絵の試し書きのようなものから、仮名で書かれた和歌のようなもの、漢字、そして人の顔を描いた絵など様々です。<br /><br />また、字や絵が刻まれた刻書(画)土器と呼ばれるものもあります。

    かわらけなどには、文字や絵が墨で描かれたものがあり、それを墨書土器と呼んでいます。

    書かれた内容は多岐にわたり、字や絵の試し書きのようなものから、仮名で書かれた和歌のようなもの、漢字、そして人の顔を描いた絵など様々です。

    また、字や絵が刻まれた刻書(画)土器と呼ばれるものもあります。

  • 遺跡内で行われていた、まじないに使われた道具。まじないには、仏教・神道・修験道・陰陽道などの宗教に基づく祭祀や呪術が含まれますが、具体的な作法はまだよくわかっていません。<br /><br />柳之御所遺跡からは、形代(かたしろ)や呪符などのまじないに使われた道具が、他の平泉町内の遺跡よりもたくさん出土しています。このことは、当時の柳之御所の性格を示しているといえるでしょう。<br /><br />写真は呪符。<br /><br />木簡や呪符などは、宮城県の多賀城(奈良・平安時代に、陸奥国府・鎮守府が置かれた城柵で、東北地方の政治・文化・軍事の中心)跡からの出土品として、似たようなものをたくさん見たことがあります。

    遺跡内で行われていた、まじないに使われた道具。まじないには、仏教・神道・修験道・陰陽道などの宗教に基づく祭祀や呪術が含まれますが、具体的な作法はまだよくわかっていません。

    柳之御所遺跡からは、形代(かたしろ)や呪符などのまじないに使われた道具が、他の平泉町内の遺跡よりもたくさん出土しています。このことは、当時の柳之御所の性格を示しているといえるでしょう。

    写真は呪符。

    木簡や呪符などは、宮城県の多賀城(奈良・平安時代に、陸奥国府・鎮守府が置かれた城柵で、東北地方の政治・文化・軍事の中心)跡からの出土品として、似たようなものをたくさん見たことがあります。

  • まじないの道具の中の形代(かたしろ)。<br /><br />形代は、人・動物・道具などをかたどった小型のもので、実物よりも小型に作られています。一般的に、穢れを祓う儀式に使われたと想定されていて、全国的に同じ形をしたものが出土していることから、共通の形代を使用するまじないがあったと推定されています。<br /><br />その他に、地鎮・鎮壇のために埋められたとされる輪宝とけつ、7枚のかわらけが出土しています。

    まじないの道具の中の形代(かたしろ)。

    形代は、人・動物・道具などをかたどった小型のもので、実物よりも小型に作られています。一般的に、穢れを祓う儀式に使われたと想定されていて、全国的に同じ形をしたものが出土していることから、共通の形代を使用するまじないがあったと推定されています。

    その他に、地鎮・鎮壇のために埋められたとされる輪宝とけつ、7枚のかわらけが出土しています。

  • 柳之御所遺跡をはじめ平泉では、当時使われていた多数の道具類が出土しています。<br /><br />材質は木、鉄、石など多様で、その種類も、日常の生活に使われた道具、生産に使われた道具など、変化に富んでいます。<br /><br />こちらは馬具。

    柳之御所遺跡をはじめ平泉では、当時使われていた多数の道具類が出土しています。

    材質は木、鉄、石など多様で、その種類も、日常の生活に使われた道具、生産に使われた道具など、変化に富んでいます。

    こちらは馬具。

  • 糸を紡いだり布を織ったりする紡織具。<br /><br />編み物用の錘や針には、御簾や網を作る際に使用したものもあります。

    糸を紡いだり布を織ったりする紡織具。

    編み物用の錘や針には、御簾や網を作る際に使用したものもあります。

  • 政治の中心であったあ平泉館にふさわしく、紙(漆紙)、筆、硯、ものさしなどの文具が出土しています。銅製の印章が出土していることから、遺跡内で行政にかかわる仕事が行われていたことが考えられます。<br /><br />また遊戯具では、毬、将棋の駒、碁石、木とんぼなどが出土しており、当時この場所が、行政などの仕事の場だけではなかったことがわかります。

    政治の中心であったあ平泉館にふさわしく、紙(漆紙)、筆、硯、ものさしなどの文具が出土しています。銅製の印章が出土していることから、遺跡内で行政にかかわる仕事が行われていたことが考えられます。

    また遊戯具では、毬、将棋の駒、碁石、木とんぼなどが出土しており、当時この場所が、行政などの仕事の場だけではなかったことがわかります。

  • 硯。

    硯。

  • 柳之御所遺跡からは、しゃもじ、へらなどの調理具や、箸・椀などの飲食具などが豊富に出土しています。<br /><br />材質は、杉の薄い板材を加工したものが多く、中には折敷などからリサイクルされたものもあります。<br /><br />そのほか、トイレットペーパーの機能をもった、ちゅう木と呼ばれる割材も出土しています。<br /><br />これらの道具の多くは、現在では材質が変わっていますが、当時も今も変わらない形をしていました。

    柳之御所遺跡からは、しゃもじ、へらなどの調理具や、箸・椀などの飲食具などが豊富に出土しています。

    材質は、杉の薄い板材を加工したものが多く、中には折敷などからリサイクルされたものもあります。

    そのほか、トイレットペーパーの機能をもった、ちゅう木と呼ばれる割材も出土しています。

    これらの道具の多くは、現在では材質が変わっていますが、当時も今も変わらない形をしていました。

  • 鍋や箸など。

    鍋や箸など。

  • しゃくしなど。

    しゃくしなど。

  • 漆は、縄文時代から、器の上塗りや接着剤など色々な用途に使われています。漆生産は、現在でも、岩手県を代表する産業のひとつになっています。<br /><br />柳之御所遺跡からは、椀や皿などの他にも、下駄や箱などの漆製品が出土しています。<br /><br />また、漆塗りのパレットとして使われたかわらけや、漆を塗った刷毛、漉し布などが出土しているため、漆塗りに関連する作業も行われていたようです。

    漆は、縄文時代から、器の上塗りや接着剤など色々な用途に使われています。漆生産は、現在でも、岩手県を代表する産業のひとつになっています。

    柳之御所遺跡からは、椀や皿などの他にも、下駄や箱などの漆製品が出土しています。

    また、漆塗りのパレットとして使われたかわらけや、漆を塗った刷毛、漉し布などが出土しているため、漆塗りに関連する作業も行われていたようです。

  • 漆を塗った刷毛。

    漆を塗った刷毛。

  • 建物や塀など、建築に使われていた部材も、たくさん出土しています。

    建物や塀など、建築に使われていた部材も、たくさん出土しています。

  • しかし、それらの部材が、どのような部分に用いられていたのか特定できるものは限られています。<br /><br />現在わかっているものは、屋根葺き板、破風板、格子、柱、懸魚。<br /><br />また、瓦の出土が少ないことから、総瓦葺きの建物は多くなかったことが推定されます。

    しかし、それらの部材が、どのような部分に用いられていたのか特定できるものは限られています。

    現在わかっているものは、屋根葺き板、破風板、格子、柱、懸魚。

    また、瓦の出土が少ないことから、総瓦葺きの建物は多くなかったことが推定されます。

  • 建物の壁材料である土壁が、焼けた状態で416kg出土しています。<br /><br />全国的に見ても、これだけの土壁が出土している遺跡が少ないことから、壁材料を推定する上で、重要な資料となっています。<br /><br />土壁の仕上げ面には、白土が塗られているものが多く、白壁仕上げの建物が存在していたことがわかります。また、壁の内側には、小舞(こまい)と呼ばれる壁の芯材の痕跡が残っています。

    建物の壁材料である土壁が、焼けた状態で416kg出土しています。

    全国的に見ても、これだけの土壁が出土している遺跡が少ないことから、壁材料を推定する上で、重要な資料となっています。

    土壁の仕上げ面には、白土が塗られているものが多く、白壁仕上げの建物が存在していたことがわかります。また、壁の内側には、小舞(こまい)と呼ばれる壁の芯材の痕跡が残っています。

  • 色々な形の瓦。

    色々な形の瓦。

  • 先ほど見てきた遺跡の景色を思い出し、平安時代の人々の生活ぶりを想像しながら見学するには、この資料館はとても面白く、見ごたえを感じるところでした。<br /><br />だいぶ長くなってきたので、続きは次へ・・・。

    先ほど見てきた遺跡の景色を思い出し、平安時代の人々の生活ぶりを想像しながら見学するには、この資料館はとても面白く、見ごたえを感じるところでした。

    だいぶ長くなってきたので、続きは次へ・・・。

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この旅行記へのコメント (8)

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  • ガブリエラさん 2017/12/24 19:30:07
    メリークリスマスです♪
    こあひるさん☆

    こんばんは♪
    ようやくバタバタもひと段落で、年賀状を書き終えて、4トラにゆっくり来られましたヽ(^o^)丿

    丁度、平泉の藤原氏のあたりが出てくる漫画を読んでいるので、とても興味深く拝見しましたヽ(^o^)丿
    行ってみたいな~って思いながら読んでたので、お写真を拝見していて、その気持ちが強くなりました♪

    いろんな資料も、詳しくコメントして下さってるので、まるで博物館に来たかのような感覚で、楽しく読ませていただきました!

    ガブ(^_^)v

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2017/12/25 10:49:48
    RE: メリークリスマスです♪
    ガブちゃん、こんにちは〜!

    ご家族で温かいクリスマスを過ごされていることと思います。

    バタバタがひと段落して、年末年始は落ち着いて迎えられそうでよかったですね。

    あら?平泉の藤原氏が出てくるマンガ・・・?渋いね〜〜ぇ。あのエリアは、中尊寺や毛越寺を初め、平安時代の名残りがたくさん残っているので、とっても興味深いです。東北に、奈良や京都と同じような時代からの名残りを、ここまで味わえるなんて嬉しいです。

    日本ではクリスマスは今日まで・・・明日からはお正月ムードにがらりと変わりますね。あっという間の1年でしたが、今年もたくさん見て下さってありがとうございました。

    来年は奈良で会えるといいね〜。秋篠寺〜〜行きたい〜〜!

    お互いに、来年も体調よく、旅行がたくさんできるといいですね!よいお年を迎えてください。

    こあひる
  • ムロろ~んさん 2017/12/21 21:27:05
    北の地の都(^_^)
    こんばんは、ムロろ~んです。
    平泉へ行かれた旅行記を拝見しました。

    私の親友が近くに住んでいるので何回か訪ねたことがある地です。
    でも不思議に感じたのが、東北の寒い地にこの様な栄えた時代があって、大都市を形成していた時代があったんだって思ったんです。
    奥州藤原氏が金産業で栄えていたからという話を高校時代の日本史の先生が教えてくれたことがあったのですけれど、私にしてみたらよく造ったなぁとビックリです。

    今なんて、かえってのんびりしたのどかな風景になっていますけれど、時代と共に色々と変わるんだなぁって、旅行記を読んで一番感じてしまいました。

    それとよく道具とか残っていたなぁって。長い時を経て掘り出されて、発掘されて。
    そのことも驚きますよ。


    ムロろ~ん(-人-)

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2017/12/25 00:39:19
    RE: 北の地の都(^_^)
    ムロたん、こんばんは〜!

    バリバリの仏教徒のムロたんですけれど・・・メリークリスマス!!

    平安時代の東北なんて、世の果て・・・ってくらい遠くて辺境の地だっただろうに・・・京都にも負けないほどの栄華を極めた都市が、ほんの短い間にしろ存在したのは、ほんとに面白いことですよね〜。この世に極楽浄土を造る・・・というのは、財力に加えて、ものすごい信仰心とやり遂げるパワーがないと・・・現在に生きる私たちには、なかなか理解しがたい凄さを感じます。

    水田なんかになっちゃったことで、かえって上手く保存されたんでしょうね〜。平安時代の様々な道具を見ると・・・自分がここにあらず・・・という不思議な気分になっちゃいます。

    こあひる
  • 白い華さん 2017/12/19 16:15:49
    旅行記を 作る・・・ため。に 「勉強する」と、 楽しい!デスヨネ。
    今日は。
    今回の 「平泉の 旅」は、 おひとりさま。
    「中尊寺。 毛越寺・・・の 有名寺院には すでに、訪問済み」なので、
    『奥州・藤原氏・・・の 時代』を 想像力!を ふくらませ、田舎道を 散策して 「遺跡巡り」を 楽しむ。
    って 云っても、「ただ、田園風景が 広がる!ばかり・・・の 現在の姿」では
    帰宅後、「いろいろ、奥州藤原氏を 調べて、知ること」と なりますよね。
    これ!って 「旅行記作り・・・を する事」で 真剣!に やる。と 云うか、 旅行の帰宅後、「勉強する」って ありますよね。 (笑)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーー
    私も 数年前 「平泉」を 歩きました。
    「毛越寺 から 中尊寺へ・・・と 長距離を 歩き、 平泉の 界隈!の 田園地帯も 歩いた。ので、
    今回の お話!は とても、興味深く、 「詳しく、記されている・・・ 解説を 楽しませてもらいました」

    大雨・・・ながら、「全て!徒歩で 行く」って 言う 夫。(涙)
    もう、ずぶ濡れ!に なりながら・・・の「平泉」は 印象的なんですよね。
    大雨も 止んだ! 夕暮れ。
    当時、「無量光院」は 発掘作業中・・・でした。が 
    「金鶏山」の 方角から 「見事な 夕陽!が キラリ」と 輝いて・・・。

    そう~、「無量光院」は、
    京都「平等院 鳳凰堂」に 似た・・・建築物が あったそう。なので
    そんな・・・寺院建築。が 存在し、
    『極楽浄土・・・を 夢見たんだ』と 夕陽の 光!に 感じたモノ!でした。

    平安時代、 奥州藤原氏が 繁栄した!時代。
    今は、「田園地帯 そして 寂れた!家並み・・・が 続く 平泉」ですが、
    「京都の 次・・・に 人口が 多い。 日本で 第二・・・の 街だった」と 聞きました。

    「京都は、 現在・・・も、 大都会!の 賑わい」が あります。が
    コチラ!は 『 つわものどもの 夢の跡 』 を しみじみ・・・かんじますよね~。

    往時の「トイレ!の 糞尿の 始末・話」も 興味深く、 面白かったデス。
    こうゆう、汚い!けど、 人間には、 必須・・・の コト。って
    「どうしてたんだろうか ?」って 思うので。。。 (笑)
        これからもよろしくお願いします。
     

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2017/12/21 18:27:17
    RE: 旅行記を 作る・・・ため。に 「勉強する」と、 楽しい!デスヨネ。
    白い華さん、こんばんは!

    さすが白い華さん・・・平泉にはすでに行かれたこともあり・・・奥州藤原氏やかつての都について、よくご存知でいらっしゃいますね。

    旅行記を作る段になって、調べたり勉強したり・・・いつもそういうパターンなのですが、自己満足ながらも・・・なかなか楽しいですよね。

    仙台に来て、初めて中尊寺に行くまで・・・奥州藤原氏なんてまったく知りませんでしたもの・・・。

    白い華ご夫妻、毛越寺から中尊寺まで歩かれたのですね〜。直線距離だとそうでもなさそうですが、起伏もあるので、けっこう大変だったでしょう・・・しかも雨の中だなんて・・・。

    無量光院は、今もまだ・・・中途半端な感じで(もともとの敷地全体でもないですしね)・・・整備が終わっていないようです。夕日に染まる時、往時の人は、あの向こうに西方浄土があるんだと思って眺めていた・・・と思うと、不思議な気分になりますね。

    無量光院も毛越寺も、平等院に負けるとも劣らない・・・素晴らしい建物だったようですが・・・なにもかも失われて、庭園だけがその面影を偲ばせる・・・というところが、虚しくて・・・いい(?)です。

    採掘した金などで潤った100年だけの都・・・京都のようにその後に継続することもなく(京都も、平安時代と、位置も道路も全然違いますけれど)・・・。

    夏草や 兵どもが 夢の跡・・・という句が、これほど相応しいところはないかも・・・と思います。

    廃棄穴はなんだか一番、面白かったりして・・・。しかし、あのちゅう木という木の棒で、どうやって拭いていたんだろう?って・・・そのあたり、もうちょっと、説明が欲しかったです(笑)。

    こあひる
  • aoitomoさん 2017/12/19 14:28:53
    松尾芭蕉の句が理解できた気分です!
    こあひるさん こんにちは~

    『伽羅御所跡と柳之御所跡』
    跡地はあくまでも跡地でなかなか当時の雰囲気をつかみにくいですが、
    出土品などを含めた資料館の情報量は多いですね。
    しかしながら、同じ土地で4~5回の変遷が繰り返えされているので、時期の整理も難しいでしょうね。

    そんなことは専門家にお任せするとして、かなりの情報がつかめており、専門家により多くのイメージが分かってきているのは興味深いです。
    遺跡にスマホやiPadをかざしたら当時の建物が浮かび上がるとか、そんなサービスも考えてほしいです。(笑)

    木で出来た出土品も多数あり自然の中での保存状態も良かったのでしょうね。
    『折敷』により当時の宴会の様子が分かったり、これが当時のノートがわりで文字や絵が描かれたりと当時の生活を知る資料としても貴重です。

    人面墨書土器(かわらけに書かれた顔)の顔も面白いです。
    当時の人が描く顔に見えないですね。

    さらに陶器の流通から生産開始まであらゆる事が分かるのが面白いですよ。
    資料館最高に楽しめますね。
    写真撮影ができるのも助かります。
    私は、写真だけ撮ってそれを見て後から理解する事が多いですから。(笑)

    伽羅御所跡と柳之御所跡は、ネットで調べましたがそんなに情報も多くないですね。(詳しくは調べてませんが。)
    youtubeもしかり。
    こあひるさん の、旅行記が一番わかりやすいです。
    これだけ資料は整っているし、ドキュメンタリー番組などで取り上げてほしいと思いました。

    aoitomo

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2017/12/21 18:08:17
    RE: 松尾芭蕉の句が理解できた気分です!
    aoitomoさん、こんばんは〜!

    渋めの旅行記にお付き合い頂きありがとうございます〜〜!

    伽羅御所は、住宅地の中のどの部分なのかはっきりとわからなかったのですが、柳之御所は、ほぼ敷地ごと保存整備されているので、有り難いですね〜。ここももしかしたら、バイパス道路などが敷かれて、失われた史跡になったかもしれませんから・・・。

    柳之御所の発掘時の写真を見ると・・・柱などの穴がものすごくたくさんあるので、その中から、どれがいつのどんな建物だったのか・・・調査して判別していくなんて、ほんとにスゴイと思います。

    宮城県の多賀城跡は、スマホをかざすと当時の建物が出てくる・・・というアプリがあるようですが(今もまだあるのかわかりませんが)、当時の姿がイメージしやすいように、色々立体的に工夫してほしいですね〜。それでも、毛越寺なんかに比べると、個々の建物についての写真や説明板がきちんとしていて、わかりやすい方だったと思います。

    こんな辺鄙な田舎ですから、100年ほどの栄華のあとは、あまり何もないままで・・・そんなことが幸いして、土や水の中に、色々なものが残ったままになったのでしょうね〜。金色堂にしても・・・あれだけでも、ほんとによくも残ってくれたものだと胸が熱くなります。

    資料館は、柳之御所跡を見てから寄ると、とても理解しやすく、遺跡で得た知識を補強するのに役立ちました。わたしも、その時よりも、旅行記を作りながら理解を深めたり、勉強したりするので、とりあえずなんでも写真に撮ってきちゃいます。ほんとは、行く前に勉強していけば、見る目も違ってくるのでしょうが・・・。

    採掘した豊富な金など、資金をふんだんに使った・・・宇治平等院にも勝ると劣らない、素晴らしいお寺が建ち並んでいた仏都・・・個人の家々はかなり素朴だと思いましたが、都全体のイメージは、なんだかこの世のものではないように感じます。

    こあひる

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