![関戸古戦場跡(せきどこせんじょうあと、東京都多摩市関戸)は元弘3年(1333)5月16日、上野国挙兵し大軍に膨れ上がった新田義貞が鎌倉街道上ノ道をを南下し小手指ヶ原及び久米川で勝利、さらに鎌倉を目指す新田軍の進撃を阻止すべく北条泰家(ほうじょう・やすいえ、不詳~1335)を総大将とする鎌倉幕府軍と多摩川北岸の分倍河原(ぶばいがわら)にて両軍激突、新田軍の勢いに押され総崩れとなった幕府軍は最後の防御線で死守すべき多摩川から後退して幕府の監視所として設置の霞ノ関関所一帯にて最後の防衛を試みた地です。<br /><br />建てられた「関戸古戦場跡」の標柱の側面には下記の通り紹介されています。<br /><br />『 関戸古戦場跡<br /><br />最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘3(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に首都鎌倉を制圧した。<br /><br /> 多摩市教育委員会 』<br /><br /><br /><br />また旧鎌倉街道に臨む熊野神社参道脇に設置の「霞ノ関南木戸柵跡」説明板には下記の通り東京都教育委員会による説明が記されています。<br /><br /><br />「東京都指定史跡<br /> 霞ノ関木戸南柵跡<br /><br /> 所在地 東京都多摩市関戸1190 熊野神社<br /> 指 定 昭和36年1月30日<br /><br />鎌倉時代の建暦3(1213)年に鎌倉街道に設けられた木柵の関で、街道沿いに設置された監視所の跡と考えられる。なお、中世の関所跡としてすでに地名にも関戸と称され歴史上貴重な史跡である。<br /><br />柵跡地は熊野神社境内参道沿いに平行し、地表30~45センチの間隔に丸柱(直径25センチ)の痕跡16があり、道路の東側にも6、7ヶ所丸柱の跡が認められる。<br /> 平成5年3月31日 建設<br /> 東京都教育委員会 」<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/31/28/650x_11312849.jpg?updated_at=1675645888)
2012/10/02 - 2012/10/02
405位(同エリア672件中)
滝山氏照さん
関戸古戦場跡(せきどこせんじょうあと、東京都多摩市関戸)は元弘3年(1333)5月16日、上野国挙兵し大軍に膨れ上がった新田義貞が鎌倉街道上ノ道をを南下し小手指ヶ原及び久米川で勝利、さらに鎌倉を目指す新田軍の進撃を阻止すべく北条泰家(ほうじょう・やすいえ、不詳~1335)を総大将とする鎌倉幕府軍と多摩川北岸の分倍河原(ぶばいがわら)にて両軍激突、新田軍の勢いに押され総崩れとなった幕府軍は最後の防御線で死守すべき多摩川から後退して幕府の監視所として設置の霞ノ関関所一帯にて最後の防衛を試みた地です。
建てられた「関戸古戦場跡」の標柱の側面には下記の通り紹介されています。
『 関戸古戦場跡
最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘3(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に首都鎌倉を制圧した。
多摩市教育委員会 』
また旧鎌倉街道に臨む熊野神社参道脇に設置の「霞ノ関南木戸柵跡」説明板には下記の通り東京都教育委員会による説明が記されています。
「東京都指定史跡
霞ノ関木戸南柵跡
所在地 東京都多摩市関戸1190 熊野神社
指 定 昭和36年1月30日
鎌倉時代の建暦3(1213)年に鎌倉街道に設けられた木柵の関で、街道沿いに設置された監視所の跡と考えられる。なお、中世の関所跡としてすでに地名にも関戸と称され歴史上貴重な史跡である。
柵跡地は熊野神社境内参道沿いに平行し、地表30~45センチの間隔に丸柱(直径25センチ)の痕跡16があり、道路の東側にも6、7ヶ所丸柱の跡が認められる。
平成5年3月31日 建設
東京都教育委員会 」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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関戸四丁目周辺地図
京王電鉄・聖蹟桜ヶ丘(せいせきさくらがおか)駅を出て川崎街道と鎌倉街道(多摩ニュ-タウン通)とが交差する新大栗橋(地図中央部)から斜め右の緩やかな坂道(旧鎌倉街道)を南方向に進みます。 -
旧鎌倉街道散策地図
当該コ-スの沿道には周辺の散策情報を提供する掲示板が具されています。 -
イチオシ
関戸古戦場跡
旧鎌倉街道を進むと右手には地蔵菩薩が安置された祠堂がありその傍らに「関戸古戦場跡(せきどこせんじょうあと)」の碑が建てられています。 -
関戸古戦場跡説明文
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幕府忠臣横溝八郎墓の塚
地蔵菩薩が安置されている祠堂の脇道を進むと個人の住宅地と思われる敷地に横溝八郎の墓と伝えられる武将塚が窺えます。 -
横溝八郎墓石碑
敗退する幕府軍にあって、負傷の総大将北条泰家を鎌倉に退去させるため殿軍(しんがり)となって新田軍の攻撃を食い止めようとした忠臣の一人横溝八郎(得宗家被官)の墓としてその石碑が延命寺によって建てられています。 -
武将塚
当該塚は「武将塚 横溝八郎之墓」と言われ、新田軍の攻撃により窮地に追い込まれた総大将北条泰家を逃がすため捨て身となって防戦した弓の名手でもある横溝八郎(よこみぞ・はちろう)を祀った碑を有する塚と言われています。 -
祠堂
武将塚の頂上には小規模祠堂が設置され、その両側には手向けられた花が
供えてあります。 -
延命寺
当該寺の開山時期は不明ですが僧侶の隠居寺として創設されたもので、関戸の戦いとのつながりはないものの、毎年横溝八郎の供養を行っています。 -
延命寺山門
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旧鎌倉道散歩地図
関戸古戦場跡見学を終えて旧鎌倉街道をさらに南に進むと、霞ノ関南木戸柵跡に至ります。 -
霞ノ関南木戸柵跡(かすみのせきみなみきどさくあと)
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霞ノ関南木戸柵跡説明文
案内板の側面には次のように多摩市教育委員会の説明文があります。
「この付近は、鎌倉時代の建暦3(1213)年、鎌倉街道に置かれた関所跡で、熊野神社参道に沿って関所南側の木戸に柵跡が発見された。数少ない関所跡として重要である。 多摩市教育委員会 」 -
熊野神社鳥居
霞ノ関南木戸柵跡は現在では熊野神社となっており、神社参道に平行して旧鎌倉街道を遮断するように関所の柵が復元されています。 -
霞ノ関南木戸柵跡石柱
熊野神社鳥居の前に「都史跡 霞ノ関南木戸柵跡」と刻された石柱が建てられています。 -
熊野神社鳥居
当該神社は延徳元年(1498)に創設された関戸村の鎮守だったそうですが、鎌倉時代の建暦3年(1231)には上野国から鎌倉に至る鎌倉街道上ノ道の要所のひとつであったため幕府の監視施設として関所が置かれたといいます。 -
霞ノ関南木戸柵跡説明文
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霞ノ関木戸柵列想定図
当該想定図によれば、南木戸柵のほか北方に北木戸柵があったと想定され、幕府設置の関所はかなり広い敷地を有していたと思われます。 -
霞ノ関南木戸柵(復元)
手前の熊野神社参道に平行して南側に復元された南木戸柵が設置されています。 -
熊野神社拝殿全景
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熊野神社本殿裏
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熊野神社境内風景
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熊野神社境内風景
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熊野神社境内風景
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多摩市街展望
熊野神社拝殿は参道を上り詰めた高台に在り、拝殿広場からの展望は良好で、幕府が武蔵と相模の国境を監視するための要所であったことが理解できます。 -
熊野神社境内風景
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