2017/12/05 - 2017/12/05
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belleduneさん
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川越の喜多院を訪れて、江戸城から移築された客殿(徳川家康生誕の間、春日局化粧の間のある書院、庫裏などを見てきました。内部は撮影禁止だったので、庭だけ撮ってきました。大きな枝垂桜があり、春には混みのでしょう。
平安初期の天長7年(830)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号したそうです。無量じには、北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じて、関東天台宗の本山としました。その後、永禄年間頃まで三院は存在していましたが、寛永10年(1633)に中院のあった場所に、仙波東照宮が建てられたため、中院は更に200m南方に移動しましたが、明治初期に廃院になりました。現在、その一角には数十基の石の塔婆が残っています。慶長4年(1599)に天海僧正が第27世住職として入寺して、喜多院と解消しました。
- 旅行の満足度
- 4.0
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喜多院は天台宗の寺院で、山号は星野山。慈恵大師を祀り、川越大師とも呼ばれています。境内には五百羅漢があります。
この山門は、寛永9年(1632)に天海僧正が建立。喜多院で現存する最古の建物です。 -
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庫裡から入って、移築された客殿や書院を拝見し、その後、廊下を進んで、本堂へお参りに行きます。
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寛永15年(1638)の川越の大火で、喜多院の山門と経蔵以外の伽藍を焼失しましたが、翌年徳川家光の令で、江戸城紅葉御殿の一部が移築されました。それが、これから見学する客殿、書院、庫裏です。これらの移築に際して、新河岸川の舟運が開かれました。江戸の割掘も整備されていましたが、その位の日数と人員が係ったのでしょうか。
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庫裏から入ります。
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客殿、書院、庫裏とも内部撮影禁止のため、庭園だけを撮っています。
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紅葉も終わり頃だったのですが、まだ残っていますね。
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徳川家光誕生の間、家光の乳母春日局の間をじっくり見ました。
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向こうに見えるのが、客殿です。
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この枝垂れ桜は恐らく二百年程でしょうか。春は綺麗でしょうね。
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右手が本殿です。これからお参りに行きます。
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見学が終わって、表から見た本殿です。川越藩主を経て、幕閣で老中だった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海僧正を援助しました。4代将軍・徳川家綱200石を加増して、750石隣、寺域48000坪の大きな寺となり、徳川家に厚く保護され、隆盛期を迎えています。
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もう閉まっていた仙波東照宮。
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鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造で、本瓦葺で、袴腰が付いています。下層は、角柱で、正面中央間に両開扉を付け、他の壁面は堅板張の目板打となっています。上層は、周囲に縁、高欄を設け、角柱を内法長押、木鼻付きの頭貫、台輪を付けて、組物は出三斗と平三斗となっています。正面中央間は花頭窓とし、両脇間は極彩色仕上げの雲竜の彫物を飾り、背面も中央間は花頭窓として、両脇間は、極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾っています。上層には、元禄15年(1702)の刻銘のある椎名伊予藤原重休作の銅鐘が吊るしてあります。寛永の大火で焼け残ったとも言われていますが、細部意匠などから元禄15年頃に造られたと考えるのが妥当とされています。
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大銀杏は青空に映えます。
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慈眼堂は、正保2年(1645)に徳川家光の名によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木造が安置されたのが、この慈眼堂でした。開山堂とも呼ばれ、桁行三間、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造で、本瓦葺です。宝形造は、四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のこと。隅棟が会うところに露盤があり、その上に宝珠が飾ってあります。
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この慈眼堂が建っているのは、古墳のあった小高い丘のようなところです。7世紀初め頃に、前方後円墳がありました。全長54m、高さ5,4m でした。
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大分中津の羅漢寺、栃木の五百羅漢堂と共に、日本三大羅漢の一つと言われています。天明2年(1782)から文政8年(1825)に亘って建立されました。十大弟子、十六羅漢を含んだ533尊者の他に、この写真中央高座の大佛に釈迦如来、脇侍の文殊普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせて、538体が鎮座しています。石仏は全て異なる表情、ポーズですが、深夜に羅漢の頭を撫でると一つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ているという伝承が残っています。現在、深夜に入ることはできませんが...
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私はこの石仏が気に入りました。
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お寺の山門外に、天海僧正(1536~1643) の銅像が建っています。喜多院第27世住職で、会津高田出身。徳川家康公の信頼が厚く、宗教政策の顧問的存在として、助言を行い、将軍も度々川越城や喜多院を訪れていたという。108歳で遷化した後は、朝廷から「慈眼大師」の称号を賜りました。
長寿歌:気はながく 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころひろかれ -
その隣にあるのが、白山権現です。天長7年(830)に円仁が喜多院を創建した時、天台宗修験場の白山からこの守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。県道を挟んで向かい側にある日枝神社は、同じく創建時に天台宗の本山である比叡山麓の日吉大社の神様の分霊を祀った神社だそうです。これからお参りに行きます。
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道路の向こうに見えるのが、日枝神社です。麹町の日枝神社は、何度か行きましたが、ここが本社とは知りませんでした。元は喜多院の境内にあったのですが、県道建設のために、大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院前に移転しました。
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江戸城を築いた太田道真は、子・道灌と共に川越城を築城した時、麹町の日枝神社に分祀されました。また、平河天神も三芳野天神が元でした。食糧、木材などを多量に川越城下から船による運搬と川越街道を利用して、江戸の台所と呼ばれていました。
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円仁が喜多院を創建した折、その鎮守として貞観2年(860)に坂本の日吉大社を勧請したものと言われています。
ここは、古墳のあったところですが、大正時代の県道工事で、現在は、前方部分のみが残っているのみです。6世紀の頃のもので、規模は不明です。 -
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拝殿は老朽化が進んだため、近年新拝殿が再建されました。
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本殿は屋根しか見えませんが、朱塗りの三間社流造、銅板葺となっています。
流造とは、切り妻、平入で、屋根の形状は対称ではなく、正面側の屋根を長く伸ばして、指な曲線を描いています。 -
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仙波鎮守 日枝神社 御神木は、台風で倒れたため、根部は永年保護処置し、幹は大神木跡地に移動安置されたそうです。この株は、樹齢300年と言われています。
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