1979/08/10 - 1979/08/16
44位(同エリア285件中)
ノスタルジアさん
- ノスタルジアさんTOP
- 旅行記137冊
- クチコミ1件
- Q&A回答19件
- 205,517アクセス
- フォロワー111人
この頃、柄にもなく万葉集に興味があって詠まれた地を旅していた。
万葉集は、天皇・貴族から庶民・防人までさまざまな人々が詠んだ4500首以上の歌を集めた日本最古の和歌集で、対馬は万葉集全20巻のうち、巻20の防人の歌(巻13、14にも含まれる)、巻15の遣新羅使(けんしらぎし)の歌が、深いかかわりをもっている。
遣新羅使・時代背景
天智2年(663年)の白村江の敗戦は大和朝廷に大きな衝撃を与え、その後、中央集権化、律令制の整備など、倭国が「日本」に生まれ変わる契機となった。一方、新羅は朝鮮半島を統一したものの、唐の圧力を一身に受け、日本と共同で唐に対抗する方法を探るようになり、日本と新羅の間に使節(遣新羅使)が往来するようになり、その後、朝鮮半島北部に渤海が起こり、日本に使者を送ったため、日羅関係は三転、険悪な雰囲気に陥った。
悲劇の遣新羅使について
天平八年(736年)、阿倍継麻呂が遣新羅使大使に任命されたが、新羅との関係悪化、前年の新羅使への対応(大宰府での門前払い)などを考えると、初めから達成困難が予想された任務で、卜部の雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)は壱岐で病没、継麻呂は外交使節としての礼遇を受けられず、帰路、対馬で客死し、副使の大伴三中も疫病により帰京が遅れるという有様だった。
万葉集第15巻に、対馬までの途上で詠われた和歌が多く残されているが、新羅入国後は歌が詠まれず、帰路、播磨に達し、ようやく五首が記録され、いずれも執念にも似た望郷の念が詠われており、新羅入国後・帰路でただならぬ事態が起こったことを暗示している。雪連宅満の死に際しては、「鬼病(えやみ)」と説明され、挽歌も残されているが、継麻呂の死に関しては「卒す」とのみ記録され、挽歌も残されておらず、一説では、この外交使節の派遣は完全に失敗に終わり、継麻呂は対馬で自ら命を絶ったのではないか、と推測されている。
玉敷ける 清き渚を 潮満てば 飽かず我れ行く 帰るさに見む
阿倍継麻呂 『万葉集』 巻15-3706
【現代語訳】玉を敷いたように清らかなこの渚にも潮が満ちてきた
飽くことがない渚だが 我々は出航する、 また帰った時にでも見ようか。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 船 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
昭和54年8月11日(土)フェリーつしまから壱岐の島を撮る。
博多港15時発のフェリーつしま(1,575トン)は壱岐の島経由で5時間掛かって20時に厳原に着いた。
新羅へか 家にか帰る 壱岐(ゆき)の島 行(ゆ)かむたどきも 思ひかねつも
~遣新羅使人六鯖(むさば) 『万葉集』巻15-3696 六鯖は六人部鯖麻呂の略書
【現代語訳】新羅へ行こうか家に帰ろうか ゆきの島とは言うが どうやって行けばよいのか途方にくれてしまうよ
天平八年(736年)の遣新羅使。壱岐の島に着いたところで一行の一人、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が鬼病(天然痘)に罹って亡くなった。この歌は、「壱岐(ゆき)の島」、「行(ゆ)かむ」に「雪連(ゆきのむらじ)」の死を重ねて詠んでいる。一行はそのまま新羅に向かいましたが、この当時、日羅関係が悪化しており、「欠常礼」という無礼な扱いを受け、成果を得られぬまま帰国。さらに大使の阿倍継麻呂までも帰国途中、対馬で天然痘に斃れた。一行の帰国後、京で天然痘が大流行したのは彼らが新羅から持ちこんだものだともいわれたが、往路で既に発生していたので、これはどうやら濡れ衣だったようである。 -
昭和54年8月12日(日)厳原
世話になった民宿のご夫婦。 -
昭和54年8月12日(日)厳原 万松院
「万松院」は、1615年に建てられた対馬藩主・宋家の菩提寺で伊達家や前田家と並び日本三大墓所の一つとされている墓地。灯篭と石の階段が印象的で132段もある石段は緩やかで歩きやすく、登りきった奥に歴代の対馬藩主の墓がずらりと並んでいる。
-
昭和54年8月12日(日)厳原 万松院
万松院は、第2代藩主義成が、1615年(慶長20年)に逝去した亡父義智を弔って建立した菩提寺で、この万松院と御霊所とを含めた範囲が1985年(昭和60年)に国の史跡に指定された。墓地は桃山様式を残す山門の脇から、百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる132段の自然石の大石段を登ったところにある。樹齢数百年の大杉が茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な戦国期の貞国他、下段には側室などが眠る。対馬藩は10万石の格式であったが、壮大な墓地は、数十万石の大藩並みといわれている -
昭和54年8月12日(日)上見坂展望台から浅茅湾
上見坂展望台は標高358mで展望台からは、浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がる。見通しの良い時は遠く九州本土や韓国の山々が見えるらしいが、あいにく雲に隠れて見えなかった。 -
昭和54年8月12日(日)上見坂展望台から浅茅湾
-
昭和54年8月12日(日)上見坂展望台から浅茅湾
-
昭和54年8月12日(日)厳原 漁火
民宿の親爺さんからするめイカ釣り漁に誘われた。親爺さんからは満月の夜は不漁なので出漁しないが今夜は更待月なので月の出は22時なので釣れるだろう、と聞き期待した。夏休みで遊びに来ていた親爺さんの小五の孫娘も一緒だった。
天ざかる 鄙ひなにも月は 照れれども 妹いもぞ遠くは 別れ来にける
遣新羅使人 巻15-3698
【現代語訳】こんな遠くの田舎にも、月が照る。今頃、大和の家でも、妻が、月を見て、私を思い出しているだろう。 -
昭和54年8月12日(日)厳原 イカ釣り船で
イカ釣り船の明かりはまるで祭りの夜店のように明るかった。
イカは面白いように沢山釣れてすぐさま親爺さんが刺し身にして醤油をかけて食べた。何匹目かの釣ったイカの針を外そうとしたら押さえどころが悪かったのか思いっきり墨を吹きかけられて顔、シャツが真っ黒になって大笑いされた。この墨、洗濯してもなかなか落ちなかったのである。 -
昭和54年8月12日(日)厳原 親爺さんの小五の孫娘 裕子ちゃん
なぜか裕子ちゃんはイカ墨を吹っ掛けられることは無かった。 -
昭和54年8月13日(月)豆酘崎(つつざき)
豆酘崎は豆酘は津々の意味で,対馬の南西端の半島で朝鮮海峡と対馬海峡の境界にあたり、古くから航海の難所として知られていた。 豆酘崎の先の海には岩礁が連なっており豆酘崎ミョー瀬といい、そこに1909年(明治42)9月1日に初点灯した旧豆酘埼灯台が建っています。 今は豆酘崎ミョー瀬照射灯(画像水平線下)と言い、海面からの高さは23m。 -
昭和54年8月13日(月)裕子ちゃんと 豆酘崎で
民宿の親爺さんから軽トラを貸すから孫をドライブに連れて行ってくれと頼まれて薦められた風光明媚な豆酘崎に行った。 -
昭和54年8月13日(月)豆酘崎(つつざき)
-
昭和54年8月13日(月)豆酘崎
-
昭和54年8月13日(月)裕子ちゃんと 豆酘崎で
どうみても嫌がっているように見える。 -
昭和54年8月13日(月)民宿近くの漁港で
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾(あそうわん)2代目万関橋(まんぜきばし)
万関橋(全長85m、高さ28mのアーチ型)は1900年(明治33年)に旧日本海軍が艦船を通すために開削した人工の水道に架かる橋で対馬の上島と下島を結ぶ橋で初代の橋は1900年(明治33年)に架けられ、2代目は1956年(昭和31年)に架けられた。この水道および橋は海上、陸上の交通の要所となっている。
上島と下島の間はリアス式海岸で、奈良時代には東西を行き来できる瀬戸はなかったので 小船は陸揚げして対岸(対馬海峡)に運び、大型の船は人と荷物を対岸に用意された別の船に乗り換えて浅茅湾に入って朝鮮半島へ向かった。遣新羅使もここを通ったと推定されている。
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
対馬で一番万葉集で詠われた浅茅湾で船に乗った。船と言っても小型エンジンの付いた小舟で船頭と客二人しか乗れなかった。同乗の女性は同じ民宿に泊まっていて同じ様に万葉集に関心があって大阪からやって来た、二人しか乗れないのがラッキーだった。帰る日も同じ日だったので博多行きの船も一緒だと思ったら、飛行機で帰る、との事だった。
竹敷(たかしき)の 玉藻(たまも)なびかし 漕ぎ出なむ 君がみ舟を 何時(いつ)とか待たむ 対馬娘子玉槻『万葉集』巻15-3705
【現代語訳】ああ、竹敷(浅茅湾内の漁港)の玉藻をなびか せて漕ぎ出されるあなたの御船を一体いつの日に逢えると待っていれば良いのでしょうか。 -
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
百船(ももふね)の 泊(は)つる対馬の 浅茅山(あさじやま) しぐれの雨に もみたいにけり 遣新羅使人『万葉集』巻15-3697
【現代語訳】多くの舟が泊まる津の島-対馬の浅茅山はしぐれの雨に黄葉してしまった。 -
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
-
昭和54年8月14日(火)浅茅湾
あしひきの 山下光るもみち葉の 散りのまがひは 今日にもあるかも
遣新羅使 大使阿倍継麻呂 『万葉集』巻15-3701
【現代語訳】 あしひきの(枕詞)山陰も輝くばかりの もみじ葉の 散りかう盛りは 今日なのだなあ
本来は夏に出発し、秋には無事故郷に戻るはずだった。行程が大幅に遅れ、海が荒れる冬が迫っており、故郷で見るはずだったもみじを対馬で見ている。盛りを迎えた浅茅湾の黄葉の美しさを描いているが、もみじの落葉=死の予兆を感じさせる。
写真はここまで、この後の事はほとんど記憶にないが、帰る時、民宿の親爺さんから発泡スチロールの箱いっぱいのするめイカをお土産に貰ったのは、はっきりと憶えている。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- ちょんたさん 2023/05/08 00:27:03
- 大変参考になりました
- 今週末、万葉講座を受講している方たちと、「壱岐・対馬万葉の旅」をすることになりまして、旅行記を探していたところ、ノスタルジアさんの旅行記が見つかりました。
写真を拝見すると大分お若かったころ(?)、万葉集の旅を計画されるとは!!
コロナで3年ほど旅行から遠ざかっておりましたので、また少しずつ書きたいと思っております。
- ノスタルジアさん からの返信 2023/05/14 14:14:38
- Re: 大変参考になりました
- こんにちは、ちょんたさん
返信するのが遅くなり申し訳ございませんでした。
丁度旅の最中でしょうか?
お天気が悪いのでは?
かなり古い旅行記なのでお役に立てなかったのでは、
旅行記楽しみにしております。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
対馬(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
24