2017/08/08 - 2017/08/09
5311位(同エリア11058件中)
むしころさん
山城が見たいけどいつも電車で行っていたエリアだったので、お盆のお休みを利用して車で行ってきました!!
車でないとなかなか行けないところに沢山行けて楽しかった。
まずは福島に行って、北上して宮城の白石まで行き、西に行って山形の蔵王、そこから山形の色んな場所へ行って、終了。
まずは一日目と二日目の福島、二本松付近の旅
- 旅行の満足度
- 4.0
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まだ宇都宮
道の駅 うつのみやろまんちっく村 道の駅
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宇都宮牛。食べたことないな。
道の駅人がいっぱい来ていました。
遊ぶところとかもあった。 -
お昼過ぎてもまだ栃木にいたので、
そろそろスピードアップしたほうがいいなと思い、高速に乗ってみた。
阿武隈PAにて、
これよりみちのく だって。阿武隈パーキングエリア 道の駅
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高速を降りて人取橋の古戦場跡を探す。
車で付近を捜して見つからず、車からちょっと降りて、歩いている人にも聞いたけど知らなくて、また探して・・・
結局、探していた場所より少し先にあった!!
国道4号に面していました。人取橋古戦場跡 名所・史跡
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功士壇
合戦で伊達軍のしんがりを務めて討ち死にした「鬼庭左月」さんの碑。
文政11年(1828)に彼の子孫によって建てられました。
伊達軍の400人余りの戦死者たちもここに合葬されたそうです。
合戦は天正13年(1585)11月17日に、佐竹氏(常陸国)と芦名氏(会津)と二階堂氏(須賀川など)と磐城氏、相馬氏・・・などなどの連合軍、約3万と
伊達軍の約7千余り が戦いました。
日没で双方が兵を引き、その夜に佐竹の郡市が家僕に刺殺され(!)
それまで優勢だった連合軍は兵を退却させて、結果、伊達軍有利に終わったそうです。 -
馬場ザクラってどんなかなと思って来てみた。
言い伝えだと
ここは平安末期の永保3年(1083)に源八幡太郎義家が奥州に行くときに馬の訓練をした場所で、義家が持っていた桜の鞭を土に刺して駒止めにしたものが根付いたといわれています。
推定樹齢は約1000年で、只今非常に衰えてきているため樹勢回復作業を行っているところらしい。馬場ザクラ 自然・景勝地
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17時ごろホテルに着いた。
岳温泉の空の庭リゾートに宿泊しました
今回は一泊二食つき!
デザートが食べ放題だった。岳温泉 空の庭リゾート 宿・ホテル
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おしゃれ。
量は丁度良い。
男の人は足りないかもしれないけど、カレーとご飯とデザートが自分で好きなだけ食べられるし追加メニューもあるので問題ない。
折角だからデザートをちょっとずつだけど食べたら食べすぎで苦しくなった。。 -
つまの白い海草が美味しかったのですが、初めて食べた。なにこれ?
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折角だからデザートをちょっとずつだけど食べたら食べすぎで苦しくなった。。
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お風呂。
できるだけ源泉かけながしをしていて、温度調整で加水加温。だって。
単純酸性温泉で、ちょっと硫化水素の匂いがした。あと舐めると酸っぱい。白い湯の花がちらほら見えた。よい温泉でした。 -
誰もいないぞ
貸切だ~~~!! -
あさごはん
五平餅ってのもあった。蕗味噌か葱味噌で食べる。蕗味噌は今までで一番食べやすかったかも。苦くなかった。 -
9時。ホテル前。さて出発だ~!
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まずは二本松城(霞ヶ城)から
福島県立霞ヶ城公園(国指定史跡二本松城跡) 公園・植物園
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箕輪門の手前に 大城代 内藤四郎兵衛討ち死にの碑
戊辰戦争で官軍との激しい戦いが行われたんだな。 -
こちらが一番最初に通る「箕輪門」
立派だな -
箕輪門から階段を登ると三の丸
また三の丸の東側、この辺り(多分)に昔は遠裡門というのがあって本丸への大手道へとつながっていたらしい。 -
入り口だと近世のお城って感じだったけど、三の丸から本丸に行く途中で山城みたいな様子に。
面白いお城だな。 -
三の丸から本丸へ行く途中に二本松藩士自陣の地があった。
慶応4年(1868)戊辰戦争のときは、薩摩・長州などの軍勢約7000に対し二本松側は約1000名だったらしい。
7月29日に城下さらには城内での激しい戦いとなってお昼ごろに落城。多数の死傷者をだしました。
この場所で主戦論者だった丹羽一学(家老)、服部久左衛門(城代)、丹羽新十郎(小城代)らが責任を取って自尽したそうです。 -
お城の駐車場から20分くらい経過。今真ん中辺り。
結構範囲が広い。 -
硝煙蔵跡
寛文期(1661=1672)の絵図では蔵屋敷と呼ばれていたらしい。
ただ、寛永期(1789~1801)に描かれた絵図にはもう載ってないので17世紀中ごろから18世紀末ごろまでに存在していたと考えられているそうです。 -
さらに登って本丸に登らず裏にまわると、一旦下りになる、
で一番北側に来ると空堀(・・・あんまり空堀に見えなかった)があった。 -
北側の空堀から再び本丸方面へ向かう。
途中で「とっくり井戸」というのがあった。
石の積み方が本丸直下の石段と似ているので慶長期(1596~1611)のものと考えられているそうです。 -
本丸の石垣
調査の結果石垣の内部に古い石垣がさらにあって、それは会津領主の蒲生氏郷が最初に築いた二本松城の石垣らしい。(慶長初年ごろ)
新しい石垣は後の二本松領主、加藤氏が修築拡張したもの。 -
石段のぼって
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虎口。
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南東方向。山と山の間に家がある場所。あの場所を南に進むと歴史資料館、駅などがあり、
歴史資料館の場所にはかつて大手門があったらしい。
縄張り図を見ると、お城の周りにぐるっと低い山が連なっていて守りが固そうでした。 -
こちらは東櫓台
ほかに北側に天守台、西櫓台があります。
天守台は作られたのですが天守閣はできなかったそうです。 -
天守台の横にあったのが
丹羽和左衛門 と 安部井又之丞 さんの供養碑。
慶応4年(1868)7月29日に落城した際に切腹なさったそうです。
丹羽さんは床几に座って軍扇を膝の上に広げて割腹したときに内蔵をその上においたらしい(!!!) -
天守台のところにはどの方角に何があるか分かるプレートが設置してあった。
今日は雨が降っているので山とかよく見えないです。 -
本丸から下りて、新城舘を通り搦手門跡。
搦め手門はお城の北西部分にあります。
ちなみに新城舘は二本松城が会津の支城だった、慶長6年(1601)から寛永4年(1627)の間に城代が詰めていた場所です。
会津領主が蒲生秀行と蒲生忠郷の時代です。 -
さらに下ると庭園があります。
これは洗心滝だって。 -
東屋もあって市民のくつろぎの場所といった感じだ。
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こちらは
丹羽霊祠殿 -
丹羽霊祠殿の前に広がるこの場所は
本宮館跡 -
あれは傘松(市指定天然記念物)
別称「八千代」と呼ばれるアカマツの巨木です。
樹齢は約360年で、根元周囲が3m、樹高は約4.5m、枝は東西に伸びて約14m広がっています。
かなり広がっているけど一本の木です。
(群馬の連取のマツを思い出した・・・) -
お次は、、布袋滝だって・・・
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なんとなく二段腹っぽくみえるからかな・・・??
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庭園の池
二本松初代藩主の丹羽光重から五代目の高寛の間に整備された本町谷御庭にある蓮の池です。
と、時間を見るともう11時10分くらいになっていた。いつの間に!? -
歴史資料館に来ました。
内部は撮影禁止、料金は100円。
興味深かったのは二本松藩関連の資料のあたりかな??
二本松藩は元治元年の禁門の変の後をきっかけに鉄砲を充実させるため鉄砲鍛冶に力をいれるようになったことなど知ることができました。
資料館の外には江戸の二本松藩丹羽家上屋敷跡から出土した石垣石材が置いてありました。
今は官邸と衆議院第一会館が建っている場所らしい。 -
寛永20年(1643)に丹羽光重によって、この場所がある久保町坂の頂上に久保町門というのが作られて大手門になっていましたが、その礎石だそうです。
のち、天保3年(1832)に久保町入り口の場所に坂下門がつくられ、以後はそれが大手門になったそうです。 -
次は粟の須古戦場跡だ~!
二本松城から西へ、川を越えてしばらくするとあります。
案内板があったので迷わずに来られた粟ノ須古戦場 名所・史跡
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伊達政宗の父、伊達輝宗が壮絶な最期を迎えた場所です・・・
ここから北上して白石に向かいます。
次の旅行記へつづく・・・
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