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千葉神社は千葉氏の祖である平良文(たいらの・よしふみ、生没不詳)は戦いの度に妙見尊に祈願、大勝利を収めたため千葉氏の守護神として崇められます。<br /><br />良文の孫で房総平氏の祖平常忠(たいらの・つねただ、975~1031)が御分霊を祀ったのが千葉神社の渕源とされ、その二男覚算大僧正が伽藍を整備し、長保2年(1000)には一条天皇の眼病平癒の勅願所の指定のもと、「北斗山尊光院金剛授寺」の寺号を受けるに至ります。<br /><br />鎌倉期には源頼朝も幕府開設に多大な貢献をした千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)一族が守護人として祀った当該神社に参詣して、太刀や武具と共に自筆の願文を奉納して武運を開く神社にふさわしい品格を高めます。<br /><br />更に江戸初期に徳川家康も深く崇敬の念を捧げ、祭祀の料田として永代200石を寄進併せて10万石大名と同等の格式を授け、以降代々の将軍から神領及び特権を与えています。<br /><br /><br />2022年8月28日追記<br /><br />当該神社のホームページには下記の通り紹介されています。<br /><br />『 御 由 緒<br /><br />平安時代末期、関東南部を広く統治した平良文(たいらのよしぶみ)は戦いのたびごとに妙見様に祈願してその御加護をいただき、常に大勝利を収めておりました。この良文公を祖とする千葉氏は、一族郎党の守護陣として妙見様を各地にお祀りし、代々熱烈な信仰を捧げてまいりました。<br /><br />千葉氏の三代目である平忠常(たいらのただつね)の頃、千葉の地にお祀りされていた香取神社の境内:香取山(かんどりやま)の一画に千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)をお祀りする祠が建てられました。(年代不詳)<br /><br />この祠に、眼の病気を患った第66代・一条天皇が眼病平癒の願を掛けたところ、即座に病が完治したことから、一条天皇は薄墨の御りん旨と「北斗山金剛授寺」という寺号を贈って感謝のお気持ちを示されました。<br /><br />忠常公は、賜った貴い寺号に見合うようにと伽藍一切を整備し。自らの次男・覚算(かくさん)を大僧正に就け、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、「北斗山金剛授寺」を中興開山しました。<br /><br />千葉氏はその後、関東南部における勢力範囲を徐々に拡大し、千葉氏の七代目・常重(つねしげ)の頃になると関東地方の有力な豪族へと発展します。当時、一族の本拠地であった大椎城(現:若葉区大椎)が手狭になったことを契機とし、陸運・開運の要衛であった千葉の街へと移転することとなりました。<br /><br />大治元年(1126年)、千葉の街の中にあって攻め難く守り易い亥鼻城(現:中央区亥鼻)を構え、恒久的な本拠地整備へと進みます。この移転に伴い、それまで惣領の住む城内でお祀りされていた妙見様の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺にお遷しし、以前からお祀りされていた御分霊と合祀することとなりました。<br /><br />御本霊の遷座の翌年である大治2年(1127年)、妙見様の御分霊をお神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」が始まり、それ以来一度も休むことなく現代に続いています。<br /><br />千葉氏とも縁の深い源頼朝は当社に参詣し、自筆の願文・太刀・武具などを奉納して平家打倒を願い、ついに武運を開くに至りました。また日蓮上人が宗門弘通の誓願をたてて当社に参詣した際、有難い奇瑞をいただき「この妙見尊こそ、わが宗門の守護神である」と讃嘆され、誓願成就の後に自筆の細字法華経を奉納されました。<br /><br />徳川家康も当社に深く崇敬の誠を捧げ、大久保石見守に命じて祭祀の料田として永代二百石を寄進するとともに、将軍と謁見が許される格式(十万石の大名と同等)を賜り、以後代々の徳川将軍家より神領・特権を許されました。江戸時代には「千葉の妙見寺」「尊光院」などの通称でも呼ばれるようになりました。<br /><br />幕末を経た明治2年(1869)、明治政府が発した『神仏分離令」により、当時曖昧であった神社と寺院の区分を明確に区別することになりました。僧侶・総代・氏子らの協議の末、妙見大祭の神輿渡御が神社の様式であったことから、数百年続く祭礼を継承すべく「千葉神社」と改称して神社となり、今日に至ります。<br /><br />厄除開運・八方徐の守護神である妙見様の本宮としてその御霊徳はいよいよ高く輝き、千葉の妙見様として四方八方にあまねく知られ全国の善男善女から深い尊敬を集めています。』

下総千葉 下総国千葉氏の祖である平良文の妙見尊が発展した祈願寺で鎌倉期の源頼朝寄進や徳川家康も神領・特権を与えたという『千葉神社』散歩

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2012/11/15 - 2012/11/15

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滝山氏照

滝山氏照さん

千葉神社は千葉氏の祖である平良文(たいらの・よしふみ、生没不詳)は戦いの度に妙見尊に祈願、大勝利を収めたため千葉氏の守護神として崇められます。

良文の孫で房総平氏の祖平常忠(たいらの・つねただ、975~1031)が御分霊を祀ったのが千葉神社の渕源とされ、その二男覚算大僧正が伽藍を整備し、長保2年(1000)には一条天皇の眼病平癒の勅願所の指定のもと、「北斗山尊光院金剛授寺」の寺号を受けるに至ります。

鎌倉期には源頼朝も幕府開設に多大な貢献をした千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)一族が守護人として祀った当該神社に参詣して、太刀や武具と共に自筆の願文を奉納して武運を開く神社にふさわしい品格を高めます。

更に江戸初期に徳川家康も深く崇敬の念を捧げ、祭祀の料田として永代200石を寄進併せて10万石大名と同等の格式を授け、以降代々の将軍から神領及び特権を与えています。


2022年8月28日追記

当該神社のホームページには下記の通り紹介されています。

『 御 由 緒

平安時代末期、関東南部を広く統治した平良文(たいらのよしぶみ)は戦いのたびごとに妙見様に祈願してその御加護をいただき、常に大勝利を収めておりました。この良文公を祖とする千葉氏は、一族郎党の守護陣として妙見様を各地にお祀りし、代々熱烈な信仰を捧げてまいりました。

千葉氏の三代目である平忠常(たいらのただつね)の頃、千葉の地にお祀りされていた香取神社の境内:香取山(かんどりやま)の一画に千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)をお祀りする祠が建てられました。(年代不詳)

この祠に、眼の病気を患った第66代・一条天皇が眼病平癒の願を掛けたところ、即座に病が完治したことから、一条天皇は薄墨の御りん旨と「北斗山金剛授寺」という寺号を贈って感謝のお気持ちを示されました。

忠常公は、賜った貴い寺号に見合うようにと伽藍一切を整備し。自らの次男・覚算(かくさん)を大僧正に就け、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、「北斗山金剛授寺」を中興開山しました。

千葉氏はその後、関東南部における勢力範囲を徐々に拡大し、千葉氏の七代目・常重(つねしげ)の頃になると関東地方の有力な豪族へと発展します。当時、一族の本拠地であった大椎城(現:若葉区大椎)が手狭になったことを契機とし、陸運・開運の要衛であった千葉の街へと移転することとなりました。

大治元年(1126年)、千葉の街の中にあって攻め難く守り易い亥鼻城(現:中央区亥鼻)を構え、恒久的な本拠地整備へと進みます。この移転に伴い、それまで惣領の住む城内でお祀りされていた妙見様の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺にお遷しし、以前からお祀りされていた御分霊と合祀することとなりました。

御本霊の遷座の翌年である大治2年(1127年)、妙見様の御分霊をお神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」が始まり、それ以来一度も休むことなく現代に続いています。

千葉氏とも縁の深い源頼朝は当社に参詣し、自筆の願文・太刀・武具などを奉納して平家打倒を願い、ついに武運を開くに至りました。また日蓮上人が宗門弘通の誓願をたてて当社に参詣した際、有難い奇瑞をいただき「この妙見尊こそ、わが宗門の守護神である」と讃嘆され、誓願成就の後に自筆の細字法華経を奉納されました。

徳川家康も当社に深く崇敬の誠を捧げ、大久保石見守に命じて祭祀の料田として永代二百石を寄進するとともに、将軍と謁見が許される格式(十万石の大名と同等)を賜り、以後代々の徳川将軍家より神領・特権を許されました。江戸時代には「千葉の妙見寺」「尊光院」などの通称でも呼ばれるようになりました。

幕末を経た明治2年(1869)、明治政府が発した『神仏分離令」により、当時曖昧であった神社と寺院の区分を明確に区別することになりました。僧侶・総代・氏子らの協議の末、妙見大祭の神輿渡御が神社の様式であったことから、数百年続く祭礼を継承すべく「千葉神社」と改称して神社となり、今日に至ります。

厄除開運・八方徐の守護神である妙見様の本宮としてその御霊徳はいよいよ高く輝き、千葉の妙見様として四方八方にあまねく知られ全国の善男善女から深い尊敬を集めています。』

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 千葉神社・鳥居

    千葉神社・鳥居

  • 唐獅子(右)<br /><br />左右一対の獅子児鍛錬像で昭和天皇即位を記念して昭和4年に建立されました。

    唐獅子(右)

    左右一対の獅子児鍛錬像で昭和天皇即位を記念して昭和4年に建立されました。

  • 唐獅子(左)

    唐獅子(左)

  • 千葉神社・社殿<br /><br />上下に二つの拝殿を有する重層拝殿で、平成2年(1990年:開創990年)の「平成の大造営」により竣工しています。

    千葉神社・社殿

    上下に二つの拝殿を有する重層拝殿で、平成2年(1990年:開創990年)の「平成の大造営」により竣工しています。

  • 千葉神社・尊星殿

    千葉神社・尊星殿

  • 千葉神社・境内社群

    千葉神社・境内社群

  • 千葉天神社・全景

    千葉天神社・全景

  • 千葉天神・説明板<br /><br />『千葉天神<br />寿永元年(1182)9月25日、この千葉神社の前身、北斗山金剛授寺の境内に勧請された学問の神様、菅原道真公を御祭神とする御社です。<br /><br />この天神社は、親本社・千葉神社の御祭神、妙見様の御神力をも同時にいただけるとされ、その神風・月星に由来して”ツキ(月)を呼び勝(星)を拾う”という縁起の良さから、年々参拝者・祈祷者が増加しております。<br /><br />なお、御社殿は千葉神社の旧社殿を平成2年より用い、受験合格・学業向上・合格祈願の御祈祷を専一にお取り次ぎいたしております。』<br /><br />

    千葉天神・説明板

    『千葉天神
    寿永元年(1182)9月25日、この千葉神社の前身、北斗山金剛授寺の境内に勧請された学問の神様、菅原道真公を御祭神とする御社です。

    この天神社は、親本社・千葉神社の御祭神、妙見様の御神力をも同時にいただけるとされ、その神風・月星に由来して”ツキ(月)を呼び勝(星)を拾う”という縁起の良さから、年々参拝者・祈祷者が増加しております。

    なお、御社殿は千葉神社の旧社殿を平成2年より用い、受験合格・学業向上・合格祈願の御祈祷を専一にお取り次ぎいたしております。』

  • 千葉神社・妙見延寿の井

    千葉神社・妙見延寿の井

  • 千葉神社・境内

    千葉神社・境内

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