2016/05/14 - 2016/05/15
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ポポポさん
島原半島の観光2日目です。
初日は平成新山や雲仙普賢岳火砕流にかんする観光が中心でしたが、2日目は島原の乱の舞台となった原城址を振り出しに、雲仙普賢岳の土石流で埋もれた深江町、城下町島原、キリシタン大名大村純忠の居城を訪ねてみました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 自家用車
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5月15日、旅行2日目です。
本日の観光は南島原市にある原城跡からスタートです。原城は島原の乱で一揆勢3万7千人が籠城した城で、最大の激戦地にして一揆勢の終焉の地となった場所です。
原城は肥前の領主有馬氏が主城である日野江城の支城として築城した城ですが、徳川政権による一国一城令によって廃城になりました。
城の東と南は海に囲まれさらに断崖の上に築かれていたため攻めるに難く、守るには防御しやすい堅城だったと言われています。
この廃城に立てこもった女子供を合わせた3万7千人の一揆勢は、幕府軍12万5千人を向こうに回して3度の総攻撃を跳ね返し、第三回総攻撃では幕府軍総大将板倉重昌を討ち取り、4か月も守り抜きました。
本丸の外に二の丸、三の丸、天草丸を有した本格的な城郭でしたが、乱の後幕府軍によって徹底的に破却されたため、わずかに本丸跡の石垣が残るのみとなってしまいました。
二の丸、三の丸は現在畑地になっており、その跡地は案内表示板が指し示しているだけでした。
国道251号線を南下し、案内表示に沿って左折し、道なりに進むと原城の空堀がありその先が駐車場(無料)です。
本丸の石垣沿いの小道を進んで行くと天守台に到着します。原城跡 名所・史跡
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写真の木立が立ち並んでいる場所が天守台で平地になっています。この辺りの本丸の石垣ははっきり残っていますが、大部分は破却されて元の姿がはっきり分からないのだそうです。
元々はキリシタン大名有馬晴信の領地であった島原に大和から松倉重政が入封してきたことが乱の発端です。
通説では禄高4万3千石でありながら、10万石以上にも匹敵するような分不相応な規模の島原城を築城したことから領民に過酷な搾取を行ったこと。さらに検地をおこなって実際の石高の倍の石高を見積もり、農民から限界を超える徴税を行ったこと。キリシタン禁止令による取り締まりの手ぬるさを将軍徳川家光に指摘されて以降苛烈なキリシタン弾圧をおこなったこと。雲仙地獄で熱湯を使った拷問や処刑は特に有名です。年貢を納められない農民に対しても残忍な拷問や処刑を行っていました。
父松倉重政の後領主となった板倉勝家は父をも凌ぐ過酷な徴税を行い、年貢を納められない農民やキリシタンの婦女子に藁蓑を着させて火をつけ、逃げ惑いもがき苦しみながら焼け死ぬ姿を「蓑踊り」と称して楽しんでいた鬼畜な領主でした。原城跡 名所・史跡
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一方天草も島原と同じくキリシタン大名の小西行長の旧領で多くのキリシタンが在住していました。
この地は寺沢広高が収める唐津藩の飛び地領地となり、寺沢広高、堅高父子により島原同様圧制と厳しいキリシタン弾圧が行われていました。
ついに圧政に苦しむ農民やキリシタンは暴発し一揆が発生。一揆勢は天草四郎時貞を一揆の総大将として島原・天草と相呼応して蜂起。島原城、天草の富岡城を包囲し攻撃したが落城させることができなかったため合流して廃城であった原城址に籠城しました。
4か月籠城し幕府軍を苦しめたが兵糧攻めに合い、食料・弾薬が枯渇してついに支えきれず総攻撃を受けて落城しました。
以上が島原の乱の通説ですが、これでは説明しきれない部分があります。
①一揆軍の主導者は百姓やキリシタンでは無く小西行長の遺臣や有馬氏の旧臣でした。特に小西行長の遺臣は戦国時代や朝鮮の役などを戦い抜いてきた戦のプロたちでしたが、その彼らが何故援軍の期待が持てないのに籠城したのでしょうか?
籠城は援軍が期待できる時に取る戦法だと言うのが兵法の常識だからです。
②一揆勢は大量の鉄砲と弾薬を保有していました。さらに銃手は射撃に習熟していたと考えられています。
でなければ幕府の戦争のプロ集団の総攻撃を三回も受けて大打撃を与えることはできなかったでしょう。また4か月も籠城できなかったと思われます。では何故彼らは鉄砲の扱いや射撃に習熟していたのでしょうか?
大量の鉄砲と弾薬は藩の蔵から奪ったと記述されていますが、島原城も富岡城も落城していないので藩の武器庫から奪うことは不可能です。
また足軽鉄砲隊並みに射撃ができた百姓はどこで養成され訓練されていたのでしょうか?これができないと押し寄せる幕府軍を撃退することはできなかったはずです。このような大きな疑問が今も解明されていないのが島原の乱です。原城跡 名所・史跡
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農民とキリシタンの一揆だと決めつけるにはいまだに謎が残るのが島原の乱です。
そのため通説とは異なる説が一部には唱えられています。
①カトリックのスペイン・ポルトガルの援軍を期待して籠城したという説があります。
現にスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会チュあてにあてた書簡の中には日本で布教を成功させるためには日本を武力制服すべきで、そのための方策が詳細に述べられています。(高瀬弘一朗著「キリシタン時代の研究」岩波書店)
クルスは書簡で、まず九州の有力なキリシタン大名を支援し貿易のメリットを与えることで日本を分断させる。そうすれば九州は容易に奪えるであろう。
九州の天草の志岐湾を小西行長から借り受けて良港を手に入れポルトガル(スペインよりポルトガルの方が穏健と考えられていたため)の軍港とし、そこを軍事と貿易の拠点として布教を進め、領土を拡大しようとしていた。
クルスは日本に拠点を作った後に日本の武力を使って中国を征服する案を掲げている。
そのためには膨大な火器、火薬、弾薬が必要であるがこれはポルトガルに調達させようと提案している。
一揆勢はポルトガルとスペインの援軍を期待して籠城を選択したのではないかという推測がここで成り立ちます。
現に国内に在住しているキリシタンには一斉蜂起するよう原城のキリシタンから檄文が出されています。原城跡 名所・史跡
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②大量の鉄砲、弾薬はどのようにして調達されたのか。
時代は遡るが1580年キリシタン大名大村純忠はキリシタンを優遇するために領内の長崎の土地(現長崎港周辺)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会に寄進している。
その後イエズス会東インド管区巡察使ヴァリニャーノは同年6月日本準管区長コエリョにあてて長崎を軍事拠点にするよう命令している。(高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」)
この命令はキリスト教徒とパードレ達を守るためにポルトガル船が来航する長崎を堅固な要塞にし、武器、大砲、弾薬、その他必要な物資を供給する。また茂木の要塞もキリスト教徒の主勢力が置かれている大村への通路なので要塞を一層強化することであった。
これらの長崎のイエズス会の要塞は1588年に豊臣秀吉が長崎を直轄領にした時に破壊されたはずだが、1590年オルガンティーノの書簡によると「火縄銃、弾薬その他の武器で有馬(島原藩領内)の要塞の防御工事を行った。有馬にはいくつかの砲門があった。」と書かれており、さらにフランシスコ会の修道士サン・マルティン・デ・ラ・アセンシオンの報告では、長崎は再び軍事要塞化されていたとある。
高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」の中ではアセンシオンの報告が記載されているが、それは「イエズス会のパードレ達は長崎を二重の柵で囲み、彼らの住居の近くに砦を築いた。彼らはその砦に幾門かの大砲を備え付け、長崎港の入り口を守っていた。・・・・イエズス会のパードレ達は、長崎近辺にある村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」と書かれていた。
これらの記述からイエズス会はきたるべき日本侵略のための戦いに備えて多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣のキリスト教信徒たちに火縄銃の訓練をさせていたと推測できる。
さらに有馬の要塞と記載された場所がキリシタン大名有馬氏の居城日野江城であったかどうかは定かではないが、いずれにしても有馬氏の領内である島原のどこかに大量の火縄銃と火薬弾薬がパードレやキリスト教徒の手によって密かに隠されていて、それを島原の乱の時に一揆勢が使用したと推測するなら、一揆勢が大量の鉄砲と弾薬を所持していた謎が氷解する。一揆勢の中には有馬氏の旧臣も加担していたため現実味を帯びた推測と言えるであろう。
一方鉄砲の扱いになぜ習熟していたかだが、これもイエズス会のパードレの下訓練を受けたキリシタンが一揆勢に加勢していれば辻褄が合う。
通説よりもイエズス会の修道士たちの書簡に基ずく諸説の方が正しい解釈であろうと思われます。
旅行記のため島原の乱の考察はこの程度にとどめますが、いまだにこの一揆はっきりしない部分が多いのです。
写真は本丸で、記念碑には一揆に至った理由と、戦いの様子、落城に至る経過と顛末が書かれていました。原城跡 名所・史跡
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本丸に建てられた天草四郎時貞の像。この像の左下に天草四郎の墓がありました。
本丸には亡くなった一揆勢の人々や殉教したキリシタンたちの亡骸が多数埋められていたそうです。
発掘調査では人骨と一緒に十字架やロザリオやメダイなどキリシタンが所持していたものが発掘されています。
これらの物は現在有馬キリシタン遺物遺産記念館に保管され公開されていますが、私達は島原市を観光する予定にしていたのでこの記念館には寄りませんでした。
観光される場合は先にこの記念館に寄って基礎知識を入れてから原城を訪れるといいと思います。原城跡 名所・史跡
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大手門へと続く本丸の石垣ですが、この付近は破却されていました。
原城は廃城となった後、島原城を建築する際の建築資材として石垣や屋根瓦などが持ち去られましたが、発掘調査の結果虎口と言う防御施設としては最大級の物が備えられていたことが分かり、廃城とはいえ城門、櫓、石垣などの防御施設はそのまま残っていたことが判明したそうです。
幕府軍は再びこの城が一揆に使用されないように城門や櫓や塀、建物などは全て取り壊し、徹底的に破却しました。大手門の跡では大量に破壊された屋根瓦や城門の下に大量の人骨が埋められていたそうです。原城跡 名所・史跡
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石垣内隅部の表示・・・石垣の上部を取り壊し、石垣やその石垣の裏込めに使用した石が大量の瓦と伴にここに埋められたいたそうです。
石垣は現在の2倍以上の高さで、大量の瓦を使用した防御設備がここにあったことが推測できます。
石垣沿いに塀があったのか、はたまた大きな櫓があったのかもしれません。
この側を進んで行くと駐車場に戻りました。
ではここからは深江町に寄ってそれから島原市に向かいたいと思います。原城跡 名所・史跡
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道の駅「みずなし本陣ふかえ」の隣にある土石流被災家屋保存公園にやってきました。
手前が土石流の被害にあった家屋で、奥の幟が立っている所が道の駅です。
ここにある建物は実際に土石流の被害に遭った建物が、被害に遭ったそのままの状態で保存されている場所です。
平屋建ての建物は、無残にも屋根を残すのみで屋根から下は全て土砂に埋もれていました。
如何に土石流として流れてきた土砂が多かったか想像できます。
この風景は周囲の風景と比べて異様でした。
土石流の凄まじさに言葉もありません。
息子は被害の凄さを目の当たりして、衝撃を受けていたようでした。日頃は多弁な息子がこの時ばかりは押し黙って、いつになく真剣な眼差しでじっと被災家屋を見つめていたんです。土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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保存公園には野ざらしにされている建物のほかに、ドームの中には3棟の被災家屋が保存されていました。
野ざらしの建物とドームの中で保存されている建物の差は何なのか分かりませんが、この建物はそのうちの1棟です。
2階建ての建物ですが屋根から下の一階部分は土砂に埋もれています。土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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同じ建物を別方向から写したものですが、一階部分はどの方向も土砂が流入し埋もれていました。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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この建物は2階建ての立派な日本家屋でした。
元々道の駅みずなし本陣ふかえの建築場所にあった被災家屋ですが、工事に伴い災害あった状態をここに忠実に復元移築したものです。
この建物は本格的な木造注文住宅で大変立派な家屋でした。素人目にも相当高額な建築費がかかったであろうことは容易に想像できました。
自然災害で手放さざるを得なかった所有者の方の心情はいかばかりであったでしょうか。土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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別方向から写した建物です。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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3棟目の建物は平屋建てでしたが、屋根のみ残して土砂に埋もれていました。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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ドームの側の被災家屋。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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野ざらしの建物。この建物は2階建ての大きな本格的木造建築でした。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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1階が丸々埋まった建物の先にビニールハウスがある風景はアンバランスで、不思議な感覚に陥りました。
土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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こちらの切り妻の建物も1階が土石流で埋まっています。
この後「がまだすドーム(雲仙岳災害記念館)」を見学して雲仙に向かったのですが、「がまだすドーム」の写真がありません。
確かに写真を写した記憶があるのですが、カメラには写っていませんでした。
何かミステリアス。不思議だな、なんで写っていないんだろうか?
で、仕方がないので「がまだすドーム」を簡単に説明しておきます。
入場料は1000円で規模の割には高い料金でしたが、火山活動や火砕流を学習するにはいい施設でした。
雲仙普賢岳の体験シアターや火砕流の速度の体験は面白かったです。一番印象に残ったのが、火砕流災害現場の再現でした。
火砕流で炎上した車両や、定点で被災したカメラなどで災害現場が再現されていましたが、荒涼たる光景には言葉もありませんでした。
ここには大火砕流で被災して何年も後に発見されたテレビカメラが展示されています。そのカメラにはビデオテープが収められていて、火砕流で被災する直前までの映像と音声が記録されていました。
映像は衝撃的です。機会があればご覧になって下さい。土石流被災家屋保存公園 公園・植物園
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がまだすドームを後にして島原市を訪れました。
島原市は大和から入封した松倉重政がここに身分不相応の白亜の城を築いた城下町ですが、農民に対する過酷な徴税とキリシタンに対する弾圧により勃発した島原の乱の責任を取らされて2代藩主松倉勝家は斬首、お家は断絶になりました。
その後は譜代大名が代々支配する藩となりました。
島原城本丸の全景です。天守、櫓、長塀は復元されたものですが、その姿は華麗で美しいです。島原城 名所・史跡
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雲仙岳と島原城。
島原城 名所・史跡
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島原城本丸には3つの櫓がありその内2つは彫刻家北村西望氏の西望記念館と民具資料館になっています。
正面に見える櫓が西望記念館です。ここには彫刻家として有名な北村西望氏の作品が多数展示してありました。
長崎平和記念像を制作された彫刻家として有名で、代表作には加藤清正像など武者や騎馬像、動物などがあります。文化勲章を受章された島原出身の芸術家です。
城の入場券で入れますので、天守閣の中の資料館とともに見学されるようお勧めします。北村西望記念館 美術館・博物館
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島原城と内堀。
島原城 名所・史跡
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天守閣と西望記念館。
島原城 名所・史跡
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イチオシ
本丸の全景。
島原城 名所・史跡
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本丸入り口
島原城 名所・史跡
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天守閣です。天守閣の前は無料駐車場になっています。また二の丸にある島原文化会館の駐車場も無料で利用できます。
こちらの駐車場は武家屋敷跡に近いので、そちらを観光される方はこちらが便利かもしれませんね。
天守閣にある各資料館と、本丸にある櫓の西望記念館・民具資料館、観光復興記念館をセットで見ることができお得です。
是非見ていただきたいのが天守閣の1階にあるキリシタン資料館です。踏絵やマリア観音像など隠れキリシタン関係の資料や島原の乱の資料が展示されていました。
日本のキリシタンはキリシタン大名の有馬晴信に保護された島原半島や、同じくキリシタン大名である小西行長の領地であった肥後天草地方に多数在住していました。これらの地方のキリスト教信者は、江戸幕府による禁教令から激しい弾圧が行われても信仰を捨てずに隠れキリシタンとして信仰を守り通しました。
そのため隠れキリシタンの資料はこれらの地方に多く残っており、特に島原城に展示してある資料は貴重な物が多いのだそうです。島原城 名所・史跡
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武家屋敷跡の入り口にある時鐘楼です。
時を告げる鐘があった所です。 -
武家屋敷跡です。ここは鉄砲町と呼ばれ,鉄砲組の徒歩部隊の下級武士の住まいがあった場所です。
現在は3軒の武家屋敷が現存しており、それぞれ公開されています。
島原の武家屋敷の特徴は道の真ん中に水路が流れているのが特徴です。この水路は湧水を引き込んだもので、生活用水として利用されていました。
左の長屋門は武家屋敷の山本邸です。武家屋敷 名所・史跡
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こちらは篠塚邸。山本邸と違って簡素の門構えでした。
下級武士の屋敷のため、屋根は草ぶきです。山本邸 篠塚邸 鳥田邸(武家屋敷) 名所・史跡
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建物は曲がり屋になっています。他の武家屋敷も同じ構造だったので、この地方では曲がり屋が一般的な様式だったのかもしれません。
建物の内部は自由に見学できます。座敷には人形が置かれていて、当時の生活風景を演出していました。
入り口から見ると小さな家の様に見えますが、下級武士の家にしては台所も広く部屋数も多い奥行きのある建物だったのでちょっと驚きました。
あちこち城下町の武家屋敷を見てきましたが、下級武士の家ではこの島原藩の者が一番大きいのではないかと思います。
屋根瓦が使用されていないだけで、他藩であれば中・上級武士階級の屋敷の間取りにも匹敵する建物でした。山本邸 篠塚邸 鳥田邸(武家屋敷) 名所・史跡
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こちらは山本邸。長屋門がありますが主屋は草葺です。
こちらの家屋も部屋数が多く、見た目以上に大きな武家屋敷でした。山本邸 篠塚邸 鳥田邸(武家屋敷) 名所・史跡
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島原の武家屋敷跡。
武家屋敷 名所・史跡
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イチオシ
湧水が流れる水路が特徴です。多分このような武家屋敷は他には無いと思われます。
この景色に遭いたくて島原を訪れたんです。武家屋敷 名所・史跡
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イチオシ
武家屋敷跡の風景。
武家屋敷 名所・史跡
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島原は湧水の町、島原湧水群と呼ばれ市内には60か所以上の湧水があり日本名水100選にも選ばれています。
町中のいたるところに湧水が湧き出ていて、無料で飲むことができます。商店街の両脇には水路があり、その水路にはこんこんと湧き出た湧水が流れていました。
湧水の水飲み場では温泉が飲める所もあります。湧水は冷たくてミネラルがたっぷりの美味しい水でした。
温泉も飲んでみましたが、さほど刺激が無いため抵抗なく飲めました。
市内各所にある湧水の水飲み場では誰でも無料で水を汲んで持ち帰ることができます。
名水100選に選ばれた湧水場では多くが有料で水を汲んで持ち帰りますが、ここは有り難いことに無料で水を汲むことができました。
私たちは準備不足でポリ容器を持参していなかったため水は持ち帰れませんでした。次の機会には是非持ち帰って美味しいコーヒーでも入れようかと3人で話しましたが未だに再訪できていない状況です。
さて、ここは島原湧水群の一つ、「鯉の泳ぐまち」です。
市内の新町一帯は湧き水が豊富で、道路脇の水路に流れる湧水に鯉が放流されていて別名「鯉の泳ぐまち」と呼ばれています。
ここはその水路の一つです。 -
流れる湧水は澄み切っていて、泳ぐ鯉の姿がはっきりと見えました。
でも、鯉にしてみれば水が綺麗すぎて実際は住みにくいかも。 -
「鯉の泳ぐまち」石碑。
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「鯉の泳ぐまち」石碑周辺では多くの鯉が泳いでいます。
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鯉の泳ぐまち。
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鯉にエサを与えている少女。
鯉の泳ぐまちには水屋敷と呼ばれる湧水を利用した庭園があります。そのうち四明荘と呼ばれる湧水庭園がすぐ近くにあるので、尋ねてみることにしました。 -
湧水庭園四明荘です。
池には一日3000トンもの湧水が湧き出ており、湧水を利用した庭園として市民に親しまれてきたそうです。
建物は四方の眺望に優れており、そのため四明荘と名付けられました。
写真では分かり難いかもしれませんが、大変美しい池です。 -
池には鯉が泳いでいました。この池も湧水が湧き出ているため大変澄みきっており、ここは池の周囲の木々や緑と調和した癒しの空間です。
訪れた時は観光客が少なくて、静かな時を過ごすことができました。 -
湧水が湧き出る池に泳ぐ鯉。
まだ市内には観光する所がありますが、早めに帰ろうということになり帰途につきました。
帰りは国道では無く、広域農道(雲仙グリーンロード)を通って帰ることにしました。
農道なので信号機がありません。そのため国道や県道を走るよりも早く諫早インターに着くことができます。
また広域農道は国道並みに道路の状態がいいので安心して走行できました。
当初はこのまま帰る予定でしたが、大村市にキリシタン大名大村純忠の居城があるのでついでに寄ってみようという事になり、急遽予定を変更して途中下車しました。 -
大村市大村公園です。大村公園は城址公園で、大村氏の居城、玖島城や池などを含めて大村公園と呼んでいます。
この公園には国の天然記念物「オオムラザクラ」を含む2000本の桜があり、開花時期は大勢の観光客で賑わうのだそうです。
「オオムラザクラ」とは通常の桜の花弁が5枚なのに10枚あり、花弁は60枚から多いものでは200枚にも及び、極めて美しく名桜の逸品と呼ばれている桜なんだそうです。
訪れた時は桜の時期が過ぎていて見れませんでした(泣)。また公園内には3万本の菖蒲があるんですが、開花時期が5月下旬から6月上旬のため、こちらも花の時期には早すぎました。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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ここは桜田の堀と呼ばれる大きな池と日本庭園です。城の堀を利用した池かと思っていましたが、これは人工池なんだそうです。
この池の周りや城跡には沢山の桜がありましたよ。桜田の堀の架かる橋を渡って進むと玖島城が見えてきました。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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玖島城です。こらは大手門跡の右手にある埋門。この石垣の上には多門櫓がありました。
多門櫓はL字型に建てられていたそうですが、この方向からだと分かり難いと思います。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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埋門の入り口。結構狭い通路です。埋め門の上部は大きな石で覆われていました。
この上に多門櫓が建っていたんです。 -
埋門を潜り長堀沿いに進むと見えて来たのが平成4年に再建された板敷櫓です。
長堀には多数の菖蒲が植えてありました。その数なんと3万本だそうです。
菖蒲の開花時期は5月下旬から6月上旬のため、花の時期にはまだ早かったのですが、菖蒲の緑で溢れた長堀と板敷櫓は美しかったです。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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城内にある案内板。
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板敷櫓を見上げてみました。
大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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流麗な板敷櫓の石垣。
大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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本丸虎口門の桝形です。
攻め手は大手門からここに至るまで4回虎口を回ることになり、城方はその都度狭間から弓鉄砲で仕留めることができます。
大村藩は2万7千石という小藩です。玖島城は小さな城ながらも鉄壁の防御が施されていた城といえるでしょう。
この城は海城のため外堀は海です。なんとその海に堀が掘られていたそうです。
海の潮が引き遠浅になっても海の中に外堀がある構造だったそうで、この防御たるや恐るべしです。
実はこの城は築城後大手を変更する大改修がされましたが、その時築城の名手加藤清正の指導を受けたそうです。虎口などの指導もあったのかもしれませんね。
現在本丸には歴代藩主を祀った大村神社が建っています。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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玖島城跡の石碑。
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大手門の横、埋門の石垣です。このL字型の石垣の上に多門櫓が建っていました。
大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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長堀に植えられた菖蒲が美しい。
まだ夕方には早い時間でしたが、帰りの時間がかなりかかるので初夏の新緑で美しい大村公園を後にして帰途につきました。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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