2015/02/22 - 2015/02/22
384位(同エリア2118件中)
junemayさん
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- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 176,711アクセス
- フォロワー40人
うんだもこら いけなもんや
あたいどんが 茶碗なんだ
日に日に三度も洗(あ)るもんせば きれいなもんごわんさ
茶碗についた虫(む)じゃろかい
目籠(めご)など蹴あるく 虫(む)じゃろかい
ほんにげんねこっじゃ ワッハッハ
以前勤めていた会社には多くの鹿児島人がいて、これは、今でも付き合いのあるそのうちの一人から習った「茶碗蒸しの歌」の歌詞です。客人が食堂に入り、茶碗蒸しを注文したところ、店の主人が茶碗蒸しを知らず、「茶碗に虫がついていましたか? 茶碗は日に三度も洗っていて綺麗なはずなのに、籠につく虫が入ったのかな。まことに恥ずかしい限りで。」と謝ったという歌詞だったと記憶しています。耳で聞く限りにおいては、全く意味が分からないのですが、単純な節回しなので、あっという間に覚えて、わらべ歌のように始終口ずさんでいました。変われば変わるね日本語! というのが正直な気持ちでした。
今回旅の目的地を鹿児島にしたのは、日本の端っこに展開された独自の文化を肌で感じたかったから と言うと大げさですが、単純に、鹿児島にしかないものを沢山見つけたいと考えたからでした。さあ、「茶碗蒸しの歌」をいくつ見つけられたでしょうか??
2/19鹿児島 桜島
2/20西大山 指宿
2/21鹿児島
★2/22鹿児島
2/23鹿児島 知覧
2/24串木野 鹿児島
かごんま4日目です。今日もどんより曇り空でさえない天気ですが、そうそう、雨天でも問題ない維新ふるさと館には絶好の入館日和でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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おはようございます。今日も加治屋町(旧下加治屋町)からスタートです。下加治屋町を誕生の地とする者は西郷隆盛、大久保利通以外にも大勢います。
今日最初は明治時代の元帥海軍大将だった井上良馨(よしか)の誕生の地を発見。名前が似ている井上馨と一瞬間違えましたが、彼は長州人でした。井上は西南戦争に官軍側として参戦しています。 -
続いては村田新八生誕の地。この人は西郷ドンに最後まで連れ添った軍人。隆盛より9歳年下の村田は1877年(明治10年)、城山で西郷ドンの自決を見届けたのちに進撃し、戦死を遂げています。
村田の石柱の傍には、水神を祀った小さな祠がありました。ここは水神への信仰が厚い土地柄のようです。鹿児島で水神様を見かけるのはこれで何度目でしょう?
説明板によると、加治屋町出身者で、明治時代に活躍した人物は優に10人を越えます。主な人物だけでも東郷平八郎、大山巌、黒田清隆、西郷従道(西郷ドンの弟)、山本権兵衛等々、誰でも知っている名前がずらりと並んでいました。 -
昨日、一昨日と前を素通りしていた維新ふるさと館に入場しました。館内は1階と地下1階に分かれ、それぞれ英雄の道、維新の道というテーマの下に構成されていました。
こちらの船の模型は、1854年(安政元年)に完成した日本初の洋式軍艦「昇平丸」。実際には浦賀奉行(幕府)によって製造された鳳凰丸に次いで2番目のようですが、ここでは「初」と書かれていました。
興味深いのは、初めて日の丸を掲げた船であったということ。外国船と区別するための日本の船舶旗が必要となり、島津斉彬などの進言により、日の丸が採用されることになったというのを初めて知りました。 -
ここに立てば、鹿児島の英雄達との記念写真が出来上がりますよ!
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赤い写真になってしまいました。斉彬の養女篤姫のコーナーです。大奥の煌びやかな世界が再現されていました。
写真を撮ったのはこれだけですが、学生時代以来とんとご無沙汰の日本史の1ページを改めて勉強させていただいた気分でした。地下1階の維新体感ホールで上演される西郷ドン、大久保利通らの人型ロボットを使った劇は、分かりやすくて、というか、分かったような気にさせられてお勧めです。 -
気が付いたら維新ふるさと館で2時間を過ごしていました。これだから、なかなかスケジュールが進まないんですねえ。
もうお昼過ぎ! お腹がすいてきたので、鹿児島中央駅近くの割烹に入りました。 -
注文したのは鶏飯つきの黒さつま鶏御膳。このお膳プラス手羽焼きが一皿+コーヒーがついていました。ヴォリューム満点でしたが、味はまあまあかな?
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食後、気がついたら鹿児島中央駅前にいました。こちらは駅前モニュメント「若き薩摩の群像」です。
1863年(文久3年)、薩摩は英国との戦争で、国力の違いを思い知ることになります。そして1865年(慶応元年)に鎖国令を破り、密かに15名の留学生と4名の使節を英国に派遣するのです。惨敗した敵国に派遣するというところが薩摩の凄いところですね。群像はその時の留学生たちの姿をモチーフとしています。
上は34歳から下は13歳までの15名の留学生らが帰国後、明治政府の重鎮になったのは言うまでもありません。少々変わっているのが、当時最年少の13歳だった磯永彦助。彼はアメリカに渡り、広大なワイナリーの経営に携わり、ぶどう王と呼ばれたとのことです。 -
折角なので、反対側からの写真もアップしましょう。群像右側にある説明板には、留学生及び使節の本名と留学に際して使用した変名、当時の年齢、その後の人生などが詳細に書かれていました。薩摩藩が維新時代、そして明治の富国強兵時代に強大な力を発揮出来た理由の一つが、この人材の育成にあったような気がしました。
この群像にまたまた時間を費やしてしまいました。だって全部で19人もいるんだもん! -
午後は鹿児島中央駅から歩いて出発です。いつも県道21号線(2番の市電が通る通り)の右側を歩くので、今日は左側を歩いて行ったら、樺山資紀邸跡を発見。甲突川にかかる高見橋の少し手前でした。警視総監を始め、台湾総督、内務大臣、文部大臣などを歴任された方。この方も下加治屋町出身者の一人です。
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前回は橋の反対側から写した大久保利通公像。ようやくそばで拝見できました。
気になるのは銅像の台座部分。大久保利通の通以降がどう見ても曲がっていませんか? 大久保が西郷ドンと比べて人気がないのは知っていましたが、もしかして嫌がらせ?と思ってしまいました。
とここまで書いてから調べてみたら、どうやら元知事直々の揮毫だったそうな・・・し、失礼しましたぁ! -
大久保公の銅像に向かって右側にあったライオンです。ここには古くからライオンズクラブのライオンがいる広場として知られていました。
1978年(昭和53年)に大久保利通像の建立計画が持ち上がった際に、それをどこに建てるかが県民の大きな関心を呼びました。大規模な「反対」運動も起こったそうです。中でも、せごどん像の傍には絶対建てさせないという意見が根強かったようです。
すったもんだの挙句、設置場所としてここが選ばれたという話を聞きました。 -
県道21号線沿いにあった史実を具象化した観光オブジェ 時評(ときしるべ)を見つけたので、いくつかご紹介。こういった誘いにはいちいち反応してしまうので時間がいくらあっても足りゃしない・・・
最初の時標1は「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(大山巌、西郷従道、山本権兵衛)。1863年の薩英戦争の始まりです。前の二人はぢゃんぼ(両棒)差ししていますね。幼い山本権兵衛は1852年生まれですから、この時11歳でした。 -
時標2は「樺山、黒田、大いに語る」(樺山資紀、黒田清隆)
1858年(安政5年)に井伊直弼が大老に就任すると、強権政治が行われ、尊王攘夷派など反対勢力を粛清。将軍の継嗣問題では紀州藩主・徳川慶福を推す井伊と、一橋慶喜を推す島津斉彬が激しく対立しました。そんな時代に熱く語る二人の若者の姿を捉えたオブジェです。 -
時標3は「黒田清輝、桜島の噴火を描く」(黒田清輝、弟子)。鹿児島生まれの洋画家黒田清輝は、1914年(大正3年)の桜島大噴火に遭遇。これは噴火中の桜島のスケッチに向かう黒田と弟子だそうですが、そんな流暢なことをやっている場合だったのかしら???
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時標は全部で7体あるようですが、私が見つけたのは全部で5体。後で調べてみると、大好きな龍馬とお龍さんのオブジェの写真がありませんでした。がっくし・・・
こちらは後刻見つけたもので、時標6「伊地知、吉井、政変について語る」(伊地知正治、吉井友実)。安政の大獄で反対派を粛清した井伊直弼が、今度は桜田門外の変で暗殺され、その後の幕府の弱体化を招きます。政変とは井伊の暗殺の事で、この事件が薩摩藩士に与えた影響は計り知れないものがあります。 -
最後はこちら 時標7「ウィリス、高木に西洋医学を説く」(ウィリアム・ウィリス、高木兼寛)。
ウィリアム・ウィリスは1869年(明治2年)に薩摩藩に招かれ、この地に西洋医学の病院を創設したイギリス人。高木兼寛は医学博士にして海軍軍人。あの海軍カレーの発案者でもあります。後に東京慈恵会医科大学を創設したことでも有名。 -
ニ宮橋辺りで県道21号線を左折。城山の観光ホテルに向かって進みます。ラーメン屋さんの看板に「うもーれ!」と書いてありました。沖縄の「めんそーれ」、奄美大島の「いもーれ」にも似ているような気がしますが、これって旨いってことかしら?
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お次の石碑は、東郷重位拝領屋敷跡(とうごうちゅういはいりょうやしきあと)。東郷重位というのは戦国時代から江戸時代にかけての武将で、島津氏の家臣。東郷示現流と言う剣術の流祖だそうです。知らないことばかり・・・
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やってきたのはザビエル教会前のザビエル公園。教会のようなステンドグラスが施された公衆電話ボックスがあったので、思わず撮ってしまいました。この中では、悪い話はできません。
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いごよく(1549年)みかけるクリスチャンと昔習ったキリスト教伝来の地です。フランシスコ・ザビエルが種子島を経由して現鹿児島市の地を踏んだのが1549年。ザビエルはそれから1年ほど鹿児島に滞在したそうです。
背後の石造りの建造物は明治時代にベルギーから日本に宣教師としてやってきたエミール・ラゲ神父が日本で初めてとなる仏和辞典を制作し、1908年(明治41年)にその売上金で建てた、フランシスコ・ザビエル聖堂の一部だそう。残念ながら、第二次大戦中に焼失しています。手前はザビエルの胸像です。 -
公園内にあったこちらの銅像の傍には、「ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの像」と書かれた青銅造りの説明板が置かれていました。
サビエルは分かるけれど、ヤジロウ、ベルナルドとは???
海賊だったヤジロウ(またはアンジロウ)は殺人を犯し、マカオに逃れ、そこでザビエルに会ったようです。その後インドのゴアにあるボン・ジェズ教会で、日本人としては初めての洗礼を受けています。ザビエル離日後の足取りはわかっていません。
ベルナルドは薩摩人で洗礼名しかわかっていませんが、ザビエルが直に洗礼を授けたそうです。布教の許可を得るため、ザビエルを京都まで案内しましたが、戦乱の世だったため天皇への面会は叶わず、ザビエルの離日時には同行して日本を離れます。その後ゴアを経てポルトガルに渡り、1555年にはローマ教皇に謁見、イエスズ会の創始者の一人イグナツィオ・ロヨラにもローマで面会しています。ポルトガルに戻った後はコインブラ大学で勉学に励みましたが、1557年に彼の地で病気により亡くなりました。
銅像は等身大で、1999年(平成11年)に溝口守一氏が制作しました。 -
道路を挟んだ場所に建っていたのが、鹿児島カテドラルザビエル記念聖堂です。鹿児島司教座がここに置かれています。
第二次大戦の空襲により焼失した最初の教会に続き、1949年(昭和24年)には木造の聖堂が再建されましたが、現在の聖堂はコンクリート製。ザビエル来日450年を記念して、多くの信者達の寄付により1999年(平成11年)に完成しています。 -
聖堂への入り口にも、ザビエルの像が立っていました。
どなたでも自由にお入りください と書かれていたので、遠慮なくお邪魔します。 -
鹿児島におけるザビエル上陸の場面です。 人々の服装に興味津々。桜島はやはり当時も噴煙を上げていました。
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こちらも桜島が背景のレリーフですね。青年たちは何を見ているのでしょう?
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これは珍しい! 神父が坊主に説教する場面? まさかっ!
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ザビエルが日本に来るときに乗ってきた交易船をイメージして作られたという2階にある大聖堂です。船をひっくり返したような感じです。収容人数750名という大きさ!
赤、青、オレンジのガラスにより、鮮やかな色彩がうごめく堂内でした。窓には丸い穴のあいたパンチングメタルが貼られていて、堂内に入る明るさを絞っていました。 -
教会とは思えないライティングなので、なんだか落ち着きませんでした。
祭壇付近は大変シンプルです。
祭壇左側にザビエルの遺骨の一部が顕示されていたことを後で知りました。彼の骨は世界中に散らばっています。右上腕部はマカオの聖ヨセフ修道院聖堂、肘から指まではローマのジェズ教会、遺骸の殆どはゴアのボン・ジェズ教会、耳と毛はリスボン、歯はポルト、胸骨の一部は東京の神田教会にあると聞いています。
仏舎利も方々にあるから、分骨するのは人類共通の行動パターンの一つなのでしょうか? -
1階にあった小聖堂。こちらもとてもシンプルな造りでした。
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庭にあったマリア像です。両手の内側を見せているのは、全てを受け入れるというポーズでしょうか?
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ザビエル教会から徒歩5分ほどの距離にあったのは、正教のハリストス教会です。1878年(明治11年)に創建されましたが、第二次大戦を含め3度火事で焼失していて、現在の建物は1957年(昭和32年)の建造。2002年(平成14年)に全面改装が行われています。
タマネギドームがあるものの、手前の塔屋の窓に戸袋が付いているのが、やはり和風を感じさせます。 -
この教会はカトリックで言う大ヤコブ(キリストの12人の弟子の一人でサンティアゴ・デ・コンポステーラで奇跡的にその遺体が見つかったとされている)を記念する聖堂で、正教では、聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれているそうです。残念ながら施錠されていて、中に入ることはできませんでした。
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時々雨がぱらっと落ちてくる今日の鹿児島。風向きが変わったようで、市内にもご覧の通り、かなりの降灰が認められました。水に溶けないから、集めて克灰袋に入れるしかないですねえ。
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鹿児島市中心部に入ってきましたよ。
B級グルメと言っては失礼かもしれませんが、さつま揚げやさんも市内をうろつく大切なターゲット要素の一つ。さつま揚げには目がない私はこれまでにも揚げたて屋、有村屋、などを回り、味の違いを楽しみましたが、ここに来て老舗の一つ「徳永屋」の本店を発見したので、迷わず入ります。
ここでも少しだけ購入して食べ比べましたが、正直どこも美味しいので評価不能! 流石に内部の写真は憚られました。 -
なので、代わりにと言っては何ですが、店先に並べられたサツマイモを紹介。ベニサツマは鹿児島の気候風土に合うように作られた品種なので、他の土地に植えても同じような甘みは出ないのだそう。
シロユタカは皮の色が薄く、でんぷん質の含有量が多い品種。水分が少ないため、ほくほくしていますが、そのまま食べると喉つまりするとか。
サツマイモ一つとっても奥が深く、極めるのは大変です。 -
やがて、かごんま2日目に城山展望台から見下した照国神社の大鳥居が見えてきました。
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大鳥居は城山上の展望台からでも大きく見えましたが、傍に寄ると迫力があります。1941年(昭和16年)に、皇紀2600年(1940年)を記念して建てられました。前述したように、第二次大戦で神社は焼失しましたが、この大鳥居だけは無事でした。鉄筋コンクリートだからまあ当然ですが・・・
笠木の下に横に伸びる部分を「貫」と言いますが、向かって右側の「柱」との交差部分近くに、機銃掃射の「弾痕」が●で表され、戦争中の記憶を留めています。この大きさの写真じゃあ、確認不能。 -
鳥居をくぐると見えてくるのがこちら。「斉鶴」と名付けられたこの刈りこまれた木は、あるお菓子メーカーさんによって1962年(昭和37年)に献木されました。鶴に見えるという話ですが、鶴って頭が丸いイメージないのですがねえ・・・イヌマキの木だそうですよ。
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照国神社は、島津家第28代当主島津斉彬を祭神として祀った神社で、彼の逝去5年後の1863年(文久3年)に、東照宮が建っていたこの地に社殿を造営したもので、現在では鹿児島の総氏神様となっているそうです。藩主を祭神とする神社は江戸時代末期にブームとなったようですが、中でも薩摩藩の力は強大だったためか、1882年(明治15年)には別格官幣社に格上げされています。
神門および拝殿はご覧のように、朱色より柔らかい、殆どピンク色に近い淡い色の柱と緑の銅葺きの屋根で統一感を持たせてあります。 -
こちらが拝殿。城山が背景となっています。周りの景色を損ねない穏やかな色調が良いですねえ・・・
斉彬は日本近代化の父と称せられていますが、藩主としての在任期間は意外と短くわずか7年半。1851年(嘉永4年)42歳の時に藩主となり、藩政改革、富国強兵の策を次々と実施。明治時代に新しい日本政府の中心となる人材を多く育てましたが、将軍後継ぎ問題を巡って大老井伊直弼と対立。抗議のために江戸へ出兵を計画していた1858年(安政5年)に病に倒れ、わずか2週間ほどで亡くなりました。あまりに急逝だったため、毒殺説も出た程でした。 -
丸十マークが至る所に見られます。
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こちらが、昨日訪れた仙巌園内にある宝蔵庫で見つかった斉彬の銀板写真。1975年(昭和50年)になってから発見されたとありましたね。
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神社右手の緑に囲まれた公園内には、斉彬の銅像が立っていました。御祭神 斉彬大明神 という説明板には書かれていました。
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早稲田大学構内にある大隈重信公像でおなじみの彫刻家朝倉文雄氏により、1917年(大正6年)に作製されたものです。
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奥に見える社殿は、鹿児島縣護国神社で、明治初期から現在に至る鹿児島出身の英霊77,000余柱が祀られています。うち70,836柱は第二次大戦によるものですが、戊辰の役631柱、西南の役243柱等もありました。
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照国神社を出て、道路を渡ると、建物マニアとしては見逃せない(旧)鹿児島県立博物館考古資料館がひっそりとその姿を現しました。
鹿児島県の登録有形文化財の第一号で、県内では重要文化財となっている尚古集成館に次いで古く、1883年(明治16年)の建造です。左右に出っ張ったバルコニーを持つシンメトリーの洋風建築で、県内産の石が多く使われています。ギボウシのついた手摺が和を感じさせますね。
安全上の問題があるのか、立ち入りが出来なかったのがとても残念。このまま放置するのはもったいないですよ。 -
階段上に掲げられた「建物の由来」によると、2002年(平成14年)に、展示資料を埋蔵文化財センター、上野原縄文の森へ移設し閉館したとありました。この建物のすぐ東側に鹿児島県立博物館があるのですが、こちらに移されたのではないようです。
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左右のバルコニーの間にはとても立派なソテツの群生がありました。「世界で初めて精子が発見されたソテツ」と書かれていましたよ。
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もう一度照国神社側に戻ると、探勝園という小さな庭園への入口がありました。元々は鶴丸城二の丸内にあり、1857年(安政4年)に斉彬がここから約600m離れた鶴丸城本丸との間でモールス信号の交信に日本で初めて成功した場所だそうです。
本当に斉彬はあらゆることに興味を持ち、自ら開発、実践してみせた人だったのですね。 -
洋装で立つのは、島津家第29代当主島津忠義公の銅像。島津久光の長男で、斉彬の後を継ぎ、わずか19歳で薩摩藩最後の藩主となりました。こちらも朝倉文雄氏の作製です。
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最後に紹介するのは、斉彬の異母弟で上記島津忠義の父、斉彬亡き後最も権力を持っていたと言われる島津久光公の銅像です。こちらも朝倉文雄氏の制作。
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斉彬、久光を巡ってはどちらを藩主とするかで藩を二分するお家騒動まで起こりましたが、二人の仲は悪くなかったそうです。どちらも好奇心に溢れ知識欲旺盛でしたが、斉彬が蘭学に傾いていたのに対し、久光は国学に秀でていたと言われています。
斉彬亡き後は「国父」として藩政の実権を握り、藩主忠義を後見しました。また、強力な公武合体論者でもありましたが、思うようにうまく進まず、倒幕の道を進むことになります。明治維新後も新政府の役職に就いたものの急進派とは意見が合わず、薩摩に戻り隠居生活に入ります。廃藩置県に反対した唯一の藩主(の父)としても知られています。
薩摩藩最後の三人衆ともいえる3体の銅像は、なかなか興味深いものでしたよ。 -
鹿児島市のマンホールはデザイン的には面白みに欠けます。こちらは島津家の家紋であり、鹿児島市の市章でもある丸十を中心に亀甲模様が並んでいるタイプでした。
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照国神社から城山と平行に伸びる道を北に進むと、左手に見えてきたのはかごしま近代文学館メルヘン館。鹿児島にゆかりのある作家や鹿児島を舞台にした文学作品を紹介している施設ですが、今回は素通り。
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右手に県立図書館を見ながら道を更に進むと、旧鶴丸城跡に建つ黎明館にぶつかります。ここは1983年(昭和58年)にオープンした鹿児島の歴史民俗や文化遺産に関する展示館および資料館です。昨日城山からの下り道でちらっと見かけた薩摩特有の民家「樋の間二つ家」を見学しようと思ったのですが、やはり工事中のため中止になっていました。
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仕方ないと外を回ると、カワヅ桜、ヒカン桜がちょうど満開でご覧のような風景が出迎えてくれました。
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そして、ここで思いがけない宝物と出会うことになります。「田の神」様(タノカンサァ)の石像の展示です。「田の神」の伝承は日本全国にあっても、偶像になっている例は珍しく、こんなユニークな石像は旧薩摩藩内(鹿児島と宮崎の一部)でしか見ることはできません。
あぜ道や水田を見下ろす丘の上などに建てられ、田んぼを見守ってきた素朴な石像に、一目でぞっこんになってしまいました。これこそとびっきりの茶碗蒸し!! -
イチオシ
こちらの石像は、鹿児島市郡山町(旧日置郡郡山郷郡山村)にあった茄子田の田の神の複製で、オリジナルは1753年(宝暦3年)の作製と書かれていました。
右手にはメシゲ(しゃもじ)、左手にはスリコギを持って、にっこりと笑う姿には癒されます。格好としては旅の僧といったところでしょうか? -
後ろ姿もこの際見てやっておくんなせえ!
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イチオシ
続いての「田の神さぁ」は姶良町平松触田(フレタ)の田の神。こちらも複製で、オリジナルは姶良市指定民俗文化財になっています。1737年(元文2年)の作で、右手にはメシゲ(しゃもじ)、左手にはお椀を持ち、大きなシキ(蒸し器の道具)を被っています。また神主の衣装を身に付けているのが特徴的です。
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後ろ姿は、シキが大きすぎてキノコみたいに見えます!
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イチオシ
お次は現在は鹿屋市となっている旧吾平町上名中福良の田の神です。この像は鍬の柄に両手を置いた姿で、袖のある着物を着流し、長い紐の帯をたらしています。頭にはやはり大きなシキ。
製作された時期は定かではありませんが、黎明館で見つけた資料には1771年頃(明和8年)と書かれていました。 -
イチオシ
背中にはワラヅト(藁で作った包み)をしょっていて、そこにメシゲが差してありました。なんてユニークなんでしょう! 最高!!
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イチオシ
お終いは、こちら。加治木町日木山上の田の神で、満面の笑みを浮かべていますよ。右手にはメシゲを持ち、左手はシキを押さえていて、これから踊りますよと言った格好ですねえ。1830年~1843年の天保年間の作と言われています。
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背中のバッテンが良いでしょう。う~ん!参りましたぁ・・・あまりに素晴らしいので、この後黎明館中にある資料館で、田の神に関する資料を見せていただきました。コピーが出来なかったので、書き写すのが大変でした。
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その時1枚だけ撮った黎明館内の写真です。時間が許せば、1日中いても退屈しそうにない施設でしたよ。いつか、鹿児島、宮崎中に散らばるタノカンサァを巡ってみたいものです。
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野外展示に戻ります。こちらは三重塔かしら?
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野外展示だけでも凄く充実しています。こちらは篤姫像。
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薩摩藩の藩校「造士館」を源流としている第七高等学校造士館は1901年(明治34年)に正式に鶴丸城跡に開校しました。そして1949年(昭和24年)の新制鹿児島大学発足により、翌年廃校となりました。
久遠の像は第七高等学校造士館開校85周年を記念し、同窓会により1985年(昭和60年)に建立されました。3人の七高生は、それぞれ知、情、意を象徴しているそうですよ。 -
黎明館から国道10号線への道を下っていくと、ようやくお城らしい雰囲気が漂ってきました。ここにはかつて大手門に当たる御楼門がありましたが、1873年(明治6年)、鶴丸城と共に焼失したそうです。
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国道10号線と城山へと通じる道の交差点付近から見る石垣だけが、かつてここに鶴丸城があったことを教えてくれます。それにしても、藩の大きさに比べて城の規模がとても小さいように感じました。天守閣などはなかったようで、城山をバックに防御を固めた屋敷を中心とした規模の城だったのかしら?
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かごしま県民交流センターは黎明館の筋向いにある施設で、中には県民ホールや研修施設などがあります。
元々ここは鹿児島県庁だった場所で、県庁の移転に伴い、1996年(平成8年)にその跡地に建てられた施設です。 -
今回目を見張ったのは、上の個性的な建物ではなくて、かごしま県民交流センターの中庭に面して美しいシルエットを見せるこちらの建物。旧県庁舎本館の玄関部分です。
1925年(大正14年)の建造で、ネオルネッサンス様式と言われています。1階部分の柱はドーリア式が2本ずつ、2階部分はイオニア式、3階部分はバロックの流れを受けているように見えますね。2008年(平成20年)には登録有形文化財の指定を受けています。
現在は「県政記念館」として鹿児島県政の歴史や県庁舎の変遷など展示館となっています。黎明館に時間を取られ、中を覗く時間が持てませんでした。この建物ファサード前にも見事なソテツが植わっていましたよ。 -
鹿児島で最も偉大な知事として、今も語り継がれている第6代知事加納久宜氏を紹介する説明文が目を惹きました。
彼の残した名文句は「鹿児島の事で相談したかったら、冥土に電話せい」だそうです。経歴が並外れた方で、元々は千葉上総の国一宮藩の藩主で、大審院検事、子爵、貴族院議員、鹿児島県知事を歴任。知事を退任した後は、地元一の宮町の町長に就任。鹿児島のみならず、ここでも地元民から親のように慕われ、今では滅多におみかけしない、「私利私欲なく、地元のために尽くす」政治家だったようです。 -
加納知事に捧げられたこんな立派な碑もありました。「加納知事頌徳碑」には、卓越せる指導力と人間的魅力に満ちた人物であったと書かれていました。今の日本にもこういう方が必要なんですがねえ・・・
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「加納知事頌徳碑」の次にえっ?というような写真ですが、ド派手でしょう。この看板。
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鹿児島中心部を時間を忘れてうろついているうちに、早くも日が陰ってきました。元よりどんより雨模様の日だったので、なおのこと暗い。でもどうしてもここだけは外せないと、急いで駆けつけたのは、仙巌園に行く途中にある石橋記念公園。後から考えると、鹿児島市内の名所と言われる観光スポットの中でも、ここがぴか一だったような気がします。時刻は16時18分。あと閉園まで30分強あります。助かったぁ・・・
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石橋記念公園は、島津斉彬の曽祖父で、彼に多大なる影響を与えた蘭学好きの藩主、天文館を創設した島津重豪の命により、甲突川にかけられた5つの橋のうち、流されずに残った3つの橋を移設、保存し、博物館を併設した公園です。
九州に残る石橋はとても見事なものが多いですが、この公園の石橋にも事前の予想通り、田の神さぁ同様一目ぼれ!!
西洋の石橋も良いけれど、直線部分が見当たらない優美なカーブがたまりません。
橋を作ったのは、肥後國 現在の熊本県八代市出身の石工岩永三五郎で、彼が属していた石工の技術者集団種山石工は、私の最も愛する橋 熊本にある「通潤橋」の生みの親でもありました。 -
イチオシ
岩永三五郎が1845年(弘化2年)から1849年(嘉永年)にかけて築いた五石橋は、それから150年近く現役の橋として使われてきましたが、1993年(平成5年)の鹿児島大水害の際に、新上橋(しんかんばし)、武之橋(たけのはし) が流出。残る三石橋にも甚大な被害が出ました。
何しろ現役の橋ということもあり、すったもんだした挙句、貴重な三石橋を永久に保存する方針が固まり、2000年(平成12年)にオープンしたこちらの公園に移設されたのだそうです。
まず最初に現れたこちらの橋は1846年(弘化3年)に架けられた西田橋(にしだばし)。4連アーチ橋で長さが50mあります。 -
公園では橋のすぐそばまで行かれるように整備されています。この西田橋脇に、石橋記念館が開館中だったので、先に館内の展示を見て回ることにしました。
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常設展示室には「石橋」を作る過程が分かりやすいジオラマになっていました。こちらは、石を割る作業現場かな。
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石の運搬の様子や・・・
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アーチ状に石を並べる作業の様子も手に取るようにわかります。
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ようやく一つのアーチが完成しました!
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橋の完成披露前に、神主さんが「かしこみまうす!」とお祓いする様子も再現されています。茣蓙に座った武士たちの履物が背後にきちんと揃えて置かれているのを見て感心してしまいました。日本人、几帳面!!
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こちらは最後の大仕事の最中。高欄笠石を高欄親柱に通す作業です。
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次なる展示は、石を取りまく作業用の工具が紹介されていました。
石の中に打ち込まれた「セリ矢」を用いて「大ゲンノウ」という道具で石を割る方法が再現されていました。ゲンノウは、ジャンボサイズの金槌というイメージ。 -
他にも石を削る道具ノミや石頭(せっとう)、石を仕上げる道具イシヨキなどの紹介がありましたが、ボケていたので写真なしです。
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石橋造りの作業には女性も多く参加していました。ほっかむりしているのはどうやら女性陣のようです。
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総勢10名で石を運ぶ仕事や、小さな瓦礫を両天秤で集める仕事。どれも体力的にはきつそうですねえ。
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所々に見張り番の侍がいましたよ。
今まで接することのなかった分野の学習が出来て、大変楽しい時間となりました。視覚的に子供達にも分かりやすい展示の工夫が随所に見られました。 -
さて、いよいよ西田橋を渡ります。橋の両端は緩やかなステップになっています。
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一つ一つノミで削って平らになった石が敷き詰められています。橋面敷石と呼ぶのだそう。
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高欄束石は4本ごとに青銅製の擬宝珠がついていました。この橋は、江戸時代に鶴丸城から江戸へと旅立つ参勤交代行列が向かう道中にあり、いわば鹿児島の表玄関に当たる場所に作られていました。
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そのため、西田橋の左岸側にはこのような門があり、中に武士、町人、藩内を通過する旅人が改めを受ける番所がありました。
こちらは、1873年(明治5年)に撮られた島津忠義公コレクションの写真から忠実に復元されたものです。門は西南戦争時に焼失したらしいです。 -
門の内部から見た西田橋です。
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石橋記念公園が出来る前、ここには神明宮という神社と、抱真院というお寺があったそうで、カワヅ桜が満開の敷地内左奥には発掘で見つかった建物の礎石の位置を知らせる杭が残っていました。
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御門側から見た西田橋です。どちらの側から見てもシルエットが美しいです。
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御門から更に進むと、今度は本物の川に差し掛かります。海に流れ出る直前の稲荷川で、今見えている鉄道橋は日豊本線です。
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石橋記念公園パート2は、連絡橋を渡った先にありました。祇園之州公園とも呼ばれています。
1877年(明治10年)に起こった西南戦争では、官軍、西郷軍合わせて実に13,240余人の戦死者を出しました。そのうち、ここ鹿児島で犠牲となった官軍兵1,270余人は、全員こちらの祇園之州に葬られました。1955年(昭和30年)にそれらは地下納骨堂に合葬され、戦後100周年の1977年(昭和52年)に建てられたのが、こちらの慰霊碑です。石碑の下には「悲」、「苦」、「悶」を表わす3体のブロンズ像、石碑の上には苦しみを逃れ、安らぎを得られる「和」像が立っていました。 -
園内を稲荷川に沿って進み、横目で2つ目の保存橋である高麗橋を愛でます。五石橋のうち3番目に架けられた橋で、西田橋と比べると装飾が少なく、カーブも緩やかです。
それもそのはず建築費用を見ると、高麗橋が当時のお金で2800両かかったのに対し、西田橋はその3倍近い7127両もかかっています。 -
高麗橋は、五石橋の中でも2番目に長い石橋でした。石と石のわずかな隙間に生命力逞しい植物が根を張っています。西田橋は出来立て状態のままで美しく管理されていましたが、こちらはぺんぺん草で覆われようとしています。2月でこの状態なので、夏になったら一体どんな姿になるのかちょっと心配。
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後刻反対側の上流側から見た高麗橋を撮った1枚です。こちら側から見ると、橋本体への水の圧力を和らげる水切り石(アーチの付け根ぶぶんにある)がほぼ垂直に近い勾配で組まれていることが分かります。川底に敷かれている敷石、そしてこの水切り石の存在で、川の水流の圧力を和らげ、結果的に水害から橋が守られて来たことが良く理解できました。
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水切り石をアップでもう一度!
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撮影戦争の際に、たった1回実戦で使われた砲台跡です。薩摩藩唯一の砲台は、イギリス軍のアームストロング砲であっという間に爆破され、斉彬は西洋との実力の差を身をもって思い知ったのでした。
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公園内にあった立派なクロマツの木。幹周りが2.6m、高さ7m、樹齢は100年位だそうです、この木の特徴は縦に伸びずに横に伸びることだそう。
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そして、江戸時代に埋め立てられた人工島である祇園之洲町との間の運河に、移築された最後の橋玉江橋がかかっていました。1849年(嘉永2年)、甲突川五橋の内一番最後に作られた橋です。
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最後で予算が無くなったのかは分かりませんが、この橋が一番建設費が安く、1560両と説明板に書いてありました。現在のお金でいくらくらいに相当するのかは分かりませんが、西田橋の1/4以下で、橋としての基本的な機能=実用面を重視した造りになっています。
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「玉江橋」とまだはっきりと読むことが出来ます。
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5つの橋の中では甲突川の最も上流にあって、人通りも少なかったためか、橋の幅も一番狭くなっていました。
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敷石のステンドグラスのようなランダムな張り方は乱張りというのだそう。
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玉江橋。下流側を祇園之洲町のある島側から撮った1枚です。
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玉江橋から続く公園の広場には、「薩英戦争記念碑」がありました。1927年(昭和2年)県立図書館前にあったのをこちらに移転したものです。バックの建物のせいで分かりにくいのですが、石碑の上に突き出しているのは「槍の穂先」で、そもそもの薩英戦争のきっかけとなった薩摩藩の大名行列(生麦事件)を象徴しているのだそうですよ。とってもユニーク!
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祇園之洲公園は、市民の憩いの場、ワンちゃんを連れた散歩コースになっていました。
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さあ、帰りは高麗橋を渡りますよ。玉江橋とは仕上がりがまるで異なることがお分かりだと思います。こちらの橋面は斜め布敷きで西田橋と同じ。
移設時にはすでにコンクリート製に置き換えられていましたが、残されていた耳石(橋面敷石の一番外側にある石で、アーチを形作る壁石よりも外側に張り出している)の形状からオリジナルが斜め布敷きだったことが分かり、流出した武乃橋の石材を加工して復元したそうです。 -
高欄(欄干)部分もコンクリート製に置き換えられていたために、移設後に新しい石材で復元したと説明書きにありました。
緩やかなカーブの感触を楽しみながら渡り終えました。 -
やっとお会いできました。この方が甲突川五橋を作った岩永三五郎氏です。そばにあった説明書きによると、「肥後における彼の土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ」、一族共々薩摩に招かれることになります。
三五郎およびその一族は九州各地に190余の石橋(いわゆる眼鏡橋)を作ったそうです。柔和なお顔がその人柄を表わしているように思えました。 -
さあ、再び西田橋です。こちら側からのアングルゴルフ練習場の網が邪魔ですねえ。がっかり・・・
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上流側に回り込んでもう1枚。完璧に近い美しさですねえ。
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石橋記念館へと通じる道からの、西田橋最後のショットです。時刻は17時20分。記念館はすでに終了していました。
鹿児島で仙巌園に行ったら、帰りに石橋記念館に寄るのをお忘れなく。見ごたえのある美しい橋と歴史的な碑が立つ遊歩道をのんびり散策できますよ。 -
本日最後の写真はバスで戻った鹿児島駅前の「かごっま屋台村」から。奄美料理のお店ですって! お昼も鶏飯食べたけれど、興味あるのでちょっと寄っていきます。
今日は私的には田ノ神さぁと西田橋が圧巻でした。この続きはまた明日、よかとこかごんま その5 知覧 で!
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この旅行記へのコメント (2)
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- とし坊さん 2017/06/05 20:47:58
- 歴史のを感ずる 建物
- 明治大正 昭和初期の西洋文化を取り入れた建築物などは
見ごたえがありますよね・・・ 堂々とした顔立ち
でも保存するのが難しくいずれ解体・・・
歴史ある建築物を保存するは難しいですね
日本の歴史ある建築物を歩いて観て回るのも楽しいですね
やっぱり石の建築物は見ごたえありますね
我が県の隣に 明治村がありますが いいところです(^◇^)
アーチの橋も素敵ですね
今後ともヨロシクです
- junemayさん からの返信 2017/06/05 21:15:48
- RE: 歴史のを感ずる 建物
- とし坊さま こんばんは
ご無沙汰しております。ちょっと体調を崩し、今年のヨーロッパには見放されてしまいました。ゆっくりと古い旅の焼き直しをして、ヨーロッパだけでなく、日本の旅もいいなあと改めて感じています。
テーマパークにある保存建物には少々抵抗がありますが、明治村にはすんなり入って行けそうですか?
美術館の絵より教会(寺、神社)の絵、博物館の建物より、町中の建物と相場は決まっていますが、中京地区にはあまり足を踏み入れたことがないので、そのうち伺いますね。
とし坊さんも、相変わらず仲睦まじくよい旅をされていますね。羨ましい限りです
junemay
> 明治大正 昭和初期の西洋文化を取り入れた建築物などは
> 見ごたえがありますよね・・・ 堂々とした顔立ち
> でも保存するのが難しくいずれ解体・・・
>
> 歴史ある建築物を保存するは難しいですね
>
> 日本の歴史ある建築物を歩いて観て回るのも楽しいですね
>
> やっぱり石の建築物は見ごたえありますね
>
> 我が県の隣に 明治村がありますが いいところです(^◇^)
>
> アーチの橋も素敵ですね
>
> 今後ともヨロシクです
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